吉田松陰      その9
対外危機感の高まり
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 山田宇右衛門。山田亦介から松陰は強い影響を受ける。その意義は、何といっ
ても海外への目を開かされたことであろう。
 松陰十七歳の時のものとして「外夷小記」と題された一冊の書物が残されてい
る。内容は、外船渡来の風聞を書き写したもので、
〇清国商船が伝えたアヘン戦争の経緯一通。
〇弘化二年(1845年)、英仏二国の船が琉球に渡来して来た件を、薩摩藩か
 ら長崎奉行所に届け出たもの二通。
〇仏国提督ロツシュの長崎港来航の模様を長崎留学中の長州藩蘭医・青木研蔵が
 藩政府へ報告したもの一通。
というものである。
 松陰は、後に「飛耳長目」という情報収集帳を残すように、情報の収集には非
常に熱心であった。そういうところにも、彼の実学的姿勢と単なる学者にとどま
らず行動者でもあった特性が表れている。
 この「外夷小記」の中にも、記録されているアヘン戦争の実態とその後、半植
民地化されて行く清国の状況は、特に松陰に強い衝撃を与えた。インドから清国
へと及ぶヨーロッパ列強の東洋侵略の波は、琉球をうかがい長崎にも至ろうとし
ている。わが国も防禦(ぎょ)の策を急がねばという認識に達し、対外危機感を
高める。
 もともと三面、海に囲まれているという特殊な条件を持つ長州藩は、諸藩に先
がけて対外的な危機感に目覚めていた。特に天保の改革の指導者として知られる
村田清風は、早くよりその対策を講じ、財政の改革ばかりでなく、軍制の改革、
士風の引き締めのため、藩に建白して、水軍の訓練、兵備の改良を進めていた。
神器陣(じんきじん)と呼ばれる銃陣編制や天保十四年(1843年)の総軍勢
約一万四千人を動員した羽賀台(萩)大操練なども、この対外防備意識の表れで
あった。そして、弘化元年(1844年)には日本海側の海岸に砲台を築き、嘉
永三年(1850年)には沿岸の守備体制を定めている。
 こうした時代的背景の中で「外夷小記」を記した同じ年に、松陰は「異賊防禦
の策」の小論も著し、
 「方今、遠西猖厥(しょうくつ・ほしいままにして勢いさかんな意)なり、我
れ何の待つ所ありて、而る後之れを恃(たの)むや。曰く、四あり。人才能く弁
ず。器械能く利なり。操錬、法あり。戦法、術あり。凡そ此の四者は、国家の急
務にして、一日も欠くべからざるものなり」と国防の急務を訴えている。
 日本海を隔てて相対するロシアへの対外意識を早くより持っていた長州藩が、
今や遠くヨーロッパからの侵略をも肌で感じ始めたのである。
 多感な松陰も、菊ヶ浜の海辺に立って、危機感を深めるとともにさまざまな思
いをめぐらせたことであろう。