テーマ:今稚】高杉晋作

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お名前: 辞世の句
 JRのキャンペーンでも有名な、
「面白きこともなき世に面白き」とは、広く辞世だと言われています。
 実際は、福岡藩勤皇党弾圧に連座し、玄海灘の姫島に投獄された
 野村望東(ぼうとう)を、部下に命じて牢を破り、下関に迎え、
 連歌を作ったものです。
  「面白きこともなき世におもしろき」  晋作
    「すみなすものは心なりけり」   望東
 ですね。
  ポスターでは、萩の歌のようですが「下関」です。
 これは、亡くなる前年のもので、遺言は、
 『しっかりやってくれろ』と見舞いにきた同志にはっきり言ったのが
 遺言になったそうです。
  一見、やってることと考えていたことは随分ちがっていたようですね。
  一種の諦念のような感情が、いきなり表れているるようです。
 http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070824/bnk070824000.htm
  いつの言葉は、俄かには、思い出せませんが、しっかりやってくれろ。
 です

  江戸通
[2007年08月25日23時18分]
お名前: 井伊家の軍制
 井伊家の先鋒木俣土佐守の場合、
長柄4人、鉄砲足軽3人、弓足軽2人、
鉄砲に対抗する騎兵4騎、替え馬4頭とそれぞれ
3人の中元、それに付き従う小者を含めて90名
これが、幕末には200名に膨れ上がった
といいます。
 何処までが士(侍)だったかは疑問ですが、
このような部隊が乙名3人がいたということです。
 小牧長久手の戦いで戦功を揚げた部隊で、
井伊家当主は、一騎がけが好きということで、
各部隊に使番が勤まるものが一騎おり、偵察、
調査、斡旋などを事前に行なっていた。
 実際には、井伊家と長州藩としては、戦闘で
対決することはなかったようですが、井伊家は、
失地回復を狙い、各地で攻勢にはでています。
 実際、高杉晋作は、毛利の陣立には詳しいよう
ですが、この戦力を上回る攻勢は立案できなかった
ようです。
 騎兵隊総督は、3ヶ月で辞任しています。

 江戸通
[2006年07月17日22時10分]
お名前: 高杉が知らなかったこと
 大正3年、萩カトリック教会の初代司祭
ビリオン神父によって、建てられた石碑に、
熊谷豊前守元直殉教の碑があります。
 日本司教セルゲイラがローマに報告した
記事を元に記されたものです。 
 明治初年、木戸孝允(桂小五郎)により
長崎のキリシタンが最初に配流された場所であります。
 日本が、禁教に踏み切る前、日本司教が、
ローマに報告した文書に残っていたのが、
熊谷元直でありました。「(洗礼から)十八年、
真実のキリスト教の使徒、キリシタンゆえの
受刑であった」とし、誅殺は、自殺をよしとしない
信仰の為であったとしています。
 日本では、石垣増築に係わる係争であり、年貢
増徴を拒んだ為とか、色々言われています。
 ロレンソや信長に配された人々ではなく、セルゲイラ
が司教だったとは、当時、75万人というから
人口比にすれば、現在の倍のカトリック信者を抱えて
いたのですね。
 世界人口で言えば、カソリック人口と中国人の人口は、
同じ位らしい。(いまは、)
  江戸通
[2006年07月02日21時16分]
お名前: 毛利藩の国力
 作家司馬遼太郎氏が、自分の見解として防長二カ国は、最初
は貧しかったが、幕末には百万石ほどの生産力を有する、大藩
となったのではと主張されています。
 戦国期112万石の大名が関が原の敗戦を理由に、26万5千石
ばかりの大名になり、根本的なリストラが断行されたに過ぎない
と現在では主張する人が多いです。
 なかでも、慶長5年には、5年度の年貢を返還せよと広島に、
入部した福島正則は、7万石以上の公租の返還請求を毛利家に
行い、当座の2万石を返還し残りは、来年まで待ってくれるように
返書を出させているようです。
 筑前藩隠居黒田如水(じょすい)に「二カ国を返上し、
あとは自分ら父子二人がやっていければいい」と相談を持ちかけ
たが、二カ国返上はできても、既にとった年貢は返さなければ
ばらなくなる、二カ国を抱えて、才覚をするべきと諭されて
いるようです。この過程は、「益田牛庵覚書」にあるようで、
益田元祥(牛庵)が使者として交渉経過を纏めたもののようです。
 この間、萩入部は、3年もあとのことで、伏見、大阪、江戸と
参勤交代以前に、藩主が国許へ帰らず才覚を行なうという原型に
なったもののようです。
 このリストラの結果、支藩、吉川家、大身と一見区別のつかない
家臣団を萩に抱える結果になったそうです。
 また、返祖の過程で行なわれた検地では、同じ領地に52万3千石
を断行し実に、実効税率7割3分という事態まで起きたようです。
 これには、幕府も認めず、26万余を基準とする、表石高にするよう
諭されたようです。
 一揆や、キリシタン蜂起などと言う事件もその過程で発生したと
しています。なかでも、戦国期大身だった、吉見家や平賀家は、追放
され一族が、徳川家や細川家に仕官を求めたという記録もあるようです。
 再度の検地で50万石としたこともあったようですが、36万9千石
程に落ち着いたそうです。
 これは、水戸藩とほぼ規模も担税率も同じという事になりました。
 俗に、加賀百万石というが、幕末には、200万石は生産力があった
のではという、萩の主張が為されているようです。
 前田家の場合、加賀、大聖寺、富山と支藩を含めて、当初、102万石
余り、後に、養老領ということで、10万石で発足した富山藩に藩主の近習
を集め、扶持米だけで20万石相当という事態になっています。
 修験道が繁栄していたものに藩が薬の販売を斡旋したり、新田開発を実施
することで、幕末には、この養老領は解消できた程度では、ありました。
 重点は、検地よりも改作仕法に置かれ、増産よりも生産流通の合理化は、
確かにあったようです。また、戦国期に抱えていた家臣にたいしては、
支給停止という措置を取っただけのようです。士分には触れず、扶持米の
支給を停止しただけという話は、たくさんあるようです。
 実学を掲げる吉田松陰は、山鹿流の兵学者という立場ですが、好適手
であった尼子流の兵学も修めたということであるわけです。
 徳川家は、石川丈山が豊臣家に出奔したため、武田流の陣立に改めたと
いうのと比較してみるべきでしょう。
 赤備えと言われた井伊家では、軍制は大きく改めていなっかたようですね。

  江戸通
 
[2006年06月25日15時24分]
お名前: 東行暢夫 
 慶応元年、長州征伐に恭順をした、藩庁は、
干城隊ら諸隊の決起で俗論派政府打倒を果たした
が、いち早く決起したものの戦功の少なかった晋作
は、藩庁には、加わらず、長崎に伊藤俊介、三谷国松
を伴い、英国領事ガワーに留学を決行しようとしましたが
下関開港を画策し、併せて留学をするという高杉案を
領事側が受け入れず、国内にいる事になりました。
 決起にあたって、同志には、「騎兵隊開闢総督高杉晋作」
「毛利家恩顧臣高杉某嫡子」と墓に記すよう頼んでいますが、
 実際は、吉田村清水山に神式で「東行墓」、改めて、仏式
で、萩松陰神社の背後の山中腹に「東行暢夫(とうぎょうのぶお)」
として祀られています。死して後、長州や吉田松陰を守る、
荒魂と成る事を望まれていたのです。
 留学をしようとした伊藤俊介は、後の伊藤博文、三谷国松は、
初代品川駅長で、横浜開港の仕上げに貢献しています。

 江戸通
[2006年05月04日09時50分]
お名前: 「晋作」は幕府隠密方か
 文久2年、幕府は方針を転換し
「無二念打ち払い令」を発表し、攘夷決行を
を約束し、日時を決定しようとしていました。
 高杉晋作は、即時脱藩し攘夷決行のため、水戸
に同志をつのりに向かいました。
 しかし、常陸笠間で加藤有隣に説得され、江戸
に帰り、久坂玄瑞、志道聞太(井上馨)らと謀り
金沢(神奈川)で外国人襲撃を実施する計画を立てた
が、計画が洩れ蒲田梅屋敷に幽閉され毛利定広説諭
され実行にはいたら無かった。
 品川御殿山の英国公使館焼き討ちには参加したが、
これは、幕府の中止要請や孝明天皇の反対に会うなか、
英国の独断での建設だったので、これに、参加した
高杉晋作は、真剣に幕府の工作員として追及されて
しまいました。
 その後、京都にあって酒色三昧の生活を送る晋作は、
ここでも、藩から謹慎を命じられ萩に隠棲を余儀なく
され、言わば藩命で正妻マサと萩隠棲をはじめました。
 このため、禁門の変には、参加できなかった。話は、
前後しますが、この藩命での結婚生活も、攘夷決行に
あたる、藩の防備を提案し、奇兵隊創設もその一環で
提案の実施の一部であるとして、一生の間では、結婚
生活は9ヶ月にも満たなかったのではなかったかとさ
れています。
 「攘夷決行」は、無残な結果として終わり、奇兵隊
創設という結果だけが残ったことになります。
 
 江戸通
[2006年03月26日09時36分]
お名前: 6年生に贈る言葉
 体は私なり
 こころは公なり
 私を役して公に殉(したが)う者を
 大人となし
 公を役にして私に殉う者を
 小人となす。
  
 敢えて、明倫小学校の6年生のろうしょうを取り上げます。
  
 現在は、「留魂記」が喧伝されてますが、
吉田松陰が、「七生報国」を説いた楠公に出会った時に、
記したとされる、言葉です。
 留魂記には、別に思いが縷々語られていますが、
吉田松陰は、七生報国を猫のような禽獣に喩えず、
みんな、七回は生き様と励ますのです。
 同じ、塾に学んだ、山縣有朋、木戸孝允、伊東博文には、
支えあって生きようと諭しています。
 吉田松陰亡き後、久保清太郎も塾生を叱咤激励しています。
 今は、萩往還公園の一場面になっているとか?

江戸通
[2006年02月22日21時33分]
お名前: 必勝の三種神器?
 禁門の変で政庁から出て、福岡に逃れていた
高杉晋作は、このままでは、幕府に敗れると
北九州の諸勢力に、幕府に抵抗する工作を直ぐ
に実施しています。
 程なく、野村望東に匿われ逃亡を余儀なくされ
ていますが、
 この北九州決起案は、第二次長州征伐が、僅か
二年後実施され、現実のものとなります。
 次に、薩摩と武器購入を巡って周旋に乗り出し、
オテントーを独断で薩摩名義をよそおうかのように
購入しました。当時、最新式と思われていた、アーム
ストロング砲を搭載しており、後、山縣らの工作に
よって、長州藩特別会計から購入した形になったようです。
 小倉戦争では、このオテントーに軍扇をかざして、
指揮を高揚させたとあるようですが、高杉案としては、
小倉大島の急襲以外は、万事このスタンスでいたようです。
 労咳に冒されていたため、実戦には、不向きだったこと
もこの作戦を行なった要因の一つでしょう。
 最後に、こころの支えとして、野村望東に貰った
「観音経」と中国から持ち帰った観音像を常に枕もとに、
置いていたということです。
 実際、朝廷から左遷されても皇室を思った菅原道真を
尊敬し、隊旗にするほどで「菅原大神」は信仰といって
も過言ではなく、観音信仰は、墓を守るにも必要と家族
も言うほどではありました。
 後、「天才軍略家」と維新政府で信望のあった山形有朋
は、奇兵隊総督として大分にも出兵し事態の収拾にあたって
いました。
 小倉口では、兵器の購入担当であった前原一誠が、小倉
正面を干城隊を指揮して攻勢を掛け、翌年にまでずれ込んだ
講和交渉に乗り出し、事態の収拾を図っています。
 海軍総督という役職は、確かめられませんでしたが、上海
留学以来の観音経を、念じ仏としていることからも解るように
現在でも、旧海軍関係者にはたたっているようです。
 このあたり、まさ、マサ?という学習院関係の女性が、
深く係わっているようです。
 母、旧姓大西ミチは、学習院用掛の妻という役柄で、多く
の証言を残しているようです。
 この大西ミチの父は、大西将曹という人でおそらく、大西
将軍の親戚なんでしょうね。
 これには、雅子さまもびっくりでしょうね。
 まあ、これで、心身症も治るでしょう。お大事に。

 江戸通
[2006年02月05日11時57分]
お名前: 高杉家の家紋
 高杉家の家紋は、安芸国探題の武田元繁に由来し、
毛利家に仕えた武田小四郎春時が、高杉姓を名のった
ことに発し、武田菱である。
http://www.takedajinja.or.jp/2_map/map.html
 高杉家は、八組に属し200石を領有したとあります。
上海に留学し、僚友陳汝欽に数々の詩を送っています。
 その一つ、
 桜山七絶 
  落花斜日恨無窮
  自愧残骸泣晩風
  休怪移家華表上
  暮朝欲払廟前紅

  奇兵隊の招魂場に送った、余生はかくありたいとという詩
 です。
  江戸通

[2006年01月27日21時23分]
お名前: 江戸通
 安倍晋三さんが、吉田松陰の「至誠」を掲げ、事実上の
総理出馬宣言をしたと見られています。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060121ia23.htm
 松下村塾の竜虎と謳われた、高杉晋作を取り上げて見たいです。
 http://map.msn.co.jp/mapmarking.armx?smode=1&zm=12&la=131.23.45.2&lg=34.24.30.8&mode=3&x=164&y=167
 天保十年八月二十日、呉服町、菊屋横丁に生まれました。
 上記URLは、最近の地図によります。
 「今日死を決するの安心は。四時の循環に於て得る所なり」
 これは、故安倍晋太郎氏の葬儀に於送られた言葉であります。
安倍晋太郎氏は、志半ばで亡くなったとよく、言われますが、
すべては、四季の営みによるもので、まったく自然のなせる技で
あろうと言う意味に解釈されているようです。

 江戸通

 

[2006年01月22日11時06分]
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