吉田松陰      その14
憂国の士への旅程
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 松陰が葉山佐内の蔵書を読むことによって得た知識は、以後の彼の行動に大き
い影響を与えた。
 その蔵書の中には、わが国の蘭学者による西洋事情の紹介や有識者の対外論な
どを編集した「近時海国必読書」、あるいは儒者・塩谷宕陰(しおのや・とうい
ん)がアヘン戦争関係資料をまとめた「阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)」なども
あった。
 後者は、当時としてはアヘン戦争に関する最高の資料であり、前者の「近時海
国必読書」には、ポルトガル、スペイン人の渡来とキリスト教布教の歴史を記し
た「西洋人日本紀事」、オランダの歴史やナポレオンの欧州侵略を述べた「和蘭
紀略」「丙戌異聞」、ロシアやイギリスの不法な侵入を書いた「北陸杞憂」「西
海紀事」、イギリスの歴史と国民性を記した「諳厄利亜(あんぐりあ)人性情志
」、渡辺華山の藩政批判の書で禁書となり、蛮社の獄の発端ともなった「慎機論」
などが含まれていた。
 松陰にとって、いずれも初めて読むものばかりであり、強烈な刺激を受けたこ
とは察するに余りある。
 「和蘭紀略」などは抄録し「余樸那把児(ぽなぱると)的の暴を憎む」と、ナ
ポレオンのオランダ侵略を憤慨しているのも興味深い。
 だが、松陰が九州遊学で得たものは、決して海外知識の吸収だけではなかった。
この平戸で、王陽明の「伝習録」を熱心に研究し、陽明学についての視野も広げ
てゆく。ここで知向合一を説く陽明学に深くふれたことは、後の実践活動に少な
からぬ影響をもたらしたというべきであろう。
 そして、平戸をたち長崎、天草、島原、熊本、柳川、久留米、小倉と歴訪しな
がら萩へ帰省するのであるが、十二月九日から同十三日まで滞在した熊本におい
て、肥後藩士・宮部鼎蔵と知り合ったことも、見逃せない出来事であった。
 宮部鼎蔵は、松陰より十歳年長であったが、同じ山鹿流の兵学者であり、のち
江戸遊学期には最も親しくつきあい、松陰が脱藩しての東北旅行にも同行するな
ど、生涯の盟友ともいうべき存在となる人物。京都の池田屋で、新撰組に斬り込
まれて敗死した志士の一人であった。
 ともあれ、大きい刺激を受けて帰藩した松陰の、新知識を求める熱い心は、旅
の疲れをいやす間もなく、次なる思いにかられる。西遊の次の目標は当然東、江
戸であった。
 何といっても当時の中心は江戸であり、教学の頂点・昌平黌(しょうへいこう)
もあり、著名な学者も群居していた。
 「西遊日記」の冒頭に「心はもと活(い)きたり、活きたるものには必ず機あ
り、機なるものは触に従ひて発し、感に遇(あ)ひて動く。発動の機は周遊の益
なり」と、旅の意義を記した松陰は、“発動の機”を願って旅を求めるのである。
その東遊の願いが、間もなく実現することになる。