テーマ:コロラド物語

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お名前: カーター
 ようやく、翻訳が終わりました。2〜3年のつもりで始めたのですが、
3年半かかりました。最初は慣れないため、1章に一ヶ月くらいかかって
いましたが、2012年からは週に1章のペースでできるようになり、
2013年は40日あまりで10章を訳しました。
 本日アップしたバーニー・フォードの話は年代的にはジェシー・ジェー
ムスの次の話ですが、手違いで最後になってしまいました。
 私自身、コロラド州には何度も足を運んでいますが、メサ・ヴェル
デのアナサジ族の遺跡の以外の話は初めて知る事ばかりでした。
 現在は達成感で一杯です。全体を通して感想を戴ければ、ありがたい
です。


[2013年03月10日17時43分]
お名前: カーター
コロラドの概況及びトリビア

 コロラドは全米で8番目に大きい州で、アラスカ、テキサス、カリフォルニア、モンタ
ナ、ニューメキシコ、アリゾナそしてネヴァダに次いでいる。広さは104,091平方マイル
でほぼ67百万エーカーある。平均して東部から西部へは387マイル、北部から南部へは
276マイルの距離である。
 コロラドの中間高度は6,800フィート(約2,040M)であり、全米で最も高地にある州と
なっている。州の最高の地点は、レイク郡のエルバート山であり、14,433フィート
(4,330M)である。コロラドには、海抜14,000フィート(4,200M)の高さを超える56の
峯がある。同州の最も低い地点は3,350フィート(1,005M)であり、プロワーズ郡のコロラ
ドとカンザスの州の境を横切るアーカンソー河のある部分である。

 コロラドの地理的な中心はパーク郡のパイクス・ピークの東北の30マイルの地点であ
る。

 最近の農業統計では、コロラドには広さが約3,109万エーカーで約31,369の農場があ
り、平均すると農場あたりの広さは991エーカーである。

 2000年の国勢調査では、コロラドには約430万の人口があることがわかった。2
005年に推定された人口は、約467万人である。州のランクは、人口で全米24番で
ある。

 コロラドで記録された最も低い気温は、メイベルで1985年2月1日に記録されたマ
イナス61°F(華氏)である。(摂氏−52度程度)
低温の平均は1月で26度である。(約−9度C)

定義: C=5/9(F-32)  
http://ja.wikipedia.org/wiki/華氏

 高温の最高はベネットの1888年7月の118度であった。(約48度C)
高温の平均は、7月で73度である。(約23度C)

 コロラドは1861年にアメリカ領となった。1876年の8月1日に38番目の州と
なった。

 デンバーはコロラド州の首都であると同時に最も大きい都市であり、2003年の推定
人口は557,478である。

 コロラドには63の郡がある。

 コロラドと言う言葉は、スペイン語の「赤」から来ている。

 州のモットーは、Nil sine numineでありラテン語で「何事も神のご意志のないものは
ない。」と言う意味である。

 コロラド州の公式のニックネームは「百年の州」であるが、これは独立宣言が署名され
てから百年目になる1876年に連邦に加盟した州だからである。

 州の鳥は、ラーク・バンテイ ング(その名のひばりではなく、すずめの一種)であり、
州の哺乳動物は、ロッキー・ビッグホーン(ひつじの一種)である。州の花は青オダマキ
であり、州の木は青トウヒである。(それぞれの詳細は下記を参照)

http://en.wikipedia.org/wiki/Lark_Bunting
http://en.wikipedia.org/wiki/Bighorn_sheep
http://en.wikipedia.org/wiki/Aquilegia_caerulea
http://en.wikipedia.org/wiki/Picea_pungens

 州の歌は「オダマキの咲くところで」である。
http://www.youtube.com/watch?v=SH40IMQBV1M

 州の旗は、大きい赤の”C”が金色の球を囲んでおり、背景には水平に三つの青、白、青の
線がある。(詳細は下記を参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/コロラド州

 コロラドは、ロイヤル・ゴージ・ブリッジという世界で最も高地にある構造物がある所
である。この橋は1929年に6ヶ月間で建設されたと記録されている。アーカンソー河
の水面から1,053フィート(約316M)の高さの地点に架かっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Gorge_Bridge

[2013年03月10日17時24分]
お名前: カーター
バーニー・フォードの黒人解放運動(1902年)

 バーニー・フォードは、1860年5月18日にデンバー市に着いたのであるが、
何を期待していたのかはっきりしていなかった。やはり、その町は真新しいものであ
った。近くで金が発見されると一夜にして町は沸き返った。しかし、逃亡奴隷であっ
たフォードにとって、デンバーには黒人が少ないことはすぐに理解できた。南北戦争
に向かおうとしている国家から、何百マイルも離れた荒野の辺境であるこの地でも人
種に関する感情が高まっていた。また、フォードは彼が金鉱を発見するまでは見込み
は悪いことがわかっていた。
 フォードは、シカゴからカンザスのレヴンワース経由でデンバーへやって来た。レ
ヴンワースで、彼は黒人なので駅馬車に乗るチケットを買うことができなかった。不
屈の精神で彼は幌馬車のコックの仕事を得て、予定よりは遅くデンバーに着いたが、
気持ちは高ぶっていた。彼は、もし何千もの人たちが金の試掘や採鉱で一山当てるこ
とができるなら、自分でも可能であると信じて疑わなかった。そして、それはフォー
ドがまさに始めようとしていたことであった。
 フォードは金の採掘権を二カ所提出したが、領地法が黒人による土地所有を禁止し
ているため、生産を開始するかを調べる前に所有地を放棄してしまった。コロラドの
ブレッケンリッジの鉱山の白人の弁護士との関係がひどかったので、フォードは落胆
してデンバーに戻り、へメンウェイホテルでベルボーイの仕事を見つけた。彼はお金
を十分ためてからシカゴへ妻と子供を呼びに行った。
 
ブレッケンリッジは下記:
http://en.wikipedia.org/wiki/Breckenridge,_Colorado

 フォードはすぐに急速に発展しているデンバーの中心地に理髪店を開いた。彼のパ
トロンの多くは町の指導的な市民であった。また、彼は町の多くのビジネスマンと友
達になった。家族への責任から北軍への参加をしないと決めた後に、すぐにフォード
は偶然の火事で理髪店と家が破壊され生計の手段を失った。フォードは、ルーサー・
クンツェと言うドイツ人の銀行家から五千ドルを借り、ピープルズ・レストランをオ
ープンした。それは、立派な建物であり、町の多くの尊敬される人たちから常連とな
る人が出て来た。
 南北戦争が東部で終息に向かうにつれ、フォードはますますコロラドにおける黒人
のあり方について考えるようになった。合衆国における黒人はまだ投票することがで
きず、そしてますます多くの元奴隷が西部を目指していたが、彼らはまだ二級市民と
して扱われていた。フォードは、この耐えられない状況について何かをする時だと決
心した。
 彼は、自費でワシントンD.C.へ行き1864年に州となった法案を無効にするため
議会にロビー活動を行った。その法案はコロラドを自由州として連邦に加盟すること
を許可するものであったが、黒人には何も権利がなかった。その法案は無効となり、
フォードはデンバーに戻り、黒人のための社会人教育のクラスの設立準備を行い、そ
して有色人種(黒人)の共和党クラブを組織した。しかし、彼が一生懸命働いたにも
拘らず、コロラドの黒人の住民にはどんな意味ある権利も与えられることはなかった。
 1867年にフォードはシャイアン(ワイオミング州の都市)に二つ目のレストラ
ンを開いた。彼は多くのビジネスを手がけ成功した。火事でシャイアンでのビジネス
は実際は失敗となった。しかし資金的には失敗であるが、彼の個人資産は25万ドル
以上あると噂されていた。彼はコロラド一の金持ちの黒人であることは疑うべくもな
かった。フォードは、成功を重ねた。彼はフォードハウスホテル、ピープルズ・レス
トランそしてインターオーシャンホテルをデンバーに建て、市の中心部に大邸宅を建
てた。
 1873年にフォードはコロラドの歴史上、公職に立候補する初の黒人となった。
彼は州議会の議席を得ようとしたが失敗した。
 1879年には57歳になっていたフォードは、全財産を失った。シャイアンのホ
テルも失敗した。彼の事業を支えた家畜のビジネスも干上がりつつあった。そして、
経済は一般的に悪くなっていた。次の年に、カリフォルニアの金鉱で一儲けしようと
したが失敗だったので、フォードは一文無しになってブレッケンリッジに来た。そこ
で、彼は坑夫のためのレストランを開き、ゆっくりと再び財産を築いた。彼はデンバ
ーでオイスター・オーシャン・レストランを開き、しばらくしてお金を貯め、近くの
山に避暑のための別荘を建てた。

1873年からの不況は下記の通り。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大不況_(1873年-1896年)

 1885年にフォードは、黒人がホテル、レストランなどの公共の施設での平等な
権利を否定されることを禁止する公民権法をコロラド州で通過させるのに尽力した。
二年後に彼はブレッケンリッジの金鉱の株を売って一財産築くと、彼は再び世界の頂
点に立った。資金的には安定していたが、彼はブラウンパレスホテルの近くに理髪店
をもう一つ開き、仕事を続けた。
 南北戦争の前のジョージアでの奴隷生活から、フォードは長い道のりを歩んで来
た。彼の企業家精神は、急速に増加する人口に見合う需要に応えるための必須のビジ
ネスを黎明期のデンバー市に供給したのであった。彼が仲間の黒人を助けようとした
ことは公民権法の立法の大部分において直接的に責任を負うものであり、それは彼の
同州における兄弟たちに事実上の機会均等を与えるものであった。フォードは190
2年に死んだが、疑いなくやり遂げたと感じる。

バーニー・フォードに博物館は下記である。
http://www.summithistorical.org/barneyfordhouse.htm

[2013年03月10日13時41分]
お名前: カーター
ブリザード (2006年)

 今回、デンバーとフロント山脈(ロッキーの東側、デンバー地域)を襲った雪
嵐は、かつてのものと比べて同じでもなく一番ひどいものでもなかった。191
3年の12月に、母なる自然が記録的な46インチ(117cm)の大雪をもた
らした時には、地域住民の一部は当時赤子であった。
 それから、近年は2003年3月18日〜19日のブリザードは30インチ近
くも(76cm)も積もった。過去ほぼ100年間で最も深い積雪となったのは
1982年のクリスマスイブのデンバーであったが、今回のものから24年前の
ものであった。住民は、2006年12月19日に最もひどいブリザードが進路
にあることがわかったが、それは市の解氷剤を積んだトラックがその夜に街路に
大挙して来て、最初の雪が降り始めるかなり前に塩化マグネシウムを道路に撒き
始めたからであった。
 おそらく、デンバー市の職員達は用心深くなっており、今回は早く対応したの
だろう。やはり、彼らの前任者達は前回の雪嵐で対応に戸惑っている間に、かな
りひどいことになってしまった。1982年の巨大なブリザードの時には、例え
ば元市長のビル・マクニコルは、郊外の道路に急速に降り積もる雪を除雪する際
の市の対応が遅かったと、厳しく批判された。彼は次の春の選挙でフェデリコ・
ペナに負けたが、ペナは11月の自身の政治的な失敗で苦しんだ。デンバーのブ
リザードの降り始めで21インチ以上の積雪があったこと、また彼が唯一頼りに
していたもの ー 重い雪を束ねて下ろすゴミ収集車の一団を招集することで
あった ー は結局氷の固まりを作る事になっただけであったが、それは残雪が
溶けるまで数日間消えずに残ったのであった。
 巨大な嵐が吹き、重い雪が回りにすぐに積もり始め、ジョン・ヒッケンルーパ
ー市長は、予報官が特にひどくなると言っている嵐に対処するために、公共事業
部の道路作業者はその週の金曜日から最低一日に7時間が働くべきだと命令し
た。州の役人はすぐに自分の考えを主張することも始めた。一番ひどいと言われ
ているコロラド州のある地域に緊急チームが派遣された。多くの学校区は閉鎖さ
れたが、子供達にはクリスマス前のおまけの休みが与えられたのは幸運だった。
 コロラド州の交通部門は嵐が通る道に沿って、ハイウェイを数カ所閉鎖した。
それは、ワイオミングからニューメキシコまでのI-25、デンバーからカンザスラ
インまでのI-70、デンバーからネブラスカラインまでのI-76であった。州またが
りでない道路であるアメリカハイウェイの36号と85号は閉鎖された。コロラ
ド州兵の数個の部隊は、ハイウェイの除雪や嵐にかかわる仕事で地方当局を援助
する活動を行った。
 水曜日の昼までにはデンバー国際空港の当局は、主要な航空会社のサービスは
出発と到着のフライトを含めてほとんどはキャンセルされ、数千の乗客と航空会
社の職員は立ち往生したと発表した。アメリカ郵便の職員は、郵便は一時的に停
止したと発表した。一方で、教会や救世軍などの慈善団体はすぐにベッド、食
料、水や緊急物資を空港の様々な避難場所に集めた。空港の商店街を閉鎖するこ
とは、過去のクリスマスを上回るかもしれなかった今年のクリスマスシーズンの
売り上げを減少させることとなった。
 猛烈な嵐が去った時に、デンバー地域に積もった雪は多くて30インチ(76
cm)にもなっていることが予想されていた。ボールダーは32インチで、ロン
グモントは20インチ、フォート・コリンズは21インチであった。ちょうど、
事態が通常にもどりつつあるその時に、二度目の巨大な嵐がクリスマスの三日後
に同じ場所を襲った。今回は、フロント山脈とカンザス州の間に横たわる大平原
に深く到達した。数千もの家畜は東部の牧場で、食料や水がなく、また避難所に
も行けずに立ち往生した。州兵は再度呼び出され、渇き飢えた動物達のために氷
を砕き、干し草を空中投下した。コロラド南東部のある地域では、積雪は3フィ
ート(約90cm)に達し、そしてさらに10フィート(3m)以上に達した。
 2007年の1月初旬に、州の中でも最大の被害を被った地域と郡部の数カ所
と同じくコロラド州に対して、FEMA(合衆国連邦緊急事態管理庁)の支援とそ
の他の連邦の支援を要請する法案が議会に提出された。同時にユナイテッド航空
は、過去2週間の2回の嵐による週末旅行の損害の合計は、4000万ドル(約36
億円)に上ると発表した。
 確かに、2006年12月中旬から後半にかけてのコロラド東部を襲った程度
よりも同じか、さらにひどい雪の嵐が将来もっと混乱を引き起こすこともあるだ
ろう。しかし、地方、州及び連邦の関係局と協力して、独立百年の州(コロラド
州のこと)の住民は、このような災害から引き続き回復するのを目の当たりにし
て生き残っていくことだろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁

ブリザードの写真は下記:

http://4travel.jp/traveler/honeynuts/album/10116408/

[2013年03月08日22時12分]
お名前: カーター
二人の歴史家の歴史(1984年/1985年)

 1930年見知らぬ男がデンバーの町中の通りで、ノリエ・マミー博士に近づ
き、郵便局への道を尋ねた。その39歳の医者は、デンバーに居を構えて6年に
なるが郵便局がどこにあるか知らないと答えたが、それは恥ずかしいことだっ
た。このように彼がコロラドの周辺に関する知識がなかったことが歴然としてい
たので、マミー博士は50年以上を歴史研究に費やすことになった。
 マミー(ママのマミーを同じ発音)はルイジアナ州のシュレヴェポート(北西
部)に1981年の2月8日に生まれ、彼はアーカンソー州大学から医学の学位
を得た。しかし、医学は彼の唯一の関心事ではなかった。彼には他に飛ぶ事、書
物、歴史に情熱を示した。そして、彼はこれらの興味をいっしょに結びつけると
言う想像力に長けていた。
 医学部を卒業すると、マミーはデンバー大学へ進みそこで学士と修士の資格を
得た。彼の修士論文の題名は「希少本の研究」であった。そして、その本から一
生の間書き続けることになったのだ。1931年には、マミーは「ジム・ベイカ
ーの一生」を書いたが、これはコロラドの山男の伝記であり、この伝記の類いで
は最も権威のあるものだと認められている。今日この本は希少本の市場で350
ドルでも売れている。次の数年の間に、マミーは多数の本を書き、デンバーの初
期の開拓のような様々な主題で、「災難のジェーン」、「クリード町の歴史」、
「ポーカー・アリス」、「ベンツ・フォート」、「ポニーエクスプレス」、「ジ
ム・ベックワース」、「アーカンソー医科大学の設立」、「飛行の進歩」、「商
用飛行機に乗るための身体的能力」などを書いた。
 本を書くには大変な時間がかかるが、マミー博士は医者を続けた。1952年
のアメリカ医学会の会議で、彼は有線テレビの上で甲状腺摘出を執り行ったが、
それを2,500人の見物人が驚嘆して見守った。彼はコロラド州兵の航空医官
になったし、またその中でもパイロットの資格を持った唯一の医者であった。1
937年から1969年まで、彼はコンチネンタルエアラインの会社の医者であ
った。
 マミーは90歳代になっても、彼はまだ毎日患者を診察した。そして、198
4年1月22日になくなるまで数ヶ月間診察を続けた。彼は、過去50年間奉仕
したアメリカ外科大学のフェローの正服を着て埋葬された。
 コロラドの歴史を議論するにあたっては、マミーに加えてもう一人の男が心に
浮かぶ。ルロイ・R・ハーフェンは1893年12月8日にネヴァダのバンカー
ヴィルに生まれた。彼は1916年にユタ州のブリガム・ヤング大学を卒業し
た。彼はカリフォルニア大学バークレー校から歴史学の学位を授与された。彼は
そこで偉大な歴史家であるハーバート・ユージン・ボルトンの元で研究をした。

訳注: ブリガム・ヤング:アメリカのソルト・レイク・シティーを創建した
モルモン教の指導者(1801生〜1877没)。ユタ大学やブリガム・ヤング大学
の創始者でもある。砂漠を越えて信者を移住させたことから「アメリカのモー
セ」「現代のモーセ」などの異名がある。

ハーバート・ユージン・ボルトンは、スペイン時代のアメリカの歴史研究者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Eugene_Bolton

 ハーフェンは1923年にコロラドに引きつけられ、州の歴史家、つまりコロラド歴
史学会で歴史の学芸員とコロラドマガジンの編集長の仕事を得た。彼はその仕事を30
年近く続けた。その当時、彼はウイリアム・J・ゲントとの共著である「折れた手: 
山男の親分、トーマス・フィツパトリックの生涯」、フランシス・M・ヤングとの共著
となる「ララミー砦と西部の歴史劇」、そして「コロラド、州と人々の歴史」などの素
晴らしい作品を書いた。

トーマス・フィツパトリック:
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/WWfitzpatrick.htm

「ララミー砦と西部の歴史劇」:
http://www.amazon.com/Fort-Laramie-Pageant-West-1834-1890/dp/0803272235

 ハーフェンの本や雑誌記事と歴史研究のかなりの部分の協力者は、彼の妻であるアン
・ウッドベリー・ハーフェン(1893年〜1970年)であった。彼女の能力は歴史
家のものであり、彼女は「コロラド、州と人々の歴史」を共同執筆し、他の作品では、
「旧スペイン街道:サンタフェからロスアンゼルスまで」を書いた。また、とても有名
で示唆に富む「シオンへの手押し車:面白い西部移住のお話、1856〜1860年」
も書いた。
 ハーフェン夫妻は1954年にコロラドを去り、ブリガム・ヤング大学へ戻り、そこ
で二人は真剣に研究と執筆を続けた。ハーフェン夫妻がアーサー・H・クラーク社に二
つの重要な作品を編集したのは引退の時期であった。「西部とロッキーの歴史シリーズ
(1820〜1875)」の15巻のセットが、954年と1961年に刊行された。
そして「山男と西部の毛皮交易」10巻は、300人もの毛皮商の先人の伝記を集めた
ものだった。
 死ぬまで活動的であり、ハーフェンは1985年の3月8日に冬のカリフォルニアの
パームデザートの家で亡くなった。
 マミーとハーフェンはお互いに知っており、尊敬し合っていた。事実、ハーフェンは
山男と毛皮商人の編集に当たって、ジム・ベーカーの伝記を書くのに、マミー博士を選
任した。二人とも学者であり、また二人とも注意深く研究し、正確でまた読みやすい歴
史を書くことに人生を捧げた。二人とも書き、共著もあり、あるいは文字通り何百冊も
の本や雑誌記事を編集したが、それらの多くがコロラドの歴史の側面を扱うものであっ
た。

ジム・ベーカーは下記:
http://en.wikipedia.org/wiki/Jim_Baker_(frontiersman)

[2013年02月28日23時01分]
お名前: カーター
レッドライダーとリトルビーバー(1960年)

 デイジー社のライフルの創造力の背景には、コロラドのカウボーイであったやせ
気味のフレッド・ハーマンがいた。彼は1902年に生まれ、まだ幼い時にミズー
リ州からコロラド州のパゴサ・スプリングスへ移住した。そこは、ロッキー山脈の
森に覆われた傾斜地であったが、彼の父と叔父とは別々に牧場を始めた。
 若いフレッドは牧場の生活にはすぐに適応した。子供の頃から彼は牛に乗り、烙
印を押し、報酬に見合うカウボーイに必要な数えきれないほどの雑用をすべてやっ
てのけた。家族とともに1916年にカンザス市に戻って来た時には、その距離の
ためホームシックになってしまったので、彼はすぐにパゴサ・スプリングのあたり
に戻り田舎の牧場の仕事を得た。しかし、ハーマンは家畜を追っている間に、彼が
愛した牧場の生活とは全く関係のないもう一つの思いで悩み続けた。彼は美術を見
いだし、自分にその才能があることに気がついた。そして暇な時間に彼は、牛を追
うカウボーイ、牛、馬、そして彼の回りの美しい風景をスケッチにしたのだった。
 ほとんど馬上での生活をやめた後に、ハーマンは芸術家としての技術を磨く時だ
と決心した。彼はパゴサ・スプリングスの牧場を去りカンザス市に行った。そこ
で、彼は漫画の動画を作るフィルム・アド社で仕事を得た。ハーマンの友人の一人
で同僚であったのが、絵を描くのが好きな若いウオ ルト・デイ ズニーであった。
 ハーマンがフィルム・アド社で漫画について多くを学んだ後に、彼は移動し、
1927年までミズーリのセント・ジョセフでカタログのイラストレータとして働
いていた。その仕事はうまく行っていた。しかし、それはハーマンが望んでいたも
のではなかった。彼は漫画家になりたかったのだ。しかし、そうはならなかったの
で、彼はコロラドに戻りベストを尽くす(牛を追う)ことに決めた。1933年に
は彼はポゴサ・スプリングスの近くに小さな丸太小屋を建てた。牧場の仕事に加え
て、彼は絵画や漫画の技術を磨いた。
 次の年にハーマンは32歳になっていたが、ロサンゼルスの展示会に数点の絵を
出品した。彼の作品は無視された。同じ年の後半に、彼は「ブロンク・ピーラー」
と言うキャラクターのカウボーイの漫画を作り上げた。最初は、新聞業界で彼の作
品を注目させることはできなかった。しかしその後、彼は「リトル・ビーバー」と
言うインディアンのかわいい子供の漫画の連載を始めたが、それは成功だった。ハ
ーマンがブロンクの名前を「レッド・ライダー」と変え、レッド・ライダーとリト
ル・ビーバーの漫画の連載が始まると驚異的な人気となった。

フレッド・ハーマンとレッド・ライダーについては下記。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fred_Harman
http://en.wikipedia.org/wiki/Red_Ryder

 1938年にハーマンのレッド・ライダーの作品を新聞事業協会が取り上げ、全
米の750もの新聞に配給された。人気が最高潮の時に、連載は4000万人ものア
メリカ人に読まれた。すぐに派生商品である全米でのラジオショー、「ビッグリト
ルブックス」(イラストとテキストを組み合わせた本)、38本もの映画、40も
のその他のアイテム、そして最後に1940年の後半には漫画本が出た。ハーマン
の成功は保証されていた。
 1930年代の後半には、レッド・ライダー、リトル・ビーバーとフレッド・ハ
ーマンは、すでにアメリカ中でお馴染みの名前となっていたが、ハーマンはミシガ
ン州のプリマスへデイジー社のエアライフル(銃身の長い空気銃)の関係者に会い
に行った。デイジー社は数年間「BBガン」と言うエアライフルを作っていた。ハ
ーマンはコルト・シングル・アクション銃のBBタイプを製造する様に説得するた
めで、それはレッド・ライダーの漫画で使用されていた種類のものだった。デイジ
ー社の人たちはBB銃を作るにはまだ早いと考えたが、レッド・ライダーが持って
いるウインチェスター・レバーアクション・カービンを手本にしたエアライフルを
ハーマンといっしょに設計することに興味を持った。

デイジー社の製品は下記。
http://en.wikipedia.org/wiki/Daisy_Outdoor_Products
http://ja.wikipedia.org/wiki/コルト・シングル・アクション・アーミー

レバーアクションとは銃の機関部下側に突き出したレバーを下に引き、それを
また戻す ことで薬室から空薬莢を排除する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィンチェスターライフル

カービンとは銃身の短い騎兵銃
http://ja.wikipedia.org/wiki/カービン

 こうしてデイジー社のレッド・ライダーエアライフルは生まれた。その製品は、
1940年代から1950年代の間に全米で何百万丁も売れた。デイジー社は、ま
た50周年を記念してレッド・ライダーのオリジナルのライフルを製造したが、そ
れはデイジー社とレッド・ライダーとリトル・ビーバーの協力関係が成功したこと
を祝うものだった。
 1960年にハーマンはもう終わりにすることに決めた。子供達はカウボーイや
インディアンで遊ぶことにもう興味を失ってしまったのだ。そして、さらにレッド
・ライダーの漫画を長い間書き続けた後に、彼は繊細な絵を描く時間が欲しいと思
った。彼はすぐに成功を収めた。1965年に、アメリカ・カウボーイ・アーティ
スト・グループが設立され、ハーマンはその初代のメンバーの一人であった。彼は
イラスト付きの"The Great West Remembered" と言う本を書いたが、素晴らし
く良く売れた。彼は情熱を込めて描いた。彼はかつて「私の髪は、何度も冬が過
ぎて行ったことを示しているが、私は毎朝、日の出前に急いで画架のところへ戻
って行った。」と言った。
 その男には、アメリカの三世代に渡る少年達がすばらしいレッド・ライダーの
BBライフルに感謝すべきでなのだが、彼は1982年にパゴサ・スプリングスの
平原で亡くなった。今日、近くにはフレッド・ハーマン・アート・ミュージアムが
あるが、ハーマンがカウボーイ、漫画家、画家であり、そしてアメリカ西部の実像
を描いた人物であり、旅行者らを招き入れてその時間に戻り彼の人生を通じてハー
マンと共に旅をさせている。

博物館は下記。
http://www.harmanartmuseum.com/
http://www.youtube.com/watch?v=d6gXF0WCzV8&feature=youtu.be
[2013年02月23日21時52分]
お名前: カーター
ブライディ・マーフィーを探して(1952年)

 1952年の11月29日の土曜日に夕方になると、コロラド州プエブロの
ビジネスマンであったモリー・バーンスタインは、神経質になって来た。数週
間、バーンスタインは知人の若い女性に、彼女を子供時代に連れて行こうとし
て催眠術をかけていた。その実験は素晴らしくうまく行き、バーンスタインは
その女性を小学校の時代からさらに彼女が一歳の時代まで引き戻した。
 バーンスタインは、彼女を後にルース・シモンズと呼び、それは彼女の実際
の身元を守るために使用したのであるが、彼女との仕事については楽観的であ
った。彼は彼女と実験を続けるにつれ、彼は催眠術を通じて彼女が生まれる前
の時代に彼女を連れ戻せるかもしれないと思い始めた。「人類は自分が生まれ
る前の時代や事件の記憶を持つことができるのだろうか」と疑問に思った。
「生まれ変わり」や「魂の輪廻転生」のようなことは実際にあったのだろう
か?
 バーンスタインの疑問は、11月の夕方にルースと彼女の夫が催眠術師の家
に来た時に、答は満足できるものとなった。この日はバーンスタインが、ルー
スを生前に導き、彼女に前世について尋ねるために選んだものだった。証拠を
残すために、彼はこの立ち会いの記録を付けそれをテープに残した。
 バーンスタインの妻とルースの夫が見ている前で、バーンスタインは被験者
(ルースのこと)を催眠にかけ彼女を徐々に7歳の年齢の時代まで、それから
5歳、3歳そしてついに1歳まで連れ戻した。ルースはバーンスタインの質問
には、年齢に合わせて知力を持って率直にすべて答えた。バーンスタインは、
ルースにやわらかい口調で、彼女を続けて彼女の心が落ち着ける場所と時間に
退行させたいと言った。彼は、彼女がその場所に着いたら、彼女に見えている
ことを話すべきだと説明した。
 しばらく緊張があった後に、ルースはソフトな口で彼女の金属製のベッドの
塗ったばかりのペイントをすべてかき落した時のことを話し始めた。彼女は、
母親から平手打ちをくらったのでそうしたのだと言った。バーンスタインが促
すと、ルースは彼女の名前はブライデ イー・マーフィーであり、8歳で、その
当時は1806年であった、そして彼女はアイルランドのコークに住んでいた
と言った。
 晩も遅くなると、バーンスタインはルースを1806年以前の、アムステル
ダムで乳児であったもう一つの人生に退行させた。さらに彼女の時間を戻すこ
とができなかった時、彼は彼女をアイルランドに連れ戻しブライデ イー・マー
フィーの質問をやり直した。ルースは、彼女が大人になってからブライアン・
マッカーシーと言う男と結婚したことを明らかにした。子供がなかった二人は
後にベルファストに住み、彼女は階段から落ちた際の負傷が元で66歳のある
日曜日に死んだ。
 さらに、次の年もバーンスタインはルースを数回にわたって催眠にかけた。
それぞれの立ち会いで、彼は再三、彼女の名前、どこに住み、夫の名前、彼女
はいつ死んだかと同じ質問した。ルースは一度も答えに口ごもることはなく、
一度も自己矛盾することもなかった。さらに彼女の答えには、バーンスタイン
も他のいかなる証人も理解できないある俗語や時代錯誤があった。これらの単
語やフレーズが後に調査された時に、それらは19世紀始めから中頃にかけて
アイルランドで一般に使用されていたことが常に明らかとなった。
 ルースはブライデ イー・マーフィーとして、実際に彼女と家族が取引したビ
ジネスの名前を言った。彼女は教会や学校を特定した。これらの場所はすべて
独立した調査官により正当な事実であることが確認された。
 バーンスタインはブライデ イー・マーフィーへのインタビューの結果から、
生まれ変わりの信者となった。ある偉大なイギリスの心理学者であるアレクサ
ンダー・キャノン卿は、彼の「The Power Within」と言う本の中で数年前に
次のように書いている。

  数年間、生まれ変わりの理論は私にとって悪夢であった。そして、私は
  その偽りを証明しようとベストを尽くしていた。そして、私の催眠の被
  験者達と彼らが嘘を言っているという議論をしていた。しかし、年が経
  つに連れ、被験者はそれぞれ異なってまたばらばらの信念にも拘らず、
  私に同じ話をした。実際は現在までに千件以上のケースが良く調査され
  たので、私は生まれ変わりと言うものがあることを認めざるを得ない。

 バーンスタインはキャノン博士とさらに同意することはなかった。1956
年に彼が発見したことを「ブライデ イー・マーフィーを探して」と言う本にし
て発行した。ベストセラーは国中を吹き荒れた。この本のような主題が議論を
呼ことは予想されていたが、良い評価も悪い評価もあった。科学界では、数年
間も生まれ変わりの問題をめぐって論争が行われていたが、大部分では古い教
義が支配していた。しかし、バーンスタインの本は心の問題に全く新しい関心
を呼び起こした。そして、今日生まれ変わりの考え方は、1950年代よりも
より広く受け入れられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ブライディ・マーフィー
http://www.nazotoki.com/bridey.html

[2013年02月19日23時02分]
お名前: カーター
W・H・ジャクソンのホーリークロス(1942年)

 それは8月下旬であったが、1873年のある日写真家のウィリアム・ヘン
リー・ジャクソンは仲間と共にロッキー山脈の高地を歩いていたが、そこは凍
るような霧と雪に覆われていた。その男の目的は有名は「ホーリークロスの山」
を探索することであり、それはコロラドロッキーが探検され始めた初期から冒険
家達にとって謎であった。
 試掘者や山男たちはその山について何年も語っていたが、誰もその神秘を解
明できたものはいなかった。二つの大きな雪の帯が絶壁の片面に巨大な十字を
作っているのは、遠くから誰もが見ることができた。(写真は下記)

http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_of_the_Holy_Cross

 ジャクソンはハイデン探検隊の一員として登ったが、それはコロラドロッキー
の地図を作成し写真を撮るのが目的であった。ジャクソンはワシントンD.C.の
彼の事務所を早春に発ち、デンバーの草原を横切り5月中旬に到着した。調査中
に、地形学者のチーフであるJ・T・ガードナーがジャクソンに、ホーリークロ
スの山について聞いたことがあるかと、尋ねた時にジャクソンは興奮した。ジャ
クソンがそうだと言うとガードナーは、「誰もがそれについて話し合うが、誰も
見たことがないのだ。私はそれを解決したい。ハイデン(調査隊のリーダー)は
まだ知らない。私は行ってみるべきだと思う。」と応えた。
 そして、ジャクソンはついにここに来た。霧が深く、寒さは厳しかった。彼が
重い写真機材を準備する前に、全域が視界ゼロとなったため、写真を撮ることは
できなかった。彼はずっと待って、直接山を見ることに決めもう一日待った。
 次の日の8月24日、ジャクソンと部下は早起きして、ベースキャンプから近
くの山を登って見た。まだ、凍るように寒かったが、太陽は上り、空には雲一つ
なかった。息をつきながら、1500フィート(約450m)を登り、探検隊は
ついに頂上に到着し広大な谷を見渡した。そして、そこには彼らが探していたも
のがあった。ホーリークロスの山は良く見え、昔から人々が遠くから見て語って
いたように見えた。
 ジャクソンは素早く彼の装置を整え、数時間かけて伝説の山の写真を撮った。
写真を撮ったのは彼が最初であり、彼がその日に撮影した写真は色あせていな
い。偉大な風景画家であるトーマス・モランは、ジャクソンの写真を使って、彼
は有名な絵を書いている。写真の複製はアメリカ全土で何年も流布した。
 ジャクソンがその山の美しさと荘厳さを捕えてから、数年後にその頂上につい
てガイドブックは次のように書いている。

  地の果てまで知られた、世界中でその名はただ一つだ。コロラドミドル
  パーク(コロラド北西部の盆地)のちょうど西側にあるサワチ山脈(コ
  ロラド中部の山脈)の中の主要な山である。それは近づくのがとても難
  しい。その名の元になった際立った特徴は、上部に十字がある深さ30
  00フィート(900m)もの垂直面であり、裂け目はすべて雪で覆わ
  れていた。十字は尋常でない形をしており、黒い花崗岩とは際立ったコ
  ントラストをなしていた。80マイル(128キロ)も離れたところか
  ら見ることができ、また他のすべての山の頂上とも容易に区別すること
  ができた。雪は裂け目に閉じ込められているように見えた。何段にも重
  なり、うまく留まり、一年中残ったのだ。夏の終わりには、雪が溶けて
  十字の形が小さくなる。山の高さは海抜14,176フィート(4,25
  0m)である。十字の縦方向の長さは1,500フィート(450m)
  であり深さは50フィート(15m)で、雪は50フィートから100
  フィートのクレバス(岩の裂け目)にたまっていた。水平の長さは季節
  によって変わるが平均して700フィート(210m)である。

 1879年にジャクソンはデンバーに写真のスタジオを開いて、20年間その
町を活動の場とした。彼は家族とともにデンバーで家を数カ所住み替えたが、お
しゃれな州議会があるクラークソン通り1430番地を最後にした。

コロラド州議会は下記 
http://en.wikipedia.org/wiki/Capitol_Hill_(Denver)

 ジャクソンの家族は1898年にデトロイトへ移住し、それからワシントン
D.C.では93歳になったジャクソンはアメリカ国防省の内部の壁を彼の絵で飾っ
た。1942年6月にジャクソンはニューヨーク市内のホテルの階段からころげ
落ちた時の怪我がもとで亡くなった。その老人は99歳であった。新聞は彼の死
を伝え、アメリカが生んだ偉大な写真家であったと書いた。ホーリークロスの山
は早くから国定記念物に指定されていたが、皮肉なことにちょうど8年前には、
継続的に暖かい気候のために山の十字から雪が溶け出したので、山の十字はその
ステータスを失っていた。

[2013年02月17日14時28分]
お名前: カーター
ベビー・ドーの伝説(1935年)

 1935年の3月にコロラド州レッドヴィルのマッチレス鉱山の道具小屋の
荒れ果てた床で、凍ってやせこけた死体が発見された。地元の医者が呼ばれた
が、その女性は死後二週間は経っているとのことであった。その冬はとても寒
かったので、彼女の死体は顔の特徴さえ見分けることができるほどだった。
 恐ろしい発見のニュースはレッドヴィル中に広まるにつれ、群衆はすぐに鉱
山の小屋の外側に集まって来た。好奇心に満ちた見物人は、死体が雪深い中を
霊柩車まで運ばれる間、ささやき合っていた。彼らにとって、その女性の死と
それに先立つ話はぴりっと辛く、また皮肉に満ちた話だった。
 その女性はエリザベス・マコート・ドー・テイバーと言い、1880年代の
初頭にコロラドでは大変な金持ちであったホラス・テイバーの未亡人であっ
た。エリザベスは全盛期にはベビー・ドーとして知られ、テイバーの二番目の
妻であったが、彼女の夫(テイバー)は離婚歴のあるこの美しい24歳年下の
女性のために、最初の配偶者であるアウグスタを捨てたのだ。

訳注: ベビー:彼女(親しい女性に対する呼び掛けとして使われるが、
軽蔑的と感じられることもある。)

 ホラスはその昔レッドヴィルとデンバーではかなり知られた人だった。ヴァ
ーモント州で生まれ育ったのだが、彼とアウグスタは1857年にコロラドに
移住した。当時の多くの東部からの移民と同じく、彼らはアメリカ西部の広大
な金鉱や銀鉱のどこかで一攫千金を得るのを夢見ていた。テイバーの初期の成
功は、試掘者ではなく商人としてのものであり、鉱夫達のための装置や備品を
供給するものであった。それは彼が商売をしていて、二人の疲れ果てた試掘者
が彼に7ドルの備品を、まだ生産が始まっていない銀鉱の三分の一の株と交換
して欲しいと頼んだものであった。気が進まなかったがあわれに思って、テイ
バーは降参し、必要な備品を男達に与えた。しばらくして、二人は銀鉱を掘り
当て、すぐに州に2千ドルの価値の粗鉱の生産を始めた。一年後に鉱山の株を
売却して、テイバーは最初の百万ドルを手にした。
 その時からテイバーのその話は富を求める安っぽい話となった。ホラスが扱
ったものはすべてお金になった。彼はデンバーに邸宅を購入し、疑り深い妻の
ために召使いを雇い、多くの計画に投資した。1881年までにテイバーは、
約9百万ドルの富を得たが、彼の財産はまだ増えていた。彼はオペラハウスを
デンバーに建て、ニューヨークやサンフランシスコのホテルにも劣らない五階
建てのウィンザーホテルを建てた。
 そして、彼はベビー・ドーに会った。
 デンバーの社交界は、ホラス・テイバーがエリザベスが美しいからと言っ
て、25年も連れ添った忠実な妻を捨てたことを知って驚いた。しかし、エリ
ザベスに魅了されたのはホラスだけではなかった。当時の新聞の記事には彼女
のことが次のように書いてある。
 
 コロラドで一番の美人であることは間違いない。
 彼女は若く、背が高く、姿形が良く、容色がとても優れていたので、
 純白のゆりに赤をまぜたものを思い浮かべることができる。
 豊かな薄茶色の髪、大きくて夢見るような目。そして、
 肩と胸はどんなコロラドの美人とも比較できるものではない。

 1883年までにホラスはアウグスタと30万ドルで和解し、二人は別々の
道を歩むことになった。その離婚はまだデンバーの法廷で審理中であったが、
テイバーは共和党の友人によりワシントンD.C.に空席となっている合衆国上院
議員として30日間派遣された。テイバーはベビー・ドーを連れて行き、離婚
が最終的に決定すると、彼はペンシルバニア通りのウィラードホテルで結婚式
を挙げた。ベビー・ドーの7千ドルのウエディングドレスや9千ドルのダイア
モンドのネックレスに驚いた客の中には、チェスター・A・アーサー大統領も
いた。彼は「私はこんな美しい花嫁を見たことがない。」と言っている。
 テイバーは1886年に合衆国上院議員に立候補し、そして1888年には
コロラド州知事にも挑戦した。双方で彼は落選した。政治評論家は彼の不倫癖
が理由だと言った。幸いなことに、彼の政治的な失敗が資金問題をもたらすこ
とにはならなかった。彼はお金を使い続けたが、そのほとんどは賢い投資では
なかった。しかし、変化は広がっていた。1893年に金融危機はシャーマン
銀購入法(連邦政府が、毎月市場価格で百万オンスもの銀を買い取ると言うも
の)の廃止と重なって、テイバーの事業はだめになっていた。
 ホラス・テイバーはすべてを失った。やりくりをするために、彼は家、鉱山
、オペラハウス、ホテル、そして競馬場と馬を処分した。彼はベビー・ドー
の宝石や毛皮まですべて売った。1898年に同情した共和党の友人らが彼に
デンバー郵便局長の仕事を与えたが、次の年には華麗なる「銀鉱の王」は一文
無しで死んだ。
 テイバーが落ちぶれても唯一維持していた銀鉱は、レッドヴィル郊外のマッ
チレス鉱山であった。彼が死ぬ前にベビー・ドーにできるだけ財産を守るよう
に言ったと言われている。葬式の後に未亡人はレッドヴィルに赴き、縦坑の入
り口のそばの道具小屋に引っ越した。そして、残りの人生を貧困の中で、小さ
くなった鉱山が再び彼女をデンバーの美女として蘇らせる時が来るのを夢見て
いた。

注:
テイバーとベビー・ドーについては下記のサイトの写真を参照。
日本では知られた話ではないので、日本語のサイトはない。

http://en.wikipedia.org/wiki/Baby_Doe_Tabor 

http://ja.wikipedia.org/wiki/チェスター・A・アーサー

[2013年02月11日21時49分]
お名前: カーター
バッファロー・ビルの死(1917年)

 それは1917年の1月であった。ヨーロッパでの戦争は拡大してい
たが、アメリカは参戦から避けてまだ数週間しか経っていなかった。ウ
ッドロー・ウイルソンは大統領の二期目に入ろうとしていたが、それは
11月の選挙で対立候補であるチャールズ・エヴァンズ・ヒューズをや
っとのことで破った後のことであった。
 ジョン・J・パーシング将軍(ブラックジャック)はメキシコの奥地でパン
チョ・ヴィラと言う悪漢を追いかけており、不在であった。そして、コロラド
州のデンバーでは世界でも偉大なショーマンの中に入るウイリアム・F・コデ
イ 大佐(バッファロー・ビル)が死のうとしていた。 
 コデイ は、1916年11月にヴァージニアのポーツマスでの豪華なワイル
ド・ウエストショーの最後のショーを終えて西部に戻って来た。彼の医者は、
コロラドの療養所のミネラルウオーターが彼の病気を良くするかと期待したが
ほとんど良くならなかった。そこで、彼はデンバーにいる妹のメイ・デッカー
のところへ引っ越した。
 医者がコデイ に36時間も持たないだろうと宣告した時に、年老いたショー
マンは義理の弟をベッドサイドに呼んでトランプをした。1917年の1月1
0日にバッフアロー・ビルは死んだ。最後の数時間に、腎臓、心臓、前立腺の
炎症で苦しんでいる間、コデイ は彼の素晴らしい経歴に思いを馳せていたに違
いない。それは1846年にスタートした生涯に渡る冒険であり、アメリカが
メキシコと戦争を始めた時であった。
 子供の頃コデイ は、輸送会社で速達配達人として働いた。小馬配達便の割当
仕事であったが、それは将来のショーマン(コデイ )にワイルドウェストショ
ーのための多くの材料を準備することになった。16歳の時にコデイ は、南北
戦争で第九カンザス騎兵隊の斥候(スパイ)の仕事を得た。そして、後に彼は
志願して第七カンザス騎兵隊に加わった、
 戦争が終わると、コデイ はフィリップ・H・シェリダン将軍の目に留まり、
彼はコデイ をアメリカ第五騎兵隊の斥候の長(1868年から1872年)と
して雇った。コデイ は1869年7月のコロラドのサミット・スプリングでの
シャイヤン族との戦闘で陸軍が敗北した時にその場にいたし、多くのその他の
インディアンとの戦闘を経験した経歴がある。この時期に、彼の上官の一人は
「コデイ は尾行者及び戦闘員としての卓越して優れた仕事をした。そして彼の
射撃技術は非常に異彩を放っている。私は、ずっとこの軍務にある内は彼を手
元においていたい。」と注目した。
 1869年には三文小説の作家であるネッド・バントライン(エドワード・
C・ジュードソン)は、その頃にはバッファロー・ビルとしてすでに知られて
いたコデイ を主人公として短編小説を書いていた。その本は成功であり、実際
にコデイ 自身が出演してシカゴで上演された。コデイ は、政府が後援者となっ
た外国の高官を、大平原を横切りロッキー山中での狩猟の旅に案内することで
名声を得た。その後数年間、かれは斥候と上演の時間を区別した。
 実際、舞台が嫌になっていたコデイ は騎兵隊と共に西部に戻った。スー族と
シャイアン族は、ちょうどカスター将軍とその第七騎兵隊をリトル・ビッグホ
ーン(モンタナ州)の戦いで破ったところだった。数日後、コデイ は彼のアメ
リカの伝説に残ることになる事件に巻き込まれることになった。コデイ がネブ
ラスカの第五騎兵隊にいた間に、少数のグループのシャイアン族の戦士が近づ
いて来て、その内のイエローヘアーと言う酋長がコデイ に戦いを挑んで来た。
バッファロー・ビルが勝ってイエローヘアーを殺し、無言の仲間の前で彼の頭
皮を剥いだ。そして、その頭皮をつかんで彼の頭上に上げ「カスター将軍への
最初の頭皮だ。」と叫んだ。
 しかし、ショービジネスはうまくいかずコデイ を悩ました。1883年に彼
は最初のワイルド・ウエストツアーを計画した。コデイ は商売人ではなかった
し、また日々の管理するスキルも不足していたので、過度にアルコールに依存
するようになり、ショーを危うくすることもあった。新しい資金が投入される
とツアーは再開された。そして1885年にはアニー・オークリー(女性の射
撃の名手。「アニーを銃を取れ」のヒロイン)とシッテイ ング・ブル(スー族
の戦士。リトル・ビッグホーンの戦でカスター軍を殲滅)が配役に加えられた。
観衆はそれを喜んだ。
 コデイ は、全米でそしてヨーロッパでも彼のショーを開催した。彼とその一
座は、ヴィクトリア女王やその他の国の高官の前で熱演した。フランスでは
ライフルを持った女性がその射撃術で観衆を驚かすと、彼らは「アニー・オー
クリー万歳」と叫んだ。コデイ の派手なショーはイタリア、ドイツ、スペイン
でも歓迎された。事実、ヨーロッパ人はアメリカ人ほどではないにしても西部
劇を愛した。彼らはブッファロー・ビルの一行がどこにいようと探し出した。
 アメリカに戻ると1893年のシカゴ国際博覧会で、6百万人以上の人々が
コデイ のショーを見た。コデイ とそのビジネスの仲間は10万ドルもの大金を
得た。しかし、コデイ ば結局すべてを失うことになった。コデイ と言う町を建
設するコストで、彼の資金が枯渇したのだ。計画のずさんな鉱山への投資に失
敗すると、彼の借金はさらに増えた。
 コデイ はまだショーをやっていた、しかし、ショーは数年間ゆっくりとした
ものだった。デンバーポストの共同経営者であるハリー・H・タメンに対する
巨額の借金は、コデイ の運命を決定し、彼のショーは徐々に終わって行った。
彼は中途半端なタメンのサーカスの従業員にされたからだ。ついに、タメンを
撃つと脅して、コデイ は借金を帳消しにするように宿敵のタメンを説得した。
 しかし、カムバックには遅すぎた。彼が西部に戻って来てから、ポーツマス
でのあの最後の夜までショーを続けていたのだが、ひどい病気になっていた。
その日から、最終の病魔が彼を襲うまではもはや時間の問題だった。
 デンバー市民の多くがバッファロービルの葬儀に集まった。彼の死体は州議
会ビルの大広間に粛然として置かれた。そして、2万5千人以上の人々が彼の
葬送の行進が市街を進むのを見た。彼の古い友人であるテデイ ・ルーズベルト
はウッドロー・ウイルソン大統領とともに弔電を送った。
 死んだ後にも、コデイ は問題を抱えていた。彼は彼自身が創造したワイオミ
ングのコデイ と言う町に埋葬するように指示をしていた。しかし、彼の望みを
かなえるほどの十分な資金はなかった。コデイ の古くからの宿敵であるハリー
・タメンは介入して、バッファロー・ビルはデンバーの西にあるルックアウト
山の頂上に埋葬すべきであると表明した。
 彼の死から五ヶ月が経ってから、ほとんどお祭りのような雰囲気の中でコデ
イ は、ついに埋葬された。彼が望んでいた所ではなかったが、少なくとも彼が
愛した山の中で、しかも彼を慕う人々の中にであった。ワイルドウエストで多
くの人々を元気づけた男は、彼が逃げて来たその平和な場所で休んでいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/バッファロー・ビル
http://ja.wikipedia.org/wiki/アニー・オークレイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/シッティング・ブル

[2013年02月05日21時56分]
お名前: カーター
マザー・ジョーンズの労働運動(1913年)


 1913年の9月の天気のいい日に、83歳で怒りっぽいマリー・ハ
リス・ジョーンズ、コロラド州のトリニダードの駅に到着し列車から降
りて来た。彼女は、労働界では愛情を込めてマザー・ジョーンズとして
知られていたが、西バージニアの炭坑では告発者により、アメリカで最
も危険な女性だと言われていた。
 マザー・ジョーンズは、コロラド燃料鉄鋼会社に対してストライキを
計画している炭坑労働者の支援に応えるためにトリニダードに来た。同
社はジョン・D・ロックフェラーが指揮しており巨大な力を持つ組織で
あった。彼女が駅のプラットフォームを踏むと同時に、マザー・ジョー
ンズは町を立ち去るようにとの警告を受け始めた。
 彼女はワシントンD.C.のある友人に「ここでは、彼らは私にありとあ
らゆる脅しをかけて来ており、私の頭を引き寄せ十字棒をあごの下にあ
て、立ち去らないと私を捕まえると言うのだ。」と書いている。
 ジョーンズはコロラドの坑夫とその家族の生活や労働条件が信じられ
ないほど原始的で不健康であることを知った。しかし、このことは彼女
にとって驚くことではなかった。それは彼女の人生の大半が、労働運動
組合、そして個人の労働条件の改善、賃金の是正そして適正な労働時
間を求めて、大企業と戦うのを助けるzものであったからである。彼女は
数年前にコロラドに来た事があったが、それは鉱山労働者の組合の委員
長が労働条件の改善のために個人的に彼女に調査するように依頼した時
であった。
 その時の場合は、戒厳令が発令され、ストライキ参加者は逮捕され、
屋外の監獄に入れられた。そして、自由な演説や集会は州の市民軍の賛
同を得てのみ許可された。鉱山労働者の組合により発行されたポスター
には次のように書いてある。
 
  コロラドに戒厳令が発令された。コロラドでは人身保護条例は
  差し止めとなった。コロラドでは自由な報道は死んだ。コロラ
  ドの組合員は囲い場に閉じ込められた。コロラドでは自由な発
  言は否定された。コロラドでは兵士は裁判官に反抗する。コロ
  ラドでは正当な理由なしに大規模な逮捕者が出ている。コロラ
  ドでは組合員は家庭を離れ家族から引き離されている。コロラ
  ドでは兵役に服する憲法上の権利が疑問視されている。
    ・・・・・コロラドはアメリカなのか?

 現在、彼女は10年後に再びコロラドに来ていた。そして、どこから
見ても前回の訪問に比べてもほとんど良くなっていなかった。坑夫とそ
の家族の生活は同じようにひどい状態であるのがわかった。会社の売店
は、同じように食料品とその他の必需品に違法な価格をつけていた。そ
して彼女は、不潔な環境によりしばしば腸チフスなどの病気が発生して
いると聞いていた。
 マザー・ジョーンズがトリニダードに着いてから数日後に、コロラド
南部で坑夫らにより大規模なストライキが呼びかけられた。コロラド燃
料鉄鋼会社は保安官助手を集めて、その利益を守るためにストライキ参
加者をおどそうとした。ストライキの最初の週には、ジョーンズはすぐ
に彼女とその仲間達が困難に直面しているのがわかった。
 ロックフェラーの会社はマシンガンで武装した車を差し向け、フォー
ブスの町の近くにある坑夫達のキャンプへと進んで来た。ハーパーズ・
ウィークリーは何が起こったかを次のように書いている。

  車はキャンプからすぐ近いところに止まって、一人の男が白の
  ハンカチを取って棒の先に付け、真実の旗のようにしてストラ
  イキ参加者に近づいた。彼は近づいて彼らは組合員かと尋ね、
  本当だとわかると、彼は旗を投げ下ろし、一方へ飛び上がり「
  お前ら、注意しろ」と言った。その時、マシンガンが群衆に向
  かってぶっ放された。147個の弾丸がテント一つを突き通っ
  た。15歳の少年は足を9回撃たれ、ある坑夫は額を撃たれて
  殺された。これは、連続した事件の一つに過ぎなかった。

 ついに暴動を鎮めるために州兵はが投入されたが、市民軍にはコロラ
ド燃料鉄鋼会社と面と向かう意思はないことが明らかとなった。戒厳令
の下では状況は以前に比べて良くはならなかった。坑夫達とその家族は
まだ虐待されており、今になってようやく虐待は公的に認識された。
 州兵の司令官に「扇動家」と名付けられ、ジョーンズはついに尋問も
なく、彼女に対する嫌疑もなしに投獄された。彼女は独房からこっそり
手紙を出し、国中の新聞すべてがその内容を一ページに印刷した。その
手紙の一部は次の通りである。

  私は湿気の多い地下の監獄に独房の囚人として収監されている。
  私は公衆に向かって自分はアメリカ市民であると言いたい。
  そして、私は法令を犯さない限り自分の好きな所へ行くことがで
  きるアメリカ市民の権利が持っていると主張したい。私の収監で
  さえ、私が自由のために、また働く人々の権利のために戦うのを
  諦めさせることはできない。
  日の光を絶たれるのは楽しくはない、しかし私はしっかりと立た
  ねばならない。監獄にいることは、不名誉なことではないのだ。

 ジョーンズはついにコロラドを去るように仕向けられた。彼女は、直
接ワシントンD.C.に行き、大企業が坑夫達を非人道的に扱っていること
について証言した。しばらくの間、コロラドでの殺戮や虐待は続いた。
連邦政府が最終的に暴動を鎮めるために軍隊を送った時に、ジョーンズ
はデンバーに戻り、大群衆に向かって「ワシントンは目覚めた。援軍が
来ている。」と宣言した。
 ジョーンズは1930年に103歳で亡くなったが、それは労働者が
組合を設立する権利を許される連邦法が成立する前であった。その法案
は遅ればせながらも、60年間アメリカの労働者のために必死になって
戦った女性への賛辞であった。彼女は何千人もの労働者階級の男女によ
り愛され尊敬された。その内の一人は、彼の指導者の死を深く悲しんで
次のように書いている。

  今日、世界は悲しんでいる。
  マザー・ジョーンズの死、
  嘆きや悲しみは
  坑夫達の家々の上を舞う。
  この年老いて偉大な労働者階級の勝者は
  より良き国へと旅立った。
  しかし勤勉な坑夫達は、彼女の導きの手が
  ないのを寂しく思う。

[2013年01月31日22時25分]
お名前: カーター
ジェシー・ジェイムスの遺産(1892年)

 
 ボブ・フォード(正式にはRobert Ford)は疲れていた。彼は30歳に
なったばかりなのだが、実際にはもっと年老いているように見えた。彼が
ジェシー・ジェイムスを撃ち殺してから十年間、彼はいつも移動していた。
どこへ行っても人々は彼をあざけり、彼の名前を呼んだ。彼にはそれが理
解できなかった。彼は国のために悪名高い無法者を殺したと思ったのだが
彼はいつも怒った市民にいじめられたのだ。市民は、ジェシー・ジェイム
スにまつわる伝説と悲哀を愛したのだ。彼らの英雄がいなくなった現在、
彼らはフォードが悩みの種になっていたのだ。荒れた鉱山の町であるこの
コロラド州のクリードで、彼はしばしの平和と静けさを得ることができた
のだ。
 フォードはクリードに酒場を開いた。そしてしばらくの間は、成功した
かのように見えた。妻のドルはかつて合唱団員であり、フォードは男前で
あったが、二人は数々の事業、つまりニューメキシコ州ラス・ヴェガスの
酒場の事業、またP.T.バーナムの見世物小屋の仕事(彼はそこでジェ
シー・ジェイムス殺害についての話を自慢して話した)に失敗して、その
後大きな町へ引っ越した。 
 フォードはしばしばジェイムス殺害を決めた10年前のある日のことを
じっくり考えた。フォードはミズーリ州知事のトーマス・T・クリテンデ
ンと、無法者を捕らえるか殺すために鉄道会社が出した1万ドルの報酬で
取引をした。ジェイムスはその時セント・ジョセフの家に住んでいた。フ
ォードはジェイムス強盗団の子分であったが、次の強盗の計画が立てられ
ていたので、簡単にジェイムスのところを訪れることができた。
 1882年4月3日の朝8時頃、ジェイムスは居間の椅子の上に立って
南軍のストーンウオール・ジャクソン(Thomas Jonathan Jackson,頑強な
抵抗で「石の壁」と言われた)の肖像画の位置を正そうとしていたか、ご
みを取ろうとしていたか、どちらの説明が信じられるかによる。4フィー
ト離れたところから、フォードは無法者の背中を数回撃った。後に彼は、
ピストルを事故で撃ってしまったと主張した。しかし、それでも彼はクリ
テンデン知事に「私がジェシー・ジェイムスを殺した」と電報を打った。
 セント・ジョセフの人々は、他人(無法者であろうがなかろうが)の背
後から迫って、背中を真後ろから撃つ権利は誰にもないと信じていた。保
安官はフォードを殺人の罪で逮捕した。陪審員はすぐに彼に有罪を宣告し
たが、知事は直ちに彼を放免した。社会ののけ者となったフォードはすぐ
にミズーリを立ち去った。
 その狙撃のニュースは、全アメリカの新聞の一面を飾った。カンザス・
シティ・デイリー・ジャーナルは、「グッドバイ、ジェシー」の見出しで
その事件について一ページの記事を乗せた。
 
  悪名高い無法者で強盗のジェシー・ジェイムスが、レイ郡の
  21才の若いR.フォードによりセント・ジョセフで殺害さ
  れた。殺人兵器が使用されたことは、犠牲者により殺害者に
  対して示されたが(弾が見つかったためか?)、昨夜プラッ
  ト市の銀行強盗が企てられてからしばらくであった。ジェシ
  ーはカンザス市に数年間いて大きな通りに住んでいた。カン
  ザス市民はそのニュースを聞いて興奮し、人々は死んだ男の
  一生について話し合った。

 競争で、カンザス・シティ・デイリータイムズは克明な記事を載せてお
り、その一部は次の通りである。
 
  今朝早くから、男、女、そして子供からなら数百人の人々が
  葬儀屋の建物に向かって進み始めたが、そこでは無法者の死
  体が冷蔵庫の中に収められていた。有名な列車泥棒を人目見
  ようと、また9時には群集で埋め尽くされたのでドアは閉め
  られ、人の流れを整理するために警察の機動隊が呼ばれた。
  この時ほど、あらゆる層の人々の病的な好奇心がはっきりと
  示されたことはなかった。そして、ある人がこう言った。「
  人々はすべてあの悪魔を見るために同じ道をやって来た。」

 確かにフォードはしばしば遠い昔のことを思ったが、彼がしたことで人
々がまだ彼を軽蔑していることを決して忘れることはなかった。1892
年のある日、元警官のエドワード・ケリーはクリードのフォードの酒場に
ぶらっと入って来て、彼を嘘つきだと言った。数週間前に彼とケリーがプ
エブロのホテルに相部屋で泊まった時に、ケリーがフォードのダイヤの指
輪を盗んだと言う噂をフォードが町中に広めていると聞いたとケリーは詳
しく話した。二人の男はつかみ合い、フォードはケリーを酒場から投げ出
した。
 ケリーは暴力的に怒りっぽいことで知られていた。たった一年前にも、
彼はプエブロのライリーと言う黒人を殺したが、それはその男はかわいそ
うなことに不注意にケリーの足を踏んだからであった。ケリーはまたミズ
ーリに住んでいた昔にジェイムスの家族と親しい間柄であったと思ってい
た。動機が何であれ、ケリーはすぐに散弾銃を持ってフォードの酒場に戻
って来て、そこの主人(フォード)を撃ち殺した。
 ケリーは殺人のかどで逮捕され、有罪とされ、判決が下されキャノン市
のコロラド刑務所に送られた。高い地位にある友人のお陰で、彼は190
2年に仮出所となった。二年後に、ケリーは自分の短気のために打ち負か
され、オクラホマ市の警官との戦いで死んだ。

(ジェシー・ジェームスについてはブラッド・ピットが演じており下記の
映画がある。)

http://www.youtube.com/watch?v=AfOyL35ULGg
 
 ジェシー・ジェイムスについては下記を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA

 ボブ・フォードについては下記を参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Ford_(outlaw)

 コロラド州クリードについては下記を参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/Creede,_Colorado

[2012年03月24日14時17分]
お名前: カーター
ウェザリル兄弟とメサ・ヴェルデ(1887年)


 ベンジャミン・アルフレッド(アル)・ウェザリルは、彼の死後の1977
年に出版された自叙伝で、「いつカウボーイをやめて考古学者になったかは覚
えていない」と述べている。彼はいつもインディアンの伝説や様々な工芸品に
興味を示したが、それは現在メサ・ヴェルデ国立公園となっている険しい峡谷
を通って家畜を集めている時に見つけたものだ。そして、彼とその弟はしばし
ば土地のインディアンが語る話を聞いたが、それは同じ峡谷の高い断崖にまだ
存在している多くの失われた都市についてだった。しかし、そんなことに彼は
大いに興味を示したが、彼と弟は仕事をしなければならなかったし、古代のイ
ンディアンの村を探検するような時間の余裕はなかった。
 そうであっても、時々アルと弟はインディアンの隣人にその町について尋ね
た。ウェザリル兄弟は、いつも同じような答えを簡潔な言葉(実際には警告)
で聞いたのだ。つまり、その廃墟のどれかでも見たら二人は死ぬだろうと。さ
らに、その町の場所を白人に教えたらインディアン自身が死ぬことになるだろ
う。だから何年もウェザリル兄弟がメサ・ヴェルデの深い峡谷を通って牛を追
ったとしても伝説の断崖の住居を垣間見ることもなかった。
 アルの自叙伝である「メサ・ヴェルデのウェザリル兄弟」によれば、188
5年のある日、ウェザリル兄弟は峡谷の中を探検していた。

  峡谷に来て半マイルのところで、私が見上げるとせり出している断崖
  の下に、小さな廃墟となった都市のように見える所に巨大な洞窟が見
  えた。暗がりと静寂の中で、その巨大で青い丸天井は私の上に蜃気楼
  のようにのしかかっていた。輪郭は神々しく荘厳で息をのむほどであ
  った。私の心は上に行こうとしていたが、足が動かなかった。その時
  はすごく疲れていたので、後で詳細な調査をすればいいと思っていた。
  峡谷を降りて行くのは簡単であった。しかし、もし私が発見したもの
  の価値をわかっていたら、疲れを感じはしなかたであろう。私が見過
  ごしたものがどれだけの考古学的価値があるかを知らなかったので、
  私の足はそこを通り過ぎるくらい弱くなっていた。

 アルは仲間の所に戻ってから、峡谷の床面で見つけた広大な廃墟につい
て彼らに話した。しかし、すでに遅くなっており皆は疲れていた。そして
みんなその夜は牧場の家に戻った。時間が経つとアルは彼が見たものを忘
れてしまった。
 アルはその時は彼が見たものがわからなかった。白人により初めて発見
されたものだが、それは有名なアナサジ族の住居であり、後にクリフ・パ
レス(断崖の宮殿)と呼ばれるものだった。ドミンゲス・エスカランテ探
検隊(2009年9月23日の書き込みを参照)が、1776年に広大な
廃墟のすぐ近くを通り過ぎたのだが、二人の牧師は探検の日誌にはその場
所について見たとは何も書いていなかった。そして、有名な写真家であっ
たウイリアム・ヘンリー・ジャクソンも、1874年にハイデン探検隊と
共にその近くへ行き、廃墟の近くを通った。

 それは1888年のことであった。アルの兄弟のリチャードと従兄弟の
チャールズ・メイソンがメサ・ヴェルデの峡谷を馬で通っていた時、クリ
フ・パレスは再度発見されたのだ。アルは次のように書いている。

  私が彼らに話したことを思い出して、彼らは広大な光景を見る準備が
  できていた。しかし、それから後は奇怪な光景は事実でないのではと
  言う感情が襲った。家畜は行ってしまったが、彼らの前に広がるミニ
  チュアの都市を見てから驚きは消えなかった。

 すぐに、ウェザリル兄弟とメイソンはクリフ・パレスに戻り、すばらし
い発見を調査した。広大な廃墟を探索して、アルはメサ・ヴェルデの断崖
住居の中でここが一番の奇観であるとした。丸天井は90フィートの高さ
で90フィートの深さ、そしておそらく前面は400フィートの幅で建設
されていた。
 連なった部屋の後ろには、洞窟の長さと同じ広い場所があって、そこは
あらゆるごみと埋葬物と陶器で満たされていた。建物の外装及び壁の構造
は驚くほどうまく作られていて、クリフ・パレスで際立った特徴を成して
いた。部屋は3階から4階建てとなっており、個々の部屋は平均で8フィ
ート四方があった。
 アルと家族は結局1902年にクリフ・パレスのある愛すべきメサ・ヴ
ェルデを去った。家畜の商売がだめになったので、彼はニューメキシコに
仕事を求めて引っ越す必要があったのだ。後に1908年のことだが、セ
オドア・ルーズベルト大統領が彼をニューメキシコ州ギャラップの郵便局
の局長に任命したので、その仕事を約8年間続けた。その後、彼はアーカ
ンザスに移り、そしてオクラホマで1950年に亡くなった。
 1906年の6月に米国内務省はメサ・ヴェルデを国立公園に指定した。
今日、年間に数千人の旅行客がこの公園を訪れ、ちょうどウェザリル兄弟
が何年も前にそうしたように息を止め、クリフ・パレスや他の廃墟の前に
恐る恐る立つのであった。

 (メサ・ヴェルデについては下記を参照。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87

[2012年03月17日10時43分]
お名前: カーター
ウーレイの遺産(1880年)


 ウーレイは高名なユート族の酋長で、1880年の63歳の時に慢性腎炎に
かかりしばらく苦しんでいた。彼の妻のチペタはそばにいて、穏やかな戦士に
別れを告げ、しばらくして彼は行ってしまった。彼は妻に最後の願いとして、
埋葬の場所は秘密にして欲しいと頼んだ。
 ある専門家はウーレイは1820年頃にコロラドに生まれたと信じているが
他の専門家はニューメキシコのタオスで生まれ、また父親はユート族であった
が、母親はジャカリラ・アパッチであったと書いている。いずれにせよ、彼は
コロラドでユート族として育ち、1860年に酋長であった彼の父親が亡くな
った時に、父親の仕事を相続した。
(アパッチには種類が多く、ジャカリアはJacarillaと書き、下記のサイトに
は「ヒカリヤはニューメキシコ州とコロラド州」と書かれてあり、ヒカリヤは
スペイン語の発音であると考えられる。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%81%E6%97%8F

 ウーレイが彼の部族のナンバーワンの地位を得たのはいい選択であった。彼
は英語、スペイン語を流暢に話し、もちろんユート語も話した。彼は白人と同
じように生活する方を選び、彼と妻はかなり大きい牧場を持ち、馬、家畜、そ
して農場労働者がそろっていた。ウーレイはかつて白人が彼の土地へ来た時に
は仲たがいなったことあったが、白人を受け入れるべきと言う事実を認め、彼
と和解することになった。生き延びるために、酋長は侵入者と運命を共にし、
彼の仲間を白人の生活様式に変えようと勤めた。
 ウーレイが酋長の役を引き受けた時には、彼の仲間達はコロラド西部とユタ
東部かなりの部分に広がって住んでいた。ユートはショーショニアングループ
の分派であり、パユート、バノックそしてショーショネ族とも親戚であった。
ユート族はウーレイが酋長でいた時は白人とも普段は平和にやっていたが、い
つもそのような状況ではなかった。
(ショーショニアンとは、ユート・アズテク語を話す分派でショショーネ、コ
マンチ、ユート、パユートそしてホピである。)
 1854年のクリスマスの日、ユート族の一団が数人のアパッチを伴って、
後にプエブロと呼ばれることになるコロラドの居留地を襲撃した。インディア
ンは数人の白人を殺し、家畜をすべて盗み、二人の女性を捕虜にした後、今日
アラモサと言われている居留地の近くを攻撃した。ニューメキシコのフォート
・ユニオンの兵隊と志願兵の支援を受けて、1855年の春に無法者のインデ
ィアンをコロラド南部で追跡した。四月末に、兵隊はユート族の戦士の二つの
グループを攻撃し、完全に彼らを打ち負かした。打ちのめされたインディアン
は講和を求めた。
 何年も混乱や衝突をもたらす条約が、コロラド州とユタ州のかなり広い保留
地をユート族のために守って来た。しかし、多くの部族の伝統は大草原でのバ
ッファローの狩猟文化から始まっていた。ウーレイは白人のやり方を素早く採
用したが、彼の多くの身内は単に政府の代理人を満足させるために農民になる
ことを断固として拒否した。
 前章に述べた悲しい出来事は、もしウーレイがいたら避けられたかもしれな
い。結局、ある歴史家が書いているように、ウーレイは「とりわけ、白人に対
して常に忠実であり、つらい時でもできるだけその利益を守ると言う白人との
ゆるがない友情で有名であった。」
 しかし、ミーカーの虐殺の際にはウーレイは事務所にいなくて、彼が普段は
部族に対して強い影響力を持っていたが、彼がいない時にはその悲劇を避ける
ためには十分でなかった。それでも、彼は戻って来ると素早く騒動を鎮めよう
とした。その歴史家は続けている。
 
  代表のN.C.ミーカーらが殺され、事務所の女性が捕虜となった時
  に、彼の確固とした立場とその仲間に強いた抑制により、1879年
  9月のユート事件が広がるのを確かに防ぐことができた。ウーレイは
  事件の勃発について聞くと、すぐに敵意を抑えるように命令した。
  もし兵隊が自制していたなら、ミーカーが難癖をつけた敵意がさらな
  る怒りをもたらすことはなかったであろう。

 ホワイト川で起こった反乱を鎮める努力をしたことで、ウーレイ酋長は慈悲
深いアメリカ政府から千ドルの年金を授与された。平和を成し遂げた酋長は、
不幸にも事件から一年も経たない内になくなった。
 ウーレイに忠実だった妻は約束を守り夫を秘密の場所に埋葬したが、そこは
1924年まで明らかにされなかった。その埋葬場所はユート保留地にあるイ
グナチオの南であったと現在は知られている。1925年に酋長の死体はモン
トローズに移された。
 ウーレイはどんな時でも便りにできる男であった。白人がユートにより所有
されている広大は部族の土地を我が物顔で見た時、またユート族が素早く現実
あるいは想定される悪事に対して報復した時には、混乱の中でウーレイの声は
しっかりしていた。彼の分別のあるリーダーシップは、インディアンと白人の
双方の数多の命を疑いなく救ったのだ。
 ウーレイは現在デンバーの州議会議事堂のドームのステンドグラスの肖像画
に見ることができる。(ウーレイのステンドグラスの写真は下記参照)

http://travelphotobase.com/s/CODC.HTM
 
[2012年03月10日14時14分]
お名前: カーター
 先の書き込みのユート族の事件では、グリーリーと言うコロラド州の北部の
都市の名前が出て来ました。この都市は農業専門家のネイサン・ミーカーが以
前勤めていた、ニューヨーク・トリビューンの編集長であったホラス・グリー
リーの名前を取って命名されたものです。その辺の事情は下記にグリーリー市
の説明にミーカーの名前とともに紹介されています。

http://en.wikipedia.org/wiki/Greeley,_Colorado
http://en.wikipedia.org/wiki/Horace_Greeley

 私は1995年頃から2000年頃まで頻繁にこのグリーリー市を訪れアメ
リカの大手IT企業のH*社と仕事をしておりましたので、今回のユート族と
ミーカーの話は興味深く読むことができました。2000年にITバブルがは
じけてからはH*社もサプライヤーとのウェットな関係を見直す方向に変わっ
たためグリーリーを訪問することはなくなりました。
 その代わり、2004年頃からは別の仕事で再びコロラド州のデンバーに年
に一回は行けるようになり、2009年に"It happened in Colorado"と言う
本を客からもらい翻訳を始めた次第です。デンバーという町は西部の中核的な
都市であり、北方のワイオミング州のシャイアンに行く時にもデンバーの空港
で降りて、エアポートエクスプレスと言うバスに乗って行きます。
 1994年に初めてH*社のグリーリーの工場へ行った時には、まだこの工
場でハードディスクやスキャナーが生産されていましたが、その後しばらくし
て、工場はシンガポールに移管され、さらに数年後にはマレーシアに移管され
ました。現在、H*グリーリーの工場をネットで検索すると、Long Empty
Buildingなどと出て来ます。工場は閉鎖され、となりのFort Collinsの工場に
集約されたように見えます。とてもさびしい気持ちです。
 デンバーにはビールで有名なクアーズの工場があり、現地で飲むクアーズの
ビールはとてもおいしいです。昔、日本で売られていたクアーズのビールは輸
送に時間がかかり、鮮度が落ちていたのでおいしくなかったのです。また、地
ビールの工場がたくさんあり、町にたくさんあるパブでは、様々な種類の地ビ
ール(エールもある)を飲むことができる楽しいところです。日本人観光客は
せいぜいカリフォルニアからネバダのグランドキャニオンくらいまでしか来ま
せんが、アメリカの西部やインディアンに興味のある人にとってはデンバーは
興味深い町です。(コロラド州観光局のサイトは下記です。)

http://www.visitcolorado.jp/

[2012年03月04日23時10分]
お名前: カーター
ユート族事件(1879年)

 アルヴィラ・ミーカーはコロラド州北東部のホワイト河の政府機関の代表の妻
であったが、1879年の秋になると不安がつのった。彼女の夫に対するインデ
ィアンの態度は寒気がするのであったが、彼女はその問題を指摘することができ
なかった。
 ネイサン・C・ミーカーはホワイト川にあるユートインディアン保留地の担当
者であったが、控えめに言ってもその仕事を選んだのはまずかった。年をとって
いた上、極めて理想主義で、夢想家の心を持っていたミーカーは、ほんの数年前
に希望を持って夢想家の仲間を率いてコロラド州のグリーリーの町へ移住して来
たのだ。ホラス・グリーリーのニューヨーク・トリビューンの元農業部門の編集
長であった、ミーカーは荒れて乾燥したグリーリーの平原を農民の楽園に変える
ため、いっしょに連れて来た寄せ集めの農民に灌漑の考え方を伝えようとした。
(ミーカーの写真は下記)

http://en.wikipedia.org/wiki/Nathan_Meeker

 彼のプロジェクトは根気強くやり数年間はうまいっていたが、ミーカーの信奉
者は時には疑うことがあった。大平原を横切る長い旅を始めていくらもたたない
内に、「ここにいる人達は何者なのか?」と彼の仲間の一人が尋ねた。そして「
砂漠の中に楽園を築くような、空しい希望を持った年寄りの夢想家のリーダーの
元に、なぜみんなが集まっているのか?」
 ミーカーがグリーリープロジェクトで忙しかった時に、州の西部にあるコロラ
ド河に沿ったユート族の新しい保留地で銀が発見された。すぐに、試掘者や坑夫
たちがインデアンに土地から再び出て行くように圧力をかけた。今度は、現在オ
クラホマと言われているインデアン特別保護区であった。この時にミーカーは、
論争に巻き込まれることとなった。
(オクラホマ州は当初は全米のインディアン部族のほとんどを強制移住させる目
的で作られた州である。1907年に廃止。)
 ミーカーは農業に関する経験が十分で、インディアンが農業を受け入れること
がその問題に対する答えになると信じていた。新しく任命された代表(ミーカー
)は、ユート族の狩猟の伝統に全く共感を覚えず、虐待されながらも誇り高い人
々(ユート族)を農業経済に組み込もうと活動を始めたのだ。
 この理想主義のシナリオは、ただ一つの問題で損なわれた。ユート族は、農業
には全然興味がなかったのだ。1879年の9月に、ミーカーが地元のユート族
にユート族の馬がたくさんいて草を食べている草地を、鋤で耕すように言った時
に「さいはユート族に向かって投げられた。」(サイが投げられたとは、カエサ
ルがルビコン川を渡ったときの言葉とされる。)苦々しく思ったミーカーは、勇
敢で偉いメディスン・マン(病気を治す超能力を持っているとされる)に「馬は
たくさんいるので、何頭かは殺した方がいい。」と言った。そのインディアンは
ミーカーに事務所のビルのドアを投げつけ、怒って立ち去った。
ミーカーはその事件を当局に報告し、その事件は軍の首脳にホワイト河の安全
のために軍隊を派遣する口実を与えることになった。トーマス・T・ソーンバー
グ将軍と175人の歩兵、騎兵の合同部隊はワイオミングに近いフレッド・ステ
ィールの砦を9月中旬に出発した。ソーンバーグの騎兵が素早く反応し迫り来て
いることにユート族はびっくりした。彼らは強制的に保留地を立ち退かされ、イ
ンディアン特別保護区へと追い出されると思ったのだ。しかし、彼らは戦いなく
して移動はできないと決定したのだ。
 ミーカーはトラブルが手に負えなくなるのを恐れて、彼は馬に乗って出かけ兵
を止め、ソーンバーグに相談のために事務所へ来るように頼んだ。ソーンバーグ
が120人の部下とともに保留地を横切ろうとした時に、彼はジャック酋長に率
いられて怒ったユート族に道を塞がれているのに気がついた。銃口が開かれ、ミ
ルク川の戦いが始まった。ソーンバーグはすぐに殺されたが、副司令官のJ.ス
コット・ペイン隊長は混乱した兵士たちを川の向こう側に再び集めた。
 時が経つと、ユート族は兵士の馬を撃ち殺した。ユート族は小規模の分隊を包
囲して、飢餓が徐々に兵士の士気が落ちるのを待った。包囲は一週間近くも続い
たが隊長は救援を求めて、何とか二人の伝令を戦線を抜けて送ることができた。
第九騎兵隊が救援に来て、しばらくして大隊が到着した。犠牲者を数えると、6
1人の兵士が死傷したことがわかった。
 兵士達がその数日後に事務所に到着した時に、ユート族がそこを攻撃したのが
わかった。ネイサン・ミーカーと九人の事務員は殺されていた。ミーカー夫人、
娘のジョセフィーヌ、プライス夫人とその二人の子供は捕虜となった。23日後
に女性と子供は解放された。ジョセフィーヌ・ミーカーは急いでその事件に関す
る本を出版した。フィラデルフィアの出版社が発行したのは、1879年後半の
彼女の苦しい体験の本であった。
 ユート事件は、しばしばミーカー殺人事件とも言われるが、コロラド州北西部
のユート族の命を縮める元となった。インディンを保留地から追い出そうとする
風潮が強まって、実際にそうなってしまった。様々なユート族がコロラド州の南
西部とユタ州に移住させられた。
 ユート族の不当な仕打ちについて、すべての責任がネイサン・ミーカーにある
わけではない。しかし、彼がインディアンの生活様式や伝統に無知であったため
双方の人々の間にひどい誤解が長く続くこととなった。ユート族の元代理人のチ
ャールズ・アダムズは次のように書いている。
 
  私にはミーカーがあのインディアンを理解したいたとは思えない。彼は
  偉大な農業の専門家であり、インディアンが農業を受け入れ、働かせる
  ことで成功できると信じていた。しかし、インディアンに即座にその種
  の労働を強制することは、ほとんど不可能であることを理解できなかっ
  たのだ。

 ネイサン・ミーカーは彼の間違いのために高い犠牲を払うことになった。彼の
妻と娘は捕虜にされ、多くのアメリカ兵が殺された。ユート族も苦しんだ。ユー
ト族は、戦闘で多くの戦士を失ったばかりでなく、その殺戮の死亡者の家族に膨
大な年金も支払わねばならなかった。そして、彼らは自身の故郷の最後の土地を
永久に失うことなったのだ。
 
[2012年03月04日13時42分]
お名前: カーター
ディック・ウートンおじさんの有料道路(1878年)


 リチャード・レイシー・ウートンは山男で、商人であり、牧場主であり
またインディアンとの戦闘員であったが、開拓時代の西部で40年以上も
過ごした後に、新しい仕事に乗り出そうとしていた。バージニア出身の彼
は、背が6フィート(180cm)で体重が220ポンド(約99kgs)
もあったが、現在は62才であった。そして、西部開拓のために最後の貢
献をしたいとして、彼はラトン峠を横切りコロラドとニューメキシコをつ
なぐ道路を建設することを決めた。(ラトン峠は下記を参照)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E5%B3%A0

 ウートンが改善しようとした峠を横切る道路は、サンタフェ街道の山の
分岐点の一部であった。街道のこの特別な部分は、1821年以来ミズー
リとニューメキシコの商人により使用されて来たが、特に荷馬車に乗って
いる旅人にとってはいつも難所であった。勾配がきつく高い絶壁があり、
石がころがっていてとても通りにくい道であったからだ。サンタフェ街道
にもう一つシマロンの近道が開かれたのは、実際、荷馬車でラトン峠を通
り抜けるのがむつかしいことが主な理由であった。

 ウートンは友人や知人から、親しみを込めてディックおじさんと呼ばれ
たが、1866年にトリニダードの近くのラトン峠のコロラド側の基地へ
移動した。ハワード・ルイス・コナードによる、彼の伝記「ディック・ウ
ートンおじさん」では、ウートンはラトン峠を横切る道路を建設する理由
を述べている。

  私はしばしば山に出かけ、実際に山に長い間住んでいたので、コ
  ロラドとニューメキシコに至るほとんどの道を知っていた。そし
  て、どのように移動すればどの方向へ行けるかを良く理解してい
  た。私はラトン峠が自然の幹線道路であり、すでに存在する居留
  地をつなぎ、コロラドの南東部とニューメキシコ北東部に出現す
  るであろう他の居留地との幹線道路となることを知っていた。バ
  ーローとサンダーソンはサンタフェ駅馬車会社のオーナーであっ
  たが、すでに重要な地点となっていたトリニダードを通り抜ける
  ためにルートを変更したいと思っており、そして運送業者もこの
  道を通りたいと思っていた。峠をどうやって通るかが彼らすべて
  にとって問題であった。
  (トリニダードとラトン峠の位置は下記を参照。)

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1d/Santa_Fe_Trail_and_Railroad_map%2C_1922.jpg

 周辺の山を探索して見ると、ウートンは状況は数年前に記憶したものと
全く同じであると理解した。彼はその頃、この地域で何度もわなをかけた
り商売のためにしばしば訪れていた。「街道は決められたように通さな
ければならない。本当だ。」彼は、コナードに言った。「しかし、いつで
も通れるのは動物の群れか鞍をつけた馬であり、そして冬季には荷馬車及
び駅馬車は全く通ることができなかった。
 ウートンは道路を作るための許可をコロラドとニューメキシコの双方の
州政府に申請した。すべてが承認されて後に、彼はとてつもない仕事を始
めた。
(1861年にカンザスは州に昇格し、コロラドは準州となっている。)

  誓って言うが、私は楽な仕事を引き受けたのではない。刻まなければ
  ならない山腹があり、吹き飛ばして取り除くべき岩があり、また切り
  通しには橋をかけなければならない。私は道路を作った。それもいい
  ものをだ。私の27マイル(約43キロ)の有料道路は国際的な幹線
  道路となった。

 道路の設計と建設にかかる費用を回収するために、ディックおじさんは
旅行者に通行料金を課した。この考え方はすぐに問題となった。良く整備
され橋のかかった道路を、無料で通りたいと言うたくさんの人たちをどの
ように扱うかということであった。彼らは牛が普通に通る道と同じように
通りたかったのだ。
 ウートンは、想定される客を五つの範疇に分類した。すなわち、駅馬車
の会社とその従業員、運送業者、軍隊、メキシコ人、そしてインデアンで
あった。彼は賢明にもインデアンには課金しなかった。そして、駅馬車や
兵隊、運送業者などとはうまくやった。しかし、彼は嘆いた。
 
  メキシコ人の客とはうまくやっていけなかった。どんな道路でも通る
  権利に対してお金を払うことに、彼らは全く慣れていなかった。彼ら
  は快くそれに慣れることはなかった。彼らは私の道路を歓迎し、楽し
  んだのは料金ゲートの前までであった。

 しかし、ウートンは、時にはお世辞でまた、時には・・けんか腰で問題
を解決しやり抜いた。そして、ビジネスはうまく行っていた。ウートンは
1866年から1878年にかけての12年間で7000ドルの収入を得
ていた。
(1876年にコロラドは州に昇格し、アメリカ独立からちょうど100
年にあたるため、「100周年の州」と呼ばれる。)
 1878年までには鉄道はコロラドの中部まで来ていた。二つの強大な
会社であるアチソン・トピカ・サンタフェ鉄道 (AT&SF)とデンバー・リオ
グランデ鉄道 (D&RG) は、ディックおじさんのラトン峠の有料道路を彼ら
自身の鉄道にうってつけのルートだと考えていた。ウートンは AT&SFの方
が好きだったが、それは AT&SFがトリニダードを通るルートの鉄道を計画
していたからだ。 D&RG はその町を迂回しようとしていた。ウートンの援
助で AT&SFの技術者は彼らの最初のルートを決め、彼らの会社はコロラド
とニューメキシコを結ぶラトン峠に鉄道を敷くコンテストに勝つことがで
きた。
 ウートンは鉄道が開通してから有料道路の仕事をやめた。彼の業績の見
返りに、AT&SF はディックおじさんと家族に生涯使える鉄道の乗車券を与
えた。また、ウートンとその妻、そして病弱な娘に生涯にわたる年金を与
えた。ウートンの料金所にあった家は1888年に焼けた。しかし、彼と
家族は1891年までその敷地に立てた山小屋に住んだが、その後トリニ
ダードに引っ越した。
 ウートンは1893年8月21日に亡くなり、トリニダードのカトリッ
クの墓地に埋葬された。彼がベンツ・フォートに57年前に着いてから、
ウートンはコロラドを、山男、インデアンとサンタフェの商売人しか訪れ
ることのなかった広大な荒野から、鉄道、電気、電話の整備されて近代的
な合衆国政府の州に変えたのだ。(ベンツ・フォートについては、200
9年12月30日の「ベンツフォートの建設」を参照。ラトン峠の家、ウ
ートン本人、道路などのイメージは下記を参照。)

http://www.sangres.com/history/uncledick.htm

[2012年02月26日22時54分]
お名前: カーター
レッドビル銀鉱の発見(1877年)


 ウイリアム・H・ステイーブンスは良く知られた試掘者であったが、デ
ンバー西方のロッキー山脈にあるカリフォルニア渓谷の周りを掘るのを最
後にしようと思っていた。ステイーブンスは、1860年に金が発見され
たのを知ったが、それはエイブ・リーが急いで渓谷の底の川床に貴金属を
見つけた時だった。しかし、その金は2年の後に消えうせていて、坑夫達
の小さな丸太小屋は金鉱地の周りに立てられていたが、実際にはこれまで
13年近くも荒れ果てていた。 
 ステイーブンスは露出した金を見つけることができなかったばかりか、
川の砂に混じった砂金を見つけることもできなかった。彼は川底を注意し
てあさるにつれ、川と渓谷に敷き詰められた黒い砂に興味を持った。少し
ばかりの砂を拾い上げ、彼はそれを地元の分析事務所へ持ち込んだところ
その砂は鉛の酸化物と銀の原石であることがわかった。ステイーブンスの
少量のサンプルは、2.5トンの銀を算出すると分析され、かなり豊かな
混合物の粗鉱に相当するものであった。
 ステイーブンスが発見したため、その地域に新たな殺到を引き起こした。
この時ばかりは近くの何千もの山に入った試掘者たちは、金ではなく銀を
探した。周辺の田舎は銀がいっぱいであった。一つの鉱山では24時間で
10万ドルの価値の金属を算出した。1877年に、レッドビルの町は絶
え間なくやって来る坑夫達を収容するために1万フィートの高地に建設さ
れた。彼らは財産を求めてあらゆる広さの山地を徹底的に調査した。18
80年までに、町の人口が2.5万人となり、アメリカで最も豊かな自治
体のうちの一つとなっていた。
 レッドビルは人口や富だけでなく、文化的また宗教的な制度においても
また急速に成長した。最盛期に、町は当時のすべてを宗派を代表する7つ
の教会を持つほどだった。三階建ての劇場はシェークスピア悲劇のような
オペラを催し、コミュニティの誇りであった。町の写真館は、ニューヨー
クのそれと比較された。すばらしいレストラン(ニューヨークの元デルモ
ニコのシェフにより管理されていた)を備えた二つのホテルは、当時の旅
行客やビジネス客でにぎわっていた。(レッドビルの概要及びニューヨー
クのDelmonicoは下記)

http://en.wikipedia.org/wiki/Leadville,_Colorado
http://www.delmonicosny.com/

 有名な人がたくさんレッドビルを訪れたが、その中にはアイルランド出
身の学者(作家)であるオスカー・ワイルドがいた。1882年に西部に
到着すると、ワイルドは講演の旅で町をいくつか訪問した。ワイルドの講
義の主題は耽美主義であり、辞書に感覚的に美しいものを追求すると定義
されている。レッドビルの多くの住民にとって興味のないものであった。
しかし、女々しいワイルドは歓迎され、彼の講演には参加者が多かった。
デンバーの知人が、レッドビルは「世界中で最も豊かであるが最も無法で、
また誰もが拳銃を持っている所だ」と警告したに拘らず、劇作家(ワイル
ドのこと。詩劇「サロメ」が有名)は、旅行を無事終え、しかも街道の町
の人たちに影響を与えたのであった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89

 ワイルドの文化的啓発に感謝するために、試掘者たちはそのアイルラン
ド人(ワイルドのこと)をマッチレスマイン(無比の鉱山の意味で鉱山の
町の名)の町の場末で食事をさせた。すでに朝の二時を過ぎていたのに、
また饗宴が終わる前に酒の瓶を数本飲んでいたのに、ワイルドは多くの試
掘者よりも外観は平静を保っていた。秘密の行為について尋ねられた時に
ワイルドは答えて、「山奥に来て私は夕食を頂いたが、最初のコースはウ
イスキーで、二番目のコースがウイスキーで、三番目もウイスキーだった。
言った。(マッチレスマインは下記。すでにゴーストタウン)

http://www.coloradopast.com/index.php?category=ghosttowns&subcategory=sawatch&selection=Matchless%20Mine

 大量の銀を数年間生産した後に、レッドビル周辺の鉱山はちょうど金鉱
が数年前にそうなったように、消えてなくなり始めた。しばらく、レッド
ビルは他のたくさんのロッキー山地の村のようにゴーストタウンになるよ
うに見えた。しかしその時ちょうどすべての希望がなくなった時に、銅と
亜鉛の価値が知られることになった。二つの金属はレッドビル周辺のロッ
キー山脈の鉱石に共通に含まれていたので、新しい進歩と富の時代が辛抱
強い小さな町の人々に開かれたのだった。
 1895年までレッドビルはその経済力と聞く耳を持つ人々にその景色
の良さをアピールしていた。地域の活性化のために町の創始者達は、広く
報道された冬の祭りの目玉として巨大な氷の宮殿を建設することを決定し
た。
 250人の職人が二ヶ月かけて猛烈に働きお城を建設した。20インチ
と30インチの縦横で測定された氷のブロックが近くの湖から切り出され、
建設される場所まで陸路を引っ張って来られた。ブロックが並んで置かれ
ると、それらには水が撒かれ、それが凍り個々のブロックは硬い氷の壁に
変わった。強化された壁は325フィートの長さとなり、宮殿の角には硬
い氷の塔ができ上がり、さらに小塔で完成された。内部には縦横190フ
ィートと80フィートのスケートリンクが出来上がった。しかし、すべて
には終わりがあった。1896年の6月中旬にはその氷の宮殿はちょうど
古き良きレッドビルの町のように溶け出したのだ。(氷の宮殿は下記)

http://www.legendsofamerica.com/co-icepalace.html

[2012年02月19日10時23分]
お名前: カーター
ラス・アニマスでのクレイ・アリソンの騒乱(1876年)

 クレイ・アリソンとその弟のジョンはコロラドの、ラス・アニマスと言
う小さな町ではかなり名を知られていた。クレイは数マイル南のニューメ
キシコ準州に牧場を持っていた。そして、その頃は人間の土地拡大が終わ
るフェンスで囲まれる前であり、彼はしばしば家畜に境界を歩かせ、コロ
ラドの南東の高原で放牧した。だから、アリソン兄弟が1876年の寒い
12月の日に、村の本通りにあるオリンピックダンスホールに歩いて来た
時には、ラス・アニマスの人たちは気にも留めなかった。
 アリソンの二人は生まれつき問題児であった。彼らは何度もオリンピッ
クに来ていたし、またその支配人は常連客には武器を持っているかの確認
を要求することを知っていたが、クレイとジョンは完全武装のままやすや
すとバーにやって来た。彼らは少し飲み、さらに飲んだが、まもなくその
兄弟は酔っ払い、言うまでもなく乱暴を働き、馬鹿騒ぎを始めた。他の客
は、兄弟がダンサーの足元を痛めつけたと主張し、みんなが彼らを邪魔者
扱いした。誰かが警官を呼んだ。
 ラス・アニマスの保安官のジョン・スピアーは別件で忙しかったので、
彼は副官のチャールズ・フェイバーを送り、アリソン兄弟の武器を取り上
げようとした。確かに彼らは酔っ払っていたが、保安官が認めているよう
に、彼らは以前にはトラブルを起こしたことはなかった。スピアーはフェ
イバーに、彼らはバーにいるが拳銃を取り上げ、町から彼らを連れて来い
と言った。
 フェイバーはアリソン兄弟の評判を良く知らなかったかもしれない。も
し、知っていればオリンピックでのあの日の状況を処理するのにもう少し
慎重であったかもしれない。やはり、クレイ・アリソンは特別にひどい酔
っ払いの常習犯であった。もし、副官がクレイがすでに数人を殺したこと
があるのを知っていなかったとしても、知らない事はアリソンの過失では
なかった。なぜなら、アリソンは聞く耳を持つ者には誰にでも自慢するの
が好きだったからだ。
 アリソン兄弟はテネシー出身だった。1841年に生まれ、クレイは成
人して南北戦争が始まると南軍に加わった。騎兵隊長のネイサン・ベッド
フォード・フォレスト将軍の司令の下に、アリソンはシャイローの戦いで
捕虜となったが、すぐに逃亡した。戦後、彼はテキサスに移住しチャール
ズ・グッドナイト(2011年6月9日にアップした「グッドナイト・ラ
ヴィング街道」を参照)とともにしばらく牛を追い、そしてニューメキシ
コに移住した。彼は南軍で病気療養中に、テネシーに戻った時に最初の男
を殺したと言われている。クレイは彼の母の農場を嗅ぎまわっていた北軍
の将校を見つけ出し、すぐに彼を射殺した。クレイはニューメキシコに着
くと、ケネデイーと言う投獄された殺人者を絞首刑にするのに先頭に立っ
た。アリソンはその狂乱の性分を示したが、それはケネデイーの頭を切り
地元の酒場で見世物にした時であった。1874年に彼はニューメキシコ
のクリフトン・ハウスで競馬をめぐって一人殺していた。また、1875
年には二度目のリンチに立会い、片田舎で犠牲者を喜んで引き回した。

 副官のフェイバーはオリンピックダンスホールに入り、無法の限りを尽
くしているアリソン兄弟のところまで歩き、彼らの拳銃を渡すように言っ
た。二人とも拒否した。フェイバーがバーを離れる時に、アリソン兄弟は
フェイバーが自分の代金を払うのを見て大笑いをした。
 しかし、フェイバーはあきらめていなかった。彼は通りを歩いてアメリ
カーナホテルまで行き、フロント係の隅の後ろにある10口径のショット
ガン(散弾銃)をつかんだ。ホテルのロビーに座っている二人の地元民を
見ると、彼らの方へ向かって状況を説明し二人に代理を務めさせた。その
三人の男は通りを戻ってオリンピックに入ったが、そこではアリソン兄弟
がまだ飲んでいて、他の客を恐れさせていた。
 フェイバーが先に入った。この時は彼はクレイとジョンに武器を捨てる
ようには言わなかった。彼はダンスフロアにいたジョンに、ショットガン
を向けただけだった。クレイはバーにいて背中をドアにあて、ぐるっと回
り同時に拳銃を引き出した。フェイバーの最初の一撃で散弾がジョンの胸
をはねると、クレイは保安官に4発撃ったが、1発が彼の胸にあたった。
フェイバーは二つ目の銃でジョンを撃つと、今後はジョンの足にあたった。
するとフェイバーは床にくずれ死んだ。クレイはドアに走り、代理で任命
された二人を撃ったが、素早く逃げたのでミスした。
 ジョンは医師のオフィスに担ぎ込まれ、彼は奇跡的に傷から回復した。
クレイはスピアー保安官に逮捕されたが、後に1万ドルの保釈金で解放さ
れた。口のうまいクレイは大陪審を、フェイバーを殺したのは正当防衛の
ためだったと説得した。そして、彼に対する訴訟は取り下げられた。
 ラス・アニマス事件の後、クレイ・アリソンは彼のニューメキシコの牧
場を去り西部を放浪した。彼はドッジ市を訪れ、カンザスのヘイズ市にし
ばらく住んだが、セントルイスに行き、最後にテキサスで落ち着いた。テ
キサスで1887年の7月に、彼はペコスで生活必需品を買っていたが、
馬車から落ちて前輪にあたって頭蓋骨を砕いた。そしてしばらくして彼は
死んだ。
 コロラドにはしばしば様々な評判の無法者がやって来たが、しかしクレ
イ・アリソンは疑いなく最も悪名高い者であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%B3
[2012年02月11日11時53分]
お名前: カーター
アルフレッド・パッカーの食人(1874年)

 アルフレッド・パッカーは、彼のこれまでにない寒さを感じた。
彼はコロラドのロッキー山脈の深い雪の中を手探りで進んで来て、そ
の日の朝早く5人の仲間を残して来た仮設のキャンプを探していたが
彼が真冬の旅をする決定をしたことのは問題であった。
 アルフレッド・パッカー(Alfred、元々はAlferdと綴る)はペンシ
ルバニアの出身であった。彼は南北戦争中の短期間、北軍の兵役につ
いたが、身体障害のために除隊した。それから彼は靴屋となり、多く
の店主や農民達とともに西部へ移住した。長い苦しい旅の後には、す
ばらしい富が得られると信じていたのだ。しかし、パッカーは鉱山の
キャンプをうろつき、あちこち試掘をして見たが幸運にはめぐりあわ
なかった。
 1873年の11月にパッカーと21人の男達は、ユタ州のビンガ
ム峡谷を後にして、東のコロラド州に向かって進んだ。1月の中旬に
はそのグループはユト族のオーレイ酋長の冬のキャンプに着いた。そ
こはモンローズ(コロラド州西部の町)に近いガニソン川に接してい
た。その人のいい酋長は、冬には強烈な雪の嵐が繰り返し吹きすさぶ
と警告して、パッカーとその仲間に酋長らといっしょに留まる様に説
得しようとした。しかし、数日間キャンプにいただけでパッカーとそ
の5人の仲間達は、コロラド州中部の豊かな金鉱を目指して旅を続け
る決定を行った。その男達は2月9日にオーレイとその仲間に別れを
告げた。
 
(ユト族の酋長のオーレイとユト族については下記を参照。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Chief_Ouray
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%88

 彼が思い出す限り、今パッカーはオーレイのキャンプから十日のと
ころにいたが、すでに食料はなくなっていた。彼の仲間は早朝から食
料を探しに行っていたが、食料がないので松脂や草のつぼみしか食べ
ていなかった。理由があって、オーレイの村に一人の男に七日間の食
料しか残していなかった。6人が食料不足になるのに時間の問題であ
った。そして四日目を過ぎると1パイント(1パイントは0.47リ
ットル(米))の小麦しか残っていなかった。この一週間は食料が極
端に少なくなっていた。
 パッカーが深い雪の中を食料を探して一日を無意味に終わろうとし
た時、野営地に入って来た時に、彼は彼の仲間達の一人を見つけた。

  焚き火のそばに座って、彼がドイツ人の肉屋の足を切って肉片を
  焼いていた。その死体は川下の焚き火のそばからさらに離れて横
  たわっていた。死体の頭蓋骨は斧で砕かれていた。他の三人は焚
  き火のそばに横たわっていた。彼らは斧で額を切られ、二つの切
  れ目があるのも三つの切れ目があるものもあった。私が焚き火の
  薪に近づいた時、その男は私を見て斧を私に向かって振り上げた
  ので、私が彼を横から腹を打つと、彼は顔から倒れ、斧は前に落
  ちた。私は斧をつかんで彼の頭の上を撃った。

 彼は自分が一人孤独であることがわかると、パッカーは粗末な小屋
を建て松の枝で覆い、仲間の死体を覆い、「火の近くにあった肉片を
キャンプに持って来た。肉を料理をして食べた。」
 その後毎日、パッカーは冬の地獄から脱出しようとしたが、「この
男達の肉で60日間生きて行くために、できなかった。」ついに雪が
溶けて、パッカーは山から出て来て、4月16日にロス・ピノスの役
所に到着した。彼は仲間の肉を食べることで凍りついた山の旅を生き
延びることができた。彼はその肉の一部をいっしょに持ち帰った。
 ロス・ピノスの当局は不思議に思って、パッカーに彼の仲間の五人
について尋ねた。そうこうするうちに、彼は仲間の肉を食べたことを
認めて彼らのキャンプの場所まで探検隊を案内した。五人の死体は埋
められていた。パッカーは逮捕され、サワッチ(コロラド南西部)の
近くで投獄された。彼は判決を受ける前に脱獄した。
 9年後にパッカーはワイオミングのフォート・フェターマンで逮捕
され、裁判のためにコロラドのレイクシティに連れて来られた。18
83年の4月に彼は仲間の食人の罪とされ、次の月に絞首刑とされる
判決が出た。怒った群衆はパッカーをリンチにかけようとしたので、
彼は安全確保のためにガニソンの監獄に移された。法的な細則のため
に彼は絞首刑執行人から3年以上遠ざけられていたが、その後彼は再
び判決を受けたが、今回はガニソンで行われた。二番目の陪審員は彼
を五人の食肉殺人で有罪とし、キャノン市のコロラド州の刑務所に4
0年間入れると言う判決がされた。
 パッカーは15年間服役し、1901年1月に知事のチャールズ・
トーマスが彼を許した。仮出所の取り決めで、パッカーはデンバーへ
移動しそこで少なくとも6年9ヶ月過ごす必要があった。その最終期
日がちょうど終わる前に、1907年の4月にパッカーは死に、リト
ルトンの墓地の近くに埋葬された。

 アルフレッド・パッカーについては下記を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

[2012年02月03日22時49分]
お名前: カーター
ロッキー山脈の放浪(1873年)

 1873年のある秋の凍るような寒い日にロングズ・ピークの頂上
に登るような男女のペアは、歴史上そうそういるものではないだろう。

http://en.wikipedia.org/wiki/Longs_Peak

 彼女は、イザベラ・バードと言うイギリスの未婚婦人であり、英国
国教会の牧師の娘であった。彼は、山男のジム・ヌーゲントと言い、
片目で、酒飲みのアイルランド人であり、古典を暗唱できるだけでな
く、狩りや探鉱もでき、またトラブルも起こした。
 イザベラはハワイ諸島から合衆国へ最近来たところであった。この
二箇所はともに、18ヶ月の世界旅行の目的地として計画されていた。
イザベラは、カリフォルニアからワイオミングのシャイアンへ行き、
そして南方のコロラドに向かい、エステス・パークを基地とした。彼
女はそこへ着くとすぐに山男のジムの小屋を見つけて、次のように書
いている。

  主人がやって来た。肩幅が広く、ずんぐりして中背で、古い帽子
  をかぶり、犬猟用の衣服を着て(それは衣服と言えたものではな
  く、ほとんどぼろぼろになっていた)、坑夫のスカーフを腰に巻
  きつけ、ベルトにナイフを付け、胸にはリボルバー(連発拳銃)
  を上着の胸のポケットに挿しており、彼の足はとても小さくむき
  出しであったが、馬の皮でできた古い革靴を履いていた。
  彼の顔は並外れていた。彼は45歳だったが、ものすごくハンサ
  ムであったに違いない。彼は大きな灰青色の目をして、彫りが深
  く、太い眉をして、鷲鼻とその口は格好良かった。
  彼の顔は、口髭以外はきれいに剃ってあり、皇帝のような・・・
  片目は全くなく、それは片方の顔を気持ち悪くしていたが、一方
  もう一つの方は大理石でも入れたようだった。彼はいわゆるなら
  ず者であった。

 42歳のイサベラは山男のジムにとてもひきつけられ、二人は友達
になった。彼女がロングズ・ピークの頂上に登りたいと言った時に、
彼女の仲間(ジム)は、一年の内ではもう遅すぎると言ってやめさせ
ようとした。しかし、ある日ジムは小走りで来て彼女に、一万五千フ
ィートの険しい山道をガイドしてもいいと言った。その山は五年前に
初登頂されただけであった。
 すべての準備ができた時、イザベラと山男のジム、そして二人の若
い仲間は、暖かくて安全なエステス・パークを後にして、ロングズ・
ピークへの旅を始めた。彼らはその日の晩、20℃の気候の山のふも
とに杭を打ってキャンプを張った。山男のジムは、その夜イギリス人
の仲間ができるだけ快適なように宿を準備した。後にイサベラは次の
ように書いている。

  彼の振る舞いは、普通の紳士に比較して確かに勇ましく気ままで
  あったが、問題とは思われなかった。彼は本質的には子供であり
  かつ文化的な人間であるとうなずけるのであった。そのならず者
  は全く法外であった。彼はとても礼儀正しく、また私に対して親
  切であった。その夜、私は彼の犬のリングと知り合いになった。
  コロラドで狩りが一番うまいと言われているのだ。まるで、人間
  に話しかけているような調子で彼の主人は私を指差して、「リン
  グ、その婦人のところへ行き、今晩もまた彼女をほっておくよう
  なことはするな・・・」リングは、私の後ろに座り私を暖めた。

 次の日の朝早く、小さなパーティはロングズ・ピークをアタックし
た。ゆっくり進んだ。ジムは、険しい坂のぐらつく岩の上ですべると
いけないので、彼とイザベラの間をロープで結んだ。空気は薄かった。
二人は息もつかず高く高く登って行った。イザベラは後に述べている
ように、ジムが実際に「私を引き上げる」時もあった。まだ、二人は
持ちこたえたのだ。最後の上り道で、イザベラは下を見て、後に「一
呼吸の間に、一度でも滑ると、人間は3000フィートの下に落ちて
しまう。血まみれになって、形はなくなっているだろう。」
 頂上の近くの特に切り立った場所で、登頂者達は500フィートを
一時間かけて歩いた。彼らはついに山を征服した。彼女はくたくたに
疲れ切って倒れそうであったが、イザベラはまだ次のようにコメント
している。

 頂上から見えたものは他に比べられるものがなかったが、上り道
  での景色すべては我々の目を楽しませてくれた。ロッキー山脈の
  このさびしい番人の嵐に引き裂かれた冠の上に立つことは、つい
  に意味あるものとなった。北米大陸の背骨の強い脊椎骨のところ
  であった。そして二つの海洋へ水が流れるのが見えるのであった。

 イザベラは、アメリカに5ヶ月滞在した。彼女は自分の経験を記事
にして1878年に"English weekly Leisure Hour"に発表した。その
話は妹への手紙という形で書かれていたが、"A Lady's Life in the
Rocky Mountains"(日本名『ロッキー山脈踏破行』 小野崎晶裕訳、
平凡社、1997年)と言う題名であった。
 イザベラはアメリカを去った後も世界旅行を続けた。さらに30年
間、彼女は広範に旅を続け、極東やインドで病院や医療伝道のための
大学を組織化する方法を模索した。1904年には、生涯にわたる冒
険と私心のない人道主義の追求の後に、長い病気の後に死亡した。
 山男のジムについては、イザベラは彼の酒ぐぜをやめさせようとし
たが無駄であった。「私は彼を見るとき、人間として感じたことのな
い憐れみを感じた。」と彼女は手紙に書いている。しかし、親切なこ
とにアイルランド人(ジムのこと)は、「遅すぎる。遅すぎる。心を
入れ替えるなんて。」そして、それは遅すぎた。コロラドを去った後
のちょうど数ヶ月で、イザベラはジムが銃撃戦で死んだと言う悲しい
知らせを受けたのだ。

訳注: イザベラ・バードについては下記を参照。「日本奥地紀行」、
  「朝鮮紀行」などがある。朝鮮紀行については、日本史ボードの
  「朝鮮の近代化と日本」のスレッドでバードの朝鮮についての見方
   を紹介した。   

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89


[2012年01月28日22時25分]
お名前: カーター
 ダイアモンドの詐欺(1872年)
 The Great Diamond Hoax - 1872 -

 1872年のあの夏の日にサンフランシスコのパウェルストリートに、頭を下げ
て舌を揺り動かした二人のみすぼらしい採掘者が坂道を降りて来た。その後、その
市は太平洋岸では大都市になる道を歩んでいた。きたない金堀りやドロの中をはい
つくばって銀を探したりのすべてが終わったと誰もが考えていた。カリフォルニア
は文明化され、ゴールドラッシュは遠い昔となった。
 しかし、パウェルストリートの歩行者には知られずに、このきたないぼろを来た
男達は金や銀の採掘者ではなかった。彼らは北米では全く見つかっていないものを
ずだ袋に入れていた。彼らがコロラドから持って来たものについてのニュースが、
サンフランシスコの金融街で広がると、暴動に近いものが起こった。
 それは博識のサンフランシスコ市民に衝撃を与えたが、コロラドの登山家にとっ
てはダイアモンドが、そうダイアモンドが彼ら自身の裏庭で見つかったとしてもお
そらく驚くことはなかったであろう。結局、彼らの土地で世紀の発見であるすばら
しい金が産出されなかったとしても、パイクスピークで始まったゴールドラッシュ
で1859年までに5万人以上の試掘者が引きつけられたことだろう。そして、ま
さにこの瞬間にロッキー山脈でかつてない額が取り出されたのは、金の姉妹金属で
ある銀ではなかったか?
 コロラドのダイアモンドの狂騒は1872年に始まり、二人とも元々ケンタッキ
ー出身であったフィリップ・アーノルドとジョン・スラックは、サンフランシス
コに着くとパウェルストリートから離れた銀行まで歩いた。その二人はこれまでこ
んなにすばらしい銀行を見たことがなかった。彼らはしばらくその場所を見て回っ
たが、同じように奇妙な視線が彼らにも向けられた。
 その男達はついに窓口まで歩き、重い汚れたずだ袋を目を見開いた出納係にむけ
て押した。彼らは出納係に町を見物している間に安全のためにずだ袋を預けたいと
告げた。出納係はマネージャーを呼び、預かる責任を引き受ける前に袋の中身を見
る必要があると説明した。
 年老いた採掘者の一人が閉じたずだ袋の口の革ひもをほどいた。注意深く底を
持ってバッグをひっぱり上げると、彼はその中身をカウンターの上に置いた。何百
ものカットされていないダイアモンドが出て来たが、大きさはマッチの先の部分ほ
ども大きくないものから25ドル金貨の大きさのものまであった。
 数分話し合った後に、採掘者達はダイアモンドをかき集めてずだ袋に戻した。そ
してまた、そのバッグを出納係に押し返すと、彼は今度は喜んで受取票を発行し
た。皆の目が彼らに注がれ彼らは何気なくビルを出て行き、パウェルストリートを
下りサンフランシスコの見物に出かけた。(サンフランシスコは坂の町)
 ダイアモンドのニュースが銀行で野火のように広まるのにそれほど時間はかから
なかった。数日の内にサンフランシスコの金融街の誰もが、かなりのダイアモンド
を持ってカリフォルニア銀行に怪しげに現れた二人の白髪の老人の話を聞いた。
 銀行員たちは、どん欲による好奇心から立派なダイアモンドがどこから来たのか
と考えた。採掘者が無邪気で単純なことから、銀行員らはダイアモンドの産地の場
所を知りたいと思うようになった。
 彼らは二人の採掘者に近づき、長時間にわたって頼み込み、ダイアモンド鉱山の
ある土地の場所を教えるように二人を説得した。銀行家たちは投機のために投資す
ることに興味を持っていた。銀行の代理人がすぐにダイアモンド産地を直接検査す
るためにコロラドに派遣された。採掘者達はその場所に近づいた時に彼に目隠しを
したが、そこはコロラドの北東部の高原にありワイオミングのブラック・バッツか
ら四日目のところにあった。思う存分探す様に許されていたので、その代理人はす
ぐにたくさんのルビーを含む証拠を見つけた。それは大きな価値を持つダイアモン
ドの産地を示していた。
 カリフォルニアに戻ってしばらくすると、現場からの代理人のすばらしい報告を
聞く事ができたが、銀行家達はニューヨークのテイファニーに鉱石の品質を確かめ
るように依頼することを決定した。その信用ある宝石商は、もしダイアモンドがた
くさんあれば、それは「王(インドの)の身代金(rajah's ransom)」ほどの価値
になるだろうと報告した。
 このいいニュースをすべて受け取ってすぐに、カリフォルニアのシンジケート
(企業連合)はす早く一千万ドルを投資し、サンフランシスコ・ニューヨーク鉱山
開発会社を組織した。二人の採掘者は惜しみながら60万ドルで彼らに権利を売っ
た。有名な鉱山技術者であるヘンリー・ジャニンは個人的にダイアモンドの産地を
検査し、確かであることを証明した後に、シンジケートは他のグループが行動に走
るのを止めようとした。ばか騒ぎが終わる前に25社以上が組織され、2億ドル以
上が提供された。すべてがコロラドのダイアモンド産地を開発する許可証を持って
いた。
 しばらくして、後にアメリカ地質調査所の支配人となるチャールズ・キングは、
ダイアモンドが発見されたとされる地域を一人で調査して、その場所にはこっそり
埋められていたと報告した。そこにはダイアモンドは、全く自然には存在しなかっ
た。さらに二人の採掘者のダイアモンドはを詳細に調査したところ、ダイアモンド
にはカッターの跡が残っていた。最後にロンドンからのリポートは、二人のケン
タッキーの男は前年にかなりの質の劣る鉱石を購入していたと明らかにした。
 アーノルドとスラックは完全にカリフォルニアの銀行家達をだました。何百万ド
ルが失われ、ダイアモンドは一つも発見できなかった。訴訟が起こったが、何がで
きると言うのか?投資家達は調査し、完全に正しいと考えて参加しようとしたので
あった。
 アーノルドとスラック以外は、詐欺にあってからは誰も笑うものはいなかった。
アーノルドは詐欺の利益でだまされた投資家と部分的に和解しようとした。しか
し、彼にはケンタッキーで十分安楽に暮らせる金が残っていた。そして1878年
に死んだ。もう一人のペテン師は、彼はニューメキシコに退き、棺桶の職人になっ
た。

[2011年07月31日15時21分]
お名前: カーター
 ビーチャー島の戦い(1868年)
 The Battle of Beecher Island

 ロマン・ノーズは困った男だった。彼は、遠くの銃の撃ち合い聞きながら、白人
との騎馬での戦闘に、すぐに行くべきか、または戦闘で彼を何度も救った魔法の薬
が届くまで少し待つべきかを議論していた。疲れ果てたたシャイアン族の彼の戦友
達が、列をなして、数マイルもの向こうから川を丘へと登って行くのを見るのは、
偉大な戦のリーダーにとっては息苦しいものだった。それは、その戦闘の音からわ
かったもので、彼の戦士達は弓と矢しか持たない者もいたが、白人の火器によって
繰り返し苦しめられていたからだ。(ロマン・ノーズについては下記を参照)

http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Nose

 ロマン・ノーズは、彼は鉄のフォークで触った食物を知らずに食べた時に薬をな
くしてしまった。今は、彼はそれをなくした事で動揺したばかりでなく、足下での
戦闘が広がりつつあることで当惑していた。どうやって、50人の白人の偵察隊と
平原の民(インデアンとの戦闘には経験があったし、フィリップ・シェリダン将軍
によって最高に勇敢な開拓者であるとかつて言われていた。)が、700人もの
シャイアン族、スー族やアラパホ族の戦士の連合体を避けることができたのだろう
か?
 ジョージ・A・フォーサイス少佐は、昔から平原に散らばっていた駐屯地をうろ
ついていた寄せ集めの市民から兵士を採用した。それぞれ月に50ドルそして馬を
自分で準備できる場合には75ドルだけを支払えばいいと考え、フォーサイスは
1868年の夏の終わりに乱暴なインデアンを追跡できる一流の戦闘部隊を集めた
が、かなりいい仕事ができたと考えていた。フォーサイスは彼の副官として、有名
な奴隷廃止論者の牧師であるヘンリー・ウオード・ビーチャーの甥であるフレデ
リック・H・ビーチャー中尉を選んだ。

 (ヘンリー・ウオード・ビーチャー: 牧師。女性の民権運動の支持者で奴隷制
に反対した。)名言集にも出て来る。

http://becom-net.com/wise/henri-.ulo-do.bi-tya-.shtml

 その部隊は1868年の8月29日にカンザスのヘイズ砦を後にした。9月16
日にはフォーサイスと部隊は、コロラド北東部のリパブリカン川のアリカラ分岐の
西岸にキャンプを張った。次の朝、フォーサイスが部下とその装備を検査していた
時に、インデアンの大軍団が彼らに襲いかかって来た。混乱の中ですぐに指令を発
して、少佐は部隊に小さな島に撤退するように命令した。そこでは彼らは砂浜に穴
を掘ることができた。その川はほとんど干上がっており、51人の兵士は馬と可能
な限りの装備を運び、川を時間内に渡りきった。
 
 兵士はスペンサー7連発カービン銃(騎乗用)とコルトパーカッション式6連発
回転式拳銃で武装していた。全員が170発の弾薬を装備していた。さらに4000
発が保管されていた。開拓民の最先端の武器による素早い銃弾により一時的には、
押し寄せるインデアンを驚かしたが、彼らは島を何度も攻撃して来た。一回目の急
襲でフォーサイス少佐は二度負傷した。数分後には三度目で彼は頭蓋骨を撃たれ、
次のようにつぶやいた。「誰も我々を助けに来ない。もし、神が助けてくれないな
ら、我々には何もない。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/スペンサー銃
http://ja.wikipedia.org/wiki/コルトM1848

 しばらくして、シャイアン族の野営地の後方にいたローマン・ノーズはもう待て
なかった。仲間の戦士たちは虐殺されているおり、キャンプに残っている数人の勇
者にたしなめられて、彼は自ら武装して馬に飛び降り、戦場に向かって大草原を急
いだ。到着すると、ローマン・ノーズは装備を整えた。ローマン・ノーズは白人の
防御地に近づくと、ある白人がライフルで撃ち、勇敢なシャイアン人(ローマン・
ノーズ)の尻の上の部分(腰)に命中した。ローマン・ノーズは馬から落ち、致命
傷を負っていた。すぐに、彼の友人が彼を運び去りローマン・ノーズは死んだ。
 フォーサイスは三度撃たれても屈しなかったのであるが、夕暮れにはビーチャー
中尉を含めて24名の兵士が死亡したか負傷しているのがわかった。彼の部隊のほ
ぼ半分は機能しなくなっていた。少佐と兵士にとって幸いなことに、次の日にはイ
ンデアンが襲って来なかった。フォーサイスは小康状態を利用して、100マイル
先のウオラス砦まで二人の使者を送り、救援を申し入れた。
 戦闘の四日目には救援はまだであったが、開拓民の食糧はなくなっていた。そし
て食糧は、死んで時間が経った腐った馬の肉を食べるまでに減らされた。インデア
ンはいずれは飢えて死んでしまう白人にもはや手間をかけるつもりはなく、飢えが
死をもたらすのを待った。フォーサイスは最初の二人が無事到着していないといけ
ないので、使者をもう二人送った。待つのは息苦しいものであり、兵士の飢えと渇
きはほとんど耐えられないほどになっていた。
 しかし、最初の二人の使者はウオラス砦に無事に着いた。そこの司令官のヘンリ
ー・C・バンクヘッド中佐はすぐにルイス・H・カーペンター大尉にメッセージ
を送った。彼は第十騎兵隊の黒人だけの部隊といっしょに出征中だった。彼らは救
援に向かった。カーペンターとその部隊が包囲攻撃の八日目にあの島に近づいた時
には、インデアンはキャンプをたたんで撤退していた。バンクヘッド中佐とたくさ
んの兵隊がウオラス砦からその次の日に到着した。
 フォーサイス少佐は、負傷から回復するのに丸二年かかった。その戦闘では、何
も成し遂げられなかった。シェリダン将軍が、開拓民の土地でインデアンと戦闘す
るために二度と民兵を組織することがない様に禁止したことを除けである。
 若い中尉があの戦闘の早い時期に亡くなったことに敬意を表して、川の真ん中に
あるその島はビーチャー島と名づけられた。そして、その衝突はその後白人の間で
はビーチャー島の戦闘として知られるようになった。そのインデアンは、しかし自
身の勇敢な戦士達を名誉とした。その後数年間は、彼らはあの衝突を「ローマン・
ノーズが殺された戦い」と呼んだ。

[2011年07月17日23時25分]
お名前: カーター
 J. W. パウェルのロッキー山脈探検(1868年)
J. W. Powell's Rocky Mountain Expedition - 1868 -

 1868年7月8日に、ジョン・ウェスリー・パウェル少佐は、南北戦争で片腕
をなくし、ひげを生やした退役軍人であったが、現在のワイオミング州シャイアン
を離れ、南のデンバーに向かってロッキー山脈の東側に沿って進み始めた。パウェ
ルには数人のグループがいっしょで、パウェルの伝記作家であるウオラス・ステグ
ナーが「探検隊と言うには遅すぎるし、辺境開拓者と言うにはあまりに技能が劣っ
ていた。」と書いている。その部隊は、奇想をこらして「ロッキー山脈科学探検
隊」と呼ばれ、その任務は基本的にその名前に表れていた。
 パウェルの隊員はほとんどが自然や地理の探検に興味があるアマチュアで構成さ
れており、規律を守る様に訓練されているわけではなかったが、部隊はデンバーま
での道のりを事故もなく終えた。グループの中には二人の女性つまり、パウェル少
佐の妻であるエマ・デイーン・パウェルと彼の妹であるネリー・パウェル・トンプ
ソンがネリーの夫であるアルモン・トンプソンとともにいた。ガイドのジャック・
サムナーは老練な山男であったが、部隊のことを「地獄が火薬庫に向かっているよ
うな荒くれ」であると書いている。
 パウェルはどうみてもプロの探検家ではなかったが、彼自身はグループに満足し
ており、あの夏のコロラドの原野の中でのベストを尽くす計画を建てた。結局、彼
は少しは東部の科学機関の支持を得ていたし、彼はより大きなそしてより優れた探
検の機会があった場合に起きてしまうように支持を失うことは避けたかった。
 パウェルの押さえがたい欲望はロングの山頂へ登ることであったが、それはまだ
白人には成し遂げられてはいなかったものだ。パウェル少佐は自分自身を含む登山
隊を結成したが、彼の弟のウオルター・パウェル及びガイドのサムナーを含む数人
から成っていた。荒れた森林、険しい岩の断崖や滑りそうな面を登り疲れきった後
に、部隊は最後に山の頂きに到着した。後に隊員の一人が次のように書いている。

  部隊がつらい登頂を成し遂げた後に、頂上に記念碑を立て、旗を立て、記
  念碑の上にワインをかけた。ボトルに残った少量のワインは部隊の5人が
  飲んだ。我々の内の二人は全員の願いに耐え、新聞がどんなに反対のこと
  を述べようともロング山の頂上では飲まなかった。

 そのアマチュアの科学者達は、遊び場の子供たちのようにロング山の山頂で前後
にちょこちょこ走り回った。光景はあっと言わせるほどであり、この高度と気温で
は植物で成長しているものまばらであったが、鋭い目のメンバーはたくさんの標本
を見つけた。グループの植物学に詳しい者が次のように書いている。

  頂上には花崗岩しかないので植物学者にとっては足場が悪かったがかなり
  のこけが大きな岩の陰、あるいは雪の面の端に近いところに生えていた。
  少しの地衣(すなわち数種類の、しかしたくさんの種の)が花崗岩の岩の
  別のむき出しの側に繁茂していた。花は高地であるため咲いていなかった。
  ハエの類いが少しとブヨ、そしてカブトムシが数種類、そして何千もの固
  有種のいなごが生きているのを見つけた。白い蝶はすべてが美しいわけで
  はなかったが、5、6エーカーもの頂上を過ぎて行くのを追いかけたので
  あった。

 ロング山の頂上からは、パウェル大佐の探検隊は西へ進み、8月にはホット・サ
ルファー・スプリングスに着いた。そこで部隊はアメリカ下院議長のスカイラー
・コルファクス、コロラド準州の知事アレクサンダー・C・ハント、そして有名な
ジャーナリストのサムエル・バウェルスに会った。バウェルスはパウェルのプロジ
ェクトに特別の興味を抱き、彼についてかなりの記事を書いた。加えて、少佐は
その新聞記者を信用してさらに大きな計画を引き受けることにした。そして、バ
ウェルスは彼の広範な読者に対して来るべき計画について次のように書いている。

http://www.hotsulphursprings.com/loc.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/スカイラー・コルファクス

  探検隊はここからグランド・リバーを下りエステス公園を出てコロラドの西
  部に入る。そして、コロラド河の大きな支流であるグリーン川を横切り、さ
  らにグリーン川かユタとの境界のその支流で冬のキャンプを過ごした。そこ
  で次の夏の探検の準備をした。最も大きなそして最終の目標は、コロラド河
  の上流を探検し、300マイルの峡谷の神秘の謎を解くことだった。彼らは
  おそらくこの次のシーズンをボートやいかだで彼らのグリーン川の冬のキャ
  ンプ地から下るつもりだ。

http://www.estes-park.com/more/how-get-here
http://ja.wikipedia.org/wiki/コロラド川
http://ja.wikipedia.org/wiki/グリーン川_(ユタ州)

 そしてそれが実際にパウェルが実施したことだ。1869年5月24日に少佐は
書いている。
  
  グリーン川の町の善良な人達は我々が出発するのを見る。我々は小さな旗を
  上げ、岸からボートを押し、速い波が我々を押し流した。我々のボートは四
  つあり、10ヶ月は十分持つ食料を積んでいた。
 
 そして、パウェルと新たに結成された探検隊は1869年にコロラド河を下り、
グランド・キャニオンの川下りで最初に成功した人間として歴史の一ページを飾る
こととなった。

[2011年07月03日22時22分]
お名前: カーター
グッドナイト・ラヴィング街道 (The Blazing of the Goodnight-Loving Trail)
1866年

 1869年チャールズ・グッドナイトは重要な決定を行った。テキサスの牧場主
で牛追いであったが、コロラド準州にテキサスのロングホーン(長角牛)をもたら
した最初の男であるオリヴァー・ラヴィングのパートナーとしてすでに牛飼の中で
は良く知られていた。しかし、ラヴィングは前の年に亡くなっていたので、グッド
ナイトはテキサスを離れコロラド南部での牧場の立ち上げを試みた。

グッドナイトとこれまでの西部での出来事は下記を参照。
http://www.geocities.jp/seizanshi2000moment/moka.htm

ロングホーンは下記参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/テキサスロングホーン

 彼はプエブロ市の西側のアーカンザス河の岸辺に立ち、この地が本当に美しいの
に魅せられた。ここでは、峡谷の中にハコヤナギやカエデが立ち並んでおり、彼は
コロラドでは決して見る事ができなかった種類の牧草を育てることができるだろう
と考えた。ロッキー山脈のふもとでは雪溶け水に恵まれて山地は青々とし、グッド
ナイトは直感的に、ここで何千頭もの牛を飼えば、鉄道がデンバーに来る時頃まで
には富をもたらすと考えた。
 グッドナイトはそんな牧場を作る男であった。彼は1836年3月にアラモ砦が
落ちた(3月6日)日の前の日にイリノイ州の田舎で生まれた。彼は若い時に家族
とともにテキサスに移住し、彼の継父がイリノイを離れて手に入れた貧しい農場を
手伝った。大人になってグッドナイトはスカウトになり、独立した森林警備員に
なった。しかし、同時に彼はどこにでも見られるテキサスのロングホーンの膨大
な群れについて学び始めていた。

アラモ砦については下記参照。
http://www.ffortune.net/social/history/seiyo-mod/alamo.htm

 南北戦争中にグッドナイトは、テキサスの南軍で辺境のコマンチ族に対応する森
林警備官として従事した。戦争が終わった時に何百ものテキサスの農民や牧場主は
武器を置き家に帰ったが、見えたのは放置されて荒廃した茫漠たる土地であった。
そして、ロングホーンは世話をしていなかったために何倍にも増えており、わずか
な放牧地でたくさんの草を食べていた。明らかに誰かが家畜を市場へ出すことを考
える必要があった。
 ジェセフ・マッコイと言う男が、テキサスの家畜を北東の新たに建設された鉄道
の終点であるカンザスのアビリーンの町へ運ぶことを夢見ていたが、 その前に
グッドナイトとラヴイングは家畜を西のニューメキシコへ、そして北のコロラド準
州のデンバーへ運ぶアイデアを暖めていた。1866年に、2人はかなりの家畜を
伴い西のペコス河へ向けて出発した。彼らは河を渡りニューメキシコ準州のサム
ナー砦に向けて進んだ。そこで家畜をいくらか売った後に、グッドナイトは新しい
家畜を集めにテキサスに戻ったが、ラヴィングはデンバーへ向けて進んだ。デン
バーで彼は残りの家畜をジョン・イリフに売った。2人の仲間がテキサスのベルク
ナップ砦からデンバーへ向けて開拓した街道はグッドナイト・ラヴィング街道とし
て有名となった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Pecos_River
http://www.hardingcounty.org/history/goodnightloving_trail.htm

 次の年に2人が彼らの街道を家畜の群れを再び移動させていた時に、ラヴィング
はコマンチ族に襲われひどい傷を追った。彼はサムナー砦で死んだが、グッドナイ
トは進んで家畜をその買い主へと運んだ。サムナー砦へ戻る途中で、彼は仲間の遺
体を掘り出して、簡単な金属の棺に入れた。グッドナイトはその棺を馬車に乗せ
ちゃんと埋葬するためにテキサスへと持って帰ったが、それは彼の友人が死の床
で望んだことだった。
 1869年にグッドナイトがコロラドに戻って、アーカンザス河のほとりに牧場
を作った後に、彼は早くも成功した。彼は妻を持つには十分だと感じたので、次の
年に彼は東部に戻りテネシー生まれの恋人であるマリー・アン・ダイヤーと結婚し
た。彼は新婚の妻をコロラドへ連れて来たが、彼らはそこでその後の人生をいっ
しょに過ごすつもりであった。
 グッドナイトはプエブロのコミュニテイーで活発に活動した。彼は町の最初の銀
行であるプエブロ畜産銀行の主催者であった。グッドナイトとコロラド南部のその
仲間の牧場主達にとっては前途は有望であるかに見えた。しかし、実際にはアメリ
カはかつてないほどのひどい不況に陥ろうとしていた。1873年のパニックであ
る。グッドナイトと隣人達はどん底を味わった。そしてグッドナイトは後に「パ
ニックは地上のあらゆるものを一掃した。」と嘆いている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/大不況_(1873年-1896年)

 1876年までにグッドナイトのコロラドでの楽しい生活は終わった。彼は妻と
まだ持っていたわずかの家畜とを連れてテキサスに戻った。そこはパロドウロ峡谷
であったが、グッドナイトは新しい牧場を作った。それから数年間は、彼は新しい
種類の家畜を開発し育てることで役立とうとした。アイルランドの移民のジョン・
アデアとともに、10万頭近くを飼育できる百万エーカーもの土地を寄せ集めた。
彼らのJA牧場は、すぐに北米全体で最大で最も有名な土地となった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Palo_Duro_Canyon

 アデアが死んだ後、グッドナイトはゆっくりやることにしてJA牧場をアデア夫人に
分け与えた。彼は彼女に「私は人間と牧場には心から飽き飽きしているのです。」と
書いた。しかし、彼はまだ10万エーカー以上もの土地を持って、家畜や
野牛を育てていた。1898年にはグッドナイトと妻はグッドナイト大学を創立し
た。彼らはまたテキサスの西部に教会を二つ作った。マリー・アン・グッドナイト
は1926年に亡くなった。そしてチャールズは1929年に後を追った。
 テキサスはチャールズ・グッドナイトがその素晴らしいJA牧場の部分的なオーナ
ーであったことの名声を主張する、それは多分そうであろう。しかし彼がテキ
サスの牧場主になる前は、彼はコロラド人であった。彼とプエブロの彼の土地は遠
くまで広く知られている。彼の伝記作家であるJ・エヴェレット・ハレーがかつて
言っているように、「グッドナイトの力、恐れを知らないこと、彼の草原の作品、
そして彼の精神力は、家畜や馬の話が人々の想像力をかき立てる限り西部で思い出
されるだろう。」

[2011年06月09日21時53分]
お名前: カーター
サンドクリークの虐殺(The Sand Creek Massacre: 1864)

 ブラック・ケトル酋長は1860年に先住民監督官のA. B. グリーンウッドから
もらったアメリカ国旗を誇りにしていた。その旗は、数年間サンドクリーク(コロ
ラド州の南東のアーカンザス河の支流にある)の彼のキャンプで平和に暮らして行
けることをグリーンウッドが約束していることのシンボルであった。彼とそのシャ
イアン族は野営地をアラパホ族と分ち合っていたが、白人と調和して生きることを
期待していた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Black_Kettle
http://ja.wikipedia.org/wiki/ブラック・ケトル

 ジョン・M・チヴィントン大佐の考え方は違っていた。チヴィントンの職業はメ
ソジスト監督教会の牧師であったが、インデアンに対する反感が高まって来た時に
コロラド市民軍への参加の呼びかけに応じた。大佐はチャンスがあれば、女子供を
殺す野蛮人達を全滅させることは彼の義務だと考えた。ある時、彼は「インデアン
に同情する奴らめ!」と叫んだ。
 白人の中にはどうして全人生をインデアンをひどく憎んで過ごすことができるの
か思う人もいた。その頃は、家族や友人をある部族ともう一つの部族により抹殺さ
れた人がたくさんいたことは事実だ。二つの人種は事実かあるいは思い込みの悪事
によりいがみあっていた。チヴィントンは、しかし、インデアンを憎むことでは最
高の部類にいたので、彼の歴史における役割は現在の基準ではうんざりさせるほど
のものである。
 チヴィントンは1821年にオハイオで生まれた。彼はオハイオで牧師として仕
え、そしてイリノイ、ミズーリ、カンザスなどで仕えた後に1860年にコロラド
に移住した。彼はコロラドの金鉱のキャンプで熱心に説教をし、デンバーで最初に
メソジストの日曜学校を組織するほどの才能があった。
 南北戦争が勃発した時、チヴィントンはコロラド志願兵第一連隊の従軍牧師とし
ての依頼を受けた。しかし、彼は祈る方を断り戦う方を好んだ。第一連隊がその後
しばらくしてミューメキシコに送られて、彼は「戦う牧師」と呼ばれたが、戦いで
武勇を示した。彼はグロリエタの戦いで南西部から南部同盟軍を率いるのに指導力
を発揮した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/グロリエタの戦い

 南北戦争が激化し通常の陸軍は東部へ呼び戻されたので、インデアンの部族には
辺境の無防備の白人の移住者を攻撃するものもあった。数カ所にわたって、南部の
シャイアンとアラパホの盗賊により激しい攻撃を受けた。地方の当局がそのインデ
アンに戦争をすることを決定した時に、インデアンを憎んでいることで知られてい
た戦う牧師(チヴィントン)は、当然その兵隊を率いることになった。
 かつて、ブラック・ケトルはエドワード・ウィンクープ少佐によりコロラド準州
のフォート・リヨンで白人への友情の友情の印として彼の小屋の上に高くアメリカ
国旗を掲げるよに指示をされた。ウィンクープは年老いた酋長に白人の兵隊は彼を
危害を加えないだろうと保証した。しかし、チヴィントン大佐はブラック・ケトル
の状況について連絡を受けた時に、インデアンを打ち負かすためにはすべてが正当
化されると答えた。彼は断固として立ち向かうのだと誓い馬上の人となった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Fort_Lyon

 1864年11月29日の朝、チヴィントンのコロラド志願兵第三連隊はブラッ
ク・ケトルのキャンプで寝ていた500人のインデアンを攻撃した。それは司令官
による「殺せ、頭の皮をはげ、大人も子供も、しらみとその卵までもだ。」との命
令であった。何百人もの無防備のインデアンは、たくさんの兵隊が近づいて来る光
景を見て目覚め、彼らの小屋から出て走り出した。しかし、まだ陸軍が彼らを守っ
てくれると言う印象を持っていた。兵隊がシャイアン族を一つ、二つとカービン銃
(騎銃)で攻撃した時、何が起こっているかがすべて明らかとなった。
 戦闘が終わった時(もし、それが戦闘と呼べるなら。それはインデアンには武装
し彼らを防御する時間がほとんどなかったからだ)、チヴィントンの志願兵達は2
00〜400人のシャイアン族とアラパホ族を殺していた。大多数の死者は女と
子供であった。逃げ回っていた生存者はほとんど探し出されすぐに殺された。兵隊
達はその日の午後、犠牲者の頭皮をはぎ、体をばらばらにした。
 チヴィンとンは征服者としてデンバーに戻り、小さな劇場で征服者された者たち
の血のしたたる頭皮と体の部分を展示した。しかし、彼の行為を非難するものもい
たし、戦う牧師の突飛な行為はついに議会で調査されるべき項目となった。700
ページに及ぶ証言を聞いた後に、委員会は大佐を軍法会議にかけることを命令し
た。しかし、彼は自らの職務を辞することが許され、それによって彼はその極悪行
為の罰から逃れることができた。
 ブラック・ケトルの妻は兵隊に9度も撃たれたが何とか生きて、奇跡的に無傷
だった彼の夫とともに虐殺を逃れた。その翌月には、陸軍に裏切られてもシャイア
ンの酋長は彼自身のまたその周辺の部族に「平和は戦争よりもいいものだ」と続け
て説得しようとした。その老人の悲しい結末は、サンドクリークの事件からちょう
ど四年後の日に来た。1868年の寒い11月のある日、彼と彼の妻及び、平和を
求める103人のシャイアン族とアラパホ族とが、インデアン居留地のワシタ川で
ジョージ・アームストロング・カスター中佐により虐殺された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・アームストロング・カスター

 チヴィントンは非難されるべきブラック・ケトルの平和なキャンプへの攻撃の後
どうなったのであろうか?彼はしばらくネブラスカの輸送業に従事したが、カリ
フォルニアへ移り、オハイオに戻ったが、最終的にはデンバーに再び帰って来た。
彼は1894年にガンで死んだが、30年前の宿命的な11月のある日の行為につ
いて、まだ説明しようとしていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/サンドクリークの虐殺

[2011年05月15日14時00分]
お名前: カーター
デンバー造幣局の設立(The Creation of the Denver Mint) 1860年

 1850年後半にデンバー市の西の金鉱に向かった試掘者や坑夫は、その地には
豊かな鉱脈が豊かであることがわかり当然得意満面となった。しかし、しばらくし
てその内の多くが失望して山を下りて東部へと帰った行ったが、運がいい人もたく
さんいて実際に金持ちになる者もいた。
 しかし、たとえ試掘者が幸運にも豊かな金の鉱脈を発見し、あるいは砂金を含む
川を発見したとしても、まだ金を現金に換えると言う問題が残っていた。多くの商
人や酒場の主人などは砂金を法貨(債務の支払いに使用される法的な通貨のこと。
日本では日銀券及び硬貨)として受け取ったが、試掘者は砂金の取り引きの際にい
つも貧乏くじをひいていた。荒れた鉱山の町には金の価値に関する標準がなかった
ので、貧乏な坑夫は常に砂金を食料、飲み物や商品に交換することになったが、そ
れらはその金の何分の一かの価値でしかなかった。
 もちろん、悪いと言えもう一つ方法があった。坑夫はその砂金をデンバーの輸送
業者に持ち込むことはできた。砂金は東部の分析試験所に送られ、適正に計量され
評価された。その金は有利な比率で購入され、そしてアメリカの合法な金貨あるい
は小切手でその坑夫に支払われた。この取り引きに3ヶ月以上かかる(その金を分
析試験官まで輸送する費用、分析試験官及び仲介者の費用及び保険料を合計したも
の)ことを考えても、それはしばしば簡単であり、砂金などの自然金を商品と交換
するよりは費用的に効率が良かったのである。たとえ、その時にだまされたとして
もである。
 1859年の夏、三人の東部のビジネスマンがデンバーに金の取引所を開設し
た。エマニュエル・グルーバーとオースチン、ミルトン・クラーク兄弟はすでに同
様の事務所をカンザス州のレブンワースに開き、コロラド平原で働く金鉱堀り達に
対応していた。デンバーの周辺の山で金がますます見つかるようになると、金儲け
の元に近いところに事務所を動かすのが当然となった。
 グルーバーとクラーク兄弟はすぐに坑夫や試掘者が直面している、金は豊富にあ
るが現金が不足していると言う問題をすぐに理解した。よって、三人はクラーク・
グルーバー商会を始め、デンバーに私立の造幣所を開設することに決めた。その造
幣所は産地の坑夫の金を政府が決めた価格で買い取り、金を精製し、様々な単位の
硬貨を鋳造したが、それらは法貨としてどこでも使用された。
 その造幣所は市場通りと16番通りが交わる角の赤煉瓦の建物に開設された。分
析試験や鋳造のための装置は、金型、穴開け器やその他の必要な装置とともにフィ
ラデルフィアで購入された。その会社は数ヶ月間坑夫達と取り引きをしていたので
、すでに十分な自然金の供給を受けていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Denver_Mint

 入念な準備と広報により、クラーク・グルーバー商会は1860年7月20日に
その最初の金貨を生産した。その金貨は10ドルの硬貨であった。その会社はすぐ
に20ドルの硬貨を、そして後には2.5ドル、5ドル硬貨と続けて生産した。地方
の新聞の広告には、その会社のユニークなサービスについて下記のように誇らしく
述べられていた。

  我々は銀行業と関係する鋳造所を持っており、砂金を硬貨に交換する準備
 ができている。自然金は発見された時のように銀を混ぜて硬貨となる。重量
 は大きくなるが、価値は同額の合衆国の硬貨と同じであった。

 ロッキーマウンテインニュースの編集者は鋳造所の開所式に参列した。彼は他の
多くの群衆と同様に魅了され、その進行についてきらびやかな報告を行っている。

  我々はほとんどパイクスピークの硬貨を発行する準備ができていた。何百
 枚もの円行(硬貨の形に打ち抜かれたもの: Blanks)が準備され、重量、精
 度が検査され、鋳造のまでの工程の最後の操作が行われた。機械を動かす小
 さなエンジンが点火され、ベルトが調整され、そして機械は動き、10ドル
 の価値の硬貨が錫の容器に落ちて行き、チンチンと言う音を奏でた。1分に
 15枚から20枚の比率で数千ドルの硬貨が生産された。それは最初の実験
 としてはとても成功したものだと考えられた。その硬貨は合衆国の同額の硬
 貨に比べて17グレイン程重かった。(1グレインは0.0618グラム)

  表面には頂上が描かれ、山の麓は樹木の森で囲まれている。そして、
"Pikes Peak Gold"の文字が囲んでいる。山のすぐ下には"Denver"の文字が
  そしてその下には"Ten D"と書かれている。反対側にはアメリカンイーグル
が、"Clark, Gruber & Co."の会社の名前で囲まれている。そして、下には
  発行年の1860年がある。
 (コインは下記のような収集家によるオークションがある)
  
http://coins.ha.com/common/view_item.php?Sale_No=394&Lot_No=3673

 最初の三ヶ月の操業で、グルーバーとクラークは12万ドル以上の価値の金貨を
鋳造した。需要はとても大きかったので初年度の12月に、会社は新しい事業を開
始した。つまり、会社の金貨とも交換が可能な紙幣の発行であった。硬貨と同じよ
うに紙幣も大いに歓迎され使用された。
 1962年の4月にはアメリカ政府はデンバーに鋳造所を設立することを決定し
、私営のクラーク・グルーバー商会の鋳造所の買収を公認した。所有権は11月に
変わり、2年半の間に60万ドル近くの金貨を生産した後にクラーク・グルーバー
商会は鋳造の事業から撤退した。しかしその会社はデンバーに銀行として残り、事
実上 First National Bank と合併した。
 グルーバーとクラーク兄弟には先見の明があった。しかし、彼らの夢が途方もな
いものであっても、彼らにはデンバー鋳造所の硬貨がこんなに大事になるであろう
ことは予想もつかなかった。その時代に一般にはたくさん使用されたが、クラー
ク・グルーバー商会の金貨は今日ではとても珍しくなっているので、状態のいいも
のなら収集家の間では一枚1万6千ドルで取り引きされている。

[2011年05月03日13時46分]
お名前: カーター
パイクス山か破産だ(Pikes Peak or Bust: 1859年)

 それは1859年1月の寒い日で、ジョージ・ジャクソンは目的地から西の30
マイルあたりの雪に覆われたロッキー山脈を歩いていた。その地は、新しい移住者
のデンバーと言う村であった。ジャクソンは、カリフォルニア”49年人”と言われ
る数年の金鉱試掘の経験があった。彼はもうロッキー山脈中央で長い間、金を掘り
続けていたが、果たせていなかった。ジャクソンはつい最近になって、彼の間に合
わせの試掘キャンプでの補給品をきらしていたが、それはまたおそらく適正でも
あった。すでに彼は試掘の仕事をやめてデンバー市に帰って、普通の暮らしをした
いとまじめに考えるようになっていた。
 デンバーに向けて進むにつれて、ジャクソンはクリアクリーク(デンバー市の西
のロッキー山脈にある川)で数本の温泉を見つけた。そこで彼はビッグホーン(ロ
ッキーの角の大きい羊)の大群と出会った。

http://en.wikipedia.org/wiki/Clear_Creek_(Colorado)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ビッグホーン

 彼のそばには二匹の忠実な犬が立っていたが、燃え盛るキャンプの火で暖まり、
リラックスしてジャクソンは考え始めた。デンバーで何ができると言うのだろう
か?彼が実際知っている生活というのは、試掘のみである。おそらく彼はもう一回
やってみるべきた。彼は夜寝入っている時に決心をした。朝になれば、自分は有望
な場所に金があるかもしれないと考え、温泉の周りを掘り始めるだろう。
 翌日の早朝にジャクソンは探索を開始した。クリアクリークの上流と下流を歩き
回り川の底にある砂や砂礫層に表れている金属の破片を注意深く観察した。手頃な
砂州を探すと、ジャクソンはそこで火をおこして、砂州の中身を溶かし始めた。大
きな砂州には流されて留まっている金の薄片が残っているかもしれないと思ったの
だ。
 ジャクソンは、定住しているキャンプに金採掘用の鍋を置いて来たので、飲用に
しているカップを代用品として使った。彼がカップの周りの水と砂をかき回し、中
身がゆっくりと川に落ちると、数個の金の薄片が容器の底に沈んで行った。
 暗くなるとジャクソンはやめたが、川でおよそ1オンス(10ドルの価値)の金
を発見した。ジャクソンは砂州で仕事をしたすべての兆候を隠してキャンプへ戻っ
た。彼は日記に次のように書いている。

   パンやコーヒーが全くない肉の夕食を済ませて、私は床につきあの砂州
  でたくさんの富を得る夢を見た。私には狩猟刀とカップの代わりに、つる
  はしとなべだけがあれば金色のものを袋一杯掘ることができるだろう。私
  の心は夜中ずっとそのことに取り憑かれていた。私はすべてのことを夢見
  た。りっぱな家、上等な衣服、馬車と馬、旅行、懐かしいミズーリの人達
  のところへ持って行けるもの、思いつくものすべてであった。私が金持ち
  になったのだ。そこには何百万ドルがあるのだ。

 次の半世紀でクリアクリークの金鉱は、1億ドル以上の価値の貴金属を産出し
た。残念ながらジャクソンはこの富鉱帯をほとんど理解していなかった。1859
年の春にデンバーから彼の権利のある場所へ戻った後に、彼はしばらく金を産して
、彼の権利を他の誰かに売却したが金額はわかっていない。
 しかし、1859年の春までにその地で金が採掘できると言う報告にさそわれて
およそ10万人以上の採掘者や坑夫が、現在コロラドと言われている地域への長旅
を始めたのだ。ある者は途中で先住民に殺され、他のものは目的地に到着したもの
のその後に貧困と飢餓に直面した。多くの試掘者は落胆し東部への長い旅を始めた
が、ジャクソンの発見のニュースはデンバー市にあるテントのキャンプで大当たり
となった。
 パイクス山のラッシュが起こっているのと同時期に、現在のネバダのバージニア
市の近くで銀鉱脈が発見された。二つの鉱脈の組み合わせで、その地域には何千も
の富に目がくらんだ移住者が集まった。1849年のカリフォルニアのゴールド
ラッシュ時に疲れきった坑夫達でさえ争奪戦に参加すべく山脈を超えたのだ。
 富の可能性は人をだめにする。そして、パイクス山のゴールドラッシュの時期に
も、多くの男達とその家族が資金のまたある場合にはモラルの破滅に苦しんだ。あ
る観察の鋭い坑夫はむしろ簡潔に、試掘者の野蛮で荒くれの時代について次のよう
に書いている。

 それは富への怒り狂ったレースであった。たくさんの人がほとんど正体を
  失っていた。骨を折り、格闘し、獰猛で、ばか騒ぎの、疲れた、恐ろしく
  興奮した生活であった。家庭や親戚のことを忘れ、古い堅実な習慣をやめ
  不安をかかえ、刺激、無法、不敵、驚く程の寛大さ、そして浪費を求めた
  のであった。

 他の富が西部に数年の内に発見され、それには1877年のコロラドのレッド
ヴィルの銀のことも含まれている。しかし、これらのほとんどの発見が1859
年の有名なパイクス山のゴールドラッシュの富ほどではなかった。それは、多く
の人々の流入によるもので、1861年にその地が合衆国の準州になる道を準備
するのを助けるものであった。

[2010年12月31日15時41分]
お名前: カーター
大陸横断鉄道計画 (The Great Railroad Survey)
   1853年


 1850年代に、国家は10年以内にコロラドが準州となる地域に注目をした。
アメリカ政府は西部に関心があり最も差し迫った課題は、大陸横断鉄道の経路を提
案することであった。そして、どこに鉄道を建設するかと言う議論が国を分断する
こととなった。その問題は政争の具にされてしまった。議会のホールでは、北や南
からやって来た政治家やロビイスト達が、自分たちの出身地を鉄道のルートにしよ
うと相手を打ち負かす論争を試みた。
 議論の真っ最中には、二人の有名人がいた。一人はアメリカ戦争長官であったジ
ェファーソン・デービスと元ミズーリ州上院議員のトーマス・ハート・ベントン
であった。ミシシッピ河から太平洋へはすでに数本のルートが提案されていた。そ
して、当然デービスは南部出身であったので、南部諸州を横切るルートを申し出
た。ベントンは不毛の南西部を走ると言うアイデアをひやかして、その地域は全く
荒廃した砂漠であり、キット・カーソンが言ったように狼でさえ住めない神に見捨
てられた土地だと主張した。ベントンの提案は、ミシシッピ中部から太平洋へ緯度
で38線あたりをなぞるルートであった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェファーソン・デイヴィス
http://ja.wikipedia.org/wiki/トマス・ベントン

 さらにもっと提案があった。事実、それは地域の主唱者自身によるものであった
が、とてもたくさんの提案が何年間も議論された。そして、議会はジレンマとなっ
ているものを解決する方法を考えついた。
 議会は1853年3月2日に法案を通したが、戦争省長官(後の陸軍長官)デー
ビスには想像はできてもとても実行することはできな任務であった。デービスは1
0ヶ月以内に検討されているすべての太平洋岸へのルートについて、実際の調査に
基づいた詳細な報告書を提出するように命じられた。
 デービスは地勢学の技術者の集団を素早く動員して、いくつかのルートを踏査す
るために西部の荒野へと一連の調査部隊を派遣した。一方でベントンは、デービス
と言う男が38度線のルートを調査するチャンスを得たことに満足していなかった
とその隊長のガニソンは公正に報告しているが、彼らは独自に調査するためにほか
に二つの部隊を派遣した。
 ガニソンはウエストポイント(アメリカ陸軍士官学校)を卒業して、陸軍に砲兵
隊員として入隊したが、後に地勢学技術部門に異動していた。彼はハワード・スタ
ンズベリーの記念碑的なグレートソルトレイクの地域の調査をを助け、またコロラ
ド及びユタの山脈において経験したのは、当然デービスの公式の調査部隊を指揮す
ることであった。
 ガニソンと彼の部隊は1853年の6月23日にレブンワース砦を発った。彼ら
の任務は、カンザスから後にコロラド準州となる38度線に平行している直接の
ルートを調査することであった。そのルートは通常アーカンザス河をたどり、ベン
ツフォートを過ぎ、プエブロの西のコチェトパ山道にあるロッキーの分水嶺を横切
るものだった。その山道から、ルートは山脈をくねって曲がりコロラド河と合流し
後にガニソンにちなんで名付けられた川に沿っていた。そのルートは現在のユタ州
に入った。

http://en.wikipedia.org/wiki/Cochetopa_Pass

 ガニソンと部下は順調に進んだが、10月末には好戦的なパユートインデアンの
一団に遭遇した。セヴィエ湖の北東で、隊長と7人のその仲間はパユートインデア
ンに殺された。ガニソンが亡くなったことで調査部隊は混乱に陥り、作業は次の年
まで中止された。しかし、ガニソンは死ぬ前にすでに38度線のルートが、横切っ
ている線が異なった地域をまたがっていることから、実用的でないと決定してい
た。
 重複した調査による莫大な支出にも拘らず、すべての報告書が届いた時には(予
想されたように遅れていたが)、誰も全く関心を示さなかった。デーヴィスは、鉄
道をどこにそしていつ敷くかと言う政府の最終決定に先駆けて、1858年に議会
で次のようにコメントした。
 
  私に関係するすべての人について、私は、この鉄道の敷設は政治的な問題
  でなければならないと申し上げます。それは技術の問題であり、商業的な
  問題であり、政府の問題でもあるべきであり、党派間の闘争における党の
  利益あるいは一地方の成功のための問題であってはならないと言うことで
  す。

 その調査は、最初の大陸横断鉄道の実際のルートについて十分に伝えることはな
かったが、彼らは膨大な生物学的、地質学的、そして人種学的なデータを発見し
た。事実、かつて比較的知られていなかった地域に関するこの情報で、科学者及び
民俗学者はその後の数年間忙しくなったのである。コロラド州のいくつかの場所の
名前は勇敢な学者の隊長であるジョン・W・ガニソンに由来している。ガニソン川
は、コロラド河の支流であり、ガニソン国立遺跡である黒い峡谷、ガニソン国立森
林などは2百万エーカーをに及ぶ。ガニソン郡と町は、その技術者にちなんでいる。

 ガニソン国立公園については下記の旅行記を参照。
 
http://usnp.exblog.jp/i12/

ガニソン本人については下記(英文のみ)

http://en.wikipedia.org/wiki/John_Williams_Gunnison

[2010年11月28日17時52分]
お名前: カーター
キット・カーソンの長い旅 (Kit Carson's Long March)(1848年)


 それは1848年の6月のことであった。クリストファー・キット・カーソン
は大河(今日のコロラド川)の岸辺に立って、河を渡る方法を考えていた。河は溶
けた雪でかさを増していて、カーソンはそれがとても危険であることがわかって
いた。
 カールソンは5月4日にロサンゼルスを出発し、メキシコ戦争注1)のカリフォ
ルニアにおける進捗を報告するためにワシントンDCへ向かうところであった。若い
陸軍中佐のジョージ・ダグラス・ブリュワートンとその数人の仲間がカーソンと
いっしょに旅をした。カーソンの部隊はカリフォルニアの南部と今日のネバダの
南端をを横切り、ユタへと北東の方角へ進み、大河つまりコロラド河に沿って現在
のコロラド州に入った。


注1):1846年から1848年の間のアメリカとメキシコとの間の戦争。この
    後にアメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキ
    シコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の管理権が与えら
    れた。

 長い旅はそれまでは何事もなかったが、カーソンが荒れ狂う河を見た時には最
初の大きな障害に巡り合ったことを悟った。ブリュワートンはカーソンとの冒険
について後に次のように書いている。

  私は誕生日を祝っていたことを覚えている。・・・大河のほとりに立って、
  後悔した様な面持ちで、荒れ狂う河の濁った流れに密かな虫の知らせを感じ
  て。初夏の冷たい入浴はつらいことではないと思うだろう。しかし、今回は
  夏はもう終わったと感じられていた。12月のような強い風が吹き渡ってい
  たし、足下には溶けた雪で大きくなった奔流があり、山の泉の水よりも冷た
  く感じられたからだった。
 
 カーソンとその部下は、背の高い常緑樹のある森から材木を切り出して、また
レアタスと言うロープで材木を結び合わせて、いかだと作った。すべてが整うと、
ブリュワートンと数人の隊員たちは冷たい水の中に飛び込み、流れの早い河を横
切って、いかだを押し始めた。数分後に1マイルの下流では、まだ興奮していか
だを押している隊員達は、彼らが離れた同じ側の岸で休んだ。そうこうしている
内に、ブリュワートンは中流で材木にぶつかり彼の長い髪で岸まで引っ張っぱら
れた。ブリュワートンは乾いた土地の後ろで悲惨な状況を観察して後に次のよう
に書いている。

  我々の状況は最悪であった。着ているもので残っているもの言えば帽子だけ
  だった。置き去りにされたその残りはもう一つのいかだで来ることになって
  いた。河に沿って急流をさかのぼることは問題外のことであった。我々の居
  場所を横切ることは、かなり流されること、また足下にあるごつごつした石
  のことを考えれば同様に不可能であった。そこで、我々は曲がりくねった河
  を、荷物を肩にかついで徒歩で下草のある道を戻る以外に方法はなかった。

隊員と馬はついに安全に大河を渡ることができた。しかし、その日にはブリュ
ワートンのノートすべて、科学的なサンプル、スケッチに加えてライフル6丁
と鞍を数個失った。隊員の中には河で衣服をなくした者もいたので、彼らは寒
さをしのぐために残しておいた毛布にくるまる必要があった。
 カーソンと部下がその大河を離れて南方のニューメキシコのタオスへ向かった
時には、彼らには三日分の食料しか残っていなかった。それで、彼らはその土地で
生き抜き、カーソンは何年も山男、狩人、そしてガイドとしての経験があったの
で簡単に仕事をこなした。その月の後半にはついに、彼らはカーソンの生地である
タオスに着いた。すぐにサンタフェへと進み、カーソンは陸軍の当局者と面会
し次の目的地であるレブンワース砦への長い旅の計画をした。

http://en.wikipedia.org/wiki/Fort_Leavenworth

 カーソンは、サンタフェからタオスへ戻りコロラド州の境を横切ってプエブロ
へ向かいロッキー山脈の東辺をビジョー川に沿い、そしてプラット川のサウスフォ
ークへと川を下った。プラット川を行き現在のネブラスカに入ると、彼はレブン
ワース砦(カンザス州)へと州を横断した。そこから彼はワシントンDCへと行き、
陸軍の幹部と会い、10月にニューメキシコに戻った。

 キット・カーソンはアメリカの本当の民衆のヒーローである。ケンタッキーの
開拓地へ生まれ、ミズーリ州の鞍職人のところへ丁稚奉公に出て、そこから逃げ出
した。カーソンは後に彼の人生のこの時期について次のように書いている。

 親方はいい人だった。私は、親切な彼の手からから受け取ったものをしばしば
 思い出す。しかし、私が彼のところに残り徒弟として仕えたなら、ずっと満足
 できない労働を人生に捧げたことであろう。そして、見も知らない土地を旅し
 たいと思っていたので、ロッキー山脈に向けて出発する最初の探検隊に加わる
 ことに決めたのだ。

 カーソンは探検の専門家として広く遠くまで知られるようになり、彼はロッキー
山脈からカリフォルニアへと探検隊を派遣するジョン・C・フレモントに雇われ
た。ちびのカールソン、彼はブリュワートン中佐にそう呼ばれたが、背は中く
らいより小さく、褐色で巻き毛の髪をしており、ひげはほとんどなく、声は女性の
ようにおだやかだった。彼は後にニューメキシコ義勇軍の陸軍名誉准将に昇進し
た。1865年の終わりから1866年の始めにかけて、カーソンはニューメキシ
コのユニオン砦の司令官を務めた。
 次にカーソンはコロラド州のガーランド砦の司令官を引き受け、1867年の
11月までそのポストにいた。それから彼は陸軍を退役した。彼とその家族はコロ
ラドのボッグスビルに移り、1868年の5月にリヨン砦の近くで伝説的なキッ
ト・カーソンは亡くなった。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/キット・カーソン

[2010年10月19日21時53分]
お名前: カーター
フランシス・パーキンスの直感力(Francis Parkman's Vision)
   1846年

 1846年の8月のある朝、数人の男達が、ロッキー山脈の東側から南にある現
在のコロラドス・プリングスへと向かっていた。そのリーダーがフランシス・パー
キンスであり、彼は数年してアメリカが産んだ偉大な歴史家と呼ばれるようになっ
た。彼は後に次のように書いている。

  日の出前の朝、山は雪に覆われており美しく淡いバラ色に染まっていた。
  我々が前に進むにつれて高貴な光景が待ち受けていた。我々の場所から
  6〜8マイルほどの右には、パイクスピーク(槍の頂き)とその巨大な
  兄弟(峰)が大草原から同じようにそびえていた。それはまさに大海原
  のベッドから飛び出しているようだった。その頂上から平原へは、強い
  風にせきたてられたように絶え間なく動くマントのような雲に覆われて
  いた。
      http://en.wikipedia.org/wiki/Pikes_Peak

  雪に覆われた峰は恐ろしいほど寂しくそそり立ち、一瞬視界に入って来
  ることがあった。山の雲が途切れると、暗い森、巨大な絶壁、白い雪の
  まだら模様、夜のように暗く陥没したところや割れ目が、すべて一瞬の
  間に現れ、そして視界から消えて行った

 パークマンと彼のいとこのクインシー・アダム・ショーは4月28日にセントル
イスを出て、蒸気船”ラドノー”に乗り、西ミズーリのウエストポートランデイング
に向かった。二人の若者はハーヴァード大学を卒業したばかりで、パークマンはア
メリカの大西部を、特にそれが急速に文明化が進み永久にだめになる前に見たいと
思っていたのだ。ロッキー山脈への旅はパークマンが書いているように好奇心と遊
びのためだった。5月の暑い日にウエストポートを下り、二人はオレゴン街道(ミ
ズーリ州とオレゴン州を結んでいた)を経て大草原を横切った。
 パークマンは現在のワイオミング州のララミー砦に着き、そこで数日を過ごし
た。彼は熱心に観察し、彼の視力がかなり衰えても、また書く事すら困難になって
も、彼は道で見た事、聞いた事のすべてをノートにたくさん記した。彼の視力は衰
えていたので、一度に数分間書くことすら苦痛だったが、彼のノートは後に彼の本
となり、また1847年にニッカーボッカー(半ズボン、ニューヨーカーの意)と
言う雑誌に掲載された一連の記事で成功する元になったのだ。
 若かったので西部の道もその恐ろしさについても知らず経験も不足していたが、
パークマンとそのいとこは、彼らが旅している太古からの自然にいつかは起こるこ
とについてははっきりとわかっていた「オレゴン街道」が掲載されてから25年後
にパークマンは次のように書いている。

  馬に乗ってパイクスピークの麓に来て、二週間も人に会わなかった時に
  私の相棒が言ったのを覚えている。この大草原が牧草地になり、バッフ
  ァローが家畜の牛に取って代わり、水路に沿って農家が散在し、そうし
  た中で狼、熊や先住民たちの数が定められる時が来たら満足だと言っ
  た調子だった。我々は悲しい将来についてお互いに悔やんだ。

 パークマンとショーは西部の変化を予想していたが、彼らでさえ、あのような変
化がもたらす劇的な衝撃について予見することができなかった。

  我々は人跡未踏の山脈の継ぎ目には金が少なからずあることはわかって
いた。しかし、灰色熊が出没する荒れ地に町ができ、ホテルや賭博場が
  建てられるなどと予想しなかった。ますます、年々、移民の馬車が行列
  になって、ゆっくりとオレゴンの荒野にあるいは未開で遠いカリフォル
  ニアへ進んだ。しかし、商業や金が太平洋岸の人々を育み、迷いを吹っ
  切るような蒸気機関車の警笛が不可思議で神秘の山脈の魔法を解き女性
  の権利がアラパホ族の要塞を侵害するなど夢想だにできなかったのだ。
  我々はこのすべてを予想できなかった。予想できたとしたら、おそらく
  我々は喜んだり、興奮したりしたことを後悔したことだろう。
  (訳注: 女性の権利の伸張とインデアンの問題は別途調査にて報告)

 1892年に、パークマンは「オレゴン街道」の二回目の改訂の序文を書いた時
に、大西部の時代が過ぎ去ってしまったことを嘆いて次のように書いている。

 あの時(1872年)以来、変化は突然変異へと生長した。先住民の弓、
 矢、盾、ぶら下げる頭皮などの戦利品の入ったテントの代わりに、我々に
 は町、都市や健康や楽しみを求める人の集まる場所があり、パリのファッ
 ション、雑誌、最新の詩歌、流行の小説などがある。より新鮮で勇ましい
 生活に魅せられた文明の子供たち、西部の荒野にたくさん押し寄せ彼らを
 魅了したものをだめにしてしまった。バッファローはいないし、その何百
 万頭のもので残されたものは骨だけであった。家畜の牛と有刺鉄線の柵が
 バッファローの群れと境界のない草地に取って代わった。それらの不協和
 音のセレナードを歌う狼は、夕方になれば旅人のキャンプのたき火の回り
 で吠えていたが、武器に屈し、その野生の声は聞こえなくなった。野蛮
 な先住民はその征服者の風刺画に醜く登場した。そのことは彼らを感傷的
 にさせたが、大いに苦しめる事にもなった。完全武装した馬車のゆっくり
 した行列が消え、特等列車による快適な近代的な旅行に代わった。熊、先
 住民あるいは悪魔さえ恐れない、とても勇敢で忍耐強い毛皮猟師は過去の
 ものとなるか、白いひげを生やした老人として生き残った。彼の代わりに
 カウボーイがいたが、その運命も尽きつつある。西部の荒野は従順になり
 野生の魅力もしぼんでしまった。

 若い時にパークマンはアメリカの西部が野生をベストに保っている時に見た。農
民、鉱山労働者、そしてその軍隊で損なわれていない時には、西部は少しの形容詞
でちゃんと表現できる地域であった。そして、歴史家はその名声は現在確固とした
ものだが、悲しことに幕引きの時にも立ち会うことになった。1893年にパーク
マンは亡くなったが、その時には西部はアメリカ合衆国のもう一つの巨大な部分に
なっていた。

[2010年08月21日22時38分]
お名前: カーター
毛皮商人との休暇(1839年)

 22才のエリアス・ウィリアード・スミスはそれほど幸せではなかった。彼は
ちょうどニューヨーク、アルバニー近郊のレンスラー大学の工学士の学位を得て卒
業した。4年間まじめに勉強したご褒美として、彼の父は彼に卒業のプレゼントを
した。それはすばらしいものだった。父のスミスは、エリアスに毛皮猟師と商人た
ちのグループといっしょにロッキー山脈へ行き、彼らや先住民とともに11ヶ月も
過ごす機会を与えたのだ。
 これはスミスにとって一生に一度の機会となった。彼はビーバーを捕えるため先
住民の脅威の中でロッキーの自然を歩き回りる有名な山男達について聞いていた。
後にはビーバーの需要は減少し、彼らの中には毛皮商人に加わるものもいたし、ま
た高原をしばしば歩き回る多くのバッファローの狩猟に集中するものもいた。今
は、しばらくスミスはその残されたものの一人になろうとしていた。
 スミスは1839年6月に仲間たちとミズーリ州インデペンデンスを後にした。
彼は尊敬すべき山男のアンドリュー・W・サブレット、ルイ・ヴァスケス、そして
フィリップ・トムソン(部隊の目的地のデイヴィー・クロケット砦の所有者)と
いっしょだった。また、ショーションインデアンの女で「ルイスとクラーク」(ベ
ンツフォートの建設1832を参照)を太平洋へ案内したサカガウィーの息子で有
名なガイドであったバプテイスト・シャルボンノーもいっしょだった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Baptiste
 グループはサンタフェ街道を通りカンザスを抜け、9月1日頃にラマーの東のア
ーカンザス河を横切って現在のコロラドに入った。9月2日のスミスの日記には次
の内容が見える。

 ごつごつして砂が多く、これまでこんな平原は見た事もないものだった。今
 日の午後には山脈が見えた。しかし、それらは、まだ150マイル(約24
 0キロ)以上もあった。こんなに遠くても見えたのは空気がとても澄んでい
 たためであった。空気がとても乾燥して澄んでおり、夜には露もないほどだ
 った。空気はとても暑い。今日は新鮮な肉がない。バッファロー肉はほとん
 どない。

 部隊はベンツフォートを次の日に通過し、9月5日にはちょうど頂上に雪をのせ
たパイクスピーク(コロラド州にあるロッキー山脈の有名な山)が見えた。次の数
日にはたいしたことが起こらなかったが、ある晩にアラパホインデアンの使いが
キャンプに来て話し合いを行った。スミスはその出来事を次のように書いている。

 彼らは東部のインデアンに比べて色が浅く、みんな見かけのいい奴らだった。
 彼らは二三人の妻らしい女を伴っていたが、美人に見えた。火のまわりに長ら
 がヴァスケスと円を書いて座り、長いパイプで煙草を吸い始め、それを何度も
 回した。彼らの中にはシャイアン族が一人とブラックフット族(北米のインデ
 アン)が一人いた。
 http://en.wikipedia.org/wiki/Blackfoot

 9月13日にスミスの従者はちょうど今日のプラッツヴィルの南のヴァスケス砦
(現在のデンバー市の北)に到着した。レンガの砦はプラッツ河のサウスフォークに
位置しており、地域の気ままな猟師達が集まるところであった。スミスは居留地に
滞在できるのが嬉しかった。その夜は37日間で初めて屋根の下での眠ることがで
きた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fort_Vasquez
 
 三日後にスミスとその仲間たちはデイヴィ・クロケット砦を目指して西へ向かっ
た。そこはヴァーミリオン河とグリーン河が合流するところでコロラド州の最も北
東の角に位置していた。彼らは9月25日にロッキー山脈の分水界を横切り10月
1日にデイヴィ・クロケット砦に到着した。
 1月24日にスミスとその仲間はその砦を出発しヴァスケス砦に向かった。厳し
い冬の山で立ち往生し、生き残るために捨てられ飢えて死んだ馬を食べなければな
らないこともあった。気候による数々の試練や困苦、食料の不足、そして極度の疲
労の後にそのグループは4月24日にヴァスケス砦を見つけることができた。
 スミスが4月26日に日記を書き始めてから彼は知らされていなかったのだが、
彼はこれまで経験したことがない河の旅に乗り出そうとしていた。その計画は、7
00頭のバッファローの皮と400頭のバッファローの舌(タン)を舟に乗せてプ
ラッツ川からミズーリ河へ下りセントルイスまで行くと言うものだった。彼は次の
ように書いている。

 我々は山脈の麓の砦で作ったマキノーボート(スペリオル湖で使われてい
 た平底船)に乗って出発した。このボートは36フィート(約108M)の
 長さで幅は8フィート(16M)あった。7人が乗っており、プラッツ川の
 サウスフォークからセントルイスまで漕いで下った。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Southplatterivermap.png
その川はとても浅く進むのが大変であり、数分に一度は砂州に乗り上げた。
 我々は300マイル(約480キロ)の道のりをほとんどボートを押して川
 を歩いて進まねばならず、49日もかかってしまった。

 その地域では娯楽はほとんどないから、皆でバッファローの舌を5月11日まで
にすべて食い尽くした。彼らは岸辺の先住民とウイスキーと肉とを交換し、ついに
6月にはポーニー族の村までやって来た。そこで彼らは11ヶ月の間に食べた中で
は初めて野菜の食事を頂くことができた。
http://www.kshs.org/places/pawneeindian/
6月22日にはスミスのボートはプラッツ川の河口を通り過ぎた。しかし、まだ
パーテイーはセントルイスからは1000マイル(約1600キロ)の距離にあっ
た。24日にはついに文明の地であるミズーリ州の小さな町に着いた。この旅行を
早く終えたいと考えたので、彼らはしばしば一日80マイル(約128キロ)を進
もうとした。1840年の7月3日、ついに彼らはセントルイスに到着した。彼ら
は2000マイルもの道のり(4800キロ)を69日かけてやって来たのだ。
 これでスミスの話の終わりではない。後に彼は優秀な技術者となり、デトロイト
とシカゴの水道の双方の設計と建設にかかわった。彼は南北戦争の時に、第113
歩兵連隊の兵站将校として、またニューヨーク州志願兵として第7砲兵連隊の少佐
として従軍した。戦後、スミスはバージニア州ウイリアムズバーグに移り、またワ
シントン市のジョージタウンには亡くなるまで住んだ。

[2010年05月29日17時35分]
お名前: カーター
長い間が空きました。連休で新しい章にトライしました。


サンタフェ街道の旅 −1839年ー

 若いマシュー・フィールドが1839年の6月ある日の夕方セント・ルイスの劇
場のステージに現れたその日に、家は片付けられた。それはフィールドの俳優とし
ての最後の日だった。「農民の話」と言う演劇のブリストルと言う役ではの演技は
一流だった。演技の後にフィールドは観客に涙をさそう最後のスピーチをした。
 28歳のフィールドはアイルランドからの移民であり、ミシシッピ河下流の渓谷
で過去3年くらい演劇の巡業で働いていた。最近になり、彼は呼吸器系の問題をか
かえていたが、胃潰瘍により悪化していた。彼はいい俳優であったが、演劇の経歴
は一時的なものであり、いつかは批評家にも相手にされなくなるのではないかと常
におびえていた。彼が求婚した二人の女性からいい返事がもらえなかったことも彼
の病気を悪化させた。
 7月にフィールドとその仲間はミズーリ州のインデペンデンス市を去り、サンタ
フェ街道への旅を始めた。彼らはその街道の名前にちなむ伝説的なメキシコの町に
向けて出発した。フィールドは日記をつけ、彼が合衆国に戻ってから彼の旅につい
ての長い連続の記事である「山脈と大草原のスケッチ」を書いた。新聞社はアメリ
カの大西部に関する直接的な記事を載せたいと考えた。フィールドはすぐに彼の連
作をニューオーリンズ・ピカユン(些細なことを意味する)紙に売却し、その引き
換えにその新聞社の編集補佐となった。
 サンタフェ街道は、フィールドが1839年に南部の大草原を横切った時にはま
だ18年しか経っていなかった。ミズーリと新しく独立した国家(1810年メキ
シコ革命、スペインから独立)であるメキシコとの間の商業的な交通路として、そ
の街道はニューメキシコの孤立した村落へ毛皮、銀やラバと交換に商品を輸送する
アメリカ人の商人に頻繁に使用された。フィールドは街道の地域やイベントに関し
て、存在している最も重要で正確なものの中から記述し、彼は1830年代の辺境
の奥地についての鋭い洞察を持って観察していた。
 現在、ラマー(コロラド州南東の都市)と呼ばれている、カンザスからコロラド
を横切る地域について彼のパーテイについて、フィールドは次のように書いてい
る。

  アーカンザスでは、心待ちにしていたオアシスに到着した。昔から商人に
 ビッグテインバーと呼ばれている楽しい場所に魅かれて心待ちにしていた。
 ここで部隊は、馬とラバを馬具から解放し豊富な草を食ませた。神々しい木
 々からなる深い森は、我々を熱から守ってくれた。木々の下には、山の雪解
 け水でまだ冷たい川が流れていた。我々は、岸から岸へと野生の鹿がほとん
 ど足を湿らすことなく跳ねるの見た。また、ひまわりを下敷きにしている野
 牛の巨大な背中があちこちに見えた。我々は疲れ果て、向こう見ずにも、普
 通なら持つあらゆる警戒心を解いて、飲み、入浴し、贅沢な疲労の中で木々
 の下に倒れ眠った。

 8月18日にフィールドのパーテイは、ベンツフォート(しばしばその建設者で
あるウィリアム・ベントにちなんでウィリアムフォートと呼ばれる)に到着した。
彼らは最近の滞在地であるビッグテインバーよりは新鮮に感じられた。現在のラ・
フアンタの町の近くのアーカンザス河の北岸にあり、ここからベンツ兄弟とセラ
ン・セント・ブレインは壮大なレンガの砦を作り上げ、毛皮の猟師、商人、そして
南部のすべての大草原からの様々な先住民の部族の集まる場所として奉仕した。フ
ィールドと彼の従者達はベンツ兄弟とその雇用者により王族にように扱われた。

 ロバート・ベントのもてなしの好意により、我々は丁重で楽しい数日間の接
 待に恩を感じた。我々のために肥え太った子牛が殺され、フォートウィリア
 ムで貯蔵されていた贅沢品が出された。砦の住人は楽しい人々で、我々は彼
 らと充分に握手するに値する若者であった。荒野での寂しい滞在を考えると
 こんば場所で会えたのはまさに天使の訪問のようであった。その数日間は、
 双方にとってありがたいものであった。

 ベンツフォートは、つい最近コマンチ族(先住民)による攻撃にあったばかり
で、警備の者が一人亡くなり、数頭の価値ある馬が盗まれた。コマンチ族の攻撃は
皆の話題となり、そしてもちろんこのような息もつかせないよう話題は、フィール
ドがニューオリンズの読者に当然読ませるべきものだった。彼は雄弁に次のように
書いている。

 ベント兄弟はその時、プラッテ川の上流の分岐点で先住民と交易を行って留
 守であり、砦には20人しかいなかった。それはちょうど蒸暑い昼で現場に
 は強い光と熱が注いでいた。風は音もなく、昆虫は飛ぶ音も立てず、アーカ
 ンザス河の波はうなり、昼は夜のように静かで息を止めたように静かだった。
 まどろんでいた砦の住人は、アーカンザス河の対岸に現れた突然の数百人の
 コマンチ族の戦いの金切り声に驚いた。...ほとんど同時に見張りから砦
 にかすかな叫びが届いた。目覚めた砦の住人が門から流れ出ようとしていた
 時には、すでに家畜はすべてアーカンザス河の向こうの緑の岸辺へ目指して、
 野生の馬に乗った20数人の赤い鬼(先住民のこと)に導かれ群れをなして
 逃げていた。一方で、勤務中であった不運なスペイン人が砦までよろめいて
 行き、彼の体に三つのとげのついた矢がささって倒れるのが見えた。

 事実、フィールドはサンタフェ(ニューメキシコ州)に到着しそこで十分に滞在
を楽しんだ。彼は秋にはセントルイスに戻り、そこからニューオリンズへ行き、執
筆とピカユン紙の編集の仕事を始めた。フィールドは後にセントルイス新聞の共同
所有者となった。1844年の夏に彼は再び病気になり、11月の始めにボストン
からモビール(アラバマ州南部の都市)とニューオリンズ(ルイジアナ州)に向け
て船に乗った。ボストンを出てから二日目にフィールドは亡くなり、静かにそして
葬式もなく海に葬られた。

Matthew C. Fieldについては下記の本がある。

http://www.amazon.com/Matthew-C.-Field/e/B001KHN7CA

サンタフェ街道については下記のサイトのview mapをクリック。

http://www.nps.gov/beol/index.htm

[2010年05月05日18時51分]
お名前: カーター
ベンツフォートの建設(1832)
(フォートはとりで、交易市場、要塞を意味する。)

 チャールズ・ベントは4人兄弟の一番の上であったがコロラド州で良く知られ
ている。彼は6才の時に、1806年に家族とともにセントルイスに到着した。そ
の時には、彼は自分が南の大草原の指導的な開拓者で商人になるよう運命づけられ
ているとは思ってもいなかった。四分の一世紀を経て、彼の弟のウイリアムとパー
トナーのセラン・セント・ヴレインとともに、ベントはアーカンザス川の北岸に商
業拠点を築いた。そこは現在のラ・ファンタと言う町に近い。この小さな居留地
は、すぐに現在のコロラド、ワイオミング、ユタ、ニューメキシコ、アリゾナ、テ
キサス、オクラホマ、カンザス、ネブラスカと言った数百平方マイルもの商業圏の
中心地となった。

 ベントがセントルイスに到着した頃には、この町はすでにアメリカの大西部への
出発点となっていた。その若者は川岸で会った荒くれ者の開拓者達に魅せられた。
ルイスとクラークの探検についての話でもそうだった。その探検隊は、2年前にセ
ントルイスからミズーリ河を上りしばらく音信が途絶えていた。(この探検につい
ては下記参照)
http://en.wikipedia.org/wiki/Lewis_and_Clark_Expedition

 チャールズは大人になるとミズーリ毛皮会社に入り、ミズーリ河の上流でビー
バーのわなをかけてみた。その会社ではちょっとした成功であったが、チャールズ
は生計を立てるのに別のことを考え、新しく開かれたサンタフェ交易に狙いを定め
た。チャールズ・ベントは、高価な”らば”を買う余裕のない商人に資金の猶予を与
えて、サンタフェ街道沿いで重い荷車を引くのに雄牛を使う方法を考えついた。
1831年10月に合衆国戦争長官(大統領に指名され軍事のすべてを扱う)に宛
てた手紙で、ある人物がノートに記している「ベントの雄牛を使うと言う試みは、
三つの目的に対する答えとなっている。つまり、まず荷車を引くため、次に先住民
が盗むのは馬やラバであり雄牛ではない、三番目に必要なら雄牛は食料にすること
ができる。(戦争省長官については下記参照)
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Secretary_of_War    

 しばらくして10才若い弟であるウイリア・ムベントは、アーカンザス河の上流
でわなをうまくかけられるようになった。チャールズとセラン・セント・ヴレイン
とともに1832年に彼らの会社を起こした時に、ウイリアムにいっしょに商売を
しようとさそった。
 ウイリアムは、アーカンザス河に交易所を建設するのを担当した。それは最初は
彼の名を取ってウイリアムフォートと呼ばれた。後に名前はベンツフォートに変
更されたが、後でも時々ウイリアムフォート呼ばれることがあった。ウイリアムは
ベンツフォートの現場のマネージャーであり、チャールズとセント・ヴレインが文
明の地へ行き来して常に拠点に出入りしているアメリカ人、メキシコ人やフランス
系カナダ人の毛皮商人達が必要としている商品を調達、供給した。
(再建されたベンツフォートのイメージは下記)                            
http://www.nps.gov/beol/index.htm

 ベンツフォートは、サンタフェ街道を行く疲れた旅人には見るもうれしいもの
だった。元俳優のマシュー・フィールドは1839年の鉄道の旅でその交易所を訪
れた。彼はニューオリンズ・ピカユン(些細な事の意味)に記事を書いて、生き生
きと描写している。

  粗末な草原の土で建てられて、つまりわらと草原の草を混ぜ合わせただけ
  で作られていたが、壁の強さと耐久性は驚く程すばらしいものであった。
  丸い塔からは大砲がのぞき、建物の中は隅々まで清掃されており、壁は
  15フィートくらいの高さ(約4.5M)であり、塔の上から攻撃を開始
  するにはとても都合の良いものであった。交易所には200人が常駐し、
  300から400の動物を囲いの中に収めることができた。それから荷車
  を入れる広大な保管庫があり、大きくて重い荷車を保管しており、一年に
  二度合衆国から商品を持ち込み、またバファローやビーバーの毛皮を運び
  出した。
  さらに、家畜、家禽(鶏など)、捕獲され飼い慣らされた草原の動物のた
  めに大きな壁で仕切りがあり、また鍛冶屋や大工の店などもあった。それ
  から住居、台所、快適さのために手配されたすべてが、旅人にとって心地
  よい驚きとなった。それはまさに、広大な砂漠の中で目の前に空中の楼閣
  が地上に降りて来たようなものだった。

 もう一人イギリス人のジョージ・フレデリック・ルクストンと言う旅行者がい
て、メキシコ戦争の時に南西部をしばしば来て1847年にベンツフォートを訪れ
た。後に彼は「ファーウエストの生活」と言う本を書き、「その交易所の外観はす
ばらしく、いかなる居留地からも数百マイルののところに立地し、広大で生気のな
い草原の上にあり、敵対的な先住民の集団に囲まれ、文明化された人との交際も途
絶えている。」(注: アメリカではメキシコとの戦争を米墨戦争と言わずメキシ
コ戦争と言う。これをきっかけにアメリカはメキシコから、テキサス、カリフォロ
ニアなどなどを購入した。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/米墨戦争

 ベンツフォートはサンタフェ街道に数年間君臨した。しかしながら、時間が経つ
につれ大多数の幌馬車はその交易所を迂回し、代わりにシマロン・カトオフを通る
ようになった。そしてその城(ベンツフォートのこと)は、不毛の地域の中での重
要性を失うこととなった。ウイリアム・ベントは1849年のある日彼の家族と荷
物をまとめその交易所を去り、二度と戻らなかったと言う話だ。ある記事には、ウ
イリアムはアメリカ陸軍から交易所に対する正当な対価を得ることができなかった
ので、彼が立ち去る前に建物を慎重に爆発したと書かれている。(注: シマロン
カトオフは下記を参照。カンザスからコロラドに入らず、テキサスからニューメキ
シコに入る。)
http://www.santafetrail.org/chapters/cimarron/Cimarron-Cutoff-SFTA-Chapter.php

 現在ではベンツフォートはすべて再建され、かつての栄光を取り戻している。ラ
ファンタ近くのコロラド草原の上に立っており、合衆国国立公園の一つとなってい
る。そこを訪れるとサンタフェ街道やよく出入りしていた冒険的な商人たちの風景
やざわめきがもう一度蘇って来る。

注: 今回からインデアンと言う言語を先住民と言う訳語に変更しました。


[2009年12月30日10時27分]
お名前: カーター
最初のプエブロへの移住(1822年)

 ジェイコブ・ファウラー少佐の職業は検査官であった。しかし、1822年の
凍りつくような1月のある日にア−カンザス川の上流まで行ったのは彼の使命では
なかった。むしろ、それはヨーロッパとアメリカ東海岸のインテリの男や女たちの
ビーバーの帽子に対する熱狂によるものだった。一攫千金を狙って冒険に出る多く
の男たちと同様にファウラーもビーバーの毛皮の猟師となったのだ。
 吹きすさぶ風は彼の顔に容赦なくあたり、ファウラーは時間をかけて彼の仕掛け
たわなをチェックした。その日彼の日誌には下記のような書き込みがあった。

  1822年1月6日(日曜日)ウオームスプリングブランチ(地名か?)
  まで向かい、二つのわなを仕掛けた。しかし、気候はとても寒くビーバ
  ーは来ないと思う。ダグラス(ジョージ・ダグラス、ファウラーの猟師
  のうちの一人)は夕方馬でやって来て、バッファローが見え、ハンター
  たちが朝方には探すだろうと報告した。
 
 この簡単ななぐり書きは、将来コロラド州のプエブロ市となる場所にジェイコブ
・ファウラーが現れたことを示している。
 今日、プエブロは雄大なロッキー山脈の南部に横たわっているが、10万人以上
の都市として栄えている。正式に成立したのは1858年であるが、1870年に
は合併した。しかし、プエブロの場所が最初に永続的に占拠されたのはファウラー
とその部下たちによるものであり1822年のあの寒い1月の日のことであった。

 ファウラーの日誌への書き込みの4日前に、彼の猟師のパートナーであるヒュー
・グレン大佐は数人の部下を連れてサンタフェに向った。その数日前に、ファウ
ラーとグレンはスペインの兵士たちに出会い、メキシコはスペインから独立したの
でアメリカ人の猟師や商人がサンタフェや他のニューメキシコの町に入って来る
ことを歓迎すると聞いた。従って、「グレン大佐と4人の部下は、彼らの出費を払
うために売るための物を持って、残りの商品は8人の部下と私のためにキャンプに
残して出発した。」
 ファウラーと彼の部下はインデアンを恐れて、グレンの帰還を待つために丸太小
屋と馬小屋を建てて腰を落ち着けた。
 1月15日にファウラーは、「凍り付いたアーカンザス川を渡り、川の北側に新
しい居住地のためのいい場所を探した。」今までファウラーはグレンはサンタフェ
で捕虜になっていると考えており、またまもなく彼自身のキャンプも兵士に攻撃さ
れるであろうと考えていた。結局、彼はアーカンザス川から離れたところに新しい
家と馬小屋を建てることにした。もし、「スペイン人たちが敵意に満ちて現れた時
にアメリカの土地で戦うつもりであった。川は以前の条約では境界であった。」
 次の日にファウラーと部下たちは新しい場所に馬小屋を建てた。18日には、部
隊3つの部屋と外に出るドアが一つしかない家を建てたが、「夜中に馬が知らぬ間
にいなくなることがないよう家を馬小屋に近付けた。」次の数日は狩りをしたり、
わなを仕掛けたり、またグレン大佐からの音信を待った。
 ついに、1月末になってグレンからのニュースが届いた。彼はサンタフェの新し
いメキシコの当局により丁重に扱われ、スペインの土地で狩りをし、わなを仕掛け
交易を行う許可を得た。「ファウラー少佐とその小部隊はニューメキシコでグレン
と合流する計画をすぐに立てた。ファウラーのグループは、その場所で約1ヶ月を
過ごした後に、1月30日にプエブロの基地を去った。その部隊は西へ数マイル進
み、そして次の日にファウラーは、「左側のスペインの道路にぶつかり(ニューメ
キシコのタウスにつながっている)、その道を通り5マイルすると昨夜を過ごした
川の支流に着いた。
 南西に進みファウラーの部隊は2月6日に今日のコロラド州とニューメキシコ州
を区切っていると想定される線を横切った。二日後に彼らはグレン大佐とタオスで
合流した。リオ・グランデ川またサングレデクリスト山脈の中で数週間にわたりわ
なを仕掛けたりした後、6月1日に再統一された部隊は合衆国へ向けて出発し、
1822年の7月15日にセントルイスに到着した。
 今日のプエブロ市への公式の永住は、黒人の猟師であるジェームス・ベックワー
スによる数年間の滞在によるものである。彼の本である「ジェームス・ベックワー
スの生活と冒険」(不屈の猟師で商人)によれば、次の通りである。

  秋になれば、私は妻を連れてインデアンの土地へと戻った。1842年の
  10月の始めにはアーカンザスに着いて交易所を開き、ビジネスで成功し
  た。短期間に私は15人から20人に猟師とその家族に加わった。我々は
  みな共同で働き、干乾しレンガで60ヤード四方の砦を建設した。次の春
  には我々はかなりの規模の居留民へと成長した。そしてそこをプエブロと
  名付けた。

 しかし、実際にはジェイコブ・ファウラーの日誌の書き込みに見られるようにー
また、もちろん永住への決意によるがーファウラーは少なくとも20年早いと言う
理由でベックワースに勝るかも知れない。

[2009年12月05日21時49分]
お名前: カーター
ゼブロン・パイクの偵察任務(1807年)

 「あれは何だ。レッドリバーではないのか?」ゼブロン・パイク大尉は叫ん
だ。その時、スペイン騎兵隊の随行員がリオ・グランデ川(コロラド州南西部の
サンファン山地からニューメキシコを経てテキサスとメキシコの国境を流れ
る。)の上流に沿って彼に近づいていた。それは1807年の2月26日のこと
で、パイクとその部下達はセントルイス(ミズーリ州の州都)を出てから7ヶ月
以上も任務にあったが、それは表向き神秘のレッドリバーの上流に向かうと言う
だった。

 しかし、パイクと部隊の誰もがレッドリバーの近くにはいないことがわかって
いた。そして事実、彼らは米国とスペイン領の奥の国境を横切ろうとしていた。
そのスペイン人の隊長は丁重にパイクと部隊にらばを提供し、レッドリバーの源
流へと連れて行き帰国するよう指示したが、パイクは拒否した。  
    
なぜパイクがその寛大な処置を受けずに拒否したかと言うと、文字通りに任務を
達成するだけでなく、厳しい冬のロッキー山脈へ行ってから帰ろうとしていたか
らではなかろうか?その問いに答えるには、パイクの探検の計画の立案者である
ジェームズ・ウィルキンソンの動機の裏話を知らねばならない。すでに米国の高
位の将軍となっていたウィルキンソンは、1805年には購入したばかりのルイ
ジアナ領(米国が1803年にフランスから購入)を統治すると言う新たな責任
を与えられた。その任務はウィルキンソンがしばらく暖めていた計画を実行に移
す格好のチャンスであった。それは前米国副大統領のアーロン・バーの援助で南
西部に帝国を樹立すると言うものだった。ウィルキンソン将軍は二重スパイで
あった。彼は米国とスペインの双方に仕えた。彼は何年も彼とバーとを中心人物
とするスペイン領アメリカ政府を作ろうとスペイン当局と画策していた。それは
つまり統治者である将軍が、ゼブロン・パイクをレッドリバーの源流を探るとい
う想定で派遣し、同時にスペイン領と南西の町の様子を事実上スパイしようとす
るものであった。

 パイクと23人の部下達は1806年の7月15日にセントルイスを発った。
彼らはミズーリ河を上りオーセイジへ、つまり現在のミズーリ州のオーセイジイ
ンデアンの村へ着いた。パイクが、スペイン軍(ニュースペイン領で最も重要と
なっていた)は彼の部隊を迎撃しようとしているのを知った時には、彼らはカン
ザスのどこかにいた。阻止されずに彼らは進み続け、10月にはパイクは今日の
カンザスとコロラドの境界を通過し、アーカンザス河の岸にキャンプした。そこ
はいつかベンツフォート(ベンツの砦)と呼ばれる場所だった。(ベンツフォー
トは1833年にチャールズ・ベンツらがシャイアン、アラパホなどの草原イン
デアンとの野牛の皮の取引のために築いた。)

 10月28日にはパイクはジェームズ・B・ウィルキンソンつまり将軍の息子
と四人の部下を、ノートと調査した地図を持たせてアーカンザス川へ派遣した。
パイクと残りの部隊はロッキー山脈へと西へ向かい11月15日にはパイクの部
隊はついに発見した。パイクには小さな青い雲のように見えた。彼らが近づくに
つれ、プエブロからコロラドスプリングスの地域にある巨大で壮大な山脈が見え
た。11月27日には彼らはシャイアン山(北アメリカ航空宇宙防衛司令部=通
称NORADOがある)の山頂に登った。後にパイクスピークと呼ばれるように
なったもう一つの山には若い大尉も彼の部下も誰も登らなかった。

 本格的な冬が来ていたが、装備の貧弱な探検隊員はコロラドロッキーの南方を
数週間さまよっていた。1月の始め頃、彼らはプエブロの近くに風雨をしのぐ営
倉を建設した。2月にはパイクと隊員たちはさらに南へ移動しリオ・グランデの
上流に営倉をもう一つ建設した。

 スペインからのレッドリバーへの案内の後に帰国する様にとの申し出を断った
後に、パイクと部下たちは拘束され最初にサンタフェに連れて行かれ、そしチワ
ワ(メキシコ北部の町)へ連れて行かれた。彼らのすべての書類、ノート、地図
はスペイン当局に没収されたが、パイクは当局から大変丁寧に扱われた。彼はス
ペイン陸軍の軍事力を調査するには十分な時間があった。事実、ある高名な歴史
家であるウィリアム・H・ゲ―ツマンが言うように彼の任務はアメリカの歴史で
最も成功したスパイ行為であった。

 最後に1807年の春にはパイクと部下は捕虜から解放され、アメリカ合衆国
へ送られた。パイクは好奇心旺盛なウィルキンソン将軍に彼がニュースペイン
(メキシコのこと)で見聞きして覚えていることをすべて話した。もちろん、
ウィルキンソンとバーの南西帝国の計画は何も実現しなかったが、1812年の
戦争(米英戦争。イギリス、カナダ、インデアンに対して米国が宣戦布告)が近
づいておりパイクの軍の内部での運は上昇し、階級においても継続して昇進し
た。1813年3月には彼は陸軍准将となった。翌月、ヨークオンタリオ
の戦いで彼は戦死した。(ヨークは現在のトロントで、米英戦争のカナダ戦線。
アメリカのカナダ征服は失敗した。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

 彼がニュースペインから持ち帰った軍事敵情報に加えて、パイクはアメリカ人
を大平原への移住を数年間思いとどまらせる「大アメリカ砂漠」の神話を宣伝す
る責任もあった。彼は、広大で木のない草原は「我々の人口をある程まで」制限
するであろうと書いている。また、「我々アメリカ人は放浪癖があり、未開の土
着民がうろついている土地には耕作できな大草原があるため、必要であってもミ
シシッピ、ミズーリの西の辺境を開拓することはできないだろう。」

[2009年10月12日14時08分]
お名前: カーター
広嗣さん横レスをありがとうございます。翻訳は一読した後の作業が
多いです。New Spain(メキシコの古い名称)や Great Basin(米西
部の盆地)などはネットで調べます。英和辞典に載っていない単語は
下記のような語学雑誌社のサイトで調べたりします。

http://www.alc.co.jp/

アメリカの歴史も知っているようで知らないことが多いですね。

[2009年09月23日14時17分]
お名前: カーター
8月7日には北西へと進み続け、探検隊はすぐにピエドラ川を渡った。夕方遅くには、
現在のイグナチオの町の近くのロスピノス川の川岸にキャンプをした。彼らは現在のユテ
インデアンの国にいた。
 次の日はスペイン人の小さな集団は、現在のオックスフォードの近くのフロリダ川を
渡った。現在のデユランゴの近くのアニマス川で野営をした。9日には、エスカランテは
アニマスとラプラタ川の間に模様を次のように記している。

  山脈の近くなので雨が頻繁に降り、湿気が多い。このため、森には高い松の
 木や小さな樫の木や様々な野生の果実、谷間ではすばらしい牧草があった。こ
 この気候は7月や8月のでもとても寒い。
 
 ドミンゲス・エスカランテ隊は旅を続け、現在のマンコスとドロレスの町を通った。
そのスペイン人たちは、メサベルデ(下記参照: 西暦500年から1300年頃までの
アナサジ族の崖の共同住居)から数マイルの所にいたが、二人とも崖の住居については述
べておらず、そこは100年後に発見されたであった。
http://www.usatourist.com/japanese/places/colorado/mesaverde.html

 ドロレスのちょうど向こう側には、人々がニューメキシコのインデアン(プエブロ族と
ホピ族)のものと同じような小さな住居に住み着き、我々が調査した廃墟として示されて
いる。このアナサジ文化の廃墟は西暦900年頃に居住されていたが、現在は北西ドロレ
スのエスカランテ歴史遺跡の一部を成している。
 8月16日までに、探検隊は現在のエグナーの近くまで来ていた。そこから、北東へ向
かい、現在のナチュリタ、ヌクラ、モントローゼを通った。モントローゼから二人の修道
士は逆のS字を描いてオラテ、パオニア、ボイー、コルブランを通った。彼らは、グラン
ドバレーの近くのコロラド河を横切り、ホワイト川と合流するダグラス川を下り、そこで
9月上旬にキャンプをした。
 ダグラス川のそばで、エスカランテは次のように書いている。「手書きされた描写した
三つの盾と槍の刃先を見た。さらに下の北の方にはもう一つ絵があり二人の男が戦ってい
た。」これは西暦700年から1100年までここに住んでいたフレモント文化の人々に
よる作品であった。9月10日あるいは11日には二人の修道士とその一行はコロラドか
らユタに入った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fremont_culture

 ドミンゲス・エスカランテ隊はモンテレーにはとても行けなかった。ユタと北東部のア
リゾナを通ってサンタフェに戻った時には、太平洋の近くまでは行かずにグループはグレ
ートベイスン(ロッキー山脈とシェラネバダ山脈の間にある地域)のかなりの部分を旅し
た。この旅の間にはその一行は白人が見たことがない地域を旅したのだ。
ニュースペインの先輩たちには知られていないインデアンの部族にも遭遇した。その任務
自体は失敗であったが、二人のつつましい僧は画期的な発見の旅、また武器によらない平
和の旅を成し遂げたのである。

[2009年09月23日14時02分]
お名前: カーター
コロラド物語(ドミンゲス・エスカランテの探検)1776年

 1776年7月1日、フィラデルフィアでの大陸会議(1774〜81年の間に2
日間にわたって開催された諸州代表の二つの会議)で独立宣言が採択された。遠く離
れたスペイン領サンタフェの(現在はニューメキシコ州の州都)町では、二人の男が
カリフォルニアのモンテレー(サンフランシスコの南の町)に行って戻って来ようと
言う遠征を計画していた。
 計画が発表されても、二人は7月29日までは旅行を始めていなかった。10人の
平和の部隊がサンタフェの広場を離れたのは早朝であった。武器を持たずに、神がそ
の栄光にふさわしい通行を約束してくれ、すべての人間が生きて帰れるものと期待し
ていた。1777年1月2日にサンタフェに戻って来るまでに、彼らは今日コロラ
ド、ユタ、アリゾナ、そしてニューメキシコと言われている2000マイル
(3200km)もの荒野を旅して来たのだ。
 探検隊の二人のリーダーは、36歳のフランシスコ派(イタリアの僧フランシスコ
が開いた)のフランシスコ・アタナシオ・ドミンゲスと10歳若いフランシスコ派の
僧であるフランシスコ・シルヴェスター・フェレス・デ・エスカランテであった。旅
行の数カ月前の数カ月、エスカランテはラグーナ・プエブロ(ニューメキシコ州のプ
エブロインデアンの住む町)とズニ(ズニ族の住む町)で宣教師をしていた。ドミン
ゲスも様々なプエブロ族の村を訪れたことがあるが、それはメキシコシチーの先輩に
よりニュースペイン(メキシコの古い名称)の北方の土地を調査し記録するために派
遣されたためであった。 
(訳注: ズニ族については日本史ボードの中の「インデアンと日本人」を参照)

 あの7月の朝サンタフェを出発したのは風変わりな集合体であった。二人のフラン
シスコ派の修道士に加えて、天文学者、製図家、ガイドの長で通訳、ズニ族の長、鍛
治屋、そしてもう4人がいた。彼らが乗る馬に加えて、彼らは乗用の馬、荷物を載せ
るらば、そして牛を伴っていた。
 旅行の始めの数日は何も起こらなかった。サンタクララ・プエブロでリオ・グラン
デ(テキサスとメキシコの間の川)を渡る時には、探検隊は北西の方向に進んだ。8
月1日にはチャマ川を渡った。同じ方向に進んで、8月5日には今日のコロラド州と
の境界に達した。廃墟となっているカラカスの町の近くのサンフアン川(現在のナボ
ホ保護区)を渡り、ドミンゲス・エスカランテ隊はコロラドに入った。
 現在のナバホの保護区の近くに、境を越えて数マイルの場所でスペイン人の修道士
ば彼らの好みの場所を見つけた。エスカランテは、彼の日誌に次のように書いてい
る。
  3、4の大きな部落に必要な灌漑施設とすべてが整ったいい土地があった。
  深くて暗い森があり、はこやなぎ、樫の木、小さくら、小りんごなどの木が
  あった。また、薬草なども少しあり、栗のように見える木もあった。

 現在では、この土地はコロラド州の南西部のナバホ保留地の下方にある。


[2009年09月23日13時46分]
お名前: 広嗣
 横レスです。

 「コロラド物語」の原題「It happened in Colorado」は、アメリカ合衆国版アマゾンによると「It happened in Series」の一つのようです。

http://www.amazon.com/s/ref=nb_ss?url=search-alias%3Daps&field-keywords=It+happened+in+Series&x=10&y=17

 レスと言ってもこれだけですが、続編を楽しみにしています。(m(__)m)


[2009年09月20日16時37分]
お名前: カーター
すぐに彼らにはゴーゴーと言う音が聞こえた。大地は揺れてバイソンが水のある場所
に気づき、さらに早く動いていた。アロヨは大地のへこみにすぎなかったが、その先
端に向かってバイソンは一直線になった。群れはますます早くなった。のどの乾いた
バイソンが谷に入ろうとしていたその時、狩猟民たちはその場で立ち上がり、野牛の
衣を振り、できる限り大きな声を上げた。

狂乱状態となったバイソンは水辺の方向へ向きを変えたが、数人の狩猟民たちが草の
中から立ち上がり、バイソンを谷の真ん中へ真っすぐに向けさせた。先導しているバ
イソンが谷に近づいていたが、バイソンには奈落の底に踏み込もうとしているのがわ
からなかった。もう手遅れだった。後ろに群れていたバイソンは前にいるバイソンを
押し、がけから突き落とした。バイソンは谷底に落ち、その骨は折れ血が流れた。谷
の反対側に隠れていたたくさんの狩猟民たちは、下で折り重なっているバイソンの肉
片に向かって飛び下りた。そして、生き残ったバイソンを槍で殺した。それは数分の
でき事であった。

それは効率のいい猟であった。200頭近くのバイソンすべてが、アロヨの谷底に死
んで横たわった。その日の終わりまでには、女たちがバイソンの皮をはぎ、肉の処理
を行った。彼らは、後続のバイソンに押され最初にがけの端に達した数頭のバイソン
には手を触れなかった。

考古学者はこの古代のバイソンの狩りについては約8500年前のコロラドの南東部
にあるビッグサンデイークリークでのでき事だとしている。5万7千ポンド(約26
トン)の肉と1万ポンド(4.5トン)の獣脂と内臓を獲得した。そして、このよう
な先史時代の部族民は、現在の平原インデアンに似ている。かれらもまた、たくさん
の骨、靭帯(じんたい)やその他のバイソンの体の部分を利用している。

ビッグサンデークリークの遺跡は、アマチュアの考古学者により1957年に発見さ
れた。現在、それは最も大切なアメリカの初期の住民の創意工夫の跡として残ってい
る。バイソンの猟は偶然のものではない。それは事前の計画、バイソンの習性につい
ての知識、そして集団の協力の成果であった。年が下っても、平原のインデアンは一
度に数百のバイソンを屠殺するのに同様の技術を使用した。         
  (第一話の終わり)

[2009年08月13日21時56分]
お名前: カーター
野牛の狩猟(BC6500年以前)
 大人の男女の100人余りの一団が、大きくなった子供たちの小さなグループを引き
連れていた。小さな子供たちは2マイル(約3.2km)先のキャンプに数人の女性と
ともに残っていた。その日は南東のコロラド平原の初秋によくある暑く乾燥したもの
だった。しかし、その集団の男女にとって気候は重要ではなく、今日はバイソン(アメ
リカ大陸の野牛)の狩りの日だった。誰もが太陽は西の空に消えるまでには、冬に備え
ての食用の獣肉と衣料としての獣皮がかなり手に入るだろうと思っていた。その人々は
この土地の人間ではなかった。彼等はバイソンの狩りのために東から乾燥したプレーリ
ー(アメリカミシシッピ川流域の大草原)を越えてやって来たのだ。彼等には生地とい
うものがなく、代わりに食料やテントの材料に使用できる獲物を追って継続的に移動を
した。
 馬は元々北米に自生していたのだが、すでに絶滅していた。そして8000年以上
後になって初めてヨーロッパ人により持ち込まれたものだ。その結果、この土地の人々
は考古学者がパレオ人と呼ぶ文化を持った集団であり、犬だけをいつも伴っており、徒
歩で移動していた。その人々は槍と皮はぎ用のナイフで武装していた。弓と矢は、まだ
新世界には持ち込まれていなかった。
 前の日に、二人の見張りが新しいバイソンの群れが近づいていると報告した。興奮し
た二人は小さなキャンプに駆け込み彼らのリーダー達に相談した。二人は族長に二百頭
くらいのバイソンが直線になってまっすぐにキャンプの方向に近づいているのを見たと
伝えた。見張りはその群れからおよそ20マイル(約32km)ほど離れていて、昼頃
にはバイソンは近くにある小さな水路まで近づくだろうと推測した。
 彼らは経験から、あの巨大で毛深い獣が新鮮な水の飲めるあの小川でしばらく水を飲
むことを知っていた。見張りはまたキャンプから2マイル(3.2km)の上流には、
小さなアロヨ(米国西部のふだんは水のない川原)が平原を登ると水路に落ちているこ
とも報告した。アロヨは獣の道であり、バイソンが何百年にもわたって貴重な水を求め
て坂を駆け降りて固めたものである。そこでは谷が川岸に近づいており、幅が12フィ
ート(3.6m)、深さが7フィート(2.1m)しかなかった。狩猟民はアロヨの近
くでバイソンを待ち伏せすれば、険しいがけを驚いてどっと逃げて行くのではないかと
考えた。そして群れを攻撃するのには、バイソン1頭をしとめるよりも待ち伏せの方が
より効果的な方法であることに気づいた。
 地平線にゴミの雲のように見えるのがバイソンの群れだと狩猟民がわかったのは昼頃
であった。アロヨの先端に散らばり、男も女も背の高いプレーリーの草むらの後ろに隠
れて待った。幸運は彼らのものだった。風は右からつまり戦利品のいる方角から彼らの
方へ吹いていた。<続く>

パレオインデアンについては下記を参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%
E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3


[2009年08月09日19時13分]
お名前: カーター
著者について
ジェームズ・クラッチフィールドはアメリカの歴史の様々な場面について記した
40冊の本の著者である。彼は、モンタナ、コロラド、ワシントン、オレゴン、
アリゾナ、ニューメキシコ、テキサス、ジョージアで有名な8つの“物語”シリー
ズの著者である。彼は何百もの記事を新聞、雑誌、また「アンテイークマガジン、
アーリーアメリカンライフ、アメリカンカウボーイ」などの国民的な雑誌にも投
稿している。
クラッチフィールドが書いたものは「アメリカ西部作家協会」、「アメリカの州、
地方歴史協会、テネシー革命200年協会」からの受賞で認められている。彼はテ
ネシー歴史学会の元役員であり、現在はバージニア州ウイリアムスバーグ大統領公
園学会の役員である。彼と妻のレジーナはテネシーの南北戦争時代以前の家に住ん
でいる。

[2009年08月05日08時36分]
お名前: カーター
序文
 この本は先史時代から近代までのコロラドの歴史のいくつかの面白い話に光をあて
るものである。それぞれの話はそれ自身で完結しており、連続していないので独立し
て読むことができる。
 コロラドは歴史的にはとても重要な州である。この本の話は州の歴史全体を構成し
ようとするものではなく、「100年の州(コロラド州の別名)」の広汎な歴史的背景
を読者が理解しやすい様に選択されている。
 コロラド物語は読者が数時間は楽しめる内容であると期待している。また、おそら
く州について学習するきっかけになるだろうし、若い人たちが膨大な遺産について正
しい理解を得ることになるであろう。
(先のメッセージが文字化けしたので、日本文だけにします。)
[2009年08月05日08時29分]
お名前: カーター
7月上旬にアメリカのデンバー市に仕事で出張しました。私が歴史に
興味があることを話していたので、今回”It happened in Colorado"
James A. Crutchfieldと言う人が書いた本を頂きました。邦題を
「コロラド物語」として連載したいと思います。
30数件になる独立した話なので、翻訳しやすいので、2ー3年かけ
て連載してみたいと思います。

                    カーター

[2009年08月05日08時20分]
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