テーマ:書評】海の向こうから見た倭国

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お名前: 江戸通
扶餘郡が、漢字表記ヌですね。補足ですが、簡体中国語の漢字は、周恩来とトウシヨウヘイが現在の形になったと言うことで、遺訓として、これ以上漢字をおぼえられなくなるので、止めてくださいと頼んだそうです。
[2017年05月05日19時13分]
お名前: 江戸通
いい足りなかったことが、ありました。なにぶん専門的な分野と言うよりもってやつですが。忠青南道付餘郡と明日香村は、姉妹都市と言うことで交流していますが、京畿道の南部込みでも、遺跡は、あるようですが、南東部からは100Kほど、はなれており関連性報告されていません。百済終演の地は、南東部ですが、故地でもなく転戦の結果。カヤ韓ては、別文化か?
[2017年05月05日12時10分]
お名前: 江戸通
大変意欲的な取り組みですね。まだ該当新書は、手に入れてません。あの研究機関では、弥生時代が想定されていたより、かなり遡り、紀元2600より少なくとも300年以上前となって、土器(◎-◎;)の意匠は、稲作が基準と言うことで将に、混沌としているそうです。ところが、揚子江沿岸で始まった稲作が、韓国西南部と日本の九州北部に、伝搬しそのまま広がりを確認するのが困難。特に韓半島南部では、内陸部や、東部では、なかったようです。揚子江沿岸から、韓国、日本南部へのシ移動手段や、交流、儀式などの検討がいるそうです。日本書紀は、一挙に、繰返しの多い物語から、気短なコンパクト本蓼って扱いか? ォ煉ォえー、えーo(T□T)o。です。
[2017年04月15日10時24分]
お名前: 広嗣
 最近高田寛太『海の向こうから見た倭国』(講談社現代新書)を初めてkindleで読みました。題名そのものよりも帯に書いてあった「逆さに見れば真実が見える」、「朝鮮半島側からの視点が明らかにした本当の倭国の姿」におやと思うところがあって読みました。内容は驚くようなものではなくて、日本中心の日朝関係史をもっとコリアの側からも見てみましょうというものでした。

 この書き込みの表題に「書評」とありますが、読書感想文のようなものだと思ってください。

 著者は巻末の説明によると、1975年に生まれ、現在国立歴史民俗博物館研究部准教授・総合研究大学大学院大学准教授を務めています。


 まず問題になってくるのが倭の領域だと思います。この本もそうですが、倭は古の日本ということで日本列島の地図に「倭」という文字を重ねるのが一般的です。しかし明治維新後に日本領となった沖縄や北海道は勿論のこと、熊襲や隼人、蝦夷の存在を考えると、日本列島全体が倭であったとは考えられません。日本列島の限られた地域が倭の領域であった考えるべきです。

 更に(三国志)「魏書」巻30「東夷伝」「倭人条」(以下「魏志倭人伝」)や同じ「韓条」を素直に読むと、コリアの南端部も倭の領域であったことが分かります。「魏志倭人伝」は邪馬台国への道程記事で「(帯方)郡より倭に至るには海岸にしたがって水行し韓国を経るのに乍(たちま)ち南し乍ち東しその北岸狗邪韓国に到る7000余里」と伝えています。ここで「その」は倭を指すと考えて良いでしょう。ここで言う「岸」は、手元の漢和辞典に示す字義から見ると、「境界」と考えて良いでしょう。この後初めて海を渡ると書いていますので、コリアの南端部に狗邪韓国があったと考えるのが筋です。余談ですが、後に狗邪韓国はコリアで言う伽耶、日本で言う任那へと展開していったと見ています。

 「韓条」は「韓は帯方郡の南にあり東西は海で限られ南は倭と接する」と書いています。改めてコリアの地図を見るまでもありませんが、コリアは東と西だけでなく南も海に接しています。その南は倭と接していたと言うのです。

 つまり倭の領域は、日本列島のある程度の広がりを持つ領域とコリアの南端部であったということになります。

 もう一つ「三国志」が著された時代の中国側の倭の領域の認識は、これより狭いものでした。「魏志倭人伝」は「女王国の東、海を渡る1000余里、また国があり、皆倭種である」と記載しています。ここで言う海が気になります。まさか太平洋のことではないでしょう。「魏志倭人伝」は西のことは書いていないので、「魏志倭人伝」で言う倭の領域は、少なくとも北部九州であったことは間違いありません。その東に海があるというのですが、九州の東の海は、関門海峡か豊後水道に限られます。つまり当時の中国から見た倭の領域は、コリア南端部と北部九州であったことになります。

 唐の時代になって初めて「日本」を名乗る国からの使者が訪れます。「新唐書日本伝」は最初は「日本は古の倭奴国である」と記していますが、最後は「我々の(歴代の王朝が)得てきた知識と違う」として怪しみ疑問を呈しています。この日本こそが全域ではないものの日本列島を統一した大和王権ということになります。

 広嗣は歴代の中国王朝が伝えてきた倭人は前漢の時代から既に漢字に接していたと考えていますが、如何せん倭人の書いた文字が見つかっていないので、想像でしかありません。しかし「後漢書倭伝」は西暦107年に帥升という人物が朝貢したことを伝えています。この帥升という名前は、中国風に名乗ったものと見ています。

 兎に角倭人の書いた文字が見つからない以上、考古学の分野に頼らざるを得なくなります。この本も考古学の視点から記述されています。

 当初(紀元3世紀後半)日本列島の倭と任那は深い交流があったと著者は言います。これを「国際交流」という位置付けで書いていますが、広嗣史観で言えば、同じ倭である以上「国際交流」ではなく「域内交流」であることになります。やがて新羅や百済、高句麗が勃興してくると、域内交流だけでは済まなくなります。ここで初めてコリアとの間に国際交流が生まれます。

 日本列島内にもコリア起源の墓や副葬品が発掘されるだけでなく、コリア南西部の栄山江流域では嘗ては日本独特と考えられた前方後円墳が十数基発見されています。ここに埋葬されている人々がどういう出自で、どういう目的で来たのか、永住か一時的な滞在だったのか、こうしたことは分かりませんが、様々な人が様々な目的で往来していたことは想像に難くありません。


[2017年04月08日08時43分]
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