テーマ:成田山新正寺と荘園

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お名前: 星野山喜多院の場合
 川越にある喜多院は、江戸時代の始めには、
東叡山無量寿寺と言ったのが、上野に寛永寺が
出来たとき、東の比叡山という東叡山という山号
を送り、星野山(せいやさん)という名前に変えた
そうです、また単純に北院と言っていたものを喜多院と
したのも江戸時代の初めだそうです。
 慈眼大師天海が、大きく係わり兵火により失われた
伽藍の再興を進めたことの影響だそうです。
 寺家の説明では、旧来の名前に戻しただけで、
東叡山の寺号だけを寛永寺に送ったものだそうです。
 「歴史読本」のグラビアにも成田山新勝寺とあり
http://www.naritasan.or.jp/index2.html
 このうち、三重塔の写真が添えてありました。
  また、機会があれば、、、

 江戸通
[2006年10月29日11時02分]
お名前: 密勅「平天下」
 平将門降伏の密使が、寛朝大僧正にくだり大阪から
海路光町から成田入りしたのが、開山の縁起で、
これまた「密勅?」で新勝寺の寺号が送られたのですね。

http://www.naritasan.or.jp/index2.html
   わずかばかりですが、開基1070年の事業に
送らせていただきました。
 
  江戸通

[2005年09月24日08時33分]
お名前: コンコン
>昔は夫婦で成田山新勝寺にお参りすると離婚するなどと言われていたそうです。
女の神様だから焼き餅を焼いてと地元では言われています。(真意は不明)
[2005年05月29日19時12分]
お名前: 広嗣
 昔は夫婦で成田山新勝寺にお参りすると離婚するなどと言われていたそうです。実は近くに廓があって、そのことと関係があるとかないとか聞いた記憶があります。

 真偽の程は不明ですが・・・。


[2005年03月24日02時02分]
お名前: 開基1070年 修業
 今年の袋には、開山1070年記念の
協力を乞う旨の赤文字がありました。
 時代は少し遡って、足利義教が富士遊覧を
した時に、関東の事は、年号も土地も全て、
旧来のにするという約束を「和談」として、
してますね。その独裁者が、暗殺されていま
すので、どうなるんでしょう?
 このときに。足利義教は、しきりに「無レ心」
とかを言っているようですね。仕来たり(慣習)
では、禅僧が京都の真意を伝えるところですが、
将軍が、そもそも禅宗の人ではないですからね。

 http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index90/index.html
 今年も新規発見のメジロ押しで、このくらいで
終わるかも?
 沢村田の助死に絵 ですか、なにおか況や。
 
 当分この話題は、休みです。
 どうなっちゃうの
  江戸通
[2005年01月23日19時59分]
お名前: 禅語パート3
 どうでしょうね、名前なんか言っていいんでしょうか?
「佳况」は、元代の僧「古林清茂」浙江省温州の人、天台山
国清寺に投じ出家し、横川如洪(王偏 さんずいではなく)
の法灯を継ぐとあります。
 別に横川影三という兵庫県出身の有名な人もいます。
 渇水期水がなくなるという黄河に揚子江から水をひくという
計画の影響がだてきたのかも知れませんね。
 元代には、身の危険をかえりみず入元する禅僧は、
数多く、案外交流もあったのは確かですね。名前からして、
衆生救済を図ろうという意図とは別に、苗字みたいに
なっている事もあるようです。無責任のようですが、
あしからず。

  江戸通

[2005年01月10日21時40分]
お名前: 江戸通
 成田山に行ってきまいした。
例年は、「初詣 新勝寺」という大きい
ポスターがあるのですが、今年は、大河
で有名になった武蔵こと「市川海老蔵 
新年に祈る」でした。
 スマトラ沖地震の影響でしょうか、例年に
なくお線香にも人気が集まっていましたね。
 サテア(サイババ)でも人気のお線香を
求めてきました。
 深く被災しなくなられた方々に深く哀悼の
意をしめし。今なお、帰国もできず被災地に
近く滞在されている方の多いのには、驚かさ
れます。
 現在でも犠牲者は、増えつづけているよう
です。これから、防波提を七メートルは、高く
する議論があったようですが、インドの原子力
発電所では、二次津波による浸水で緊急停止
していたことが、遅ればせながら発表されました
言葉はありませんね。
  江戸通
[2005年01月10日08時33分]
お名前: 禅語パート2
 えーと。今回は、「佳況」です。
「ちょうどいいほど」というと解題になりますね。
悟りは、心がちようどいいくらいのことというと
解説になりますね。横川某という浙江あたりの禅僧
が残した言葉ですね。
 一頃は、言わば禅宗の悟りですねが、わたしの口癖
でしたが、前から「佳況」が禅語であることは、知って
いました。僧侶には長生きした人も多く、この横川某
も足利義満の時代を確かに生き抜いたひとでした。
 日本語ではなく、禅語でした。
  江戸通
[2005年01月08日21時40分]
お名前: 誤字訂正
 新正寺  ----> 新勝寺 とやろうかなと
思ったら、御札の袋にも手提げにも「大本山成田山」
としか書いてありません。
 犬丸は、足利持氏で子の二王(遺児二子)ではないと
おもうのですが、跡目は、10歳から12歳でお広めの
時代ですので、跡目という事でいえば、つぎの次をどうするか
というのを長老が、決めたかったという事になりますが?
 独裁者、足利義教が惨殺したといえば、遺児二子になりますが
足利義教方の惨殺が訳であれば、足利持氏という事になります。
なお、王と言う言い方は、成人(10〜12歳)未満でなくなった
貴族と言うほどの意味になります。 くどくどくどいですね。
(駄洒落になったかな?)

  江戸通
[2005年01月06日23時12分]
お名前: 江戸通
 真言宗大本山の成田山は、荘園を抱有していたのかと
考えてしまったのが、悪かったですね。
 足利義政が征夷大将軍のとき、鎌倉公方の人事に介入
して、足利満氏と対立していた足利若犬丸を鎌倉公方に
しようとして香取神宮に
 「余は、野武士を糾合しても若犬丸を関東の跡目をつがさん」
という文書を発給し、号令をかけているのですが、この若犬丸
が未熟だったため、足利荘に城をつくり善戦するもなんと日光
の二荒山に逃げ込むはめに落ちいり、余命は得たものの日光から
出られたと言う記事が何処にもない!
 若犬丸は、満氏の従姉妹であるのですが、岐阜で義教方惨殺さ
れた犬丸の兄弟の子か兄弟らしい。
 当時の下総の守護千葉満胤は、預所八条院に泣き付いたと
渡辺世祐著「足利時代の研究」にあります。
 成田山は、江戸時代には広く俳優役者の崇敬があついのも、
このあたりに原因がありそうです。俳優役者は、江戸時代には、
河原ものと言われ土地の所有が厳禁されていましから。
翻って、「動く中にも工夫あり」と言った足利義満の禅語の解題
として、「極楽浄土は難しく、魂の救済、心の生かすあれ」という
のが、成田山の言葉でした。

   江戸通
[2005年01月06日22時08分]
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