テーマ:東アジア史】広開土王に関連する高句麗の歴史

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好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)
の業績を称えた石碑である。広開土王碑とも言われ、付近には陵墓と見られる
将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑とも言われる。

4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での
貴重な一次史料である。

碑文は三段から構成され、
一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、
二段目に好太王の業績、
三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。

そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、
以下がある。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため
平譲に出向いた。

ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の
臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援
することにした。

400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が
退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆を
ついて、新羅の王都を占領した。

404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、
これを討って大敗させた。

碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、
遠く離れた倭が何度も出てくることから、倭国と高句麗の「17年戦争」
と称する研究者も存在している。

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【広開土王に関連する高句麗の歴史について】

『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である
朱蒙(チュムン)により建てられたとされる。

卒本城時期 、朱蒙が建国したとされる卒本の地は、
現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)であり、都城の卒本城は五女山山城に比定される
。建国後間もない2年に後漢の光武帝の下へ使者を送って朝貢した際、
それまでの高句麗候から王へ冊封されている。

しかし、3年には、第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため
鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都したと伝えられる。
高句麗の本拠地が実質的に丸都城へ移った時期は、2世紀末から3世紀初めと
見られている。


丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。
その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の
国内城とは一体のものであり、
こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島の城でよく見られる。
国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。
高句麗は次第に四方に勢力を伸ばし特に東南方面へ拡張したが、
第8代の伯固王時代には遼東でも数度寇掠を働いている。しかし、
それにより遼東で割拠していた公孫氏の不興を買い侵攻を招くことになる。

その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に
乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用する事で技術的、制度的
な発展も遂げた。
しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容?に首都を落され、臣従せざるを
得なくなった。

355年には前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。
前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、
372年には僧侶・仏典・仏像などを伝えられた。
この間、371年には百済の攻撃に王が戦死するなど危機に直面する。

391年に即位した19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、
南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、
百済王に臣従を誓わせた。

4世紀末になると倭の朝鮮半島への進出が顕著となる。
391年、倭が海を渡り百済□□新羅を破り臣民とした。
393年、倭が新羅の都を包囲するなど、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が
記録されている。
百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として
倭国に送って国交を結び、

399年に高句麗の頚木を離れ倭に服属した。倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に
救援を求めると、
好太王は新羅救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が新羅へ軍を進めると
新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。
この恩により新羅は朝貢国となった。

402年、新羅もまた倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送って属国となり、
倭軍は404年に高句麗領帯方界まで攻め込んだが高句麗軍に敗れた。

405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により帰国し
百済王に即位している。



5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、
当初高句麗系の高雲を天王としていた北燕と親善関係を結んだ。この時代には
領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。


[2012年11月13日20時48分]
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