テーマ:北陸の南北朝歴史散歩

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お名前: そんし
いきなり場所は敦賀市に移り、金ヶ崎城址です。
実はその移動の途中にある新田義貞に深い関係のある杣山城(そまやまじょう)跡にも寄ってみたかったのですが、今回は時間が足りなくなってパス。

金ヶ崎城は新田義貞の子供の新田義顕と、後醍醐天皇の子供の尊良親王が、城を攻め落とされて自害した場所です。とてもマイナーな城跡と思って行ってみると意外とメジャーで、それもそのはず、ここは戦国時代にも激戦があった城で知られていたのでした。織田信長が浅井朝倉の挟み撃ちにあって命からがら逃げ、秀吉や家康が撤退戦を行った城としても知られているため、戦国歴史ファンも結構来るらしいのです。

それでも南北朝に関係する説明板などもたくさんあって、戦前の皇国史観では涙無くしては語れなかった激戦の城にふさわしい風情でした。

実は、この尊良親王は比叡山で後醍醐天皇と別れる折に譲位されていたのではないかとも言われ、新皇の使った元号ではないかと思われる記録も残されています。ですから、もしかしたらこの地に、いっとき遷都されていた可能性もあるという事になります。

そんし

[2010年05月05日00時17分]
お名前: そんし
この新田塚の付近は藤島という場所で、明治時代には神戸の楠木正成を祭った湊川神社のように、ここに新田義貞を祭った藤島神社が創建されました。現在の藤島神社は、福井市内の南部の高台に移転され、とても大きく立派な神社になっています。祭神は新田義貞、宝物はもちろん新田義貞の兜です。

この藤島神社にももちろん足を伸ばしたのですが、あいにく兜は別の場所にある市立郷土歴史博物館で行われている新田塚建碑350年企画展に展示されるためありませんでした。

さっそく予定になかった市立博物館に行って、兜の現物を見学することができました。かなりラッキーだった気がします。ちいさな義貞君人形が、れいの稲村ヶ崎で海神に祈る姿で出迎えてくれました。

兜は明治時代には国宝指定されておりましたが、実際には戦国時代頃の兜だったことがわかり、現在は重要文化財に格下げになっています。

そんし

[2010年05月04日23時55分]
お名前: そんし
「小黒丸城跡」から、車で10分ほどの場所に新田義貞終焉の地と比定されている「新田塚」がありました。この場所から、江戸時代に新田義貞のものと思われる兜が発見されたことから、ここを新田塚としたもので、現在は福井市の交通の激しい通りに面したバス停のわきにありました。

太平記では灯明寺畷で死んだと書かれていますが、確かにこの付近は灯明寺という地名で、とくに新田義貞終焉地付近の地名は、そのものズバリ新田塚でした。新田塚駅という駅もあるほどです。

新田塚には立派な社が建てられていて、その中に「新田義貞戦死此所」と発見当時の福井藩公が刻んだ碑がありました。

小黒丸城跡の碑よりは広い敷地でしたが、駐車場があるわけでもなく、近くに案内板があるわけでもなく、注意していないと通り過ぎてしまうような小さな敷地でした。

そんし

[2010年05月04日23時51分]
お名前: そんし
五月の連休を利用して北陸の南北朝歴史散歩に行って参りました。
特に今回のテーマは新田義貞の足跡をたどる旅。

とはいっても、それだけでは寂しいので、子供の頃ヒッチハイクしたことのあるルートを、たどってみるというサブテーマも用意していたのですけれどね。

観光地のお話は省略して、最初に向かったのは「小黒丸城跡」。なんの変哲もない田園風景と民家のあいだに城址碑はひっそりと立っていました。

これが戦国時代の城址なら観光バスがおしかけてくるところなのでしょうが、南北朝では、それはありません。いずこも同じ、記念碑が寂しく建てられているだけです。

この場所は福井市北部の九頭龍川と日野川の交差する場所で、平城ではありましたが、たぶん相当な湿地で天然の要害だったのでしょう。ここを本拠地としていたのが足利一門の、斯波高経です。

新田義貞は、敵対する足利氏の北陸での拠点だった小黒丸城を攻め落とすべく、城砦の藤島砦を攻める途中に細川孝基軍と衝突して。名将にしては実にあっけなく命を落としています。

勝利した斯波氏は室町時代に繁栄し、尾張と越前を領有しましたが、後にその領国を任せた家臣の朝倉、織田が戦国時代の主役となっていくというわけで、戦国時代の原点は、ここ小黒丸城にあったとも言えます。

織田信長の先祖も朝倉義景の先祖も、南北朝当時はここの城で下働きしていたのかもね。

そんし

[2010年05月04日23時42分]
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