吉田松陰      その11
対外危機感の高まり
*[3]*
 「廻浦紀略」における記述の詳細さは、一面で彼の知識欲と好奇心の強さを示
している。七月十六日、巌流島にわざわざ上陸し「舟に乗りて巌柳(流)島に至
る。此れ佐々木巌柳・宮本武蔵撃剣し、巌柳討たれたりと言う。巌柳の墓あり」
と記しているのも、その表れであろう。
 また同日、彦島福浦の金比羅宮に参詣(けい)した際の記述からも、そうした
気質をうかがい知ることができる。
 「余好事にして燈堂に登り、且つ其の燈箋(とうせん)を見、油銭の出づる所
を問ふに、響導(きょうどう・水先案内のこと)云はく、“船舶の多く繋泊した
る時迄ひて出さしむ”と。祠(ほこら)傍に文政十年に作る所の長府儒員小田圭
の碑文あり。祠に登るの石階未だ悉(ことごと)く成らず。既に成れる所を見る
に新舊(しんきゅう)あり。漸を以て続成するものに似たり。因って之れを問ふ
に、其の銭を出すこと、猶(な)ほ燈油の如しと云ふ。石階百六十餘級あり、成
就せば二百階許りなるべしと。因って之れを算するに、一級高さ七寸とすれば、
直立十四丈の高さなるべし」
 この金比羅宮のある福浦というところは、北前船などの潮待ち風待ちの港とし
て栄えた所。港に入った船に金を出させ、少しずつ石段を整えているというので
ある。今日、二百六十九段を数えるこの石段も、当時は未完成で百六十段余りで
あったわけだ。
 勾配(こうばい)が約五○度で、地元では日本一の急坂ではないかと言ってい
る石段だけに、松陰もまた興味を持ったのであろうが、それにしても石段の数を
きっちりと数えるあたり、彼の面目躍如たるものがある。
 こうした調子で、松陰は各台場や番所、あるいは萩本藩の出先機関「新地会所
」など綿密に巡視して歩いている。
 この下関での巡視において松陰にとって大きい意味を持つ一つの出会いがあっ
た。それは、長府藩の大年寄で本陣を務める伊藤家を訪ね、伊藤静斎を知ったこ
とである。
 静斎は養子としてこの家に入った人物であったが、学識豊かな知識人で、巡視
の際に二度伊藤家を訪れた松陰は、静斎と意見を交わし、以後親交を結ぶことに
なる。のち松陰が平戸藩・葉山佐内の知遇を得るのも、この静斎の紹介によるも
のと言われている。
 ちなみに、静斎の先代・伊藤杢之充盛永は、オランダ文化に強い関心を持った
人で、長崎オランダ商館長ヘンドリック・ヅーフから「ファン・デル・ベルク」
のオランダ名を受け、文政九年(1826年)にはシーボルトも来訪。その著書
「江戸参府紀行」に登場している人物。そして静斎のあとの当主・伊藤九三盛正
(盛永の実子)は、坂本龍馬と特に親しく、龍馬は伊藤家に「自然堂」の看板を
揚げて商行為の拠点とし、近江屋で暗殺された時には、妻のお龍を伊藤家で預か
っていた。
 ともあれ、松陰は巡視以後も長崎への往来途次、三たび静斎を訪ねている。