吉田松陰      その17
憂国の士への旅程
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 泣社の仲間たちの中でも、特に宮部鼎蔵と深く交わり「宮部は毅然たる武士、
僕常に以て及ばずとなす。毎々往来、資益あるを覚ゆ」と評し、敬愛していた。
六月、その宮部と一緒に相模沿岸の旅をしている。旅程は十三日に出発して二十
二日に江戸に帰着する十日間で、浦賀表は夷船渡来要衝の地であるので、これを
視察しておきたいという、いわば兵学者としての研修旅行というものであった。
 二人はまず鎌倉に、松陰の母方の伯父・竹院が住職をつとめている瑞泉寺を訪
ねる。その後、横須賀を経て大津に向かい、続いて、観音崎の砲台、さらに海路
久里浜へ行き、千駄ケ崎の砲台を視察。十六日にも大浦や剱崎と、意欲的に各地
の砲台を見て歩いた。
 このころ、外国船がしきりに我が国の沿岸に出没し、嘉永二年(1849年)
の四月には、イギリスの軍艦マリーナ号が相模松輪崎沖に来航、江戸湾を測量し
て下田に入港するということなどもあって、海防への切実感も高まり、翌三年
(1850年)の五月には、幕府が海防掛に機密の漏えいを戒め、十二月には相
模観音崎砲台を改築、また韮山に江川太郎左衛門が反射炉を築くという状況にあ
った。それだけに三浦半島沿岸は、外国船警備の重点地として多くの砲台が築か
れており、二人が巡視した当時には、彦根藩が幕命によって五百人の藩兵を駐屯
させていた。
 二人はさらに、安房の沿岸、洲の崎、浦賀、神奈川と幕府による海防策の現状
をつぶさに見て、二十二日に江戸に帰って来たのである。
 この視察行は、松陰たちに山鹿流兵学の意義を再認識させることにもなり、ま
た津軽海峡などの北方へも、目を向けさせることにもなったのである。
 対外的にみるとき、我が国の重要な海峡といえば、何といっても下関海峡と津
軽海峡である。国元の下関海峡については、松陰はすでに熟知するところであり、
未知の津軽海峡に関心が向くのは当然のなりゆきであろう。
 松陰と宮部は早速、東北旅行の計画を立て、松陰は「水戸・仙台・米沢・会津
等文武盛んの由承り及び候。なにとぞ自力を以て彼の辺遊歴仕り、軍学功者の仁
相尋ね、かつ国風等をも一覧致し候わば、流儀修練の一助と相成り申すべくやと
存じ奉り候」という願書を藩に提出する。津軽海峡の踏査というのでは許可され
にくいであろうという配慮からの旅行理由である。
 七月二十三日、この願いに対する藩の許可がおり、松陰は国元の兄に対して旅
費の工面を頼み、十五両の送金を受けた。この時点で、松陰の脱藩から処刑に至
る運命を、だれも予測することはできなかった。