吉田松陰      その8
兵学師範への歩み
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 わずか九歳の少年軍学者として歩み始めて以後の着実な成長を続ける過程にお
いて、松陰の身辺にも幾つかの変動があった。
 妻帯して杉家を出た叔父の玉木文之進が天保十三年(1842年)、自宅に「
松下村塾」を開き、松陰も兄・梅太郎とともにこれに通って学んだことは既に述
べたが、翌十四年には、父・百合之助が人格や学識を認められて百人中間頭兼盗
賊改方(とうぞくあらためがた)、現在では警察署長といったところの役職を任
命され、藩に出仕する。
 当時、藩では村田清風を中心とする積極的な人材登用によって、財政を中心と
した藩の大改革(長州藩における天保の改革)を推進している時で、百合之助も
その人材登用の一端に加えられたわけである。その出仕手当などによって、杉家
もいくらか余裕が持てるようになった。
 やがて叔父の玉木文之進も藩の役職について、いわば第一期の松下村塾も閉鎖
されたことから、後見人でもあり、文之進と同じく養父・吉田大助の高弟であっ
た林真人(まひと)のもとで、山鹿流兵学の勉学に励む。
 そして松陰十六歳の弘化二年(1845年)、松陰の学問に一つの跳躍をもた
らす出会いがあった。それは、同じく後見人の一人で吉田大助の高弟であった山
田宇右衛門の教えに接したことである。
 宇右衛門は、山鹿流だけではなく、他流の学問も学んで視野を広げること、ま
た海外情勢にも目を向けることの必要性を松陰に教える。
 ある時、江戸で入手した箕作省吾(みつくりしょうご)の著書「坤與図識(こ
んよずしき)」という一冊の書を与え、それに載っている世界地図を示して、欧
米列強の存在や世界の状況について話し聞かせた。さらに宇右衛問は、村田清風
の甥で長沼流の兵学者である山田亦介(またすけ)を松陰に紹介する。
 山田亦介は、長沼流兵学だけでなく、西洋陣法や海防兵制などにも通じる人物
で、世界情勢についての知識も豊富であった。
 松陰は、短期間ではあったが、この亦介に長沼流兵学を学び、翌三年の三月に
は、長沼流兵学の免許を受けるのであるが、何よりも山田亦介によって、海外へ
の目を開かされた意義は極めて大きい。
 ともあれ、松陰は弘化四年(1847年)、明倫館文学秋試を受けて丙科に入
学。この年、林真人から山本勘介晴幸兵法大星目録(山鹿流兵学免許)を受け、
翌嘉永元年(1848年)、十九歳にして後見人をとかれ、正式に独立の明倫館
兵学教授となった。
 そして、嘉永二年(1849年)三月、御手当御用掛を命じられ、藩政の一画
に参与することにもなるのである。