テーマ:マッカーシーと共産主義者の真実

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お名前: カーター
Chapter 17: 破滅の前兆
(Eve of Destruction)

 合衆国を裏切る人達が国務省に雇用されていたかどうか、タイディングズ
は調査すべきであったが調査はせず、聴聞会でもそれが目的であるとは言う
ことはなかった。立証及び調査はマッカーシーの責任となった。

 タイディングズはマッカーシーに、「あなたは合衆国の歴史で最も完全な
る調査を行おうとしている。」と言った時は真実に近かった。これに対して
マッカーシーは「いや、そうではない。」と言った。重要なのは、マッカー
シーがしようとしていることではなく、国家に対する忠誠心を調査するのが
重要なのだ。

 通常及び秘密裏において、タイディングズ委員会はマッカーシーの調査に
乗り出し、また系統的に調査した。国務省における忠誠心を調査することに
なっていたのが、マッカーシーの調査及び起訴へと変わって行ったのだ。マ
ッカーシーに対する批判は、まず演説に嘘があり205人の共産主義者がい
ると言わなかったこと、そして彼の情報新しいものではなく1947年の議
会にあったものだということであった。

 こうして政府及び仲間は告発者に対して攻勢に出た。タイディングズはト
ルーマンに願い出た。また、民主党員にもマッカーシーを引き降ろすための
協力を求めた。マッカーシーが嘘つきだと言う攻撃はひどくなり、彼の上院
及び国家への貢献は完全に破壊された。マッカーシーは、出所である上院に
了解なしに資料を使用したとして罰せられるべきだとされた。

 タイディングズが国務省と共謀していたことは明らかだ。重要なことは、
国務省が与えた情報以外には使用していないことだ。確かにマッカーシーは
多くの人達を怒らせたかもしれない。しかし、この大げさな反応は奇妙だ。
もし批評家が言うように、彼が間違っていたとしても、通常の議論で彼を負
かすと言う単純なことができないのか?ジョー・マッカーシーの運命は最初
からこのような定めだったのだ。
[2017年11月23日10時52分]
お名前: カーター
Chapter 16: タイディングズの見解
(Tydings Version)

 1950年代ミリヤード・タイディングズの委員会ではマッカーシーらと
の白熱した議論が行われた。現在、マッカーシーの初期の主張が歴史的な事
実であるとされるのは、タイディングズ及びその委員会の報告書による。小
委員会は国務省の職員が合衆国に不誠実であったかを調査する必要があった。
 
 タイディングズが委員長で、民主党はコネチカットのブライアン・マクマ
ホン、ロードアイランドのセオドア・グリーンで二人ともニュー・ディーラ
ーであり、共和党からは保守的なアイオワのヒッケンルーパー、マサチュー
セッツの穏健なロッジらが委員であった。そして、ワシントンの弁護士であ
るエドワード・モーガンが顧問、安全保障の専門家であるロバート・モリス
が後に加わり共和党員を支援した。

 タイディングズ委員会は1950年3月8日にマッカーシーを最初の証人
として始まった。マッカーシーは17分間の発表に際して85回もの妨害を
受けた。タイディングズとグリーンは疑いのある職員の名前を公表できるか
とと尋ね、マッカーシーは秩序立って議論したいが、すべてを知っているわ
けでないため、適当な時期に特別なケースで扱うとした。すると、タイディ
ングズは非難を始め、「君は完全な調査をしなければならない。君は一体こ
の男を知っているのかね?」と尋ねた。

 これに対して共和党側からは強い反感が生まれ、ロッジは次のように抗議
した。

 「委員長、これは異常なやり方だ。マッカーシー議員は通常の扱いを受け
 られないのか。発表を終える前になぜ反対尋問を受けるのか。彼は礼儀を
 わきまえている。発表をさせるべきだ。・・・」

 マッカーシーはLEE リストから次の9つのケースを明らかにした。

 ケニオン判事、フィリップ・C・ジェサップ大使、国務省職員ハルドア・
ハンソン及びエスター・ブルナウアー、ジョン・ホプキンス大学のオーウェ
ン・ラティモア教授、元国務省職員グスタヴォ・デュラン、国務省UNESCO
担当のハーロー・シェイプリー、ジョン・スチュアート・サービス、フレ
デリック・シューマン博士(国務省の外交の講師)である。
 
 マッカーシーは非難の内容を始めた時には予想されたよりも多くの証拠
を準備していた。ケニオン判事のケースでは、彼女の側にある共産主義の
団体の長いリスト、手紙の写し、会合の通知などでグループの一体感を示
すものであった。スター・ブルナウアーは共産主義の団体とのつながりが
あり、彼女の夫はもっと強いつながりがあった。

 ハロルド・ハンソンのケースでは、その書物からラティモア教授との関
連、アメラジア及びIPR(太平洋問題調査会)とのつながりを扱った。グス
タヴォ・デュランはFBIの抗議に対し国務省により潔白を証明されたが、辞
職し国際連合に移動した。マッカーシーはデュランがソ連のスパイであっ
た多くの証拠を読み上げた。サービスについてはマッカーシーはアメラジ
アのつながりを述べた。シューマンとシェイプリーも共産主義団体とのつ
ながりがあったが、国務省はその活動を阻むことができなかった。

 非難に対して返事をする権利は、名指しされた人々において、真実を調
査する上でのステップとして適切であり必須であった。フィリップ・ジェ
サップのケースは、この方法をうまく現していた。かれは特使であったが
マッカーサーのリストでは高官であった。委員会でマッカーシーからは共
産主義への異常な親近感としてか言及されていなかった。ケニオンのケー
スの挿話として語られた。

 ジェサップは、委員会で家系や経歴、彼の判断を信じる著名な人達、彼
の国際連合での反ソ連のスピーチ、マッカーシーの非難の愚かさについて
話した。委員会でのジェサップ博士への判決に至る証拠はすべて出た。グ
リーンは、「ジェサップ博士すべて明らかとなった。おめでとう」と言っ
た。  

 ラティモアは1万語に及ぶ膨大な記録書を読み上げるのに、二時間半を
要した。彼は生活、経歴、著書などについて何の妨害もなく述べた。しか
し、元共産主義者のルイス・ブデンスは共産党の幹部が述べたところによ
るとラィテモアは共産党のスパイであり、ブデンスはラティモアが関与し
たプロパガンダなどについて4つのエピソードを紹介した。グリーンはブ
デンスがラティモアに会ってもいないのなぜ知っているかと言う質問をし
たが、ブデンスは後にヒッケンルーパーにスターリンには会っていないが
スターリンが共産主義者であることを知っているとした。

 元アメリカ共産党の党首であったアール・ブローダーはマッカーシーが
共産主義者としたラティモアやT.A.ビソンらのことは知らないとした。フ
ィリップ・ジャフェらのスパイ行為については曖昧であった。彼は国務省
内の共産主義者や内部にスパイを置いたことも否定した。外国から資金を
得たことやモスクワからの命令を受け取ったことも否定した。ブローダー
はドロシー・ケニオンなどの共産主義者について知っているかの質問に対
して、「返答しない」と言った。また「ヴィンセントとサービスについて
は、アメリカ共産党とは関係ない。」としたため、聴聞会は終了した。

 6月28日は最終日だったが、タイディングズもグリーンも「仕事はち
ゃんとやった。」と考えた。しかし、ヒッケンルーパーは「まだ始まって
もいない。」と述べた。ロッジは提案をして「18の質問は回答されてい
ない。」とした。モリスは共産党のメンバーであったセオドア・ガイガー
のケースが残っているとしたが、タイディングズはそれはFBI に引き継い
でもらい、ここで決定したいとした。報告書はモーガンにより作成される
こととし、タイディングズ委員会は終了した。

 アール・ブローダーに対してはヒッケンルーパーの質問に対して回答を
拒否したことで、小委員会により侮辱罪を課すと言う決定がなされた。ブ
ローダーはタイディングズにより回答するよう命じられてもいなかった。
これに対してブローダーはマッカーシーを証人に立てた。前共産党のボス
が、共産主義ハンターを防衛のために求めたのだ。マッカーシーは答えた。

 証人が証言を拒否したのは、委員長の心からの承認があるように見えた
からだ。委員長は、政府内に共産主義者がいたことを証人から引き出すこ
とに興味がなかったからだ。証人は委員長が隠蔽しようとしていることの
一つの役割を果たしたのだ。

 ブローダーの弁護士は、「ブローダーは質問には答えなかったが、大多
数が彼にそうして欲しかったからだ。法廷は被告はヒッケンルーパーの質
問に答える必要はなかったと判断して、ブローダーは無罪であるとの判決
を出した。

[2017年11月21日20時49分]
お名前: カーター
Chapter 15: 方法序説
(Discourse on Method)

 ワシントンサンデースター紙は、マッカーシーには3パラグラフの記事を
載せただけだったが、上院の民主党のリーダーであるスコット・ルーカスに
ついては長い記事を載せた。ルーカスはマッカーシーを非難して、「彼は事
実を述べていない」そして「彼に氏名を言わせるべきだ。」と要求した。

 月曜日の午後4時から5時にかけて、マッカーシーは通知していたように
上院の議場で立ち上がり告発を始め、それを裏付ける証拠を示した。証人に
よれば、フォルダーを大きく積み、彼は資料を読み、書類を見せ証拠を提示
した。長いプレゼンテーションは6時間に及び、国務省の将来のある職員が
大規模な転覆、安全保障上の破壊を行った80件に及ぶケースについて、列
挙した。

 マッカーシーのスピーチは新聞に載った記事とはそれほど異なってはいな
かったが、それは感動的なものですべてのアメリカ人に、自由主義の地域を
を縮小し帝国を拡大しているソ連とその仲間の計略に抵抗するよう、要求す
るものであった。マッカーシーは宗教的な用語を使用し、無神論の共産主義
は西側のキリスト教文明に対立するものだとした。アメリカには人材がおり
道徳水準も高く脅しに対抗する責任感もあるが、挑戦に効果的に受けて立つ
ことがなかったと。彼はこの文脈で、ジョン・サービス、グスタヴォ・デュ
ラン、メリージェーン・キーニーなどの名を挙げた。

 マッカーシーは、国を売る人間は財産のない者たちではなく、富める国で
最高の教育を受けて来た連中であり、国務省においては優秀で上流階級出身
の若者たちであった。特にアルジャー・ヒスがそうであり、ディーン・アチ
ソンは部下のヒスを「見捨てない」と言う有名な発言を行った。さらに、ア
チソンは、聖書のマタイを引用して「私が牢にいた時、私を尋ねてくれた」
と言ったが、マッカーシーはこれに激怒して「この気取ったストライプのズ
ボンの、偽の英国なまりの外交官め」と言った。

 マッカーシーの他の発言には、スターリンとルーズベルトとのヤルタ会談
に関するものがある。1949年の元FBI 調査員であったラリー・カーリー
の第二次体戦中のソ連に関する証言で、冷戦時の悪事はスパイ行為ではなく
海外におけるアメリカの行動に共産主義が影響を与えたということであると
言う主張である。敵にアメリカの政策を形作らせたからである。また彼は延
安の同志(中国共産党)の大儀を売り込んだサービスのレポートについて、
このケースはトルーマン政府により扱われたものだと鋭く批判した。国務省
及びホワイトハウスにおいて何かが大きく間違っているとした。

 マッカーシーのデータがどこから来たかを考えるにあたってヒントが得ら
れるケースがある。

ケース11:1943年の7月から1945年の8月までOSS に在籍した調
 査員は後に国務省でマップ・インテリジェンス部門で雇用された。彼はあ
 る共産主義者の仲間でこの国が共産主義の国になればいいと述べた。彼は
 デイリー・ワーカー(アメリカ共産党の新聞)の定期購読者であった。彼
 は現在は国務省ではなくCIA に勤務している。

ケース28: 1936年から国務省の外交官である。彼は現在でも高給を取
 り、現在はフランクフルトに駐在している。1947年6月の報告では、
 彼は共産党のメンバーであり、1937年にユース・インターナショナル
 に出席した。彼は共産主義的行為のためにAFL (政府職員組合)を解雇さ
 れた。彼の業務はFBI を攻撃するものだった。 

ケース46: 国務省の高位の人物でアメラジア誌事件に関与した。

 情報のソースとして、マッカーシーは繰り返し国務省のファイルあるいは
その安全保障担当者からから得られたものだと述べた。当然、国務省のアチ
ソン長官及び部下には知られていることである。マッカーシーはさらに、国
務省に忠実な職員がいなかったら、このようなデータを上院に提出すること
はできなかったであろうと述べた。忠実な職員とはジョー・パヌーチのグル
ープであり、マッカシーによれば「パヌーチは、バーンズ長官の下で自由に
人員整理の仕事ができたが、マーシャル長官が就任するとパヌーチは排除さ
れた。」

 マッカーシーは独断で、列挙したケースが安全保障上のリスクがあると言
うのではなく、データが国務省の記録としてあるのだと主張していた。彼は
申し立てではなく事実として共産主義者の確認を引用しようとした。

 しかし、民主党のスコット・ルーカスはマッカーシーに共産主義者の名前
を言って欲しいと述べた。例え彼らが共産主義者でなかったとしても、上院
議員は保護されると言う特権があるから。それに対してマッカーシーは、「
共産主義者の名前を出しても、そうでなかったらまずいことになる。でも、
私はケースの聴聞の後の上院の決定に従う。微妙なことは上院の秘密会を開
き、適切な委員会で調査すべきだと思う。」と述べた。また「共産党員及び
同調者の名前を知っているが、間違っているかもしれない。だから、上院が
要求するまで、私は言わない。」とも言った。

 ルーカスらの民主党の議員らは名前を言うように要求したが、マッカーシ
ーは断固として拒否した。明らかにルーカスらは、マッカーシーを議論にお
いておびき出し「マッカーシズム」へと根気強く導こうとしていた。

 このようにしてマッカーシーはスポットライトを浴びる表舞台に登場する
こととなり、彼はケース毎の情報を持ち込み、それらは小委員会のみならず
新聞にも発表されることになった。最初のケースは、ニューヨーク州判事の
ドロシー・ケニオンであった。彼女は共産主義者との幅広い親交があったこ
とを示す記録があった。

 マッカーシズムはついにスタートした。彼は被疑者の名前を挙げることに
ついて責任を取ることになった。ミリヤード・タイディングス委員長による
聴聞会で来るべき予兆を見たのであった。


[2017年11月20日21時56分]
お名前: カーター
Chapter 14: ホィーリングでの演説
(Wheeling, 1950)

 1950年2月9日(木)、マッカーシーはウエスト・バージニア州のホ
ィーリングでの女性共和党クラブのホテルマクルアでの会合で演説を行った。
彼は275人の聴衆に向かって、国務省における共産主義の浸透は深刻な問
題であり、適切に処理されてないので強力な修正が必要であると述べた。国
務省に何人の共産主義者がいたかが後の論争となった。
 翌日地方紙のホィーリング・インテリゲンサーは、フランク・デスモンド
の名前で次のような記事を載せた。「私は国務省内の共産主義者のメンバー
の205名のリストを持っている。彼らはまだ国務省で働いており政策を形
成している。」同様の内容はAP通信などでも繰り返されたが、マッカーシー
は常にこの内容を否定した。彼の意見は、実際に国務省内にいる正真正銘の
共産主義者あるいは共産党に忠実な人々のリストを持っているが、その人数
は57人であり205人ではない。205人と言うのは、国務省長官のジェ
ームズ・バーンズからアドルフ・サバスに1946年に書かれた手紙に由来
する統計値であった。

 しかし重要なのは数字ではなく冷戦時の行為であり、ソ連のスパイや共産
党員が国務省内にはびこり、1950年になっても活動を行っていたと言う
ことである。マッカーシーの言葉や数字ではなく、国務省の安全保障の仕組
みを調査し、省内の職員がもたらした主役や真相を調査することである。
 そうは言っても、タイディングズ委員会で作成された報告では205と言
う数字が残り、ウイリアム・ベントン上院議員はマッカーシーを上院から追
放するために後にこれを使うことになるのだ。多くの記事、書物などのメデ
ィアが、マッカーシーは205人のリストを持っていると嘘の主張し、後に
取り消し、話を変えたと主張した。

 ホィーリングでのラジオ放送の録音は消されていた。インテリゲンサー紙
のデスモンドの記事は205人の数字が載っていたが、ホィーリングでの演
説用にマッカーシーが持って来た原稿には205人の数字が見えた。これら
の証拠は消された録音の代わりになった。
 上院の議事運営委員会のジレット委員長による調査が行われ、40ページ
の報告書が作成された。興味深いのは、スピーチの前のマッカーシーの状況
が記されていることであり、マッカーシーは共和党の関係者と会い演説の原
稿のコピーを渡したが、これは演説の前に改訂される草稿であるとした。

 調査メモにより報告者のデスモンドは、205人の数字は演説の原稿にあ
ったものでマッカーシーが実際に語ったものではないと認めた。マッカーシ
ーは原稿には従わず演壇を行ったり来たりしながら即興で話したとのだ。ま
た、重要なのは数人の証人へのインタビューであり、ウィリアム・キャラハ
ンとの対話は次の通りである。

 調査員の一人でダニエル・バクリーは、共産主義者は200か205人で
57人とも言った。インテリゲンザーの編集者であるギースケは、そこにい
たが205人は聞いていない。デスモンドは変更されるかもしれないマッカ
ーシーの原稿に基づいていた。
 2000年の3月に50周年を記念して、3人の証人の証言が得られた。
エバ・ロー・インガソル、ダグラス・マッケイ及びベン・ホーネッカーであ
る。3人ともマッカーシーは即興で話し、原稿を読んでいなかったと言うも
のである。ギースケの証言と同じであり、ラジオの証言は間違いであった。
 より詳細な説明はインガソル(MRS)によりなされた。ギースケは正しく、
タイディング・ベントンの主張は間違いであると言った。そのやり取りは次
の通りである。

問「タイディングらは、マッカーシーが205人の共産主義者のリストを
  持っていると言ったと言っているが?}
答「それは違う。205人の内に正真正銘の共産主義者が57人いると言
  うものだ。205人ではない。」 

 彼女はペンで走り書きのメモを取ったために、はっきりと記憶に留めて
いたのだ。もう二人の記憶ははっきりしておらず、数字にとらわれていな
かったと言うものであった。上記の証言は、編集長のハーマン・ギースケ
の書いた内容と同様であった。2月11日に記事は次の通りである。

 マッカーシー上院議員は「50人以上の共産主義者がアメリカ国務省内
におり、アチソン長官は共産主義の浸透をを知らなかった。アルジャー・
ヒスがその例である」と聴衆を驚かした。

 その内容を補強するのが、マッカーシーがその後立ち寄ったコロラド州
デンバーでの演説である。1950年2月11日のデンバーポストの記事
の見出しは「マッカーシーによれば、57人の共産主義者がアメリカの政
策を形成している。」となっている。マッカーシーはその後のソルトレイ
クシティーでも、57人の共産主義者と述べている。

 小委員会は最終報告を提出し、ホィーリングでの数字は大きいものでは
なかったとした。ベントンの批判は議論から取り下げられた。しかし、そ
れでも「マッカーシーが205人の共産主義者のリストを持っている」と
の嘘の内容が、多くの本やメディアに引用され、ジョー・マッカーシーは
嘘つきだと言われているのである。一般的な扱いと事実との間には殺伐と
したコントラストがあり、現在もマッカーシーの読者に議論をもたらして
いる。

[2017年11月18日23時07分]
お名前: カーター
Chapter 13: 議会の行動
      (Act of Congress)


 マーチン・ダイスが連邦職員の安全保障上の被疑者のリストを編集してい
た時には、アメリカは平和であり政府はまだ大恐慌と格闘していており、国
内問題が重要であった。しかし、真珠湾攻撃が起こると政府の姿勢は世界を
向き、国務省も同じ方向を向いた。

 戦後になると、議員の中には安全保障の問題を掘り下げる人が出て来て、
ジョージ・ドンデロ(共和党)はアメラジア事件について調査を要求し、ポ
ール・シェーファー(共和党)は国務省のスタッフや政策の変化、つまりジ
ョセフ・グルーの退任及びアチソンの勢力の増大について酷評した。アンド
リュー・メイ(民主党)はソ連寄りの職員の排除を要求し、ケネス・マッケ
ラー(民主党)はグスタヴォ・デュラン及びアルジャー・ヒスに関するFBI
の情報を要求した。

 1946年の後半には、視点は異なるが両院の両党のメンバーが安全保障
に的を絞って来た。11月には共和党が議会で圧勝したが、大恐慌以来の共
和党の支配する議会をもたらした。それまでは国務省などでは国家への忠誠
心で問題が起こっていた。共和党は共産主義の浸透を心配しており、反共の
キャンペーンを始めた。

 1月21日には、再三のバーンズの辞職の要請が受け入れられ、ジョージ
・マーシャル将軍がに交代した。マーシャルは軍人出身であるため、バーン
ズ以上に国務省の実務に疎く、すでに勢力のあったアチソンに留任を依頼し
省内のことは彼に任せた。ジョー・パヌーチはドナルド・ラッセルの後ろ盾
を失い、アチソンの支配するオフィスを去った。強硬派は去って行った。安
全保障を担当したのは、二人のアチソンの弟子であり、行政担当補佐官のジ
ョン・ピュリフォイ及び新任管理局長のハミルトン・ロビンソンであった。

 議会は立法のみならず監視の権限を持っているのが、国務省にとっては悩
みであり、誰かが安全保障の問題についてうっかりしゃべるのではないかが
心配であった。クラウスは、議会の抗議を阻止するためにマーシャルの権威
を利用して、マーシャル長官が現在の安全保障上の問題を適切に処理すると
の保証を行ったが、歓迎されない質問が妨げられることはなかった。中でも
バーテル・ジョンクマンは、マルザー二がまだ解雇されていないことに苛立
ち、クラウスに「バーンズ長官らが約束したのにだまされた。」と言った。
 
 カール・ステファンは国務省の予算を牛耳る下院歳出委員会の新しい委員
長であったが、彼は1947年の3月に36名以上の名簿を国務省に提出し
国家への忠誠心に疑問があるので報告を要求した。クラウスは答えて、次の
ように回答した。

I.依然として雇用されている職員:
1.国務省により調査され、反対の見解が出ていないもの
 ハルドア・E・ハンソンらの9人
2.国務省により現在調査中のもの。最初の3人は国家公務員任用委員会に
 より資格があるとされている。
 セオドア・ガイガー、アレクサンダー・レッサー、ぺヴェリル・メイグス
 その他7人は(調査中)

II.すでに雇用されていない職員:
1.カール・A・マルザー二はマッカラン条項により解雇された。
2.H. S.バートンはルールXIIにより解雇された。
3.調査を終了し、退職の際に反対意見が出なかったもの。
 クライド・イーグルトン(退職)
 ハーバート・S・マークス(原子力エネルギー委員会へ転出)
 モンロー・B・ホール(退職)
 アブラハム・ピヴォウィッツ(期間雇用の終了で退職)
4.調査が完了していないが、反対意見は出ていない。
(a)国家公務員任用委員会により資格ありとみなされた。
  ロバート・T・ミラーら10人。
 (b)調査され、OSSにより承認された。
   アレクサンダー・S・ヴィシニチ(退職)、
   ウィリアム・W・ロックウッド(退職)
(c)その他
   クリフトン・リード(退職)、アルジャー・ヒス(退職)、
   ベス・ロマックス・ホーズ(影響力の削減)
   チャールズ・A・ペイジ(退職)

 共和党のフレッド・バスビーはクラウスと共にニューヨークのVOA の放送
局を二度訪れた。その後バスビーはベントンの事務所を訪れて、「文化部門
には共産主義者の浸透したOWI からの多くの残党がいる。」と言って、その
人の名前を読み上げた。1947年の春には、議会での安全保障に関する関
心が高まり、多くの下院議員が警告を発した。

 このような圧力を和らげるために、ホワイトハウスは遠大な計画を発表し
た。つまり、政府の職員は地位、部局に拘わらず調査を受ける義務があると
言うものだ。合衆国への忠誠を吟味されるのである。その結果、おなじみの
グレゴリー・シルバーマスター、アルジャー・ヒス、ハリー・ホワイトなど
が召喚された。しかし、ベントレー事件の関係者は起訴されなかった。主な
理由は、政府はベントレーの言葉に頼るだけで書類や被疑者の協力が確認で
きていなかったからだ。

 1年の混乱の後に、マッカラン条項は10人の被疑者を一撃で落とした。
無作為に不満を述べていた議会のタカ派は元気づけられた。皮肉なことに、
以前に増してその条項は無力となった。停職となった職員の名前は公表され
なかったが、匿名のグループの彼らはすこぶる有名となった。ニューヨーク
ヘラルドトリビューンのバート・アンドリューズらは新聞でキャンペーンを
始め、その解雇を市民の自由のひどい侵害であると描いた。国務省はこれで
再度右往左往し始め、職員を解雇するのではなく(権利の侵害でなく)、辞
職してもらう方法に変えた。

 1948年の始めに、下院の非米委員会はエドワード・コンドン博士(商
務省に属する国立標準局の創設者)の安全保障上の問題を追跡しており、
FBI にその報告書があることを知り、そのコピーを要求した。しかし、商務
長官のアベリル・ハリマンは「公共の利益に反する」として開示を却下した。
3月13日には、トルーマン大統領は安全保障上のデータをいかなる行政局
からも提供することを禁止するとの大統領令を発した。こうして、安全保障
上の情報の開示の時代は終わった。

 怒った下院議員はコンドンの事件で論争を始めた。指導的な人物は共和党
の新人で非米委員会のメンバーであったリチャード・ニクソンであった。1
948年3月にニクソンは、アベリル・ハリマンと司法長官のトム・クラー
クに、コンドンに関するFBI のメモを要求する手紙を出した。ニクソンはそ
のメモがFBI 情報源を明らかにしていないことを知っており、「公共の利益
は、FBI のフーバー長官の手紙の全文を公にするように要求する。」と述べ
た。

 この見解は非米委員会など多くの人々から超党派で支持された。しかし、
トルーマン大統領は議会に対して拒否した。数年経っても、トルーマンの布
告はメトロノームのように続き、職員の忠誠心・安全保障上の疑義に関する
議会のデータを組織的に否定した。すべては、煮えたぎるやかんのふたのよ
うであり、後に爆発することに
[2017年11月16日21時50分]
お名前: カーター
Chapter 12: 国務省内部のこと
(Inside the State Department)
 
 国務省はお堅い保守的な役所であったが、1945年の7月に大幅にイメ
ージを変えようとしていた。エドワード・ステッティヌスが長官の世話役の
職を降り、サウス・カロライナ出身のジェームス・F・バーンズに交代した
のだ。数週間後に老練な外交官であったジョセフ・グルーが国務次官を辞職
し、ディーン・アチソンに交代した。これらのトップの交代は、アメリカの
外交及び国内の安全保障に大きな影響を与えた。

 バーンズは国務省内部の事情に疎かったので、信頼できる数人のスタッフ
を通して仕事をした。海外での会議で長期間留守にする時には、仕事を任せ
ることが多く、その場合には次官は長官の代理として仕事をこなし、ディー
ン・アチソンが国務省で力を持つようになった。グルーとアチソンでは世代
も異なっていたが、物の見方も異なっていた。
(アメリカと日本が真珠湾の開戦へと突き進んでいた時に、グルーは停戦を
呼びかけていた。その頃、ハリー・ホワイトやロークリン・カリーは対立を
煽っていた。同様にヤルタ会談の時に、グルーはその恐ろしい合意内容に反
対した。戦争が終わろうとしていた時に、日本との和平に関して進歩主義者
とまたも対立したのだ。)

 グルーは1945年6月のアメラジアの事件でも省内での不正を告発した
が、それがマスコミの過激派の怒りを買い、彼を反動主義者であると非難し
辞任を要求した。そして、実際グルーは辞職した。古い外交スタイルの支持
者らは除かれた。

 ディーン・アチソンはワシントンの有力者を良く知っている弁護士であり
元は財務官であった。彼は1941年に国務省に入り、グルーの10分の1
の経験しかなかったが、すでに進歩主義者として知られ有名になっていた。
アチソンはスターリンと対立したと知られているが、実際にはソ連と和解し
ようとしていた。前国務次官補であったアドルフ・ベルレによれば、「省内
には対立があり、私はロシア人は協力的でないと感じていた。省内の対立グ
ループは、アチソンとその支援者のヒスのグループであった。私はその闘争
に負けブラジルに行くことになり、外交官としてのキャリアは終わった。」

 1946年の夏、クラウスが書いた被疑者に関する106ページのメモは
省内の安全保障の状況を吟味し、事件を要約し、仕事のやり方を変える様に
訴えている。(プロローグで述べたメモのこと)国務省はスパイに関する尋
問、調査などの情報については完全にFBI に依存していた。1946年5月
の時点での国務省のスパイなどの人数は次の通りである。スパイ:20人、
共産主義者:13人、同調者:14人、被疑者:77人。名前はすべて消し
てあった。しかし、二人のスパイの名前は確認できた。アルジャー・ヒスと
メリージェーン・キーニーである。

 政府職員には思想の自由があったが、ハッチ法によれば正当な理由があっ
て安全保障上の問題がある時には職員は解雇できた。解雇の際の聴聞会では
容疑の背後にある情報が開示されるが、このようにしてFBI が収集したデー
タの本質が暴露された。

 1946年にはマッカラン条項が議会で承認されたが、これは国務長官は
国益に照らして、政府職員のルールに拘わらず職員を解雇できると言うもの
だった。しかし、甚だしく明らかなケースであっても解雇されなかった。そ
の代わり、潜在意識下で扱われる、つまり明らかな解雇ではなく影響力を失
わせ辞職させる方法が取られた。

 最も有名なケースが不利な報告があるアルジャー・ヒスである。国務省の
職員は秘密の長官の命令として、アルジャー・ヒスは国務省内での昇進はな
く、責任ある業務は与えられないとした。しかし、彼を公然と解雇する動き
はなく、彼は静かに圧力を加えられ、実際1947年1月に辞職した。ディ
ーン・アチソンはヒスを擁護した。

 ヒスは国際連合の設立に忙しかったが、調査員によるとヒスは500人分
の履歴書を国際連合に送っており、彼らはヒスの国務省の同僚であり、後に
50人が正式に職員となり、200人以上が臨時の職員となったのである。
1945年9月に調査員は、ヒスが秘密の政府の文書をジャーナリストのド
ルー・ピアソンに漏らしたのを突き止めた。クラウスに質問を受けるとヒス
はいつもの二枚舌を使い学者ぶった煙幕を張って切り抜けた。また、調査員
はヒスの事務所で大量の文書のコピーを見つけた。こうして、アメリカの秘
密はヒスの事務所から外部へと漏れたのであった。

 ヒスは最終的に辞職したが、ロバート・ミラーのようにヒスの部下や同僚
は残った。アメラジアの件では、ビンセント、サービスなども残った。彼ら
はビンセントの出世のおかげで、強い力を持った。しかし、アメリカ国民は
アルジャー・ヒスのことや、アメリカに20人ものソ連のスパイがいたこと
なども何も知らなかった。しかし、議会のあるメンバーにより重要な議題と
して上げられて来るのである。
[2017年11月15日21時59分]
お名前: カーター
Chapter 11: FBIのフーバーがトルーマンに伝えたこと
      (What Hoover Told Truman)

 FBI は共産主義者とソ連のスパイがアメリカ政府に浸透するのを阻止する
のに失敗した。ある新聞のコラムニストは、ソ連の諜報はフーバーのFBI を
ふるいのように突破したと述べた。この批評家は、「FBI は共産党がソ連の
諜報を支援し、スパイが第二次大戦中から戦後にかけて政府の高いレベルに
浸透していたことを知らなかった。また、陸軍からヴェノナの秘密を示唆さ
れても阻止できなかった」と示唆した。
 このヴェノナに関する批判は、FBI が意図的にトルーマン大統領に秘密を
知らさなかったとするもので、FBI の冷戦における過失を責め、またトルー
マンの無為の罪を問わないものだった。しかし、FBI はだまされていたわけ
でもまたソ連の浸透に無関心であったわけでもない。大統領に事実を隠して
いたわけでもない。
 FBI は、軍事的な同盟を結んでいてもソ連はアメリカの利害に合致しない
ことを理解していた。また、アール・ブローダーによる共産党はアメリカの
固有の党でありクレムリンとは無関係であるとの説が嘘だと知っていた。ま
た、FBI はソ連とアメリカ共産党が何をしているか、ヘンリー・ウオラス副
大統領とジョセフ・デイビス大使(駐ソ)による「アメリカとソ連が友人と
なる平和の王国」と言う宣伝に反対していた。また、アメリカ人のスパイが
核兵器の秘密をソ連に渡していることも知っていた。そして、FBI は次の三
つのケースについて調査した。
 まずコミンテルンの組織(Comintern Apparatus:FBI は省略して
COMRAPと読んだ)は、核兵器から始まり、ソ連のビジネス、民族間の赤化、
労働組合への浸透、プロパガンダなどの調査へと拡張して行った。二番目が
核兵器関連に特化した調査で核兵器研究所への共産主義の浸透(Communist
Infiltration of the Radiation Laboratory)、略してCINRADで
あった。最後に、重要なのが、J.ロバート・オッペンハイマーであり、彼はニ
ューメキシコ州ロス・アラモスの核研究所で働き原爆の秘密を知っていた。彼
は共産主義者であり、1940年から始まる彼の活動についてのファイルが作
成された。
 第一にFBI は、第二次大戦のプロパガンダのための共産主義者の尾行をや
めていない。次に日付が重要であり、FBI は1944年には共産主義者の浸
透を敏感に察していたが、ヴェノナ文書が出現したのは1948年になって
からである。レポートの要約は次の通りである。

・コミンテルンの組織(Comintern Apparatus)1944年12月
 577ページのメモでバークレー研究所から始まる。オッペンハイマー、
シルバーマスターなどの400名の名前とソ連に操られた多くの組織の活動
が記されている。

・フィリップ・ジェイコブ・ジャフェ、1945年5月11日
 80ページのレポートで、フィリップ・ジャフェ、ジョン・サービス、ア
ンディー・ロスなどについて、1945年4月の二週間の活動を追跡したも
のである。サービスが突然現れジャフェと関係を持ち始めた三日間に言及す
るため、一般の研究者にとってはとても興味深いものである。

・ソ連のアメリカでのスパイ行為、1945年11月27日
 50ページからなるレポートで、エリザベス・ベントレーのデータ、アメ
ラジア事件、ヴィクター・クラフチェンコ、ウィテイカー・チェンバースな
どの転向者に関するものである。

・ナサン・グレゴリー・シルバーマスター、1946年1月3日
 484ページのレポートであり、二ヶ月に渡ったベントレーーグレゴリー
の事件に関して調査したものである。100人の名前が出て来る。

・ハリー・ホワイト及び財務省の同僚に関するメモ、1946年2月1日
 28ページのレポートで、ホワイトがIMF の役員に就任すると言う事実に
触発されて書かれたもの。彼の財務省の同僚であるシルバーマスター、ソロ
モン・アドラーなどとの関係についても記載されている。連邦政府内で共産
主義の組織が動いていたことを明らかにしている。

・合衆国政府内のソ連の地下スパイ組織(NKVD)、1946年2月21日
 11月27日のレポートを読めば、誰も連邦政府内の高いレベルまでの共
産主義の浸透が危険な状態であったことを疑う者はいない。さらにFBI は、
この194ページのファイルを作成した。この書類には、アメラジアーベン
トレー、CINRAD/COMRAP に関係する政府内の40人以上の被疑者(カリー、
ヒス、ミラー、ヴィクター・ペルロ、ダンカン・リーなど)について記され
ている。

・コミンテルンの組織(Comintern Apparatus),COMRAP,1946年3月5日
 35ページのCOMRAP捜査の要約である。これは、数百ページにも及ぶもの
と異なり政府のトップが使用するのに適していた。このメモを受け取った者
の中に国務長官のジェームス・バーンズがいた。内容はソ連の活動、政府内
のスパイ、OWI及びOSS内の被疑者、ルイーズ・ブランステンのサークル、ジ
ャフェ、ジョン・サービスへの諜報、ベントレーのシルバーマスターに関す
るデータなどである。

・核エネルギー研究所での共産主義の浸透(CINRAD)1946年3月5日
 席に座ったままで読める様に、政府のトップのために作成したメモで、原
爆のプロジェクトの重要な人物であるハーコン・シュバリエ、ジョセフ・ワ
インバーグ、アラン・ヌン・メイ、クラレンス・ヒスキー、ベルナルド・ピ
ータース、J.ロバート・オッペンハイマーらについて述べている。オッペ
ンハイマーは共産党員であったが、政府の仕事で忙しくその活動はできてい
なかったと記されている。

・合衆国政府内のソ連の地下スパイ組織(NKVD)、1946年10月21日
 335ページのレポートで、2月のものに比べて詳しくグレゴリー(シル
バーマスター)を探っている。注目に値するのが、マリー・ジェーンキーニ
ーとジョセフ・ベルンシュタインらとの議論に関するセクションである。ま
た、二流の人物であるダンカン・リー、セドリック・ベルフラージュらにつ
いても言及している。

 FBI のフーバーは、ホワイトハウスに、また司法長官にも様々なレポート
(詳細なもの、また要約したもの)を提出した。奇妙にも、特にホワイトハ
ウスで反応は鈍く、開示に対して敵意さえ抱きアクションは何もなかった。
被疑者の働いている部局では、反応はなく、レポートは無視され、メモを受
け取った人々はそんなものは受け取っていないと言ったのだ。

 混迷の続くアメラジア事件について、司法省はFBI の起訴失敗を批判しよ
うとし、ベントレーが確認した赤のスパイであるウィリアム・レミントンの
起訴の際には、商務省の職員はFBI から事実について適切な説明を受けてい
ないとマスコミに話した。レミントンに関するレポートは商務省に何度も送
られていたのだ。

 ヴィクター・ペルロのケースでは、財務省はFBI の調査に協力するために
FBIの要求でアクションを差し控えたと言う話の提案をして来た。FBIの記録
の通りフーバーはそんな提案はしていないし、彼は責任を転嫁するものとし
て財務省を非難した。同様の話は、アルジャー・ヒスやハリー・ホワイトな
どについても見られる。

 1948年の夏には最高潮に達し、非米活動委員会でヒスーチャンバース
シルバーマスター、ミラー、ホワイトなどのケースが公表された。新聞や大
衆はこれらの背景を知らずショックを受けた。噂や新聞記事にはFBI がうた
た寝をしていて、容疑者を特定せず、危機を政府のトップに知らせなかった
との内容があふれた。フーバーは窮地に陥った。

 この巨大な記録を編集して、FBI は文字ではなく図形にした。連邦職員に
おけるベントレーに関わる被疑者らの図表、そしてFBI から発せられた多く
の警告を示しているマスター図である。370以上のレポートが14の連邦
の機関に提出された。多くはホワイトハウスと司法長官にも提出された。

 これらの図から、FBI が勤勉に調査を実行し報告を行ったことは明らかで
ある。FBIからホワイトハウスへの連絡の多くの記録は、FBIがヴェノナ文書
の資料をトルーマンには保留したとの考えが間違いであることを示している。
ソ連と冷戦が始まっていた時代であり、それらの情報は連邦政府にとっては
とても重要であった。
[2017年11月14日21時36分]
お名前: カーター
hapter 10: 平行線が交わる時
(When Parallels Converged)

 1945年11月7日、ソ連のスパイで連絡役のエリザベス・ベントレー
は、共産党とソ連のボスと袂を分かち、FBI に彼女自身を話をする決心をし
た。あらゆる意味で、ベントレーは当時元共産党の証人としては最も重要で
あった。ベントレーはニューイングランドの良家の出身でヴァサール大学を
卒業し1935年に共産党に入党し、ソ連のマスタースパイのヤコブ・ゴロ
ス(レイジン)に会い、彼を師とし、友人、そして恋人とした。
 ゴロスの死後、彼女は連絡のマネージャーとして、マンハッタンとワシン
トンとの間を行き来した。そこで、彼女は恐ろしいほど多くの共産党員及び
その同調者に会ったが、彼らはほとんど連邦政府の職員でソ連の利益のため
の副業を営んでおり、共産党首のアール・ブローダーを助けていた。この旅
で彼女はコピーした書類を盗み集め、党のための金も集めた。
 FBI は同じく元共産党員のウィテカー・チャンバースのファイルも参照し
多くの面でベントレーの挙げた被疑者はチャンバースのそれと同じであった。
アルジャー・ヒス、ロークリン・カリー、ソロモン・アドラーなどである。
1945年9月には、ロシア人の暗号担当のイゴール・ゴウゼンコはカナダ
ソ連大使館から離脱し、「デイリーワーカー」の編集長であったルイーズ・
ブデンスは共産党から逃亡した。二人ともベントレーとチャンバースのと同
じ情報を提供した。
 ネットワークは四方八方に広がっており、ベントレーの接した人々には政
府の職員もいた。また、確認されたロシア人のスパイ、ベントレーの挙げた
被疑者を扱った共産党員の政府の外交官もいた。全貌が明らかになるとFBI
は、共産主義浸透について考え方を改めた。FBIはソ連のスパイ活動と浸透
作戦は通常「平行」になっていると考えた。この用語はソ連自身が使用した
がFBIにも採用された。
 しかし、「平行」のイメージは必ずしも当たっていないとFBI は考えた。
確かに、ベントレーの連合は、シルバーマスターのグループがあり、またヴ
ィクター・ペルロのそれともう一つ別のものがあった。しかし、彼らは部門
を超えて話し合い、集会に集まっていた。平行ではなく、十字型に交わって
いたのだ。

 シルバーマスター・サークル
 ベントレーによれば、ナサン・グレゴリー・シルバーマスターは財務省に
所属し彼女のワシントンでの連絡先で、広大なスパイ組織の長であり、公文
書をコピーし、共産党に党費を支払った。

 ロバート・ミラーの友人
 ベントレーのケースで突出していたのは、ロバート・T・ミラーで、彼は、
office of Coordinator of inter American Affairs(中南米
にアメリカのプロパガンダを流した)で働いた。彼は超がつくソ連のスパイ
で、アルジャー・ヒスやイギリスのケンブリッジグループと同列であった。
 
 OSS/OWIのOB
 1945年の秋には連邦政府で働いていた特に国務省職員とベントレーの
被疑者らは、戦時組織から移動する人が多かった。OSSは主要なベントレー
の被疑者らを育て、OWIも同様で、彼らはFBIの監視対象となった。

 ヒスのコネクション
 チャンバースはヒスに対しての主要な証人となったが、ベントレーもヒス
がソ連のスパイであったと知っていた。二人の証言に基づき、FBIはヒスの
同僚にも監視対象を広げた。この調査記録はFBIでも膨大である。

 アメラジア及びIPR
 FBIはアメラジアの事件について、それをベントレーに話す前から強い関
心を示していたが、彼女の証言はその空白を埋め、さらに被疑者の名前を加
えることとなった。それは、ソロモン・アドラー、ロークリン・カリー、フ
レデリック・フィールド、ダンカン・リー、そしてマイケル・グリーンバー
グである。

 メリージェーン及びフィリップ・キーニー
キーニー兄弟は別の調査から知られるようになった。メリージェーンは、戦
時経済局から国務省へ移った。フィリップは、議会図書館とOSSで働き日本
占領を支援するために海を渡った。キーニー兄弟の連絡範囲は膨大であった。
彼らはシルバーマスターを知っており、マックス及びグレイス・グラニッチ
の友人であった。FBIにより録音されているが、キーニー兄弟は多くのソ連
のスパイとも連絡を取っていた。

 核関連の政府関係者は多かった。シルバーマスターの連絡先で有名なのは
エドワード・コンドン博士であり、彼は議会の核エネルギー共同委員会の科
学アドバイザーであり、商務省国家標準局の長であった。オッペンハイマー
と同じようにコンドンもFBI の調査の対象となり、ホワイトハウスと議会と
の抗争の焦点となった。 
 被疑者らはお互いに知っているのみならず、共に働き、助け合い政治的な
プロジェクトで協力した。安全上の質問がかけられた場合はお互いに保証し
た。主要な人物はハリー・ホワイトとロークリン・カリーであった。次に重要
なポイントは、仕事を変わることであった。マッカーサーの日本占領では、
異常な人たちが将軍を支援するために派遣された。その中には、ジョン・ス
チュアート・サービス、オーウェン・ラティモア、T.A.ビソン、そしてフィ
リップ・キーニーらがいた。ドイツでも同様であった。
 FBIが監視しているように、ベントレーに近い人々は戦争末期及び戦後に
おいてアメリカの国益に影響を与える新しい国際機関に移動した。アルジャ
ー・ヒスは国際連合の設立に関わり、ハリー・ホワイトはIMFの設立に関わ
った。彼らは実際に政策決定に関わるようになり、スパイ行為を行う時間が
なくなってしまた。


[2017年11月13日22時15分]
お名前: カーター
Chapter 9: 共産主義、嘘、オーディオテープ
(Reds, Lies and Audio Tape)


 1944年の秋にジョン・サービスは2ヶ月の休暇を得てアメリカに戻っ
た。表向けの理由は国務省のボスとの相談であったが、他にもすることがあ
ってそれが彼の将来に危機をもたらし、また冷戦につながることにもなった。

 FBI のメモによれば、共産主義者のマックス及びグレース・グラニッチは
サービスの帰国を知りサービスに連絡を取ろうとした。サービスの帰国の目
的は、ロークリン・カリー及びハリー・ホワイト(三人目はハリー・ホプキ
ンス)であった。この二人はソ連の二重スパイであり、ヴェノナ文書に出て
来る。カリーにもサービスと話すことがたくさんあったのは、中国はカリー
の得意分野であったからだ。

 サービスは4月18日にIPR(太平洋問題調査会)のアンドリュー・ロス
の勧めで共産主義の雑誌アメラジアの編集長であるフィリップ・ジャフェに
会った。彼はロシアからアメリカに帰化しており、熱心なマルクス主義者で
中国共産党を熱心に支持していた。サービスにとっては運命的な出会いであ
り、FBIに注目されることとなった。この数週間前にFBIは、ジャフェの電
話口にマイクを埋め込み彼の行動を監視していた。この調査はアメラジアの
内容に秘密のOSSのメモがわずかに表れていたことによる。OSSの調査員は、
ジャフェのニューヨークのオフィスに密かに入り、政府の秘密扱いの多くの
書類を発見したのだ。

 サービスはジャフェに中国の軍閥の忠誠度、国民党軍のリーダーの蒋介石
への忠誠心が変わりやすいことなどを話した。サービスはホテルでジャフェ
に国粋主義者の中国人(蒋介石)がアメリカに秘密で提供していることなど
に関する書類を渡した。また、サービスは米軍が中国へ上陸するとか軍事に
ついても話した。上陸は米軍が蒋介石の軍か共産党軍かのどちらと組むかが
重要であった。

 5月2日にFBIはジャフェがソ連のスパイであるジョセフ・ベルンスタイ
ンと話しているのを監視した。彼は元アメラジアのスタッフでT.A.Bisson
から政府の情報を受け取ったとヴェノナ文書に見える。アメラジアを閉鎖さ
せるために、FBIはそのオフィスを夜中に訪問しそこにある書類をチェック
した。FBIの職員はこれの一部を撮影し、証拠として司法省の職員に提供し
た。これを元に司法省の高官は、逮捕と起訴を決定した。6月6日にFBIの
職員は被疑者を急襲し、ジャフェ、マーク・ゲイン、ケイト・ミッチェル、
サービス、アンディ・ロス、そしてエマニュエル・ラーセンの6人を拘束
した。

 FBIはアメラジアのオフィス、ゲインとラーソンのアパート、そして国務
省のサービスのオフィスから1000枚の書類を押収したが、四分の一は
軍事に関するもので、許可されていない書類の保持はスパイ防止法に違反す
るものだった。FBI長官のフーバーにしてみれば、起訴は間違いないと思わ
れた。

 しかし、起訴は不思議なことに変わることになった。左翼の新聞は、被
疑者は悪人らに無実の罪をでっちあげられようとしている声を上げた。フ
ーバーは誤魔化しは嫌いだと言った。起訴はパンクし今や完全に崩壊した。
8月10日には、サービス、ミッチェル、ゲインは起訴を免れた。ジャフ
ェ、ロス、ラーセンに対する訴状もわずかなものだった。

 ジャフェの裁判においては、弁護士は「ジャフェは確かに公文書を所持
していたが、政府は書類が不実の目的に使用されたと主張していない。ジ
ャフェが限界を超えたとしたら、それはジャーナリストの情熱が行き過ぎ
ただけだ。」と言った。司法省の広報官のヒッチコックは、盗んだ書類の
重要性を軽視し、茶会の噂話だとした。ジャフェの裁判で彼は「彼らが不
実だとするに足る証拠がない。」と言った。FBIはかんかんになって怒った。

 トルーマン大統領は、忠実なニューディーラーのトーマス・コークラン
を信用していなかったので、FBIが調査をしたところコークランはアメラジ
アに腰まで浸かっており、サービスの友人や助言者のロークリン・カリー
らといっしょに働いていたのだ。コークランのパートナーのベンジャミン
・コーエンも背後で動いていた。

 サービスは自由な行動を許され法的な措置を免れた。アメラジアの被疑
者はサービスへの配慮で利益を得た。ジャフェらに関する事実が法廷で公
表されるなら、サービスを取り除くこともできなくなるからだ。サービス
らは不起訴となった。フーバーらのFBIは隠匿された盗聴について思案し、
異なる判決へと導く。
 
[2017年11月13日21時57分]
お名前: カーター
 広嗣さんレスをありがとうございます。ものすごいエネルギーを費やして
読んだ本なので、読んでいただけるだけでありがたいです。ご理解頂いてい
るように国民党には多くの共産主義者がいました。
 アメリカの中国に対する思い入れはとてもナイーブで、中国人というもの
を当時全く理解していなかったと言えます。本書の日本軍と共産党軍が共存
していたと言う表現は、毛沢東が「皇軍のおかげで革命ができた」と言って
いることを示しているのでしょう。
 アメリカは中国を共産化するために日本と戦争して国民党を追い出したの
ですが、その後の冷戦で多くのエネルギーを使うことになりました。アメリ
カ外交は失敗の連続です。ソ連と同盟を組んだりしてどうも外交の才能がな
いようです。日本もドイツと同盟を組んだりして、今から思えばトンチンカ
ンな外交でしたね。時間がたつとわかって来るものですが、その当時は世界
の動きが見えていなかったのだと思います。

[2017年11月10日22時27分]
お名前: 広嗣
>Chi Chao-ting(Ji Chaoding)
 この人物のことなのでしょうか。
 https://en.wikipedia.org/wiki/Ji_Chaoding
 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%86%80%E6%9C%9D%E9%BC%8E


[2017年11月10日09時09分]
お名前: カーター
Chapter 8. 重慶1944年
(Chungking, 1944)

 戦後に向けて東西の勢力は策を練っていたが、その最大の収穫は中国であ
った。アメリカにとっては中国は開戦の理由、つまり蒋介石を忠実に支持し
日本による中国の支配を拒否することが主要な要因であった。しかし、アメ
リカのアジア政策は戦争が終わるまでに失敗していた。中国を救うために、
日本と戦争をしたが、中国は内戦状態となり、その後共産主義社の国家は日
本のように独裁的となり、アメリカの利益に敵意を抱いた。

 この場面で重要な役割を果たしたのは、人々が名前を聞いたこともない三
人であった。それは、アメリカの外交官のジョン・スチュアート・サービス、
財務官のソロモン・アドラー、そしてアメリカで教育を受けた中国人エコノ
ミストで国民党の財務省で働いたChi Chao-ting(Ji Chaoding)であ
った。三人は蒋介石をひどく嫌い、彼の反対党であった共産党を支持してい
た。三人は重慶の家にいっしょに住んでいた。サービスとアドラーはアメリ
カ政府に蒋介石を罵るレポートを送っており、彼を首にして延安(共産党)
の同志を受け入れるべきだと熱心に説いていた。Chi Chao-ting は国民
党の職員であったため公式には見解を述べていないが、私的には同意してい
たことは明らかだ。Chiはソ連のスパイであり、コミンテルンの活動を中国
で行っていた。アドラーも同様であった。

 サービスは三人の内で後に最も注目を浴びる。彼には中国語に堪能な外交
官のジョン・デイヴィースと言う友人がいた。彼が勤務していた重慶のアメ
リカ大使館にはジョン・カーター・ヴィンセントという相談相手もいた。中
国軍区の司令官であったスティルウェル将軍のアドバイザーにもなれたであ
ろう。スティルウェルは蒋介石を嫌いつまらない男と呼び、アグネス・スメ
ドレー(アメリカのジャーナリスト、コミンテルン)に魅せられ、中国共産
党を理想化した。また、Chu Teh(朱徳)を軍事的に支援することも表明し
たのである。

 ソロモン・アドラーはイギリス生まれでオックスフォード大学出身だが、
ヴェノナ文書に見える。エリザベス・ベントレーの上院での証言によれば、
「アドラーはシルバーマスター(米国戦時局のエコノミストで共産主義者の
スパイ)のグループに属していた。・・・彼は報告書をハリー・デクスター
・ホワイトを含めて多くの人たちに送っていた。」

 Chi Chao-tingは、1930年代にアメリカで学び働いた。IPR(太平
洋問題調査会)の調査員であり、ここでラティモア教授に出会っている。ア
ドラーと同じように、1940年代にChiも安全保障上の疑問を持たれたが、
その行為が明らかとなるのは十年以上後のことだった。
 
 サービスとアドラーのメモは、蒋介石が腐敗しており専制的であると罵倒
し、共産党が穏健で民主的だとして、最も重要なのは共産党のみが日本と戦
闘を行っており、国民党の軍は何もしていないと述べた。サービスは、中国
共産党は急進的でなく、親米的であり本当の意味の共産主義者ではないと述
べた。彼らは見かけを良くして、後に恐ろしい独裁者が権力を持つのを手伝
ったと言う非難を受けることになる。そして、共産主義者は自制的で純粋な
意味での共産主義を放棄しており、中国に暴力革命は必要なく民主主義への
欲求があるとした。

 ハリー・ホワイトは財務長官のモルゲンソーにアドラーのメモやサービス
のレポートを見せた。モルゲンソーは日記にアドラーのレターが好きだと書
いている。モルゲンソーはメモを持ってルーズベルトのいるホワイトハウス
に行き、ホワイトハウスにはロークリン・カリーがいて、サービスからの同
様の最新の情報を受け取っていた。

 サービスとアドラーの提携は、ヘンリー・ウォラス副大統領が1944年
の6月に重慶を訪問した時に、決定的な出来事つまりアメリカと延安(中国
共産党)との直接の接触をもたらすこととなった。オーウェン・ラティモア
とジョン・ヴィンセントも同行したが、蒋介石の欠点や延安と組むことのメ
リットについて聞かされたに違いない。

 サービスもアドラーも中国共産党のみが日本と戦っていて、蒋介石は何も
していないと述べたが、中国で日本軍と戦ったアルバート・ウェデマイヤー
将軍の見解と完全に矛盾する。ウェデマイヤーによれば、中国の赤軍は日本
軍とはほとんど戦わず、日中戦争では共産党でない軍が戦っていた。毛沢東
と周恩来は日本軍との戦闘に興味がなく、彼らの関心は国粋主義者の軍が明
け渡した領域を支配することであった。

 海軍の歴史家であったマオチュン・ユは共産党の話として、勇敢な戦闘と
は、延安と日本の侵略者の間の完全な協力と言う仮面で覆っていた。彼は、
アメリカのパラシュート部隊が北部中国に降下すると共産主義者と日本軍が
数マイルの近い場所にキャンプしており、平和に共存していたとのエピソー
ドを紹介している。また、日本の傀儡(汪兆銘政府)は延安の赤軍に、蒋介
石の軍に対して使用するための武器を売却していた。

 中国語による文献においてもユン・チャンによる毛沢東の伝記によると、
毛は日本軍と戦争する気は全くなく、面白くない仕事は国民党軍に任せてお
いたとのことだ。この処置はウェデマイヤーのコメントとぴったり合うし、
毛の戦略は日本軍により蒋介石の軍を追い出した後に、共産党軍が動くと言
うものであった。サービスのメモは間違っているだけでなく戦時の記録にも
合致しないのだ。

 サービスのメモは報告ではなく嘆願のための作品であった。蒋介石を諦め
るようにとの執拗なアピールであり、事実と言うよりプロパガンダによる攻
撃であった。彼は1944年の6月に、「国民党の凋落を歓迎する。その後
進歩的な政府が国土を統一し日本と戦うなら。」と主張した。 

 リン・ファリシュのミハイロヴィッチとチトーについての見解及びクルー
グマンのロンドンへの報告と同じように、それらを信じ実行した高官がいた
と言うことだ。結果は予想もつかないものだった。
 
[2017年11月09日22時16分]
お名前: カーター
Chapter 7: いかに機能したか
(The Way It Worked)

 ソ連寄りの見方で戦争中のゆるい治安活動の下を考えると、恐ろしい共産
主義者、同調者、そしてソ連のスパイが以前のレヴェルを越えて連邦政府職
員の中に紛れ込んでも全く驚くにはあたらない。
 多くの政府の機関が影響を受けたが、最も危険にさらされたのは戦争の初
期に同時に設立されたその場しのぎの戦時局であった。これには、戦時情報
局(OWI)、戦略諜報局(OSS)、戦時経済局(BEW)など多くの部署があっ
た。非正規に設立され通常の流れの外で運営され、しばしば名称や機能が変
更され、これらの局はわずかな期間で数千人の中から急いで職員を採用しな
ければならなかった。そして反共について吟味する意欲もなかったのは明ら
かである。

 OWIの任務はアメリカ及びその同盟国のプロパガンダであったが、印刷物
や海外向けの多言語の短波放送から成っていた。これには多くの専門家を必
要としていた。OWIへの批判はソ連の利益に偏っており、議会でも問題とな
った。1943年にニューヨークタイムズのアーサー・クロックは放送され
ている見解は、米英のものでなくソ連に近いと述べた。共産主義者のイデオ
ロギーをレポートしていた。

 ウイリアム・ヒントンは1943年にOWIにより中国に派遣された。蒋介
石と連合軍の戦争を支援するためであった。ヒントンは議会で共産主義者
かと問われた時に黙秘権を使用した。中国が共産化してから彼は中国へ戻
り、人民服を着て会議で演説している写真がある。ヒントンは、中国政府
に参画したアメリカ政府職員の内の一人である。

 戦時中のポーランド語部門はカチンの森事件で、OWIの長官であったエル
マー・デーヴィスはソヴィエト寄りの放送を行った。ポーランド亡命政府
のグループによれば、OWIは虐殺にソ連が関わったと放送するのを拒否した。
ポーランド系アメリカ人のレシンスキーは放送はOWIにより抑えられたと、
また在米亡命政府の代表もOWIの放送はソ連のプロパガンダだと主張した。

 言語編集の多くはアメリカ市民ではなかったが、彼らはいとも簡単にア
メリカに入国し、このように重要な戦時の部門で働くことができたのだ。
この疑問に対する答えは、民間の短波調査会社(Short Wave Rsearch
Inc.)この会社では放送業務、翻訳、原稿作成などの業務をOWIの事務所
の中で行い、サービス費をOWIに請求したのだ。こうしてOWI内職員の60
%の外国人が採用された。

1943年に共和党のフレッド・バスビーはOWIの放送職員の中には22
人のソ連寄りの人々がおり、中でもポーランド系アメリカ人の共産主義者
のボレスラウ・ゲバート(ソ連のスパイで戦後に共産主義ポーランドの政
治家)がいたと述べた。

 しかし、OSSの方はもっと共産主義者が多かったと言われている。初代
OSS長官のビル・ドノヴァンはナチスに対抗するために、明らかに共産主
義者を採用している。ドノヴァンはOSSには共産主義者はいないと言った
が、二人のスタッフつまり、ジョージ・ヴシニクとデヴィッド・ザブロウ
スキーであり、ヴシニクはソ連のGRUと連絡要員としてヴェノナ文書にあ
り、またザブロウスキーは機関紙「平和と民主主義のアメリカンリーグ」
の編集者であった。ドノバンはこの機関紙が共産主義者のものであったこ
とを知らなかったと言うのだ。

 スペインで活動したミルトン・ウルフとアーヴィング・ファジャンスは
ドノバンにとって愛国的な職員であったが、後の調査でスペインでソ連に
奉仕したこと、また共産主義者であることを告白することを拒否した。ウ
ルフとヴシニクはナチスと対抗していたユーゴスラビアで活動した。ここ
では、共産主義者と反共主義者が分裂していた。

 ヒトラーは1941年にユーゴスラビアへ宣戦布告したが、ドイツ軍の
猛攻に対抗したのがユーゴ陸軍でありそのリーダーは反共で反ナチのドラ
ジャ・ミハイロビッチであり、その部下はチェトニクスと呼ばれた。ヒト
ラーがロシアに侵攻してから、共産主義者のパルチザンと言うグループが
スターリンの弟子であるヨシップ・ブロズ・チトーにより結成された。

 ミハイロビッチは裏切り者としてソ連から批判され、アメリカでもアメ
リカ・スラブ・コングレスによりチトーのグループが支持され、ミハイロ
ビッチはナチスの内通者であるとされた。
 
 イギリスの情報組織の本部がエジプトのカイロにあり、ケンブリッジ五
人組はユーゴスラビア問題に取り組んでいた。ノラ・ベロフらの研究によ
れば、クルーグマンはユーゴスラビアの情勢を総合してロンドンに送って
いた。イギリスのリーダーに送られたメッセージは、モスクワのからのそ
れと同じであった。奇妙なカイロのレポートは、チトーは20万人の大部
隊を統括して、「ドイツの14師団を押さえつけている」と言うものであ
った。また、「パルチザンはすべてにおいて効果的な軍隊で、ナチスと組
んだミハイロビッチは滅ぼされた。」とも言っていた。

 これにより、イギリスはチトー支援を決定した。1943年後半にイギ
リス外務省は、「ミハイロビッチには反枢軸的な行動がなく、軍事的支援
をするに値しない。」とした。チャーチルはミハイロビッチを捨て、チト
ーに賭けた。

 アメリカの諜報及び秘密行動はイギリスのパターンに習った。OSSはリン
・ファリシュ(ソ連の二重スパイ)を1943年にユーゴのパルチザンに
派遣した。ファリシュは、OSSにレポートを送り、チトーをほめ、ミハイロ
ビッチとチェトニクスをナチの手先とした。これらはパルチザンとイギリ
スの情報が元であり、彼のレポートはパルチザンを自由の共同体としたが
ユーゴ共産党の役割を軽視しており、チトーの運動をアメリカの独立革命
に例え、アメリカ合衆国が成立した時のような状況だとした。

 彼のレポートはメモとなり、テヘラン会談の前にルーズベルト大統領に
も渡され、スターリンも見ることになった。ユーゴスラビアからこうして
反共主義者は追い出され、チトーへの支援が決定されることになった。英
米ソの支援を受けたチトーの軍隊が1944年にベオグラードに進駐した。
リン・ファリシュは後にヴェノナ文書にKGBのスパイであったと記載されて
いたことがわかった。
 
[2017年11月08日21時15分]
お名前: カーター
Chapter 6. 更けて行く夜
(The Witching Hour)

 共産主義の浸透には二つの段階がある。一つが大恐慌の時代であり、もう
一つは第二次世界大戦の時代である。ファシズムと共産主義の脅威により、
1939年にハッチ法が制定され、政府を転覆させるような連邦政府職員の
採用が禁止された。1941年にはFBIがあらゆる連邦政府職員を調査する
ために公法135条が制定された。
 転覆とはどういう意味かの問いに対しては、司法長官のフランシス・ビド
ルが提示した11の共産主義集団であるとされた。このタカ派的な考え方は
実行されず、1941年6月にヒトラーがロシアが侵略すると、ソ連は必然
的に英米の同盟者となった。ジョセフ・デービス駐ソ大使、ホワイトハウス
高官のハリー・ホプキンス、そしてFDR自身がスターリン、ソ連軍などロシ
アのすべてを褒め称えた。アメリカ共産党は日の当たる場所に出たのである。
 しかし、ニューディーラーとマーチン・ダイスのいた反共の保守派との間
には衝突が起こった。それは公法135条であり、労働者を調査することで
あり、フランシス・ビドルはそれが嫌いであった。しかし、1941年の秋
にダイスの委員会及びビドル自身が、1124人もの連邦職員を破壊分子で
あると見なした。
これについてのFBIのレポートは日の目を見ることはなかった。ビドルと
その上司は、雇用の指標としての活動家を使っていることをもみ消した。破
壊分子が単に共産党のメンバーであることは、無害であると考えられた。ま
たビドルはメンバーであるよりも、組織での現実の活動が連邦職員であるこ
との適合性を決めると考えた。
 単にメンバーであることは、平和運動家やソ連への同調者を魅了した。限
界を超えて、活動グループから共産党へと広がった。1942年には、この
考え方はホワイトハウスからソ連よりの政策と結びつくこととなった。
 戦争が始まると海軍は商船のラジオの職務にナチスと共産主義者が就くこ
とを禁止したが、1942年には取り消した。それは後にイリノイ州知事と
なるスティーブンソンらによるもので、無能であると言う証拠なしに共産主
義者であることが不適格なのかとメモで問うている。大統領は次のように述
べた。「米国とソ連は同盟国であるから、米国は共産党の活動に反対しては
ならない。」
 公法135条は否定され、職員の採用において共産主義者であるかどうか
は問われることはなくなった。また、陸軍では共産党員であっても合衆国へ
忠誠を誓うよりも共産党への忠誠の方が大きくなければ、アクションは取ら
れないとした。
 大戦初期にカチンの森で、ポーランド兵の捕虜がロシア兵により虐殺され
ると言う事件が起こった。ヒトラーのドイツが1943年に、この事件でロ
シアを批判したが、ロシアはドイツの仕業だと言い返した。しかし、アメリ
カ人でドイツの戦争捕虜であったジョン・ファン・ヴリエトは、死体を調査
し1945年にその虐殺についてソ連の犯罪であるとする報告書を発表した。
 しかし、この報告書はトップシークレットとされ、完全に消え去った。ま
た、ポーランドにおけるソ連の役割を批判したヘンリー・シマンスキーの報
告書も同様の扱いとなり、陸軍の地下倉庫に保管された。共和党の下院のレ
イ・マデン委員会では、誰がこのようなことをしたのか調査し、下記のエピ
ソードをまとめている。
 「アメリカ陸軍の3人のトップは、ソ連寄りの職員がソ連に不利な情報を
隠したことを知っていた。そして、委員会はソ連に批判的な軍のトップは、
諜報活動においては無視されたことを知った。」
 国務省は特に戦争中は、ソ連の重要な工作のターゲットであった。有名な
外交官で歴史家のジョージ・ケナンが気づいているように、国務省にはソ連
の情報があふれていたが、クレムリンに関する正しい情報を得ていたかは疑
わしいのだ。ケナンは次のように述べている。
 「書庫はファイル毎に分散され、書庫として存在しなくなった。特別なフ
ァイルは破壊された。50年代初頭のマッカーシーら右翼は、ソ連の影響の
匂いのするもの、政府のトップのソ連寄りの影響による出来事について、見
つけることができず、それを利用することもできなかった。」
 ソ連のスパイのミハイル・ゴーリンは、海軍の一般職員から秘密情報を得
た。その職員は4年の懲役となったが、スパイの方は国務省の介入により自
由の身となった。FBIの説明によれば、国務省の推奨及び司法長官の保証に
よりゴーリンは執行猶予となり、保護観察の身となった。
 見て見ぬふりをしたり、ソ連のスパイに好意的な扱いをするのとは対照的
なのは、ソ連からの亡命者に対するアメリカ政府の立場であった。ヤン・フ
ァルティンはソ連とナチの二重スパイであったが、1930年代に西側に亡
命した。彼は"Out of the Night"と言うソ連とナチの暴露本を書いて、
1941年にダイス委員会に現れた。次の年に彼は移民帰化局により逮捕さ
れ、エリス島(NY移民検査収容所)に拘留され、追放の措置が取られた。こ
れは1920年代に彼がソ連の手先であったと言う犯罪によるものだと考え
られている。このように、当時のソ連のスパイは許されても、元スパイの亡
命者は厳しく罰せられたのだ。
 ソ連のもう一人の亡命者のヴィクター・クラフチェンコは、"I Chose
Freedom"と言う本を書き、FBIへ出向いたが、FBIのメモは次のように述
べている。
 「国務省は司法省にクラフチェンコをロシアに送還するよう圧力をかけて
いたが、その圧力はソ連から国務省に対するものだった。FBIは、クラフチ
ェンコに政府の役人に見つからないように、逃げて隠れるようにほのめかし
た。」
 FBI長官のフーヴァーの命令によりFBIはクラフチェンコに忠告し、彼は
生き延びて反ソ連のメッセージを公衆に伝えることができた。当時の国務省
は、同盟者とどう付き合うかで、内部に深刻な問題をかかえていたのだ。
[2017年11月07日21時15分]
お名前: カーター
Chapter 5. 考えられることを考えない
      (Unthinking Thinkable)

 1950年代にトルーマン政権の国務長官だったおしゃれなディーン・ア
チソンとウィスコンシン州出身で強気の赤狩りのマッカーシーとの間で、政
府職員のごまかしについて3年間の激論があった。

 イギリスでも同様の問題が起きた。ハロルド・アドリアン・ラッセル、キ
ム・フィルビーは優秀なソ連のKGBのスパイであったが、これはイギリ
スの首相であったハロルド・マクミランにより明らかにされた。フィルビー
の他に同じケンブリッジ出身のドナルド・マクリーン、ガイ・ブルゲス、ア
ンソニー・ブラント、ジェームス・クルーグマンなどのソ連のスパイがいた。
記録が示しているように、明らかにケンブリッジのメンバーはソ連と連絡を
取っていたにも拘わらず、無視され軽視されたのだ。彼らはちゃんとした学
校へ行っていたから、ソ連のスパイであるとは思われなかったのである。

 アメリカでの最悪のケースはアルジャー・ヒスであり、育ちが良く優れた
資質により尊敬されていたので、彼についての証拠はケンブリッジグループ
と同じようにすべて無視された。ソ連のスパイには他に、ウイリアム・レミ
ントン、ドナルド・ウィーラー、ヘンリー・コリンズなどがいたが、いずれ
も学歴があり、アメリカの上流階級の出身であった。1948年の下院の非
米委員会でのチャンバースとヒスとの対決では、きびきびしたヒスとむさ苦
しいチャンバースと言った印象であり、嘘を言っているのはヒスではなくチ
ャンバースだと考えられた。

 独ソ不可侵条約が締結されると、1939年にチャンバースはアメリカ共
産党を離れ、政府内の共産主義者について警告しようとして、国務次官補で
安全保障担当であったアドルフ・ベルレと議論した。ベルレは、ヒスと仲間
のドナルド、ロークリン・カリー、ソロモン・アドラー、フランク・コーな
どの名前をメモした。

 イギリスとアメリカの双方において、西欧の制度への信頼の喪失は信仰の
面から始まり文化の様々な面に広がり、1930年代の大恐慌の時代に完全
に失われていた。疎外と不安に悩まされ政治経済的な危機は、伝統的な見方
や習慣に対してとどめの一撃のように見えた。マルクス・レーニン主義とソ
連の計画経済が、古い文化が供給できない問題の回答であると考えられた。

 アメリカのスパイ団は、ドイツ、フランス、イタリア、中国、日本などの
クレムリンからの司令を受け取る世界的なスパイ網の一部であった。イギリ
スとアメリカの共産主義者は共通の政治的な歴史と言語から、特殊な関係を
持ち、それは第二次世界大戦から冷戦へと続いた。

 ドイツ生まれの共産主義者であるリヒャルト・ゾルゲに率いられた恐ろし
い組織がアジアにあったが、それはソ連のスパイの歴史の中でも最も効果的
なものであった。ゾルゲは1930年代に中国の上海で活動し、中国は当時
共産主義の温床となっており、ミカエル・ボロディン(コミンテルンの工作
員で、中国国民党顧問)などの多くの赤のスパイが暗躍していた。

 ソ連は仇敵である日本に関心を示し、ゾルゲを日本に派遣した。数ヶ国語
に通じたゾルゲのグループのメンバーは、中国の共産主義者であるチェン・
ハンセン、アメリカ人の作家アグネス・スメドレー、ドイツ生まれで帰化し
たブリトン・ギュンター・スタインであった。東京ではジャーナリストの尾
崎秀美(朝日新聞)と西園寺公一(西園寺公望の孫)が仲間であった。

 東京でのゾルゲの役割は、1941年にヒトラーが独ソ不可侵条約を破り
ロシア攻撃したため、東の日本の攻撃からソ連を守ることであった。ゾルゲ
は、近衛首相のアドバイザーであった尾崎と内閣の朝食会のメンバーであっ
た西園寺から情報を得て、日本はロシアを攻撃せず、英米蘭の植民地へと資
源確保(特に石油)のために南進するという情報を得た。
 
 同じ時期にアメリカでは4年に及ぶ日中戦争を停戦に導き、日米の直接対
決を避けるべきかが議論されていた。ジョセフ・グルー駐日本大使は、衝突
を避けるために動いていたが、国務省が日本と暫定協定を結ぼうとしていた
時にIPR(太平洋問題調査会)のメンバーが反対意見を出して来た。ロー
クリン・カリーは、FDR(ルーズベルト大統領)にこの停戦についてメモ
で、停戦は中国で築いて来たアメリカとの友好を修復不可能なほどダメにし
てしまうと強く非難した。この停戦に反対したもう一人は、財務省のハリー
・デクスター・ホワイト(ハルノートの原案を作成した)であった。

 ホワイトはすでにKGBに急き立てられ、アメリカ政府に停戦に反対する
様に促していた。ソ連のスパイであるヴィタリ・パヴロフのメモによれば、
彼はホワイトに日本との和解をやめるよう伝えた。ホワイトは、国務省に提
出する財務長官のヘンリー・モーゲンソーのためメモを何度もやり直して作
成した。重慶にいたラティモア教授は、ホワイトハウスにいるカリーに、蒋
介石の意向を汲んで、日本との和解は中国のアメリカに対する信頼を著しく
損なうとの電報を送った。

 ゾルゲ-尾崎-西園寺のアドバイスが日本で勝利し、ラティモア-カリー -
ホワイトがアメリカを説得した。中国での日本とアメリカの停戦はなく日本
のロシア攻撃もなく、太平洋の平和もなかった。代わりに真珠湾攻撃があり
日本は最終的に南方を攻撃した。結局、日本とロシアは停戦状態であった。

 アメリカとソ連が戦争のために、同盟を組んだことが後に大きな問題を引
き起こすことになった。特に、戦争のソ連寄りの空気は、大恐慌の時代に発
展した共産主義の浸透をもたらしたのだ。FBIは、共産主義の浸透を報告
したが、政府のトップにより無視された。戦争の時代の遺産は、情報が覆い
隠され秘密にされ、共産主義浸透の事実は常に議会や国民に隠匿された。

[2017年11月05日20時57分]
お名前: カーター
Chapter 4. 陳腐な焼き直し
(Stale, Warmed Over Charges)

 マッカーシーの前には、マーティン・ダイスがいた。1930年代の後半
から40年代にかけて、10年後のマッカーシーと同じ役割を演じた。ダイ
スは、非米行為に関する下院の委員長を初めて勤めた。ダイスの前にも同様
の調査を行う委員会はあったが、破壊活動防止、主に共産主義者に関する調
査で公に認知されたのは、ダイスであった。

 ダイスは反共の人々には人気があり、議会でも支持を得たが、学会、官僚
やマスコミには嫌われることとなった。マッカーシーに対してと同様の反応
であった。ダイスとマッカーシーの共通の目的は、政府内の共産主義者に焦
点をあてるものだった。しかし、単純な反共と共産主義者でないソ連の手先
を探るのは異なっていた。これに対しては、非難が巻き起こった。

 1930年代にアメリカ共産党はアール・ブローダーに率いられ、暴力革
命を棚上げにし、伝統的なアメリカの価値と共存し、リベラルな左翼と共闘
する策を採用した。その結果、学者、マスコミ、政府の職員などが新しく入
って来た。

 大恐慌初期の1933年にフランクリン・ルーズベルトが大統領になると
失業、銀行の取り付け、証券市場の崩壊などに対応する政策が取られ、自己
流で改革を行おうとする者達が政府に入ることになったが、採用に当たって
共産主義者に対して警戒をする者は誰もいなかった。

 共産党員が多く在籍したのはAAA(全米農業調整局)で、農務省のニュ
ーディール政策による派生物であった。中でも共産党のリーダーであるハロ
ルド・ウエアはソ連の集団農場の信奉者であり、グループにはアルジャー・
ヒスなどがいた。ヒスは後に司法省、国務省へ移動する。同調者が最も多か
ったのは財務省であり、影響力のあるハリー・デクスター・ホワイトなどが
いた。

 ウィティカー・チャンバース(元共産党員で反共主義者)によれば、彼は
1937年に政府の仕事に就きたいと考え、公共事業推進局(WPA)調査
部門のアービング・キャプランに問い合わせるとすぐに採用された。キャプ
ランの調査部門は党の同志が政府で地位を得るための秘密のドアであったの
だ。彼らはモスクワの政府から指示を受け、情報を盗むだけでなくソ連政府
に都合のいいようにアメリカ政策に影響を与えたのである。

 「反戦・反ファシズム連盟」は、後に「平和と民主主義の連盟」に変わっ
たが、アメリカ共産党に支配されており、クレムリンに忠誠を誓っていた。
ダイスは、この連盟の共産主義的な性格について知っていたが、赤いトロイ
の木馬であり、親ソ連的な性格を持つと議会に報告していた。1939年の
10月に、563名の共産主義的な職員ををすべて公的な記録にしようとし
たが、彼はニューディールの職員、マスコミそして歴史家から非難を受ける
こととなった。ダイス及び議員たちは、予算の力を使って一部職員の給料の
支払いを留保することで、彼らを取り除こうとした。しかし、成功したケー
スもあったが、裁判で拒否されたケースもあった。

 ソ連の傀儡であり、1940年に設立された全米平和運動(APM)はヒトラ
ーを敵視していたが、独ソ不可侵条約締結後にはイギリスを支援するルーズ
ベルトを批判した。しかし、ナチスドイツがソ連へ侵攻するとソ連を守るた
めにアメリカの戦争を支持した。このことから、彼らはソ連の傀儡であるこ
とが明らかとなった。

 FBIは共産党の陰謀について多くの記録を持っていた。だから、マッカ
ーシーは、共産主義者やスパイについての情報を推論に頼っていたのでは決
してない。前章ではマッカーシーについて述べたが、これらはダイス及びそ
の後任により調査されていたものである。

 ダイスとマッカーシーを結びつけるのは、反共の研究者であるJ.B.マ
シューズの業績による。彼は元共産党員であったが、1930年代に迷いか
ら醒め、自身の経験から共産主義者の戦術を研究し、世界的な権威となって
いた。彼はその専門知識からその後6年間研究部長を勤めた。

 マッカーシーのケースはダイスらにより広められたものであるが、マッカ
ーシーの方が批判者により良く認知されしばしば反対意見を述べられたもの
である。マッカーシーの非難は新しいものではなかったのである。また、彼
の情報はFBIから得られたものであった。しかし、重要でないものでもな
く、古臭いものでもない。我々は現在、確かにそれらの情報がヴェノナ文書
に記載されているのを知ることができる。彼らは政府内をうろつき、国家を
危険にさらしていたのである。

[2017年11月04日22時05分]
お名前: カーター
Chapter 3: 手の内にあるもの
      (He had in His Hand)

 マッカーシーの主要な目的は、連邦政府職員及び政策決定システムの中か
ら疑わしい者を追放することであった。彼が従事していたのは、この中心テ
ーマをめぐる闘争であった。

 彼の演説で言及して来た共産主義者の中に証明できるものがいるのかと言
う問いを断定することはできない。しかし、ヴェノナ文書に照らしてみて、
下記の疑わしい者10人を上げることができる。

   ソロモン・アドラー        ハロルド・グラッサー
   セドリック・ベルフレイジ     デイヴィッド・カー
   T.A.ビソン          マリー・ジェイン・キーニー
   V.フランク・コー        レオナルド・ミンス
   ロークリン・カリー        フランツ・ノイマン

 彼らはマッカーシーのターゲットになったが、通常は無実の犠牲者である
と教えられている。1995年にヴェノナ文書が公開されてからは、マッカ
ーシーの主張はすべて正しかったことがわかった。ソ連の文書と平行してわ
かったが、彼らは共産主義者、ソ連のスパイあるいはKGBのスパイであっ
たのだ。  

 ソロモン・アドラーは財務省の職員であり、第二次大戦中に中国に数年間
勤務したが、早くからマッカーシーの目に留まっていた。アドラーは、ヴェ
ノナ文書では、「ザックス」と言うコードで現れ、中国の国家の情報を仲間
に渡していた。

 セドリック・ベルフレイジは、第二次大戦中にニューヨークのイギリスの
安全保障コーディネーター(アメリカOSSにも勤務)であるカナダ人スパ
イのウイリアム・ステファンソンに雇われていた。ヴェノナ文書に、ベルフ
レイジは「UCN/9」のコードで出てくるが、戦略情報局(OSS)からバル
カン半島に関する情報をソ連のスパイに渡していた。

 T.A.ビソンはアメリカ兵を中国へ上手に派遣する計画や、ワシントン
の中国大使館から中国政府への報告書、ソ連とドイツの戦線の兵力に関する
評価レポートなどを、ソ連のスパイに渡していた。

 V.フランク・コー及びハロルド・グラッサーは、アメリカ政府が保証す
る占領軍の通貨を発行する印刷プレートを財務省のグループを通じてソ連に
渡した。1953年のマッカーシーの小委員会で、コーは黙秘権を使用して
答えることを拒否した。グラッサーも「あなたは共産党員ですか?」と言う
質問にも答えなかった。しかし、両名ともにヴェノナ文書に表れており、コ
ーは「ピーク」、グラッサーは「ラブル」と言うコードである。

 マッカーシーの10人のリストの中でも最も重要なのは、1940年代ル
ーズベルト大統領の補佐官であったロークリン・カリーであり、彼は中国政
策が担当であった。カリーはオーウェン・ラティモア(アメリカの中国学者
で蒋介石の顧問)と親しく外交官のジョン・スチュアート・サービスが雑誌
「アメラジア」の事件(政府の機密をソ連に横流し)で、反共のリーダーで
あった蒋介石を非難した報告書を中国から送り返した後に逮捕された。ヴェ
ノナ文書には、カリーはソ連のスパイとして「ペイジ」のコードで出て来る。
ヴェノナ文書によれば、カリーは1944年にKGBに対して、ルーズベル
ト大統領はポーランドとロシアの境界に関する要求で譲歩するだろうと報告
している。ソ連はアメリカとの交渉を強気で行った。

 デイヴィッド・カーは共産党員であり、デイリー・ワーカー(共産党の雑
誌)のレポーターであった。カーは、ヴェノナ文書にコードではなく、自身
の名前で出ており、ソ連のスパイであるサミュエル・クラフスルに情報を渡
していた。

 マッカーシーによれば、FBIはマリー・ジェーン・キーニーを共産党の
連絡係と考えていた。キーニーと夫のフィリップは共産党員でありソ連のス
パイであった。彼はOSS(戦略情報局)で、彼女はBEW(戦時経済局)
で働いており、機密情報に接することができた。書類の受け渡しはFBIに
監視されていた。

 レオナルド・ミンスは最もひどかった。1930年代にミンスは「デイリ
ーワーカー」や共産党の「ニューマス」にも記事を書いた。彼は海軍のレー
ダー兵器を扱う部門に採用された。兵器のマニュアルを扱うことで機密に接
することになった。マッカーシーの「共産党員か?ソ連の軍事スパイか?情
報を渡したのか?」と言う質問に、ミンスは黙秘権を使って答えなかった。
ミンスはマッカーシーが指摘したとおりに、ヴェノナ文書にソ連のGRU(
ロシア情報総局)のスパイとして登場する。

 フランツ・ノイマンはソ連のスパイというよりは共産主義のフランクフル
ト学派の学者として知られている。しかし、彼はヴェノナ文書にKGBの情
報源として登場する。ノイマンは1930年代にドイツから亡命し、OSS
に勤務し、1945年10月にその他大勢と共に国務省に転属になった。ノ
イマンはヴェノナ文書にコード名「ラフ」として登場する。

 メディアや学者が、マッカーシーや金で雇われた密告者らの無実の犠牲者
だとした疑惑の人は、共産主義者でありソ連のスパイであったのだ。問題は
彼らの政治的な信条ではなく、敵意を持った外国に奉仕する人々であると言
うことだ。

[2017年11月03日22時28分]
お名前: カーター
hapter 2: 下水管の住人
(The Caveman in the Sewer)

 
 1950年代の赤狩りは、マッカーシーの個人的な事業ではなく、国務省
及びアメリカ政府の至るところに安全保障上の問題が存在すること、また国
家が危機に瀕していることを意味していた。

 マッカーシーが怖い人間であると言う標準的なイメージは、ハーバート・
ブロックのワシントンポストに連載された漫画の絵に示されている。マッカ
ーシーは黒いひげを生やして穴に住み、大きなこん棒を使って無差別に犠牲
者をたたくのだ。同様の描写は、雑誌「ニューヨーカー」の記者のリチャー
ド・ロヴェールの著書「マッカーシー上院議員」(1959)にも言葉で表
現されている。この書により、マッカーシーの悪事を働くイメージが定着し
た。
 
 マッカーシーは1908年にウィスコンシン州アップルトン近郊の町で生
まれた。両親はアイルランド系カトリックの農家で、勤勉、倹約、独立心が
あった。マッカーシーは、10代に農業以外の仕事に就きたいと考え養鶏を
始めたが、1928年の冬の気候が厳しく被害を受けたので、雑貨商を始め
た。商人以上になるには学問が必要と考えたマッカーシーは、20歳の時に
高校に入学し4年のところを9ヶ月で終了した。そして、ミルウオーキーの
マルケット大学に入り、工学を学んだが学部生の時に法学に転じ、1935
年にマルケット・ロースクールの学位を得た。

 マッカーシーは卒業後に法律事務所を開いたが、恐慌のために仕事がなか
ったので巡回判事となったが、女性や子供の、また消費者や一般人の権利を
守ることに熱心であり、後に描写されたイメージとは異なっていた。

 第二次大戦が始まると、マッカーシーは33歳で海兵隊に入隊した。州の
判事であったので、徴兵は免除されていたが入隊したのだ。彼は南太平洋で
の日本軍との戦闘で情報将校として働いた。この時に、テイルガナー(尾部
銃手)・ジョーと言うニックネームをもらった。マッカーシーは1946年
にウィスコンシンでは有名なロバート・M・ラフォレを破って38歳の最年
少の上院議員となった。

 マッカーシーが大酒のみだったと言う逸話があるが、マッカーシーを知っ
ている人によれば、最初は酒をちびちび飲む方だった。酒に溺れたと言うの
は、それはマッカーシーに対する批判や雑言により、幕から引きおろされ失
脚してからのことだ。アル中のイメージは否定されている。

 マッカーシーの伝記作者は、彼が極悪人であったとは思っていない。D.
オシンスキーとT.リーヴスは、ロヴェールらの恐ろしい話について根拠が
ないものとし、その批判を誤りだとしている。
 
 しかし、マッカーシーは直情的で一匹狼のスタイルで政敵を激しく攻撃し
た。正しいと思ったことは譲歩することなく、慎重さとは全く無縁であった。
同じ政党内ですら、うまくやっていこうと言う気持ちはなく、ワシントンで
は危険人物と見なされ、両党の支配層にとって厄介者であった。彼の攻撃相
手は、彼を上院から追い出そうとしたウイリアム・ベントンやマッカーシー
批判の先頭に立ったラルフ・フランダースであった。

[2017年11月03日16時53分]
お名前: カーター
Chapter 1: 人々の敵
( An Enemy of the People)


 マッカーシーは1957年に亡くなっているが、他の同時代人よりも名を
残している。マッカーシーについて言われている逸話は、偽物の共産主義の
恐怖のヒステリーを広め、事実でない破壊行動を行ったとして無実の人々を
打ち負かしたと言うものだ。

 タイディングス委員会におけるマッカーシーの批判は、アメリカ国務省に
はソ連のスパイ、共産主義者やその同調者が浸透していたことと、この危機
に対処すべき職員がそれを許し、その事実を覆い隠したと言うことである。
この批判は、トルーマン大統領、国務省、政治家、メディア、学界などによ
り、常軌を逸した虚言であるとして糾弾された。

 マッカーシーが疑っている人物は、歴史家などにも知られていなかった。
この理由は、マッカーシーが匿名で上院に提出し、数年間その方法を取った
からである。委員会による記録の調査を妨害したのが、トルーマン大統領に
よる厳しい秘匿命令であった。

 1950年代には一部の人しか知られていなかったことが公になり、失わ
れた書類が表に出ている。また、ソ連の崩壊により共産主義者の文書が研究
者にも手に入るので、50〜60年代の冷戦時に何が起こったかの情報を与
えてくれる。

 新しく開示された情報で最も知られているのが、第二次大戦以来アメリカ
政府が保持していたヴェノナ文書であり、1995年に公表された。クレム
リンのボスとその代理人(スパイ)との間で1940年代から交換された暗
号化された文書であり、アメリカ陸軍の暗号学者が傍受して解読したものだ。
ヴェノナ文書は、KGBと共産主義者のスパイがアメリカ政府内でスパイや
転覆活動を扱ったものである。

 もう一つの重要な情報は、1990年代初頭に得られた旧ソ連及びその衛
星諸国の公文書である。これらの記録はKGBやGRU(ソ連軍参謀本部情
報機関)そしてコミンテルンの行動に関するデータである。

 1930年代から第二次大戦まで連邦政府内に共産主義が浸透したことが、
大きな問題ではなかったのは、大恐慌や戦争のイデオロギー的な空気のため
であり、政府の職員はほとんど気にしていなかった。

 マッカーシーの声明の前に、アルジャー・ヒスは元ソ連のスパイであった
ウィテカー・チェンバース(転向した)のスパイ行為に関して、嘘の証言を
したことで有罪となった。

 アメリカ司法省の職員だったジュディス・コプロンは、1949年にソ連
の職員であるヴァレンティン・グビチョフに秘密文書を渡したことで逮捕さ
れた。1950年には核科学者のクラウス・フスがイギリスで、ソ連の原子
力関連のスパイ行為を行なったことを認めた。

 ホワイトハウスや国務省の職員は共産主義者の浸透について、ありのまま
の事実や彼らの失敗を認めようとしなかった。この問題について誰もなしえ
ないことで、マッカーシーが公衆の注目を浴びることとなった。

[2017年11月03日12時39分]
お名前: カーター
Prologue: The Search for Joe McCarthy
     (マッカーシーを探して)

 1946年8月3日にアメリカ国務省の秘密のメモが公開された。内容は
国務省の内部にはソヴィエトのスパイがおり、共産主義者及びその同調者た
ちもいた。合計で33人おり、その中にアルジャー・ヒス(ルーズベルト大
統領の側近でヤルタ会談に出席)も含まれていた。
 
 第二次世界大戦時には、ソ連はナチスに対抗するアメリカの同盟国であっ
たため、連邦政府職員の内の共産主義者についてはあまり注意が払われなか
った。その後マッカーシー上院議員が、このメモに注目し上院のミラード・
タイディングス委員会にコピーを提出し、議会に提出された。しかし、不
思議なことにこのメモは消えてなくなっていた。

 アメリカ公文書館にこのメモは存在すべきであったが、ファイルにはなか
った。アメリカ議会図書館にもなかった。しかし、共産主義の浸透に関する
情報はFBIにあった。FBIは原爆の父と言われるオッペンハイマーなど
の監視を続け、アルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト(ハルノ
ートの原案を作成した)がソ連のスパイであるとの情報を得た。

 マッカーシーについては多くの誤解があり、マッカーシーについての一次
資料を探るのが、本書の目的である。幸いにも忠実に仕事を成し遂げてくれ
た優秀な学者や冷戦の専門家がおり、ヴェノナ文書(ソ連の暗号を米軍が解
読したもの)やソ連の公文書がある。

 陸軍の安全を脅かしたと言われるアニー・リー・モスは、マッカーシズム
の犠牲者であると歴史家が言っているが、この件についてはオリジナルの資
料を調査するのではなく、歴史家が言って来たことを繰り返している場合が
多い。

 アメリカの国務省を1940年代に変革したクーデタ、つまり戦時に共産
主義者やソ連のスパイが戦略諜報局(CIAの前身)及び戦時情報局に浸透
したこと、戦後のドイツや日本での占領軍の行動などについて研究すべき事
が多い。冷戦初期の東ヨーロッパやアジアの多くに影響を与えたことともつ
ながっている。

 実際のマッカーシーは寓話や嘘の繰り返しで霧の中に消えてしまった。彼
の実像を探す必要があるのだ。

[2017年11月02日22時54分]
お名前: カーター
 以前紹介したことのあるM.STANTON著の"Blacklisted by History"を
読了しました。605ページもある大著ですが、英文を読み日本語の
レポートを作成すると言う作業を45章にわたって行いました。

 通算で2年と8ヶ月かかりました。マッカーシーは、罪もない人達を
共産主義者として告発したと言われていますが、その後のヴェノナ文書
の解読などで概ねマッカーシーが正しかったことがわかって来ておりま
す。

 これから45章の内容をこのボードで紹介して行きます。

                     カーター

[2017年11月01日22時15分]
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