吉田松陰      その10
対外危機感の高まり
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 「異賊防禦の策」を発表した三年後の嘉永二年(1849年)、松陰は藩から
海防についての意見を求められ、兵学者としての立場から「水陸戦略」と題する
意見書を提出している。
 松陰はその中で、弓や銃の連発で対抗するという他の兵学者の戦術を古いと批
判し、漁船を二、三十艘(そう)集めて、それぞれに四、五人が乗り、各人が二
十、三十目玉筒一挺(ちょう)を構え、敵船に乗り移って斬り込む、という作戦
を述べている。そして巨艦だからといって恐れるに足りない、大きければ、それ
だけ的にもしやすいのだから戦うには有利である、というのである。
 また、敵が上陸して来て、陸戦となった場合にもふれ、賊はその土地の状況に
不案内だから、「奇兵の働きをもっぱらとし、正兵をもって骨子となし、変化し
て賊を破り候謀(はかりごと)これあるべくと存じ候」「あるいは奇となりて出
没」と、いわば奇襲作戦、ゲリラ戦法を提唱しているのである。
 陸戦についてはまだしも、敵軍艦との戦いについてはまことに幼稚なものであ
るが、当時の知識からすれば、これが限界であったのだろう。ただこの意見書の
中で「正兵」と「奇兵」という言葉を用いている点は、後の高杉晋作による奇兵
隊結成を思いあわせる時、大いに注目すべき発想ということができよう。
 「水陸戦略」提出のこともあってか、この年、松陰は藩の外冦(がいこう)御
手当御内用掛を命じられる。
 当時、仮想敵国をロシアとしていた長州藩では、日本海に面する海岸線の防備
を重点とし、海防のことを「北浦手当」と呼んでいた。松陰も、いわば海防担当
役ということになる。
 そして同年六月に至って、藩から北浦(萩から下関に至る日本海沿岸)海岸の
防備についての踏査を命じられるのである。
 この北浦巡視は、藩の関(せき)船二艘に松陰ら御手当七人が分乗しての船に
よる視察旅行といったもので、一行は六月二十七日に萩を出発し、はじめ石州(
島根県)との国境から見て回り、一旦萩に帰り、七月六日、再び萩を発して同月
二十三日の午後、萩の御船倉に帰着する二十数日間に及ぶものであった。
 中でも海路の要衝・関門海峡に接する下関、すなわち長府藩領の海岸線は重視
してか、ここに八日間を要している。
 この間の巡視の記録を、松陰は「廻浦紀略(かいほきりゃく)」として書き残
しており、船中より見る海岸線の観察、点在する集落についての情報など、まこ
とに詳細なもので、松陰の緻(ち)密さをうかがい知ることができる。