吉田松陰      その2
生い立ちとその背景。
*[3]*
 文政から天保期に至る幕藩体制の財政的破綻(はたん)の中で、長州萩藩の財
政難も例外ではなく、松陰の生まれた年には、長州藩でも銀三千貫目の借り上げ
を命じ、家臣への禄(ろく)の支給も半減されていた。杉家の場合、禄高二十六
石の半減であるから、実質十三石ということになる。
 しかも杉家は、寄り合い所帯の大家族であった。
 当主・百合之助と妻・滝との間に三男四女が生まれ、一女は夭逝(ようせい)
するが、松陰は一人の兄、一人の弟、そして三人の妹と一緒に育つ。さらに松陰
にとっては叔父にあたり他家を継いでいる吉田大助と玉木文之進が同居。これに
加えて、松陰の祖母、先代・七兵衛の妻の妹まで引き取っており、一時は十一人
に及ぶ大所帯となる。
 こうした中で、杉家の人々は心を寄せ合い、半士半農、自給自足をして飢えを
しのぐという厳しい生活を送る。
 のち安政元年(1854年)、松陰が妹・千代に与えた手紙の中に
「杉の家法に世の及びがたき美事あり。第一には先祖を尊び給ひ、第二に神明を
崇(あが)め給ひ、第三に親族を睦まじく給ひ、第四に文学を好み給ひ、第五に
佛法に惑い給はず、第六に田畠の事を親(みずか)らし給ふ類なり。是れ等の事
吾なみ兄弟の仰ぎのっとるべき所なり」
と書いているように、先祖を尊ぶ心、そして美しい兄弟愛などは、杉家の美徳と
もいうべき家風であった。
 松陰は、そうした心情のことのほか深い人物であり、このことは単に一族に対
してだけでなく、のちに松下村塾の教育理念ともなり、高杉晋作ら門弟たちに対
しても寄せられることになる。
 松陰にとって、父・百合之助が一族の中心になり、その兄弟三人(百合之助・
大助・文之進)が心を寄せ合って貧乏に耐えながら勉学にいそしみ、また母・滝
が姑に孝養を尽くし、持ち前の明るい性格で常に家族全員を温かく包みながら農
耕にも従事する姿は、まさに生きた教育となったのである。
 叔父・玉木文之進が、松陰に大きい期待を寄せて厳しく指導したこと。母・滝
が松陰を心から愛し、かつ信頼し、不遇なときに深い愛情を注ぎ続けたことはよ
く知られているところであるが、松陰における誠実さと好学の精神、また情愛の
深さは、まさに杉家の血として受け継いだ美徳ということができよう。
 こうした兄弟愛や家族愛といったものは、吉田松陰に限らず、とかく奔放な行
動のみが語られがちな高杉晋作ら長州藩の若き志士たちの中にも色濃くみられる
ところで、世の変革に身を投じた人々の心底に、情愛の深さが一つの原点として
あることを見逃してはならない。
*[4]*
 もう少し松陰の肉親愛についてふれておこう。士族とはいえ、杉家の生活は貧
しい農民と変わりなく、わずかな田畑での農事に明け暮れる日々であった。松陰
が後年、「未焚稿(みふんこう)」の中に、「矩方(のりかた・自分の事)の幼
なるや、けんぽの中に生長し、身家稷(かしょく)の事を親(みずか)らしたり」
と書いているのは、まさしく実感であったろう。
 貧苦の戦いの経験は一族の心をより強く結びつけ、肉親の情愛を深める。松陰
は、その自らの出発点ともいうべき厳しい時代の生活を忘れることはなかった。
 前述、妹・千代への手紙には
「杉は、今では御父子とも御役にて何の不足のない中なれば、子供等がいつもこ
の様なものと思うて、昔、山宅にて父様母様の昼夜御苦労なされた事を話して聞
かせても真とは思わぬ程なれば、この先五十年七十年の事を、とくと手を組んで
案じて見やれ」
と、諭し、また
「これからは、拙者(せっしゃ)は兄弟の代わりに此の世の禍(わざわい)を受
け合うから、兄弟中は拙者の代わりに父母へ孝行してくれるがよい。左様あれば、
つづまるところ兄弟中皆よくなりて、果ては父母様のおしあわせ、また子供が見
習い候えば子供のため、これほど目出度き事はないではないか」
とも書いている。
 困難の中で、誠実にかつ立派に生き抜く両親たちの姿は、終生松陰の心に刻み
込まれ、深い家族への信頼感として心の支えともなっていた。
 当時の封建体制からいえば異端の思想家、過激な行動者とも見られる松陰が、
処刑の直前に詠んだ「親思うこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」
という歌は、彼の心情をよく物語るものであった。
 深い肉親愛は家族同士の信頼感となり、松陰が国禁をおかした罪人として社会
から白眼視された時期においても、杉家の一族は終始松陰を信じ、温かく庇護し
続けるのである。そうした家族の激励と協力の中から生まれたのが、松陰の松下
村塾であったことを思えば、杉家の美徳は維新史の上にも重要な意味を持つこと
になる。
 社会変革の原動力ともなり、不穏の所とさえ見られた松下村塾の精神的規範た
る「村塾規則」が、実は
「一、両親の命必ず背くべからず。一、両親へ必ず出入を告ぐべし」
といった、親を敬う心から出発しているということは、案外知られていないとこ
ろである。
 峻烈(しゅんれつ)な学究精神と同時に、誠実で温かい思いやりのある松陰の
人柄は、彼の生い立ちの生活環境の中から培われたものであろう。