吉田松陰      その13
対外危機感の高まり
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 嘉永三年(1850年)八月二十五日、松陰は西遊の旅に立つ。彼にとって修
学のための初旅であった。
 心はずむ思いで、翌日には早くも下関に着き、北浦巡視行以来の知己である伊
藤静斎を訪ねる。今回の旅の一つの目的でもある葉山佐内への紹介状をもらうた
めでもあった。
 松陰は、直ちに九州へ渡るつもりであったが、出発前にひいていた風邪にため
に、伊藤家において発熱。気のはやる松陰も、無理をせぬようにとの静斎の忠告
に従って、伊藤家に三日滞在して体調の回復を図る。
 この間、豊後日出(ひじ)の帆足万里に学んだ医者の尾崎秀民という人物の診
察を受けるが、松陰が記す「西遊日記」に「因って万里を称説して譚話(たんわ)
半日にして去る。帆足著す所の東潜夫論・入学新論をみる」とあるように、帆足
万里の学問について半日も話し込み、その著書までも借り受けて読了するのであ
る。松陰は「帆足の二書を卒業す」と記しているが、知識吸収にどん欲な松陰の
修学の旅は、早くもスタートしたのである。
 熱もおさまり、二十九日にいよいよ海峡を渡り、九州の地に足を踏み入れる。
小倉城下、佐賀を経て長崎に着いたのが九月五日。松陰は長崎に六日間滞在、初
めて黒船を目にしたばかりでなく、萩から遊学中の福田耕作の案内で、入港中の
オランダ船を見学することもできた。
 九月十四日、目的の平戸に着いた松陰は、さっそく葉山佐内を訪れ、その夜か
ら佐内に借りた書物を読み始めるのである。
 平戸では、佐内の紹介で紙屋という旅館に落ち着き、五十余日、葉山佐内や家
学・山鹿流兵学の宗家・山鹿万介を訪れる外は、もっぱら読書とその抄録に費や
した。
 山鹿家訪問といっても、万介は、すでに高齢で病んでおり、親しく学問につい
て話し合う機会もなく、ただ挨拶(あいさつ)程度のものであった。また、葉山
佐内の場合にしても、平戸藩の家老職の立場から多忙な身であり、しばしば松陰
と語り合う余裕はなかった。
 しかし、佐内の手元には、江戸へ出府の際に入手したり、平戸という地の利で
得られた新知識の書籍が数多く所蔵されており、松陰はひたすらそれを借り受け、
読むばかりでなく、主要のものについてはこれを書き写し、さらに己の感懐や疑
問について朱註(ちゅう)を入れるなど、真剣な学問を続け、以後の示指を見い
だしていくと同時に、対外的な危機感をさらにさらに深めるのである。いずれに
にしても彼の九州紀行の記録「西遊日記」は、読書日記の感がある。
 松陰が平戸を発して帰途についたのが十一月六日、途中柳川、島原などに立ち
寄り、二十八日海峡を渡って伊藤家に静斎を訪ね、翌二十九日午後九時に萩の自
宅へ帰省するのである。多き収穫を得た初旅であった。