テーマ:古代史】倭

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お名前: 江戸通
何の話をしているのかな?
「ホマツタへ」と称し、神代文字があり、土器にも掘られていたとされ、盛んに日本が文化の源と言う主張が、されていましたが、とある電波灯の近くに、ハングル成立以前の韓国語の石碑が、見つかりあの主張が、崩壊してました。土器の側面は、ひとがたか、鹿形らしい文様は、ありましたが、ハングルには、にてません。神代文字は、有りませんでした。最近は、唐三彩を中心に、土器には、半島より大陸からの影響が、知られて解るようです。
[2018年09月08日20時35分]
お名前: 江戸通
奈良にばかりが、アンテナ灯の役割は、いらないのは、生駒山系の役割とか? かつて、財界の壁新聞だった産経新聞は、大手町では、電子か、されています。
[2018年09月07日21時35分]
お名前: 江戸通

地上波の放送局か、じつは、在り方が、問われているとと、TBSニュースバードの、キャスターが、報道してます。アナから、キャスター、時給の差は、350円化。
[2018年08月28日21時22分]
お名前: 広嗣
> 侵略は倭から朝鮮に対してと言う一方的なものではありません。
>元寇の時に元軍と一緒に来た高麗軍があります。
 約5か月経ってのresですが、確かに時代が下れば、そういうこともありました。いや、ここで扱っている古代でもそういうことはあったかも知れません。しかし日本側には文書の記録が残っていない為に想像の域を出ません。

 古代日本には文字がなかったと言われています。独自の文字に関しては事実です。ハングルの知識で読める「神代文字」が喧伝されたことがありました。その代わりに古代中国人が認識していた倭では漢字が用いられていました。あくまでも古代中国人が認識していた倭に限った話ですが、倭人は漢字が読め中国語が話せたと考えないと、説明できないことがあります。

 ここで古代中国人が認識していた倭と現在我々が考える倭の領域とは違います。古代中国人が認識していた倭については、このスレッドの2018年3月3日の書き込みをご覧ください。

 普段無視されていますが、倭人が中国に朝貢に行った際に何語で話したのでしょうか。倭語でしょうか。力関係を考えると、中国語でしょう。出会った当初は身振り手振りで意志疎通を図ったかも知れませんが、いつまでも続くとは思いません。

 西暦57年(建武中元2年)に倭奴国が遣使をし、使人自ら「大夫」と名乗ったと『後漢書』は伝えています。その際有名な志賀島で出土した金印とされる印を下賜されています。文書に押す印を下賜されるということは、この時倭が文書を提示していると考えるのが自然です。まさか子供のおもちゃにするために下賜したわけではないでしょう。

 238年(景初2年)の邪馬台国の遣使の際に魏から下賜された「親魏倭王」の印も同様です。

 倭人は遅くとも西暦57年には漢字を使いこなしていました。ここで言う倭人は官僚などの一部の倭人に限られます。ではいつ頃から倭人は漢字に親しんだのでしょうか。紀元前108年の漢の武帝による楽浪郡などの四郡設置が契機になったことが想像できます。紀元前194年に元々前漢からの避難民であった衛満が建国した衛氏朝鮮との交流も気になるところです。

 更に言うと、いつの頃からか倭人は少なくとも対外的には中国式に名乗るようになっていました。『後漢書』は107年(永初1年)に帥升なる王が生口160人を献上したことを伝えています。また「魏志倭人伝」は卑弥呼(邪馬台国の女王)、難升米(238年の遣使の際の大夫)、都市牛利(238年の遣使の際の次使)、伊声耆(241年の遣使の際の使節)、掖邪狗(同)、卑弥弓呼(狗奴国の男王)、台与(卑弥呼の宗女で後継者)の7人の倭人の名前を載せています。「卑弥弓呼素」だとする説もある卑弥弓呼を除くといずれも中国式に名乗ったと考えています。卑弥呼は一般に「ヒミコ」と読みますし、「日の巫女」の意味だと考える人もいますが、どうなのでしょうか。


[2018年08月26日08時12分]
お名前: 江戸通
慕韓は、何処なのか?同じ熊が、天から授かった6個の卵からふ化させ、国の礎をきづいた。三韓うち、新羅は、夏華人、親人、不豫か、三國志の英雄、ボキユーケンに打たれた者の国になってしまったらしい。
[2018年04月29日17時52分]
お名前: 江戸通
宋の末期、北魏が、都を囲むかと言うとき、百済を替え伽羅とした、除正が発布されてますね。伽羅というのは、南韓の鉄産出地域で、百済と斯羅の紛争地域、所属先が、はっきりしないでは、ありませんか、除正は、現代では、正しいことを避けるでは、
[2018年04月08日20時24分]
お名前: カーター
 侵略は倭から朝鮮に対してと言う一方的なものではありません。
元寇の時に元軍と一緒に来た高麗軍があります。ライダイハンの
問題を見てもわかる通りです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇


[2018年03月25日10時14分]
お名前: 広嗣
 カーターさん、私の書き方が悪くて誤解を与えたかも知れません。

 私も倭による朝鮮半島侵攻はあったと考えています。その逆はありません。


[2018年03月18日08時42分]
お名前: カーター
 広嗣さま、私は倭王について研究したことがありません
ので良くわかりません。私が申し上げたかったのは、広開
土王碑の碑文によると
「倭人は、新羅の国境に満ち」ていた。西暦400年に、
好太王は軍令を下し、歩騎五万を派遣して、新羅を救った。
高句麗軍が、男居城から新羅の国城にいたると、倭がその
中に満ちあふれていた。・・・・」
 と言うことで、倭人が古い時代から朝鮮半島を侵略して
いたということです。その逆ではないと言うことです。

[2018年03月17日20時59分]
お名前: 広嗣
 まずカーターさん、ご指摘ありがとうございます。約3年半も経つと自分の書いたことも忘れてしまいます。

 前回の書き込みの後で思い出したのが偶々カーターさんの書き込みと重なった、「宋書倭国伝」が伝える「倭の五王」の一人倭王珍の遣使でした。珍は自ら「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と名乗ったと伝えています。何故か今も持っている高校時代の参考書によると、「倭の朝鮮半島への進出」に触れた後で珍の遣使に触れています。しかし前々回の書き込みにあるように元々朝鮮半島南端部は倭の領域であったわけで、「倭の朝鮮半島への進出」とは無縁のものです。

 「倭の五王」は通常日本の天皇に比定されています。矛盾が生じれば、古代史学者お得意の「甲は乙の誤り」式の論法で矛盾を説明しています。「倭の五王」は日本の天皇と関係はありません。「宋書倭国伝」に記載されている倭王は、後に畿内大和の王(天皇)の王朝に征服されることになる王朝の王です。

 「倭王武の上表文」によれば、古より倭は東は毛人の55か国、西は衆夷66か国、渡りて海北の95か国を征服してきました。余談ですが、ここで言う毛人は、宋から見ての毛人であり、衆夷も同じく宋から見たものです。これもどこかで書いたかも知れませんが、現在の東アジア地域を「極東」と無批判に呼ぶ人がいます。19世紀的欧州中心史観に基づくものです。それと同じような視点で、つまり中華思想に基づいて書かれたのが「倭王武の上表文」なのです。

 倭王武のはったりか事実かは分かりませんが、倭王珍に限らず倭の五王が繰り返し叙せられるよう求める対象に百済や新羅を入れていた理由であり、広開土王碑の記載につながるものなのでしょう。

 古代のコリア史は、現在の中国東北部を含んでいました。高句麗は中国東北部で興った国でした。そんなこともあるのでしょう。先年中華人民共和国が高句麗は中国史であると言って大韓民国が反発する事件がありました。同じことは日本とコリアの間でも起こり得ます。一国の領域が全く変わらず一定の国は、恐らく皆無に近いもので、日本も例外ではありません。


[2018年03月17日09時12分]
お名前: カーター
失礼しました。倭人に似ているのは辰韓です。

「辰王の位は自ら王位に就くことはできない。・・・
土地は肥えていて、・・・・この国は鉄を産し、・・またその鉄を
楽浪と帯方の二郡にも供給している。人々は歌舞や飲酒が好きで、
・・・男女の様子は倭人たちに近く、入れ墨をしている。・・・
風習として道で人に会うと、みな足を止めて道をゆずり合う。
   「正史三国志4」ちくま学芸文庫、468ページ

任那については、下記で一度書いています。下記です。
古代史】「魏志倭人伝」における倭人の領域

私が先に述べた内容は下記にも同様のことが書かれて
います。NHKの放送の内容と同様です。

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm

 任那も宋書倭国伝に記載があるとのことで、岩波文庫の
「魏志倭人伝・後漢書倭伝、宋書倭国伝・隋書倭国伝」を
見てみました。61ページには、下記の記載がありました。

「自ら使持都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、
安東大将軍倭国王と称し、除正せられんことを求む。」

 任那日本府があったかと言う問題は重要ではなく、中国の歴史書に
任那が出ていると言うことです。

 上記のサイトに下記の様に記載されており、古くから倭人が朝鮮半島に
進出していたと記載されています。証拠は広開土王碑の碑文です。

「(3) 倭人が朝鮮半島に進出していた証拠
「騎馬民族説」では、朝鮮半島から日本に騎馬民族が進出してきたとされるが、
4〜5世紀にかけての時期には、「騎馬民族説」とは逆に、倭人が朝鮮半島に
進出していたことを示す証拠がある。 」

 倭人が日本列島に押し込まれたのは白村江での敗戦があったのでは
ないでしょうか?太平洋戦争での敗戦と同じ様なものです。

[2018年03月11日22時57分]
お名前: 江戸通
稲作は、揚子江あたりから始まり、南韓、北九州にほぼ同じ時期に、伝搬したと言うのが、有力になってきました。これに、奈文研が、韓国の麻里田遺跡の土器を調べ周辺への影響を調べるという最新動向がありました。麻里田では、雑穀が、かなり調理され食べられていたことが、報告されてます。魏の時代は、黄河流域に、夏の遺民(キヨウド)を定着化をはかったり、プヨを、交易を通じて国境周辺に繋ぎ停める政策など実施されてます。
其羅といっても、実質都市国家だといいたいらしい。その習俗も、そのまま、新羅と国姓は、変えてもそのまま?
[2018年03月10日19時02分]
お名前: 広嗣
 カーターさん、すみません。書き込まれたという内容に記憶がありません。

 「東夷伝」によれば、続けて弁辰と弁韓は雑居していると書いています。衣服と居所は、辰韓と同じでした。その中で読盧国が最南端にあったようで、倭と接していました。

 陳寿は言語や法律、習俗は、弁辰と弁韓は似ていたと書いていますが、倭とは似ているとは書いていません。偶々弁辰と倭の男女の様子が似ていただけなのでしょうか。

 前方後円墳や稲作の流れについては、何とも言えません。縄文土器は炭素14の検査では、確認されている最古の物は、確かに世界最古と言っても良いほどの結果を示しているようです。

 敗戦前の皇国史観の日本優位でもなく、敗戦後にその反論として勢力を示したコリア優位の史観でもなく、古代には複雑な文化の動きがあり、それに伴う人の動きもあったのでしょう。



[2018年03月09日10時23分]
お名前: カーター
 以前にこの内容は書いた様な気がします。「三國志」の弁辰伝では
次の様な記述があります。(弁辰は、朝鮮半島南部で辰韓の隣)
「男女の様子は倭人たちに近く、刺青もしている。・・風習として道
で人に会うと、皆足を止めて道をゆずり合う。」
 前方後円墳が朝鮮半島南部で発見されているのは、日本列島から
朝鮮半島へと人々が移住し、稲作も日本から伝えたのではないか、
縄文土器が世界最古の土器であり、日本列島が東アジアでも先進的
な地域であったのではないかとも言われています。

 
[2018年03月08日21時06分]
お名前: 江戸通
とかく、大統領は、使い捨て、という昨今。韓は、漢代には、春秋時代的な、都市国家が、展開してました。馬韓、弁韓、辰韓などが、展開しており、其羅が、余りに北部なので、国号を新羅と改めて、新は、朝を示し、良いという、唐の意見をいれ、あらためるをよしたとありました。新羅は、今の慶尚北道です。西は、蕀蕀
[2018年03月08日20時41分]
お名前: 広嗣
 必ずしも正確とは言えませんが、「倭」は通常古代日本のことだと理解されています。実はもう一つの「倭」があります。それは陳寿が現在『三国志』と一般に呼ばれている書物を著す際に描いていた「倭」です。

 この二つは等関係ではありません。強いて言えば、陳寿の描いた倭は古代日本の一部ということです。

 古代の倭には『三国志』を素直に読むと現在のコリアの南端部が含まれています。その理由は二つです。一つは「魏書」「東夷伝」の中の「韓条」で、もう一つは「魏志倭人伝」と通称されているものです。韓はコリアの最南部の国ですが、「韓条」は東西が海に接していると書いています。コリアは半島です。しかし南は海に接していないと言うのです。その謎を解くカギが「魏志倭人伝」にあります。邪馬台国への里程記事に「その北岸狗邪韓国」という記載があります。ここで「その」は倭を指しています。この後海を渡っていますから、朝鮮半島にある国であることは間違いありません。

 「岸」というと海岸とか川岸の「岸」を思い浮かべますが、「境界」という意味もあります。つまり「その北岸」は「倭の北の境界」という意味です。この点は無視されているのか気付いていないのかあまり議論されていないようにも思えます。

 学生時代に読んだ本に北九州と朝鮮半島南部は共通の文化圏であったという内容がありました。このことは文献でも裏付けられていると言えます。

 この「狗邪韓国」が後に「任那」と呼ばれるようになります。任那に「日本の植民地」「任那日本府」があったと主張する人がいますが、元々倭の領域である場所に「日本の植民地」は存在しえません。

 北九州と朝鮮半島南部が倭であることは分かりました。では九州南部はどうなのでしょう。隼人の存在を考えると、倭とするのに疑問を感じます。では東はどうだったのでしょう。今の関東地方はどうでしょう。東北地方はそうすると含まれるのでしょうか。

 この問題は邪馬台国の所在地の問題とも絡んできます。邪馬台国に触れた後で「魏志倭人伝」はその東についても触れています。皆「倭種」だと。広嗣は陳寿はこの倭種の地域は倭と考えていなかったと考えています。では陳寿の考えた倭の東端はどこなのでしょう。九州の関門海峡沿岸でしょうか。畿内大和地方でしょうか。

 広嗣は陳寿の描いた倭の領域は隼人の地域を除く九州島と朝鮮半島南端部であったと考えています。その理由は追々述べる機会もあるかも知れませんが、必然的に邪馬台国は九州にあったということになります。

 「魏志倭人伝」が「邪馬一国」と記しているのは「邪馬台国」の誤記と一般には見られています。古田武彦のように当時は「邪馬一国」と名乗っていたという人もいますが、広嗣はどちらの表記も正しいと考えています。中国は伝統的に皇帝や貴人の名前に使われる字を敢えて誤記したり脱字にしたりしてきました。古田が言うように「台」が当時皇帝を表す字であれば、西晋の宦官でもあった陳寿が「誤字」を用いた可能性は十分に考えられます。

 いつからは分かりませんが、一貫して邪馬台国は邪馬台国と名乗っていたのです。3世紀の禁忌の為に陳寿は「誤字」を使わざるを得ませんでしたが、5世紀になると、この禁忌はなくなっていた為に范曄は平気で「邪馬台国」と書けました。


[2018年03月03日14時15分]
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