テーマ:マケドニア

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お名前: カーター
 アレクサンドロスに知性があったかと言う問題ですが、ここでは著者のアッリア
ノスの見解を紹介したいと思います。
「アレクサンドロスは、・・アテナイではヘゲシアがアルコン在任の年(前324
年)に死んだ。・・・・
 身体つき殊のほかに美しいばかりか、労苦をいとわず判断に聡く、勇敢にして名
誉にあこがれ、すすんで危険に身をさらし、神事またおろそかにはしないといった
諸点で、彼は衆に抜きん出ていた。肉体的な快楽追求と言う点では、己を持する事
きわめて強く、精神的な面でのそれについて言えば、彼が求めて飽くことを知らな
かったのは唯ひとつ、名誉名声だけであった。また先行き見通しがはっきりしない
場合に、必要為すべきことを洞察する能力は、まことに恐るべきものがあり、所与
の状況から起こり得べき事態を読み取る点でも、正鵠を射てあやまたなかった。
・・・」
   「アレクサンドロス大王東征記」アッリアノス著、大牟田章訳、岩波文庫
 著者は、さらにアレクサンドロスの軍略や兵士の士気を鼓舞するやり方に卓越し
ていたし、また「金銭のことについて言えば、彼は自分の快楽のためにはきわめて
倹約家だったが、友人のためとなると、まったく物惜しみすると言うことがなかっ
た。」と述べています。
 ここで、著者アッリアノスについて紹介しますが、フィラウイウス・アッリアノ
スは紀元2世紀ローマ帝国ビュテニア出身のギリシャ人です。元老院身分のローマ
市民で政界に活躍し、ハドリアヌス帝の時代にはコンスル、カッパドキアの属州総
督を勤めました。著者は、政治家としてのみならず文筆家としても名を残したいと
考え、狩りと猟犬を愛し「狩猟論」、グルジア総督巡視の旅で「黒海周航記」、
「戦術論」などあります。
 「東征記」については、カッパドキア総督在任中に書かれたと言われています。
アレクサンドロス東征についての書物には、御用歴史学者によることさらアレクサ
ンドロスを褒め讃えるものと、その専制、残忍さ、貪欲さといった暴君のイメージ
を批判するキケロなどの共和制末期から帝政初期ローマ人によるものとがありま
す。
 アッリアノスは、これら同時代ローマ人著作家たちによるアレクサンドロスに誹
謗的な解釈に不満を持ちました。賛美的なものは退けながら、プトレマイオスの著
作を発掘しこれを基本史料として、戦術論などはアリストブロスのものも加えて本
書を書いたと言われています。
 昨年の映画「アレクサンダー」においてもプトレマイオスが語り手として登場し
ましたが、史料としてプトレマイオスのものが優れているとの見解からであると考
えられます。


[2006年04月08日14時24分]
お名前: そんし
アレクサンダーがなぜ成功したのかという問いに、知恵者の戦略と武器を持っていたからと答えるのは、あれほどの偉業を行った人物ならひとかどの知性と理性を持っていたはずだという先入観からスタートして人物像の判断を誤った見方なんじゃないでしょうか。

バクトリアのロクサネーと結婚するのはまだ二十代後半のころでしょう。征服地との融和政策で政略結婚したとうがってみるなら、もっと効果的なダレイオスの娘とは結婚しなかったのって気がします。きっとロクサネーは、ギリシャ女に無い、つつしみぶかくて、とってもいい女だったんですよ。ただそれだけ。

まあここは、どこにでもいるやんちゃな御曹司が剣を振り回して暴走していただけと考えた方がわかりやすいような気がしてなりません。とはいえアレキサンダーにとっては二十代後半はもうすでに晩年ですけどね。

アレキサンダーの勝利は暴走こそがその原動力。イケイケで敵に向かっていっただけのことで、そんな深い勝利の法則があったような気はしないんですよね。結果論としては、あれが良かったというのはあるとは思いますが。

クレイトスがいくら親友とはいえ、居並ぶ部下の前で大久保越前みたいな態度をとられたら、そりゃあ殺して見せしめとするよりないでしょう。安定した国家建設には政治の場に元老院的な合議制を持ち込むのは良いことですが、成長期はやはり独裁者を頂点とする一糸乱れぬ統率力のほうが即断即決でいいにきまってます。

これ以上の反乱者が出るのを防ぐために、その後、親友を失った悲しみをみせるあたり、ちょっと大人になってきたかなぁといったとこでしょうか。

で何がいいたいのかと言えば、アレキサンダーの法則みたいなものがあって、それが戦争を勝利に結びつけたという事はなく、あれはただ止まらぬ勢いだけで、どんどんふくれていった中身の無い勝利だったのではないのかなと、いいたいわけです。そうそう今風に言えばバブル戦争みたいなね。

アレキサンダー死後、あっというまに国家が分裂して消えて無くなったのを見ても、あれはバブル崩壊としか見えないですしね。ね堀江さん。

[2006年03月21日23時36分]
お名前: カーター
 さて、アレクサンダーの軍がなぜあのように強かったかと言う疑問については、
答えとして大王自身が騎馬で先頭に立って戦ったこと、すぐれた戦略、兵士の配置
での優位、射出器などの飛び道具などがあげらます。しかし、アッリアノスの著書
を読んで感じるのは、他の民族にはない高度なギリシャの技術にあったように思え
ます。橋をかけたり、インダス河を下るために馬を乗せたりする巨大な船を建造し
たりと言った技術は後に、ローマにも受け継がれます。
 冒頭に出て来る北部のトラキア人との戦いでは、河を渡るのに皮のテントに干し
草を詰めて、イカダとしてその上を兵士は歩いて渡ったそうです。また、インド人
との戦争ではインダス河を渡るのに船をつないで船の上を兵士が渡って行ったそう
ですが、この技術がローマに受け継がれたものであると言われています。
 ソグデイアナの岩を攻略するにあたっては、ロッククライミングの技術を使用し
たと思われます。その方法について、アッリアノスは次のように述べています

『さて、これまでの城攻めで岩登りに経験を積んできた、人数にしておよそ300
人にのぼる全員が勢ぞろいすると彼らは、雪がかたく凍りついたかに見えるところ
や、どこでもともかく雪のない、地表面が露出しているところに打ち込んで、自分
たちの身体を安定させるため、日ごろテントの固定用に使っている小ぶりの鉄釘を
用意し、亜麻でできた丈夫なロープにそれをしっかり結わえつけたうえで夜間、そ
れも岩山のもともけわしく切り立った、それだけそこでは相手方の防備もまた、
もっとも手薄な箇所をめざして出発した。
 彼らは用意したテントペグを、あるいはむき出しになった露岩に、あるいはもっ
とも崩落しそうにない氷雪の中に打ち込んで固定しては、それぞれが思い思いの場
所に取りつき、自力で自分の身体を岩場の上へ上へと引き揚げたのである。この登
攀の最中に、彼らのうちのおよそ30人が死んだ。雪のなか、それもあちこちで滑
落したため、埋葬しようにも彼らはその遺体さえみつからなかった。しかし残りの
者たちは明け方近く、無事に登りきって山頂を占拠し、アレクサンドロスから指示
されていたとおりに、マケドニア軍の陣営にたいして合図の布を打ち振った。』

 この山頂を占拠したマケドニア兵を見てソグデイアナ人は恐れをなして降伏を申
し入れて来たそうです。バクトリア人オクシュアルテスは岩砦が欲しければ、まず
は翼のついた兵士を探してくることだと言って高笑いしたそうですが、通常想像で
きないことを成し遂げて攻めて来るアレクサンダーには勝てないと思ったのでしょ
う。そして、このオクシュアルテスの娘がロクサネで、アレクサンダーはロクサネ
と結婚したのです。

[2006年02月12日16時34分]
お名前: カーター
 アレクサンダーの軍は、イッソス(トルコ東南部)の戦いでペルシャのダレイオ
スの軍を蹴散らし、パレスチナを経てエジプトに入りペルシャの圧制に対する解放
者として迎えられました。そしてガウガメラ(イラク中部)の戦いで再びダレイオ
スの軍を破り、ダレイオスは遁走しました。マケドニア軍は、ダレイオスを追走し
ダレイオスはエクバタナ付近(イラン西北部)で部下のベッソスに殺されました。
 その後、アレクサンダーの軍はさらに東征を続けました。バクトリアではスキタ
イ人騎馬隊の漸減戦術(相手方に執拗につきまとい、その周囲を疾駆しつつ矢を射
込んで、相手戦力の漸減と疲弊を待ち、その上でこれを一挙に殲滅する)により、
マケドニア軍の一部隊が全滅すると言った事態もおこりました。この戦術は、中島
敦の「李陵」に描写されたような匈奴軍に悩まされる漢軍と似ていると言われてい
ます。
 アジアでの進軍が長くなるにつれ、アレクサンダーはアジア風の文化に染まって
行き、ペルシャ風の王冠を付けたりペルシャ風の跪拝の礼(右手を口にあてて下の
者が上の者にする礼)勧めたりする取り巻きがいたりで、マケドニア軍の間には不
満がたまって行きました。
 アレクサンダーに不満を持っていたクレイトス(前回のグラニコス河畔の戦いで
アレクサンダーを救った)は、酒宴でアレクサンダーの業績を巡って口論となりま
す。つまり、アレクサンダーの偉業とはたいしたことはなく、大部分はマケドニア
人の働きの結果ではないか、グラニコスの戦いではクレイトスのおかげで命拾いを
したではないか、アレクサンダーはベッソスに捕われたダレイオスと同じではない
かと。そして、アレクサンダーは護衛兵が持っていた槍を取り、クレイトスを刺し
殺したと言われています。
 この話には、昨今のリーダーと組織の間に存在する議論を思わせるものがありま
す。例えば、日産の改革はカルロス・ゴーンのリーダーシップによってなされたの
が事実ですが、塙前会長(ゴーンをルノーから連れて来た人)が言うように改革を
実行したのはもちろん日産の社員達でした。成果主義が叫ばれるこの頃ですが、リ
ーダーが成果を自分のものだと誤解し、部下に花を持たせることを忘れることがあ
ることがあってはならないと思うのです。アレクサンダーは若いリーダーでありま
したが、気配りのできるリーダーとして将兵にも人気があったと言われます。しか
し、クレイトスの誹謗中傷に耐えられるほどには成熟していなかったように見えま
す。
 アレクサンダーは、自分の友達を殺したと言って三日間食事をしなかったと言わ
れます。彼は弁解したりせず、人間であるために過ちを犯したことを素直に認めた
として著者のアッリアノスは賞賛しています。しかし、側近にはこの不幸な出来事
を彼のせいではなく、神の怒りによるものだとしたり、王のやることをすべて正し
いとする人達がいてこれがアレクサンダーにとって害毒となったと言われていま
す。著者によれば、「王者として大切なのは、真剣に熟慮を重ねたうえで正義をお
こなうことである..」です。

[2006年01月21日16時35分]
お名前: カーター
 アッリアノスの「アレクサンドロス大王東征記」岩波文庫を読んでいます。江戸
通さんの「槍の長さに」に啓発されたものです。この本は以前から読みたいと思っ
ていたのですが、映画「アレクサンダー」を見てからはいよいよ読もうと思ってい
た矢先の「槍の長さ」の問題提起です。
 この槍は、サリッサ(長槍)と呼ばれますが、マケドニアの戦法であるファラン
クス(密集歩兵部隊)の主要な武器として使用されたようです。この戦法は、アレ
クサンダーが北方のトラキアへ遠征した時に出て来ます。訳者の大牟田章さんは、
サリッサについて次のように説明しています。
「サリッサは、およそ55センチメートルの鉄製長葉形穂先を装着した、全長6メ
ートルの槍。重さは約7キログラム、両手で保持する必要があった。方陣は最前列
から第三ないし第四列までが槍を水平に突き出し、それより後方各列は、槍を斜め
前方に保って、突撃の衝圧力となった。」
  アッリアノス著「アレクサンドロス大王東征記」大牟田章訳、岩波文庫より

 読んで驚くのは、ペルシャ軍にはギリシャ人の傭兵が多かったと言うことです。
最初のペルシャ軍との戦争である「グラニコス川の戦い」ではペルシャの騎兵2万
と同数のギリシャ人傭兵が歩兵として2万が参加したのですが、アレクサンダーが
陣頭指揮を取るマケドニア騎兵によりペルシャは大敗しました。この模様をアッリ
アノスは、次のように書いています。この文章から、マケドニアのサリッサ(長
槍)がペルシャの騎兵に対して有効であったことがわかります。
「すでにペルシャ軍の方は、騎兵自身もその乗馬も四方八方から槍先で真向かいか
ら攻め立てられ、マケドニア騎兵のために押し返されつつあった。彼らはまた、騎
兵に混じった軽装兵からも攻撃されて、・・・・」
 ペルシャ軍のギリシャ人傭兵は、足枷をかけてマケドニアへ送還され強制労働を
させられました。それは、「ギリシャ人でありながら、ギリシャ人達の共同の決議
に違背して夷狄の側につき、ギリシャに弓を引いた、と言う理由であった。」から
でした。マケドニアが支配するギリシャに不満を持つギリシャ人が多かったと言う
ことであり、ギリシャ側は一枚岩ではなかったのです。

                       カーター

[2005年12月11日14時58分]
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