テーマ:行け!わが思いよ銀の翼に乗ってB

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お名前: カーター
最近、学校を卒業した娘の本を調べていたら高校の日本史の教科書を見てみたら、
古代日本と加耶との関係について次のように記載があり、私の時代のものと次のよ
うに比較してみました。

昭和46年、山川出版社 詳説日本史(再訂版) 1971年
「4世紀後半には倭人が古くから関心を持っていた南朝鮮の鉄資源の確保などの必
要から、百済と結んで大軍を朝鮮におくった。その結果、半島南端の弁韓諸国の地
に領土の任那を樹立し高句麗とも戦うようになったが、その経過は高句麗の好太王
の碑文に記されている。」

平成10年3月、三省堂 詳解日本史B 改訂版 1998年
「倭(ヤマト政権)は、朝鮮半島の鉄資源や進んだ生産技術を求めるために、加耶
との関係を含め、百済とも結んでいた。高句麗の好太王碑文によれば、4世紀から
5世紀はじめ高句麗が百済を攻め、百済を支援するために海を渡ってきた倭人が高
句麗によって敗れたとされている。」

私の教科書は戦前の朝鮮研究の影響のためか、古代に日本が任那日本府を置いて南
朝鮮を支配したように取れますが、高句麗との戦いの結果はこの文章では分かりま
せん。好太王碑文をコラムで引用し、「倭辛卯の年(391年)を以って来りて海
を渡り、百残(百済)・・新羅を破り、以て君臣となす。」と日本の半島進出を伝
えていると述べています。半島に進出したと言っていますが負けたとは書いていな
いのです。これでは日本が朝鮮半島でどのような状況であったのかわかりません。
教諭の話を聞いても任那の名前は覚えていても、当時の朝鮮半島における日本の位
置づけについては理解できなかったように記憶しています。

しかし、娘の教科書では倭は加耶と同盟を結んでいたが高句麗との戦いに破れたと
はっきりと敗北を認めています。戦後の朝鮮半島に関する研究の成果を踏まえて、
より正確な形で書き直されたように見えます。その後、日本は白村江戦い(663
年)で新羅、唐の連合軍に大敗しました。高句麗、新羅に対し二度も軍隊を送り敗
北したのです。時代は下り、懲りずに秀吉は朝鮮出兵を行い失敗しました。

さて、今夜も大王四神記があります。高句麗の主人公のタムドクは、後の広開土王
であり好太王碑文に記された人物です。新羅は唐と結んだので純粋な朝鮮民族の栄
光とは言えませんが、高句麗は隋とも戦い勝利したとことを考えると高句麗の広開
土王の時代が最も朝鮮民族が輝いていた時代のように思えます。

[2008年05月17日11時06分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(10・終章)

 おそらくそれは、万古不易の神の時代から、腫れ物ができただけで大騒ぎし、いつなんどき風―――たぶん神風――が吹いて屋根から瓦が飛んでくるかもしれない健気な人間の生活へと、歴史を穏やかに移行させるためには当然必要な配慮だったのだろう。

だがそれにもまして、この文明がヨーロッパよる若い文明にして恥じないためであったかもしれない。
 
 いずれにせよ、太古の混沌にまで起源をさかのぼると自負する民族が、じつは他の民族に先を越されていたなどと認めるわけにはいかなかったのだろう。  了。

[2008年03月23日00時20分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(9)
 
 それから数年後、日本はまた使節団を派遣する。この一行には、 その性格、学問への情熱、とりわけ人徳を基準に選りすぐった八人の文人が含まれていた。日本海は荒海であり、「義人」を乗せた船ならばしかるべき港に到着する可能性も高いと考えたわけだ。

西洋人が新大陸をめざして船出したとき、このような基準で乗組員を選んでいたら、旧大陸と新大陸の関係はずいぶん違っていただろう。とはいえ、ヨーロッパの場合、学びに出かけたのではなく、強奪に出かけたのだらから、いたしかたないが。

五世紀には、初めて皇室の年代記が作成された。こうしてみると、当時の編纂者が王朝の紀元を太古の黎明までさかのぼった理由がよくわかる。彼らは、神武天皇の後継者たちに旧約聖書に登場する族長なみの長寿を与え、そこかしこで治世の定かでない「つなぎ」の君主を付け加えることによって空白を埋めている。(つづく・・・・)

蛇足:歴史を作り(綴るのは)大変な作業である。だが、辻褄を合わせる研究はもっと手の込んだ ヘヴイタスク を必要とする(〔参照者注〕)。

[2008年03月22日02時34分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(8)
 
 六0七年、聖徳太子という傑出した為政者(頭に髷を結った肖像画が千円札に描かれている)が正式の使節を中国の宮廷に派遣する。当時、この聖徳太子がみずから恃むところがあったのはそれなりの理由がある。
 
 まじめな教養人であり、熱心な仏教徒であり、徳が高く、民衆に人気があった彼は、すでに奈良の近辺に法隆寺というすばらしい寺院を建立することで、その建築的才能を誇示した国のまぎれもない君主としての自負があったのだ。彼が中国皇帝の煬帝にあてた書面には「日出ずる国の天子から日没する処の天子へ」としたためられていた。これを受け取った煬帝は目を丸くした。隣国が中国を対等の国として扱ったのは初めてのことだった。

 日本から派遣された使者(小野妹子)の才能が問われる事態となった。中国事情に通じている彼は、天子という称号は中国からの借りものであり、しかも「許可申請」したわけではないことを知っていた。だが煬帝は、いくらか躊躇したものの、この使者に贈答品を持たせ、隣国のおごりをたしなめる親書を携えた答礼使とともに本国へ送り返した。

 だが日本の使者はあろうことか、この親書は海に捨てた方がよいと判断する。その理由を察した聖徳太子はそれをとがめなかった。

 中国は当時、世界史に前例を見ないほど輝かしく整備された帝国、唐の時代に入ろうとしていた。その中国ともめ事を起こすのは得策ではなかった。(つづく・・・)


[2008年03月21日04時30分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(7)
 
 彼らがもたらしたもののなかには、漢字、儒教、仏教があるが、これについてはあとでとりあげよう。
 また、裁縫職人(縫工女〔きぬぬいめ〕)がやってきたことも特筆すべき事件だった。
このような宝の山を前にして、日本人が手をこまねいているわけがない。時間をむだにするわけもない。 いったん弾みがつくと、日本はあのすばらしい同化吸収能力をここで初めて発揮し、迅速に仕事をこなすようになる。 

皇室に仕える法務官(史〔ふみひと〕)は中国の表意文字を必死で学び、中国の社会・政治制度の概念を日本に応用しようとする。  (つづく・・・・)

[2008年03月20日10時50分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(6)

 四七八年、技巧を凝らした中国語で書かれた書簡が、「ヤマトの王、朝鮮の保護者」の名のもとに中国宮廷に送られる。日本人の手で書かれた文書として史書に記録されたのはこれが最初である。
 そのあいだも倭人は前進を続ける。 神武天皇による建国はおそらく、西暦の紀元がしるされて間もないころ、そして九州地方で最大の勢力を誇った部族のひとつがヤマトを平定した時期に対応している。 建国の時期については西欧の歴史家も日本の歴史家も(神道の学者は除いて)ほぼ見解が一致している。
 
 国家統一の事業はさらに続く。 朝鮮半島の三王国を侵略し、そのひとつを一種の保護国(任那)とした。 これによって日本人は中国化した保護民からおおいに啓発される。四世紀から六世紀にかけて、朝鮮と日本の関係は緊密になる。日本にやってきた朝鮮人一行には、職人(養蚕家、醸造家、鍛冶屋、織工、革なめし工、陶工など)や文人が含まれ、さながら「技術援助団」の様相を呈していた。  (つづく・・・・)

[2008年03月19日11時34分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(5)
 さらにのち、五世紀になると、次のように書かれている。
「倭人は養蚕も米作も心得ているが、牛馬はほとんどいない」。そして、倭人の長命について、またもやその酩酊ぶりについて書かれ、倭人の衣装の堂々としたスタイルについてかさねて記述されている。
その書きぶりは、中国人にしてみれば未開の部族でしかない民族が確固たる趣味を持っているので、面喰っているかのようだ。これは、のちに世界でもっとも形式美を重んじる民族となる日本人の芸術的センスについての最初の記術だ。(つづく・・・)

[2008年03月18日09時20分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(4)
 
 「倭人の使節は獣骨の矢じりのついた矢を持ち、桑の樹皮でできたゆったりした寛衣をまとっている。その寛衣は硬く、糊でごわごわしているので、たいそう厳めしい。彼らの態度はかたくなで気位が高い。ただし米の酒に酔いしれる時だけは別で、どうやら彼らは酒好きのようである」
 さらにあとには、こうも書かれている。

「倭の国には処女で呪術をおこなう女帝がいる。この女帝は大勢の奴婢にかしずかれ、男は近づくことが出来ない。女帝が死ぬと、百人の男がいっしょに墓に埋められる。倭人は鹿の肩胛骨を火にあぶって託宣をひきだす(これは中央アジアでも普及している習慣だ)。占い師の身なりは汚く、蓬髪である。倭の漁民は、水に潜り貝をとるときに海の魔物を追い払うために体に刺青を入れている」
 
「残念ながら、倭人の国では死者は棺に納められるだけで、葬儀はぞんざいにおこなわれている」(中国人の遺体にたいする過剰な配慮は、神道の信者にはかえって遺体をけがす(・・・)ものと受け止めらたにちがいない) (つづく・・・・)

[2008年03月17日06時25分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(3)

 日本の記紀神話によると、これより数世紀も前に全国を揺るがした「偉大なる統一事業」があったとされているが、中国の史書を見る限り、そんな形跡はどこにもない。統一権力も絶対君主も存在していなかった。その当時からすでに、彼らが「神々の国」と「神なる天皇」(神武天皇)の末裔であると称していたとすれば、かなり滑稽な自惚れだと言わざるをえない。
というもの、当時の国といえば「天の国」(ヨーロッパ人の中国王朝に対する呼び名)、すなわち中国しか存在しなかったのだし、天子といえば、漢の皇帝しか存在しておらず、この皇帝の好意によって、五水と四方は天の意思のもとに従っているとされていたのだから。航海からどんな利益を引き出せるのか、誰もしらない。だが、優れた船乗りであった倭お人々じきにみずから朝鮮の沿岸にくりだし、略奪を働いたり、物々交換をするようになる。西暦五七年には、正式の使節を中国に派遣する。これが長きにわたる中国の貿易の端緒となり、中国人は日本人について次のように記すことになる。(つづく・・・)

[2008年03月16日13時59分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(2)

そのうえ、日本と中国を隔てている海はアジアでも有数の波荒き海であり、中国人はそれほど航海に長けた民族ではなかった。ただし、ありあまるほどの好奇心と商才はあった。紀元前二世紀、彼らはたいへんな危険を冒して海を渡り、九洲に上陸した。そこに商売や取引の材料があるかどうを調べるためだった。彼らはそこを「倭人の島」と呼んだ(小人という意味で倭人と呼んだのだろう)。調べた結果、その島はたくさんの小さな王国に分かれていて、そのほとんどが魔術と占いを通じて権力を行使する「巫女の女王」によって統治されていた。そして、王国の一部は漢の封臣となることを承認する。

[2008年03月16日09時17分]
お名前: 素里奈
『日本の原像を求めて』(1)
Nicolas Bouvier著『Chronique Japonaise』高橋 啓氏=訳 に次のようなフレーズがある。少し長いが参照する。
 
誇り高き倭人の島―--『魏志倭人伝』より

西暦紀元前六六0年二月十一日。神の後裔である一人の天皇によって国の基礎が固まった日を祝うこのキゲンセツは、宗教的真実であり、それすべてが言いつくされる。では、このいかにももっともらしい洩らし正確な日付はどこから出てきたのだろうか。ここでは、当時このアジアの一角で唯一書物という記録の手段を持っていた中国人に尋ねてみることにしょう。
 アマテラスの後裔の事蹟は、漢から魏にかけての王朝の年代記によって神話から抜け出し、史実の世界に顔を出す。そもそも当時の史料は少ない。中国は万里の長城をつくったばかりで、その関心はむしろ広大な内陸部に向けられていた。(つづく・・・)

[2008年03月16日01時32分]
お名前: 素里奈
お詫び: 文字化けは  轍 の 左偏 さんずい 「シ」が付く お名前です。
[2008年02月13日00時31分]
お名前: 素里奈
カータさん お久しぶりです。久々にボードを「開けてびっくり玉手箱」です。

五世紀後半〜六世紀中葉(新羅に吸収される)までは洛東江下流で、金官加耶は平和であった。加耶地域の支配者階級層集団の古墳や遺跡をみても明らかである。この営みが、六世紀半ばにいたって、いくつかの注目すべき出来事が起こる。それは新羅様式の土器がその従前の加耶のそれに取って代わったことである。つまり洛東江下流域(加耶の都)が新羅へ編入されたことを思わせ、事実上金官加耶の滅亡を示すものである。 時を同じくして、加耶土器を始めとした韓半島南部の陶質土器が、日本列島において再現されたものが、(初期)須恵器であることは二言を要しない。従って初期須恵器は韓半島住民の大挙移住の指標である。「東アジアから見た・日本国家の起源 2002年12月14・15日於東京・國學院大學・国際シンポジウムー(釜山大学・申敬氵徹教授講演より)

金官国は約100年ほど永らえて、532年、ついに新羅に降服した。『三国史記』法興王紀は、「金官国主の金仇亥(きんきゅうがい)が、妃と三子とともに・・・来降した。新羅王は礼を以って待遇し、上等の位を授け、本国の食邑(しょくゆう)とした」と記録した。そのころは、平和的な亡国の記録そのものが珍しい。その後の待遇も王族扱い。降伏
以前の国王が、新羅に通じて結んだ陰徳が、降伏以後の武力・庾信(金庾信のことか?筆者注)ら一族が、新羅に尽した陽徳のたまものに違いない。(砺波 護/武田幸男両氏共著・『隋唐帝国と古代朝鮮』より)
 
洛東江下流の政治情勢も同時に変化して、その中心勢力は金海(現在の亀浦飛行場・亀旨峯の元祖地「蛇足筆者注」)から釜山に移ったものと思われる。流れとして、敗戦国の主だった群れの亡命先は玄界灘を渡らざるを得なかった。と、先述申教授の説をまつまでも無く、想像できるものではなかろうか。


[2008年02月13日00時13分]
お名前: カーター
素里奈さんの筆が止まったので代わりに書き込みをします。おっしゃりたいのは、
加耶の神話と日本神話の類似だと思います。日本書紀の記述を見ると下記の通りで
す。
「天の細女がまた問うて『お前はどこへ行こうとするのか。皇孫はどこへおいでに
なるのか』と。答えていうのに、「天神のは、筑紫の日向の串触峯(くしふるだ
け)においでになるのでしょう。・・・・そして約束のように、皇孫を筑紫の日向
の高千穂の串触峯にお届けした。猿田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に着い
た。」

実際に高千穂町には「くしふる」神社が実在しており、天孫降臨の地の地名が残っ
ています。下記の地図にくしふる神社の名前の記載があります。

http://www.town-takachiho.jp/kankou/tyusin.htm

一方、朝鮮の古代史を研究すると「三国遺事」の「駕洛国記」に次のような記述が
あるそうです。
「村の北のほうにある亀旨(クジ)の峰からひとを呼ぶような怪しげな声が聞こえ
て来た。村の衆が大勢、亀旨に駆け付けてみたが、声はすれど人の姿は見えなかっ
た。天の声に九カン(九人の村長)たちは答えた。ここはどこか?亀旨でございま
す。ーそうか。俺は皇天の命令によってここに来た。ここで国を開き、その君主に
なれと仰せられたので降りようとしておる。汝らは、峰の頂きの土を掘りながら、
『亀よ亀よ 頭を出せ 出さぬと焼いて食うぞ』と歌い、踊りなさい。・・・」

この高千穂の串触峯と加耶の亀旨の峰の音が似ていることを持って、同一の神話に
基づくということで戦前は日鮮同祖論がありました。しかし、現在古代史に興味の
ある日本人は、任那が実在して日本が朝鮮半島南部を支配したとは思っていませ
ん。むしろ、加耶が滅んで日本列島へ逃れて来たのではないかと考えております。

20年以上前に韓国の歴史博物館で韓国人女性が年表を指差して何か言おうとして
私が先に「加耶から日本に来たのでしょう?」と言うと「どうして知っているので
すか?」と聞きました。私は「今の日本人は、日本人が韓国から来たことを否定し
ていません。日本語と韓国語の文法が似ていることを考えてもわかることです。み
んな薄々分かっているのです。大きな声に出して言わないだけですよ。」彼女は驚
いたと言う風でした。

どちらが兄か弟かと言う議論も、もう2000年近く経ったのですからどうでもい
いことです。関東地方には朝鮮半島から来た人達の末裔もたくさん住んでいること
ですし。武蔵武士の多くがそういう人たちであったとすれば、日本史の研究はやり
直さないといけないかもしれません。

[2008年02月10日22時38分]
お名前: 素里奈
一字 文字化け:−
          木 偏に 患の 「くし」が正です。
お詫びして訂正します。
[2008年01月25日21時16分]
お名前: 素里奈
26
 日本の神話、天孫降臨の峰の名前、「筑紫の日向の高千穂・槵触峰(くしふるたけ)の
「くじふる」も、前記の「亀旨峰」と同名であることはすでに通話になっている。ともに
「霊峰」の原語である「くじ・くし」がそのまま「鬼神」を表わす用例は他に見られないが、この語から派生した「奇(く)し」という形容詞があって、「霊妙な、不思議な」という語意をもっている。一方、「くし」は「櫛・串」とも同音語であるので、これらにまつわる習俗が生まれている。櫛の場合は、伊奘諾尊が黄泉国に行ってしまった夫人の伊契冉尊を訪ねて行き、その変わり果てた醜容に驚いて逃げ帰る途中、追手を撃退する用具の一つに「間櫛」をとりあげているのがそれである。「串」の場合は、伐った木に幣をつけて神前に立てるのを「玉串(たまぐし)」というのも如上の信仰の表れにほかならない。

締めくくり。
この項、冒頭を、筆者の一人よがりで、韓国半島歴史上の最初の歌〔麗玉の詩〕を参照し
て話を始めたが、中国の魏人である魚豢が書いた『魏略』には、「朝鮮侯がみずから王と
称して燕を攻撃しようとしたが、大夫礼の諌めにより思いとどまった」という記録がある。
これは、古朝鮮が紀元前四世紀後半には、中国全土七雄の一つであった燕に立ち向かえる
ほどに成長していた事実をかたっている。 『三国遺事』は、時代の記録が三段跳び式の
記録になっていて、史書としては、ミッシングパートが多く、馬韓,二府の後に、楽浪・
帯方(漢の役人が都監した)から始まるような記録になっていたりする。

「桓檀古記」に見る「三神五帝本紀」「桓国本紀」(『天皇家・倭国・神道のルーツを説く』)
記録等を果たして『三国遺事』や『三国史記』と同列に見るべきか?

金富軾もまた『三国史記』を編纂した折に新羅史以外の多くの記録を蔵入れしたとされる
が、実に残念なことである。 結果論ではあるが、『史記』の撰者が当時・三国時代の曙の
歴史記録を省かないで、正確に記録の中に残し、官撰史書のような体裁を整えたもので出
来ておれば、例えば、秦氏一族が日本に渡来する以前に駕洛と新羅の摩擦があったのか、
それともこの部族は、新羅が三国を統一出来た以前の部族であったのか?などによって
“ニニギは何処に降りたのか?また、日本列島に複数ある天孫降臨の「亀旨峰」“ の原始
が渡来系の信仰神話なのか、それとも大隈国の添ノ峯(ソホリノヤマミネ)生え抜きの文
化(神話)なのか?などを学者でないものでも、研究できるはずのものではなかろうか。 了。     

参考文献:『三国遺事』釈一燃・李家源訳/『記紀万葉の朝鮮語』金思「火華」氏著(三国遺事の原典の翻訳も同氏のものを97%引用・残りは所々筆者の意訳を現代語で訂正加筆・挿入した。)/『朝鮮の歴史がわかる』100章・朴垠鳳氏他/『韓日交流二千年』悦話堂編/大和岩雄氏著『日本にあった朝鮮王国』白水社刊/他

[2008年01月25日21時03分]
お名前: 素里奈
25
 「鼻荊・亀旨」はともに「鬼」の訓を表し、「鬼」を霊感視していたから、「亀旨峰」を漢訳すれば「霊峰・霊威峰」となるのである。右の神話で見るとおり、歌舞は鬼神の憑依する行動であることがわかる。これは舞踊に用いる仮面や人形までも、一種の鬼神的なもの、「もののけ」がついているものとして恐怖の感情で接するのである。
 つづく・・・・

[2008年01月25日08時09分]
お名前: 素里奈
24
 この説話では、鬼は魂霊の化身であり、それはたやすく人間や他の動物に化身しうるものであること、また超人間的能力の所有者であること、鬼神には善・悪二種あることなどを示してくれる。王の霊が化身して桃花女と通じて生んだ子の名前、鼻荊は、
「kko kashi(コカシ)」の音の訓借表記であり、「kko(コ)」は
「大keuen=韓語 おおきい」の義を持つ美称、「kashi」は「鬼」の訓である。
中世期の「鬼」の「クイッ」keueッt・kujs←kwi−si)である。この
「カシ」と通じる。
 同じ『三国遺事』の巻二、「駕洛国記」には、駕洛(加羅、伽耶)始祖王の誕生神話が載っている。始祖王が天から降臨する峰を「亀旨峰」と呼んだことが見える。この「亀旨」は「クジ・クシ」の音の表記であり、「鼻荊」の「カシ」とも合い通じている。(筆者は先述で鼻荊の名前の意味がわからないとし、十字架上のキリストの荊冠に譬えたりした、この紙面でその謎が解けたものとする。筆者注)この神話には次のように降臨の際に歌舞を伴っている。
 以下は本項冒頭(08年01月10日)の亀旨歌『あたりに人がいるや否や』そして
1月11日の『亀よ亀よ、汝の首を延ばしなさい。延ばさないとくべて食べてしまうぞ』にもどってしまうが、(“亀旨歌は先述との重複を避けて省略する”)
つづく・・・
 

[2008年01月24日05時49分]
お名前: 素里奈
23
 そこで王がまた聞いた。「鬼神たちのうちに、人間となって政治をたすけるようなものはいないか」。「吉達というものいますが、彼は政事を助けることができます」と答えると、王は、連れて来いと命じた。翌日、鼻荊が彼を連れて来て王にまみえさせた。そこで執事の職を与えると、忠実なこと他に比べものないほどであった。ときに角干(第一等の官職)の林宗に子がいなかったので、王が命じて吉達をあととりにさせた。林宗が吉達に、興林寺の南に門楼を建てさせ、毎晩、その門の上に寝させたので、その門を吉達門と呼んだ。ある日、吉達は狐に化けて逃げてしまった。そこで鼻荊を使って捕まえ、殺してしまった。それからは、その仲間たちは、鼻荊の名前さえ聞けば恐れて逃げてしまうのであった。当時の人がこういう詩を作った。
  
 聖帝魂生子、 鼻荊郎室亭、 「聖帝の魂が生みし子、 鼻荊の家ここにあり、
 飛馳諸鬼衆、 此処莫留停、  飛び去る雑鬼どもよ、 ここに留まることなかれ」。

この詩符を貼って鬼を追い払うのが国の風俗となった。
   (つづく・・・)

[2008年01月23日01時30分]
お名前: 素里奈
22
 鼻荊が十五歳になったとき、執事(国ノ機密事項を司る役所である執事省の役人)に任命した。毎晩、遠くへ逃げていっては、遊びふけるので、これを知った王は勇士五十人をやって彼の様子をひそかに見張らせた。その遊び場所は、月城(首都の城)をとび越え、西の方にある荒川の岸のうえで、鬼神の群れと遊ぶのであった。勇士たちが林にかくれて見ていると、鬼神どもは、方々の寺の鐘が夜明けに鳴り出すと散って行き、鼻荊郎ももどるのであった。兵士らが事の仔細を王に申しあげると、王は鼻荊を呼び、「お前は鬼神どもを引きつれて遊ぶと言うが、それはまことか」と聞くと、郎は「いかにもさようでございます」と答えた。そこで王は「それなら、お前は鬼神どもを使って、 *神元寺の北にある小川に橋をかけよ」といった。
 鼻荊は王の命令を受けると、鬼仲間を使って石を切り整え、一夜の中に大橋を完成させたので、その橋を鬼橋と名づけた。(づづく・・・)
      
*原文欄外注に、“日本の古文書には 神衆寺 と記録されているが、誤りである。そして北にある小川も、荒川の東域にある深い川とも記す”。
とあるが、原文はハングルであるし、古い記録である、書名《ここで参照者が言う古文書・記紀書か風土記か?》どの書を指すのか。(〔筆者注〕)

[2008年01月22日07時08分]
お名前: 素里奈
21
 夫が死んでから十日たった日の夜中に、王が生きていたときと同じように、ひょっこり女の部屋に現れて、「そなたが以前、承知したとおり、今そなたの夫もいなくなったから、
私と褥を共にしても差し支えなかろう」というのであった。女は軽々しく返事ができなかったので、事の次第を両親に聞いてみると、「王様のお言葉にどうして逆らえようか」といって、娘をその部屋に入れさせた。七日間、王にお仕えして留まっているあいだ、いつも五色の雲がその建物の屋根をおおい、香気が家屋一杯に満ちていたが、七日後ふいに王の姿が消えてしまった。おんなはそれから身ごもった。月が満ちて生まれようとするとき、天と地とが揺れ動き、やがて一人の男の子が生まれた
 名前を「鼻荊(kko−kashiとつけた。/kko―鼻、 kashiうばら・いばら、とあり、荊冠ともある、いばらの冠とあり、キリストが十字架上でかぶせられた冠とあるが、意味不明。こじ付けになるが、王の亡霊の胤子なので、そんな風な名前がつけられたものか?参照者注)。
 真平王がこの不思議な出来事を聞いて、宮中に召しいれて育てた。
  (成長するにしたがっての出来事は次回に・・・・・つづく・・・)

[2008年01月21日12時14分]
お名前: 素里奈
20
 (新羅の)二十五代、舎輪王の諡号(おくりな)は真智大王で、姓は金氏、妃は起鳥公の娘、知刀夫人である。 大建八年(五七六年)に即位した。国を治めること四年で、政治がはなはだしく乱れたために国の人が王をやめさせてしまった。
 これより先、沙梁部に百姓の女がいた。 姿かたちがあでやかに美しかったので、当時の人びとは彼女を桃花娘と呼んでいた。王がこれを聞いて、宮中に呼び寄せてから犯そうとすると、女がいうには、「女が守らなければならないことは、二人の夫に仕えないことでございます。おっとが在るにも拘らず、他人に身を任せるようなことは、たとえ万乗の君の威厳をもってしてもできないことであります」。王が「夫がいなければよいのか」というと「それならかまいません」と答えたので、王は許して帰してやった。この年、王は廃位させられ、また世を去ったが、その後三年たって彼女の夫も亡くなった。
つづく・・・

[2008年01月20日01時22分]
お名前: 素里奈
19
櫛,串、亀旨。
先ほど(1月12日投稿)で参照し松本清張氏が言及なさった『魏志』の「東夷伝」“十月に天を祭る”云々の解説・終わりの項に次のような追加描写がある。
 
“この朝鮮の「鬼神」とは天であり、細分すれば、日月星辰風雨であった。その人智不可解な支配力に彼らはSpirit(霊魂)を認め、それへの尊敬と異怖とを覚えた。こうして天を祭る習俗は北方からシベリア、蒙古、満州、朝鮮、日本に入ってきたのだろう。このルートは、ウラル・アルタイ系のツングース語文法の道と一致する。朝鮮語、日本語はいうまでもなく、主語・述語・助詞がタレ流しの順となっていて、ヨーロッパ語文法に属する中国語は全くこれとはべつである。ウラル・アルタイ語とこの原始宗教とは同伴した。” 
 
「鬼神」を『日本書紀』の神代上に「もののけ」と訓じているが、これは鬼神そのものの表現語ではなく、一種の説明的語である。そして「鬼神」に対する考え方は「死者の霊(みたま)」として認知していたようである。鬼神に関する朝鮮側の古い記録は、『三国遺事』巻一に載っている「桃花女・鼻荊郎」の説話がある。その一部をここに転載する。
 
「桃花女・鼻荊郎の原語読みは:−to−fa−nyo ・bi−hyung−rang」『三国遺事新譯』
  釋一然著 李家源譯 太學社(在ソウル) 1991年2月10日刊84頁

  本文参照は次回に・・・
 

[2008年01月19日04時11分]
お名前: 素里奈
18
(先の17「すなわち聖なる生命の根源を、さし出せ」につづく・・・)

 およそ韓国南方の建国神話では、始祖誕生の形は、卵生系として現れている。すなわち生命の根源が、卵の形で表現されていると言うことになる。ところが駕洛国記では、生命の根源が、亀の首として表現されたということは、けっこう興味深いことである。
 とくに亀の首が延びて出てきてから、始めて天から卵が降りてくると言う考え方は、卵よりかは亀の首が、生命の根源として、より先行的存在であるとする認識が、はっきりしていることをみのがしてはなるまい。
 ここで参照者の見解としては、亀の首とは男根とそっくりであることと合わせて考えてみるとき、「聖なる生命の根源をあらわせ」というこの詩歌のつくられた契機は、原始社会において、女性が男性を誘惑する手段であり、亀の首とはPhallicsm(男根崇拝)に解釈してはいけないだろうか。
 次には、先に描写した四行詩句の最後の「火番 灼而喫也」という句節をどうみなすかということである。まず、「火番 灼」という言葉からおしてみるに、この詩歌は、火と何らかの関係があると見なすべきであろう・韓国の詩歌史上、火が初めて〔韓半島に未だ正式に文字が渡来する曙時代を意味する〕登場してくる歌が、すなわちこの亀旨歌であうことは特筆するまでもない。  (火番ノ字 左手扁ではなく、火番(一字である云々は、前に述べた)。
 聖なる生命の根源である亀の首、すなわち男の性器を、くべてたべるということは、はたしてどういう意味が含まれており、また何をなぞらえているのか、もう少し、異なる古文書を調べて見る必要がある。
 
蛇足:−この項〔ALL RIGHTS RESERVED BY WRITER 転記なさる場合はご一報乞う。〕

[2008年01月18日03時39分]
お名前: 素里奈
17
前掲1月12日そして14日から「亀よ亀よ」の話から、若光王子の上陸前後の様子や、苗字の村主(スクリ)の話をしたために、だいぶ道草を食んでしまった。
話を戻す。
亀旨峰を言うとき、あの天孫降臨のばであるクシフルを連想させずにはおかないが、後でゆっくり触れることにして、ここでは、先述した『亀よ、亀よ、汝の首を延ばしなさい。もしも、のばさなかったら、くべてたべてしまうぞ』との呪文を唱えよとした天の声を、庶民的に噛み砕いてみることにする。
「ほかの方たちも、すでに着眼されているように、亀は昔から霊的な動物にみたてられてきた。すなわち亀という言葉がいだかせてくれるイメージには、「神秘な動物」ということのほかに、「長寿の動物」ということがふくまれている。
その亀のからだの中で、とくに首を差し延べるようにいいつけた。ところが動物にあっての首とは、生命の象徴であり、命の根源である。したがって、「亀の首を差し延べよ」ということは、すなわち聖なる生命の根源を、さしだせと言うことになる。(つづく・・・)

[2008年01月17日19時04分]
お名前: 素里奈
16
先に『秦族の率いてきた百八十種の勝部』を見ることにするとした。
前で参照した金沢博士・スクリの解説の中に “天智天皇十年紀の「韓島の勝〔すくり〕
・娑婆・(韓島は豊前の国宇佐の郡 辛島「からしま」の郷)、”云々があったが、この
文中の・娑婆・が、さっぱり要領を得ないので、いろいろ関連がありそうな辞書などをリレー式に紐解いてみた。
ここで見る「娑婆は、そのまま日本語の「しゃば」広辞苑:−【仏】(梵語saha−忍土・忍界と訳す)人間が現実に住んでいるこの世界を釈迦牟尼が教化するべき、うんぬんである。
韓国側の辞書では、読んで字の如く「サバ」とあり、解釈は共通。どうやら件の二文字は自由を束縛されて、現世で一定期間忍耐を要する環境におかれることを意味するものか。
 『新撰姓氏録』(山城国諸藩)の秦忌寸(はたいみき)の条は、秦公酒が、父の普洞王のとき、秦の民、すべて却略(かす)め*〔却=しりぞけること。下がること。取り去り、亡くすこと。 略=省くこと。(筆者・参照者・加筆注)〕*られて、今在るものは、十に一つも存(あ)らず。請(こ)ふらくは、勅使を遣わして、召し集めたまわむことを。と奏上したと記すが、『日本書紀』は、秦の民(たみ)連(むらじ)等に分散(あか)ちて、各欲(おのおのねがひ)のまにまに使はしむ。と記す。この文章は『新撰姓氏録』の「秦の民、すべて却略(かす)められて、今在る者は、十に一つもあらず」にあたる。
『日本書紀』は、このように各地に分散し、それぞれの豪族(臣(たみ)連(むらじ・〔この むらじ という日本語自体、渡来人の代名詞であると筆者・参照者は考える。筆者注〕)
に使われていた秦の民を、秦造酒(秦公酒)の統率下に置いたので、秦造酒は、「百八十種の勝・ももあまりやそのすぐり」たち(〔勝〕は古代朝鮮語で「seung/すぐれる。筆者注」〔長・おさ・同じく/jyang〕の意であり、「村主・すぐり」とも書く)を統轄したと書く。どうやら、散らばっていた秦の民が、分散された娑婆ならぬ苦境から普通の世界に纏まったことか。
 ここで、再度金沢氏の書物を見直すことにした。 “姓氏録によると、檜前(ひのくま)の村主は漢の高祖、牟佐の〔むさ〕の村主は呉の孫権、下〔しも〕の村主は後漢の光武帝、上〔かみ〕の勝〔すくり〕は百済国人 多利須須〔タリスス〕、葦屋〔あしや〕の村主は意宝荷羅支〔オホカラキ〕王の後裔とあり、いずれも渡来人である。それゆえ、従来からの村主の姓は韓国〔からくに〕における一種の称号から出たものとしているが、その語源についてはまだ定説がない。
村主の号は新羅真興王拓境碑、晋州蓮池寺鐘銘(今 越前国敦賀の常宮神社にある)などに見えているが、これが三国史記巻四十五にある水酒村干・一利干・利伊村干などの村干と同じで、干に酋長の意味があることは前節で述べた通りであるから、村主は村干の意訳と見なければならない。
「参考文献 先述の金沢庄三郎氏、そして大和岩雄氏の『日本にあった朝鮮王国』そして韓国語の解釈・私見を必要最低限「注」のかたちで、筆者加筆」


[2008年01月16日05時01分]
お名前: 素里奈
15
前掲 村主(すくり)勝呂・苗字の由来のつづき・・・・
孝徳天皇大化二年紀には「村首[すくり]と書いてあるが、これは主・首が音通しているからである。舒明天皇四年紀の「勝鳥養」[すくりのとりかひ]」、天智天皇十年紀の「韓島の勝[すくり]娑婆」(韓島は豊前の国宇佐の郡 辛島[からしま]の郷)、天武天皇元年紀の「駒田の勝忍人」、播磨国風土記「揖保[いひほ]の郡大田の里の呉れ勝」、天応年紀の「栗原の勝子公[すくりこきみ]」(栗原は美濃国不破の郡栗原の郷)など勝[すぐり]の訓をこれにあてた例も多い。地名にも武蔵国入間郡 勝呂[すぐろ]、岩代国耶麻郡 勝
[すぐれ]などがある。

 考えるに、これらの勝の字をカチ或いはマサとよまなければならないと言う説はまちがっている。伴信友が、「村主と同じ骨[かばね]にて、須具利[すくり]と訓むべし」という説(正ト考)に従わねばならない。拾芥抄、性尸録部に村主と勝とを別にあげているのは、勝の訓をわきまえなかったことから生じた誤りであるから、採用できない。雄略天皇十五年紀の、秦[はた]の酒の公の率いてきた百八十種の勝部も、またこれに準じてスクリベとよむべきである。出雲国風土記に「大原の郡大領勝部の君虫麻呂」の名が見える。
参考文献(金沢庄三郎博士『日鮮同祖論』より。

次回は、金沢氏から離れて、『秦族の率いてきた百八十種の勝部』をみることにする。

[2008年01月15日12時08分]
お名前: 素里奈
一部訂正
唱え文中 ”ほんだわけ・神武天皇だと200年若くなる。”は
2世紀半ほど、さかのぼる、年取るが正しい。お詫びして訂正します。
[2008年01月15日02時44分]
お名前: 素里奈
一語訂正
  唱え文中の解釈   
”応神天皇・ほんだわけ”200年若い”
   は  2世紀半程 さかのぼる(年取る)が正しい。
お詫びして訂正します。
[2008年01月15日02時40分]
お名前: 素里奈
14
カーターさん
そして広嗣さん(仲間がふえましたね。歓迎します。)
ご両人のレスに返事になるか、ともあれ私見を述べる。 先述「茅ヶ崎のお祭りの呪文」のこと、荒竹(相模地方の高校の教諭・著書もある。)氏は、“この種の伝承は後に適当に潤色さるる。” 云々しました。荒竹氏の片棒かついて、私見を述べる。お祭りの唱え言葉の中に:−

0応神天皇の十六代云々:−同じ唱えの文中、後の項の高句麗(668)と紀年が噛みあ
わない。“ほんだわけ・応神”だと200年ほど記紀わかくなる。べつな天皇か。
0唐船急ぎ:−若光は唐の人ではない。ただし、この唐(から)は、韓(から)を、朝鮮隠しの一端か。668年だと玄宗皇帝の唐朝と時代はかみあう。
0諸越の高句麗:−カーターさんもご質問ありました。韓郷(からくに)を、唐(もろこ
  しくに)に転化させた表現とおもう。第二次大戦の敗色濃い時代、韓国は、いずれ
完全に日本に併呑されそうにおもえた時代があった。そして旧制中学あたりでは韓
国(からくに)を往々に、唐(から・もろこし)との混迷した解釈をさせるような
教育をした。おそらくその時代に当祭りのしんがりの、うがった思想の反映による
潤色によって呪文を書き換えた?(あくまで推測)。
0村主章枝銀板の美人:いいですね。いつみても見飽きのしない美形ですね。そして勝呂の苗字のこと、カーターさんのご意見の尻馬にのって、この苗字渡来系であることを詳しく(長いが)参照する。  村上―:城[しき・新羅・しらき]と関連して述べるべき語に村主[すくり]がある。村主とは渡来人に与えた姓[かばね]で、倭名抄に「伊勢国安濃の郡村主の郷(須久利)」があるから、これおスクリとよむことも明らかである。雄略天皇二年紀に「身狭[むさ]の村主」(身狭は大和国高市の郡牟佐の郷),敏達天皇十三年紀に「鞍作の村主司馬達等」、天武天皇八年紀に「上の村主光欠」(上は河内国安宿の郡加美の郷)などがあり、(つづく・・・次回に・・・)





[2008年01月15日02時15分]
お名前: 広嗣
>埼玉県南部の都市名である飯能はハンナラ(韓国の意味)から来
>たとのことですが

 埼玉県南部には嘗て「高麗郡」や「新羅郡」がありました。案外この地はコリア出身者の開拓地なり移住地だったのかもしれません。


[2008年01月14日19時54分]
お名前: カーター
素里奈様、若光王子の物語のアップをありがとうございます。金達寿の日本の中の
朝鮮文化1については私も12年前に購入して途中まで読んでいました。もろこし
の漢字が唐と諸越と二つ使用されているので講談社文庫の同書を見てみたのですが
やはり二種類書いてあります。金氏は大磯町文化史から転載しています。意味に違
いがあるのでしょうか?

同書を見ていたら、武蔵七党の武士団は高麗の帰化人から出たものも多いとのこと
で高句麗についてもう少し勉強すべきと感じております。埼玉県南部の都市名であ
る飯能はハンナラ(韓国の意味)から来たとのことですが、奈良県の奈良が国を意
味しているのですから驚くことはないですね。

埼玉県入間郡勝呂(現坂戸市)のスグロは古代朝鮮語のスグリ(村主)が転訛した
ものだそうで、スケートの村主選手の名字を見れば朝鮮系の名字だということがわ
かります。埼玉がルーツだという小谷野と言う変わった名字の人が会社にいます
が、この人は高句麗の子孫の可能性があります。

勝呂の地名に注目したのはこの掲示板書いて来た武蔵の河原太郎次郎を祀った河原
神社を元は勝呂神社と言っていたのを明治になり河原神社に変更したと言われてい
るからです。武蔵武士として平家物語に出て来る河原氏のルーツは高句麗からの移
民の子孫であった可能性があります。埼玉県小川町にも勝呂という字があります。

[2008年01月14日18時01分]
お名前: 素里奈
13
カータさんへのお返事。
亀旨峯の話から、逸れてしまったので、そろそろ「亀よ、亀よ」の話に戻るつもりですが、その前にカータさんのリクエスト 「若光王子をアップせよ」 とのこと。すでにご存知と思いますが、知見を参照します。  以下若光を乗せた船が今の神奈川県中郡大磯町高麗に到着した模様から・・・・高麗若光は、大磯の唐(もろこし)カ浜に一族と共に上陸し、現高麗山の麓、化粧坂近辺に仮住まいし、先住の人々に新しい開拓技術を伝えた。又、高麗山頂にある高麗神社(現在名・高来)の夏祭りの祝い歌は、(多分毎年一回、宮下の社から担ぎ出した山車を茅ヶ崎の砂浜から体半分海水に浸ろところまで進み出て唱えるあの夏祀り合呪文のことと、思う。)
以下その祝い歌:−   「抑々(そもそも)権現丸の由来を悉く尋ぬれば、応神天皇の十六代の御時より俄かに海上騒がしく浦の者共怪しみて遥かに沖をみておれば、唐船急ぎ八の帆を上げて大磯の方へ棹をとり走り寄るよと見るうちに程なく汀に船はつき、浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも翁一人立ち出でて櫓に登り声をあげ、 汝ら!よく聞けよ! われらは日本の者にあらず、諸越の高麗国の守護なるが邪樫の国を逃れ来て、大日本に帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌と守るべし。あらありがたやと拝すればやがて漁師の船に乗り移り、上がらせ給う。御代より権現丸を載せ奉りし船なれば、権現丸とはこれをいうなれよ。ソウラヤ、ヤン、ヤイヤン、」
 いまでも、飾り立てた権現丸の山車を押し立てて歌うこの歌の内容そそのまま史実であろうとは思わないが、この種の伝承は、後適当に潤色されるのが常当であるにもかかわらず現存する事は、そこに真実性をみないわけにはいかない。例:−高麗からの渡来者であること、「邪樫な国を逃れて・・・」とある事から、高句麗(668年)以後であろう事、又
大磯の守護となり云々とういところからは、高麗人の中でも相当地位の高い人を中心にした一族であったことを窺わせる。
 長くなるので、以下割愛する。お時間がありましたら、『埼玉の神社』埼玉県神社庁発行をお目通し下さい。また、「若光会」と称する研究会(現代の日本人の会)があるそうです。
(この項の参照文献は、キムタルス著氏の著書『日本の中の朝鮮文化』と荒竹清光氏のレジュメ『関東地方における高麗人・新羅人の足跡(1)からでした。「筆者」』

[2008年01月14日12時33分]
お名前: 素里奈

前掲列記して  *十月  **十月節など *十月に  特に*印したこと、そして「筆者注」があるとした。今その理由を述べる。 「神明社」の説明板。  

一・ 由緒創立縁由沿革等詳ナラズト *雖モ当社は・・新編武蔵風土記に・・・・又亨和元年九月建立ノ石灯笠竜及文久元年・・・・(参照文・・・・のカ所は、参拝したのが、冬の夕方五時をまわっていて、暗くて小さな文字は、よみとれなかった。)
一・  祭日 十月一日(**このマーク筆者加筆)
               境内社   厳島神社  三峯神社  諏訪神社 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「六所神社」の看板
  大国魂大神    相殿  天照大神  一、由緒
創立年月及び古代由緒沿革等は未詳・古老口碑に武蔵国府中の大国魂神社の御分霊を招請して鎮座の由・・・開く天文年間の創立とも申し伝えられる。元社号は大国魂神社と称し六所とは中古以来近代まで前記大国魂神社(府中)社号を六所宮と称せられしより当社も右に準じ六所神社と改称す。 (以下省略) 別な黒い大理石版には、
・・・著名な氏子衆の名前や、建設に携わった業者名など。刻字・・・
*神明社の札の文字: *「雖も」は、右の扁、隹がなく、左偏だけで、「雖モ」
とよませている。(筆者注)
上述の通り、両者とも、“由緒沿革未詳” である。この表現は、多摩川べりの水道道路を府中寄りに歩く近辺の古墳(畑の中の大き土饅頭)の立札の文頭説明とも共通しており、“元土地の豪族のお墓か”云々につづくものである。実にmiracleな説明書きである。
この畑の中の土饅頭、そして先述の神社など、そこは、古代の先駆者の魂を弔う場・信仰の神域・立ち寄って居心地の良い。先人の霊を慰める神聖な祈りの場でもある。建立以来幾星霜、堅固にして「霊」あるが如く横たわり、守られている霊場である。さらには、祭事の時期と模様も、先述松本氏が歴史書『魏志』「東夷伝」に示した古朝鮮各地の例大祭の行事に類似しておる。必ずや往時その地で、呼吸した人たちの宮を設置すべき「・符・」なるものが存在したからこそ、後の世の氏子衆が同じく先人の呼吸に合わせて「・祭・」を行うわけのものではなかろうか。なのに、“真の始まりの”、由緒沿革不明とは、信じ難い。つまり著名な交響曲(豊穣な秋の収穫を祝う)を奏で(祭り)ながら、その名曲の作者は不明とある。筆者は、何でもかでも、これら現在の風習が、渡来人のそれであるかの如く、主張しているわけでは決してない。ポイントは、行事の元が何であれ、      
“はじめが在って跡がある” 如く、 “親が在って子が有る” ことを常識的に論じており、偶然にも祭りの時期・行事が同じであること、肝心な『符牒』の原始が霞みの中にあることに疑義を抱くものである。何とも釈然としない事柄である。このことは、ここに限らず、近郷の、そして多くの神社の立札に見受ける模様でもある。

[2008年01月14日01時13分]
お名前: カーター
>別のパネル「日本史」で、関様へレスしたのと重複、既にご存知かとはおもいますが、もしやと思いご案
>内いたします。

別件については存じません。若光王子の物語について、アップをお願いします。


[2008年01月13日21時44分]
お名前: 素里奈
カーター様    レスポンスを感謝します。
しばらく投稿(結論が出るまで)続けますのでよろしくお願いいたします。
古代、若光王子を推戴して、神奈川県大磯へ上陸、その後、新座郡〜群馬県へと養蚕業を営みながら北行した渡来人。
もしかしたら、別のパネル「日本史」で、関様へレスしたのと重複、既にご存知かとはおもいますが、もしやと思いご案内いたします。向後ご意見交換の糧にとも思い、あえて列記します。
もし未だお目通しになっておられないようでしたら:−
 
江口素里奈著 『江田船山古墳鉄剣銘の秘密』五月書房刊 去る8月初版の新刊です。
 
(内容は百四十年前に発掘された太刀に刻字された75文字が、解読不明のままであっ
たものを、正解読したものです。)

ご近所の書店でお取り寄せ、紀伊国屋書店、ジュンク堂(池袋)または、Amazone Books(Internet)その他のネットブックショップで入手可能です。
自分のこと、宣伝がましく、恐縮です。読後のご感想などお待ちしております。


[2008年01月13日20時14分]
お名前: カーター
素里菜様、初めまして。熱心なご研究に感服致しております。関東一円には古くか
ら朝鮮半島からの移住者が多く地名にも朝鮮のものが多くあります。さて、東京の
狛江市ですが、Wikipediaには下記の記載があります。

>古代の 武蔵国 多磨郡狛江郷の地であり、 5世紀 の高句麗 系古墳である狛江亀塚
>古墳がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82

私は現在埼玉県に在住していますが、埼玉県南部には高麗川市という地名があり、
高麗神社には在日朝鮮、韓国人の方がたくさんお参りに来られます。私も高麗神社
は訪問したことがあります。高句麗の王族の若光が祀られています。
http://www4.ocn.ne.jp/〜fkoma/newpage1.html

また、埼玉県には新座市がありますが、この地名は元は新羅であったのが新座に変
わったと言われています。埼玉県の高麗(コマ)は神社があったため、名前が変わ
らずに残ったのかも知れません。神奈川県大磯市には高麗山があるそうです。

滋賀県の甲賀市の甲賀は昔は、鹿深と言っており甲賀市ではまだこの地名をレスト
ランや施設の名前に使用しています。この鹿深の地名の元となった鹿深の臣は百済
からの渡来人です。日本書紀(敏達天皇)には次の通りです。
「秋9月、百済から来た鹿深の臣が弥勒菩薩の石像一体をもたらした。」

隣の蒲生郡日野町には、百済の鬼室集斯をまつった神社があります。私は1998
年から1999年にかけて水口に住んでいたことがありますので、鬼室神社にお参
りしたことがあります。
http://www.pref.shiga.jp/minwa/28/28-12.html

日本書紀には次の通りです。
「また、佐平余自信、佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江国蒲生郡に移住させ
た。」
高句麗の玄武若光、百済の鬼室集斯のことは日本書紀の天智天皇のところに記載が
あります。当時の日本は現在のアメリカのように、大陸や朝鮮半島からの移民を受
け入れて国を発展させようとしていたようです。

[2008年01月13日17時36分]
お名前: 素里奈

時代背景の描写は古代から現代へとタイムスリップしたかのようになるが、東京の西南部,小田急線成城駅で下り車両が、そろそろ停車の準備のためにブレーキをかけなければならない位置の線路の下を流れる川がある。人呼んで仙川という。ここの水は途中で下流の野川に合流して多摩川(玉川とも言う)の本流に合流する。地理誌によると、元は[大道北]地区といって、現在の世田谷の西北にあたり、江戸開府頃は、祖師谷村と言われていた。 その後は大川(仙川の元の名)の上流を上祖師谷、下流を下祖師谷(今の祖師谷)と、川の上下で二村に分かれていた。
 その川の中腹に上祖師谷公園がり、ひときわ高い北西の位置には神明社と称する神社があるが、そこの祭日がやはり毎年 *十月一日なのである。当日は近郷の人々が、あらゆる珍味や農産物を持ち寄って参加者に無償で提供し、物々交換するなどの習慣がある。 
筆者は、このお祭りの元は、どうやら、古代(七世紀頃)の渡来人の生活習慣の名残であるように思えてならないのである。
根拠は、夏になると、神社の宮下を流れる川の中央、大雨でも降らない限り水をかぶることのない築島や、この神社の周り一帯住宅の建ってないところには、やはり背の高い苧麻(からむし・昔渡来人が麻布の原料とした)が所かまわず、無差別に繁茂して往年の武蔵野の跡地であることを髣髴とさせるのである。先述の成城駅から二つめ下りの駅は狛江(元高麗・こま)である。古代韓半島渡来の人たちの先祖が麻布(あさぬの)を生産して多摩川で洗って成形したふるさとでもある。
詳しくは、『狛江市農業協同組合史』平成五年三月三十一日刊94頁他参照。
ついでに「神明社」そして少し川上、旧甲州街道よりにある「六所神社」などの表札銘に気になるカ所があって、この紙面に併記したい記事があるが、長いので次回に。
 

[2008年01月13日00時21分]
お名前: 素里奈
一字訂正
下の文中   0&28618 文字化けは、
       さんずい扁に 歳 ルビして 「わい」と読む国名が正です。
       お詫びして訂正します。
[2008年01月12日07時48分]
お名前: 素里奈
このことを、韓国側の記録『漢字文化の東遷・(王仁博士と日本文化)』では、次のように解説する。
 実際に、朴智弘教授は、その論文「亀旨歌研究」のなかで「雑鬼を退散させる呪文」であることを強調しつつ、亀(く)とは「神」を指すものであると、解説しているのに出会うことになる。
 飛躍するが、このことを、故松本清張氏は、その著書・中央口論社刊『古代史疑110頁・(朝鮮の鬼神)』の項で次のように述べる。
 “卑弥呼は鬼道に事える女だが、これがシャーマニズムであることはいうまでもない。ところがこの鬼道は当時の朝鮮にもあった。倭の女王国だけ切り離さず、朝鮮と比較してみなければならない。『魏志』の「東夷伝」から関係記事を抜いてみよう。

O烏丸。「鬼神を敬い、天地日月星辰山川を祀る」(『魏略』所引)
O夫余。「正月、天を祭り、国中大いに会し、連日飲食歌舞す、名づけて迎鼓という」
O高句麗。「居る所の左右に大屋(たいおく)を立て、鬼神を祭る。又、雲星社稷を祀る」
O涓奴。 *「十月に天を祭り、国中大いに会す、名づけて東盟という。その国の東に大
穴有り隧神を迎う」     
O濊。「常に **十月節を用いて天を祀る。昼夜飲食歌舞、これを名づけて舞天となす」
O馬韓。「鬼神を信ず。国邑各一人を立て、天神を祭らしむ。これを名づけて天君という。
    又、諸国各別邑あり、これを名づけて蘇塗という。大木に鈴鼓を懸け、鬼神に事
う」。

以上を見れば、『魏志』に書かれた朝鮮各地に「鬼神」を祀る風習があり、*十月に祭りがあって人々が集まって飲食歌舞していたことが分かる。ついでにいえば「鬼神」といっても「鬼」のことではない。不可思議な力のあるものを総称して「鬼神」といった。
  
 記:: 文中 涓奴・*十月、 濊・**十月節 文尾から三行もどって・*などの*しるしは、参照者・筆者が松本氏の論説を転記しながら付けたもの。特注加筆したい事柄があるが、長いので次回に記す。

         

[2008年01月12日07時00分]
お名前: 素里奈
一字訂正
前掲1月10日 文尾 亀無峰
は          亀旨峰 が正です。お詫びして訂正いたします。
[2008年01月11日19時03分]
お名前: 素里奈
 『亀よ、亀よ、汝の首を延ばしなさい。もしも、首をのばさなかったら、くべて食べてしまうぞ。』と、謡いあうことそれ自体が、大王を迎える行事になるはずである。喜んで歌い舞いなさい。』
 九干たちが、ひとしきり祈り終わって、歌を歌い、おどり、そして舞った。」
その亀旨歌(kue−ji−ka[韓国語、読み]ku−shi−ka「日本語、読み」とはつぎのような数句にすぎないものであった。
 
亀何亀何   若不現也
 首其現也  *播灼而喫也    *火 「て」 へんでなく、「ひ」 へんに記されている(要確認)。
 
これも、もともと土着の駕洛国(韓国南部・洛東江近辺)旧百済と新羅の中間の言葉で歌われていたのであろうが、当時の統治者が自身の威厳を保つ為に、それを一つの呪術的なものに仕上げる為に、必ず漢字で定着させたものと考えられる。文字渡来が朝鮮半島に腰をすえる以前・初期の漢字というのな、まさしく的確な呪述の役割をはたしたものとみるべきか。
 漢字が長い年代にわたって、一般民衆には、なじみがうすかったことに基因するものであろう。

[2008年01月11日03時37分]
お名前: 素里奈
この歌詞は、未だ正式な漢字文章が一般の朝鮮半島知識層に浸透する以前、庶民のあいだではやっていた土着語の歌を、後生の学生が漢文になおしたものと考えられる。前で参照した琉璃王の嘆きの歌「黄鳥歌」は、先述したように、時の統治者の身分にあったものの中に、漢詩の素養があって、心情を吟(よ)みあげることができたのであろうと、推察する向がある。

さらに、『三国遺事』の駕洛国記に記録されてある駕洛国建国神話の中に、含まれている亀旨歌というのがある。迎神君歌ともわれているものである。
 そのことを、『三国遺事』巻第二紀異第二の駕洛国記条に、次のように述べられている。
 「後漢世祖 光武帝 建武十八年 壬寅三月の禊(みそぎ)の日にあたり、村の北の方にある亀旨峰から異常な音が聞こえてきたので、二、三百名の村の人たちが集まってきた。
 どこかで人の声音(こわね)がしてきたが、姿は見当たらなかった。荘重な響きだった。

『あたりに人がいるや、否や。』
周囲にいた九干(村長)たちが、いっせいに答えるのに、声を揃えるようにした。
 「われら村の長たちがここにいます。なんなりと仰せになって下さい。」
すると、今度は雲の上の方から声がかかってきた。
 「わしの今いるところが、どこのあたりになるのかな?」
 「亀旨峰でございますが、それが何か?」
すると、また雲の上から声がした。
 「そうか。実は天がわたくしに命じて言われるのには、ここの政(まつりごと)を治めるようとの仰せつけであった。それで、わたくしはこの地に降臨して、王になるであろう。それでであるが、おまえたちは、亀無峰の頂上の土を掘り集めながら、歌を歌うのじゃ。」
つづく・・・

[2008年01月10日01時53分]
お名前: 素里奈
前の項で、『箜篌人(くうこうにん)』の詩を、古朝鮮最初の漢詩としたが、『三国史記』巻十三、高句麗本紀第一琉璃王(BC十九〜AD十八)の作として伝えられる「黄鳥歌」がある。
   翩翩黄鳥  念我之独   鶯の 夫婦情けの 深さをみるにつけても、
   雌雄相依  誰其与帰   帰り道に こがらしぞふきまくる わが胸のうち
この四句は、韓国文学史の巻頭を飾る作品であり、中国や旧ソ連で出版された『朝鮮文学史』でも取り上げられていると記されているが、筆者の所見では、先述の琉璃王が留守中に複数の后たちが起こしたトラブルを、帰還した王がうたったものであり、恵まれた人たちの世界においての贅沢な生活の模様がその背景なので、その詩文を参照するに留める。そして、ここでは、同じ時代の詩文であるとした「箜篌人」に重きをおいて参照することにしたい。

公無渡河 あなた、川を渡りなさるな
公竟渡河 とうとう あなたは川を渡り
堕河而死 川に落ちて 命を失った
当奈公何 ああ、あなたを いかんせん

この四言古詩には、朝鮮半島で最初に発表されたとされ、そして伝わったとする漢文字による詩句としては、大変手の込んだ高度なもののように思える。前の項で筆者が述べた前置きと重複するが、其の滑稽さのうちに、哀切な感情がこめられていて、悲しい唄であるのに、親しみの湧く詩句である。
 はるか、はるかなむかし、古代朝鮮に霍里子高という船頭が、渡し場をあずかっていた。
前掲と重なるので、趣旨を変えて通釈を試みる。
前の参照文の解釈では、素手で入水した風に描写されているが、老人は、やはり酒壷を左手に、杯を右手にして聞き取れない歌を吟じながら入水したと想像してもおかしくはない。  “天寿を全うするのも人生、生のまま、自己が生まれる前にちぢこまっていた母の胎内へと戻る道を急いたのかも知れない“  ような心境で、その心すでに、この世に在らずだったのだろうか”  つづく・・・・

蛇足:日本語の「わたしぶね」【渡し船・渡し舟】
韓国語の「ナルッペ 」合成名詞=渡船   ナル=渡し場 + ぺ=舟、  
この語尾の「ペ」は日本語の腹(ふく=船腹(せんぷく・ふなばら)と同じ語彙である。ただし、日本語の【成る・将棋の角がなる、などとは、無関係である。】

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[2008年01月09日12時00分]
お名前: 素里奈
奴婢(所謂現代でいう奴隷)意外にも多数の普通人(平民)がいた。彼らは自由な身分であったが、経済的には貧困であった。崔豹(西晋の学者)の著書に示すところによると、古朝鮮の「箜篌人(くうこうじん)」という叙事詩があって、この詩から古朝鮮の人々の生活と情緒がうかがえる。『古今注』に載っている「箜篌人」とその背景を見る。
  
船頭の霍里子高が、明け方に船を漕いで渡し場を渡ろうとした時、白髪の老人が狂ったように川に飛び込み渡り始めた。その妻が夫の後を追ってやめさせようとしたが、聞き入れでか、ついに溺れて水底に沈んだまま、ついに浮いて来なかった。夫を失った老婆は、箜篌を抱きかかえるとその悲痛な胸の内を歌い上げ、そのまま川に身を投げた。この光景を目撃した霍里子高が家に帰ってきて、妻の麗玉にこの話を語り聞かせると、麗玉は死んだ老婆をいとおしんで、歌を*箜篌にのせてうたった。
   
*箜篌 参照中の書物・『朝鮮の歴史がわかる』では、西洋のハープに似た楽器とあるが、もう一つの『王仁と日本文化』とう書物では*「琴に似た楽器」とある。確かめるために、目下、李朝の国民作家・朴跡源の「熱河日記」非凡社刊を調べているが、未だ確認が取れていない。 この曲の歌詞(朝鮮半島で最初に使われた漢字詩といわれる。)は長くなるので、次回に。

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[2008年01月08日20時38分]
お名前: 素里奈
1)麗玉の詩(東方世界への漢字の流入)。
 古朝鮮の人々はどのような暮らしをしていたのだろうか。『漢書』地理志に「八条の法」というのが記されていて、その三条目に「人を殺した者は死刑に処する。他人に傷害を加えた者は穀物で賠償する。盗みをはたらいた者はその家の奴婢にする。ただし、奴婢をまぬがれたければ五0両ださなければならない。」つまり古代人は、人間の労働力=経済的価値と認識していたようである。
 よって、他人を傷つけた時は、身体的な処罰に代わって労働能力の高低に従って経済的な損失を穀物で賠償するようにした。また、私有財産を認めて保護し、多数奴隷(この場合奴婢)が存在したことがうかがえる。奴婢は主人のために提供できる可能性いっぱい労働力を提供し、主人が死ぬと後を追って死ななければならなかった。これを当時は遵葬制度といった。
     

[2008年01月05日10時58分]
お名前: 素里奈
テーマ―名『行けわが思いよ銀の翼に乗ってB』のことですが、以前拝見したNHK
エンタープライズの90分ほどのフィルムがあって、近現代の出来事を「日韓合作」の短編映画化したものがあり、その題名が「同じもの」であった。
それ以来、件の題名が気に入っていたので拝借した。そのままでは、不謹慎な気がして、終わりに『・・・・・・・・・・・・・・B』をつけた。
なお、ここのボードが 2007年03月12日 以来空欄になっているので、筆者がこれから取り上げる内容 「古代朝鮮半島と倭(日本)・渡来人の面影など」 が、いかにも場所を得たような気がするので、お邪魔することにした。
 しかし、巷の素人考古書生の投稿ですので、お気付きの点、ご意見がございましたら、いつでもご教示、是正・歓迎いたします。レスお待ちしております。

[2008年01月04日21時17分]
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