テーマ:書評】古代日本人と朝鮮半島

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お名前: 広嗣
 関裕二「古代日本人と朝鮮半島」(PHP文庫)を読みました。著者の関裕二は、歴史作家ということです。尚、書評と書いていますが、毎度のように読書感想文のようなものです。

 この本は日本史で言えば壬申の乱の頃までを扱っています。遺伝子(DNA)レベルまで触れながら日本人(日本族)の特質に迫ろうとしています。

 冒頭で関は隣国コリアとの不仲に触れています。コリアは古代に日本に文物を伝えた「上に立つもの」という意識はあるでしょう。しかし日本から見れば別にコリアの下にいるつもりはありません。下手すれば蔑視さえしている者がいます。一方のコリアも嘗て足掛け36年間日本の植民地だった過去は屈辱そのものなのでしょう。

 20万年前の一人の女性に行き着くとされる現代人類がいつどのように日本列島に辿り着いたかは、ここでは触れません。ただ縄文文化を基層にして弥生時代以降コリアや中国の戦乱に敗れあるいは逃れて多くの難民が日本列島に来たのは事実です。関に言わせれば、日本列島は「最果ての地」であり人々の「吹き溜まり」でした。

 戦争に敗れて逃れてくるくらいですから、戦争に強いわけはありません。勿論内戦での勝敗はありましたが、相手を殲滅するような勝敗はありませんでした。近い所では、戊辰戦争が挙げられます。徳川慶喜は生き残り、記憶違いでなければ、最後は華族になった筈です。そんな歴史の中で日本人は多様なDNAを温存してきました。

 古代史において中国の古文献が倭の領域と見ていたのは、日本史ボードでも触れたように現在の北九州と朝鮮半島南端部でした。やがて朝鮮半島の倭は、コリアで加羅または伽耶、日本では任那と呼ぶ地域に変貌します。今でこそ三国時代と呼びますが、当時のコリア人にとっては百済、高句麗、新羅共々自国の版図を広げかつ倒す相手の一つでしかありませんでした。

 北九州の倭は、最終的には「畿内」大和地方に興った国に征服されます。その時期がいつなのか、また倭という名前を嫌がっていつ日本に改名したのかは分かりません。

 ところで関は面白いことを言っています。藤原鎌足は大化の改新当時倭の「人質」であった百済の王子豊璋であると言っています。この説を読んで、天武天皇は新羅の王族であるという説を思い出しました。確かに中大兄皇子を事実上の最高指揮官として白村江を戦ったのは、鎌足が存命中のことでした。逆に中大兄皇子(天智天皇)の弟とされる天武天皇の時代は、親新羅の時代でした。

 関によると、鎌足の素性は明らかではありません。蹴鞠の席で鎌足が中大兄皇子に接近を図った話は有名ですが、この時は中臣鎌子連でした。連と付くくらいですから、どこの馬の骨とも分からない無位無官のおじさんではなかったことは確かです。しかし鎌足個人の素性ははっきりしないのです。そんなこんなで関は鎌足は豊璋であると推測しています。

 これまでも述べたように日本はコリアや中国から多くの人を受け入れました。鎌足の出自がコリアであっても不思議はありません。ただ関の推測が所謂トンデモ史観なのか史実なのかは、永久に分からないでしょう。


[2019年01月09日08時49分]
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