吉田松陰      その16
憂国の士への旅程
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 「辰時(午前八時)江戸の桜田邸に抵(いた)る。三月五日、家を出でてより
三十五日、長途巳(すで)に倦(う)み、邸に抵れば則ち帰鳥巣に入るが如し。
巳時(午前十時)、熊旛(ゆうはん・藩主の旗すなわち行列のこと)厳然として
邸に至る」という四月九日の記述をもって「東遊日記」は終わり、松陰の江戸で
の生活が始まるのである。
 松陰は几帳面(きちょうめん)な性格であり、萩を出てからの道中ならびに江
戸での八月二十五日に至る金銭出納を記帳しているが、その「費用録」を見ると
ほとんど味噌(みそ)や梅干しで食をしのぎ、許される限り書籍や学用品の購入
に費やすといった倹素な生活であった。そうした粗食の故に痩(や)せ細り、藩
邸の人々は彼のことを「仙人」と仇名(あだな)したという。松陰自身、「費用
録」の表紙には「口腹の欲は感に応じて発す。斯の録を見るや泯然(みんぜん)
として沮喪(そそう)す」と記している。
 ともかく、松陰の心はひたすら勉学にあった。江戸に着いた翌々日には、早く
も安積垠斎(あさか・ごんさい。ごんの字が出ない。垠のつちへんの無い字)に
入門を願い出た。垠斎は著名な朱子学者であり、幕府・昌平黌の教授でもあった。
さらに六月には山鹿流兵学宗家の人・山鹿素水に入門する。
 もともと松陰は学流に拘泥せず、むしろ積極的にあらゆる学流に目を向けてき
たが、そうした中で、家学たる山鹿流兵学の研鑽(さん)を心掛けていたことも
忘れてはならない。
 これより先、五月二十八日から蘭学も学び始めており、七月半ば過ぎからは、
当時洋学の第一人者とされた佐久間象山にも師事する。特に、象山との出会いは
運命的とも言えるもので、松陰の生涯を決定づけることになった海外渡航の決意
を励ましたのも、この象山であった。
 こうした複数の師に学ぶと同時に、知識欲おう盛な松陰は、各種研究会にも顔
を出し、その回数は一ヵ月に三十回にも及び、さすがに少し会を減らさなければ
と反省している。
 それでもなお江戸での学問は、松陰の期待に十分こたえ得るものではなく、む
しろ新しく多彩な友人を得て、熱っぽい議論の渦に身を置くことによって、彼の
魂は満たされた。
 その友人たちと志高く激論し、かつ交わりを深める場となったのは、江戸の桶
町において安房(あわ・千葉県)の人・鳥山新三郎が主宰する「蒼龍軒(そうり
ゅうけん)」という私塾であった。
 松陰はここで、南部藩の江幡五郎、薩摩藩の肝付(きもつき)七之丞を知り、
また萩藩の栗原(くりはら)良蔵、井上壮太郎らも加わり、さらに熊本で知己と
なった宮部鼎蔵も仲間入りしてきた。彼らは会うと酒を酌み交わし、談が古今の
忠臣・義士・佞奸(ねいかん)の事に及ぶと激情のあまり江幡が泣き、宮部が泣
き、座中の者皆が泣く有りさまで、松陰はこの集いを「泣社(きゅうしゃ)」と
自称している。