吉田松陰      その7
兵学師範への歩み
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 松陰十五歳の時の親試にかかわる話も、よく知られているところである。
 松陰が「武教全書」を講じ終わるや、敬親公は突然「孫子虚実編を講じてみよ
」と命じる。藩主にしてみれば、この少年兵学師範がどの程度の学識を持ってい
るのか、興味も手伝っての特命であったろう。
 これに対して、松陰は少しも臆(おく)することなく、とうとうと孫子の論を
展開し、藩主や並み居る者を感じ入らせる。
 また二十一歳の時の親試においては「武教全書」守城編のうち“篭城(ろうじ
ょう)の大将心定(こころさだめ)の条”を講じ、「たとい叶い難き合戦になろ
うとも、君臣とも命を限りに戦い、討死して、恥を受けないようにしなくてはな
らぬ」と君臣の覚悟を語りかけ、また「もし暴乱の世となり、政治むきによろし
くないことがあれば、君臣の義を重んじ、直諌(ちょっかん)すべきである。そ
れは少しも曲げてはならない。私は、その忠諌のために家が断絶し、身を滅すこ
とになっても、言うべきことは必ず言うつもりである」と、己れの真情を吐露し
ている。そして、この忠諌の真情は、松陰が生涯貫いたものであった。
 さらに、こうした松陰の進講の中で注目すべきは、すでに清国のアヘン戦争と
イギリスの侵略にもふれ「富国強兵をめざし、武器をたくわえ、義勇の民を募れ
ば、いかなる敵も恐れるに足らない」と、民衆の力“義勇の民”に着目している
ことで、後年の高杉晋作による奇兵隊の結成を思うとき、まさに先覚者の面目を
示すものであろう。
 松陰の兵学講義の魅力は、単なる兵学書の解説に終わらず、常に現実的な時局
への対応にまでその論旨を展開させているところであろう。
 こうした幾たびかの親試進講を通じて、藩主・敬親の松陰に対する信頼は深ま
り、嘉永四年(1851年)一月には、松陰から敬親は山鹿流兵学三重極秘伝の
印可を受け、松陰の兵学門下に名を連ねたばかりでなく、以後、松陰の生涯にお
ける幾多の曲折に際しても温かい眼差(まなざ)しを向け、理解を示しているの
である。
 この松陰の場合にしても、また高杉晋作の場合にしても、藩主と若い有為な家
臣との間における直接的な心の絆(きずな)の強さは、長州藩のきわだった特色
とするところで、長州藩が維新の変革において大いなる力を発揮し得た一つの原
動力でもあった。封建社会の秩序は、とかく家柄とか門閥といったことで、人そ
れぞれの個性や才能を抹殺しがちである。
 その点、長州藩は、人材登用などを通じて個々の能力を発揮させる気風、いわ
ば近代的な体質を持っていたと言えるのではなかろうか。