テーマ:ヨーロッパと日本

書き込み欄へ テーマ一覧に戻る
お名前: カーター
 8月の夏休みに次女の旦那の実家のある八幡平に車で行きまし
た。帰りに小岩井農場に寄り、小岩井の名前が三人の設立者の名前
から取られたことを知りました。すなわち、三菱の番頭であった小
野義真、三菱の二代目の岩崎弥之助、そして長州ファイブの一人で
鉄道事業に生涯を捧げた井上勝でした。井上は鉄道事業に携わる中
で多くの美田を潰したことを悔いて、岩手山麓の原野を農場に変え
るのが自分のなすべき事業であると考えたのです。小岩井が現在で
もキリンなどの三菱グループに属していることから、理解できま
す。

https://www.koiwai.co.jp/corporate/profile/index.html

 その後中尊寺へ行きましたが、この寺は山の中にあり山道を登る
のが大変でした。翌日は、毛越寺に参りました。毛越寺の池のある
庭園は素晴らしく、極楽浄土が再現されているようでした。また、
曲水の宴に使用された遣水(水道)も再現されています。

http://www.motsuji.or.jp/keidai/teien/teien03.html

 前日は、水沢のホテルに泊まったのですが、ホテルの近くにある
ショッピングセンター内に「シーボルトと高野長英」の題でパネル
展示がされていました。
 高野長英は現在の仙台藩の水沢の侍の家に生まれ、江戸で蘭方内
科を学び江戸で医院を開業しましたが、シーボルトが長崎に来たの
を知り、長英は長崎に行きシーボルトの助手になりました。182
5年に長英は鳴滝塾に住み込み、シーボルトの依頼で日本の書物を
オランダ語に翻訳しました。
 高野長英には「西説医原枢要」と著書があり、我が国初の西洋生
理学書の紹介書で、単なる翻訳書ではなく体系づけた書物であると
言われています。
 シーボルト事件と言われる日本地図持ち出しが発覚した時には、
シーボルトやその門人などがおとがめを受けましたが、長英は医師
にかくまわれ、逃げる事ができたそうです。
 1837年にイギリス船モリソン号が日本の漂流民を送還して、
アメリカ商社が日本との通商を求めましたが、浦賀奉行が砲撃を加
え、モリソン号を追い払いました。高野長英は、「夢物語」を書い
て「港を開き、礼儀をつくすべきだ。」と提案しましたが、幕府は
批判を許さず長英は牢に入れられました。
 しかし、長英は牢が火災になったことで脱獄し、その後は郷里へ
戻り母に会い、江戸からその後宇和島藩へ行き海防について教授を
しましたが、江戸の青山百人町で医師として暮らしていた時に幕府
に知られることとなり、力尽きて亡くなったそうです。波瀾万丈の
人生ですね。

[2013年10月16日12時04分]
お名前: カーター
ヨーロッパの日本観の変化

 江戸時代の17世紀末にドイツ人医師ケンペルはオランダ船に乗
って日本にたどり着き、二年間にわたって日本に滞在しその滞在記
「廻国奇観」を記し、江戸を二回訪問した内容などを記した「日本
誌」を残している。

 当時の日本は戦国時代が終わり、徳川幕府の統治下で国民は平和
に暮らしており、焼き物、漆器などの技術が進んでおり、また食事
文化も優れており、当時の日本はヨーロッパよりも進んだ国である
と、日本訪問者によりヨーロッパに紹介されていた。

 ケンペルは二度目の江戸参府をした時に使節団は123枚の着物
を贈呈されその一部をオランダ人が持ち帰り、インドで類似品を生
産させオランダ及びヨーロッパで販売したところ好評を博し、一般
にも広まるようになった。大学の教授や学生までも着物を着るよう
になると、町から教会に着物を着て来ないで欲しいと言う命令を出
すようになり、18世紀の終わりには家出くつろぐガウンに変化し
て使用されるようになったそうだ。

 ドイツでは三十年戦争で混乱が起き、北欧の強国スウェーデンや
絶対王政のフランスの脅威にさらされており、徳川幕府の厳しい政
策で平和が保たれている日本はケンペルなどにとってはうらやまし
い存在だったと思われる。ケンペルはその著書で「鎖国論」と言う
章を組んで、「徳川幕府が国を閉ざすことによって、日本の民族が
平和的にまたは経済的に豊かに、しかも精神的に自由な生活を営む
ことができた。」としている。

 当時の日本は、器用で優れた知能を持っているとして、ヨーロッ
パ人と同等の民族であるとか、あるいはヨーロッパ人よりも優れて
いると紹介されたが、その理由として日本人はうそが嫌いだ、日本
には盗人が少ない、お釣りが多過ぎると返しに来るなどの美徳があ
げられている。

 しかし、フランスではモンテスキューは「法の精神」で日本を初
め中国も、専制政治主義であるとし、プロシアのフリードリヒ大王
も世界の政治的な中心はヨーロッパであると主張した。当時ヨーロ
ッパでは啓蒙思想が普及したのに対し、日本は鎖国をしたために啓
蒙思想を取り入れることができなかったために、一時進んでいた日
本の技術はヨーロッパに追い越されと言われるようになる。

 日本ではケンペルの著書をオランダ人から入手し、志筑忠雄が日
本語に訳し写本で日本に広めた。その鎖国論を感激を持って読むも
のがいたが、幕末には横井小楠のように、ケンペルの鎖国論の評価
を非難し、日本の経済的な没落は鎖国政策によるものだとする者も
出てきた。(横井小楠は下記参照)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0

参考文献:「ケンペルの見た日本」ヨーゼフク・ライナー、NHKブックス
[2012年01月01日17時36分]
このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)
氏名 削除コード
E-mail URL