テーマ:マッカーシーと共産主義者の真実

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お名前: カーター
Chapter 45: 異教徒の寺院の怪人
       (Samson in the Heathen Temple)

 その後敗北は彼を苦しめた。敗北は単に3対1の議決だけではなく、非公
式の罰が続いた。政界及びマスコミにとって、上院の重要な仕事には何の
関係もない彼は無視される幽霊のような失脚者となった。マッカーシーは、
問責決議の議決のちょうど30ヶ月後の1957年5月2日に亡くなった。
彼はアップルトンに戻りフォックス河の静かな丘に埋葬された。彼は48歳
で亡くなったが、かつて頑強であったことを考えると驚くほど若かった。

 マッカーシーの行動が国を釘付けにした5年間は、彼は国の最高権力者と
である二人の大統領、官僚帝国、議会の恐ろしい敵、左翼のロビイスト、マ
スコミの大群、テレビ、ラジオなどに標的にされ、死闘に追い込まれた。ア
メリカの大衆からモンスターであると見られる一方で、これによる心理的な
ストレスは想像を絶する。多く語られているように、そのために飲酒に頼る
ようになったことはあり得る。耐えられない重責により彼は健康を害し、死
に至ったのである。

 彼の死後に論文などを保存する者はいたが、後継者も政治的な活動を受け
継ぐ者もおらず、彼の未亡人のみが歴史に彼の名を残そうと努力した。冷戦
に関連したマッカーシーの研究の大部分は彼の政敵によるものである。少し
の例外を除いてマッカーシーの時代の歴史あるいは伝記と称するものが、数
人の評論家により書かれている。彼の敵対者の見解が、重要な事実が否定さ
れ、歪められ、抑圧されて事実として示されている。50年間に渡って、彼
の悪人のイメージが積み上げられたのである。通常のマッカーシーの扱いは
真実ではないのである。

 彼の記録は、タイディングズ、国務省、ジョー・ウェルチ、スティーブン
・アダムスらの政敵の記録に比べて整えられねばならない。彼は正しく政敵
が間違っていたのだ。ジョン・スチュアート・サービス、ジョン・カーター
・ヴィンセントらのチャイナハンズを正当化するだけでなく美化する本がた
くさん出ている。全盛期のマッカーシーは、アメリカの無益なアジア政策を
批判した重要な人物であった。1950年代はこの損害を修繕する時代であ
った。その意味では、マッカーシーは敗者ではなく勝者であった。冷戦の歴
史で、ホワイトハウス以外で彼以上にインパクトを与えた人物はいない。

 他にも成果がある。共産党のスパイであったメリー・ジェイン・キーニー
は国連での仕事を失い、ソ連のスパイであったソロモン・アドラーは財務省
を辞職し、ロークリン・カリーは連邦職員をやめ放浪した。

 1953年〜1954年にかけてのマッカーシーの調査で、政府の政策で
重要な変化があったことはあまり知られていない。国務省のファイル、ベー
カーウエスト(VOA)の事業、海外の図書館の本、ペレスとモスにより提案さ
れた国防省の安全保障の緩みなどが改善されたのである。1953年の始め
にはアイゼンハワーとその部下にも良く知られているロバート・オッペンハ
イマーの追求があった。

 マッカーシーに敵対し、問責決議を実行した理由には、異なった理由があ
った。ルーズベルト及びトルーマンの時代に共産主義が浸透したことで、マ
ッカーシーは民主党にとってとげであった。マッカーシーが上げた抗議の声
は民主党にとって有害であり、トルーマンが彼を妨害し事件の真実をかくそ
うとしたのである。わかりにくいのは共和党のホワイトハウスが問責決議を
行ったことである。マッカーシーが演説した問題はアイゼンハワー大統領の
政府のものではなかった。しかし陸軍の聴聞会では同胞同士の論争となった。

 ホワイトハウスはマッカーシーを無きものにしようとしたが、その理由は
大統領とその側近が、マッカーシーが党を乗っ取り1956年の選挙で大統
領になろうとしていると考えたからである。その憶測は現実的ではなく、そ
の証拠もない。しかし1954年のギャラップの調査では50%の有権者が
マッカーシーの意見に賛成していたのだ。
 
 マッカシーが直情的ではなく、判断には繊細で賢いところがあれば良かっ
た。彼に敵対する人達はスマートで、強くうまくやった。マッカーシーの全
記録、政治的な闘争を見れば、彼には欠点があったが、彼は善人であり誠実
であった。彼は強い意志で国内外の共産主義に抵抗するように国家に要求し
た。彼が点けた火は、怠慢な支配階級や多くのスパイにショックを与えた。
最後に政治的には彼は瓦礫の中に滅んだ。しかし、ソ連との闘争の最終章で
は、まだ瓦礫にまみれているが、彼が勝利したのである。


[2018年02月09日22時25分]
お名前: カーター
Chapter 44: 判決が先で、評決は後で
       (Sentence First, Verdict Later)

 マッカーシーをゴルゴタへの道を歩ませたのは上院議員のラルフ・フラン
ダースであり、後にマッカーシーを問責決議を後に行う基礎を作った。フラ
ンダースはマッカーシーに他の非難をしており、マッカーシー、コーン、そ
してシャインは3人ともホモであるため、彼らの奇妙な行動の説明がつくと
言うものである。また、マッカーシーがヒトラーに似ているとした。

 彼が誰かが考え出した批判をオウム返しに言うのは、フランダースが彼の
思いつきか上院の控え室で渡された何かによるものだったかもしれない。そ
の後フランダースは33項目の非難のリストを作り、問責決議の主要な書類
となったのである。ウイリアム・ノーランドとへーマン・ウェルカーに質問
されて、フランダースはすべてはNCEC(議会効率化委員会)より入手したも
のだと認めた。8項では、マッカーシーは委員会の同僚のヘンリー・ジャク
ソンにスパイを派遣したと述べている。マッカーシーは否定し、ホーマー・
ケープハートはフランダースに証拠を尋ねた。フランダースは、その非難は
新聞で読んだがそれ以上は知らないと答えたのである。

 要約にはアニー・リー・モスのケース、ツヴィッカー将軍、マンモスのメモ
を持っていたこと、アイゼンハワーの命令への抵抗などが含まれていた。そ
れはNCECが思いつくすべての作品集であった。そのリストは、マッカーシー
が問責決議をされるべきだと言う考えが先にあり、結論を支持できるように
種々の項目が集められたのである。多くの非難には、全体として平然と記録
の事実を無視していたのである。それでも、フランダースの非難にフルブラ
イト上院議員とオレゴンのウェイン・モースの非難が加わって合計46項目
になった。こうして陸軍ーマッカーシー論争におけるムント委員会の報告書
が1954年8月30日に提出されたのだ。次の日からマッカーシーを被告
席において問責決議の聴聞会が始まった。

 陸軍ーマッカーシーの調査及び問責決議聴聞会は共和党の監督下の上院で
なされた。民主党の大統領であれば、彼は上院の共和党の支援を当てにでき
たであろう。現在は共和党の政府が彼に反対し、共和党のお偉方はこてんぱ
にされた同僚を支援するよりも共和党の大統領と共に働こうとした。彼らは
アイゼンハワーに忠誠を誓い、ニクソン副大統領に委員会で選出されていた。
 
 46項目の多くは道端に捨てられるような根拠の弱いものであった。それ
の重要な意味は、それらがマッカーシー以外の誰にでも当てはまることを無
視していたことである。精査されると46の内の44項目は、退けられた。
唯一残ったのは、ジレットの調査に対するマッカーシーの反抗及びツヴィッ
カー将軍への攻撃であった。ツヴィッカーの件は、ツヴィッカーがマッカー
シーの怒りを買うよう促したと言う情報をケース上院議員が得てぐらついた。
残ったのはジレットの調査の件であった。マッカーシーの勝利と言ってもい
いくらいだった。

 アーサー・ワトキンスの調査委員会はアイゼンハワー大統領に支持された
が、マッカーシーはワトキンスの調査に反抗し、「意図せざる共産主義者の
お手伝いをしている」ことで彼の調査委員会を脱線させていると批判した。
最後に上院の威厳を損ねるものとして新しい問責決議が起草された。そして
マッカーシーの非難に賛成するものが22対67で可決された。もちろん、
マッカーシーがワトキンス委員会について言ったことは、フランダースがマ
ッカーシーに言ったことほど悪いものでもなく、厳しいものでもなかった。
しかしワトキンスが正しく理解しているように、彼らはフランダースの問責
決議をしなかった。

[2018年02月09日22時16分]
お名前: カーター
Chapter 43: 沈黙の音
       (The Sound of Silence)

 ルーズベルトやトルーマン大統領により、特に安全保障に関わる重要な記
録によるアメラジア事件などの事実が隠蔽されて来た。しかし、アイゼンハ
ワーの政権と公正委員会はまだ言論抑圧の策は控えていた。この点でアイゼ
ンハワーの政府と初期の共和党の意見とは一致していなかった。

 1952年に選挙では共和党はトルーマン政権の秘密政策を非難していた。
1948年の言論抑圧命令は、多くの証拠があるのにスキャンダルの隠蔽で
あると何度も非難されていた。しかし、アイゼンハワーとマッカーシーの論
争が始まると、新政権はトルーマンの政策に頼ろうとして、マッカシーとツ
ヴィッカー将軍(マンモス基地の証人)をだまらせようとした。

 5月17日ホワイトハウスは、職員の間の内部の会話、会合、文書の記録
の提供を禁止するとのアイゼンハワーの書簡を国防省に通達した。これには
1948年のトルーマンの大統領秘匿令も含めて、国家の設立から時代毎の
の大統領令の歴史も添付されていた。かつて冷笑されたトルーマンの行動は
「大統領の自由裁量で重要書類の引渡しが可能であるとする伝統的な見解」
となったのである。

 マッカーシーを含めて上院議員にとっては不満であった。彼は、「政府で
の共産主義の浸透に関する聴聞会を終わらせたのは誰の責任かを明らかにす
ることである。」と言った。マッカーシーは、司法長官のブラウネルと副官
のウイリアム・ロジャーズが議論封じの会合に出ていたので、自らの行動を
隠すために提唱したのではないかと考えた。マッカーシーにとって通常のル
ールは完全に消えてなくなった。ジャーナリストのクラーク・モレンホフは
「マッカーシーに悪いことは国にとって良いことだと書いている。」

 ワシントンポストは、「憲法の下での大統領には、議会の秘密、大統領の
情報、公衆の利益に見合わないものを明らかにすることを公表しないと言う
権限があることに疑いはない。」と書いた。電話記録を詳細に検討した大統
領補佐官のウィリアム・エワルドは、論争となっている戦略的な理由から書
類は大統領令により遮断されると述べた。

 マッカーシーはこれに対して「いくら秘匿令が発せられても、連邦職員の
間違った行動の証拠を隠すための憲法的、また法的な保証はない。職員は収
賄、腐敗、共産主義、反逆、また忠誠心がない場合は、情報を出す義務があ
る。」と述べた。しかし、このマッカーシーの意見に対して、フルブライト
を始めとした上院議員は、上院で告発すべきだと述べた。ウエイン・モース
らによれば、これは違法であり大統領令の侵害であり、また権力分立の大統
領の行政権に反するものであった。

 アメリカの法律にはもう一つの法があって、憲法の考え方により大統領に
も承認された両院により通された制定法がある。この種の法は、マグナカル
タに遡るアメリカの憲法制定の際の主要な実体で、アメリカのシステムの本
質であると考えられた。マッカーシーの演説では、1948年に当時陸軍に
より再度制定され何十年も本に載っている明白な制定法が、主題となってい
た。それは公務員法である。この法は「合衆国公務員に採用された職員の権
利は、個人であれ団体であれ議会に請願し、情報を一方の議院にあるいは委
員会に提供するが、否定あるいは干渉されるべきでない。」と言うものであ
る。アイゼンハワーの言論抑圧命令は違法なのである。さらに議論となった
ので、大統領令は制定法を無効にできるかと言うことである。もちろんノー
であるが当時はイエスであったのである。

 1954年にリチャード・ニクソンは当時副大統領であり、アイゼンハワ
ーと議会の右派とのまとめ役を引き受け、大統領特権の論争で重要な役割を
担う機会があった。しかし、ニクソンは彼が学んだと思ったことは間違いで
あった。ウオーターゲート事件では、ニクソンは大統領特権を行使すること
はできなかったのである。このように考えると、行政権を侵害したのはマッ
カーシーではなく、マッカーシーを侵害していたのが行政権であった。

 政府はハリー・デクスター・ホワイトの件についても、FBIからの多くの
情報を公開して来た。これらの開示は司法長官の1953年のシカゴでのス
ピーチでなされ、その後上院でも証言された。加えてFBI長官のフーバーは
ブラウネルに続いてその事件を詳細に説明することができた。このブラウネ
ルの情報公開の目的は明らかに党派的であり、前大統領のトルーマンによる
安全保障上の機能停止があったことを示すとともに、多くのケースの否定に
対する反論であった。

 1954年の5月31日にアイゼンハワーはニューヨークのコロンビア大
学で「いつの時代でも人間の知る権利とそれの使用とは制限されるものであ
る。同じ基準での人間の自由は消え去った。」と述べた。メディアは同意し
たが、マッカーシーにとっては拒否であった。


[2018年02月07日22時45分]
お名前: カーター
Chapter 42: 良識がないのですか
       (On Not Having Any Decency)

 マッカーシーと陸軍の論争がその得失により決まるとすれば、多くの失敗
があったがマッカーシーの勝利である。

 共和党の意見は、スティーブンスとアダムスがマンモス基地での調査と聴
聞会を終わらせるために努力したと言うものであり、民主党の意見はコーン
がシャイン個人に特権と扱いを与えようとしたと言うものである。民主党は
共和党代表団以上にコーンを厳しく非難した。民主党によれば、コーンは限
度を超えて委員会に対するシャインの価値を不正確に伝えたと言われている。

 ジョー・ウェルチは聴聞会のおかげで、1950年代に現れたディケンズ
のような人物でその時代に有名になった。法医学的な方法で、風変わりで完
璧な役者を演じていた。ウェルチはすべてをメロドラマのように扱い、事実
や理性は明らかにイメージや印象の二の次となっていた。彼は法廷の達人で
はなかったが、彼は抜け目がなく彼の顧客がいかに弱いかを見抜いていた。

 マッカーシーのケースでは、三つのエピソードが示唆に富んでいる。

1.改ざんされた写真
 (省略)

2.盗まれた手紙
 聴聞会の始めにマッカーシーは、マンモス基地の安全保障に関連する2ペ
ージ半のメモを陸軍の諜報員から受け取った。これはFBI により陸軍の諜報
部へ送られた25ページのメモからの抜粋であり、マンモス基地のアーロン
・コールマンらのデータをまとめたものであった。
 
 しかし、このメモはアイゼンハワー委員会らの助けを受けたウェルチの主
張で、事件の証拠として使うことを禁止された。価値のないものとされた。
代わりにウェルチが強調したのは、マッカーシーがどうやってメモを入手し
たかであった。ウェルチは「盗まれた手紙」としてこの議論を続けた。これ
に対して、前例により上院調査委員会は秘密情報は出所を明らかにする必要
はないとした。
 
 メモの重要なポイントはマンモス基地でアーロン・コールマンらの問題に
ついてFBI が陸軍に警告しようとしたことであった。特に重要なポイントは
「アーロン・コールマンーRのスパイ」とレポートに表題がついていたこと
で、オーウェン・ラティモアのケースで見たようにRはロシアを意味する。

3.フレッド・フィッシャー
 ウェルチはフレデリック・フィッシャーの件でも些細なことに興味を示し
た。フィッシャーはウェルチのボストンの法律事務所の若い弁護士であった
が、ワシントンに来てスティーブン・アダムスのケースを支援していた。フ
ィッシャーは 共産主義団体のNATIONAL LAWYERS GUILD に所属してい
たのでボストンに戻された。

 しかし彼の名は聴聞会に出て来て、ロイ・コーンとウェルチとは論争とな
り、ウェルチは誇張して、コーンが陸軍の共産主義者についてロバート・ス
ティーブンスに直接連絡するのに怠慢であったと言った。ウェルチがこの主
張を繰り返したので、マッカーシーが割り込みフレッド・フィッシャーの事
を持ち出した。委員会で働いていたフィッシャーが共産主義者の団体に属し
ていたと言うのだ。ウェルチはマッカーシーを攻撃して、「残酷にも若い青
年のフィッシャーを傷つけるのか。あなたには良識がないのか。もうあなた
と議論しない。」と言った。

 ウェルチが涙したので上院の聴衆の拍手がやまなかった。そして、マッカ
ーシーの道徳的な失敗と見られた。フィッシャーはすでにNATIONAL LAWYERS
GUILD に属していたためにジョー・ウェルチにより解雇されていた。これは
マッカーシーとウェルチの論争の6週間前の4月のことであった。


[2018年02月04日22時25分]
お名前: カーター
Chapter 41: At War with the Army
(陸軍との暗闘)

 1944年にはニューディールから決別しようとする動きがあり、同時に
軍隊でも非米委員会のトップに専門家であるロバート・ストリプリングが調
査員長に採用された。彼は既婚の31歳で安全保障に係わる議会の仕事をし
ており、徴兵を免れていた。ストリプリングは、彼を徴兵させるべきだとの
大きな圧力があったことを認めている。

 1953年には他にもう一人注目すべき人物がいて、ロイ・コーンの友人
であるデイヴィッド・シャインが軍では有名になった。シャインはストリプ
リングとは異なり、無給の末端のボランティアのスタッフであった。しかし
彼はVOA やUSIS(国務省情報局)の調査では多くの仕事をこなした。

 1947年にシャインは椎間板ヘルニアで軍役を免れ、軍の運輸局のパー
サーの仕事を得たが、1953年の9月の26歳の時にマンモス基地での調
査で基礎を作った。この時ジャーナリストのドルー・ピアソンは、彼を徴兵
に入れようとした。他の新聞もシャインが責任逃れをしているとして非難し
たので、彼は11月に入隊した。

 コーンもマッカーシーもシャインが徴兵されたのは、マッカーシー委員会
で働いているからであることを理解していた。しかし陸軍長官のロバート・
スティーブンスが1954年1月に陸軍省の職員であるフレッド・シートン
に言ったように、シャインは年齢で不適格になる直前に徴兵されたが、マッ
カーシーと仕事をしていなければ、徴兵されなかったであろう。

 ジョン・アダムズは委員会とスティーブンス長官との連絡役を受け持って
いた。アダムスとコーンは時にフランク・カーとも友好関係を保ち、しばし
ば夕食をしたりしていた。程度は異なるがマッカーシーとスティーブンスの
間にも同様の関係ができており、シャインやその家族とも同様であった。こ
のような状況でオフレコの誰がどうしたなどと言う会話がなされ疑念や怒り
の衝突の源となった。

 シャインはディクス基地(ニュージャージー)で訓練を受けていたが、夜
と週末は休暇を与えられ、委員会の仕事をしていた。軍の業務に影響がない
と言う前提であったが、これが後に問題になる。1月21日の司法省でのミ
ーティングで、ジョン・アダムスはマンモス基地での調査でシャインに特典
を与えるようにコーンから陸軍に圧力があったと述べた。3月10日には、
陸軍は非難を公にして、コーンやマッカーシーらがデイヴィッド・シャイン
に特典を与えるように委員会に圧力をかけたと述べた。

 4月の末に委員会が開催され、新聞やテレビなどのマスコミ、議員、陸軍
のお偉方が集まった。陸軍がまずコーンがシャインに特典を与えようとした
と述べた。証人はレーバー将軍である。次にウオルター・ベデル・スミス将
軍はコーンと友人であったが、コーンが訪ねて来てシャインは差別の犠牲者
であると言ったと証言した。そして彼らはシャインのCIA との関係について
も議論した。二人の将軍はコーンがシャインを熱心に監視しているようだと
した。そして両将軍とも陸軍による非難を支援した。

 個人的なメモとは異なり、同時に正確なデータのソースが軍にも存在して
いた。主要人物による関連した問題について、続けて録音された電話の記録
が存在した。スティーブンスの電話は録音されており、マッカーシーからの
圧力よりも陸軍長官の怒りを静める様子の方が大きかった。その録音記録に
は、マッカーシーあるいはコーンに向けられた明白な証拠はなかった。

 コーンのシャインの状況についての関心は、疑いなくスティーブンス、ア
ダムスに対してそれほど攻撃的ではなかった。シャインに焦点をあてられた
戦略は、聴聞会を終わらせようとする手段に過ぎなかったことを示している。
ワシントンの政治は当時も今も、現実は感覚の二の次として作用している。


[2018年02月02日22時47分]
お名前: カーター
Chapter 40: The Legend of Annie Lee Moss
(アニー・リー・モスの話)


 マッカーシーの被害者を象徴するケースは、アニー・リー・モスで陸軍で
働いていた黒人女性である。当時の典型的なマッカーシーによる殉教者であ
ったと評論家や歴史家により描かれている。モス事件で重要な働きをしたの
が、FBI の証人であるマリー・マークウオードで、沈黙の戦いで無名の歩兵
としてソ連を支援するアメリカ人のスパイに対抗するため FBIにより指揮さ
れていた。1942年にマークウオードは、共産党内部を覆面捜査官として
FBI により採用された。外見上は、彼女は共産党のコロンビア地区の会計係
となり、彼女は党の中に誰がいるかの情報をFBI に報告した。

 やげてマークウオードは、共産党及びスパイを監視するために議会により
設立されたSACB(破壊工作管理委員会)の専門職員として採用された。これ
には、共産党員はマークウオードに激しく反撃した。マークウオードは、ア
ニー・リー・モスが共産党のメンバーであるとFBI に確認の報告をした。こ
の情報は、モスがカフェの女給から通信基地の暗号職員に採用され機密情報
を扱うことができたことから重要である。

 1954年の2月末にマークウオードは、マッカーシーにモスがデイリー
・ワーカーの会計係をするD.C.(コロンビア)地区の共産党員であったと証
言した。そして、1945年にモスはGAO(会計検査院)に勤務したため党
員からはずれたが、1950年には暗号職員の地位を得た。モスがマークウ
オードの前に現れた時、緊張していたが他の被疑者のように黙秘権を使用せ
ずに、共産党員ではなかたったと否定したのだ。人違いであり、被疑者のア
ニー・リー・モスは別人だと言ったのだ。このモスの説明は、通常の歴史で
決定的な証言として引用される。モスによれば、ワシントンには3人のアニ
ー・リー・モスがいるとのことであった。

 この証言が広まったのは、モスの否定及びスチュアート・シミントンのジ
ェスチャーを含む聴聞会の内容がテレビで報道されたためである。最も有名
なのがCBS のエドワード・R・ マローによる番組であった。モスに対する悪
いイメージを強調するために、ロイ・コーンがマークウオードの証言を確認
する証人が他にもいると主張をした時に、彼はマクレラン(民主党)により
叱責を受け沈黙させられたのである。この話はメディアで再三紹介されて来
た。

 ワシントンD.C.の電話帳には3人のアニー・リー・モスがいると言う主張で
あるが、モス自身が秘密を漏らし、1940年に住んでいた住所を述べたの
である。マッカーシーとのやり取りでモスは、「72R 通りに引っ越してか
らは、共産党の新聞はもうとっていない。」と言ったのだ。このコメントは
重要となった。1958年にのレポートでSACBは、共産党の記録では194
0年代の半ばに72R通りのアニー・リー・モスは党員であったと決定した。

 さらにFBI のファイルは民主党の代表団は複数のアニー・モスがいると言
う議論をしている聴聞会の前にFBI のデータをすべて知っていた。このこと
は1954年の2月24日のFBI 職員のロー・ニコルスによるメモに詳しく
書かれている。ニコルスはヘンリー・ジャクソンやロバート・ケネディーに
も話している。

 1954年の8月に軍は彼女の解職した。「モスは共産党員の名簿の19
43年の37269番である。」と言う理由である。彼女を褒めていたスチ
ュアート・シミントンは、軍の告発が公になると、突然心変わりをした。彼
はマッカーシーに手紙を書いて「モスの真相を探るべきだ。彼女が間違った
証言をしたのなら、司法省に持ち込むべきである。」と述べている。

 さらにモスが通信基地の業務を支障なく行えたかについて疑問があった。
3月の聴聞会でシミントンとマクレランは、彼女が扱っているメッセージを
問題なく扱うには知識が不足しているとした。しかし、彼女が不動産業者の
資格を持っていることを考えても彼女が無知であるとは思えないのである。
彼女は扱っている資料から学び、暗号文も通常の文章の双方で仕事をしてい
たのである。人間違いであると言う請願も嘘である。マークウオードのモス
についての証言を再検討して、SACBは再度覆面調査官により彼女の証言は正
しいと証明されたと述べた。

 しかし間違った情報もあり、これは2005年のジョージ・クルーニーの
映画で「グッドナイト、グッドラック」であり、1954年のマッカーシー
とエドワード・R ・マローの対立に基づいている。クルーニーはモスが共産
主義者であったことは認めているが、映画でマローが強調したのは、彼女は
告発者に対峙する権利があると言うものである。モスの告発者に対峙する権
利はマッカーシーにより否定されてはいない。モス自身が病気のため証言が
できないと聴聞会への参加を断わったのである。その後も証言台に立てない
と弁護士は述べた。そしてワシントンの電話帳には3人のアニー・リー・モス
はいなかった。


[2018年01月22日22時14分]
お名前: カーター
Chapter 39: A Tale of Two Generals
(二人の将軍の話)

 マンモス基地での重要な人物は、司令官であったカーク・B・ロートン少
将であり、彼は1953年10月中旬の執行委員会のマッカーシーの前で証
言を行った。彼はマンモス基地での出来事について内部情報をもたらし、マ
ッカーシーの調査についても判断を下したので、後に付けを払うことになる。

 彼は1951年にマンモス基地に赴任してから基地の安全保障上の問題に
気づきこれを是正しようとした。しかし、基地を安全なものにしようとする
彼の努力は上官の抵抗あるいは無関心により失敗した。ロートンはさらに無
謀にもマッカーシーを褒めることで事態をさらに悪化させた。会話は次の通
りである。

 マッカーシー:「有効な結果を得られたのは、ほんの2〜3週間前だと言
         うのはどうしてかね?」
 ロートン  :「はい。そうでなければ良かったのだが。私はこの件を良
         く知っているから。でも私はスティーブンス陸軍長官の
         下で働いているからね。」

 しかし陸軍顧問のジョン・アダムスは同室におり、すぐにこの証言及びロ
ートンがマンモスでのマッカーシーの実績で褒めた(陸軍自体は失敗した)
こと、スティーブンスについても陸軍の高官への言及もなかったことを陸軍
長官のロバート・スティーブンスに伝えた。

 最初はスティーブンスは委員会で仕事をしたいと言ったが、聴聞会がだら
だら続き、メディアが派手に書き立てるとスティーブンスやお偉方にとって
は、聴聞会は困惑の元となった。民主党政府でも安全保障上の緩みはあった。
しかし、新しい形で継続的に緩んでいることの証拠が出たことで、マッカー
シーへの敵意に拍車をかけた。

 スティーブンスはビジネスで成功し、反共の保守主義者であったから、マ
ンモス基地の反乱分子を一掃したかったし、マッカーシーといっしょに仕事
をすることもできた。しかし、マンモス基地の問題が明らかになると微妙な
立場にいたので、明らかに被害を封じ込めようと上から圧力をかけたのだ。
1953年からスティーブンスはマンモス基地の否定的な新聞に反論をし始
め、陸軍が知る限りスパイは存在しないと言った。第二次大戦中及び戦後に
は問題があったが、すべて適切に処置された。当時の否定的見解と同じく、
この問題は歴史記述の主流となりマンモス基地調査の真実であると述べられ
ている。

 しかし、シーハンによれば実際は重大な安全保障上の問題は第二次大戦で
はなく1951年〜1952年に始まっていた。アンディ・レイドによる報
告もあるが、世界的な専門家であるロートンにより論点が確認されていた。
スティーブンスの指示でロートンはマンモスの労働者に近づき、聴聞会にも
出席し委員会と連携していた。ロートンは重大な困難に直面した。マッカー
シーはロートンの発言を賞賛したが、ロートンは「昇進に差し支える」と言
った。実際に彼は昇進が除外され、発言するとどうなるかを知った。

 ロートン将軍に次いで重要なのが陸軍顧問のアダムスであった。穏健な共
和党員で、1952年の共和党の勝利でスティーブンスの推薦で陸軍顧問と
なった。アダムスは、マッカーシー、コーン、マンモス基地、ロートンらと
の議論に忙しくなった。彼が後に述べたように、マンモス基地には重大な安
全保障上の問題はなかったし、被疑者と思われた人達は単純な犠牲者であっ
た。彼の仕事は誰も停職にはしないことであった。彼の見解は国防総省のそ
れであり、マッカーシーに敵対するものであった。

 国防総省のマーシャルの部下であるアダムスは、1950年に国防次官補
にアナ・ローゼンバーグを選任する際に支援した。マッカーシーのスタッフ
は元共産主義者の証人であるラルフ・ド・ソラに接触し、1930年代に彼
女を共産主義者のジョン・リードクラブの会合で見たとの証言を得た。彼女
は怒って否定し、別のアナ・ローゼンバーグであると述べ上院は承認した。
アダムスはローゼンバーグを支持したが、マッカーシーのSCIA(通信諜報部
隊)に関するメモはローゼンバーグの部下となった職員の疑惑に言及してい
た。

 マンモス基地での疑惑のある職員を免職にする程度を軽くするようにアダ
ムスがロートンに圧力があった。二人の電話の会話をロートンは次のように
記録している。「安全保障のリスクとして免職にしようとしているケースを
撤回すべきだとわかっているだろう。」そしてロートンが言った。「撤回し
ない。長官が責任を取るべきだ。」9人の被疑者がいて、上司は撤回を要求
したがロートンは拒否したのである。後にスティーブンスは「ロートンが何
もわかっていない人達を停職にしようとしているが、我々は彼らを戻さなけ
ればならない。彼は、隣の人が共産主義者で何もいいことをしてくれないか
らと言って仲間を停職にしようとしている。」と言った。

 ロートンは基地の職員にリスクの問題についてオフレコの説明をしたが、
内容がもれてしまい新聞記事に載ってしまった。その時にマッカーシーを褒
めたたえたのであった。ロートンは同時にこの問題はCCNY(ニューヨーク市
立大学:労働者階級の子弟が多い。)の卒業生から始まっていると述べた。
しかし軍の上層部では逆転が起ころうとしていた。ロートンは自ら疑惑のタ
ーゲットとなり解任の対象となろうとしていた。

 しかし、ロートンを解任すればマッカーシーからの反撃が予想されるので
アダムスはコーンに相談したが、予想した通りでロートンはしばらく安全で
あった。その代わり目に見えない事態が進行しており、ロートンは聴聞会に
出るな、マッカーシーと共同するなと命令され、健康であるのに病院に行け
と言われた。さらにマッカーシー陣営はロートン将軍が現れれば、さらに罰
を受けるだろう、長年の軍での経験から得るものも失うことになると言われ
た。ロートンは昇進から除外され、ウオルターリード病院に送られ1954
年の夏に司令官を解任され8月に退職した。

 もう一人の安全保障上の混乱に陥ったのがニュージャージーのキルモア基
地の司令官のラルフ・W ・ツヴィッカーであり第二次大戦の退役軍人であっ
た。マッカーシー側は垂れ込みを受け、委員会のジョージ・アナストスはツ
ヴィッカー将軍に問題人物がいると言う電話をした。それは朝鮮戦争に出征
し大尉に昇進した歯科医のアーヴィング・ペレス博士であった。彼は記録に
よれば共産党員であったが、ペレスは否認した。
 
 9ヶ月経って、軍のお偉方は問題に焦点を当て、ペレスは温情的な扱いを
受けて大佐に昇進したのだ。これを受けて信じられないとしてマッカーシー
は1月30日にペレスを聴聞会に呼んだ。ペレスは覆面捜査官ルース・イー
グルによりニューヨークの共産党員であり、クイーンズの共産主義学校の卒
業生であることが確認された。彼は聴聞会では黙秘権を使用した。

 マッカーシーは彼の名誉ある退職をと軍に手紙を出したが、スティーブン
スはアジアに出張中であり、アダムスが手紙を受け取った。アダムスは名誉
ある退職を保留し、マッカーシーが要求することに反対した。2月18日に
委員会が開催されたが、マッカーシーは夫人の前日の交通事故でいらいらし
ていた。ツヴィッカーはのらりくらり言い逃れたので、マッカーシーは怒り
質問も横柄となった。マッカーシーが特に激高したのは、ツヴィッカーがペ
レスとの共産主義者とのつながりを知らない、また、ペレスがが黙秘権を使
用したことも知らないと言ったことであった。

 ツヴィッカーは最後に、ペレスは解職されるべきでないと答えた。マッカ
ーシーはこれを公にすることは、軍にとって非常に不名誉なことであると述
べた。ツヴィッカーはペレスのデータに無知であるとしても、ペレスについ
て知るべきことは知っていた。1953年10月21日ツヴィッカーは、ペ
レスは国家転覆に関する質問に答えないため、安全保障に関して合衆国陸軍
の存在としてふさわしくないと報告した。1953年11月にペレスが昇進
したので、ツヴィッカーはペレスが共産主義者であると言う手紙を書いた。

 ツヴィッカーは最初は委員会に協力的であったが、アダムスの圧力で情報
を提供するなと言われ、マッカーシーの前では頑固に否定したのだ。195
7年1月17日にラルフ・ツヴィッカーは准将に昇進した。ツヴィッカーは
新しい陸軍長官であるウィルバー・ブルッカーから汚名を晴らした殉教者で
あると認められ歴史の本に載っている。

[2018年01月16日21時50分]
お名前: カーター
Chapter 38: The Moles of Monmouth
(マンモス基地のスパイ)

 1953年春マッカーシーは秘密の電話を受け、安全保障に関わるメモを
見せられた。15ページのメモは1951年にFBIの報告書2ページ半に要
約されていた。テーマはニュージャージーの陸軍通信部隊のマンモス基地と
言う研究基地での演習に関するものだった。後に上院で報告されているが、
メモには34人の労働者がFBIの調査の対象となっていた。

 1953年の夏から1954年の春まで通信、材料、技術部門などの合同
の調査が行われたが、驚くべきことにマッカーシーと顧問のロイ・コーンに
対して違法行為であると言う陸軍の非難で調査は突然中止となった。マッカ
ーシーは調査で、国防省の通信諜報部隊(SCIA)での浸透及び違反に関する
データを集めた。1951年の後半では、部隊では警備がゆるく1951年
の後半には、共産主義に同調する者がいたとされる。重要で機密の書類がフ
ァイルから消え、戻って来なかったと10人の告発者は言っている。

 目に余る被疑者は地位からはずされた。しかし、告発者によると調査は突
然失速し、適切な処分は全くなされなかった。10人は議会に請願を出し、
1952年の始めに議会や世間で注目されたが、その後話題になることはな
くなった。
 
 SCIAでの混乱は10人の告発者に跳ね返り、高官らにより引き下がって静
かにするように言われた。叱責を受けたのがアレン大佐で、ジョージ・バッ
ク将軍から破壊的なグループを支持して混乱を起こし、警備の緩みを非難さ
れたことまた上官への忠義を怠っていると非難を受けた。

 マンモス基地では、秘密の軍事プロジェクト、レーダー、ミサイル、対航
空システムの他に電子兵器などの研究が行われていた。マッカーシー聴聞会
で最も聞かれたのがエヴァンズ通信研研究所であり、その他にFTL 連邦通信
研究所、RCA、GE などの防衛産業があった。このケースを経験したのはコー
ンであった。彼は5年半の検事として重要な破壊活動防止のケースを告発し
た。中でも有名なのがローゼンバーグ夫妻の裁判であり、原爆のスパイ行為
を告発し、有罪として死刑判決を下したことである。

 マッカーシーはローゼンバーグ関連の調査を行ったが、マンモスの安全保
障に関して、ニューヨークの第一陸軍本部のスパイ防止G2部門のベンジャミ
ン・シーハン隊長によりかなりの状況がわかった。シーハンの情報はかなり
新しく1951年始めの陸軍自体に関するものであった。陸軍内部の調査で
あり、マンモス固有のものからFTLでの特別調査であった。

 G2の調査でシーハンは、マンモス基地で多くの職員による重大な安全保障
の問題があること、また機密書類を扱う上での怠慢があることを発見した。
そして国の防衛、攻撃の秘密を扱う最高機密に関する書類が多くの技術職員
により個人の財産のように扱われていた。彼らは区別なくその書類を家に持
ち帰っていた。シーハンらはすぐにその職員を活動できないように、書類の
扱いを取り締まるよう勧告した。またマンモスではスパイ行為も行われてお
り、国防省のトップまでデータが送付され、G2の職員は「最近の通信部隊が
開発したものは北朝鮮の共産主義者の手の中にある。」と述べた。

 1952年に内部調査は終わり、シーハンらは結果を軍の上層部に報告し
たが、SCIAの調査と同じく奇妙にも突然に調査は中止された。シーハンは調
査を放っておくようにと、継続するなら叱責を受けると言われたのである。
SCIAの調査とアレン大佐の運命に似ている。

 マッカーシーの調査では、共産党がマンモスの研究所付近にショア・クラ
ブと言う特殊部隊を設立し、メンバーの中には旧マンモスの職員もいて情報
を盗んでいた。また、多くの安全保障上の被疑者がFTL などのマンモスのサ
プライヤーにも隠れていたのだ。一方で陸軍の上層部はこの問題についての
んびりと構えていた。

 この問題の看板男はアーロン・コールマンであり、マンモスでレーダー防
衛を担当していた。コールマンはニューヨーク市大学でジュリアス・ローゼ
ンバーグとモートン・ソベルとも同級生であった。彼はローゼンバーグとい
っしょに青年共産主義リーグ(YCL) に参加した。元共産主義者のナサン・サ
スマンによればコールマンはローゼンバーグとソベルらはYCL のメンバーだ
ったと証言した。コールマンはマンモスではオフィスの書類を取り出してい
た。調査員は、コールマンの住居で40枚以上の業務上の書類、機密書類を
発見した。陸軍の上層部の態度が示されたのは、コールマンのルームメイト
のジャック・オクンのケースであり、彼が1949年にマンモスを停職させ
られたことである。しかし、オクンはうまくやり復職した後に辞職した。

 エヴァンズ通信所の科学職員のバリー・バーンスタインのケースは同様に
共産主義者に協力したとの罪で停職となったが、復職しマッカーシー聴聞会
の時にはまだ仕事をしていた。

 3番目のケースは、1953年後半に通信部隊にいたサミュエル・スナイ
ダーで第一軍により停職とされたが復職し辞職した。しかし、マッカーシー
聴聞会の情報に照らすと国防省による好意的な判決は謎である。彼は共産主
義党員と言われていたエレノア・ネルソンと接触していた。
 
 アーロン・コールマンのケースを上回るのが、ジョセフ・レヴィツキーで
あり、彼は通信部隊およびFTLで働き秘密の地位に就いたが、ローゼンバー
グに取り入った。しかし、彼とローゼンバーグが共産党員かと尋ねられた時
には黙秘権を使用した。

 FTLの中枢で働いていたのが1951年に雇用されたハリー・ハイマンで
あり、彼はその後にマンモス基地の建築家、技術者、科学者、技能者連盟と
言う共産主義者の多い組合で働いた。元共産主義者のレスター・アッカーマ
ンらにスパイであると確認されたが、彼は答えなかった。

 さらに著名なFTLの被疑者はルス・レヴィンである。彼女は10年以上働
きハリー・ハイマンと関係があり、共産主義者であるとの証言もあったが、
レヴィンは返答を拒否した。

 マンモス基地での調査が始まり、アメラジアのケースと同じ様に秘密情報
が共産主義者の手に渡り、政府のデータが略奪されたことが明らかとなった。
どれだけの情報がソ連に流れたのかも分からないのだが、数千になることは
わかっている。アンドリヴェというソ連からの亡命者によれば、1940年
にはレーダーを含むアメリカの秘密が大量にロシアに持ち込まれた。一つは
マンモス基地、もう一つがRCAからである。

 驚くべきは東ドイツの亡命者の証言で、1950年代にロシア人と仕事を
していた時にマンモス基地の秘密のデータを見たと言うものだ。ロシア人の
科学者が「マンモス基地のエヴァンズ信号研究所から来たものだ。」と言っ
たと言うのだ。また、ロシア人はテネシー州のオークリッジの原子力の施設
のフィルムを見せたというのである。マッカーシーは陸軍士官と情報を交換
したが、軍のお偉方は何もしなかった。それはレポートは捏造であり亡命者
は撤回した、そして彼は信用できないと言われたからである。
 
 マッカーシーは1953年にジェームズ・ジュリアナを西ドイツに派遣し
ハラルド・ビットナーと言う技能者と会い調査させた。亡命者である証人は
撤回していなかった。彼は同僚とともにロシア人の科学者からアメリカから
の新しい情報があると言われ、同僚が「マンモス基地のエヴァンズ信号研究
所からのものですか?}と聞くと、「他にどこかあるかい?」との笑いが起
こった。教授がプロジェクターにマイクロフィルムを置くと、エヴァンズ信
号研究所の文字が数回見えたと言うことであった。最初のレポートは撤回さ
れてもおらず、捏造でもなかった。

 マッカーシーはマンモス基地とそのサプライヤーのネットワークの安全保
障上の混乱に愕然とした。多く知るにつれ、マッカーシーはマンモスや一軍
の職員の問題だけではないと確信した。シーハン隊長は問題を是正しようと
したし、マンモスの安全保障のチーフであるアンドリュー・レイドはアーロ
ン・コールマンを逮捕した。

 1953年秋のマッカーシーのスタッフであるジュリアナのメモによれば
マンモス基地の司令官のカーク・ロートンはリスクについて常に報告をして
いたが、安全保障委員会及び1950年の陸軍長官の手紙により、彼は一人
も停職にさせることができなかった。この状況下でマッカーシーは安全保障
上のリスクをひっくり返す調査委員会に注目した。状況は国務省で起こった
ことに良く似ていた。彼は1953年9月に陸軍のこの問題を提起した。

 彼の主要な関心は被疑者の問題ではなく、疑わしいと思われる人達に機密
情報を扱う許可を与える業務体系にあった。彼は誰がなぜそのような決定を
しているのか聞こうとして国防総省の調査委員会を召集した。しかし国防総
省の調査員はマッカーシーの前には現れなかった。この衝突は末端の出来事
ように見えるが、マッカーシーのキャリアで決定的なエピソードであり、謎
の多い出来事である。

追記: 

 ウェンデル・ファリー教授はハーバードはMITで物理学を教えたが、米政
府のレーダーの開発にも関わった。多くの学者と同じように彼も共産主義者
であった。共産主義者はレーダーなどの秘密のデータをソ連に渡したのだ。

[2018年01月15日22時55分]
お名前: カーター
Chapter 37: The Getting of J. B. Mathews
(J.B.マシューズの参加)

 J.B.マシューズは1953年には共産主義者のグループについては、世界
的な専門家になっていた。彼の専門性は彼自身がそのグループにいたことか
ら始まっている。マシューズは20以上のグループと関わっていた。しかし
1935年に共産主義者の団体が消費者調査で激しいストライキを行い占拠
する戦術に出たのを見て、目を覚まし徐々に運動から離れ転向した。

 マシューズは記録を集め、かつてない広範な共産主義者の名簿を作成した。
彼は下院で今後マッカーシーと同じ道を歩むことを宣誓した。有名なエピソ
ードとして、1938年にマシューズがマーチン・ダイスの前に現れ、共産
党がグループや、無名の人達を協力し合うようにしているかを指導した。こ
の時に、彼はシャーリー・テンプルの騒ぎを起こした。

 マシューズは、下院で無邪気で忙しい人たちは騙されて表面的には良く見
えるが良くみると何かがある左翼に名前を貸すと述べた。フランスの共産主
義のス・ソワール紙は一周年記念でハリウッドのクラーク・ゲーブルやシャ
ーリー・テンプルなどから言葉をもらっているが、彼らが共産主義者である
とは思わないとマシューズは言った。

 左翼の人たちは無実の人々をだますのがうまく、子役であったシャーリー
・テンプルの場合は、大人の代理人による署名であろう。映画スターなどの
有名人は名前を貸す場合には注意しなければならないと言う実例である。
 
 1953年の夏、マッカーシーはケネディーとコーンの対立を和らげよう
として、マシューズを小委員会の委員長にしようとした。マシューズは59
才で、コーンとケネディーの年を足したくらいであったが、6年間下院の調
査委員長を務め反共の専門家であると見られた。

 理論的には良いと思われても実際には良くない場合もある。マシューズは
保守的な「アメリカンマーキュリー」と言う雑誌に「教会の左翼」と言う記
事を寄稿した。記事は1953年7月に掲載されたが、マッカーシーがマシ
ューズを任命しようとした時だった。このことは、マッカーシーの敵にとっ
て天の恵みであり、マシューズにとっては悲しみ、マッカーシーには苦痛の
原因となった。

 「教会の左翼」には人目を引く「合衆国の共産主義を支持する最大のグル
ープはプロテスタントの牧師から成る。」との記述があった。マシューズは
記事でプロテスタントの牧師の名前のリストを載せたが、共産主義者のグル
ープに意図的でないにせよ名前を貸したものであった。彼は結論として「多
くの牧師は自由な組織に従属し、聖職者として宗教上の信念に従属している
とは言えない。ある意味、大多数が世界史における悪意の謀略に少数者が参
加することで困惑している。」と述べた。

 なぜそうなのか、どういう人達が参加しているのかと言う議論は起きずに
シャーリー・テンプルの時と同じように反応は扇動的で誤解の混ざったもの
であった。マシューズには左翼が牧師を操ると言う著作があったが、批判者
は読んでおらず記事は衝撃的であったようで、マシューズはプロテスタント
の牧師を攻撃したと大騒ぎを始めた。マッカーシーはカトリックであっても
関係ないのであるが、マッカーシーの敵は彼を反プロテスタントだとして抗
議の声を上げた。

 左翼にはモーリス・ローゼンブラットらのアメリカのファシスト的な要素
を攻撃するグループがいて、1950年にはNCEC(Nationa Committee for
an Effective Congress)を通じてマッカーシーを第二のヒトラーとして攻撃
した。マッカーシーがマシューズをスタッフ長に任命して、アメリカンマー
キュリーの記事が出ると、NCECは行動に出てマッカーシーとその同僚に抗議
し、マシューズは反プロテスタントの偏屈者だとマスコミなどリベラルな人
達に訴えた。その結果、マッカーシーはマシューズを辞職させなければなら
なくなった。

 大統領府もマシューズを非難したが、マッカーシーに打撃を与えるためで
あった。スピーチライターのエメット・ヒューズもキリスト教協会、ユダヤ
教協会、リベラル教会からのグループからのマシューズに対する抗議を求め
るホワイトハウスの意向を発表した。そしてヒューズの要請で、ニクソン副
大統領及び副司法長官ウィリアム・ロジャーズは、マッカーシーにマシュー
ズを辞職させると発表させた。

 もちろんマシューズは教会のリーダーすべてを非難したわけではない。そ
の反対で、批判されるべきプロテスタントの牧師は少数であり、多くの宗教
者は信仰にも国家にも忠実であると指摘していた。それでも変わりはなかっ
た。重要なことは、マッカーシーを批判することであった。マッカーシーの
敵は宗教的な対立をあおり、特にカソリックのマッカーシーに対する大統領
の感情を煽り立てた。ジョン・F・ケネディの大統領選挙の時と同じだ。

 マシューズの問題にも拘わらず、マッカーシー委員会は調査を続けた。
GPO (政府印刷局)は極秘の文書が集められる集会室で働いていたエドワル
ド・ロスチャイルドを共産党員であると確認した。重要なのはGPO の安全保
障の基準では、エドワルドのような人物でも職員でいられると言うことわか
ったことだ。忠誠心が必要ないのである。彼は海軍の核兵器の秘密のような
機密書類を見ることができたのである。

 ロスチャイルドは後に解雇されたが、彼はマッカーシーの前では黙秘権を
使用した。職員の解雇、配置転換ののちGPO の幹部は入れ替わり、GPO のト
ップにはレイモンド・ブラッテンベルガーが就任した。マッカーシーの行動
について、ブラッテンベルガー及びロスチャイルドの弁護士は感謝の意を表
した。
 
[2018年01月11日21時50分]
お名前: カーター
Chapter 36: Scott McLeod, Where Are You?
(スコット・マックレオドはどこに?)

 共和党の時代になって、ホワイトハウスとアイゼンハワーの内閣の間には
分裂があった。大統領のアドバイザーには、共和党政府として期待されるべ
き保守の傾向と一方に衝突を避けるため実践的な傾向とがあった。しかし、
左翼的な立場でリベラルな主張をして議会の保守派と衝突するものもあり、
マッカーシーをいかに扱うかについては異なった見解を取ることになった。

 この内部抗争の詳細は、タイムライフから派遣された大統領のスピーチラ
イターであるエメット・ヒューズによりもたらされた。彼はタイムライフ出
身の同僚のC.D.ジャクソンとともに共和党のより熱心なリベラルな見解を持
つことを明らかにした。「自分はニュー・ディールの世代であり、1952
年までは戦争などでできなかったが、できたら民主党の大統領に投票したで
あろうし、アメリカ政治については民主党員の仲間であり、保守のそれでは
ない。」と述べた。

 彼は、ジョン・フォスター・ダレス、国務省のチーフであるスコット・マ
ックレオド、そして財務長官のジョージ・ハンフリーを見下し、FDR 及びニ
ューディールの遺産に敬意を表した。ヒューズが共和党の政府で何をするか
に疑問が持たれたが、共和党の反対のイメージを作る努力もされた。しかし
長い民主党の時代の後に、共和党の古いタカ派的な保守的な道を進むことは
できなかった。
 
 現在では真実ではないが、1950年代から60年代の始めにはそんな考
えが支配的であり、マスコミ受けするリベラルな共和党のニューヨーク州知
事のネルソン・ロックフェラーやニューヨーク市長のジョン・V ・リンゼイ
らにより実現され、トルーマンーアチソン時代の政策が継続された。ヒュー
ズは、共和党の象徴であった。

 ホワイトハウスの近くには影響力のある人達がいた。ジョン・マックロイ
はチェースマンハッタン銀行の頭取で、トルーマン時代にドイツの高等弁務
官であった。マックロイはディーン・アチソンの友人でニューディールの時
代に重要な政策に関与した。アイゼンハワーは彼に国務省に入って欲しかっ
たが、マックロイが議会の元気なタカ派により左翼だといってやめさせられ
た。しかし、マックロイはアイゼンハワーと親密にしトップアドバイザーと
言われた。

 マックロイの知恵はアチソンスクールによるもので、スタッフにはセオド
ア・カガンなどがいたが、彼らはマッカーシーの批判の対象であった。その
ため焚書のエピソードも含めてマックロイはマッカーシーが嫌いであった。
ハーバード大学元学長のジェームズ、B.コナンは、マックロイのHICOGの後
任であり、彼は第二次大戦の核開発計画に加わっており、マックロイ及びア
チソンと同様に計画のリーダーのJ.ロバート・オッペンハイマーを賞賛して
いた。コナンは、核計画に関わり地球規模の核の共有のためのアチソンーリ
リエンサール計画を立ち上げた。マッカーシーらにとっては超リベラルのコ
ナンの任用は共和党のでなく民主党の政策の継続を意味した。

 コナンの任用よりも厄介だったのが、アイゼンハワーがソ連の大使として
指名したチャールズ・E ・ボーレンであった。ロシア専門の外交官として、
ボーレンはハリー・ホプキンスのお気に入りで、ホプキンスのソ連との宥和
政策に密接に結びついていた。

 混乱を鎮めるため、ホワイトハウスは上院共和党のリーダーのタフトと彼
の副のウィリアム・ノーランドに協力を求めた。彼らは忠実な保守で反共で
あったが、二人は党に忠実であったのでボーレンの推薦を実行した。ホプキ
ンスとアチソンの遺産を支持すると言う逆説は、ボーレンが共和党が統合さ
れていることをテストすると言うことであった。マッカーシーが反共で民主
党の対立者を痛打した盲目的な党派主義であると非難されているが、アイゼ
ンハワーのホワイトハウスの見地からはとても党派主義ではなかった。

 混乱したのは、新しく国務省の安全保障担当のチーフとなったスコット・
マックレオドがボーレンを任命するサインをしなかったことである。事実を
隠蔽する策が取られたが、この話は事実である。騒乱が起き、ボーレンの安
全保障上のデータが問われた。FBI のレポートによれば、機密を公開するこ
とにはFBIやホワイトハウスからも強い反対があり、上院のタフトとジョン・
スパークマンがFBIのファイルを閲覧し上院に報告することになった。

 ボーレンの任命のサインを拒否したマックレオドはダレスにより発言を封
じられ、落胆したマックレオドはその業務から離れた。ボーレンの安全保障
上の問題が浮上すると、マッカーシーらはマックレオドに証言させようとし
た。しかしホワイトハウスは反対し、マックレオドは行方不明となった。何
か隠されていると思われたが、わからなかった。

 FBI のボーレンに関する報告を読んで、タフトとスパークマンはボーレン
の忠誠心には問題ないと言った。タフト・スパークマンによる潔白とマック
レオドによるサインの拒否との間にある矛盾について、FBI のレポートを
読めばわかる。ソ連大使として不適格かどうかの左翼的かと言う問題はなか
ったが、全く異なった問題があったのである。

 ボーレンについての問題はホモであると言うことである。彼の義弟である
チャールス・セイヤーは国務省を追放されており、ボーレンとセイヤーは親
密であり、多くのホモの友人がいたのだ。ボーレンの家にいた者が道徳的な
咎で国務省を追放されたのである。現在と違って1950年代は正体を隠し
たホモは公的な職務では大きなリスクであると考えられていた。

 最も批判的であったのは、前ソ連大使で一時的にFDRの友人であったウィ
リアム・ブリットであった。FBI のレポートは次のように述べている。

  ブリットは1〜2年間ボーレンには我慢できなかったと説明した。
  彼は飲酒がひどく国務省に戻りたいとも言った。合衆国への忠誠に
  は問題なかったが、アメリカの災害で不当な利益を得た。
  彼には倫理性が不足しており、戦時中はソ連が平和を愛する民主国
  家だと言うハリー・ホプキンスに同調していた。

 前ポーランド大使のアーサー・レーンはさらにボーレンを批判している。
FBI の報告は次の通りである。

  1945年にソ連に赴任するアヴェレル・ハリマンにソ連に譲歩す
  るように言ったのはボーレンであった。1946年にレーンは彼が
  ポーランド大使であった時、ボーレンはポーランドに9千万ドルの
  借款を供与する勢力の背後にいた。共産主義の合衆国の敵に一個人
  が経済再建を勧告するなど考えられない。ソ連、ヤルタ会談、ソ連
  への宥和政策の擁護者をソ連の大使にするのは間違いだと述べた。
 
 マッカーシーはボーレンのヤルタ会談でのポーランド、ユーゴスラビア、
中国などの共産化、またソ連の対日への参戦についての役割に注目した。

 ボーレンとホーマー・ファーガソンの間で議論があり、ファーガソンはボ
ーレンにヤルタ会談は間違っていた、失敗であったと言わせようとした。し
かし、ボーレンはヤルタ会談は降伏ではなく、反対のことを意味していると
反論した。
 
 マッカーシーらはヤルタ会談の結果を支持しなかったが、ボーレンは20
年後に回顧録でFDR、トルーマン、アチソンらの国務省の業務を明らかにし
た。任命の係争の結果には満足していた。「ソ連との関係について、私の見
解はダレスや共和党のものとは一致しなかった。」

 国務省の前高官が出ており、ノーマン・アーマー、ヒュー・ギブソン、ジ
ョセフ・グルーはボーレンの任命書にサインした。ダレスは傑出した三人が
ボーレンがこのポストに着く資格を与えられることを満場一致で同意したと
述べた。マッカーシーは反対の意見を述べ、ノーランドと対立した。最終的
にボーレンは74対13で新任された。生まれたばかりのアイゼンハワーの
内閣は、人選は分別をもってすべきと言う貴重な教訓を得た。


[2018年01月10日22時11分]
お名前: カーター
Chapter 35: The Burning of the Books
(焚書)

 ラングストン・ヒューズは20世紀で著名な黒人の詩人で作家であったが
若い時に共産主義及びソ連に共感しており、彼の著作にはこのことが惜しみ
なく表れている。1953年の春、マッカーシー小委員会は海外の米国情報
センターに置いてある本を調査し、ラングストン・ヒューズの多くの作品を
発見した。マッカーシー委員会の見解は、税金で支えられた海外の情報セン
ターは、ソ連との論争で米国の大義を促進すべきであり、そのようなものを
置くべきではないと言うものであった。

 マッカシーはヒューズの著作について詳しい証人を呼び、米政府承認の印
のあるヒューズの本が棚に置かれるべきかと尋ねたが、答えはノーであった。
その証人とは、ヒューズ本人であった。彼は共産主義を捨て、より愛国的な
内容のものを書いていると言った。初期の作品とは異なっており、民主的な
心情を表現していると言うのだ。

 問題となっている施設が民営あるいは公営であっても、一般的な蔵書につ
いてマッカーシーも委員会のメンバーも誰も疑問には思わなかったであろう。
しかし、国務省によるセンターの目的は共産主義に対抗してアメリカの考え
方を主張する本などを活用することである。これはカール・ムント(連邦情
報・教育交換法成立に尽力した。)により提案されたものだ。

 棚には三万もの共産主義に関する本があった。ソ連を賛美したものに次の
ようなものがある。「ソ連は社会主義体制が優越性の例を示すことで、世界
の進歩の道を作る役割がある。ロシアの強さは一言で言えば、道徳及び科学
的業績にある。・・ソ連では歴史上初めて人種問題が解決された。」

 マッカーシーらは、そのような本がアメリカ人の納税者により購入され支
払われ、米国の図書閲覧室に置かれるなら政府職員が承認をもらったことに
なると考えた。もし多様性が目的であるなら、反共主義の本は最低でも共産
主義のそれと同列にするべきだ。しかしそうではなかったのだ。フリーダ・
アトリー(元共産主義者で反共に転向した)による主要な事例は、中国や極
東に関する本が多く選択されており、ドイツの米国情報センターの目録を調
査したところ、オーウェン・ラティモアらのチャイナスクールの著者による
ものが2ダースもあったことである。彼女は中国の共産主義者に対して好意
的でない本はほとんど見つけることができなかったのだ。もちろん反共の本
もあったが、本当に数が少なかったのである。

 VOAと同じように、集められた本及びそれを選んのだ人々はOWI(戦争情報
局)から、中でも左翼の連邦機関から引き継がれていた。アチソンの国務省
及びドイツ占領軍高等弁務官(HICOG)のジョン・マックロイの下では、多く
の引継ぎ者がトップの地位へ進んだ。しかし現在はルールが変わり、194
0年代及び戦後のソ連寄りの見方は冷戦と言う新しく厳しい現実に取って代
わった。面倒にしたのが、トルーマンーアチソンの時代はアイゼンハワーー
ダレスの時代へと置き換わったことだ。

 中でもはっきりしているのが、1953年HICOG 対外副官のセオドア・カ
ガンの例で、カガンはOWI の出身でOWIの歴史を背負った経歴を持っていた。
カガンは共産主義者と同室で、一緒に仕事をしていた。カガンの事務所は何
千ものスターリンの言葉を冊子にして配った。HICOG の後援した講師は、ド
イツ国内でソ連のゲオルギ・マレンコフ首相を褒める演説をして回った。

 このケースでは引継ぎの考え方が明らかだ。戦後早期にドイツの共産主義
者は民主主義的な要素を持つと見られ、補助金がなされ支援されたのだ。ア
メリカの共産党への支援はセオドア・カガンのみでなく、1950年代にも
図書館などへも補助金がなされた。マッカーシーの調査により、ダレスの国
務省は共産主義者の著者による本を図書館から取り除くよう指令を出した。

 本が焼かれたのはマッカーシーの責任だとの嘆きがあったが、マッカーシ
ーが焼いたのではない。彼はしばしば望めば共産主義の本を読んでみるべき
だと述べた。彼の論点は、海外で共産主義と闘争を行っている一端で、共産
主義よりの書籍がアメリカ人の税金で供給されるべきないと言うことのみな
のであった。この点でマッカーシーはダレスの国務省、新しいHICOG の高等
弁務官のジェームス・B・コナンの裏づけを得ていた。

 前の高等弁務官のジョン・マックロイはマッカーシーの調査を喜ばず、仕
返しをしようとした。彼は議会による過剰な調査を非難した。重要で良く記
憶されているのは、マッカーシーへの非難であると考えられる声明を得るた
めにアイゼンハワー大統領に仲立ちをしたことである。それは1953年の
6月でアイゼンハワーがダートマス大学から、名誉博士号を受けようとして
いた時である。マックロイもその席におり、アイゼンハワーにHICOG の本が
焼かれたのはマッカーシーによるものだろうと言った。怒った大統領は、即
座に「本を焼くな。礼儀を失するものでない書物はすべて読めば良い。それ
は検閲でしかない。共産主義が何かを知らずに打ち負かすことはできない。」
と言った。

 しかしアイゼンハワー自身が海外の図書館に共産主義の本を置くべきでな
いと言ったのであり、HICOG の本を焼いたのはアイゼンハワー自身のスタッ
フによるものであり、マッカーシーによるものではない。従って、その声明
には一貫性が欠けていた。反マッカーシー勢力は、アイゼンハワーの即席の
コメントを大げさに賞賛したのだった。


[2018年01月09日21時32分]
お名前: カーター
Chapter 34: Uncertain Voice
(聞こえない声)

 これまでマッカーシーの業績を判断するのに一番の方法(また彼の行動の
標準的な扱い)は、彼が委員会議長をしていた上院での聴聞会の記録を研究
することであった。1953年にはマッカーシーとコーンによる聴聞会と証
人の数も増え、95日間の委員会で331人の証人が呼ばれ、75日の公聴
会が開催された。

 上院の秘密記録を50年間は非公開とするルールで、マッカーシー委員会
及び公聴会の記録及び予備のファイルを見ることができる。これらの記録、
あるいはその主要な部分を読めば、伝えられる実像とマッカーシー既存のイ
メージの違いに衝撃を受けるであろう。共和党でも民主党でも彼は礼儀正し
く話しており、現在マッカーシーについて書かれた本からは想像できないで
あろう。反対に彼は前政権の政策やトルーマン時代の遺物により起こった事
に不平を言うことの難しさについて述べた。マッカーシーはアイゼンハワー
政権が成し遂げた業績を常に讃えた。

 マッカーシーは妨害的な演説に対しても黙らせるために小槌をたたいたり
することはなかった。マッカーシー聴聞会の目だった特徴は、指名された人
物が直接答えるような機会を与えられたのでない限り、誰も共産主義者や反
逆者などとは呼ばれることはなかったことだ。このようなコメントは、マッ
カーシーの方法について典型的に言われているのとは大きく異なっており、
読者はおそらく信じられないのではないだろうか。マッカーシーは驚くほど
辛抱強い人間であり、一般の人達よりも自制心をより備えた人であった。

 もちろん、野蛮な対立となり爆発したような反対のケースもある。これら
の例ではいつもの記事となり注目を浴びたのだ。この委員会でのスター的な
証人はヘレン・バログであり外務職員に関する8000ものファイルを担当して
いた。彼女は国務省のファイル棚には、フォルダに何があった、抜かれた、
あるいはまたいじくりまわされたと言うことはできないと言った。丁付けや
順番付けるシステムがなく、記録に何が入っているかを示すインデックスや
カードもなかったのだ。数百人がファイルを閲覧し、フォルダーはビルの間
をしばしば動き、一部は一年以上もファイル室から持ち出されていた。

 マッカーシーとアイゼンハワーの関係について、このファイルの状態を明
らかにしたこと、改善への提案は新しい国務省の安全保障チーフのダレス、
元FBI の捜査官らに歓迎された。マッカーシーの聴聞会の成果による改善の
最初のものであった。

 超党派的な協力は、次の審理でVOA に関するもので明らかとなった。主要
な問題はVOA の通信局であり太平洋岸と大西洋岸にあるベーカーウエストと
ベーカーイーストの位置に関するものであった。ベーカーウエストは間違っ
た場所に建設され、非効率であったため、その場所は廃止されるべきだった。
調査の過程で、マッカーシーに後に汚点と疑われるような職員の悲劇が起き
た。1953年の3月5日にVOA のエンジニアでベーカーウェストに関する
有望な証人が自殺した。彼(レイモンド・カプラン)のポケットからマッカ
ーシーを非難するような内容の遺書が発見された。

 ウイリアム・マルクス・マンデル(共産党員かに関しては黙秘権を使用)
は、マッカーシーがカプランを殺したと非難した。このことは多くの歴史家
により引用されたが、すべてがたわごとであることがわかった。一つには、
カプランは被告ではなく委員会の友好的な証人であったし、夫人と息子への
ノートで彼はベーカーウエストは間違って位置していると確信し、通信局の
場所をもう一箇所見つけようとをカリフォルニアに行ったことを明らかにし
たのである。

 また彼は計画で間違いを犯したことで責められ、嫌がらせをされることを
恐れて、圧力にもはら耐えられないと、ノートに加えていたのである。マッ
カーシーはカプランについて、重要な証人であること以外は知らなかった。
圧力にもう耐えられないと言うことは誰かがカプランを苦しめていたと言う
ことである。彼がマッカーシーの前で証言したいと思っていた証拠がある。
「カプランはボストンへの旅の前の数日前にはとても神経質になっていたし
彼は証言したがっていた。」と言うロイ・コーンとカプランの同僚のドロシ
ー・フライドとのやりとりが残っている。誰かがカプランをスケープゴート
にしていたが、それはマッカーシーではなかった。証言をしたがっていたが
チャンスは与えられなかった。

 もう一つマッカーシーにはなぜVOA のお偉方はイスラエルの聴取者向けの
ヘブライ語のサービスを中止したのかと言う問題がある。ロシアの医者(多
くはユダヤ人)がソ連の要人を暗殺しようとした事件をめぐり、VOA のヘブ
ライデスクは中止に抗議をした。VOA は反共的なテーマがかすんでしまうよ
うに、南朝鮮の反共の李承晩大統領を批判するような報告をしている。

 VOA の調査において過去のOWI(戦争情報省)の業績へのノスタルジアが
あることがわかった。多くのVOA の職員は左翼やマルクス主義者の経歴があ
ったが、それは否定されていた(否定の証拠は怪しげだった)。

 マッカーシーはなぜアメリカのプロパガンダの職員は左翼が多いのか、ま
たそういう人達はどういう経験をしたのかと疑問に思った。将来の聴聞会で
繰り返される疑問であった。

 マッカーシー委員会はアイゼンハワー政権とも数ヶ月にわたり衝突してい
た。ロバート・ケネディーによる調査によると、朝鮮戦争中にアメリカの同
盟国が共産主義中国と取引をしていたこととその取引を妨害を強化でる。議
会により命令されその取引は差し止められようとしていたが、多くの場合強
化されなかった。そして危険な材料が戦争中に敵国に届いていた。

 アイゼンハワーの外国援助組織のハロルド・スタッセンはギリシャ船によ
る私有の船舶による外国貿易を禁止することは政府にはできないと言うので
ある。ケネディーらは船主に会い、禁止品を共産主義中国へ運ばないと言う
同意を得た。このことから政権はマッカーシーに対する反感を抱くようにな
り、もう一つの議論によりホワイトハウスとマッカーシーは決裂するのであ
る。

[2018年01月07日17時43分]
お名前: カーター
Chapter 33: The Perils of Power
(権勢の衰え)

 1953年の頃マッカーシーは絶頂期であった。ウィスコンシンで再選さ
れ上院議員の二期目を勤めることになった。また委員会の議長にも選出され
、多くの違法行為を行う政府の機能を監視する権力も持った。1952年に
第二次大戦の英雄であるアイゼンハワーが大統領に当選し、上院と下院の双
方で共和党が多数を占めたからである。

 マッカーシーは何もしなかったが、選挙での影響力は大きかった。それは
マサチューセッツの上院議員をめぐる共和党のヘンリー・C・ロッジと民主
党のジョン・F・ケネディーとによる選挙だった。共和党はマッカーシーが
ロッジを応援するものと考えたが、ロッジはマッカーシーとの遊説を望まな
かった。資産家のケネディーの父はマッカーシーを支援しており、彼の息子
に対立する選挙戦をして欲しくなかったからである。マッカーシーはマサチ
ューセッツの選挙戦を避けケネディーは勝利し、ケネディー家との関係を築
き、一方でロッジとは和解できない敵対関係となった。

 選挙戦での勝利のみならず、安全保障面での闘争でも勝利が来ていた。敗
北した敵は、フィリップ・ジェサップ、ジョン・スチュワート・サービス、
ジョン・カーター・ビンセントなどである。かれらのスポンサーであり、保
護者でもあったディーン・アチソンも立ち去った。アイゼンハワーの津波(勝
利)でマッカーシーが憎悪していた敵は流されてしまった。

 彼の敵は意気消沈し、マッカーシーは上り調子となったが、新しい議長に
よるトラブルも生じていた。それは共和党の大統領ドワイト・アイゼンハワ
ーは彼を嫌っていたし、1953年になるとその感情は強くなった。アイゼ
ンハワーの反感はマッカーシーのジョージ・マーシャルに関する演説であり
それは新大統領を激怒させた。アイゼンハワーとマーシャルは長い戦友であ
たし、マーシャルへの攻撃はアイゼンハワーへの攻撃にも等しかった。
 
 その演説では、第二次大戦中に米軍はヨーロッパで急停止を決定したため、
ソ連軍がベルリンやプラハに進入したが、それはマーシャルのと言うよりも
大方の推測ではアイゼンハワーの行動であったのだ。マーシャルとアイゼン
ハワーは二人ともルーズベルト時代の産物であり、大戦中にFDRとハリー・
ホプキンスが推進した特殊な世界観の化身であったのである。二人の将軍は、
ニューディールのホワイトハウスにより権力を握ったのである。

 アイゼンハワーと共和党は奇妙な状態に置かれた。彼はニューディールや
トルーマンの政策を取りやめるために大統領になったのだが、多くの点でそ
の政策を継承することになった。彼は国内の事に関心がなく、国外の事項に
注目したが、ルーズベルトやトルーマンの政策を変更することはなかった。

 彼は大西洋主義者であり、これは彼の個人的見解のみならず、約束であり
支援者が好んだものであった。これは党の東部出身で国際主義者の外交政策
であった。彼らはウオールストリート、大企業、東部のマスコミ、アイビー
リーグ(東部名門)とつながっていた。そういう人達は議会の共和党よりも
ディーン・アチソンの外交に近く、民主党とも協調しようとした。

 マッカーシーの考えは戦後の民主党の政策を否定し、テヘラン、ヤルタ会
談、東欧及び中国の共産化につながるルーズベルト、トルーマン、アチソン
の路線を拒絶するものであった。しばしば孤立主義者として馬鹿にされたが
マッカーシーは条件付きの介入主義者であり、ギリシャとトルコに支援及び
欧州へのマーシャルプラン(しぶしぶ)にはトルーマンに賛成した。アイゼ
ンハワーとその側近はアチソンーマーシャルの考え方に近く、マッカーシー
などに支持された軍事的で反共的な考えとは異なっていた。

 その溝を埋めようとした人物には、国務長官のジョン・フォスター・ダレ
ス、新副大統領のリチャード・ニクソンであり反共でアルジャー・ヒスをさ
らし物にした。ニクソンはマッカーシーにもアピールしたが、アイゼンハワ
ーのためにも良く働いた。彼にはバランス感覚があり、将来ホワイトハウス
と進む可能性があった。

 アイゼンハワーには無意識の敵意がマッカーシーに向けられていた。マッ
カーシーとケネディー(ジョン及びロバート)とのつながりは政治的に見て
も奇妙であった。マッカーシーとケネディーとは親密であり、ケネディーを
尊敬する歴史家を困惑させたが、ジャック・ケネディーはマッカーシー登場
以前からの強硬な反共主義者であり、オーウェン・ラティモアらを批判し、
アチソンの中国政策に反対した。弟のロバートはもっとマッカーシーに近か
った。

 ロバートはマッカーシーの事務所で働いたが、彼より若くて神童だったの
がロイ・コーンであった。1953年の時点で25歳であったが、共産主義
者のハンターとしてはベテランであった。重要なケースでは、検察のチーム
でジュリウス、イーサル・ローゼンバーグ夫妻のスパイ罪での有罪判決を下
したことだ。コーンはまた日刊紙ハーストのコラムニストで政治的大立者の
ジョージ・ソコルスキーと親しかったので、マッカーシーの支持者であった
ソコルスキーはマッカーシーにコーンをメインスタッフとして紹介した。

 二人の行動は早かったが、美徳に欠けた。拙速な行動、同時にたくさんの
仕事をこなし、多くの情報を扱うには都合が悪かった。二人はうまく管理で
きなかったのだ。彼の事務所は無計画で、書類は山積みで、電話は鳴りっぱ
なしであった。秩序だったFBI の方法や体系的なロバート・ケネディーのそ
れ(表面的な派手さに欠けるが彼のトレードマークとなる努力に焦点を合わ
せていた)とも異なっていた。

 マッカーシーにはもう一人デイビッド・シャインと言う若いスタッフがい
た。コーンがマッカーシーの事務所に入った時に、彼はシャインをボランテ
ィアのスタッフとして連れて来た。裕福なシャインは報酬なしで働くことに
したのだ。内的にはコーンとケネディーの間に憎しみがあった。二人とも野
望があり、いい時には緊張にみなぎっており、双方が他方に対して尊大な態
度を取った。ボビー(ロバート)が1960年に司法長官になった時には、
コーンを投獄しようとし、コーンは喜んで仕返しをしたのだ。


[2018年01月04日22時24分]
お名前: カーター
Chapter 32: ベントンとの争い
      (The Battle with Benton)

 マッカーシーは他人を調査する以上に自分が調査されている。マッカーシ
ーに対する調査は次の通りである。

1)タイディングズの調査は国務省の調査であったが、裏ではマッカーシー
 の調査をしていた。
2)タィディングスが共和党のジョン・マーシャル・バトラーに敗北した
 1950年のメリーランド上院議員選挙の調査。
3)ウィリアム・ベントン(民主党、コネチカット)上院議員によるマッカ
 ー批判を基にしたシーメリーランド論争から派生した調査。
4)1954年春の有名な陸軍によるマッカーシーへの聴聞会。
5)その年の後半のアーサー・ワトキンス上院議員(共和党、ユタ)による
 非難の聴聞会。

 特に陸軍によるマッカーシーの聴聞会では内容的には補足的であったが、
マッカーシーに決定的な打撃を与えた。タイディングズが主要な役割を果た
していたが選挙で破れたため、マッカーシーに不満を持っていたベントンが
その後に続いた。他のプレイヤーは(民主党、アイオワ)の上院議員のガイ
・ジレットであった。

 1950年の11月タイディングズは、共和党候補のバトラーに選挙で破
れたが、これは共産主義者が政府内にいると言う問題、タイディングズ聴聞
会に関する議論の結果であり、マッカーシーらの支援があったためであった。
"FROM THE RECORD" と言うタブロイド(要約)紙がタイディングズやラ
ティモアを攻撃したが、中でも注目されたのがタイディングズとアメリカ共
産党のアール・ブローダーとの合成写真であった。この写真はマッカーシー
とそのスタッフがタイディングズを攻撃するのにいかに悪いことをしたかを
示すのに一般の歴史で使用されている。
 
 この写真は当時マッカーシーに関係なく怒りを生んだ。また、写真は合成
であっても一枚の写真であると考えられた。しかし、聴聞会で明らかになっ
たのはマッカーシーもスタッフも写真の合成には関わっていなかった。その
タブロイドはワシントンタイムズヘラルドの編集長のフランク・スミスがま
とめたもので、合成写真は同僚のガルヴィン・タンカースリーによるもので
あった。タイディングズは嵌められたのだとシラキュース・ポストスタンダ
ードはマッカーシーを攻撃したが、マッカーシーは写真とは何の関係もなか
ったのだ。シラキュースも後にマッカーシーは関係ないと認めた。

 メリーランドの選挙やタイディングズ委員会での出来事を受けて、ベント
ンはマッカーシーは上院から追放されるべきと考えた。1951年の8月6
日にベントンは上院でマッカーシーは追放されるべきだと述べた。ベントン
は1945年にディーン・アチソンが国務次官になった時に国務省に来た。
文化事業担当の国務次官補でOWIやCIAから移動してきた多くの部下を持つ
ことになった。

 ベントンのマッカーシーに対する批判は、政治的声明、スピーチ及び行動
であった。10項目ある。

1)マッカーシーはホイーリングでの演説で嘘の数字を言った。
2)プレハブ住宅の業者と疑問のある取引をし、1万ドルを受け取った。
3)1951年6月14日の演説でマーシャル将軍を侮辱した。
4)聴聞会でタイディングズが匿名の被疑者の名前をマッカーシーに言えと
 迫ったと間違って言った。
5)メリーランドの選挙でタイディングズをタブロイド紙で貶めた罪がある。
6)彼の批判のために議会証言免除を控えると誤まって約束をした。
7)間違ってFBI チャートを持っているとうそを言った。
8)81人のケースのソースを議会に事実を曲げて伝えた。
9)マルメディー事件の調査で上院の委員長レイモンド・ボルドウィンの扱
  いに間違いがあった。
10)補佐官のドン・スラインは彼がFBI を去った状況の事実を曲げた。マ
 ッカーシーは、ジョン・カーター・ヴィンセントの電文を偽造したと言わ
 れているチャールズ・デイヴィスを買収した。

 事が進むにつれて、金銭的な問題が強調されてきた。最終報告が出た時に
は、マッカーシーの金銭問題が唯一扱うべき主題となった。そしてマッカー
シーの行動そのものも調査された。そしてマッカーシーや家族、友人、スタ
ッフのプライバシーも侵害された。彼の政敵は土足で金銭的な記録から彼の
不利なデータを探した。マッカーシーは名誉毀損で訴え、また時期を見てベ
ントンを攻撃し受身にさせた。

 マッカーシーのベントン批判の本質は国務省にいたベントンが大量のソ連
のスパイ、共産主義者、忠誠心の欠如、安全保障上のリスクを招いたこと、
安全保障担当の職員により通知されても対策を取ろうとしなかったことであ
った。マッカーシーは、ベントンのスタッフに確認を取っている。つまり、
ロウェナ・ロウェルは、彼女の役割がベントレーが確認したソ連のスパイで
あるミラーを、あるいはアメラジア事件に関連したハルドア・ハンソンとウ
イリアム・ストーンを国務省に連れて来ることであったことを確認している。


[2018年01月02日16時28分]
お名前: カーター
Chapter 31: 渦巻く陰謀
(A Conspiracy So Immense)

 マッカーシーの7万字に及ぶジョージ・C・マーシャルの批判演説がなさ
れたのは1951年6月14日であり、後に"America's Retreat from
Victory"(邦訳「共産主義中国はアメリカが作った」)と言う本になってい
る。冷戦中の世界がなぜこうも悲惨なのかについて、マッカーシーは一つの
答えに行き着いた。責任は、大戦中の参謀総長、前国務長官、トルーマン政
権の国防長官であったマーシャルにあるとするものである。

 マッカーシーの原稿は有名なジャーナリストであったフォレスト・デイビ
スにより準備されたが、それはマッカーシーの疑問に答えるものであった。
マーシャルは対戦中も戦後も選択が間違っていたばかりでなく、ソ連寄りの
ものであったと言うものである。

 マーシャルはイギリスのチャーチルに反対しソ連と合意した。スターリン
は英米がフランス北部に上陸するよう要求したが、チャーチルはイタリアか
らバルカンへと上がる計画を強く主張した。東欧をソ連に与えないためであ
る。マーシャルの見解はスターリンの案に近いものであった。

 作戦開始後はアメリカ政府は欧州で急に止まり、ソ連にベルリンとプラハ
を占領させたのである。ソ連は事実上欧州の東半分を占領し、西側にとって
ベルリンへの行き来が大きな障害となった。マッカーシーはこの責任をマー
シャルに負わせたのである。マッカーシーとデイビスは1945年2月のヤ
ルタ会談ではソ連に太平洋戦争に関与させる様に、スターリンに譲歩したと
強調した。 

 マッカーシーは、ルーズベルトがソ連に満州の港湾と鉄道を与えるとした
ことにも注目した。この満州の譲渡は後に中国で起こることの基となってい
ると主張した。ソ連が強奪した日本軍の武器や弾薬は、中国共産党軍に与え
られた。マッカーシーは、マーシャルの決断がソ連の大義を進めて、西欧の
自由の大義が傷つけられたのだと主張した。

 マーシャルがホワイトやカリーの側にいたかについては、そうとも言えな
い。彼の伝記作者は米軍の軍需品をロシアやイギリスに転用することについ
て自軍に必要だとしてハリー・ホプキンスに反対したと述べている。さらに
マーシャルの欧州への戦略的な考え方は、マーシャルに仕えた反共主義者の
アルバート・ウェデマイヤー将軍により是認されている。

 アメリカの中国大使であったパトリック・ハーリーが1945年秋に辞任
すると、マーシャルが後任となり中国に来たが、短気なスティルウェルの後
任であるウェデマイヤー将軍に歓迎された。ウェデマイヤーによればマーシ
ャルは疲れて元気がなく、複雑な中国の状態について知らなかった。しかも
年老いたマーシャルはウェデマイヤーが言おうとしたこと、特に手に負えな
い共産主義者の問題について聞こうとしなかった。

 マーシャルは中国の内戦について少しは知っていたが、共産軍と同一であ
る反蒋介石の勢力に洗脳されていた。マーシャルは蒋介石が大嫌いなスティ
ルウェルの友人であり、多くのことを聞いていた。マーシャルはジョン・サ
ービスやソ連のスパイのロークリン・カリーの友人であったジョン・ヴィン
セントの助言を受けていた。ヴィンセントは最初は蒋介石を支持していたが
戦争中に蒋介石に反対するようになり、アメリカの援助を国民党軍がアメリ
カに従うように使うべきだとの考えを進めた。

 歴史家のユ・マオチュンによればマーシャルが中国に滞在していた頃、ア
メリカ人の共産主義者がはびこっていた。OSSや戦争情報局にに雇用されて
いた多くの中国人は中国共産党のスパイであった。1946年の時点では、
共産主義者はソ連からの支援は十分でなかった。マーシャルの重要な動きは
蒋介石に攻撃をやめさせ、赤軍も同意する停戦に持ち込むことであった。

 マーシャルは停戦をしなければ、国民党への支援を打ち切ると言う制裁を
課した。しかしソ連は同様の制裁を共産党に課したわけではなかった。国民
党のための15万トンもの弾薬は2%しか供給されず、計画はワシントンに
より取り消された。国民党軍への武器の禁輸は1946年の夏から1947
年の春まで継続した。

 1947年ホワイトハウスは、トルーマンドクトリンにより共産主義の浸
透の下にギリシャとトルコを軍事的に支援すると発表した。一方で、蒋介石
への支援は打ち切られていた。なぜ中国はだめなのか?アチソンはオーウェ
ル式に「中国政府は現在ギリシャのような状態にない。共産党により打ち負
かされていない。」と述べた。これはアチソンの公式文書である「蒋介石の
敗北による中国やギリシャの分裂」と矛盾している。

 1948年の始め、議会は125百万ドルの軍事援助を蒋介石に与えたが
最初の援助物資の船積みは12月まで上海に到着しなかった。武器も11月
まで届かなかった。1949年にトルーマンとアチソンは蒋介石にさらに軍
事援助を決定し議会も承認したが、国民党には希望はないと言う前提で停止
された。共和党の意見で再度支援は進められたが、アチソンは国務省の職員
に船積みを遅らすように指示した。

 1949年の終わりには国民党は中国で破れ台湾に逃れた。1950年の
1月には台湾の蒋介石に軍事支援を行うと発表した。しかしアチソンはナシ
ョナルプレスクラブでアメリカは蒋介石の台湾に支援しないと言う道徳的に
高い基礎を置くと述べ、他国の内政に干渉しないからで、太平洋におけるア
メリカの防衛線では台湾と韓国を除くとしたのだ。これはフィリップ・ジェ
サップの考えによるものである。

 サービス、ヴィンセント、ジェサップらが太平洋におけりアメリカの外交
方針を決めていたのである。もう何も止めることはできなかった。4週間後
に何も知らないマッカーシーはホイーリングでの演説を始めようとしていた。

[2017年12月29日15時47分]
お名前: カーター
Chapter 30: ジェサップ博士とフィールド氏

 ラティモアがIPR の知的指導者で、エドワード・カーターが組織的な火つ
け役なら、高位にあって目立つ政府職員はフィリップ・ジェサップ大使であ
る。ジェサップはIPR で10年程度仕事をし、1949年3月に彼は無任所
大使に昇進し、ディーン・アチソンは彼に中国政策で中核的な役割を果たす
様に要請した。

 ジェサップは1949年に反共の蒋介石への関与を止め、共産主義者が内
戦で勝利したと宣言し、内戦で起こる何事も合衆国には迫っていないとする
公式文書を発行した委員会の幹部であった。しかし、蒋介石はまだ南部を死
守しており、国防長官のルイス・ジョンソンなどは文書を発行すべきではな
いとし、反共勢力に最終的な打撃を与えることになると言った。しかし、文
書は発行された。

 アチソンはジェサップに、中国の瓦解による米国の適切な進路を議論する
ために専門家による会議を開催しアジアでの役割を果たすよう求めた。19
49年10月に会議は開催され、その後ジェサップはアチソンの親友となっ
た。ジェサップはIPRの計画を国務省で政策として実現することになった。
ジェサップはIPRではアジアあるいは中国の専門家でもないのに、彼の役割
は奇妙であった。

 マッカーシーはタイディングス委員会で、ジェサップの見解及び行動に疑
問を投げかけようとしたが、成果は得られなかった。タイディングスはマッ
カーシーの言うことは聞かず、逆にジェサップに彼の経歴、見解、資質につ
いて感動的な弁護の発言をさせた。マッカーシーは敗北したように見えたが
多くの記録書類を得ることができた。

 マッカーシーはジェサップが共産主義者と5つの共産主義のグループ、ま
たジェサップ夫人も加えると6つのグループ関係していると述べた。彼の証
拠物件は、共産主義者グループのレターヘッド、当局筋からグループの召喚
状、共産主義者フレデリック・フィールドがIPR に当てた領収書などで、マ
ッカーシーのデータは正確であったが背景が不足していることであった。
 
 スペイン禁輸についてマッカーシーは、ジェサップが独ソ不可侵条約の期
間にイギリスへの武器の輸出を支持し、1930年代にスペインの共産主義
者に対する武器禁輸に反対したことが証拠だとした。これは正しかったが、
ジェサップには反論ができたのだ。これに関するマッカーシーの批判とジェ
サップの回答は次の通りである。

 *民主的権利のための国民緊急会議
 このグループは、下院の非米活動委員会及び下院歳出小委員会により召集
されたが、共産主義団体として1943、1944及び1947年に3回開
催された。
マッカーシーが持っていた手紙に示されているように、フィリップ・ジェ
サップはこの会議のスポンサーの一人であった。ジェサップのこれに対する
反応は、本人の了解なく名前が使用されたものでドロシー・ケニオンと同じ
ように記憶にないと言うものであった。ポール・ダグラス上院議員は目立ち
過ぎるグループだとして1940年に脱退しているが、ジェサップは関係を
断つことができなかったことで、穏健派からも信頼を失うことになった。

 *アメリカ・ロシア協会
 1920年にアメリカでのソ連の立場を高めるためソ連により設立された
ものである。リーダーは共産主義で有名なヘンリー・プラット・フェアチャ
イルド、ジョン・A・キングスベリーなどでジェサップのIPRの仲間のエドワ
ード・カーターもいた。

 *アメリカ法科学生協会(ALSA)
 マッカーシーはこの組織は共産主義のアメリカ青年会議(AYC)と関係して
いると指摘した。ジェサップはコロンビア大学の法科学生協会のレターヘッ
ドに示されているようにその学部の顧問を勤めていたが、このことを隠し
ALSAがAYC と関係しているかという質問への注意をそらそうとした。マッカ
ーシーが指摘したように明らかにALSAは共産主義団体のリストに載っている。

 *中国支援評議会
 これは平和と民主主義のアメリカ連盟からスピンオフした目立つ団体であ
る。そのメンバーがモスクワ志向の政治局員であったチ・チャオティン、そ
の仲間のフィリップ・ジャフェ、エドワード・カーター夫人、そして指導者
がエリザベス・ベントレーとルイ・ブデンスの双方により共産主義者のスパ
イであると名指しされたミルドレッド・プライスであった。
 マッカーシーは中国支援のスポンサーはフィリップ・ジェサップ夫人であ
るとした。なぜかジェサップは説明できなかったが、マッカーシーはジェサ
ップがこの組織のメンバーであると述べた。ジェサップは覚えていないとし
た。
 中国支援とIPRのメンバーは重複しており、ジャフェのアメラジア事件と
も関係している。中国の共産主義の大義のために多くの人々が繰り返し表面
に出て来たのである。

 *太平洋問題調査会(IPR)
 ジェサップとIPR の関係は彼の行動記録において最も重要である。彼は単
なるメンバー、ディナーのスポンサー、レターに記載されるアドバイザーで
はなく、重要なスパイで扇動者であった。ジェサップ及び彼の支持者は、彼
のIPR との関連は否定できなかった。
 1948年にIPR の新しい事務局長となったクレイトン・リーはグループ
のイメージを変え汚名をそそごうとして、カリフォルニア会議で抗議した。
委員会は共産主義者に支配されており、スターリン主義者の行動に関する書
類があると確認した。マッカラン委員会が確認したようにIPR はアメリカの
極東政策を共産主義者の目的に合わせるための道具であったのだ。

 ジェサップはIPRのフィールズともディーン・アチソンとも関係していた
が、それは誰かがソ連スパイとしてアメリカの国務省の最も重要な事項に相
談にのっていることを意味する。ジェサップは外交のチーフとKGBのスパイ
との仲立ちをしていたのである。こうしてジェサップの中国に関する責任、
またフィールズのアジアの共産党人民委員としての専門性も重要となった。

 マッカーサーのスタッフであったフォルティエは、アメリカは早々に共産
主義中国を承認するであろうと示したとジェサップが述べたと言った。それ
は国務省もジェサップも強く否定している。

[2017年12月26日22時12分]
お名前: カーター
Chapter 29: オーウェン・ラティモア ー R (ロシア)のスパイ

 ジョンズ・ホプキンズ大学のオーウェン・ラティモア教授は IPR(太平洋
問題調査会) OWI(戦争情報局)、太平洋関係、アメラジアなどの多くに関
係していた。ジョー・マッカーシーによれば、彼はアメリカで最も重要なソ
連のスパイでもあった。そう主張するのはマッカーシーにとっても危険なこ
とであったが、タイディングズ委員会や上院でも証明しようとした。

 マッカーシーが非難したのは、ラティモアが中国の共産主義者の連絡網の
責任者であり、蒋介石を見くびり延安の反乱軍を育成したことである。赤軍
寄りの見方は、国務省に充満し、アジア外交に致命的な影響を与えた。ラテ
ィモアの見解は極東外交の立案者として国務省内に大きな力を持った。最も
重要なのは、彼の主張がアメリカのためでなくソ連の目的に一致しているの
ではないかと言うことである。

 しかし、タィデイングズ委員会ではその批判は的を得なかった。その報告
書では「ラティモアは作家及び学者でありアジアの専門家としては相談を受
けず影響力がなかった。わが国の東アジアの外交の主要な立案者であるとの
主張は馬鹿げている。」と述べている。

 ラティモアは蒋介石のアドバイザーで、第二次大戦中はOWI の高官であり
1944年にはヘンリー・ウオラス副大統領の随行員となっている。194
5年と1946年には日本へのミッションに加わり対応策の報告を行ってい
る。1949年には国務省での東アジア政策において重要人物となっている。
1950年のタイディングズ委員会には、国際連合のデイヴィッド・ワイン
トラウブの依頼で秘密の外遊により欠席している。

 ラィテモアのケースは努力すれば容易に確認できるが、彼の著書はソ連の
外交に関するものが多いことである。ラティモアの見解を判断するには、1
945年の「アジア問題の解決」及び1949年の「アジアの情勢」が助け
になる。この二つの本は極東に関するものだが、ソ連に関するコメントが多
く、欧米に対抗するアジアの勢力に関連するもの特に中国における内戦が内
容の中心である。これを読んでも問題の知識がなければ誰もラティモアの見
解に重大な疑惑は持たないであろう。

 明らかなのはラティモアは著書においてソ連に都合の良いように取繕って
いるのである。また、中国の共産主義を強く支持している。ラティモアの主
要な主張は、ソ連がアジア諸国を政治経済的な成功で引きつけていることで
ある。そう言いながらソ連の専制を西欧の民主主義と言う用語で包み隠した。
「アジア問題の解決」の中から有名なところを引用すると次の通り。

 東アジアから中近東までのすべての人々にとって、若者にははっきりと
 見え、ソ連は戦略的な安全、経済的な繁栄、技術進歩、奇跡的な医学、
 自由な教育、機会均等、そして民主主義であり、強力な組み合わせであ
 る。

ラティモアは中国でも同じように、人民は民主主義や自治、赤軍による改
革を好ましく思い、延安のシステム(赤軍の公社)から経済的利益を得てい
ると言った。また、「ウクライナ、シベリアそしてソヴィエトのアジアでは
集団農場での個人の持分は古い私有農場(機械すら所有できない)のそれよ
り価値あるものだったと。」と言った。

 拷問や虐殺を習慣的な矯正と言い、その結果を民主主義と呼ぶのがラティ
モアの方法であった。スターリンの強制労働収容所や奴隷労働を甘い言葉で
包んだ。ラティモアはシベリア、コリマの金鉱では温室栽培のトマト、キュ
ウリ、メロンが鉱夫のビタミンを摂るために栽培されたと述べた。彼はスタ
ーリンの弁明のための卑しい下男であった。

 ラティモアは「中国は公式の共産主義を背後に置いて、中国のリベラルが
目だって活発になるだろう」と述べた。ラティモアはソ連にへつらい、詭弁
を弄しており、全体的に見てマッカラン委員会はラティモアは共産主義者あ
るいはソ連寄りの見解でアメリカ市民に影響を与えようとしたと結論づけし
た。

 しかし、問題は共産主義の影響ではなくラティモアのスパイ行為であった。
FBI にはラティモアがスパイであったと主張する多くのファイルがある。
FBI 長官フーバーの部下が元ソ連の諜報員であったアレクサンダー・バーミ
ンにインタビューしたところ、「赤軍諜報部のベルジン将軍がラティモアを
ソ連のスパイであると確認し、将軍は彼を中国におけるソ連のスパイの広告
塔にしようとした」と述べた。

ベルジンは、「我々にはIPR と言う組織(中国のネットワーク)がある。
最も有能な若者は、ソ連の軍事諜報がIPR に有するオーウェン・ラティ
モアとジョセフ・バーンズである。」と述べた。

 1949年6月22日、FBIのフーバー長官はCIAにメモを送って「様々
な情報により、ラティモアはスパイである。」と述べた。「ラティモアは
蒋介石のアドバイザーでありながら、情報をソ連に漏らした。」中国軍事
諜報長官のTai Liは蒋介石に「ラティモアは暗号のメッセージを重慶から
延安に送っていた」と述べた。

 ソ連のスパイでラティモアのジョンズホプキンズ大学及びIPR、またゾル
ゲのスパイ網の仲間であったチェン・ハンセンはメモでIPR のエドワード・
カーターに「1948年1月、蒋介石の軍隊。オーウェン・ラティモアの要
請で蒋介石の南京政府の軍隊のリストを極秘の消息筋から集めた。」と伝え
た。ラティモアは学者なのになぜ古参のコミンテルンのスパイであるチェン
・ハンセンに、中国共産党との死闘に釘付けとなる蒋介石の軍隊の展開につ
いて尋ねたのか。なぜスパイのチェン・ハンセンはラィテモアに支援され、
助言されているのか?

 チェンのケースが示しているのは、ラティモアが公式に確認されている共
産主義者、ソ連のスパイとして膨大な赤い海を泳ぎまくったことである。数
え切れない接触者は、FBI 及びマッカランの記録によれば、チ・チャオティ
ング、ロークリン・カリー、T.A.ビソン、フレデリック・フィールド、マイ
ケル・グリーンバーグ、メリージェイン・キーニー、フィリップ・ジャフェ
などのスパイであった。これらの名前からラティモアがアメラジア事件に大
きく関わっていたことがわかるし、またFBI によればラティモアはアメラジ
ア事件の重要人物であったジョン・サービスとも友人であったのである。

 ラティモアとロークリン・カリーとのつながりも意義深い。二人は一緒に
多くの仕事をした。ラティモアを蒋介石の顧問に推薦したのはカリーであっ
たし、ヘンリー・ウォラスを中国とソ連へ訪問させたのもカリーであった。
カリーがスパイ行為を行っていたことはベントレーの証言及びヴェノナ文書
からわかるし、仲間のラティモアも同様であったことがわかる。しかし、カ
リーはホワイトハウスのスタッフとして秘密文書を見ることができた。(ラ
ティモアはできなかった。)カリーは内部で秘密情報を見て、ラティモアは
スパイとして外部でプロパガンダを実行した。

 マッカラン委員会はIPR の文書にラティモアが「私はワシントンに4日間
いて、国務省のロークリン・カリーのNo.228 のオフィスに行くことができる
」と述べていることを発見している。

[2017年12月23日22時54分]
お名前: カーター
Chapter 28: 赤の学校
(Little Red Schoolhouse)

 アメラジア事件の重要性を把握するには、1945年に起こったはずだが
隠蔽のためにそうならなかったことを考えねばならない。次にジョン・サー
ビスを調査すると、ソ連のスパイであった同僚のアドラー、そしてサービス
の同僚でソ連のスパイであったチ・チャオティンらがいた。FBI はサービス
とアドラーの関係を知っており、エリザベス・ベントレーによりアドラーは
財務省でのソ連のスパイであると言われていた。しかし、サービスとアドラ
ーの事件はトルーマン政権により隠蔽された。

 チ・チャオティンは国民党が1949年に転落するまで、国民党内の共
産党のスパイであった。その時点で任務は完了し彼は北京に逃亡した。ロー
クリン・カリーはサービスの盟友であったが、正体を現さなかった。エリザ
ベス・ベントレーの告白とヴェノナ文書によれば、カリーはアメリカ政府の
内部で最も影響力のあるソ連のスパイであった。カリーはベントレーを非難
したが、ベントレー、チャンバース、ヴェノナ文書はソ連のスパイが正義で
なかったことを証明している。

 アドラーとホワイトは連携して蒋介石に資金を供与する計画を却下した。
しかし、アドラーとホワイトの件が明るみに出た時には隠された。国務省と
中国に関する政策を扱う部門ではサービスとカリーの連合で行われた。これ
には、ジョン・カーター・ヴィンセント、ハルドア・ハンソン、・・・・
オーウェン・ラティモアなどがいた。

 前の章で述べたが、ゾルゲの組織はアメリカ人の作家であるアグネス・ス
メドレー、ドイツ人のギュンター・シュタイン、中国人の赤のスパイである
チェン・ハンセン、日本人の同志である尾崎、西園寺のようにIPR と関係し
た人物などから成っていた。

 実際の上層部では、物事はアンダースンやタイディングスらにとっては、
高次元のイメージとは程遠く、彼らはマッカーシーの非難を無視した。中で
もエドワード・C・ カーターは様々な肩書きで長く支配的な人物として役割
を果たした。元YMCAの職員であったが、彼は1925年に初期のIPR に参加
し、20年間に渡って働いた。カーターはハーヴァード卒のフレデリック・
V・ フィールドを雇い、次に30代のオーウェン・ラィテモアを太平洋問題
を扱うスタッフとして雇った。カーター、フィールド、バーンズ、ラティモ
アは1930年代始めのIPR の中核を成した。公的記録に反映されているよ
うに、カーターにより17人が仲間に入れられ、ヴェノナ文書あるいは議会
の報告で共産党のメンバーであるか、ソ連のスパイであったとされている。

 エリザベス・ベントレーによれば、ソ連のスパイの親玉のヤコブ・ゴロス
が、IPRは赤に染まっているのをFBIが気づくので避けるようにと、彼女に
忠告した。彼らはオープンだからへまをやらかすと言うのだ。同様の証言は
元「デイリーワーカー」のルイ・ブデンスから、「赤の学校は共産党のメン
バーがコントロールしており、中国について知るべき事をアメリカ人に教え
ていた。トラハテンベルグは、ブデンスの発言に加えて「共産党のリーダー
は、IPR のグループが共産党寄りだとほめたが、注意が足りないので問題
だ。」と言った。

 アルフレッド・コールベルグはグループの反対派で、中国からの輸入品を
扱うビジネスマンであったが、1940年代にそのリーダーの方針に反対し
た。コールベルグは中国を旅行し、IPRについて学び「IPRは赤の学校であ
る。」と結論づけた。そして88ページの報告書をまとめた。しかし、コー
ルベルグの戦いは無益であり、IPRは彼に反対し金目当てのチャイナロビー
であると非難した。

 マッカーシーはIPR の資料をコールベルグからも入手していた。1950
年3月30日にマッカーシーは上院で「元ソ連のスパイからモスクワはIPR
を通して成功している。それはアメリカの共産主義者を通して奪ったもので
ある。」と述べた。マッカーシーはまたキャンセルされた小切手などの書類
も手に入れたが、それはIPRで重要な役割を果たした金持ちの共産主義者の
フィールドが金銭的に支援したことを意味していた。

 1951年に上院は民主党のネヴァダ出身のパット・マッカランによる安
全保障委員会を立ち上げた。マッカランのグループは、超党派的であり保守
の民主党員と共和党員から成っており、何千ものIPR 職員のやり取り、議事
録などの書類を見ることができた。アメリカの外交の中心は、蒋介石が延安
の同志(中国共産党員)と死闘と繰り広げている中国であった。

 IPR は多くの印刷物を提供し、重要な事例はIPRの第二次大戦に関するも
ので、米政府の職員はアジアにおけるアメリカ軍のための何百万ものパンフ
レットを購入した。また米陸軍や学校でも使用され、IPR の職員はラジオの
番組でも発言できた。IPR の職員はニューヨークタイムズなどのマスコミに
も寄稿した。IPRの提供した資料はアメラジアの編集においても使用された。

 パンフレットには「中国の共産主義者はいわゆる共産主義者とは異なり、
個人の私有財産や企業の権利を守り、選挙を行い、民主主義の共和国を支持
し、すべての中国の他の政党も代表となれる」と主張している。

 ラティモアは重慶で蒋介石のアドバイザーであったが、戦争情報局の太平
洋部門長になるため、サンフランシスコに行った。マッカラン委員会はまと
めて次のように述べている。

 IPR はアメリカ共産党及びソ連のスパイには共産主義政策、プロパガンダ
軍事諜報の道具であると見なされた。IPR はソ連や共産主義についての間違
った情報を広めたのだ。

[2017年12月21日22時19分]
お名前: カーター
Chapter 27: 些細なことで大騒ぎ
(Tempest in a Teacup)

 法務省、政府、タイデイングス委員会はすべてアメラジア事件の重要性を
軽視しようとしていた。ホッブス聴聞会で検事のロバート・ヒッチコックは
メモを盗んだことをテイーカップ・ゴシップと言った。同様なことは、法務
省の犯罪部の長となっていたジェース・マッキニアリも言った。
 マッキニアリは、書類が国防にとって重要な意味を持っていると言う考え
は愚かでありテイーカップ・ゴシップであると繰り返した。このコメントで
書類を保管して内容を良く知っているFBI のフーバー長官が激高した。フー
バーは「もし書類が愚かで、テイーカップ・ゴシップであるなら、我々は調
査などせず、逮捕もしなかったであろう。」
 共和党のヒッケンルーパーは、テイーカップ・ゴシップに対抗して声明を
出し、「アメラジア事件で回収された書類は、軍事や戦略に関するもので、
太平洋戦争や中国で闘争していた延安の中国共産党にとって価値あるものだ
った。」と述べた。ヒッケンルーパーは書類に述べられた題目を述べた。

 1944年のアメリカ海軍の太平洋における配置。
 海軍のスパイ防止活動に関する計画。
 マレーシアにおける連合軍の構成。
 太平洋における戦闘の極秘の見通し。
 1944年のルーズベルト大統領から蒋介石への二回のメッセージ(極秘
 とマークされ、スティルウェル将軍は延安の共産党軍を含む中国のすべて
 の軍の司令官になると述べている。)

 マッキニアリはヒッケンルーパーは間違っていると非難した。FBI は、ヒ
ッケンルーパー上院議員は正しく書類の裏づけがあると報告している。トル
ーマン委員会もジャフェとその仲間が米共産党委員長のアール・ブローダー、
ソ連のスパイのバーンスタイン、中国共産党のトン・ピンウらと関係したこ
とを隠そうとしていた。

 さらに苛立つのは、FBI が逮捕令状なしにアメラジアの事務所やラーセン
のアパートに侵入したと言うものである。ラーセンは訴状を取り下げるよう
申請した。こうした議論はFBI を怒らせた。FBI は反撃し、始めの進入には
トルーマン委員会により着手の時点から知られていたし、この時には書類も
持ち帰られていないと述べた。

 FBI のメモが述べているように、「ヒッチコックはサービスが国務省の書
類をフィル・ジャフェに渡していないことに好意的に捉え、ジャフェの弁護
人がオフレコで、サービスでなくラーセンが1945年のサービスの報告書
をジャフェに渡したと述べたとヒッチコックに言ったと述べた。」だから
サービスではなく、ラーセンが実際の容疑者なのである。
[2017年12月20日21時41分]
お名前: カーター
Chapter 26. 政府職員のケース
(Some Public Cases)

 国務省の被疑者のケースは当時の省内の安全保障上の活動及びタイディン
グス委員会がマッカーシーの被疑者の潔白を証明する方法について明らかに
してくれる。

ドロシー・ケニオン:
 ドロシー・ケニオンはニューヨーク市の判事であったが、国務省の国連へ
の女性の地位に関する代理人なった。ケニオンは地位の高い職員ではなく、
彼女の国務省とのつながりもつい最近のものであり、奇妙な選任であった。
ケニオンの選任にはマッカーシーが使用した情報にヒントがあり、マッカー
シーのケースはケニオンが関与した多くの共産主義者のグループの記述から
成っていた。
 マッカーシーが提示した書類に対するケニオンの反応は、けんか腰であり
マッカーシーを見下し偽の情報であると非難した。ケニオンは準備していた
意見で乗り切るとバーク・ヒッケンルーパーの反対尋問にさらされた。彼女
の支持者は身を縮めた。ヒッケンルーパーは彼女に共産主義者のグループへ
の関与について問い質した。この結果、彼女の声のトーンは半分は告白で防
御に変わっていた。彼女の反応は「何も覚えていない。・・そこでスピーチ
をしたが、私は関係ない。わからない。覚えていない。・・記憶にない。」
と言うものであった。彼女は慢性の記憶喪失者のように見えた。
 ヒッケンルーパーの質問で、ケニオン判事はマッカーシーが非難した多く
の共産主義者の活動グループに関与していたことは疑いない。また国務省の
誰もケニオンが共産主義グループに関与していたかを聞いた者はいなかった。
国務省が安全保障上の基準を強化していなかったことも重要である。

ハルドア・ハンソン:
 ハンソンは国務省の正式な職員であった。彼は以前、国務次官補であるウ
イリアム・ベントンの下でのスタッフであった。マッカーシーが非難した時
点ではハンソンは海外援助を扱う国務省の部門長であった。1930年代に
彼は中国における共産主義の大義についてコメントを述べている。彼の著書
で、ジョン・サービスと同様に共産主義の中国に賛辞を送っている。紅軍と
蒋介石は1930年代に日本に対して国共合作を実施し、蒋介石はハンソン
から親切な言葉をかけられたが、ハンソンは共産主義の中国に曖昧な態度は
示さず全面的な賛辞を送った。マッカーシーはこの点を引用し、著者は共産
主義中国の同志であると疑わなかった。
 毛沢東を賛美し、共産主義者の無神論をそっけなく片付け、ソ連の影響を
否定した。またソ連自身が改革を行っているとして、「僧侶や王子の腐敗を
暴き、貴族の特権を廃止したソ連の外蒙古での政策を人民に訴えた。」と述
べている。また「我々は真の民主主義を達成する地域になりたい。共産党は
リベラルグループと同様に誠実に民主的な政府を樹立する。」とお決まりの
文句が何の懐疑も、政治的な反論もなくハンソンにより述べられている。
 ハンソンは1930年代に雑誌「デモクラシー」(共産主義に共鳴してい
たエドガー・スノーが編集長)に関与していた。タイデイングス委員会はス
ノー夫妻について何も知らず言うことができなかった。これについて、元「
デイリー・ワーカー」のルイス・ブデンスが攻撃を加えた。「ハルドア・ハ
ンソンは公式の情報に基づき共産党のメンバーだ。」とブデンスは述べた。
このことからタイデイングス及び民主党の同僚のやり方に疑いを持たざるを
得ない。

エスター・ブルナウアー:
 ブルナウアー夫人は1944年に国務省に入り、米国大学婦人協会
(AAUW) の元職員であったが、ハンソンらと同じように現れた。ブルナウ
アー夫人が証人台に立った時、彼女は情熱を込めてマッカーシーの批判を否
定して、彼女のために準備された多くの書類を提示した。マッカーシーは、
彼女がサンフランシスコの国際連合設立の会議でアルジャー・ヒスのアシス
タントとして仕えたと述べた。彼女はそうではなく、ヒスが全体会議の議長
であった間アメリカの代表として働いたと反論した。これは言い逃れで曖昧
にしている。
 彼女はアメリカ青年会議(AYC)の会合にも参加している。共産主義者がし
ばしばその会議の始まりを引き受けた。マッカーシーはまたブルナウアーは
全米平和連合の役員をしていたと批判した。マッカーシーはこのグループは
下院の非米委員会により破壊分子的であるとされており、リーダーはデイリ
ーワーカーの編集長をしていたクラレンス・ハサウェイであったと述べた。
ブルナウアーは再度否定した平和連合の活動は愛国的なもので共産主義的で
はなく、クラレンス・ハサウェイは何の関係もないと述べた。しかし、証拠
は存在した。1944年の下院の非米委員会のレポートに「平和連合は共産
主義のグループと同じゴールを目指し、リーダーはハサウェイであった。」
と記載されていた。
 彼女の夫のステフェンは海軍の秘密兵器の仕事をしていた。マッカーシー
はタイディングス委員会でステフェンが安全保障上の調査を受けていないか
と問題提起をした。しかし、委員会はマッカーシーの主張を否定した。19
51年4月にタイディングス聴聞会の一年後にブルナウアー夫妻は二人とも
停職となった。二人とも共産主義者のグループと接触したと言うものだった。

グスタヴォ・デュラン:
 デュランはスペイン内戦の際にソ連のスパイとして諜報レポートに名前が
出ているが、その後国連にとても簡単に移動した。タイディングスはその理
由を調査すると言ったが、調査は行われなかった。ホワイトハウスが記録を
提供するのを拒否したからだ。
 半世紀後にエール大学出版局がスペイン内戦に関するソ連の公文書の記録
(スペインの戦争をソ連がコントロールし利用しようとしていたという内容
)を「スペインの背信」と言う名で出版した。共産主義者としてリストされ
ていたのはグスタヴォ・デュランであった。報告書ではクレバー将軍がデュ
ランの司令官で次のような証言がある。「デュラン同志は若くて優秀な奴で
党に奉仕し、マドリッドでは通訳して働き、前線では私の助手でスタッフの
内のチーフであった。」

 これらすべてから、安全保障と忠誠心の問題は決して終わったわけではな
く、またマッカーシー以前でも行われて来た。しかし、それらのケースにつ
いて一旦告知をすると物事は突然変わって行った。


[2017年12月19日22時11分]
お名前: カーター
Chapter 25. 殉教者の本
(A Book of Martyrs)

 多くの著者の主題は、タイディングス委員会及び国務省ののマッカーシー
の詐欺のような非難についてのコメントを単に受け入れたものであった。し
かし、マッカーシーが時々公開した名前は、他のルートから知られるように
なったものもあった。より詳細なものはFBI の記録でありマッカーシーのケ
ースの名前がたくさんあり、議会の後の調査で表面に出て来たで別の人達も
いた。これらの情報源について意見を求めるとマッカーシーの最初の被疑者
に関するものでタイディングスの記録から消えたかなりの人数、またマッカ
ーシーが彼らについて知ったことについて発見することができる。

 E. J. アスクウィズ:
 エドナ・ジェリー・アスクウィズは国務省でアメリカ大陸間の事項の調整
を行う職員であった。ロバート・ミラー、ベルナルド・レドモント、ジェセ
フ・グレグ(ミラー、レドモンド、グレグはベントレーの被疑者)など色々
とターゲットの豊富な部門であった。アスクウィズはマリー・ジェーン・キ
ーニーの仲間と接触しており、ソ連のタス通信のデヴィッド・ヴァール、ヘ
レン・スコットなどがいた。
 上司のマロンはアスクウィズはベルナルド・レドモントらとは通常の交流
以上のものはなかったと感じていたが。しかしFBI はそうは考えなかった。
特にレドモントとその夫人のジョーンとは、アスクウィズはしばしば事務所
の外でも会っていた。FBI はアスクウィズがアリクス・ルーサーの家でマリ
ー・ジェーン・キーニーやデヴィッド・ヴァールらとのパーティーに来てい
るの監視していた。
 マッカーシーが非難するまで、1950年までアスクウィズは国務省に在
籍したが、マッカーシーがタイディングズにリストを渡した後にリストから
消えた。気づかれないような方法を取ったのだ。

 ロワ・カーライル:
カーライルはOSS から国務省へ移動した。彼女はワシントンのマリー・ジェ
ーン・キーニーのアパートと同じフロアに住んでおり、彼女と親しかった。
OSS の職員、共産主義者が支配する公務員労働者連合の活動家、フランシス
・ビドルにより偽装団体であるとされたワシントンブックショップのメンバ
ーでもあった。
 カーライルは国務省の安全保障についてのチェックをパスしたが、194
7年2月のFBI のメモによれば、その時に好意的な弁護を行ったのが、マリ
ー・ジェーン・キーニーであった。FBI によればカーライルはマリー・ジェ
ーン・キーニーにより共産主義者となった。1950年にマッカーシーによ
り彼女のケースはまとめられ、タイディングズに提出された。

 フランセス・フェリー:
フランセス・フェリーはマッカーシーが最初の演説で使用したケースだ。マ
ッカーシーは上院での演説で、彼女は共産主義者と友人であり、デイリー・
ワーカーの読者であったと不名誉な情報でまとめた。「彼女は現在でも国務
省ではなくCIA で仕事をしている。」マッカーシーの発言は正しかった。リ
ー・リストが作成された時にフェリーはCIA ではなく国務省にいたからだ。
 フェリーがCIA に移動する時にマッカーシーは長官のロスコー・ヒレンコ
エターに直接に警告をした。CIA は調査を行ったが、フェリーは忠誠心のリ
スクはないと決定した。そしてフェリーの記録は他の被疑者のものと同じく
公式の記録から消えてしまった。

 ハーバート・フィアスト:
マッカーシーの匿名のケースの中でも重要なのがハーバート・フィアストで
ある。フィアストは、国務省次官補に二人の共産主義者を雇うように説得し
たこと、またソ連のスパイに接触していたと非難されている。フィアストは
ヘンリー・コリンズとゴードン・グリフィスを推薦した。実際に雇用した職
員は戦後の占領地の人事を担当していたジョン・ヒルドリングであった。
 ウィテカー・チェンバースによれば、コリンズはチェンバースが指示して
いたワシントンの共産主義者のネットワークの一部であった。コリンズは共
産党員かと聞かれた時には黙秘権を使用した。ゴードン・グリフィスは、共
産党であること認め、ロバート・オッペンハイマーとともに1930年代の
カリフォルニア大学バークレー校の共産主義の小集団のメンバーであったこ
とを明らかにした。戦後にグリフィスはヨーロッパの占領地でFEA (海外経
済局)の職員として働いた。
 FBI の調査によれば、フィアストはソ連の大物スパイであるデヴィッド・
ヴァールとつながっていた。FBI の記録はフィアストはソ連のスパイである
ダンカン・リー及びマリー・ジェーン・キーニーと接触していたとしている。

 セオドア・ガイガー:
 ガイガーのケースは他のケースと同じように一般に周知されることはなく
タィディングス及び国務省に無視された。ガイガーは1930年代後半に共
産主義者のメンバーであったことが元共産主義者のウィリアム・カニングに
より確認されている。ガイガーはこれを否定したので、後の上司であるポー
ル・ホフマンはガイガーを熱烈に支持した。しかし、マッカーシーを説得す
ることはできなかった。
 ガイガーの弁護士によれば、「彼は共産党に入りたかったが実際にはメン
バーにはならなかった。その後ガイガーはヒトラー・スターリン(独ソ不可
侵)条約に幻滅し、同志と絶交したのであった。・・もっと早く話していた
ら国益となっていたであろうし、自分の人々も困らせることはなかったであ
ろう。」であった。セオドア・ガイガーが1950年に真実を話したのは良
かった。ミラード・タイディングスもマッカーシーを懲らしめるのでなく、
マッカーシーの話から真実を学べばもっと助かっていたのであるが。

 ヴィクター・ハント:
 ハントは独自には危険と言うわけではなかったが、マッカーシーによれば
より重要な被疑者である元VOA のルビー・パーソンズの影響を受けていた。
マッカーシーの非難を受けて、国務省はパーソンは1949年4月に辞職し
たとの文書を公開したが、1951年の国務省の職員のリストには残ってい
た。ハントは一時的に他の職場へ移りまた戻って来たのだが、戦後にはしば
しばこのようなケースはあった。

 デヴィッド・デマレスト・ロイド:
ロイドはホワイトハウスのスピーチライターであったため、匿名の被疑者の
中でも最初に確認された人物である。

 レンダー・B・ラヴェル:
レンダー・ラヴェルもヴィクター・ハントやジョン・T ・フィシュバーンと
同じように1950年に国務省のリストから消えたケースである。ラヴェル
は国務省の職員であり、外交局に属し、人事記録によればフランクフルトに
駐在した。

 ぺヴェリル・メイグス:
 メイグスは OSSから転入し、国務省職員組合の委員長であったが、安全
保障の調査員が彼の接触する相手を監視していた。これまでと同じくメイグ
スは解雇されずに1948年に辞職させられ陸軍に移転した。彼は許され、
陸軍のエコノミスト及び教育の専門家として雇用された。その後、陸軍はマ
ッカーシーの圧力でメイグスを解雇した。

 リチャード・ポスト:
ポストは共産主義の地下組織で知られたリーダーであった。さらにマッカー
シーは、ポストはスパイのネットワーク内での共産主義者のスパイであると
自認しているとセンセーショナルに非難した。

 ロウェナ・ロメル:
ロメル夫人は、ベントレーの告白以来、国務省のリスクある人物としてかな
り注意を引かれていた。ロメルはパヌーチが編集した名簿に記載されており
辞職を勧告された。しかし、そうはならなかった。彼女はロバート・ミラー
を国務省に連れて来た責任者であり、ミラーはベントレーが認めたソ連のス
パイであった。このことから、ロメルは警告すべき人物であった。しかし、
ロメルは1950年の2月まで、国務省に留まった。

 チャールズ・W・セイヤー:
 セイヤーはOSS からの移転組でVOA の局長になったが、しばしばマッカー
シーの非難の対象となった。セイヤーは1940年代に、OSS の職員であっ
たが、彼には二つの批判されるべき事がある。一つはユーゴスラビアでソ連
派及びチトー派のスパイを支援したこと、もう一つはホモであったことであ
る。



[2017年12月17日10時19分]
お名前: カーター
Chaper 24. ハリー・トルーマンとの問題
      (The Trouble with Harry)
 
 マッカーシーの時代と安全保障に係わる問題は、ハリー・トルーマンと言
う人物を最初に理解しないと理解できない。だが、簡単ではない。トルーマ
ンは難しい人間であった。トルーマンが共産主義者を政府から追い出したと
一般には考えられているが、実際はそうではない。彼が反共主義者ではなか
ったと言うのは疑わしい。しかし、彼はソ連やアメリカ人のスパイがどうな
っていたかをほとんど知らないし、政府にスパイがいたことなどについても
知ろうとしなかった。

 J・ロバートオッペンハイマー:
 J・ロバート・オッペンハイマーは有名な原子物理学者であったが、第二
次世界大戦の核プロジェクトで重要な役割を果たした。1941年3月28
日付けのFBI のメモによれば、彼はハーコン・シュバリエ(後に赤であった
ことを認めた)の家で共産主義のリーダーであったイサーク・フォルクとウ
ィリアム・シュナイダーマンに会った。FBI はこの時ソ連の代理人であった
スティーブ・ネルソン(カリフォルニアにいた)を監視していた。ネルソン
及びその他の大物の調査からFBI はオッペンハイマーについての多くの情報
を得て彼が共産党の秘密のメンバーであると断言した。冷戦によりソ連は、
同盟国から敵国へと変わった。1945年の11月中旬にFBIのフーバー長
官は、オッペンハイマーが共産主義者と関わっているとホワイトハウスと国
務省のジェームズ・バーンズ長官に報告書を提出した。
 しかしトルーマン政権は関心を示さなかった。引退させるどころか、核の
秘密に関する新しい重要な職務を与えたのだ。秘密の情報にアクセスできる
原子力委員会(GAC)の会長に任命されたのである。FBI のフーバーは再度
大統領に問題を提起したが無駄であった。オッペンハイマーが戦時中に貢献
したことがFBI の情報よりも勝っていたからだ。敵がベルリンである時と敵
がモスクワである時のリスクの違いについて、トルーマンらの心には響かな
かった。この事について多くのことが言われているが、彼らは明らかに冷戦
時の安全保障の問題について厳しくなかった。

 ハリー・デクスター・ホワイト:
 ハリー・デクスター・ホワイトのケースも、トルーマン政権では奇妙な扱
われ方をした。彼はモーゲンソー財務長官に多大な影響を与え、多くの国際
問題に関わり、彼の友人や仲間を財務省などに引き入れた。彼はウィティカ
ー・チェンバースやエリザベス・ベントレーに名指しされたソ連のスパイで
あり、後にヴェノナ文書に出て来る。彼は1945年以来、共産主義の浸透
の問題で多くのFBI レポートで主役を演じている。ホワイトは1946年の
初頭にトルーマンによりホワイト本人の発案であるIMF のトップに任命され
た。
 しかし1950年代になりホワイトの任命は政治的なスキャンダルへと発
展し、トルーマンはなぜソ連のスパイをIMF のトップにしたのかと問い詰め
られます。これに対してトルーマンは、「FBI がホワイトの情報をくれなか
ったからだ。それを知ってからは有効な行動を取り、ホワイトにFBI の調査
に協力する様にさせた。」と言った。実際にはFBI は報告書のコピーをホワ
イトハウスにホワイトがIMF の理事に就任する前に直接送っていた。フーバ
ー長官はFBI の協力の下にホワイトが就任したと言う事実をきっぱりと否定
した。トルーマンはホワイトのIMF 理事への就任に祝福の手紙を送っている。
この大げさな手紙は1946年4月30日の日付であり、FBI がホワイトが
ソ連のスパイであると警告してから6ヶ月の後のことだ。

 アルジャー・ヒス:
 アルジャー・ヒスのケースも安全保障に無関心であったことの証拠である。
また、トルーマン政権の安全保障の諜報を無視するだけでなく、その情報を
提供した証人に嫌がらせをしたケースであった。FBI はヒスに関する多くの
情報を上層部に提供したが、それは1945年の秋であった。国務省のジェ
ームズ・バーンズは1946年にヒスは退職させるべきであると決定し、そ
の10ヶ月後にヒスは辞職した。
 しかし、1948年にヒスとチャンバースとの争いが公になると、トルー
マン政権はヒスではなくチャンバースの信用を落とそうとした。そして、チ
ャンバースを偽証罪で確定させようとした。ヒスとホワイトが1930年代
にソ連のスパイであったチャンバースに提供した秘密のデータを、チャンバ
ースは証拠書類として提出し、ヒスが嘘をついているとした。チャンバース
にとって幸運だったのは、下院で陣頭指揮を取るロバート・ストリップリン
グと共和党の新人であるリチャード・ニクソンがいたことだ。チャンバース
を有罪にしようと政府が計画していることを知ると、彼らは大声で抗議をし
た。
 正気が勝ち、トルーマン政権はチャンバースの偽証罪を取り下げ、ヒスを
追求した。最終的にヒスは偽証罪の判決を受けるだろうが、チャンバースの
正当性は決定的とはならないだろう。後にトルーマンはテレビのインタビュ
ーで、「ヒスは共産主義者であったと思うか」の質問に対して、「そうは思
わない。」と答えた。

 オッペンハイマー、ホワイト、ヒスも有名なスパイでありトルーマン政権
で安全保障上の評価を全く得られなかった。しかし3人とも大統領のロイヤ
ルティ・プログラムの外で扱われた。ホワイト、ヒスは政府を去り、オッペ
ンハイマーは別のルートで処理された。

 エドワード・コンドン:
 もしロバート・オッペンハイマーがいなかったら、コンドン博士が冷戦時
の最も恐ろしいリスクであったと位置づけられる。トルーマン政権のやり方
にには抜け穴があり、本質では弱さを露呈していた。コンドンは物理学者で
あったが、安全保障及び共産主義国とアメリカとの関係に風変わりな見解と
奇妙なつながりを持っていた。彼は後に共産主義となるポーランド、チェコ、
ブルガリアなどの大使館に出入りしていた。核のスパイで亡命したポーラン
ド大使館のイグナチェ・ズロトフスキーとも接触していた。彼がロシアへ逃
亡しようとした時に、陸軍の安全保障の人々は1945年に反対の声を上げ
た。しかし、トルーマン政権は議会の反対にも拘わらず彼を商務省の米規格
基準局の長官に任命し、6年間在職した。規格基準局は核兵器、レーダー、
誘導ミサイルなどの多くの機密を扱っていた。
 商務省は1947年にFBI の報告書でついにコンドンの問題に気がついた。
しかし、下院の聴聞会でコンドンが東欧のシルバーマスター、マーサルカな
どのスパイとのつながっているとの判断が却下されたのだ。コンドンが忠誠
心を持たないと言う合理的な根拠がないと言うのである。コンドンは195
1年まで基準局に勤務した。

 ソロモン・アドラー:
 トルーマン時代の最も衝撃的なスキャンダルはアメラジア事件であった。
隠蔽、偽証、上層部による大陪審の不正操作とすべてがそろっていた。この
事件は1945年に明るみに出たが、トルーマンの知識は皆無であった。彼
は調査を命じたので、冷戦時の彼のタカ派のイメージに一致していると聞い
ている。しかし数週間も経つとすべてが反対になり、事件は固定され葬りさ
られた。この操作はトルーマンの取り巻きによりなされた。彼らは懲罰も受
けなければ、昇進する者もいた。隠蔽を暴露する盗聴はトルーマンにより命
令されたので、特に後になってから、彼がその不正について知らないのは信
じられない。 
 FBI は盗聴により、サービスがアドラーに接触し三人目の同居人との中国
での活動について知っていた。FBI のフーバー長官は、アドラーがチェンバ
ースとベントレーが言う共産主義のアパラチック(政治局員)であることを
知っていた。アドラーは財務省職員でありながらソ連のスパイであった。ア
ドラーは財務省に残り、昇進し、1946年には中国へ行くマーシャル将軍
のコンサルタントとなった。1947年には中国に関するデータを中国の司
令官であったウェデマイヤー将軍に提供した。1947年12月から194
8年2月まで国務省に、蒋介石の技術的、財政的なアドバイスをした。彼が
ソ連のスパイであり、蒋介石を追い落とそうとしたこともあり、彼がどのよ
うなカウンセルをしたかを推測するのは難しくない。彼はその後中国に渡り
共産党の建国を支援した。

 ウィリアム・レミントン
 ウィリアム・レミントンのケースは、ルーズベルトからトルーマンの10
年間に勤務先を変えたものだ。1945年の11月にベントレーにより、ス
パイ仲間の一員であったことをアドラーらのように名指しされたにも拘わら
ずできたのだ。FBI の報告によれば、連邦政府に55回のメモ、書面での警
告、口頭でレミントンのケースを述べた。海軍情報部では安全保障のデータ
で、レミントンを予備役将校から解雇する動きが見られた。しかし彼は後の
5年間に、役職を歴任し1948年には商務省の輸出管理委員会のチーフに
任命された。レミントンは海軍を解雇され、商務省も遅ればせながら解任し
たが、1949年にはFBI の報告にも拘わらず、セス・リチャードソンは、
彼を潔白だとして元の職務に戻した。これの根拠は、レミントンがソ連にデ
ータを提供したとしても、第二次大戦中はソ連は同盟国であったからだと言
うものだ。

 後に、ヒスのようにレミントンも赤のコネクションで偽証をしたことで有
罪の判決を受けた。それはトルーマンのロイヤルテイプログラムが、裁判で
有罪となるような言語道断の危険を取り去ることができないことを意味する。
トルーマン政権下が安全保障に関する取締りを行ったことは神話であった。

[2017年12月12日23時00分]
お名前: カーター
Chapter 23. 知りすぎた男
      (The Man Who Knew Too Much)

 マッカーシーは国務省内に安全保障上の被疑者に関する情報源を持ってい
るかと言う疑問があった。マッカーシーは内部情報を持たず、はったりをき
かしているだけだと言うのが国務省などの一般的な見方であった。マッカー
シーの政敵は、リストは匿名で番号がふられておりマッカーシーは被疑者の
名前する知らないと主張していた。

 マッカーシーには国務省内部に接触者がいることは多くの証拠があった。
しかし、多くはFBI の文書に見つけられトルーマン政権のスタッフの行動及
び見方がまとめられている。トルーマンのスタッフは確信し、何とか情報源
を探し出そうとした。

 マッカーシーは上院で「ジョン・サービスのファイルが紛失しており、探
し出そうとしたら、幹部の名前を引き合いに出してオフィスにあると言われ
た。」と述べた。マッカーシーは国務省の誰かに話していたのだ。タィディ
ングス委員会でも「彼は国務省内に情報源を持っている」とした。

 FBI の記録によれば、サービスのファイルはLRB 調査官ののシリル・クー
ムスに渡されていた。クームスは規則にこだわる人で、適切に扱われていな
いと信じて何ヶ月もそのケースに疑問を持っていた。ファイルの入手は大幅
な遅れがあり、クームスが受け取ったのはマッカーシーの演説から4日後で
あった。誰かがマッカーシーに内部情報を渡していた。

 トルーマンのスタッフはリークはLRB (ロイヤルティボード)であると考
え、それを止める対策を採るとした。ドーソンとボイルはFBI で調査をして
もらえないかと考えたが、FBI は犯罪ではなく政治的な問題であるからと断
わって来た。ジョン・サービスは共産主義者のボスでソ連のスパイであった
フィリップ・ジャフェに公文書を渡していたが、その後も5年間国務省に勤
務し続けた。

 3月14日にはマッカーシーはサービスのファイルが国務省とLRB との間
を行き来していると述べ、グスタボ・デュランの話をした。デュランはリー
リストにはない被疑者であり、1946年に国務省を離れ国際連合に移動し
た。マッカーシーはそのケースに詳しく、専門家のように講演した。デュラ
ンの過去のソ連のスパイとしてのスペイン内戦への関わりについてかなりの
文書の記録を紹介した。さらに後日、チャールズ・W ・セイヤーズの件や、
オーウェン・ラティモアの件にも言及した。

 クラウスメモをマッカーシーが手に入れたことに、国務省以外の情報源は
あり得なかった。クラウスメモ及び図は、多くのソ連のスパイ、共産主義者
を示していた。当時それぞれのケースは隠蔽されヒス、ロバート・ミラーら
は許され、追放されずに上品なやり方で辞職させられていた。臭い物にはふ
たをされたのだ。

 衝撃だったのは、マッカーシーがFBI の覆面捜査官の証言でポズニアクが
共産党員であったと述べたことであった。安全保障上のリスクはすでに処理
されたとするトルーマンと国務省に対して、ポズニアクはまだ国務省で仕事
をしていたのである。マッカーシーの圧力でポズニアクは国務省からIMF へ
移動となった。

 その証拠がどこから来たのかはミステリーであった。パット・マッカラン
上院議員が1954年に亡くなって同一の書類が彼の書庫から見つかったこ
とで、謎は解けた。マッカランの記録の中のポズニアクのファイルの証拠が
完全な形で示しているのは、マッカーシーはマッカランから証拠を受け取っ
たかもしれないのだ。

 1952年にマッカーシーは、トルーマン補佐官のフィレオ・ナッシュが
共産党の新派で北米におけるスパイであるとした。ナッシュはマッカーシー
の批判を卑劣な嘘であると非難した。ナッシュのケースは、無実の人々を中
傷するものだとする事例であるとの意見が行き交った。職員任用委員会は、
ナッシュの潔白を証明するためにFBI に書類を送った。

 ミリアム・ドハースは網にかかり、彼女はシリル・クームスとともに被疑
者となった。ドハース夫人は、FBI のメモによれば、反共のビジネスマンで
活動家であるアルフレッド・コールベルクに情報を提供しており、彼がそれ
をマッカランそしてマッカーシーに渡していたのである。

 トルーマン政権はFBI に全面的な調査を要求したが、FBI はドハースと
職員任用委員会の問題は政権内部の問題であるとして関与しなかった。トル
ーマン政権はマッカーシーの情報源を探るのに熱心で、ソ連のスパイや共産
主義者を探そうとせず、ゆるい安全保障基準に取り組もうともしなかった。
マッカーシーは安全保障上の情報源を持っていたのであり、国家的観点から
有益であり必要であった。


[2017年12月06日21時53分]
お名前: カーター
Chapter 22. 国務省の潔白の証明
       (All Clear in Foggy Bottom)

 国務省ではマッカーシーの非難はたわ言であり、安全保障を脅かしたとす
る被疑者はクリア(潔白の証明)されたと言われた。ジョン・ピュリフォイ
は、タイディングス委員会で1950年にマッカーシーの被疑者はすべてFBI
の調査を受けたか、あるいは大統領のロイヤルティプログラム及び国務省の安
全保障計画で処置され、または継続雇用が承認されたかであるとのべた。
 
 国務省のロイヤルティーボード(忠誠委員会)のコンラッド・スノー将軍の
コメントはわかりにくかった。トルーマンのロイヤルティープログラムの始ま
って以来、彼のボードは国務省職員の500人以上がFBI により忠誠心を調
査されているが、国務省には一人も共産主義者はいなかったと言った。FBI
を利用するやり方が国務省ではしばしば用いられた。

 ヒューバート・ハンフリーは、もし内通者が誰なのか明らかにされないの
なら、それはFBI 長官の義務の放棄ではないのかと逆にマッカーシーに尋ね
た。事実は、FBI は国務省の職員の潔白を証明せず、しようとも、できもし
なかった。FBI は調査を行い、情報を国務省などに提供した。潔白の証明は
FBI のではなく雇用者の責任である。

 FBI はそういう事項について推奨はできるが告訴する力も権能もない。そ
れは司法長官の管轄であり、トルーマン裁判でその力が使用されたのを唯一
の調査であるのをアメラジア事件でも見た。ハンフリー上院議員らも委員会
もその事を知らないとは信じられない。

 実際には潔白の証明はすべて国務省の問題である。このようにして決定さ
れるべきは、国務省による証明が意味するもの、またマッカーシーにより提
起されたケースにおいて正しく認められたかである。マッカーシーにとって
重要なのは、国務省がその記録が職員にふさわしくない人々の潔白を証明し
ていたことであった。

 1951年にロイヤルティ・レビュー・ボード(LRB) の委員長であったリチ
ャードソンが退任しヒルハム・ビンガムが代わった。ビンガムは要約して、
「国務省はロイヤルティボードにおける行動において、いかなる省よりも最
悪の記録を持っている。」と言った。ビンガムはさらにディーン・アチソン
に、「国務省のロイヤルティ・ボードは他の省と歩調を合わせていない。郵
便省は調査を受けた内の10%が退職されるべきで、商務省では6.5%が
、しかし、国務省では0なのだ。」と言った。

 ボードのメンバーは、「国務省にはロイヤルティの問題で解雇されたもの
がいない。・・その利益を守るべき国家は誤まった安全保障の考えを持って
いる。政府の最も重要な省が無力なのだ。」と言った。そのようなコメント
は、彼らが大統領のロイヤルティ・レビュー・ボード(LRB) から来たのである
から重要な意味を持つ。見解は、退屈なスノー、ピュリフォイ、タイディン
グス委員会のものとも違った。

 1952年の3月に国務省のスノー、カーライル・ハメルサインとマッカ
ラン、ファーガソンらが上院の歳入委員会で聴聞会が開催された。スノーは
マッカーシーが嘘つきだと批判したが、ファーガソンとマッカランは反論し
た。マッカランは「あなたは、マッカーシー上院議員が最初から最後まで嘘
を言ったと述べたが、それを証明することができるのか?」予想された通り
袋小路に入った。職員はこれを証明する事実を明らかにできなかった。

 スノーはマッカーシーがついた嘘だと言われるものを持って来たが、下記
のような意見の交換があった。
 
 スノーは「国務省に205人の共産主義者がいると言う嘘だ。」と言った。
マッカーシー「ジレット・モンロネー委員会はホイーリングに行き、その事
実が誤りであったことを認めた。」と言った。

 スノーはさらに「マッカーシーが、ディーン・アチソンが意識の高い委員
会を排除したと言ったが、これは手続き上の改変である。アチソンはこれと
は関係ない。」と言った。

 しかし、スノーはマッカーシーの数々の質問に対して「知らない」と答え
たので、マッカーシーは「どう言う理論で私が嘘をついたと言うのか?アチ
ソンはパヌーチの辞任を受け入れることで彼を解雇した。」と言った。

 エドワード・ポズニアクの件ではマッカーシーは、ポズニアクは共産党の
メンバーであるとの上院のFBI のレポートを読んでいた。ポズニアクも19
50年7月に潔白を証明されていたが「1948年の6月11日にポズニア
クに関するFBI の調査が始まっており、彼は1950年の11月9日に辞任
した」と言う答えを得た。ポズニアクは国務省のロイヤルティ・リスクの図
表に載らない元職員であった。


[2017年12月05日22時12分]
お名前: カーター
hapter 21. ファイルして忘れろ
       (File and Forget it)

 理論的には国務省の忠誠心や安全保障に関するファイルは、マッカーシー
のケース及びその批判のメリットの本質に関する不可解さを明らかにする必
要がある。しかし、扱われ方によりファイルはそれ自体かなり不可解となっ
た。マッカーシーは嘘をついていると言う批判があったが、FBI の記録によ
れば正しいことになる。解決策は上院による調査用の安全保障のファイルを
作ることだ。

 ブライアン・マクマホン上院議員はマッカーシーは被疑者に有利な情報を
削除して安全情報のファイルを選択的に読んでいると指摘した。しかし、議
会がそのファイルを閲覧しようとしても、トルーマン政府は数年間も対抗し
た。ウィリアム・レミントンとエドワード・コンドン博士の件でも政府は議
会にファイルを提出するのを拒否した。

 マッカーシーに有利となったのは、ファイルの提出を拒否することがトル
ーマン政権が何か隠しているように見えたことだ。3月10日にタイディン
グズは国務省は上院にファイルを自由に見て良いと発表した。しかし、ファ
イルは国務省の持ち物ではなくなり、上院から遠ざけるためホワイトハウス
に持ち込まれた。

 マッカーシーの非難を抑えるためにファイルを開放するには、ホワイトハ
ウスの制限、否認、前提条件が付けられた。多くの例外や但し書きがあった。
トルーマンは上院議員にファイルそのものではなく概要を見せようとした。
大統領は上院議員に同行してファイルを見せる時間があるとしたが、ノート
を取ることを禁止しようとした。

 マッカーシーは大統領がファイルを公表しないのは、何か隠しているから
ではないかと批判した。トルーマンはファイルの問題で突然方針転換し、上
院にファイルを公開すると述べた。タイディングズは、トルーマンにリー・
リストのケースは議会でも閲覧されマッカーシーのケースもリー・リストと
同じなのだから上院議員に記録を見せてもさらに問題は起きるわけでもない
からであると指摘した。

 しかし実際は違った。多くが削除されたのだ。オーウェン・ラティモア、
ジョン・スチュワート・サービス、マリー・ジェイン・キーニー、グスタボ
・デュラン、ハルドア・ハンソン、エドモンド・クラブ、テオドア・ガイガ
ーなどのマッカーシーの重要なケースが80のリストに載っていなかったの
だ。マッカーシーのすべてのケースの三分の一以上が削除されていた。

 マッカーシーのケースとリー・リストのすべてが重なっていたわけではな
い。80の内の10のケースは別のソースからのものだ。次の制限は、いか
なるファイルも1947年3月のトルーマンの許可なく閲覧できないと言う
ものだ。制限されたのはロバート・ミラーで1946年12月に国務省を退
職したのであるが、ミラーは1950年まで省内に残った。1950年まで
に国務省を去ったリチャード・ポスト、スタンリー・グレイズなどの職員の
氏名は削除された。しかし、上院議員がホワイトハウスを訪問しても専門家
でないため、ミラーやマリー・ジェイン・キーニーと平和と民主主義連盟、
中国支援評議会との関係などを理解するのは困難であった。

 マッカーシーはさらにファイルについて、指摘を始めた。国務省の安全保
障のファイルはルーズリーフに保管されていたので、何かがなくなっていて
も見つけることはできなかった。ファイルの扱いはだらしなく、多くの人が
閲覧することができた。規則や管理もないため、明らかに多くの部門の人間
がファイルを閲覧でき、ファイルを削除し、取り替えることができた。マッ
カーシーとヒッケンルーパーはファイルが盗まれたと言う噂に言及した。国
務省からは、マッカーシーは出鱈目を言っている、ファイルは全くなくなっ
ていないと強い反論があった。

 6月21日にタイディングズは、職員の忠誠心に関してFBI が作成した資
料は国務省に送付されたとFBI から連絡を受けたと述べた。マッカーシーの
要請を受けてFBI 長官は「FBI は国務省のファイルの作成には関わっておら
ず、調査は行っていない。」と否定した。これでマッカーシーは完全にタイ
ディングズ、国務省、トルーマンをノックアウトできると考えた。

 司法長官のハワード・マックグラスはタイディングズに、「国務省向けの
FBI の報告書を含むファイル以外のFBI の取調べは進んでいる。」と手紙
を書いた。タイディングズはマックグラスの手紙を報告書にはさみ、マッカ
ーシーのファイルの抜き取りがあるとの主張に根拠はないとした。

 はっきりしているのは、ロバート・ミラーのファイルはトルーマンの命令
で上院には公表されなかったのだ。ミラーのケースはFBI により調査され、
良く知られている。フーバーはマックグラスに、「FBI から送付された13
のケースがファイルにないのは大統領に押収されたからで、6のケースは移
動で国務省にいないからだ」と言った。

 そしてマッカーシーは、職員は1946年の秋に個人情報を削除する仕事
を与えられたと述べた。国務省はそれは書類の削除ではなく、整理だったの
だと反論した。その秋には議会の共和党が元気づけられることになった。

 1953年にマッカーシーの要請でヘレン・バログと言う国務省外国サー
ビスのファイル室主任が詳細を述べた。バログは外国サービスの個人ファイ
ルの保管規則は非常にゆるく、ファイルはあちこちに散らばっていた。30
0〜400人が記録を閲覧した。でも中でもファイル室で一番多く時間を過
ごしたのは、ジョン・スチュワート・サービスであったと述べたのである。
[2017年12月03日14時29分]
お名前: カーター
Chapter 20: 四つの委員会
(The Four Committees)

 マッカーシーが国務省内に57名の共産主義者の名簿を持っていることよ
りも重要なのはその個々のケースの内容であった。マッカーシーが無実の人
々に共産主義者の汚名を着せたと言う罪があることは確かであると多くの歴
史家に言われて来た。しかしどうやって真実を知ることができるのか?その
答えが知りたかったら、国務省のファイルを調べれば良い。しかし、そのよ
うな調査は行われず、重大な疑惑に関するものは内密に処理されて来た。

 マッカーシーが正しいかどうかの議論がされて来たが、その答えは国務省
のジョン・ピュリフォイらにより捏造された。マッカーシーの匿名のリスト
はリー・リストと全く同じであり、一方で無害で時代遅れの名簿であったと
言うものであった。そしてマッカーシーの非難は根拠のないもので、リー・
リスト及びマッカーシーのケースは安全保障上の問題はないとした。

 この考え方で決着したことが繰り返し述べられ、第80議会の4つの委員
会でリーリストは吟味され重要でないものとして却下された。共和党の支配
する議会でも同様の裁定がなされ、マッカーシーは自身の政党からも批判さ
れると言う厄介な立場に陥った。マッカーシーの伝記作家のデイヴィッド・
オシンスキーは、リー・リストは重要ではないと述べ、リー・リストの被疑
者は少し左翼であるだけだとしている。

 1948年の公聴会で、国務省は防戦し破壊分子はいないと下院の共和党
議員を満足させた。しかし重要なのはリストではなく、安全保障に問題があ
ったかどうかである。下記はリー・リストからの抜粋であるが、国務省、タ
イディングス及び歴史家が言及し忘れているものである。

・調査中であるが彼は共産党員である。彼の弟は安全保障の問題から退職を
 勧告された。
・シカゴ警察は1930年に彼を共産主義者としてリストした。
・被疑者とその夫はソ連のスパイとコンタクトしている。
・追跡するのに失敗している。情報提供者からニューアークの有名な共産主
 義者は共産党員であるとの連絡があった。

 下院歳出委員会で共和党のジョン・テイバーは国務省の安全保障の責任者
で管理部門長であったハミルトン・ロビンソンに言及した。主張は下記の通
りである。

  本委員会の証言を読むと業務を遂行する能力が備わっていない。不適格
 者を除くことに失敗している国務省に弁解の余地はない。・・・・

 共和党のフレッド・バスビーは、ロビンソンはポストに不適格であり追放
されるべきだと言った。バスビーはロビンソンとロバート・ミラーのケース
に疑問を呈した。ミラーはリー・リストの重要な被疑者であり、ベントレー
によりスパイだと言われ、FBI にも指摘されていた。バスビーによれば、ロ
ビンソンとミラーは又従兄弟であるだけでなく親密な間柄であった。

 ロビンソン自身は被疑者ではないが、安全保障の責任者としてロバート・
ミラーについて知るべきだったが、破壊分子であることを感づくこともなか
った。ミラーは1930年にモスクワに行き、モスクワデイリーニューズ(
ソ連のプロパガンダ組織)のジェニー・レヴィーと結婚した。バスビーは、
ロビンソンほどナイーブな人はいないと言った。

 ロビンソンはミラーとの関係を否定したがFBI の調査によれば、1947
年の2月12日にミラーは国務省のハミルトン・ロビンソンのオフィスを訪
問し、12時35分に彼らは昼食のためタクシーでウィアリーシーフードレ
ストランに行き戻って来た。

 1946年の12月にFBI はミラーとピュリフォイの会話を盗聴した。彼
らはミラーの辞職について話していた。ピュリフォイがミラーのことを知ら
ないと言うのは嘘であった。ロビンソンとミラーの関係を知るのは恐ろしい
ことだ。ソ連のスパイが国務省内の職員であったのだ。そのことはタイディ
ングス委員会でも無視された。

 1947年の6月にファーガソンは上院予算委員会でマーシャル国務長官
に安全保障問題について話した。メンバーは詳細をマーシャルに報告した。
ファーガソンがこれを記録に残している。

 「国務次官補のディーン・アチソンの下の国務省で起きている状況に注意
 する必要がある。共産主義者を高い地位に置くだけでなく、安全保障を損
 ない、諜報活動を無効にする計画が存在する。
  FBI の報告ではソ連のスパイがアメリカで活動し、国務省の職員や高官
 を多く巻き込んでいる。報告書は、管理責任を非難されるべき人々により
 無視されて来たがアチソンの暗黙の了解があった。」

[2017年11月29日21時51分]
お名前: カーター
hapter 19: 氏名と人数
       (Of Names and Numbers)

 FBIのスパイであったROBERT E. LEEはシカゴ生まれのアイルランド系のカ
トリック教徒であった。1947年の秋に彼は国務省の安全保障の記録を見
直す様に任命された。歳出委員会用に編集された有名なリーリストの生みの
親となった。リーリストは単なるリストではなく内容のある文書であった。
国務省の安全保障に関する有益な情報を供給しているからだ。

 まず名前が番号とともに表示され63人の氏名が確認できる。国と職員の
安全保障に係るかなり長いメモが同時に添付されている。マッカーシーは演
説で、同僚に知らせないでこのリストを利用すると言うミスを犯した。理由
は良くわからないが、彼がこのリストを引用しなかったため批判されること
となり、安全保障の情報が意味することからリストがどこから来たのかと言
う方法論的な質問へとそらしてしまった。

 マッカーシーはリーリスト以外は持っておらず、同僚を納得させる国務省
の内部情報も得ていなかった。リーリストは2年前のものであり、多くの職
員が1948年に有していたポストを離れており次代遅れのものであった。
彼は他にも情報を持っていたが、80%のデータはリーリストからのもので
あった。

 マッカーシーが演説に使用したリーリスト以外のものは、彼がホイーリン
グの演説や上院でも繰り返し述べられたジョン・スチュワート・サービス、
マリー・ジェイン・キーニー、グスタヴォ・デュラン、そしてハーロー・シ
ェイプリー4つのケースであった。この4人はリーリストに掲載されていな
いものであった。マッカーシーが加えた被疑者には、ニューヨークのVOAの
スタッフもいた。彼らは赤かその類であった。しかし、これらのリーリスト
以外のグループについてもVOAからの情報であった。

 国務省の職員は辞職により分離されたり、配置転換により戦後に生まれた
国際機関に移動となった。マッカーシーが気づいているように、彼らは国際
連合に現れた。スタヴォ・デュラン、スタンリー・グレイズ及びマリー・ジ
ェイン・キーニーらは国務省職員であったが、1950年には国際連合で働
いていた。

 3月18日にマッカーシーは委員会に80人の被疑者の名簿を提出した。
彼はさらに25人の追加の名簿を提出した。3人は重複していたので、彼は
合計102人の名簿を提出したことになる。

 タイディングズは名簿を吟味すると言ったが、何も報告は行わなかった。
委員会のメンバーは国務省に問い合わせることすらしなかった。マッカーシ
ーは名簿の証拠を提出しなかったため、委員会は見ることもしなかったので
ある。

 1950年の国務省には一体何人のマッカーシーの事例があるのかと言う
質問に対して、彼が最初の演説で述べたように57人であると言われる。し
かし、国務省の名簿をチェックすると57人と言う数字は誤りであることが
わかる。67人がいたのだ。さらに13人は国務省以外の場所で働いていた
のだ。結局1950年には80人が働いていたことになる。

 国務省とタイディングズの安全保障問題は終了した。マッカーシーの案件
の扱いは曖昧にされ矮小化された。重大な案件も時の流れとともに下降して
行き、被疑者は辞職と言う方法で処理されて行った。

[2017年11月28日22時27分]
お名前: カーター
Chapter 18: 大ぼらとペテン
(A Fraud and a Hoax)

 タイディングズの報告書については、記録が抜けているものがあった。最
初に問題を見つけたのは、ヘンリー・カボット・ロッジであった。多くの重
要なトピックが掲載されおらず、彼が提示した一連の質問も返答されていな
かった。聴聞会の大部分は消えていたのだ。ロッジは、「ミシガンの上院議
員(マッカーシーのこと)は、削除されたことを知っているのか?」と質問
した。

 ロッジはさらに、これらのページは非常に重要な事項であり、削除は事故
ではないと述べた。誰かが意図的に35ページを削除し、体裁を整えたのだ。
消失したページはファーガソンにより、付録として挿入され発行された。削
除された部分は小委員会の質問のやり取りを含むもので、議論を呼ぶ内容で
あった。

 最初の章は、国務省の忠誠心の問題、安全保障の確立、あるいは個別のケ
ースの長所ではなく、マッカーシーの並外れた悪漢ぶりに関するものだった。
マッカーシーは間違った主張をし、話を変え、上院に対して嘘をついたと言
うのだ。

 ファーガソンはタイディングズの報告書に攻撃を加えた。削除された重要
な部分はクラウスメモから取られた図表であり、1946年の国務省におけ
る多くのスパイや共産主義者を示したものであった。タイディングズ委員会
の多くはこの問題には全く興味がなく、クラウスのメモがどこから出て来た
のかと言う方法論的な疑問に焦点を当てていた。またジョー・パヌーチによ
り示された安全保障上の被疑者、雑誌アメラジアの問題、1947年の国務
省内の奇妙な判決が無効となったこともあまり述べられていなかった。

 タイディングズの報告書はラーセンの根拠のない、少数派リーダーのネブ
ラスカの共和党のウェリー上院議員とのやり取りを載せた。マッカーシーへ
の批判に対して、多数派の報告書は「”彼の無責任な主張について、共和党
同僚による緊急の対策が必要だと言ったと述べている。”ウエリー議員はエ
マヌエル・S・ラーセン(国務省職員)に言った。”マッカーシーは孤立し、
馬鹿を見ているので、我々は彼を支援しなければならない。”」これを読ん
でウェリーは怒り、きっぱりと言ったことを否定し、憶測の事実としてラー
センのコメントを繰り返しているとタイディングズの報告書を批判した。

 ロッジは怒って言った。「これは中傷であり、汚い手を使って委員会の仕
事を難しくしている。報告書は虚構であり身勝手な議論としての価値しかな
い。彼らは重要な問題から注意をそらそうとしているのだ。もちろん、それ
は不適切な方法だ。」

 マッカーシーがホイーリングでの演説で、国務省内に205人の共産主義
者がいると嘘をついたことについて、タイディングズはレコードに録音して
あると言った。しかし、実際にはラジオ局では消去されており、レコードの
記録はなかった。演説の原稿のコピーがあるだけだった。マッカーシーは、
205人と言ったのではなく、57人と言っただけであった。マッカーシー
は嘘を言ったのではなく、本当のことを言ったのだ。

[2017年11月25日22時36分]
お名前: カーター
Chapter 17: 破滅の前兆
(Eve of Destruction)

 合衆国を裏切る人達が国務省に雇用されていたかどうか、タイディングズ
は調査すべきであったが調査はせず、聴聞会でもそれが目的であるとは言う
ことはなかった。立証及び調査はマッカーシーの責任となった。

 タイディングズはマッカーシーに、「あなたは合衆国の歴史で最も完全な
る調査を行おうとしている。」と言った時は真実に近かった。これに対して
マッカーシーは「いや、そうではない。」と言った。重要なのは、マッカー
シーがしようとしていることではなく、国家に対する忠誠心を調査するのが
重要なのだ。

 通常及び秘密裏において、タイディングズ委員会はマッカーシーの調査に
乗り出し、また系統的に調査した。国務省における忠誠心を調査することに
なっていたのが、マッカーシーの調査及び起訴へと変わって行ったのだ。マ
ッカーシーに対する批判は、まず演説に嘘があり205人の共産主義者がい
ると言わなかったこと、そして彼の情報新しいものではなく1947年の議
会にあったものだということであった。

 こうして政府及び仲間は告発者に対して攻勢に出た。タイディングズはト
ルーマンに願い出た。また、民主党員にもマッカーシーを引き降ろすための
協力を求めた。マッカーシーが嘘つきだと言う攻撃はひどくなり、彼の上院
及び国家への貢献は完全に破壊された。マッカーシーは、出所である上院に
了解なしに資料を使用したとして罰せられるべきだとされた。

 タイディングズが国務省と共謀していたことは明らかだ。重要なことは、
国務省が与えた情報以外には使用していないことだ。確かにマッカーシーは
多くの人達を怒らせたかもしれない。しかし、この大げさな反応は奇妙だ。
もし批評家が言うように、彼が間違っていたとしても、通常の議論で彼を負
かすと言う単純なことができないのか?ジョー・マッカーシーの運命は最初
からこのような定めだったのだ。
[2017年11月23日10時52分]
お名前: カーター
Chapter 16: タイディングズの見解
(Tydings Version)

 1950年代ミリヤード・タイディングズの委員会ではマッカーシーらと
の白熱した議論が行われた。現在、マッカーシーの初期の主張が歴史的な事
実であるとされるのは、タイディングズ及びその委員会の報告書による。小
委員会は国務省の職員が合衆国に不誠実であったかを調査する必要があった。
 
 タイディングズが委員長で、民主党はコネチカットのブライアン・マクマ
ホン、ロードアイランドのセオドア・グリーンで二人ともニュー・ディーラ
ーであり、共和党からは保守的なアイオワのヒッケンルーパー、マサチュー
セッツの穏健なロッジらが委員であった。そして、ワシントンの弁護士であ
るエドワード・モーガンが顧問、安全保障の専門家であるロバート・モリス
が後に加わり共和党員を支援した。

 タイディングズ委員会は1950年3月8日にマッカーシーを最初の証人
として始まった。マッカーシーは17分間の発表に際して85回もの妨害を
受けた。タイディングズとグリーンは疑いのある職員の名前を公表できるか
とと尋ね、マッカーシーは秩序立って議論したいが、すべてを知っているわ
けでないため、適当な時期に特別なケースで扱うとした。すると、タイディ
ングズは非難を始め、「君は完全な調査をしなければならない。君は一体こ
の男を知っているのかね?」と尋ねた。

 これに対して共和党側からは強い反感が生まれ、ロッジは次のように抗議
した。

 「委員長、これは異常なやり方だ。マッカーシー議員は通常の扱いを受け
 られないのか。発表を終える前になぜ反対尋問を受けるのか。彼は礼儀を
 わきまえている。発表をさせるべきだ。・・・」

 マッカーシーはLEE リストから次の9つのケースを明らかにした。

 ケニオン判事、フィリップ・C・ジェサップ大使、国務省職員ハルドア・
ハンソン及びエスター・ブルナウアー、ジョン・ホプキンス大学のオーウェ
ン・ラティモア教授、元国務省職員グスタヴォ・デュラン、国務省UNESCO
担当のハーロー・シェイプリー、ジョン・スチュアート・サービス、フレ
デリック・シューマン博士(国務省の外交の講師)である。
 
 マッカーシーは非難の内容を始めた時には予想されたよりも多くの証拠
を準備していた。ケニオン判事のケースでは、彼女の側にある共産主義の
団体の長いリスト、手紙の写し、会合の通知などでグループの一体感を示
すものであった。スター・ブルナウアーは共産主義の団体とのつながりが
あり、彼女の夫はもっと強いつながりがあった。

 ハロルド・ハンソンのケースでは、その書物からラティモア教授との関
連、アメラジア及びIPR(太平洋問題調査会)とのつながりを扱った。グス
タヴォ・デュランはFBIの抗議に対し国務省により潔白を証明されたが、辞
職し国際連合に移動した。マッカーシーはデュランがソ連のスパイであっ
た多くの証拠を読み上げた。サービスについてはマッカーシーはアメラジ
アのつながりを述べた。シューマンとシェイプリーも共産主義団体とのつ
ながりがあったが、国務省はその活動を阻むことができなかった。

 非難に対して返事をする権利は、名指しされた人々において、真実を調
査する上でのステップとして適切であり必須であった。フィリップ・ジェ
サップのケースは、この方法をうまく現していた。かれは特使であったが
マッカーサーのリストでは高官であった。委員会でマッカーシーからは共
産主義への異常な親近感としてか言及されていなかった。ケニオンのケー
スの挿話として語られた。

 ジェサップは、委員会で家系や経歴、彼の判断を信じる著名な人達、彼
の国際連合での反ソ連のスピーチ、マッカーシーの非難の愚かさについて
話した。委員会でのジェサップ博士への判決に至る証拠はすべて出た。グ
リーンは、「ジェサップ博士すべて明らかとなった。おめでとう」と言っ
た。  

 ラティモアは1万語に及ぶ膨大な記録書を読み上げるのに、二時間半を
要した。彼は生活、経歴、著書などについて何の妨害もなく述べた。しか
し、元共産主義者のルイス・ブデンスは共産党の幹部が述べたところによ
るとラィテモアは共産党のスパイであり、ブデンスはラティモアが関与し
たプロパガンダなどについて4つのエピソードを紹介した。グリーンはブ
デンスがラティモアに会ってもいないのなぜ知っているかと言う質問をし
たが、ブデンスは後にヒッケンルーパーにスターリンには会っていないが
スターリンが共産主義者であることを知っているとした。

 元アメリカ共産党の党首であったアール・ブローダーはマッカーシーが
共産主義者としたラティモアやT.A.ビソンらのことは知らないとした。フ
ィリップ・ジャフェらのスパイ行為については曖昧であった。彼は国務省
内の共産主義者や内部にスパイを置いたことも否定した。外国から資金を
得たことやモスクワからの命令を受け取ったことも否定した。ブローダー
はドロシー・ケニオンなどの共産主義者について知っているかの質問に対
して、「返答しない」と言った。また「ヴィンセントとサービスについて
は、アメリカ共産党とは関係ない。」としたため、聴聞会は終了した。

 6月28日は最終日だったが、タイディングズもグリーンも「仕事はち
ゃんとやった。」と考えた。しかし、ヒッケンルーパーは「まだ始まって
もいない。」と述べた。ロッジは提案をして「18の質問は回答されてい
ない。」とした。モリスは共産党のメンバーであったセオドア・ガイガー
のケースが残っているとしたが、タイディングズはそれはFBI に引き継い
でもらい、ここで決定したいとした。報告書はモーガンにより作成される
こととし、タイディングズ委員会は終了した。

 アール・ブローダーに対してはヒッケンルーパーの質問に対して回答を
拒否したことで、小委員会により侮辱罪を課すと言う決定がなされた。ブ
ローダーはタイディングズにより回答するよう命じられてもいなかった。
これに対してブローダーはマッカーシーを証人に立てた。前共産党のボス
が、共産主義ハンターを防衛のために求めたのだ。マッカーシーは答えた。

 証人が証言を拒否したのは、委員長の心からの承認があるように見えた
からだ。委員長は、政府内に共産主義者がいたことを証人から引き出すこ
とに興味がなかったからだ。証人は委員長が隠蔽しようとしていることの
一つの役割を果たしたのだ。

 ブローダーの弁護士は、「ブローダーは質問には答えなかったが、大多
数が彼にそうして欲しかったからだ。法廷は被告はヒッケンルーパーの質
問に答える必要はなかったと判断して、ブローダーは無罪であるとの判決
を出した。

[2017年11月21日20時49分]
お名前: カーター
Chapter 15: 方法序説
(Discourse on Method)

 ワシントンサンデースター紙は、マッカーシーには3パラグラフの記事を
載せただけだったが、上院の民主党のリーダーであるスコット・ルーカスに
ついては長い記事を載せた。ルーカスはマッカーシーを非難して、「彼は事
実を述べていない」そして「彼に氏名を言わせるべきだ。」と要求した。

 月曜日の午後4時から5時にかけて、マッカーシーは通知していたように
上院の議場で立ち上がり告発を始め、それを裏付ける証拠を示した。証人に
よれば、フォルダーを大きく積み、彼は資料を読み、書類を見せ証拠を提示
した。長いプレゼンテーションは6時間に及び、国務省の将来のある職員が
大規模な転覆、安全保障上の破壊を行った80件に及ぶケースについて、列
挙した。

 マッカーシーのスピーチは新聞に載った記事とはそれほど異なってはいな
かったが、それは感動的なものですべてのアメリカ人に、自由主義の地域を
を縮小し帝国を拡大しているソ連とその仲間の計略に抵抗するよう、要求す
るものであった。マッカーシーは宗教的な用語を使用し、無神論の共産主義
は西側のキリスト教文明に対立するものだとした。アメリカには人材がおり
道徳水準も高く脅しに対抗する責任感もあるが、挑戦に効果的に受けて立つ
ことがなかったと。彼はこの文脈で、ジョン・サービス、グスタヴォ・デュ
ラン、メリージェーン・キーニーなどの名を挙げた。

 マッカーシーは、国を売る人間は財産のない者たちではなく、富める国で
最高の教育を受けて来た連中であり、国務省においては優秀で上流階級出身
の若者たちであった。特にアルジャー・ヒスがそうであり、ディーン・アチ
ソンは部下のヒスを「見捨てない」と言う有名な発言を行った。さらに、ア
チソンは、聖書のマタイを引用して「私が牢にいた時、私を尋ねてくれた」
と言ったが、マッカーシーはこれに激怒して「この気取ったストライプのズ
ボンの、偽の英国なまりの外交官め」と言った。

 マッカーシーの他の発言には、スターリンとルーズベルトとのヤルタ会談
に関するものがある。1949年の元FBI 調査員であったラリー・カーリー
の第二次体戦中のソ連に関する証言で、冷戦時の悪事はスパイ行為ではなく
海外におけるアメリカの行動に共産主義が影響を与えたということであると
言う主張である。敵にアメリカの政策を形作らせたからである。また彼は延
安の同志(中国共産党)の大儀を売り込んだサービスのレポートについて、
このケースはトルーマン政府により扱われたものだと鋭く批判した。国務省
及びホワイトハウスにおいて何かが大きく間違っているとした。

 マッカーシーのデータがどこから来たかを考えるにあたってヒントが得ら
れるケースがある。

ケース11:1943年の7月から1945年の8月までOSS に在籍した調
 査員は後に国務省でマップ・インテリジェンス部門で雇用された。彼はあ
 る共産主義者の仲間でこの国が共産主義の国になればいいと述べた。彼は
 デイリー・ワーカー(アメリカ共産党の新聞)の定期購読者であった。彼
 は現在は国務省ではなくCIA に勤務している。

ケース28: 1936年から国務省の外交官である。彼は現在でも高給を取
 り、現在はフランクフルトに駐在している。1947年6月の報告では、
 彼は共産党のメンバーであり、1937年にユース・インターナショナル
 に出席した。彼は共産主義的行為のためにAFL (政府職員組合)を解雇さ
 れた。彼の業務はFBI を攻撃するものだった。 

ケース46: 国務省の高位の人物でアメラジア誌事件に関与した。

 情報のソースとして、マッカーシーは繰り返し国務省のファイルあるいは
その安全保障担当者からから得られたものだと述べた。当然、国務省のアチ
ソン長官及び部下には知られていることである。マッカーシーはさらに、国
務省に忠実な職員がいなかったら、このようなデータを上院に提出すること
はできなかったであろうと述べた。忠実な職員とはジョー・パヌーチのグル
ープであり、マッカシーによれば「パヌーチは、バーンズ長官の下で自由に
人員整理の仕事ができたが、マーシャル長官が就任するとパヌーチは排除さ
れた。」

 マッカーシーは独断で、列挙したケースが安全保障上のリスクがあると言
うのではなく、データが国務省の記録としてあるのだと主張していた。彼は
申し立てではなく事実として共産主義者の確認を引用しようとした。

 しかし、民主党のスコット・ルーカスはマッカーシーに共産主義者の名前
を言って欲しいと述べた。例え彼らが共産主義者でなかったとしても、上院
議員は保護されると言う特権があるから。それに対してマッカーシーは、「
共産主義者の名前を出しても、そうでなかったらまずいことになる。でも、
私はケースの聴聞の後の上院の決定に従う。微妙なことは上院の秘密会を開
き、適切な委員会で調査すべきだと思う。」と述べた。また「共産党員及び
同調者の名前を知っているが、間違っているかもしれない。だから、上院が
要求するまで、私は言わない。」とも言った。

 ルーカスらの民主党の議員らは名前を言うように要求したが、マッカーシ
ーは断固として拒否した。明らかにルーカスらは、マッカーシーを議論にお
いておびき出し「マッカーシズム」へと根気強く導こうとしていた。

 このようにしてマッカーシーはスポットライトを浴びる表舞台に登場する
こととなり、彼はケース毎の情報を持ち込み、それらは小委員会のみならず
新聞にも発表されることになった。最初のケースは、ニューヨーク州判事の
ドロシー・ケニオンであった。彼女は共産主義者との幅広い親交があったこ
とを示す記録があった。

 マッカーシズムはついにスタートした。彼は被疑者の名前を挙げることに
ついて責任を取ることになった。ミリヤード・タイディングス委員長による
聴聞会で来るべき予兆を見たのであった。


[2017年11月20日21時56分]
お名前: カーター
Chapter 14: ホィーリングでの演説
(Wheeling, 1950)

 1950年2月9日(木)、マッカーシーはウエスト・バージニア州のホ
ィーリングでの女性共和党クラブのホテルマクルアでの会合で演説を行った。
彼は275人の聴衆に向かって、国務省における共産主義の浸透は深刻な問
題であり、適切に処理されてないので強力な修正が必要であると述べた。国
務省に何人の共産主義者がいたかが後の論争となった。
 翌日地方紙のホィーリング・インテリゲンサーは、フランク・デスモンド
の名前で次のような記事を載せた。「私は国務省内の共産主義者のメンバー
の205名のリストを持っている。彼らはまだ国務省で働いており政策を形
成している。」同様の内容はAP通信などでも繰り返されたが、マッカーシー
は常にこの内容を否定した。彼の意見は、実際に国務省内にいる正真正銘の
共産主義者あるいは共産党に忠実な人々のリストを持っているが、その人数
は57人であり205人ではない。205人と言うのは、国務省長官のジェ
ームズ・バーンズからアドルフ・サバスに1946年に書かれた手紙に由来
する統計値であった。

 しかし重要なのは数字ではなく冷戦時の行為であり、ソ連のスパイや共産
党員が国務省内にはびこり、1950年になっても活動を行っていたと言う
ことである。マッカーシーの言葉や数字ではなく、国務省の安全保障の仕組
みを調査し、省内の職員がもたらした主役や真相を調査することである。
 そうは言っても、タイディングズ委員会で作成された報告では205と言
う数字が残り、ウイリアム・ベントン上院議員はマッカーシーを上院から追
放するために後にこれを使うことになるのだ。多くの記事、書物などのメデ
ィアが、マッカーシーは205人のリストを持っていると嘘の主張し、後に
取り消し、話を変えたと主張した。

 ホィーリングでのラジオ放送の録音は消されていた。インテリゲンサー紙
のデスモンドの記事は205人の数字が載っていたが、ホィーリングでの演
説用にマッカーシーが持って来た原稿には205人の数字が見えた。これら
の証拠は消された録音の代わりになった。
 上院の議事運営委員会のジレット委員長による調査が行われ、40ページ
の報告書が作成された。興味深いのは、スピーチの前のマッカーシーの状況
が記されていることであり、マッカーシーは共和党の関係者と会い演説の原
稿のコピーを渡したが、これは演説の前に改訂される草稿であるとした。

 調査メモにより報告者のデスモンドは、205人の数字は演説の原稿にあ
ったものでマッカーシーが実際に語ったものではないと認めた。マッカーシ
ーは原稿には従わず演壇を行ったり来たりしながら即興で話したとのだ。ま
た、重要なのは数人の証人へのインタビューであり、ウィリアム・キャラハ
ンとの対話は次の通りである。

 調査員の一人でダニエル・バクリーは、共産主義者は200か205人で
57人とも言った。インテリゲンザーの編集者であるギースケは、そこにい
たが205人は聞いていない。デスモンドは変更されるかもしれないマッカ
ーシーの原稿に基づいていた。
 2000年の3月に50周年を記念して、3人の証人の証言が得られた。
エバ・ロー・インガソル、ダグラス・マッケイ及びベン・ホーネッカーであ
る。3人ともマッカーシーは即興で話し、原稿を読んでいなかったと言うも
のである。ギースケの証言と同じであり、ラジオの証言は間違いであった。
 より詳細な説明はインガソル(MRS)によりなされた。ギースケは正しく、
タイディング・ベントンの主張は間違いであると言った。そのやり取りは次
の通りである。

問「タイディングらは、マッカーシーが205人の共産主義者のリストを
  持っていると言ったと言っているが?}
答「それは違う。205人の内に正真正銘の共産主義者が57人いると言
  うものだ。205人ではない。」 

 彼女はペンで走り書きのメモを取ったために、はっきりと記憶に留めて
いたのだ。もう二人の記憶ははっきりしておらず、数字にとらわれていな
かったと言うものであった。上記の証言は、編集長のハーマン・ギースケ
の書いた内容と同様であった。2月11日に記事は次の通りである。

 マッカーシー上院議員は「50人以上の共産主義者がアメリカ国務省内
におり、アチソン長官は共産主義の浸透をを知らなかった。アルジャー・
ヒスがその例である」と聴衆を驚かした。

 その内容を補強するのが、マッカーシーがその後立ち寄ったコロラド州
デンバーでの演説である。1950年2月11日のデンバーポストの記事
の見出しは「マッカーシーによれば、57人の共産主義者がアメリカの政
策を形成している。」となっている。マッカーシーはその後のソルトレイ
クシティーでも、57人の共産主義者と述べている。

 小委員会は最終報告を提出し、ホィーリングでの数字は大きいものでは
なかったとした。ベントンの批判は議論から取り下げられた。しかし、そ
れでも「マッカーシーが205人の共産主義者のリストを持っている」と
の嘘の内容が、多くの本やメディアに引用され、ジョー・マッカーシーは
嘘つきだと言われているのである。一般的な扱いと事実との間には殺伐と
したコントラストがあり、現在もマッカーシーの読者に議論をもたらして
いる。

[2017年11月18日23時07分]
お名前: カーター
Chapter 13: 議会の行動
      (Act of Congress)


 マーチン・ダイスが連邦職員の安全保障上の被疑者のリストを編集してい
た時には、アメリカは平和であり政府はまだ大恐慌と格闘していており、国
内問題が重要であった。しかし、真珠湾攻撃が起こると政府の姿勢は世界を
向き、国務省も同じ方向を向いた。

 戦後になると、議員の中には安全保障の問題を掘り下げる人が出て来て、
ジョージ・ドンデロ(共和党)はアメラジア事件について調査を要求し、ポ
ール・シェーファー(共和党)は国務省のスタッフや政策の変化、つまりジ
ョセフ・グルーの退任及びアチソンの勢力の増大について酷評した。アンド
リュー・メイ(民主党)はソ連寄りの職員の排除を要求し、ケネス・マッケ
ラー(民主党)はグスタヴォ・デュラン及びアルジャー・ヒスに関するFBI
の情報を要求した。

 1946年の後半には、視点は異なるが両院の両党のメンバーが安全保障
に的を絞って来た。11月には共和党が議会で圧勝したが、大恐慌以来の共
和党の支配する議会をもたらした。それまでは国務省などでは国家への忠誠
心で問題が起こっていた。共和党は共産主義の浸透を心配しており、反共の
キャンペーンを始めた。

 1月21日には、再三のバーンズの辞職の要請が受け入れられ、ジョージ
・マーシャル将軍がに交代した。マーシャルは軍人出身であるため、バーン
ズ以上に国務省の実務に疎く、すでに勢力のあったアチソンに留任を依頼し
省内のことは彼に任せた。ジョー・パヌーチはドナルド・ラッセルの後ろ盾
を失い、アチソンの支配するオフィスを去った。強硬派は去って行った。安
全保障を担当したのは、二人のアチソンの弟子であり、行政担当補佐官のジ
ョン・ピュリフォイ及び新任管理局長のハミルトン・ロビンソンであった。

 議会は立法のみならず監視の権限を持っているのが、国務省にとっては悩
みであり、誰かが安全保障の問題についてうっかりしゃべるのではないかが
心配であった。クラウスは、議会の抗議を阻止するためにマーシャルの権威
を利用して、マーシャル長官が現在の安全保障上の問題を適切に処理すると
の保証を行ったが、歓迎されない質問が妨げられることはなかった。中でも
バーテル・ジョンクマンは、マルザー二がまだ解雇されていないことに苛立
ち、クラウスに「バーンズ長官らが約束したのにだまされた。」と言った。
 
 カール・ステファンは国務省の予算を牛耳る下院歳出委員会の新しい委員
長であったが、彼は1947年の3月に36名以上の名簿を国務省に提出し
国家への忠誠心に疑問があるので報告を要求した。クラウスは答えて、次の
ように回答した。

I.依然として雇用されている職員:
1.国務省により調査され、反対の見解が出ていないもの
 ハルドア・E・ハンソンらの9人
2.国務省により現在調査中のもの。最初の3人は国家公務員任用委員会に
 より資格があるとされている。
 セオドア・ガイガー、アレクサンダー・レッサー、ぺヴェリル・メイグス
 その他7人は(調査中)

II.すでに雇用されていない職員:
1.カール・A・マルザー二はマッカラン条項により解雇された。
2.H. S.バートンはルールXIIにより解雇された。
3.調査を終了し、退職の際に反対意見が出なかったもの。
 クライド・イーグルトン(退職)
 ハーバート・S・マークス(原子力エネルギー委員会へ転出)
 モンロー・B・ホール(退職)
 アブラハム・ピヴォウィッツ(期間雇用の終了で退職)
4.調査が完了していないが、反対意見は出ていない。
(a)国家公務員任用委員会により資格ありとみなされた。
  ロバート・T・ミラーら10人。
 (b)調査され、OSSにより承認された。
   アレクサンダー・S・ヴィシニチ(退職)、
   ウィリアム・W・ロックウッド(退職)
(c)その他
   クリフトン・リード(退職)、アルジャー・ヒス(退職)、
   ベス・ロマックス・ホーズ(影響力の削減)
   チャールズ・A・ペイジ(退職)

 共和党のフレッド・バスビーはクラウスと共にニューヨークのVOA の放送
局を二度訪れた。その後バスビーはベントンの事務所を訪れて、「文化部門
には共産主義者の浸透したOWI からの多くの残党がいる。」と言って、その
人の名前を読み上げた。1947年の春には、議会での安全保障に関する関
心が高まり、多くの下院議員が警告を発した。

 このような圧力を和らげるために、ホワイトハウスは遠大な計画を発表し
た。つまり、政府の職員は地位、部局に拘わらず調査を受ける義務があると
言うものだ。合衆国への忠誠を吟味されるのである。その結果、おなじみの
グレゴリー・シルバーマスター、アルジャー・ヒス、ハリー・ホワイトなど
が召喚された。しかし、ベントレー事件の関係者は起訴されなかった。主な
理由は、政府はベントレーの言葉に頼るだけで書類や被疑者の協力が確認で
きていなかったからだ。

 1年の混乱の後に、マッカラン条項は10人の被疑者を一撃で落とした。
無作為に不満を述べていた議会のタカ派は元気づけられた。皮肉なことに、
以前に増してその条項は無力となった。停職となった職員の名前は公表され
なかったが、匿名のグループの彼らはすこぶる有名となった。ニューヨーク
ヘラルドトリビューンのバート・アンドリューズらは新聞でキャンペーンを
始め、その解雇を市民の自由のひどい侵害であると描いた。国務省はこれで
再度右往左往し始め、職員を解雇するのではなく(権利の侵害でなく)、辞
職してもらう方法に変えた。

 1948年の始めに、下院の非米委員会はエドワード・コンドン博士(商
務省に属する国立標準局の創設者)の安全保障上の問題を追跡しており、
FBI にその報告書があることを知り、そのコピーを要求した。しかし、商務
長官のアベリル・ハリマンは「公共の利益に反する」として開示を却下した。
3月13日には、トルーマン大統領は安全保障上のデータをいかなる行政局
からも提供することを禁止するとの大統領令を発した。こうして、安全保障
上の情報の開示の時代は終わった。

 怒った下院議員はコンドンの事件で論争を始めた。指導的な人物は共和党
の新人で非米委員会のメンバーであったリチャード・ニクソンであった。1
948年3月にニクソンは、アベリル・ハリマンと司法長官のトム・クラー
クに、コンドンに関するFBI のメモを要求する手紙を出した。ニクソンはそ
のメモがFBI 情報源を明らかにしていないことを知っており、「公共の利益
は、FBI のフーバー長官の手紙の全文を公にするように要求する。」と述べ
た。

 この見解は非米委員会など多くの人々から超党派で支持された。しかし、
トルーマン大統領は議会に対して拒否した。数年経っても、トルーマンの布
告はメトロノームのように続き、職員の忠誠心・安全保障上の疑義に関する
議会のデータを組織的に否定した。すべては、煮えたぎるやかんのふたのよ
うであり、後に爆発することに
[2017年11月16日21時50分]
お名前: カーター
Chapter 12: 国務省内部のこと
(Inside the State Department)
 
 国務省はお堅い保守的な役所であったが、1945年の7月に大幅にイメ
ージを変えようとしていた。エドワード・ステッティヌスが長官の世話役の
職を降り、サウス・カロライナ出身のジェームス・F・バーンズに交代した
のだ。数週間後に老練な外交官であったジョセフ・グルーが国務次官を辞職
し、ディーン・アチソンに交代した。これらのトップの交代は、アメリカの
外交及び国内の安全保障に大きな影響を与えた。

 バーンズは国務省内部の事情に疎かったので、信頼できる数人のスタッフ
を通して仕事をした。海外での会議で長期間留守にする時には、仕事を任せ
ることが多く、その場合には次官は長官の代理として仕事をこなし、ディー
ン・アチソンが国務省で力を持つようになった。グルーとアチソンでは世代
も異なっていたが、物の見方も異なっていた。
(アメリカと日本が真珠湾の開戦へと突き進んでいた時に、グルーは停戦を
呼びかけていた。その頃、ハリー・ホワイトやロークリン・カリーは対立を
煽っていた。同様にヤルタ会談の時に、グルーはその恐ろしい合意内容に反
対した。戦争が終わろうとしていた時に、日本との和平に関して進歩主義者
とまたも対立したのだ。)

 グルーは1945年6月のアメラジアの事件でも省内での不正を告発した
が、それがマスコミの過激派の怒りを買い、彼を反動主義者であると非難し
辞任を要求した。そして、実際グルーは辞職した。古い外交スタイルの支持
者らは除かれた。

 ディーン・アチソンはワシントンの有力者を良く知っている弁護士であり
元は財務官であった。彼は1941年に国務省に入り、グルーの10分の1
の経験しかなかったが、すでに進歩主義者として知られ有名になっていた。
アチソンはスターリンと対立したと知られているが、実際にはソ連と和解し
ようとしていた。前国務次官補であったアドルフ・ベルレによれば、「省内
には対立があり、私はロシア人は協力的でないと感じていた。省内の対立グ
ループは、アチソンとその支援者のヒスのグループであった。私はその闘争
に負けブラジルに行くことになり、外交官としてのキャリアは終わった。」

 1946年の夏、クラウスが書いた被疑者に関する106ページのメモは
省内の安全保障の状況を吟味し、事件を要約し、仕事のやり方を変える様に
訴えている。(プロローグで述べたメモのこと)国務省はスパイに関する尋
問、調査などの情報については完全にFBI に依存していた。1946年5月
の時点での国務省のスパイなどの人数は次の通りである。スパイ:20人、
共産主義者:13人、同調者:14人、被疑者:77人。名前はすべて消し
てあった。しかし、二人のスパイの名前は確認できた。アルジャー・ヒスと
メリージェーン・キーニーである。

 政府職員には思想の自由があったが、ハッチ法によれば正当な理由があっ
て安全保障上の問題がある時には職員は解雇できた。解雇の際の聴聞会では
容疑の背後にある情報が開示されるが、このようにしてFBI が収集したデー
タの本質が暴露された。

 1946年にはマッカラン条項が議会で承認されたが、これは国務長官は
国益に照らして、政府職員のルールに拘わらず職員を解雇できると言うもの
だった。しかし、甚だしく明らかなケースであっても解雇されなかった。そ
の代わり、潜在意識下で扱われる、つまり明らかな解雇ではなく影響力を失
わせ辞職させる方法が取られた。

 最も有名なケースが不利な報告があるアルジャー・ヒスである。国務省の
職員は秘密の長官の命令として、アルジャー・ヒスは国務省内での昇進はな
く、責任ある業務は与えられないとした。しかし、彼を公然と解雇する動き
はなく、彼は静かに圧力を加えられ、実際1947年1月に辞職した。ディ
ーン・アチソンはヒスを擁護した。

 ヒスは国際連合の設立に忙しかったが、調査員によるとヒスは500人分
の履歴書を国際連合に送っており、彼らはヒスの国務省の同僚であり、後に
50人が正式に職員となり、200人以上が臨時の職員となったのである。
1945年9月に調査員は、ヒスが秘密の政府の文書をジャーナリストのド
ルー・ピアソンに漏らしたのを突き止めた。クラウスに質問を受けるとヒス
はいつもの二枚舌を使い学者ぶった煙幕を張って切り抜けた。また、調査員
はヒスの事務所で大量の文書のコピーを見つけた。こうして、アメリカの秘
密はヒスの事務所から外部へと漏れたのであった。

 ヒスは最終的に辞職したが、ロバート・ミラーのようにヒスの部下や同僚
は残った。アメラジアの件では、ビンセント、サービスなども残った。彼ら
はビンセントの出世のおかげで、強い力を持った。しかし、アメリカ国民は
アルジャー・ヒスのことや、アメリカに20人ものソ連のスパイがいたこと
なども何も知らなかった。しかし、議会のあるメンバーにより重要な議題と
して上げられて来るのである。
[2017年11月15日21時59分]
お名前: カーター
Chapter 11: FBIのフーバーがトルーマンに伝えたこと
      (What Hoover Told Truman)

 FBI は共産主義者とソ連のスパイがアメリカ政府に浸透するのを阻止する
のに失敗した。ある新聞のコラムニストは、ソ連の諜報はフーバーのFBI を
ふるいのように突破したと述べた。この批評家は、「FBI は共産党がソ連の
諜報を支援し、スパイが第二次大戦中から戦後にかけて政府の高いレベルに
浸透していたことを知らなかった。また、陸軍からヴェノナの秘密を示唆さ
れても阻止できなかった」と示唆した。
 このヴェノナに関する批判は、FBI が意図的にトルーマン大統領に秘密を
知らさなかったとするもので、FBI の冷戦における過失を責め、またトルー
マンの無為の罪を問わないものだった。しかし、FBI はだまされていたわけ
でもまたソ連の浸透に無関心であったわけでもない。大統領に事実を隠して
いたわけでもない。
 FBI は、軍事的な同盟を結んでいてもソ連はアメリカの利害に合致しない
ことを理解していた。また、アール・ブローダーによる共産党はアメリカの
固有の党でありクレムリンとは無関係であるとの説が嘘だと知っていた。ま
た、FBI はソ連とアメリカ共産党が何をしているか、ヘンリー・ウオラス副
大統領とジョセフ・デイビス大使(駐ソ)による「アメリカとソ連が友人と
なる平和の王国」と言う宣伝に反対していた。また、アメリカ人のスパイが
核兵器の秘密をソ連に渡していることも知っていた。そして、FBI は次の三
つのケースについて調査した。
 まずコミンテルンの組織(Comintern Apparatus:FBI は省略して
COMRAPと読んだ)は、核兵器から始まり、ソ連のビジネス、民族間の赤化、
労働組合への浸透、プロパガンダなどの調査へと拡張して行った。二番目が
核兵器関連に特化した調査で核兵器研究所への共産主義の浸透(Communist
Infiltration of the Radiation Laboratory)、略してCINRADで
あった。最後に、重要なのが、J.ロバート・オッペンハイマーであり、彼はニ
ューメキシコ州ロス・アラモスの核研究所で働き原爆の秘密を知っていた。彼
は共産主義者であり、1940年から始まる彼の活動についてのファイルが作
成された。
 第一にFBI は、第二次大戦のプロパガンダのための共産主義者の尾行をや
めていない。次に日付が重要であり、FBI は1944年には共産主義者の浸
透を敏感に察していたが、ヴェノナ文書が出現したのは1948年になって
からである。レポートの要約は次の通りである。

・コミンテルンの組織(Comintern Apparatus)1944年12月
 577ページのメモでバークレー研究所から始まる。オッペンハイマー、
シルバーマスターなどの400名の名前とソ連に操られた多くの組織の活動
が記されている。

・フィリップ・ジェイコブ・ジャフェ、1945年5月11日
 80ページのレポートで、フィリップ・ジャフェ、ジョン・サービス、ア
ンディー・ロスなどについて、1945年4月の二週間の活動を追跡したも
のである。サービスが突然現れジャフェと関係を持ち始めた三日間に言及す
るため、一般の研究者にとってはとても興味深いものである。

・ソ連のアメリカでのスパイ行為、1945年11月27日
 50ページからなるレポートで、エリザベス・ベントレーのデータ、アメ
ラジア事件、ヴィクター・クラフチェンコ、ウィテイカー・チェンバースな
どの転向者に関するものである。

・ナサン・グレゴリー・シルバーマスター、1946年1月3日
 484ページのレポートであり、二ヶ月に渡ったベントレーーグレゴリー
の事件に関して調査したものである。100人の名前が出て来る。

・ハリー・ホワイト及び財務省の同僚に関するメモ、1946年2月1日
 28ページのレポートで、ホワイトがIMF の役員に就任すると言う事実に
触発されて書かれたもの。彼の財務省の同僚であるシルバーマスター、ソロ
モン・アドラーなどとの関係についても記載されている。連邦政府内で共産
主義の組織が動いていたことを明らかにしている。

・合衆国政府内のソ連の地下スパイ組織(NKVD)、1946年2月21日
 11月27日のレポートを読めば、誰も連邦政府内の高いレベルまでの共
産主義の浸透が危険な状態であったことを疑う者はいない。さらにFBI は、
この194ページのファイルを作成した。この書類には、アメラジアーベン
トレー、CINRAD/COMRAP に関係する政府内の40人以上の被疑者(カリー、
ヒス、ミラー、ヴィクター・ペルロ、ダンカン・リーなど)について記され
ている。

・コミンテルンの組織(Comintern Apparatus),COMRAP,1946年3月5日
 35ページのCOMRAP捜査の要約である。これは、数百ページにも及ぶもの
と異なり政府のトップが使用するのに適していた。このメモを受け取った者
の中に国務長官のジェームス・バーンズがいた。内容はソ連の活動、政府内
のスパイ、OWI及びOSS内の被疑者、ルイーズ・ブランステンのサークル、ジ
ャフェ、ジョン・サービスへの諜報、ベントレーのシルバーマスターに関す
るデータなどである。

・核エネルギー研究所での共産主義の浸透(CINRAD)1946年3月5日
 席に座ったままで読める様に、政府のトップのために作成したメモで、原
爆のプロジェクトの重要な人物であるハーコン・シュバリエ、ジョセフ・ワ
インバーグ、アラン・ヌン・メイ、クラレンス・ヒスキー、ベルナルド・ピ
ータース、J.ロバート・オッペンハイマーらについて述べている。オッペ
ンハイマーは共産党員であったが、政府の仕事で忙しくその活動はできてい
なかったと記されている。

・合衆国政府内のソ連の地下スパイ組織(NKVD)、1946年10月21日
 335ページのレポートで、2月のものに比べて詳しくグレゴリー(シル
バーマスター)を探っている。注目に値するのが、マリー・ジェーンキーニ
ーとジョセフ・ベルンシュタインらとの議論に関するセクションである。ま
た、二流の人物であるダンカン・リー、セドリック・ベルフラージュらにつ
いても言及している。

 FBI のフーバーは、ホワイトハウスに、また司法長官にも様々なレポート
(詳細なもの、また要約したもの)を提出した。奇妙にも、特にホワイトハ
ウスで反応は鈍く、開示に対して敵意さえ抱きアクションは何もなかった。
被疑者の働いている部局では、反応はなく、レポートは無視され、メモを受
け取った人々はそんなものは受け取っていないと言ったのだ。

 混迷の続くアメラジア事件について、司法省はFBI の起訴失敗を批判しよ
うとし、ベントレーが確認した赤のスパイであるウィリアム・レミントンの
起訴の際には、商務省の職員はFBI から事実について適切な説明を受けてい
ないとマスコミに話した。レミントンに関するレポートは商務省に何度も送
られていたのだ。

 ヴィクター・ペルロのケースでは、財務省はFBI の調査に協力するために
FBIの要求でアクションを差し控えたと言う話の提案をして来た。FBIの記録
の通りフーバーはそんな提案はしていないし、彼は責任を転嫁するものとし
て財務省を非難した。同様の話は、アルジャー・ヒスやハリー・ホワイトな
どについても見られる。

 1948年の夏には最高潮に達し、非米活動委員会でヒスーチャンバース
シルバーマスター、ミラー、ホワイトなどのケースが公表された。新聞や大
衆はこれらの背景を知らずショックを受けた。噂や新聞記事にはFBI がうた
た寝をしていて、容疑者を特定せず、危機を政府のトップに知らせなかった
との内容があふれた。フーバーは窮地に陥った。

 この巨大な記録を編集して、FBI は文字ではなく図形にした。連邦職員に
おけるベントレーに関わる被疑者らの図表、そしてFBI から発せられた多く
の警告を示しているマスター図である。370以上のレポートが14の連邦
の機関に提出された。多くはホワイトハウスと司法長官にも提出された。

 これらの図から、FBI が勤勉に調査を実行し報告を行ったことは明らかで
ある。FBIからホワイトハウスへの連絡の多くの記録は、FBIがヴェノナ文書
の資料をトルーマンには保留したとの考えが間違いであることを示している。
ソ連と冷戦が始まっていた時代であり、それらの情報は連邦政府にとっては
とても重要であった。
[2017年11月14日21時36分]
お名前: カーター
hapter 10: 平行線が交わる時
(When Parallels Converged)

 1945年11月7日、ソ連のスパイで連絡役のエリザベス・ベントレー
は、共産党とソ連のボスと袂を分かち、FBI に彼女自身を話をする決心をし
た。あらゆる意味で、ベントレーは当時元共産党の証人としては最も重要で
あった。ベントレーはニューイングランドの良家の出身でヴァサール大学を
卒業し1935年に共産党に入党し、ソ連のマスタースパイのヤコブ・ゴロ
ス(レイジン)に会い、彼を師とし、友人、そして恋人とした。
 ゴロスの死後、彼女は連絡のマネージャーとして、マンハッタンとワシン
トンとの間を行き来した。そこで、彼女は恐ろしいほど多くの共産党員及び
その同調者に会ったが、彼らはほとんど連邦政府の職員でソ連の利益のため
の副業を営んでおり、共産党首のアール・ブローダーを助けていた。この旅
で彼女はコピーした書類を盗み集め、党のための金も集めた。
 FBI は同じく元共産党員のウィテカー・チャンバースのファイルも参照し
多くの面でベントレーの挙げた被疑者はチャンバースのそれと同じであった。
アルジャー・ヒス、ロークリン・カリー、ソロモン・アドラーなどである。
1945年9月には、ロシア人の暗号担当のイゴール・ゴウゼンコはカナダ
ソ連大使館から離脱し、「デイリーワーカー」の編集長であったルイーズ・
ブデンスは共産党から逃亡した。二人ともベントレーとチャンバースのと同
じ情報を提供した。
 ネットワークは四方八方に広がっており、ベントレーの接した人々には政
府の職員もいた。また、確認されたロシア人のスパイ、ベントレーの挙げた
被疑者を扱った共産党員の政府の外交官もいた。全貌が明らかになるとFBI
は、共産主義浸透について考え方を改めた。FBIはソ連のスパイ活動と浸透
作戦は通常「平行」になっていると考えた。この用語はソ連自身が使用した
がFBIにも採用された。
 しかし、「平行」のイメージは必ずしも当たっていないとFBI は考えた。
確かに、ベントレーの連合は、シルバーマスターのグループがあり、またヴ
ィクター・ペルロのそれともう一つ別のものがあった。しかし、彼らは部門
を超えて話し合い、集会に集まっていた。平行ではなく、十字型に交わって
いたのだ。

 シルバーマスター・サークル
 ベントレーによれば、ナサン・グレゴリー・シルバーマスターは財務省に
所属し彼女のワシントンでの連絡先で、広大なスパイ組織の長であり、公文
書をコピーし、共産党に党費を支払った。

 ロバート・ミラーの友人
 ベントレーのケースで突出していたのは、ロバート・T・ミラーで、彼は、
office of Coordinator of inter American Affairs(中南米
にアメリカのプロパガンダを流した)で働いた。彼は超がつくソ連のスパイ
で、アルジャー・ヒスやイギリスのケンブリッジグループと同列であった。
 
 OSS/OWIのOB
 1945年の秋には連邦政府で働いていた特に国務省職員とベントレーの
被疑者らは、戦時組織から移動する人が多かった。OSSは主要なベントレー
の被疑者らを育て、OWIも同様で、彼らはFBIの監視対象となった。

 ヒスのコネクション
 チャンバースはヒスに対しての主要な証人となったが、ベントレーもヒス
がソ連のスパイであったと知っていた。二人の証言に基づき、FBIはヒスの
同僚にも監視対象を広げた。この調査記録はFBIでも膨大である。

 アメラジア及びIPR
 FBIはアメラジアの事件について、それをベントレーに話す前から強い関
心を示していたが、彼女の証言はその空白を埋め、さらに被疑者の名前を加
えることとなった。それは、ソロモン・アドラー、ロークリン・カリー、フ
レデリック・フィールド、ダンカン・リー、そしてマイケル・グリーンバー
グである。

 メリージェーン及びフィリップ・キーニー
キーニー兄弟は別の調査から知られるようになった。メリージェーンは、戦
時経済局から国務省へ移った。フィリップは、議会図書館とOSSで働き日本
占領を支援するために海を渡った。キーニー兄弟の連絡範囲は膨大であった。
彼らはシルバーマスターを知っており、マックス及びグレイス・グラニッチ
の友人であった。FBIにより録音されているが、キーニー兄弟は多くのソ連
のスパイとも連絡を取っていた。

 核関連の政府関係者は多かった。シルバーマスターの連絡先で有名なのは
エドワード・コンドン博士であり、彼は議会の核エネルギー共同委員会の科
学アドバイザーであり、商務省国家標準局の長であった。オッペンハイマー
と同じようにコンドンもFBI の調査の対象となり、ホワイトハウスと議会と
の抗争の焦点となった。 
 被疑者らはお互いに知っているのみならず、共に働き、助け合い政治的な
プロジェクトで協力した。安全上の質問がかけられた場合はお互いに保証し
た。主要な人物はハリー・ホワイトとロークリン・カリーであった。次に重要
なポイントは、仕事を変わることであった。マッカーサーの日本占領では、
異常な人たちが将軍を支援するために派遣された。その中には、ジョン・ス
チュアート・サービス、オーウェン・ラティモア、T.A.ビソン、そしてフィ
リップ・キーニーらがいた。ドイツでも同様であった。
 FBIが監視しているように、ベントレーに近い人々は戦争末期及び戦後に
おいてアメリカの国益に影響を与える新しい国際機関に移動した。アルジャ
ー・ヒスは国際連合の設立に関わり、ハリー・ホワイトはIMFの設立に関わ
った。彼らは実際に政策決定に関わるようになり、スパイ行為を行う時間が
なくなってしまた。


[2017年11月13日22時15分]
お名前: カーター
Chapter 9: 共産主義、嘘、オーディオテープ
(Reds, Lies and Audio Tape)


 1944年の秋にジョン・サービスは2ヶ月の休暇を得てアメリカに戻っ
た。表向けの理由は国務省のボスとの相談であったが、他にもすることがあ
ってそれが彼の将来に危機をもたらし、また冷戦につながることにもなった。

 FBI のメモによれば、共産主義者のマックス及びグレース・グラニッチは
サービスの帰国を知りサービスに連絡を取ろうとした。サービスの帰国の目
的は、ロークリン・カリー及びハリー・ホワイト(三人目はハリー・ホプキ
ンス)であった。この二人はソ連の二重スパイであり、ヴェノナ文書に出て
来る。カリーにもサービスと話すことがたくさんあったのは、中国はカリー
の得意分野であったからだ。

 サービスは4月18日にIPR(太平洋問題調査会)のアンドリュー・ロス
の勧めで共産主義の雑誌アメラジアの編集長であるフィリップ・ジャフェに
会った。彼はロシアからアメリカに帰化しており、熱心なマルクス主義者で
中国共産党を熱心に支持していた。サービスにとっては運命的な出会いであ
り、FBIに注目されることとなった。この数週間前にFBIは、ジャフェの電
話口にマイクを埋め込み彼の行動を監視していた。この調査はアメラジアの
内容に秘密のOSSのメモがわずかに表れていたことによる。OSSの調査員は、
ジャフェのニューヨークのオフィスに密かに入り、政府の秘密扱いの多くの
書類を発見したのだ。

 サービスはジャフェに中国の軍閥の忠誠度、国民党軍のリーダーの蒋介石
への忠誠心が変わりやすいことなどを話した。サービスはホテルでジャフェ
に国粋主義者の中国人(蒋介石)がアメリカに秘密で提供していることなど
に関する書類を渡した。また、サービスは米軍が中国へ上陸するとか軍事に
ついても話した。上陸は米軍が蒋介石の軍か共産党軍かのどちらと組むかが
重要であった。

 5月2日にFBIはジャフェがソ連のスパイであるジョセフ・ベルンスタイ
ンと話しているのを監視した。彼は元アメラジアのスタッフでT.A.Bisson
から政府の情報を受け取ったとヴェノナ文書に見える。アメラジアを閉鎖さ
せるために、FBIはそのオフィスを夜中に訪問しそこにある書類をチェック
した。FBIの職員はこれの一部を撮影し、証拠として司法省の職員に提供し
た。これを元に司法省の高官は、逮捕と起訴を決定した。6月6日にFBIの
職員は被疑者を急襲し、ジャフェ、マーク・ゲイン、ケイト・ミッチェル、
サービス、アンディ・ロス、そしてエマニュエル・ラーセンの6人を拘束
した。

 FBIはアメラジアのオフィス、ゲインとラーソンのアパート、そして国務
省のサービスのオフィスから1000枚の書類を押収したが、四分の一は
軍事に関するもので、許可されていない書類の保持はスパイ防止法に違反す
るものだった。FBI長官のフーバーにしてみれば、起訴は間違いないと思わ
れた。

 しかし、起訴は不思議なことに変わることになった。左翼の新聞は、被
疑者は悪人らに無実の罪をでっちあげられようとしている声を上げた。フ
ーバーは誤魔化しは嫌いだと言った。起訴はパンクし今や完全に崩壊した。
8月10日には、サービス、ミッチェル、ゲインは起訴を免れた。ジャフ
ェ、ロス、ラーセンに対する訴状もわずかなものだった。

 ジャフェの裁判においては、弁護士は「ジャフェは確かに公文書を所持
していたが、政府は書類が不実の目的に使用されたと主張していない。ジ
ャフェが限界を超えたとしたら、それはジャーナリストの情熱が行き過ぎ
ただけだ。」と言った。司法省の広報官のヒッチコックは、盗んだ書類の
重要性を軽視し、茶会の噂話だとした。ジャフェの裁判で彼は「彼らが不
実だとするに足る証拠がない。」と言った。FBIはかんかんになって怒った。

 トルーマン大統領は、忠実なニューディーラーのトーマス・コークラン
を信用していなかったので、FBIが調査をしたところコークランはアメラジ
アに腰まで浸かっており、サービスの友人や助言者のロークリン・カリー
らといっしょに働いていたのだ。コークランのパートナーのベンジャミン
・コーエンも背後で動いていた。

 サービスは自由な行動を許され法的な措置を免れた。アメラジアの被疑
者はサービスへの配慮で利益を得た。ジャフェらに関する事実が法廷で公
表されるなら、サービスを取り除くこともできなくなるからだ。サービス
らは不起訴となった。フーバーらのFBIは隠匿された盗聴について思案し、
異なる判決へと導く。
 
[2017年11月13日21時57分]
お名前: カーター
 広嗣さんレスをありがとうございます。ものすごいエネルギーを費やして
読んだ本なので、読んでいただけるだけでありがたいです。ご理解頂いてい
るように国民党には多くの共産主義者がいました。
 アメリカの中国に対する思い入れはとてもナイーブで、中国人というもの
を当時全く理解していなかったと言えます。本書の日本軍と共産党軍が共存
していたと言う表現は、毛沢東が「皇軍のおかげで革命ができた」と言って
いることを示しているのでしょう。
 アメリカは中国を共産化するために日本と戦争して国民党を追い出したの
ですが、その後の冷戦で多くのエネルギーを使うことになりました。アメリ
カ外交は失敗の連続です。ソ連と同盟を組んだりしてどうも外交の才能がな
いようです。日本もドイツと同盟を組んだりして、今から思えばトンチンカ
ンな外交でしたね。時間がたつとわかって来るものですが、その当時は世界
の動きが見えていなかったのだと思います。

[2017年11月10日22時27分]
お名前: 広嗣
>Chi Chao-ting(Ji Chaoding)
 この人物のことなのでしょうか。
 https://en.wikipedia.org/wiki/Ji_Chaoding
 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%86%80%E6%9C%9D%E9%BC%8E


[2017年11月10日09時09分]
お名前: カーター
Chapter 8. 重慶1944年
(Chungking, 1944)

 戦後に向けて東西の勢力は策を練っていたが、その最大の収穫は中国であ
った。アメリカにとっては中国は開戦の理由、つまり蒋介石を忠実に支持し
日本による中国の支配を拒否することが主要な要因であった。しかし、アメ
リカのアジア政策は戦争が終わるまでに失敗していた。中国を救うために、
日本と戦争をしたが、中国は内戦状態となり、その後共産主義社の国家は日
本のように独裁的となり、アメリカの利益に敵意を抱いた。

 この場面で重要な役割を果たしたのは、人々が名前を聞いたこともない三
人であった。それは、アメリカの外交官のジョン・スチュアート・サービス、
財務官のソロモン・アドラー、そしてアメリカで教育を受けた中国人エコノ
ミストで国民党の財務省で働いたChi Chao-ting(Ji Chaoding)であ
った。三人は蒋介石をひどく嫌い、彼の反対党であった共産党を支持してい
た。三人は重慶の家にいっしょに住んでいた。サービスとアドラーはアメリ
カ政府に蒋介石を罵るレポートを送っており、彼を首にして延安(共産党)
の同志を受け入れるべきだと熱心に説いていた。Chi Chao-ting は国民
党の職員であったため公式には見解を述べていないが、私的には同意してい
たことは明らかだ。Chiはソ連のスパイであり、コミンテルンの活動を中国
で行っていた。アドラーも同様であった。

 サービスは三人の内で後に最も注目を浴びる。彼には中国語に堪能な外交
官のジョン・デイヴィースと言う友人がいた。彼が勤務していた重慶のアメ
リカ大使館にはジョン・カーター・ヴィンセントという相談相手もいた。中
国軍区の司令官であったスティルウェル将軍のアドバイザーにもなれたであ
ろう。スティルウェルは蒋介石を嫌いつまらない男と呼び、アグネス・スメ
ドレー(アメリカのジャーナリスト、コミンテルン)に魅せられ、中国共産
党を理想化した。また、Chu Teh(朱徳)を軍事的に支援することも表明し
たのである。

 ソロモン・アドラーはイギリス生まれでオックスフォード大学出身だが、
ヴェノナ文書に見える。エリザベス・ベントレーの上院での証言によれば、
「アドラーはシルバーマスター(米国戦時局のエコノミストで共産主義者の
スパイ)のグループに属していた。・・・彼は報告書をハリー・デクスター
・ホワイトを含めて多くの人たちに送っていた。」

 Chi Chao-tingは、1930年代にアメリカで学び働いた。IPR(太平
洋問題調査会)の調査員であり、ここでラティモア教授に出会っている。ア
ドラーと同じように、1940年代にChiも安全保障上の疑問を持たれたが、
その行為が明らかとなるのは十年以上後のことだった。
 
 サービスとアドラーのメモは、蒋介石が腐敗しており専制的であると罵倒
し、共産党が穏健で民主的だとして、最も重要なのは共産党のみが日本と戦
闘を行っており、国民党の軍は何もしていないと述べた。サービスは、中国
共産党は急進的でなく、親米的であり本当の意味の共産主義者ではないと述
べた。彼らは見かけを良くして、後に恐ろしい独裁者が権力を持つのを手伝
ったと言う非難を受けることになる。そして、共産主義者は自制的で純粋な
意味での共産主義を放棄しており、中国に暴力革命は必要なく民主主義への
欲求があるとした。

 ハリー・ホワイトは財務長官のモルゲンソーにアドラーのメモやサービス
のレポートを見せた。モルゲンソーは日記にアドラーのレターが好きだと書
いている。モルゲンソーはメモを持ってルーズベルトのいるホワイトハウス
に行き、ホワイトハウスにはロークリン・カリーがいて、サービスからの同
様の最新の情報を受け取っていた。

 サービスとアドラーの提携は、ヘンリー・ウォラス副大統領が1944年
の6月に重慶を訪問した時に、決定的な出来事つまりアメリカと延安(中国
共産党)との直接の接触をもたらすこととなった。オーウェン・ラティモア
とジョン・ヴィンセントも同行したが、蒋介石の欠点や延安と組むことのメ
リットについて聞かされたに違いない。

 サービスもアドラーも中国共産党のみが日本と戦っていて、蒋介石は何も
していないと述べたが、中国で日本軍と戦ったアルバート・ウェデマイヤー
将軍の見解と完全に矛盾する。ウェデマイヤーによれば、中国の赤軍は日本
軍とはほとんど戦わず、日中戦争では共産党でない軍が戦っていた。毛沢東
と周恩来は日本軍との戦闘に興味がなく、彼らの関心は国粋主義者の軍が明
け渡した領域を支配することであった。

 海軍の歴史家であったマオチュン・ユは共産党の話として、勇敢な戦闘と
は、延安と日本の侵略者の間の完全な協力と言う仮面で覆っていた。彼は、
アメリカのパラシュート部隊が北部中国に降下すると共産主義者と日本軍が
数マイルの近い場所にキャンプしており、平和に共存していたとのエピソー
ドを紹介している。また、日本の傀儡(汪兆銘政府)は延安の赤軍に、蒋介
石の軍に対して使用するための武器を売却していた。

 中国語による文献においてもユン・チャンによる毛沢東の伝記によると、
毛は日本軍と戦争する気は全くなく、面白くない仕事は国民党軍に任せてお
いたとのことだ。この処置はウェデマイヤーのコメントとぴったり合うし、
毛の戦略は日本軍により蒋介石の軍を追い出した後に、共産党軍が動くと言
うものであった。サービスのメモは間違っているだけでなく戦時の記録にも
合致しないのだ。

 サービスのメモは報告ではなく嘆願のための作品であった。蒋介石を諦め
るようにとの執拗なアピールであり、事実と言うよりプロパガンダによる攻
撃であった。彼は1944年の6月に、「国民党の凋落を歓迎する。その後
進歩的な政府が国土を統一し日本と戦うなら。」と主張した。 

 リン・ファリシュのミハイロヴィッチとチトーについての見解及びクルー
グマンのロンドンへの報告と同じように、それらを信じ実行した高官がいた
と言うことだ。結果は予想もつかないものだった。
 
[2017年11月09日22時16分]
お名前: カーター
Chapter 7: いかに機能したか
(The Way It Worked)

 ソ連寄りの見方で戦争中のゆるい治安活動の下を考えると、恐ろしい共産
主義者、同調者、そしてソ連のスパイが以前のレヴェルを越えて連邦政府職
員の中に紛れ込んでも全く驚くにはあたらない。
 多くの政府の機関が影響を受けたが、最も危険にさらされたのは戦争の初
期に同時に設立されたその場しのぎの戦時局であった。これには、戦時情報
局(OWI)、戦略諜報局(OSS)、戦時経済局(BEW)など多くの部署があっ
た。非正規に設立され通常の流れの外で運営され、しばしば名称や機能が変
更され、これらの局はわずかな期間で数千人の中から急いで職員を採用しな
ければならなかった。そして反共について吟味する意欲もなかったのは明ら
かである。

 OWIの任務はアメリカ及びその同盟国のプロパガンダであったが、印刷物
や海外向けの多言語の短波放送から成っていた。これには多くの専門家を必
要としていた。OWIへの批判はソ連の利益に偏っており、議会でも問題とな
った。1943年にニューヨークタイムズのアーサー・クロックは放送され
ている見解は、米英のものでなくソ連に近いと述べた。共産主義者のイデオ
ロギーをレポートしていた。

 ウイリアム・ヒントンは1943年にOWIにより中国に派遣された。蒋介
石と連合軍の戦争を支援するためであった。ヒントンは議会で共産主義者
かと問われた時に黙秘権を使用した。中国が共産化してから彼は中国へ戻
り、人民服を着て会議で演説している写真がある。ヒントンは、中国政府
に参画したアメリカ政府職員の内の一人である。

 戦時中のポーランド語部門はカチンの森事件で、OWIの長官であったエル
マー・デーヴィスはソヴィエト寄りの放送を行った。ポーランド亡命政府
のグループによれば、OWIは虐殺にソ連が関わったと放送するのを拒否した。
ポーランド系アメリカ人のレシンスキーは放送はOWIにより抑えられたと、
また在米亡命政府の代表もOWIの放送はソ連のプロパガンダだと主張した。

 言語編集の多くはアメリカ市民ではなかったが、彼らはいとも簡単にア
メリカに入国し、このように重要な戦時の部門で働くことができたのだ。
この疑問に対する答えは、民間の短波調査会社(Short Wave Rsearch
Inc.)この会社では放送業務、翻訳、原稿作成などの業務をOWIの事務所
の中で行い、サービス費をOWIに請求したのだ。こうしてOWI内職員の60
%の外国人が採用された。

1943年に共和党のフレッド・バスビーはOWIの放送職員の中には22
人のソ連寄りの人々がおり、中でもポーランド系アメリカ人の共産主義者
のボレスラウ・ゲバート(ソ連のスパイで戦後に共産主義ポーランドの政
治家)がいたと述べた。

 しかし、OSSの方はもっと共産主義者が多かったと言われている。初代
OSS長官のビル・ドノヴァンはナチスに対抗するために、明らかに共産主
義者を採用している。ドノヴァンはOSSには共産主義者はいないと言った
が、二人のスタッフつまり、ジョージ・ヴシニクとデヴィッド・ザブロウ
スキーであり、ヴシニクはソ連のGRUと連絡要員としてヴェノナ文書にあ
り、またザブロウスキーは機関紙「平和と民主主義のアメリカンリーグ」
の編集者であった。ドノバンはこの機関紙が共産主義者のものであったこ
とを知らなかったと言うのだ。

 スペインで活動したミルトン・ウルフとアーヴィング・ファジャンスは
ドノバンにとって愛国的な職員であったが、後の調査でスペインでソ連に
奉仕したこと、また共産主義者であることを告白することを拒否した。ウ
ルフとヴシニクはナチスと対抗していたユーゴスラビアで活動した。ここ
では、共産主義者と反共主義者が分裂していた。

 ヒトラーは1941年にユーゴスラビアへ宣戦布告したが、ドイツ軍の
猛攻に対抗したのがユーゴ陸軍でありそのリーダーは反共で反ナチのドラ
ジャ・ミハイロビッチであり、その部下はチェトニクスと呼ばれた。ヒト
ラーがロシアに侵攻してから、共産主義者のパルチザンと言うグループが
スターリンの弟子であるヨシップ・ブロズ・チトーにより結成された。

 ミハイロビッチは裏切り者としてソ連から批判され、アメリカでもアメ
リカ・スラブ・コングレスによりチトーのグループが支持され、ミハイロ
ビッチはナチスの内通者であるとされた。
 
 イギリスの情報組織の本部がエジプトのカイロにあり、ケンブリッジ五
人組はユーゴスラビア問題に取り組んでいた。ノラ・ベロフらの研究によ
れば、クルーグマンはユーゴスラビアの情勢を総合してロンドンに送って
いた。イギリスのリーダーに送られたメッセージは、モスクワのからのそ
れと同じであった。奇妙なカイロのレポートは、チトーは20万人の大部
隊を統括して、「ドイツの14師団を押さえつけている」と言うものであ
った。また、「パルチザンはすべてにおいて効果的な軍隊で、ナチスと組
んだミハイロビッチは滅ぼされた。」とも言っていた。

 これにより、イギリスはチトー支援を決定した。1943年後半にイギ
リス外務省は、「ミハイロビッチには反枢軸的な行動がなく、軍事的支援
をするに値しない。」とした。チャーチルはミハイロビッチを捨て、チト
ーに賭けた。

 アメリカの諜報及び秘密行動はイギリスのパターンに習った。OSSはリン
・ファリシュ(ソ連の二重スパイ)を1943年にユーゴのパルチザンに
派遣した。ファリシュは、OSSにレポートを送り、チトーをほめ、ミハイロ
ビッチとチェトニクスをナチの手先とした。これらはパルチザンとイギリ
スの情報が元であり、彼のレポートはパルチザンを自由の共同体としたが
ユーゴ共産党の役割を軽視しており、チトーの運動をアメリカの独立革命
に例え、アメリカ合衆国が成立した時のような状況だとした。

 彼のレポートはメモとなり、テヘラン会談の前にルーズベルト大統領に
も渡され、スターリンも見ることになった。ユーゴスラビアからこうして
反共主義者は追い出され、チトーへの支援が決定されることになった。英
米ソの支援を受けたチトーの軍隊が1944年にベオグラードに進駐した。
リン・ファリシュは後にヴェノナ文書にKGBのスパイであったと記載されて
いたことがわかった。
 
[2017年11月08日21時15分]
お名前: カーター
Chapter 6. 更けて行く夜
(The Witching Hour)

 共産主義の浸透には二つの段階がある。一つが大恐慌の時代であり、もう
一つは第二次世界大戦の時代である。ファシズムと共産主義の脅威により、
1939年にハッチ法が制定され、政府を転覆させるような連邦政府職員の
採用が禁止された。1941年にはFBIがあらゆる連邦政府職員を調査する
ために公法135条が制定された。
 転覆とはどういう意味かの問いに対しては、司法長官のフランシス・ビド
ルが提示した11の共産主義集団であるとされた。このタカ派的な考え方は
実行されず、1941年6月にヒトラーがロシアが侵略すると、ソ連は必然
的に英米の同盟者となった。ジョセフ・デービス駐ソ大使、ホワイトハウス
高官のハリー・ホプキンス、そしてFDR自身がスターリン、ソ連軍などロシ
アのすべてを褒め称えた。アメリカ共産党は日の当たる場所に出たのである。
 しかし、ニューディーラーとマーチン・ダイスのいた反共の保守派との間
には衝突が起こった。それは公法135条であり、労働者を調査することで
あり、フランシス・ビドルはそれが嫌いであった。しかし、1941年の秋
にダイスの委員会及びビドル自身が、1124人もの連邦職員を破壊分子で
あると見なした。
これについてのFBIのレポートは日の目を見ることはなかった。ビドルと
その上司は、雇用の指標としての活動家を使っていることをもみ消した。破
壊分子が単に共産党のメンバーであることは、無害であると考えられた。ま
たビドルはメンバーであるよりも、組織での現実の活動が連邦職員であるこ
との適合性を決めると考えた。
 単にメンバーであることは、平和運動家やソ連への同調者を魅了した。限
界を超えて、活動グループから共産党へと広がった。1942年には、この
考え方はホワイトハウスからソ連よりの政策と結びつくこととなった。
 戦争が始まると海軍は商船のラジオの職務にナチスと共産主義者が就くこ
とを禁止したが、1942年には取り消した。それは後にイリノイ州知事と
なるスティーブンソンらによるもので、無能であると言う証拠なしに共産主
義者であることが不適格なのかとメモで問うている。大統領は次のように述
べた。「米国とソ連は同盟国であるから、米国は共産党の活動に反対しては
ならない。」
 公法135条は否定され、職員の採用において共産主義者であるかどうか
は問われることはなくなった。また、陸軍では共産党員であっても合衆国へ
忠誠を誓うよりも共産党への忠誠の方が大きくなければ、アクションは取ら
れないとした。
 大戦初期にカチンの森で、ポーランド兵の捕虜がロシア兵により虐殺され
ると言う事件が起こった。ヒトラーのドイツが1943年に、この事件でロ
シアを批判したが、ロシアはドイツの仕業だと言い返した。しかし、アメリ
カ人でドイツの戦争捕虜であったジョン・ファン・ヴリエトは、死体を調査
し1945年にその虐殺についてソ連の犯罪であるとする報告書を発表した。
 しかし、この報告書はトップシークレットとされ、完全に消え去った。ま
た、ポーランドにおけるソ連の役割を批判したヘンリー・シマンスキーの報
告書も同様の扱いとなり、陸軍の地下倉庫に保管された。共和党の下院のレ
イ・マデン委員会では、誰がこのようなことをしたのか調査し、下記のエピ
ソードをまとめている。
 「アメリカ陸軍の3人のトップは、ソ連寄りの職員がソ連に不利な情報を
隠したことを知っていた。そして、委員会はソ連に批判的な軍のトップは、
諜報活動においては無視されたことを知った。」
 国務省は特に戦争中は、ソ連の重要な工作のターゲットであった。有名な
外交官で歴史家のジョージ・ケナンが気づいているように、国務省にはソ連
の情報があふれていたが、クレムリンに関する正しい情報を得ていたかは疑
わしいのだ。ケナンは次のように述べている。
 「書庫はファイル毎に分散され、書庫として存在しなくなった。特別なフ
ァイルは破壊された。50年代初頭のマッカーシーら右翼は、ソ連の影響の
匂いのするもの、政府のトップのソ連寄りの影響による出来事について、見
つけることができず、それを利用することもできなかった。」
 ソ連のスパイのミハイル・ゴーリンは、海軍の一般職員から秘密情報を得
た。その職員は4年の懲役となったが、スパイの方は国務省の介入により自
由の身となった。FBIの説明によれば、国務省の推奨及び司法長官の保証に
よりゴーリンは執行猶予となり、保護観察の身となった。
 見て見ぬふりをしたり、ソ連のスパイに好意的な扱いをするのとは対照的
なのは、ソ連からの亡命者に対するアメリカ政府の立場であった。ヤン・フ
ァルティンはソ連とナチの二重スパイであったが、1930年代に西側に亡
命した。彼は"Out of the Night"と言うソ連とナチの暴露本を書いて、
1941年にダイス委員会に現れた。次の年に彼は移民帰化局により逮捕さ
れ、エリス島(NY移民検査収容所)に拘留され、追放の措置が取られた。こ
れは1920年代に彼がソ連の手先であったと言う犯罪によるものだと考え
られている。このように、当時のソ連のスパイは許されても、元スパイの亡
命者は厳しく罰せられたのだ。
 ソ連のもう一人の亡命者のヴィクター・クラフチェンコは、"I Chose
Freedom"と言う本を書き、FBIへ出向いたが、FBIのメモは次のように述
べている。
 「国務省は司法省にクラフチェンコをロシアに送還するよう圧力をかけて
いたが、その圧力はソ連から国務省に対するものだった。FBIは、クラフチ
ェンコに政府の役人に見つからないように、逃げて隠れるようにほのめかし
た。」
 FBI長官のフーヴァーの命令によりFBIはクラフチェンコに忠告し、彼は
生き延びて反ソ連のメッセージを公衆に伝えることができた。当時の国務省
は、同盟者とどう付き合うかで、内部に深刻な問題をかかえていたのだ。
[2017年11月07日21時15分]
お名前: カーター
Chapter 5. 考えられることを考えない
      (Unthinking Thinkable)

 1950年代にトルーマン政権の国務長官だったおしゃれなディーン・ア
チソンとウィスコンシン州出身で強気の赤狩りのマッカーシーとの間で、政
府職員のごまかしについて3年間の激論があった。

 イギリスでも同様の問題が起きた。ハロルド・アドリアン・ラッセル、キ
ム・フィルビーは優秀なソ連のKGBのスパイであったが、これはイギリ
スの首相であったハロルド・マクミランにより明らかにされた。フィルビー
の他に同じケンブリッジ出身のドナルド・マクリーン、ガイ・ブルゲス、ア
ンソニー・ブラント、ジェームス・クルーグマンなどのソ連のスパイがいた。
記録が示しているように、明らかにケンブリッジのメンバーはソ連と連絡を
取っていたにも拘わらず、無視され軽視されたのだ。彼らはちゃんとした学
校へ行っていたから、ソ連のスパイであるとは思われなかったのである。

 アメリカでの最悪のケースはアルジャー・ヒスであり、育ちが良く優れた
資質により尊敬されていたので、彼についての証拠はケンブリッジグループ
と同じようにすべて無視された。ソ連のスパイには他に、ウイリアム・レミ
ントン、ドナルド・ウィーラー、ヘンリー・コリンズなどがいたが、いずれ
も学歴があり、アメリカの上流階級の出身であった。1948年の下院の非
米委員会でのチャンバースとヒスとの対決では、きびきびしたヒスとむさ苦
しいチャンバースと言った印象であり、嘘を言っているのはヒスではなくチ
ャンバースだと考えられた。

 独ソ不可侵条約が締結されると、1939年にチャンバースはアメリカ共
産党を離れ、政府内の共産主義者について警告しようとして、国務次官補で
安全保障担当であったアドルフ・ベルレと議論した。ベルレは、ヒスと仲間
のドナルド、ロークリン・カリー、ソロモン・アドラー、フランク・コーな
どの名前をメモした。

 イギリスとアメリカの双方において、西欧の制度への信頼の喪失は信仰の
面から始まり文化の様々な面に広がり、1930年代の大恐慌の時代に完全
に失われていた。疎外と不安に悩まされ政治経済的な危機は、伝統的な見方
や習慣に対してとどめの一撃のように見えた。マルクス・レーニン主義とソ
連の計画経済が、古い文化が供給できない問題の回答であると考えられた。

 アメリカのスパイ団は、ドイツ、フランス、イタリア、中国、日本などの
クレムリンからの司令を受け取る世界的なスパイ網の一部であった。イギリ
スとアメリカの共産主義者は共通の政治的な歴史と言語から、特殊な関係を
持ち、それは第二次世界大戦から冷戦へと続いた。

 ドイツ生まれの共産主義者であるリヒャルト・ゾルゲに率いられた恐ろし
い組織がアジアにあったが、それはソ連のスパイの歴史の中でも最も効果的
なものであった。ゾルゲは1930年代に中国の上海で活動し、中国は当時
共産主義の温床となっており、ミカエル・ボロディン(コミンテルンの工作
員で、中国国民党顧問)などの多くの赤のスパイが暗躍していた。

 ソ連は仇敵である日本に関心を示し、ゾルゲを日本に派遣した。数ヶ国語
に通じたゾルゲのグループのメンバーは、中国の共産主義者であるチェン・
ハンセン、アメリカ人の作家アグネス・スメドレー、ドイツ生まれで帰化し
たブリトン・ギュンター・スタインであった。東京ではジャーナリストの尾
崎秀美(朝日新聞)と西園寺公一(西園寺公望の孫)が仲間であった。

 東京でのゾルゲの役割は、1941年にヒトラーが独ソ不可侵条約を破り
ロシア攻撃したため、東の日本の攻撃からソ連を守ることであった。ゾルゲ
は、近衛首相のアドバイザーであった尾崎と内閣の朝食会のメンバーであっ
た西園寺から情報を得て、日本はロシアを攻撃せず、英米蘭の植民地へと資
源確保(特に石油)のために南進するという情報を得た。
 
 同じ時期にアメリカでは4年に及ぶ日中戦争を停戦に導き、日米の直接対
決を避けるべきかが議論されていた。ジョセフ・グルー駐日本大使は、衝突
を避けるために動いていたが、国務省が日本と暫定協定を結ぼうとしていた
時にIPR(太平洋問題調査会)のメンバーが反対意見を出して来た。ロー
クリン・カリーは、FDR(ルーズベルト大統領)にこの停戦についてメモ
で、停戦は中国で築いて来たアメリカとの友好を修復不可能なほどダメにし
てしまうと強く非難した。この停戦に反対したもう一人は、財務省のハリー
・デクスター・ホワイト(ハルノートの原案を作成した)であった。

 ホワイトはすでにKGBに急き立てられ、アメリカ政府に停戦に反対する
様に促していた。ソ連のスパイであるヴィタリ・パヴロフのメモによれば、
彼はホワイトに日本との和解をやめるよう伝えた。ホワイトは、国務省に提
出する財務長官のヘンリー・モーゲンソーのためメモを何度もやり直して作
成した。重慶にいたラティモア教授は、ホワイトハウスにいるカリーに、蒋
介石の意向を汲んで、日本との和解は中国のアメリカに対する信頼を著しく
損なうとの電報を送った。

 ゾルゲ-尾崎-西園寺のアドバイスが日本で勝利し、ラティモア-カリー -
ホワイトがアメリカを説得した。中国での日本とアメリカの停戦はなく日本
のロシア攻撃もなく、太平洋の平和もなかった。代わりに真珠湾攻撃があり
日本は最終的に南方を攻撃した。結局、日本とロシアは停戦状態であった。

 アメリカとソ連が戦争のために、同盟を組んだことが後に大きな問題を引
き起こすことになった。特に、戦争のソ連寄りの空気は、大恐慌の時代に発
展した共産主義の浸透をもたらしたのだ。FBIは、共産主義の浸透を報告
したが、政府のトップにより無視された。戦争の時代の遺産は、情報が覆い
隠され秘密にされ、共産主義浸透の事実は常に議会や国民に隠匿された。

[2017年11月05日20時57分]
お名前: カーター
Chapter 4. 陳腐な焼き直し
(Stale, Warmed Over Charges)

 マッカーシーの前には、マーティン・ダイスがいた。1930年代の後半
から40年代にかけて、10年後のマッカーシーと同じ役割を演じた。ダイ
スは、非米行為に関する下院の委員長を初めて勤めた。ダイスの前にも同様
の調査を行う委員会はあったが、破壊活動防止、主に共産主義者に関する調
査で公に認知されたのは、ダイスであった。

 ダイスは反共の人々には人気があり、議会でも支持を得たが、学会、官僚
やマスコミには嫌われることとなった。マッカーシーに対してと同様の反応
であった。ダイスとマッカーシーの共通の目的は、政府内の共産主義者に焦
点をあてるものだった。しかし、単純な反共と共産主義者でないソ連の手先
を探るのは異なっていた。これに対しては、非難が巻き起こった。

 1930年代にアメリカ共産党はアール・ブローダーに率いられ、暴力革
命を棚上げにし、伝統的なアメリカの価値と共存し、リベラルな左翼と共闘
する策を採用した。その結果、学者、マスコミ、政府の職員などが新しく入
って来た。

 大恐慌初期の1933年にフランクリン・ルーズベルトが大統領になると
失業、銀行の取り付け、証券市場の崩壊などに対応する政策が取られ、自己
流で改革を行おうとする者達が政府に入ることになったが、採用に当たって
共産主義者に対して警戒をする者は誰もいなかった。

 共産党員が多く在籍したのはAAA(全米農業調整局)で、農務省のニュ
ーディール政策による派生物であった。中でも共産党のリーダーであるハロ
ルド・ウエアはソ連の集団農場の信奉者であり、グループにはアルジャー・
ヒスなどがいた。ヒスは後に司法省、国務省へ移動する。同調者が最も多か
ったのは財務省であり、影響力のあるハリー・デクスター・ホワイトなどが
いた。

 ウィティカー・チャンバース(元共産党員で反共主義者)によれば、彼は
1937年に政府の仕事に就きたいと考え、公共事業推進局(WPA)調査
部門のアービング・キャプランに問い合わせるとすぐに採用された。キャプ
ランの調査部門は党の同志が政府で地位を得るための秘密のドアであったの
だ。彼らはモスクワの政府から指示を受け、情報を盗むだけでなくソ連政府
に都合のいいようにアメリカ政策に影響を与えたのである。

 「反戦・反ファシズム連盟」は、後に「平和と民主主義の連盟」に変わっ
たが、アメリカ共産党に支配されており、クレムリンに忠誠を誓っていた。
ダイスは、この連盟の共産主義的な性格について知っていたが、赤いトロイ
の木馬であり、親ソ連的な性格を持つと議会に報告していた。1939年の
10月に、563名の共産主義的な職員ををすべて公的な記録にしようとし
たが、彼はニューディールの職員、マスコミそして歴史家から非難を受ける
こととなった。ダイス及び議員たちは、予算の力を使って一部職員の給料の
支払いを留保することで、彼らを取り除こうとした。しかし、成功したケー
スもあったが、裁判で拒否されたケースもあった。

 ソ連の傀儡であり、1940年に設立された全米平和運動(APM)はヒトラ
ーを敵視していたが、独ソ不可侵条約締結後にはイギリスを支援するルーズ
ベルトを批判した。しかし、ナチスドイツがソ連へ侵攻するとソ連を守るた
めにアメリカの戦争を支持した。このことから、彼らはソ連の傀儡であるこ
とが明らかとなった。

 FBIは共産党の陰謀について多くの記録を持っていた。だから、マッカ
ーシーは、共産主義者やスパイについての情報を推論に頼っていたのでは決
してない。前章ではマッカーシーについて述べたが、これらはダイス及びそ
の後任により調査されていたものである。

 ダイスとマッカーシーを結びつけるのは、反共の研究者であるJ.B.マ
シューズの業績による。彼は元共産党員であったが、1930年代に迷いか
ら醒め、自身の経験から共産主義者の戦術を研究し、世界的な権威となって
いた。彼はその専門知識からその後6年間研究部長を勤めた。

 マッカーシーのケースはダイスらにより広められたものであるが、マッカ
ーシーの方が批判者により良く認知されしばしば反対意見を述べられたもの
である。マッカーシーの非難は新しいものではなかったのである。また、彼
の情報はFBIから得られたものであった。しかし、重要でないものでもな
く、古臭いものでもない。我々は現在、確かにそれらの情報がヴェノナ文書
に記載されているのを知ることができる。彼らは政府内をうろつき、国家を
危険にさらしていたのである。

[2017年11月04日22時05分]
お名前: カーター
Chapter 3: 手の内にあるもの
      (He had in His Hand)

 マッカーシーの主要な目的は、連邦政府職員及び政策決定システムの中か
ら疑わしい者を追放することであった。彼が従事していたのは、この中心テ
ーマをめぐる闘争であった。

 彼の演説で言及して来た共産主義者の中に証明できるものがいるのかと言
う問いを断定することはできない。しかし、ヴェノナ文書に照らしてみて、
下記の疑わしい者10人を上げることができる。

   ソロモン・アドラー        ハロルド・グラッサー
   セドリック・ベルフレイジ     デイヴィッド・カー
   T.A.ビソン          マリー・ジェイン・キーニー
   V.フランク・コー        レオナルド・ミンス
   ロークリン・カリー        フランツ・ノイマン

 彼らはマッカーシーのターゲットになったが、通常は無実の犠牲者である
と教えられている。1995年にヴェノナ文書が公開されてからは、マッカ
ーシーの主張はすべて正しかったことがわかった。ソ連の文書と平行してわ
かったが、彼らは共産主義者、ソ連のスパイあるいはKGBのスパイであっ
たのだ。  

 ソロモン・アドラーは財務省の職員であり、第二次大戦中に中国に数年間
勤務したが、早くからマッカーシーの目に留まっていた。アドラーは、ヴェ
ノナ文書では、「ザックス」と言うコードで現れ、中国の国家の情報を仲間
に渡していた。

 セドリック・ベルフレイジは、第二次大戦中にニューヨークのイギリスの
安全保障コーディネーター(アメリカOSSにも勤務)であるカナダ人スパ
イのウイリアム・ステファンソンに雇われていた。ヴェノナ文書に、ベルフ
レイジは「UCN/9」のコードで出てくるが、戦略情報局(OSS)からバル
カン半島に関する情報をソ連のスパイに渡していた。

 T.A.ビソンはアメリカ兵を中国へ上手に派遣する計画や、ワシントン
の中国大使館から中国政府への報告書、ソ連とドイツの戦線の兵力に関する
評価レポートなどを、ソ連のスパイに渡していた。

 V.フランク・コー及びハロルド・グラッサーは、アメリカ政府が保証す
る占領軍の通貨を発行する印刷プレートを財務省のグループを通じてソ連に
渡した。1953年のマッカーシーの小委員会で、コーは黙秘権を使用して
答えることを拒否した。グラッサーも「あなたは共産党員ですか?」と言う
質問にも答えなかった。しかし、両名ともにヴェノナ文書に表れており、コ
ーは「ピーク」、グラッサーは「ラブル」と言うコードである。

 マッカーシーの10人のリストの中でも最も重要なのは、1940年代ル
ーズベルト大統領の補佐官であったロークリン・カリーであり、彼は中国政
策が担当であった。カリーはオーウェン・ラティモア(アメリカの中国学者
で蒋介石の顧問)と親しく外交官のジョン・スチュアート・サービスが雑誌
「アメラジア」の事件(政府の機密をソ連に横流し)で、反共のリーダーで
あった蒋介石を非難した報告書を中国から送り返した後に逮捕された。ヴェ
ノナ文書には、カリーはソ連のスパイとして「ペイジ」のコードで出て来る。
ヴェノナ文書によれば、カリーは1944年にKGBに対して、ルーズベル
ト大統領はポーランドとロシアの境界に関する要求で譲歩するだろうと報告
している。ソ連はアメリカとの交渉を強気で行った。

 デイヴィッド・カーは共産党員であり、デイリー・ワーカー(共産党の雑
誌)のレポーターであった。カーは、ヴェノナ文書にコードではなく、自身
の名前で出ており、ソ連のスパイであるサミュエル・クラフスルに情報を渡
していた。

 マッカーシーによれば、FBIはマリー・ジェーン・キーニーを共産党の
連絡係と考えていた。キーニーと夫のフィリップは共産党員でありソ連のス
パイであった。彼はOSS(戦略情報局)で、彼女はBEW(戦時経済局)
で働いており、機密情報に接することができた。書類の受け渡しはFBIに
監視されていた。

 レオナルド・ミンスは最もひどかった。1930年代にミンスは「デイリ
ーワーカー」や共産党の「ニューマス」にも記事を書いた。彼は海軍のレー
ダー兵器を扱う部門に採用された。兵器のマニュアルを扱うことで機密に接
することになった。マッカーシーの「共産党員か?ソ連の軍事スパイか?情
報を渡したのか?」と言う質問に、ミンスは黙秘権を使って答えなかった。
ミンスはマッカーシーが指摘したとおりに、ヴェノナ文書にソ連のGRU(
ロシア情報総局)のスパイとして登場する。

 フランツ・ノイマンはソ連のスパイというよりは共産主義のフランクフル
ト学派の学者として知られている。しかし、彼はヴェノナ文書にKGBの情
報源として登場する。ノイマンは1930年代にドイツから亡命し、OSS
に勤務し、1945年10月にその他大勢と共に国務省に転属になった。ノ
イマンはヴェノナ文書にコード名「ラフ」として登場する。

 メディアや学者が、マッカーシーや金で雇われた密告者らの無実の犠牲者
だとした疑惑の人は、共産主義者でありソ連のスパイであったのだ。問題は
彼らの政治的な信条ではなく、敵意を持った外国に奉仕する人々であると言
うことだ。

[2017年11月03日22時28分]
お名前: カーター
hapter 2: 下水管の住人
(The Caveman in the Sewer)

 
 1950年代の赤狩りは、マッカーシーの個人的な事業ではなく、国務省
及びアメリカ政府の至るところに安全保障上の問題が存在すること、また国
家が危機に瀕していることを意味していた。

 マッカーシーが怖い人間であると言う標準的なイメージは、ハーバート・
ブロックのワシントンポストに連載された漫画の絵に示されている。マッカ
ーシーは黒いひげを生やして穴に住み、大きなこん棒を使って無差別に犠牲
者をたたくのだ。同様の描写は、雑誌「ニューヨーカー」の記者のリチャー
ド・ロヴェールの著書「マッカーシー上院議員」(1959)にも言葉で表
現されている。この書により、マッカーシーの悪事を働くイメージが定着し
た。
 
 マッカーシーは1908年にウィスコンシン州アップルトン近郊の町で生
まれた。両親はアイルランド系カトリックの農家で、勤勉、倹約、独立心が
あった。マッカーシーは、10代に農業以外の仕事に就きたいと考え養鶏を
始めたが、1928年の冬の気候が厳しく被害を受けたので、雑貨商を始め
た。商人以上になるには学問が必要と考えたマッカーシーは、20歳の時に
高校に入学し4年のところを9ヶ月で終了した。そして、ミルウオーキーの
マルケット大学に入り、工学を学んだが学部生の時に法学に転じ、1935
年にマルケット・ロースクールの学位を得た。

 マッカーシーは卒業後に法律事務所を開いたが、恐慌のために仕事がなか
ったので巡回判事となったが、女性や子供の、また消費者や一般人の権利を
守ることに熱心であり、後に描写されたイメージとは異なっていた。

 第二次大戦が始まると、マッカーシーは33歳で海兵隊に入隊した。州の
判事であったので、徴兵は免除されていたが入隊したのだ。彼は南太平洋で
の日本軍との戦闘で情報将校として働いた。この時に、テイルガナー(尾部
銃手)・ジョーと言うニックネームをもらった。マッカーシーは1946年
にウィスコンシンでは有名なロバート・M・ラフォレを破って38歳の最年
少の上院議員となった。

 マッカーシーが大酒のみだったと言う逸話があるが、マッカーシーを知っ
ている人によれば、最初は酒をちびちび飲む方だった。酒に溺れたと言うの
は、それはマッカーシーに対する批判や雑言により、幕から引きおろされ失
脚してからのことだ。アル中のイメージは否定されている。

 マッカーシーの伝記作者は、彼が極悪人であったとは思っていない。D.
オシンスキーとT.リーヴスは、ロヴェールらの恐ろしい話について根拠が
ないものとし、その批判を誤りだとしている。
 
 しかし、マッカーシーは直情的で一匹狼のスタイルで政敵を激しく攻撃し
た。正しいと思ったことは譲歩することなく、慎重さとは全く無縁であった。
同じ政党内ですら、うまくやっていこうと言う気持ちはなく、ワシントンで
は危険人物と見なされ、両党の支配層にとって厄介者であった。彼の攻撃相
手は、彼を上院から追い出そうとしたウイリアム・ベントンやマッカーシー
批判の先頭に立ったラルフ・フランダースであった。

[2017年11月03日16時53分]
お名前: カーター
Chapter 1: 人々の敵
( An Enemy of the People)


 マッカーシーは1957年に亡くなっているが、他の同時代人よりも名を
残している。マッカーシーについて言われている逸話は、偽物の共産主義の
恐怖のヒステリーを広め、事実でない破壊行動を行ったとして無実の人々を
打ち負かしたと言うものだ。

 タイディングス委員会におけるマッカーシーの批判は、アメリカ国務省に
はソ連のスパイ、共産主義者やその同調者が浸透していたことと、この危機
に対処すべき職員がそれを許し、その事実を覆い隠したと言うことである。
この批判は、トルーマン大統領、国務省、政治家、メディア、学界などによ
り、常軌を逸した虚言であるとして糾弾された。

 マッカーシーが疑っている人物は、歴史家などにも知られていなかった。
この理由は、マッカーシーが匿名で上院に提出し、数年間その方法を取った
からである。委員会による記録の調査を妨害したのが、トルーマン大統領に
よる厳しい秘匿命令であった。

 1950年代には一部の人しか知られていなかったことが公になり、失わ
れた書類が表に出ている。また、ソ連の崩壊により共産主義者の文書が研究
者にも手に入るので、50〜60年代の冷戦時に何が起こったかの情報を与
えてくれる。

 新しく開示された情報で最も知られているのが、第二次大戦以来アメリカ
政府が保持していたヴェノナ文書であり、1995年に公表された。クレム
リンのボスとその代理人(スパイ)との間で1940年代から交換された暗
号化された文書であり、アメリカ陸軍の暗号学者が傍受して解読したものだ。
ヴェノナ文書は、KGBと共産主義者のスパイがアメリカ政府内でスパイや
転覆活動を扱ったものである。

 もう一つの重要な情報は、1990年代初頭に得られた旧ソ連及びその衛
星諸国の公文書である。これらの記録はKGBやGRU(ソ連軍参謀本部情
報機関)そしてコミンテルンの行動に関するデータである。

 1930年代から第二次大戦まで連邦政府内に共産主義が浸透したことが、
大きな問題ではなかったのは、大恐慌や戦争のイデオロギー的な空気のため
であり、政府の職員はほとんど気にしていなかった。

 マッカーシーの声明の前に、アルジャー・ヒスは元ソ連のスパイであった
ウィテカー・チェンバース(転向した)のスパイ行為に関して、嘘の証言を
したことで有罪となった。

 アメリカ司法省の職員だったジュディス・コプロンは、1949年にソ連
の職員であるヴァレンティン・グビチョフに秘密文書を渡したことで逮捕さ
れた。1950年には核科学者のクラウス・フスがイギリスで、ソ連の原子
力関連のスパイ行為を行なったことを認めた。

 ホワイトハウスや国務省の職員は共産主義者の浸透について、ありのまま
の事実や彼らの失敗を認めようとしなかった。この問題について誰もなしえ
ないことで、マッカーシーが公衆の注目を浴びることとなった。

[2017年11月03日12時39分]
お名前: カーター
Prologue: The Search for Joe McCarthy
     (マッカーシーを探して)

 1946年8月3日にアメリカ国務省の秘密のメモが公開された。内容は
国務省の内部にはソヴィエトのスパイがおり、共産主義者及びその同調者た
ちもいた。合計で33人おり、その中にアルジャー・ヒス(ルーズベルト大
統領の側近でヤルタ会談に出席)も含まれていた。
 
 第二次世界大戦時には、ソ連はナチスに対抗するアメリカの同盟国であっ
たため、連邦政府職員の内の共産主義者についてはあまり注意が払われなか
った。その後マッカーシー上院議員が、このメモに注目し上院のミラード・
タイディングス委員会にコピーを提出し、議会に提出された。しかし、不
思議なことにこのメモは消えてなくなっていた。

 アメリカ公文書館にこのメモは存在すべきであったが、ファイルにはなか
った。アメリカ議会図書館にもなかった。しかし、共産主義の浸透に関する
情報はFBIにあった。FBIは原爆の父と言われるオッペンハイマーなど
の監視を続け、アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト(ハルノ
ートの原案を作成した)がソ連のスパイであるとの情報を得た。

 マッカーシーについては多くの誤解があり、マッカーシーについての一次
資料を探るのが、本書の目的である。幸いにも忠実に仕事を成し遂げてくれ
た優秀な学者や冷戦の専門家がおり、ヴェノナ文書(ソ連の暗号を米軍が解
読したもの)やソ連の公文書がある。

 陸軍の安全を脅かしたと言われるアニー・リー・モスは、マッカーシズム
の犠牲者であると歴史家が言っているが、この件についてはオリジナルの資
料を調査するのではなく、歴史家が言って来たことを繰り返している場合が
多い。

 アメリカの国務省を1940年代に変革したクーデタ、つまり戦時に共産
主義者やソ連のスパイが戦略諜報局(CIAの前身)及び戦時情報局に浸透
したこと、戦後のドイツや日本での占領軍の行動などについて研究すべき事
が多い。冷戦初期の東ヨーロッパやアジアの多くに影響を与えたことともつ
ながっている。

 実際のマッカーシーは寓話や嘘の繰り返しで霧の中に消えてしまった。彼
の実像を探す必要があるのだ。

[2017年11月02日22時54分]
お名前: カーター
 以前紹介したことのあるM.STANTON著の"Blacklisted by History"を
読了しました。605ページもある大著ですが、英文を読み日本語の
レポートを作成すると言う作業を45章にわたって行いました。

 通算で2年と8ヶ月かかりました。マッカーシーは、罪もない人達を
共産主義者として告発したと言われていますが、その後のヴェノナ文書
の解読などで概ねマッカーシーが正しかったことがわかって来ておりま
す。

 これから45章の内容をこのボードで紹介して行きます。

                     カーター

[2017年11月01日22時15分]
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