テーマ:東アジア史における日本史

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お名前: 広嗣
 今回は約150年ぶりに「再開した」とされる421年の倭王讃に始まる「倭の五王」についての話にまず話を戻します。

 「倭の五王」は讃に始まり、珍、済、興、武の5人を指すとされ、それぞれ定説では日本の天皇に比定されています。定説では比定する天皇の名前の一部を中国側が勝手に取り上げたとしています。果たしてそうなのでしょうか。中国は中華思想があるとされていますが、基本的に名前の改竄はしません。倭の側で名乗ったと広嗣は見ています。

 421年の遣使を中国では武帝が宋を建国した翌年ということで非常にタイムリーであると高校時代の参考書に書いていた記憶があります。当時の倭は、中国情勢に明るかった訳です。

 同じことは238年の邪馬台国の遣使にも言えます。「魏志倭人伝」に載る238年は誤りで翌年の239年が正しいとする説が有力ですが、238年12月に当時の皇帝が急死し、代わって即位した皇帝は1年間の喪に服し、一切の公事を停止しました。つまり有力説の239年に遣使してもこの年の12月に皇帝から返答を得ることは不可能だった訳です。

 238年は公孫淵が建国した燕が滅んだ年です。有力説は遣使の時期がまだ燕が滅ぶ前ということで238年説を否定していますが、この時期は燕の命運は既に尽きていました。このことを考えれば、遣使の規模は間に合わせと言える状況なのに対して魏の皇帝の返書が感激に満ち返礼品が豪華で卑弥呼に「親魏倭王」の印まで授与したのも理解できます。

 中国側の史書に最初に遣使の記録が載るのは、「後漢書」の倭奴国の57年の遣使でしょう。この年は後漢が成立して四半世紀以上経っていますので、建国祝いではないでしょう。翌年に明帝が即位していますので、光武帝の病気見舞いか何かだったのでしょうか。この際有名な志賀島出土の「漢委奴国王」の金印とされる印綬を光武帝は下賜しています。わざわざ印綬を授与したことを記録するのですから、この遣使に何か意味があったのでしょう。

 遅くとも紀元57年までには漢字を習得していた中国側の史書に現れる倭人は、どのように中国情勢を把握していたのでしょうか。楽浪郡との人的交流は大きかったでしょう。商人の往来はあり得ますし、留学生もいたのでしょうか。こうして得た中国情勢に当時の倭は敏感だった訳です。

 朝鮮半島南端にあった、後に日本史で「任那」と呼ばれることになる倭の領域も大きかったでしょう。任那は有力説では「倭の植民地」とされています。しかし元々朝鮮半島南端は倭の領域でした。周辺の三韓や高句麗、新羅、百済と合従連衡しながらあるいは同盟し、あるいは敵対しながら様々な情報を得ていたことが考えられます。


[2020年05月17日08時02分]
お名前: 広嗣
 書き込みに何故か漏れがあったので、訂正して追記します。

 終わり近くの「誤解しては困りますが」で始まる一節は、次のように書き込むはずでした。


 誤解しては困りますが、日本史は中国大陸やコリアの情勢に常に左右されていた訳ではありません。例えば日本史で戦国時代と呼ぶ時代は明でも朝鮮でも戦乱などの政治的混乱は起きていません。逆に1616年から1662年までの明と清が並立した時期は、日本も朝鮮も安定していました。尤も日本は鎖国という政策で対外的な接触を断って行きますので、そういう要素も考慮に入れる必要はあります。


[2020年05月09日08時33分]
お名前: 広嗣
 学校などで歴史を語る場合、通常「日本史」と「世界史」に分けて教えられます。しかしそう単純な分け方で良いのでしょうか。

 日本史の歴史上の事件は、それはそれで説明が付く事件でも、もう少し広く東アジア史の視点で見ると、また違った見方ができるのではないでしょうか。

 今回は「南北朝の合一」を取り上げます。

 南北朝の合一は、1392年(明徳3年)に行われたものです。1331年に始まった南北朝分裂から62年目の出来事でした。

 62年という年月の与えた国内的な影響が色々と足利義満に合一の仲介をさせたことは否めません。しかしこの1392年という年は、東アジア史上でもう一つ大きな事件が起きています。それが李氏朝鮮の建国です。余談ですが、朝鮮はコリア史上に幾つかあるために他の朝鮮と区別するために李氏朝鮮と呼ぶ訳で、国号としては朝鮮になります。

 この1392年という年は、単なる偶然なのか。長らく気になっていました。

 実は更に視点を広げると、中国大陸では明が興って25年目に当たります。通常朱元璋が明を興して元を倒したとされていますが、元は倒れてもその「残党」は残っていました。コリア(高麗)では倒れた元と新興の明のどちらに付くかで論争が起きます。最終的に李成桂が高麗を倒して朝鮮を建国しました。

 朝鮮建国と南北朝の合一のどちらが先かは分かりません。しかし中国大陸やコリアの政治的安定化が足利義満に影響を与えた可能性はあります。

 元寇以降の様々な国内問題から鎌倉幕府が倒れ南北朝時代に突入します。元は元で元寇以降の政治的な問題から遂に朱元璋により滅ぼされます。高麗も同様です。

 誤解しては困りますが、日本史は中国大陸やコリアの情勢に常に左右されていた訳ではありません。例えば日本史で戦国時代と呼ぶ時代は明でも朝鮮でも戦乱などの政治的混乱は起きていません。逆に1616年から1662年までの明と清が並立した時期は、日本も朝鮮も安定していました。尤も日本は鎖国という政策で対外的な接触を断って行きますので、そういう要素も考慮に入れる必要はあります。

 日本は言うまでもなく島国ですから、他の大陸の諸国と違って他国の政治的影響は受けにくいところはあるでしょう。しかし鎖国政策以降「歴史的・地理的視野狭窄」に陥っていないか、そんな心配があります。


[2020年05月09日08時27分]
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