テーマ:鶴岡八幡宮

書き込み欄へ テーマ一覧に戻る
お名前: ランギョウ
 源義家の嫡男、義親(よしちか)義視は、岩波日本史辞典には
ありませんでした。対馬守在任中に、大宰府と抗争し隠岐島に
配流となり、義家が死後出雲で目代を惨殺して平正盛(?)
追討されてしまいまいした。
 http://r.gnavi.co.jp/t049500/
 昨年は、日露戦争百周年で記念の、対馬ビールがありました。
 今年は、イヴェントが終わったからいいんだけど。
 後三年の役は、源義家が圧勝したんだよ。忘れてはいけません
 !!。

  しばらく、準備中  どうぞ
  江戸通
[2005年05月04日21時03分]
お名前: 寄進の停止について
> 尚、役の影響ではないようですが、源家への
>荘園寄進は、「停止」(多分院宣)されておりこの
>ような事態にいたったのでは、ないでしょうか。
 五味文彦さんは、この問題について武家による荘園
寄進が相次いだ為で、当時の畿内の武家は、豪族のような
存在で律令制下で、衛門府や近衛府、検非違使に動員され
ても取り込まれていない勢力が、源義家に荘園を寄進しだし
た事を禁止したのだろうとされています。
 (武家と文士の中世史  関西にも視野を広げている点が
   凄い。)
 関東では、鎌倉に幕府を開いた時点では、源氏の有力拠点
は、新田荘、足利荘くらいで、関東でも孤立した存在だった
ようです。
 有力権門(摂関家等)、院、国(国司)ではない貴族への
寄進では良くある事なのでしょうね。
 関西では、律令貴族から古代豪族のような存在にまで一代
で変った人々も多かったのでしょうね。
 開発領主が、公に認められるのは鎌倉が実権を握ってから
で、それまでは、人は住めども荒廃した原野を開発する行為
は、物笑いの種であったことが多かったようです。

  江戸通

[2005年05月04日10時29分]
お名前: 鎌倉の大臣(おとど)
 鎌倉は、鎌倉家の領地で鎌倉氏族の制する処
であり、廻りは、大庭家の領地と言う立地である。
 この、源家重代の御家人(お家びと)を根拠地
を幕府の陣営とする発想が、人知を超えていると
思う。
 後三年の役で活躍した、三浦家、鎌倉家、畠山家
の多数は、平家の血統で、むしろ平国香というよりも
平将門を基とするかいう顔ぶれです。
 天才肌の源頼朝は、旗揚げから、石橋山の合戦、
幕張の陣と矢次早に行動しても、只ただ、念じ仏に
頼るばかりで、自分は殆ど行動していないのです。
 富士川の合戦では、自分の行動に自信をもったよ
うですが、関西の食料事情に気が付き、殆ど、
関東経営に感心を持ったようです。
 或いは、僧にがんを掛け、念じ仏を奉納しつつ、
鎌倉幕府を開いたのでした。
  江戸通
[2005年04月28日22時30分]
お名前: 河内源氏、摂津源氏
 源義家 (1039−1106)
 河内源氏頼義の子。岩清水八幡宮で元服し
八幡太郎と号す。…受領を歴任し、 
1083年陸奥守ととして豪族清原家の内紛
に介入するが(後三年の役)、私戦と見なされ
恩賞もなかった。
 晩年は、嫡男義視がランギョウするなど、一族
の不祥事が相次ぐなか、没した。
 日本史辞典の抜粋です。
 府中にいくと、国府跡近くに、源義家の銅像が
ありますが、後三年の役に赴く頃をモデルにしている
のだそうです。府中では、銅像にされてしまう程、
有名な人で、当時、武蔵の国(東京+埼玉)では、
信仰の対象とする人もいたのでしょうね。
 祭神からみると、親頼義が勧進元であったり、神事
を多くのこしているようですね。しかし、河内源氏が
源頼義で摂津源氏が源義家とは。
 尚、役の影響ではないようですが、源家への
荘園寄進は、「停止」(多分院宣)されておりこの
ような事態にいたったのでは、ないでしょうか。

 かし込み、かしこみ。
   江戸通
[2005年04月16日22時55分]
お名前: 「逆さ杉」伝説
 後三年の役当時の事ですが、当時
篠竹の密集地だった塩原で、源家所縁の
八幡宮で戦勝祈願を行なった、義家は、
壮絶な矢戦に矢の切れる事を心配し、篠竹
を斬り矢に使い、何とか勝ったと言われています。
 信心が戦勝に繋がったわけですね。
http://www.towninf.co.jp/p/09/110008/
 
 江戸通
[2005年04月12日21時28分]
お名前: ちょと後戻り
 後三年の役が終わり、官人としては親、頼義
と同等の官位は得たものの、私財を殆どを処分
した源義家は、晩年、身内の相次ぐ不祥事で
東奔西走する毎日で終わった。というのが、
日本史辞典にありますね。
 源頼朝が、鎌倉にあってこの、義家の故事を
習って、東北の藤原家を攻め滅ぼすのですが、
この間に事情に詳しい人がいて、大江広元あたり
に教えたんでしょうね。
 神社としては勧進元は、父、頼義という神社が
多く、この八幡太郎義家は、歴史上の人物では、
あります。
 歴史的には、残っているか疑問というか些細
なことでも、鎌倉時代には、八幡太郎のお家人と
いうのは、涙が出るほど、人々の記憶に残って
いたようです。
 所領といえば、親戚が足利荘、新田荘を獲得した
くらいで、どう多めに見積もっても50騎が動員で
きればいいほうという生産力で、頼朝の旗揚げの時
ですら150騎集まり、他に親戚筋ということで
100騎が結集しているようですね。
 こなってくると、当時の宮廷の判断の甘さというか
権力争いが、この遠因であることは間違いないですね。
  江戸通
[2005年04月02日22時36分]
お名前: NHK話題
 夜、突然起きてTVのスイッチを入れると、、、
五年程前
 「このように、官物の納入量が減ったことが、
  官符による戦闘、言わば私戦とされたわけですね。」
 と源頼義の戦後に納入した公租(物品)の一覧を
 パネラーが示していました。
つい先日
 永い路子ふうの文体でアナウンサーが語っていた
 「陸奥戦記」の現代語訳に交えて、現在の、東北
 の風景、、、、
 しばらくして気が付いたのですが、「陸奥戦記」
奥州軍記は、何処のだれか解らない清原家が書いた
もので、前九年の役を漢文調で記したもので、
俘囚の長、清原氏か京都の文官清原某のことか?
記述が案外史実に耐えることから有名という事ですね。
 さらに、源義家は、京都から東北に行く途中で、
数え10歳余りで、岩清水神社で参拝し戦地に向った
ことから、八幡宮から烏帽子を貰った、八幡太郎
義家と呼ばれる事になっとです。
 また、私戦とされたことから、関西方面にあった
財産を使い尽くし、東北遠征で官位のみ残り、京都
に帰ったことになりますね。
 摂津源氏と言えば、源義家だったのですが、後三年
の役で全てを失った為、摂津源氏とは言わなくなった
のも源義家でした。
 九年も戦争していれば、子供だって大人には、なる
でしょうね。
 源義光は、弟だったので、京から兄を助けに向かい、
大変大きな功績を上げたとありますが、後三年のこと
で登場はしませんよ。
  
 江戸通

[2005年03月27日07時43分]
お名前: 八幡太郎義家
 武州(現.埼玉)に血洗い島と言う所がありますが、
千葉にも、血洗い川というのが、あります。
 農民と漁師が争い、鎮圧に幕命を受けた葛西氏の
面目を保つ為、神官が神輿の前で切腹したので、一件
落着し神輿を川で洗った所から、この地名がついたとか。
 http://homepage1.nifty.com/JK1FEM/keidai.html
現在では、成田へ向う間道は、閉鎖された由。
 江戸幕府では、御成り街道と呼ばれた街道があり、
高低さ等の問題から、難所と言われておりました。
 コンコンさん元気(元亀、、、(T_T))ですか!
  江戸通
[2005年03月20日21時48分]
お名前: 大神宮??
 神社には、宮(ぐう、みや)と神宮(じんぐう)社(やしろ)
とか格式があったようですね。
 神宮と言えば、伊勢神宮、香取神宮、鹿島神宮と三つしか
許されていないのに、大神宮は、たくさんあるのは何故?
http://www.daijingu.jp/
 東京で言えば、東京のお伊勢さんが、東京大神宮となり、
御祭神も、伊勢と同じで分御霊を伊勢から勧進した神社の事
でした。神道の有名な大学が二系統あるように、伊勢神道と
出雲神道が日本のおきな神道の流れでは、ありますが、戦前
の国家神道が単なる創出で、国家神道を重点にすると、伊勢
神道は、日本の神道ではなくなりますね。
 伊勢に行けばわかるのですが、日本が客(賓)扱いですから
 じつは、こんなに解り易くいえるのが普通ではないのです。
難しい話は、おいときますが、茨木といえば、あの人物、徳川
光圀さんのおかげなおであります。黄門さまには、感謝ですね。
 水戸藩は、大半が常陸の国なのですが、常陸の国府は、石岡
で別の藩だったので、一宮を行きやすくしたらこうなったの
でした。
 大日本史を編纂し、研究したのは、その後でして、また、鎌倉
のガイドブックを世界に先駆けて作ってしまったのも、黄門さま
なのです。まあ世界壱早くという事ではないでしょうが、旅行記
ではなくガイドブックを作るという事は、それまで、あまり例が
なかったですからね。

  江戸通
 
[2005年03月19日22時41分]
お名前: 江戸通
 性懲りも無く、鎌倉へ行って来ました。
八幡宮勧請は、現在の八幡宮の場所ではなく、
由比ガ浜にあったよし、それが、材木座に移転?
源頼朝が、京都に模した街を作る為、現在の場所
に移転したらしいですね。
 http://www.hachimangu.or.jp/about/lineage/index.html
 偶々、時間が遅かったので、いつもは寄る
無料休憩所も閉館でした。
 海の方面にぶらぶらと行くと、稲荷社をみつけました。
 稲荷社は、鎌倉の地主稲荷が祀ることがどうもお約束だった
らしいですね。古地図では、若宮となっていますが、、、
 竜神と稲荷社とは別のものと考えていましたが、大正期に
移転した(明治か)社(やしろ)を地主稲荷を祀る事に
でもしたのでしょう。
 気が付いたら、また、この事項で投稿しますね。
 源頼義の勧請した、元宮(若宮)にも足を向けたい
ですね。
  江戸通
[2005年03月12日20時07分]
このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)
氏名 削除コード
E-mail URL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。