吉田松陰      その1
生い立ちとその背景。
*[1]*“序”
 時代の変革期に大きい役割を果たした人物に思いを走らせるとき、まず「人が
歴史を創(つく)り、歴史が人を創る」という言葉が浮かんでくる。維新の先覚
者・吉田松陰において、まさにその感は深い。
 幕藩体制の限界をいち早く見定め、そして幕末の若者たちを熱き心に目覚めさ
せた教育者。
「義卿(ぎけい)三十、四時巳に備はる、亦秀で実る、其の秕(しいな)たると
其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士、其の微衷(びちゅう)を憐み継
紹(けいしょう)の人ならば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼(くわか)
の有年に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思せよ」
 安政六年(1859年)十月二十六日、刑死の前日に知友門弟に書き残した永
訣(えいけつ)の書「留魂録」の一節である。
 「しいな」とは、くず米、実の入らぬ穀のことであり、「くわか」とは穀物の
こと。これこそ、三十年の生涯において結実させた穀物の種子を絶やすことなく
受け継いで後世に豊かな実りを、という痛切なる遺言であり、祈りであった。
 そして、この留魂の果実として高杉晋作ら若き志士たちの活躍が展開され、時
代は変革を迎えるのである。
 ・・その種子まく人の誠実な軌跡をたどるとき、私たちの心の中に確たる実在
感を持ちながら、多角的な人格の故に実像を結ぶことは難しい。
 孤高の思想家、情熱の教育者、そして無垢な青年、むしろその多様性の中に松
陰の魅力がある。
*[2]*
 吉田松陰は文政十三年(1830年)八月四日、長州毛利氏本藩の萩藩下級武
士・杉百合之助の二男として生まれ、幼名虎之助、後に大次郎、松次郎、寅次郎
と改めた。号松陰、名は矩方(のりかた)字は子義(しぎ)また義卿(ぎけい)
と称した。
 松陰の生まれた文政十三年といえば、この年の十二月十日に「天保」と改元さ
れた年で、文化・文政期の商業資本の充実にひきかえ、幕藩体制は財政的な破綻
(はたん)をきたし、やがて天保の改革を迎えようとする時期にあった。
 また国外においても、この年、パリの七月革命、ベルギー独立宣言、ワルシャ
ワにポーランド独立の反乱と、新しい民衆の時代の胎動が感じられる年でもあっ
た。
 松陰は、まさに変革期の時代が求めるかのように、この世に生を受けた人物で
あったとも言えよう。
 松陰の生家・杉氏は、元禄年間に毛利氏に仕官したといわれ、萩藩の無給通(
むきゅうどおり)二十六石の家柄であった。この無給通とは、知行地が与えられ
ず、扶持米銀などで「堪忍」させられている下級武士で、幕府における大組士に
準ずる位置にあった。ちなみに、松陰と最も深くかかわりを持つことになる高杉
晋作などは、この大組士に属している。
 杉家は当初、下級武士を集めた萩城下の川島に住んでいたが、文化十年(18
13年)三月に発生した四百余戸を焼くという大火にあって焼け出され、以後、
城下の東郊にあたる松本村に移って、借家を転々と渡り歩くことになる。
 そして、松陰が生まれた時は、父・百合之助が文政八年(1825年)に買い
取った松本村の護国山西南麓の通称団子厳と呼ばれる小高い丘の上の古家に住ん
でいた。現在の地名でいえば、萩市大字椿東字椎原ということになる。
 松陰が、のちに『山宅』と呼んだこの生家は現存していないが、跡地から推察
される間取りは、六畳二間、三畳三間に台所、納屋のある狭い屋敷であった。
 ただし、その場所は、眼下に萩城下から菊ヶ浜、城のある指月山、そして日本
海が一望のもとに見渡せる景勝の地で、松陰は、この雄大な自然を眺めながら育
つのである。
 この屋敷は、もともと藩士で八谷聴雨(やたがいちょうう)という俳人が持っ
ていたもので、長州藩の女流俳人として知られる田上菊舎(たがみきくしゃ)が
訪れた際に「閑(しず)けさを樹々にきかれよ秋の雨」という句を残し、樹々亭
(じゅじゅてい)と名付けたという由緒を持つ。周囲に人家もなく、隔絶された
地ではあったが、自然に恵まれた環境であった。