テーマ:アフリカ史

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お名前: 広嗣
 ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2 によると、前首相は2012年に急死したメレスという人物のようですね。

 1962年に併合したエリトリアが独立した後のエリトリアとの国境紛争を2000年に終息させ、東アフリカ大干魃を乗り越えて基礎を築いたということなのでしょう。

 続きを期待しています。


[2014年07月17日03時24分]
お名前: カーター
 本日のフジテレビのありえへんを見ていたら、近年のエチオピアは
年率10%もの経済成長と遂げているそうです。前首相の功績だそう
です。後日調べてみたいと思います。


[2014年07月15日22時16分]
お名前: カーター
 先にケニアのケースを書きましたが、エチオピアは日本と同様の万世一
系の皇帝が長く続いた歴史があったこと、またブラックアフリカと異なり
独立を維持して来たと言う日本に似た歴史があります。
 エチオピアのメネリク二世は、ヨーロッパ文明に関心を持ち、近代兵器
の購入による軍隊の整備、首都アジスアベバにおける都市建設、郵便、通
貨、銀行、鉄道、橋の建設、病院、学校などを建設したりして、制度上の
近代化を実行に移しました。一方、農村ではロシアの農奴と同様で小作民
が土地にしばられ貧窮していました。このような改革は、イギリスなどの
宗主国により強制的に行われた他のアフリカ諸国とは異なっており、日本
と同じようにお雇い外国人を使って自力で行われたことは注目すべきとこ
ろです。
 日露戦争での日本の勝利は、アジア諸国のみならずアフリカの国々にも
影響を与えたはずで、1920年代にはエチオピアの青年知識層には日本
を近代化のモデルとしたいとの期待が表れ、「日本に習いて進まん」と言
う一節のある歌が作られたそうです。彼らは日本化した人々と言われまし
た。
 また、1931年に制定されたエチオピア憲法は明治憲法に類似点が見
られるとの報告もあります。特に皇帝の本質規定にかかわる前文がそう
で、万世一系の天皇とソロモンとシバの女王との間に生まれた伝説上のメ
ネリク一世までたどれるエチオピアの皇統が類似していると言うことで
す。
 しかし、1930年に即位したハイレセラシエ皇帝は、ヨーロッパ中世
社会のように教会に土地保有を認め、ゲベレ制度と言う貴族と農奴を分断
する階級社会を温存しました。また、日本化を求めた青年知識層が日本の
教育制度を導入しようとしたのに、伝統的なコプト教会付属学校での教育
を重視し続けました。戦後になって工業化を計ろうとしても、教会や皇
族、貴族の特権は温存され、近代化への本格的な取り組みが遅れたため、
1974年に革命が勃発することになりました。エチオピアは、現在でも
世界的に見て最貧国の一つです。

*参考文献:「日本ーアフリカ交流史」岡倉登志・北川勝彦著

[2013年11月23日22時50分]
お名前: カーター
 広嗣様、レスを頂きありがとうございます。
今日も暑いですね。明日からは秋らしい天気のようですので、
畑仕事に精を出すことにしています。


[2013年10月12日14時29分]
お名前: 広嗣
> 9月末で定年退職となり、毎日が日曜日となっています。プー
>タローです。
 お疲れ様でした。

 マウマウの乱をグーグルで検索したら、ウィキペディアの「マウマウ団の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%A6%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1 に辿り着きました。マウマウはイギリス側の呼び名だそうですが、マウマウ側の事象は不明です。

 英語版 https://en.wikipedia.org/wiki/Mau_Mau_Uprising の方が詳しいので、読める方はこちらもどうぞ・・・?


[2013年10月12日08時04分]
お名前: カーター
 9月末で定年退職となり、毎日が日曜日となっています。プータローです。

 さて、植民地時代のアフリカでは第二次大戦において、宗主国であ
る例えばイギリスの支配下にあった国々ではアフリカ人兵士達が、自
身の出身とは異なる民族同士が植民地支配について初めて議論しあう
ことができました。
 アフリカ各地は後方支援の基地となりましたが、連合軍の戦争目的
は、ナチスや日本帝国の支配地を解放するものだと言うメッセージが
届きました。しかし、なぜこのようなメッセージがドイツや日本の支
配地域だけに適用されるのかと言う疑問がわきます。
 また、東南アジアでは日本軍によりヨーロッパの軍隊が打ち破られ
撤退して行った状況を見れば、白人の無敗の神話が崩壊し、白人の植
民地が永久的なものではないことがアフリカの人にも理解できるよう
になりました。
 国際協力事業団の青木澄夫氏のレポートによれば、ケニアのマカウ
老人の話は次の通りです。
 イギリス軍に属したビルマ戦線でのジャングルの中では、「木の上
から鉄砲の弾が飛んでくるなんて、考えもしなかったな。それもたっ
た二人のために、散々な目さ。白人の将校は、日本人にねらわれない
ために、顔を黒く塗ってアフリカ人のまねをしたものさ。」とのこと
でした。
 また、ケニアの歴史家であるシロヤ教授は、復員兵の声として「日
本人は、アフリカ人を殺傷することにためらいを感じていた」と言い
切っているそうです。しかし、イギリス人将校から見れば、日本人兵
士はアフリカ人を恐れていたと言います。アフリカ人が日本人を食お
うとしていると考え、日本兵がジャングルでアフリカ人に出くわす
と、ライフルを捨てて悲鳴を上げて逃げてしまったそうです。
 連合軍の捕虜となった日本人で、英語の話せる日本兵は、アフリカ
人と声を細めて次のような会話をしたそうです。「アジア人とアフ
リカ人が協力して、アジア・アフリカの地から白人をたたき出そう。
我々日本人は、そのためにこうして戦っているのだ。諸君も国へ帰っ
て、アフリカから白人を追い出すべきだ。」
 インドでは、ケニア兵は次のような質問を受けたそうです。「我々
は今度の戦いに勝てば、インドの独立が約束されている。君らはいっ
たい何を約束されているのだ。」多くのアフリカ兵は「俺はいったい
何のために日本人と戦っているのか。いったい誰のために」と疑問を
感じ始めました。
 1952年にはケニアで「マウマウの乱」と言う独立闘争が起きま
した。アハデイアの森にこもったケニア独立の闘士は、ビルマのジャ
ングルでの日本軍のやり方を真似た戦法を使い、1963年にはケニ
アは独立を認められました。

[2013年10月11日17時19分]
お名前: カーター
 先のメッセージでアッバース朝時代の黒人奴隷であるザンジの乱に言及
しました。その事情をフランスのアラブ史家であるバーナード・ルイス著
の「アラブの歴史」から若干の内容を紹介します。
 イスラム社会には古代ヨーロッパと同じように奴隷保有制度がありまし
た。しかし、奴隷が生産活動の主体であったローマ帝国とは違って、その
主体は自由な農民あるいは職人の階層が占めていました。奴隷は主として
家内労働及び軍役に使用され、軍役用の奴隷がマムルークとして国事の支
配的な影響力を行使するようになる場合があり、十字軍で活躍したサラデ
インのアイユーブ朝の後にマムルーク王朝を設立した例があります。
 奴隷は鉱山、船団、湿地帯の排水工事などに従事し、大資本家階級が形
成されると地主や事業経営者に属しており、東アフリカで売り飛ばされた
黒人でした。食料は細粉、ふすま、ナツメ椰子でした。
 運動の指導者は、アリー・イブン・ムハンマドと言うペルシャ人でした
がアラブ系であったと言われています。この運動では、具体的な改革案を
備えておらず、ただ地位の改善を目指した特殊奴隷の叛乱に過ぎませんで
した。叛乱では逃走奴隷や帝国側の黒人奴隷も寝返ってザンジを強化させ
ました。
 運動はイスラム帝国(アッバース朝)にとって脅威となり、首都のバグ
ダッドに迫る勢いを見せましたが、カリフの実弟で摂政であったムワッフ
ァクが大遠征軍を組織し、ザンジの首府であったアル・ムフタールにザン
ジ軍を閉じ込め、881年から883年まで長期に渡る包囲攻撃の後に白
兵戦で打ち亡ぼしました。

[2013年08月24日23時01分]
お名前: カーター
 広嗣さん、レスを頂きありがとうございます。
書いても読んでもらっている人がいるのはありがたい
ことです。
 中東地域もヨーロッパもインドヨーロッパ語族と言う
のはイラン、インドまでですね。アラビア語はアフロ・
アジア語族のセム語派に属する言語の一つと言われてい
ます。

[2013年08月22日21時59分]
お名前: 広嗣
 イブン・バットゥータは「バットゥータの息子」という意味になります。似たような例に「オサマ=ビン・ラディン」があります。「ibn」と「bin」、使う文字は同じですが、順序が違います。ただウィキペディアによると正式に名乗ると「アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・アッ=ラワーティー・アッ=タンジー」となります。バットゥータはどこから来たのでしょう。

 オサマ=ビン・ラディンはウィキペディアによると正式にはウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディンで、ここで言うビン・ラディンは、「ラディン一族」という意味になりますが、ここから父親の名前は、ムハンマドだと分かります。

 英語圏の姓に「ジョンソン」や「ジャクソン」というものがあります。原語では「Johnson」、「Jackson」と綴りますが、仮定の話ですが、この「son」が「息子」に由来するものなら、どこかビン・ラディンと共通するものを感じさせます。

 ロシヤ人の名前には「〜ヴィッチ」が付きます。「〜の息子」という意味で、例えばロシヤ大統領のプーチンは、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンですが、ここから父親もウラジーミルであることが分かります。社会主義時代には「プーチン同志」という呼び方もありましたが、伝統的には相手に敬意を表する場合には「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ」と言います。

 個人的に好きではない欧羅巴中心史観に基づく「中東」地域では、他の地域で言う姓に相当するものは存在しません。そのような違いを敢えて無視して言うと、所謂中東地域も英語圏もロシヤ語圏も、インド・ヨーロッパ語族に属します。一方日本やコリア、中国では「〜の息子」のような姓は存在しません。

 想像の域を出ませんが、何かインド・ヨーロッパ語族に共通する文化を感じさせます。


[2013年08月22日02時26分]
お名前: カーター
 東アフリカとアラブ世界、イラン、インドネシアなどの東南アジ
アとの交流について先のメッセージで述べましたが、今回はモロッ
コの旅行家であるイブン・バットウ ータの「三大陸周遊記」から東
アフリカの模様について紹介しましょう。
 イブン・バットウ ータはモロッコのベルベル人の血筋の人で13
04年に生まれ22歳の時にメッカ巡礼を始め、アフリカ、西アジ
ア、南ロシア、バルカン、中央アジア、インド、スマトラ、福建の
泉州、北京まで旅行した人です。
 東アフリカについて引用すると下記の通りです。

「まず着いたのでが、マンバサ(今のケニアのモンバサ)の島であ
った。バナナ、レモン、シトロンなどのほかジャッムーンという果
物を産する。オリーブに似ていて、それと同じような核があるが、
大変甘い。住民はバナナと魚類を主食とし、イスラム教を奉じ、み
なはだしで歩いている。
 この島に一夜すごした後、キルワまで海路を南下した。大きな町
で、住民の大多数はザンジュ(黒人)で色はあくまで黒い。建物は
木造でなかなか立派である。異教を奉ずるザンジュと境を接してい
るため住民はジハード(聖戦)をこととしている。ある商人の話に
よると・・・砂金を運んでくるとのことである。私が訪れた時のキ
ルワのスルターンはアブール・ムザッファル・ハサンと言う人で、
しきりに黒人の国々に攻め入り、その財宝を取り上げては、コーラ
ンの掟のごとく、その五分の一を自分のものとしていた。」
 とまあ、こんな具合です。イスラム教徒の王がいて、黒人の社会
と対立していることがわかります。

[2013年08月18日22時26分]
お名前: カーター
古代ヨーロッパ世界とアフリカの交流を考えるにあたって、重要
なのが古代エジプト文明です。古代エジプト文明は紀元前5000
年以上前に緑豊かな草原地帯であったサハラ地域の農耕文化を受け
継ぎ、ナイル川流域で発展したと考えられています。
そして、そのエジプト文明を受け継いだのが前1700年頃のク
レタ文明であり、エジプトの象形文字がクレタの線文字へと発展し
たと推測されており、また、切石を使うクレタの建築方法はエジプ
トから学んだと言われています。その背景にはクレタ島がちょうど
地中海の中心に位置し、オリエントとの貿易を独占して富を蓄えた
ことがあります。そして、クレタを滅ぼしてその地位を継承したの
がミケーネ人であり、その後のギリシャ人の活躍の先駆けとなりま
した。
前6世紀頃にアッシリアの侵攻によりエジプトを支配していたヌ
ビアのクシが撤退しましたが、混乱したエジプトを王が統一する際
にギリシャ人傭兵が協力し、その報償としてギリシャ人には居留地
が与えられています。ヘロドトスによれば、「エジプト人の子弟を
彼らにあずけてギリシャ語を学ばせた。」とあり、エジプト人のギ
リシャ語の通訳の仕事が代々受け継がれたとしています。
ローマ時代には、ローマは現在よりも緑豊かであった北アフリカ
を穀物やオリーブなどの食料供給基地としました。5世紀にはゲル
マン民族のヴァンダル族が北アフリカに侵入しましたが、豊かなア
フリカを制することでローマに対抗できると考えたのであり、ロー
マとの海戦でヴァンダルは石油を火攻めに使用しました。
古代においてはヨーロッパからアフリカへのアプローチが主であ
るように見えますが、クレタ島を始め多くの黒人をモチーフとして
芸術品がヨーロッパ各地で発見されており、ヨーロッパ各地に黒人
が住んでいたものと推測されるのであり、ヨーロッパとアフリカは
相互に交流していたと言えます。

[2013年08月13日18時11分]
お名前: カーター
 先の書き込みで北アフリカは古代からヨーロッパとつながっていた
と述べましたが、東アフリカはインド洋と通じてアラブ世界、イラン
やインド、そして東南アジアともつながっていました。実際、東アフ
リカにはアラブ人、イラン人、インドネシア人との混血の人々が現在
でも存在しています。
 東アフリカにはキルワ、モガデイシュ、モンバサ、ザンジバルなど
のスワヒリ都市国家が存在しており、アラブ人、イラン人などの商人
が活躍し、内陸部から金、象牙、毛皮などが東方世界へ輸出され、中
国、イラン、イラクなどから輸入された磁器、銀や金の宝石類などが
東アフリカに持ち込まれました。
 このような東アフリカと東方世界との貿易には、モンスーンが利用
され、冬の間には風ががインド洋からアフリカに向かって南西方向に
吹き、夏の間には風はペルシャ湾からインドに向けて北東方向に吹き
船乗り達はこの風を利用して交易を行いました。
 ヘレニズムの時代にエジプトのギリシャ人は「エリュトリアン海航
海記」を書き、ギリシャ人は東アフリカをアザニア人の土地と呼び、
多数の都市で、小麦、鉄の道具、綿織物とココナツ油、象牙、サイの
角とを交換していたと記しています。
 アラブ世界では、黒人はザンジと呼ばれ、奴隷はすでに白人社会向
けよりも早くからアッバース朝で利用されており、9世紀には「ザン
ジの乱」が起こりました。苛酷な労働環境に不満を持っていたザンジ
を率いてアラブ人のアリー・ブン・ムハンマドが反乱を起こしたもの
です。反乱は鎮圧されましたが、アッバース朝の弱体化を露呈しまし
た。
 この風はイスラムが浸透する7世紀以前から利用されており、イン
ドネシアからマダガスカルやモザンビークへ移住があり、ヤム、タロ
などの芋類、サトウキビ、米、バナナなどの農産物が持ち込まれまし
た。インドネシアからは農産物に加えて、カヌーもアフリカに持ち込
まれ定着して行きました。

[2013年08月12日23時10分]
お名前: カーター
 アフリカと言えば奴隷貿易を思い出しますが、奴隷はアフリカ西岸
から南北アメリカ大陸のプランテーションのために強制的に移住させ
られた人々が一般に奴隷であると考えられています。
 しかし、奴隷自体の歴史を考えて見ると、奴隷には古代から戦争の
形で、黒人のみならず戦争で破れた民族が勝った民族の奴隷になるこ
とが多く、白人の奴隷もたくさんいました。白人の中でもスラブ民族
は戦争の強い民族の奴隷になることが多く、スラブと言う言葉が英語
の奴隷を意味するSLAVE の語源となっています。
 西アフリカからアメリカ大陸へと運ばれた奴隷は、西洋人により強
制的に移住させられたと一般には考えられていますが、実際には黒人
の首長が戦争奴隷を白人に売る事でビジネスが成り立っていました。
 このように黒人首長により売り渡された奴隷には、アラブ世界や東
南アジア、中国、日本へも売られたケースがあります。織田信長の付
き人であった弥助はモザンビークからポルトガル人によって連れて来
られた黒人奴隷でした。
 黒人の首長は、黒人同士の争いで勝利することによって得た奴隷を
売る事で白人の商人から銃、酒類、奢侈品を購入しました。新大陸で
は黒人奴隷によるプランテーションでの労働により、綿花、砂糖、タ
バコなどが生産されヨーロッパに輸出されました。このように、西ア
フリカー新大陸ーヨーロッパと言う流れができており、これを三角貿
易と呼んでいます。
 その後、欧米では産業革命を経て、アフリカの熱帯性農産物(植物
油やゴムなど)への需要が生まれ、産業が高度化したため黒人をアフ
リカに残しておいた方が経済的だと言うことになり、奴隷貿易は終わ
ました。

[2013年08月11日22時52分]
お名前: カーター
 アフリカは近代になり、奴隷貿易、西洋の植民地と戦後の独立
といった歴史が一般には知られていますが、ヨーロッパとアフリ
カはギリシャ、ローマ時代から交流が行われ、北アフリカのみな
らずアフリカ全体の形を知ろうと努力がされていました。ヘロド
トスの「歴史」に記されたフェニキア人のアフリカ一周の航海の
話は有名です。
 フェニキア人はシリア沿岸にシドンなどの都市を建設していま
したが、前9世紀頃に北アフリカに植民都市カルタゴを建設しま
した。前7世紀以降カルタゴはアフリカの内陸と金、象牙などの
奢侈品の交易を行いましたが、交易にはベルベル人やサハラ以南
のアフリカ人も携わっていました。
 ヘロドトスはアフリカのある島の湖で「娘たちは瀝青を塗った
鳥の羽を用いて、泥の中から砂金をすくいあげるという。」と述
べており、金が交易品となっていたことがうかがわれます。


[2013年08月03日22時45分]
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