テーマ:書評】毛沢東 日本軍と共謀した男

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お名前: 広嗣
 1919年4月6日、毛沢東は長沙に戻り、小学校で歴史を教える教員になります。神ならぬ毛沢東にその一月後に五四運動が起きることは分かりようがありません。しかし実際に五四運動が起きても、北京に行くことはありませんでした。この「毛沢東様」を冷遇した北京大学への敵愾心がなせる業だったのでしょうか。

 毛沢東にとって大事なのは、中国の人民ではなく、自分が中国の覇者になることだったのでしょう。「毛沢東様」の価値を認めない者は、敵とみなす、そんな人だったのでしょう。

 そんな毛沢東ですが、湖南省で社会運動を組織し始めます。当初は日本の「新しい村」運動に触発された運動などを展開し、途中の経過は省きますが、1921年7月23日の中国共産党第1回全国代表大会の長沙代表として共産党創立大会に赴きます。当時30人とも50人とも言われた共産党党員の中で創立委員になったというわけです。ちなみにこの時の代表の数は、12名でした。

 この大会で毛沢東が発言することはありませんでした。他の参加者が神経質で臆病なのではないかと思ったほどでした。

 最大でも50人の党員は、中華民国の人口を考えると、少な過ぎます。また当時の国民党の党員数は、13万5000人に達していました。そこで動くのがコミンテルンです。コミンテルンは勢力拡大の為に国民党への入党を「指導します」。所謂第一次国共合作ですが、国民党が簡単に快諾したわけではありません。また共産党も素直に「指導」を受け入れたわけではなく、最終的に個人の資格で国民党に入党することになりました。

 孫文は1924年1月24日に広州で国民党第1回全国代表大会を開催します。この大会は若干の紛糾がありました。国民党右派から共産党員入党に反対する意見表明がありましたが、共産党第1回大会の時と打って変わって雄弁になった毛沢東の活動により議事は進められました。

 一旦は無事進むかに見えた国共合作ですが、1925年3月に孫文が死去すると、右派が台頭します。その中にいたのが蒋介石です。

 蒋介石は中国のみならず日本でも軍事教育を受け、日本で将校を務めた経歴があります。この時に偶々日本を訪れていた孫文と会談し、意気投合しました。やがて帰国し、最終的に軍事部門を掌握し、北伐に乗り出します。面白くないのは盛んに軍閥間の対立を煽り中華民国の分裂と権益獲得を画策していた日本です。当時の日本の首相田中義一は、第一次山東出兵を強行します。止むを得ず蒋介石は第一次北伐を終了しました。

 途中の経過は省略しますが、結局国民党左派で毛沢東とも仲が良かった汪兆銘は、共産党の背後にいるコミンテルンの野心(即ちソ連の野心)に気付き、共産党と手を切ります。しかし何故か「蒋介石打倒」のスローガンは、共産党との共有を続けました。


[2017年11月30日08時04分]
お名前: カーター
 韓国の若者は日本に旅行したりして見聞を広めていますから、自国の教育の
嘘がわかるのだと思います。中国人も最近は日本社会を学ぶために日本を旅行
する人が増えていますから、共産党の嘘に気がつくかもしれません。

[2017年11月29日21時29分]
お名前: 広嗣
 カーターさん、レスをありがとうございます。

 大韓民国でもそうですが、親日では要職を得難い社会のようです。最近の一部報道によると、大韓民国の10代から20代の若者に反日離れが見られるそうです。この動きが将来の日韓関係にどのように影響するか分かりませんが、注目したい動きです。

 ここの主題は毛沢東なので、中華人民共和国に話を戻すと、時代が下るにつれて反日が強まる傾向が見られます。著者は「反日の地雷」という上手い表現を使い、常に愛国という名の反日を主張しないと「売国奴」呼ばわりされる恐怖に晒されています。

 毛沢東は「愛国」という言葉を嫌いました。少なくとも毛沢東にとって「愛国」は、中華民国に対する思いのことでした。台湾に逃げた中華民国の国民党を愛し、蒋介石を愛するのかと怒ったそうです。言葉の意味は時代と共に食わることが往々にしてありますが、現在の中華人民共和国で愛国と言えば勿論中国共産党への忠誠です。

 この本が出版されたのは、2015年11月ですが、この年の7月7日(盧溝橋事件の記念日)から日本が正式に降伏した記念日である9月3日までの中国中央テレビ局CCTVは、毎日「忘れてはならない歴史」と題する抗日戦争のドキュメンタリー番組をニュースの後に連続放映しています。著者に言わせれば、今現在中国人民が抗日戦争を戦っているような激しさでした。。文化大革命を彷彿とさせる激しさとも言っています。

 漢族の民族性なのか分かりませんが、いずれ振り子は振り切れる所に達します。その後は振り戻しになるわけですが、その時の反日が中華人民共和国社会にどのような姿を見せるのでしょうか。


[2017年11月29日09時58分]
お名前: カーター
 江沢民が汪兆銘と関係していたとは知りませんでした。でも江沢民の時代に
反日が始まったのは知っていましたが、天安門事件に民主主義思想がからんで
いたことからアジアの民主国の日本を敵視するようになったと思っていました。
 石平氏の著作を見てもそのように書いてあります。当時の首席の胡耀邦らは
とても親日家でした。親日では国がつぶれると思ったのでしょう。ケ小平らも
豹変し江沢民を選んだのです。胡耀邦の下で日本課長をしていたのが、今の王
毅外相です。王毅は出世のために親日をやめたのです。その王毅と対等にやり
あったと言うの河野太郎の株があがっています。
[2017年11月28日21時54分]
お名前: 広嗣
 訂正です。
>岩井交換
「岩井公館」です。


[2017年11月27日08時27分]
お名前: 広嗣
 少し前に何かでこんな本があることを知っていましたが、偶々書店で見掛けたので購入した本です。著者は遠藤誉で、出版社は新潮社です。新書版なので読み易いです。尚、書評と書いていますが、読書感想文のようなものです。

 「共謀した」と言っても、毛沢東が自ら直接日本軍と共謀したわけではありません。スパイを上海や香港に派遣し、外務省の情報機関「岩井交換」の岩井英一や陸軍の特殊機関「梅機関」の影佐禎昭と接触し、第二次国共合作下で協力関係であったはずの中国国民党の情報を売り、代わりに多額の情報料を得ていました。

 中華人民共和国では公式には中国共産党が積極的に抗日戦を戦い中国国民党は消極的であったとされています。しかし著者に言わせると、共産党は局地戦は戦ったものの本格的な対日戦は行っていませんでした。1980年代になると国民党に対する態度も変わりましたが、それでも共産党が主であることは変わりないようです。

 毛沢東は日本軍と戦うどころか上記の岩井に停戦を申し出てさえいます。毛沢東にとって大事なのは、日本軍が進攻する中国の現状よりも共産党勢力の温存と拡大でした。

 毛沢東は解放後の(日本で言う敗戦後の)日本人との会談で「進攻」という言葉は使いましたが、「侵攻」や「侵略」は使いませんでした。「進攻」も「侵攻」もどちらも日本語では同じ「しんこう」ですが、中国語では「jingong」と「qingong」となり、全く違う発音になります。また「左翼系の」人々の謝罪は嫌がっていました。

 毛沢東は生前反日教育には消極的でした。北京などに「抗日記念館」はありましたが、今ほど反日教育は酷くありませんでした。ではいつから反日教育が行われるようになったかというと、江沢民です。江沢民の父親は、汪兆銘政権の宣伝部副部長でした。ここで汪兆銘政権はアジア・太平洋戦争中の日本軍の傀儡政権でした。1989年の第二次天安門事件後に中央入りした江沢民は、毛沢東の考えを知る由もないし、自分の素性がばれれば失脚することになります。そこで反日教育と同義のような愛国教育に力を入れ、保身を図ったわけです。つまり中華人民共和国の反日教育は、1990年代に入ってからのものです。

 ところで話は飛びますが、大韓民国でも反日教育は盛んです。大韓民国の場合は、建国からのものと言って良いでしょう。初代大統領の李承晩は、日本の植民地時代に独立運動に関わりはありましたが、コリアに拠点を置いたものではないし、それほど大きなものではありませんでした。そんなことから保身もあって反日教育に力を入れたのではないでしょうか。

 閑話休題。

 毛沢東は1893年に湖南省で生まれました。父親は貧農から這い上がった富農で、兄が二人いましたが、早世しています。正式に学校教育を受けるのは遅く、湖南省長沙の中学校に入学したのは、18歳の時でした。それが1911年でした。1905年に孫文が清を打倒する為に東京で結成した中国同盟会を中心にしてこの年の4月に広東省広州で起こした黄花崗武装蜂起が起きたのを知ります。毛沢東はこの武装蜂起を孫文の革命党の新聞で知ると、賛同して政治的な行動をとります。しかし武装蜂起そのものは失敗に終わりますが、一部は長江流域に拠点を移し、湖北省武漢市の武昌で10月10日に再び武装蜂起を行います。辛亥革命の始まった日とされています。毛沢東は長沙革命党が率いる革命軍に参加します。ここで若干の軍事訓練を受けたことが後に役立ちます。

 1912年2月に愛新覚羅溥儀が退位すると清は滅亡します。清の滅亡で当初の目的を達したと思った毛沢東は、中学校に戻ります。しかし年齢差などが原因で学校には行かなくなり、結局除籍となります。その後紆余曲折がありますが、師範学校に入ります。1918年に師範学校を卒業すると、教員にはならずに同志20数名を率いて北京に向かいます。当時流行していたフランスでアルバイトをしながら勉学に励む勤工倹学を行う為でした。フランスが呼びかけ、北京大学学長蔡元培らが組織した制度で、周恩来やケ小平もこの制度でフランスに留学しています。しかし学歴が高校卒業でない毛沢東は北京大学に入れません。結局師範学校で師事し北京大学の教授に異動していた楊昌済の勧めで北京大学図書館の助手になります。仕事は館長室の清掃や新着の新聞・雑誌の整理、入館者の氏名登録などでした。

 毛沢東は楊昌済の家に寄寓し、楊邸を訪れる北京大学教授の為にドアボーイもしていました。後に延安でこの時の一人と再会しますが、この人は毛沢東を覚えていませんでした。このことが文化大革命(文革)時代の下放政策の背景の一つと著者は見ています。

 ここまで読んできて思うのは、毛沢東は自意識の強い男だったのではないかということです。人は誰しも多かれ少なかれ自分の存在や価値を認めてほしいと思っています。その思いが毛沢東は人一倍強かったのではないでしょうか。しかし現実は逆だったわけで、そこで得た屈辱感と怒りが文革時代に「知識人」とみなした者を下放することで復讐させたと言えます。


[2017年11月27日08時24分]
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