吉田松陰      その3
生い立ちとその背景。
*[5]*
 後世、名を残す人たちの幼少期には、とかく虚飾じみた逸話が語り伝えられて
いるものである。しかし松陰には、格別そのような話は伝わっていない。自然と
景観に恵まれているとはいえ、孤絶した感のある護国山団子巌の住居である。幼
児が遊ぶ友とてない環境の中で、ただ二歳年長の兄・梅太郎だけが遊び相手の日
々であった。
 その兄・梅太郎がいないときなどは、一人で庭の土をいじり、山をこしらえた
り、川の形を造ったりして遊んでいたという。腕白(わんぱく)ではあったが、
手のかからぬ子であったともいわれる。
 こうした中で、兄・梅太郎が五、六歳のころから父に従って手習いを始めたこ
とがきっかけとなり、松陰もまた三、四歳ころから読書の手ほどきを受け始めた
ようである。
 手習いといっても、特に定めた学習の時間を持つわけではない。父・百合之助
が幼い兄弟を畑仕事に連れて行き、耕作中やちょっとした休息の時間などに、口
伝えや、木片、竹べらなどを筆墨代わりとしての勉強であった。
 松陰は、のち藩校・明倫館の兵学師範となり、また松下村塾を主宰するが、自
らの幼少期において、寺子屋とか私塾といった教育の場とは無縁であった。彼は、
田畑を教場として育った。
 ときに松陰を称して、まさに教師として生まれてきた人物であるという人があ
る。彼の生涯の軌跡をみるとき、その感は深いが、そうした生涯を決定づける運
命が、彼五歳のときに訪れる。
 藩の兵学師範・吉田家の養子となり、そのまま杉家に起居していた叔父の大助
(父・百合之助のすぐの弟)が、天保三年(1832年)の冬、妻をめとって団
子巖のふもとの新道(しんみち)という所に一家を構えた。
 それから二年後、大助夫婦の間に子供ができないため、大助は兄に乞うて松陰
を吉田家の養子とした。
 しかし養父・大助は、その翌年の天保六年(1835年)四月、病で没する。
このため松陰は、わずか六歳にして吉田家を嗣ぐことになった。このとき松陰は、
養父・大助の一字をとって、幼名・虎之助を大次郎と改名する。
 吉田家は代々毛利家に山鹿流兵学師範として仕え、家禄五十七石六斗、大番組
をつとめる家柄である。
 吉田家を嗣いだ松陰ではあったが、吉田家の養母が大助の死後実家へ帰ったた
め、再び杉家に引き取られ、団子巖の家で生活することになる。
 日々の生活こそ何ら変わりはないものの、山鹿流兵学師範・吉田家の当主とし
て、その家職の責任は、六歳の少年の双肩にずしりとのしかかってきたのである。
ここに教師・吉田松陰の道は始まった。