吉田松陰      その5
兵学師範への歩み
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 少々横道にそれるが、山鹿流兵学は、防長の士道の上でも無視できないものを
持っている。山鹿流兵学が世に広く知られているのは、あるいは赤穂浪士の吉良
邸討ち入りによってではなかろうか。
 「討ち入りの合図に山鹿流陣太鼓を打ち鳴らし」とよく語られるように、大石
蔵之助良雄もまた山鹿流兵学の徒であった。
 これは、山鹿素行が当時の官学であった朱子学を批判して幕府の怒りにふれ、
江戸追放となった際に、十年ばかり赤穂の浅野家に身を寄せていたことによるも
ので、赤穂義士を生んだ浅野藩の精神風土は、この素行と山鹿流兵学によって培
われたものだとも言われている。
 嘉永四年(1851年)、松陰が二十二歳のとき、旅に出るには藩の許可書た
る過所手形(通行手形)がいる、という規則を破って(藩の許可は下りていたが
手形交付が遅れているのを待たず)東北遊歴の旅に発(た)ち、亡命として罪に
問われたのも、江戸での知友、肥後熊本藩の宮部鼎蔵、南部藩の江幡五郎と旅立
ちを約し、江幡が兄の敵を追っての旅であるところから、赤穂義士討ち入りにち
なむ十二月十四日に高輪の泉岳寺から旅立ち、という約束を守ろうとしたがため
の行為であったともいう。
 ちなみに、宮部鼎蔵もまた山鹿流兵学を修めた尊攘倒幕の志士の一人であった。
 松陰は、のち山鹿流兵学をも越えて実学的な己の学問を確立していくわけであ
るが、人は「誠」によって生きるべきと説き、日本主義的自覚を強め、「天下は
天朝の天下にして、乃ち天下の天下なり、幕府の私有に非ず」と幕府の存在を否
定し、直接忠を尽くすべきであるという思想の発展を示した山鹿素行を「先師」
と呼び、心の師として尊んでいた。
 この心情は、松陰を通じて松陰門下の若き志士たちの思想にも少なからぬ影響
をもたらしていたともいえよう。
 特に、明治を代表する武人・乃木希典大将と山鹿流兵学の関係は深い。長州毛
利の支藩長府藩士の子として、同藩江戸屋敷に生まれた希典は、同屋敷が討ち入
り後、赤穂義士一班(三班に分かれる)の身柄を預かった経緯から、幼くして赤
穂の義を深く心に刻み込まれ、また十歳以後、郷里・長府で成長するが、その少
年期、自ら求めて萩の玉木文之進の教えを受けている。
 そうした影響もあってか、山鹿素行に心酔。山鹿流の神髄である「中朝事実」
を自費で刊行。さらには明治天皇に殉じて自刃する前日、この「中朝事実」を皇
太子(昭和天皇)に王道の教えとして献呈したことは有名な話である。
 赤穂義士の事跡と絡みながら、玉木文之進、吉田松陰、乃木希典と、防長の地
に山鹿流兵学の学統が形成されているのである。