吉田松陰      その4
兵学師範への歩み
*[1]*
 松陰が当主となった吉田家は、さかのぼれば平安時代の摂関政治期に権勢を誇
った藤原の一門・藤原行成から出た家系といわれている。
 その後、織田信長の家臣となり、信長が本能寺で明智光秀の謀反により横死し
たことから、この光秀を討とうとして失敗し、自刃した松野平介の曽孫(そうそ
ん)・友之充重矩(しげのり)を吉田家の始祖としている。
 重矩は和漢の兵法に通じ、松陰の実家杉家と同じころ毛利に仕えて萩藩士とな
るが、その後、山鹿素行の嫡男・山鹿藤介高基に学んで山鹿流兵学の奥義を極め、
山鹿流三重極秘の伝を受ける。
 吉田家は以後、山鹿流兵学を家学とし、萩藩の軍事師範をつとめてきたのであ
る。
 山鹿流兵学とは、江戸前期の兵学者・山鹿素行(1838−1922年)を学
祖とする平和時における武士のあり方を求めた和流兵学で、その流れは、甲州武
田信玄の軍師・山本勘介晴幸の兵法を核とする軍学書「甲陽軍鑑」、いわゆる甲
州流軍学に発している。
 従って、山鹿流兵学の中核をなす「武教全書」の初編から終編までの講義を聴
き終わった者には「域制之伝」、次に研究を深めた者に「目録」が与えられ、さ
らに山本勘介晴幸の「兵法大星目録」を授けることを「免許」といっている。山
鹿流兵学が一名、山本勘介流兵学といわれている所以である。
 そして、この免許を得た門人のうち、最優秀の三人までに伝えられる山鹿流最
高の三重極秘伝が授けられることを「印可」という。養父・吉田大助、叔父・玉
木文之進もこの三重極秘伝を受けた人物であり、松陰も嘉永四年(1851年)
一月、二十二歳のときに、この印可を受けることになる。
 三重とは、印可状に書かれている「一に曰く理(天理)、二に曰く形(地形)、
三に曰く用(人用)。三重の序位にして而る後其の業全きなり」「理は天に本づ
くなり。形は地に本づくなり。用は人に本づくなり。故に理発して形之れに次ぎ、
形成りて之れに次ぐ。用亨(とお)りて萬変盡くるなり。三重しばしば重なりて
人事大成す」、「右の三重とは道の本なり」といった文言から、おぼろげながら
もその輪郭がつかめるであろう。
 当時、兵学は単なる戦闘の術としての兵法・兵学ではなく、いわば武士が生き
て行く上での道徳であり、法律であり、作法でおり、総合的な士道・人倫の法典
的意味を持つものであった。
 松陰は本来、家学たる山鹿流兵学を養父・大助から受け継ぐべきものであった
が、大助が早逝したため、軍学師範吉田家の当主にふさわしい学識を早く身につ
けさせようと、叔父・玉木文之進の極めて厳しい訓育が始まるのである。