テーマ:縄文土器の謎

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お名前: そんし
土器は木型で作ると簡単だろうという話題もしかりで、わたしならそうするというお話が、当時の土器は木枠で作られていないという短絡的な話題に変わっていけば、その先におもしろみは感じられません。あとはそういう話題が好きかどうかの趣向の問題があるだけですから、つまらないかと聞かれれば、はいとしか答えようがありません。

当時の、少なくとも私より技術力のある土器製造職人なら、木枠なんか使わなくたって、もっと高度な量産製法を持っていたでしょうし、まるで当時の技術力が現代より劣っていなければおかしいとばかりに、手で粘土をくねらせながらこれが縄文土器の作り方と土器作り教室で子供達に実に効率の悪い作らせかたをするのもどうかな、という話題だったのですけどね。こっちは当時の土器は木枠で作られていたと主張しようなんて思っていなかったわけですから、それを学術的な見地から肯定するも否定するもさほど興味が持てないのは仕方のないことです。

線画と線描は異なるというお話にしても、私にはたいした意味は感じられない。感じ方の問題ですから論争にはなりっこないはずです。そう、立ち位置が異なる話をしているのですから、すれ違いはかさなりっこない。

意味はわかりますよ。現代のアートなら、鼻を1本の線で描くことがあるけれど、土偶にそんな例はひとつもないという話ですよね。たいていは三角で描かれて、しかもご丁寧にその部分が盛り上げてある。それは目を線で描いたり口を描くのとは根本的に違うと言いたいわけでしょう。でも私にしてみれば東照宮の彫り物のようなものが三次元的な感覚で作られたものであって、だるまさんの顔のような輪郭に平べったい顔面、そこに平べったいまるい目やまるい口をはりつけただけの立体感のない物は、やっぱり平面的な感覚で作られたとしか思えない。

事例を持って論破していく学術論争的なお話は、お任せしますので、つまらないものはつまらないと言わせてください。否定しているわけではないのですからね。なるほどねと感心して読んではいるのです。ぜひお話の展開は続けてください。

そんし

[2009年10月23日00時39分]
お名前: 守宮
そんしさんが
具体的にどの遺跡のどの土偶について述べられているのかわからないので、
きちんとした反論になっているかどうかわかりませんが、

まず、土偶の顔面表現です
これは基本的に立体表現になっています。
有名な三内丸山遺跡から出土した多数の土偶
これらは円筒上層式・下層式土器文化に伴う
板状土偶という、文字通り板状を呈するものです。
ご参照いただければ一目瞭然ですが
基本、鼻、眉あるいは目蓋に相当する部分は隆起し立体表現
目・口(まれに鼻の穴)に相当する部分は窪みで表現されています。
「あなたの眼はふし穴」という言葉に示されるよう「目」を窪みや穴と認識あるいは表現することはまま認められる文化的現象です。

ほとんどの縄文土偶(土製のお面)の顔面表現はこれに共通し
鼻・眉あるいは目蓋は隆起して表現、目・口・鼻の穴は穴として表されます。
(顔面表現の無い土偶は存在します)
目の部分が隆起して表現される土偶もあり、
これには目の部分が突出したものに縄文時代後期〜晩期初頭の関東地方に隆盛した
ミミズク形土偶や同じく後期前半の関東〜東北南部にあるハート形土偶があり
目の部分が隆起しながら目蓋の線と見られる横線が入れられる(目蓋を閉じた状態か?)
縄文時代後期東北地方の土偶が代表格でしょう。
有名な遮光器土偶の目も突出しながら横線が入れられる後者のタイプです。
なお、東京国立博物館に展示される有名な遮光器土偶ばかり注目されますが、
遮光器土偶にも、鼻・口等の表現があるものが認められます。
なお、目玉・瞳の表現がある土偶は寡聞にして、知りません。
例外は埼玉県出土の後期に属すると考えられる土のお面で
目を表現した窪みに瞳に相当する円球状のものをはめ込んだ痕跡が認められ、
黒曜石の瞳が嵌められていたのではないかと想像されています。

目を短い線で表現している土偶はありますが、他に多数ある目蓋の表現や
目そのものを穴で表現している事例から見れば、
穴による表現の延長線か、目蓋の表現の変形と捉えるのが自然でしょう。

さて、土偶については乳房・おへそも突出しており基本立体表現です。
そんしさんは、丸で乳房を表現した土偶を例に上げておられますが
どこの遺跡でしょうか?私は知りませんのでご教示頂ければ幸いです。
まれに、乳房に相当する部分(粘土の貼り付けた所)が剥落している事例があります。


土偶の文様ですが、
表面の文様はその土偶が属している時代や地域の土器文様と共通しており
具体的に何かを表現したものか、単に土器と同じ模様で飾ったものかははっきりしません。「線描」と「線画」の区別についてはここでは繰り返さないでおきましょう。
イノシシなど人物以外の土偶(正確には動物型土製品と呼ぶ)にも本来イノシシに無い縄文を含めた豊かな文様表現が認められますが、これはイノシシの何を「線画」で表現と言えるでしょうか?
(ついでながら、イノシシの子ども、いわゆるうり坊の土製品にはその独特の縦縞を表現しているものがありますけど、これは毛の模様「二次元」→「二次元」の表現なので、
「三次元」→「二次元」の表現にはなりませんよね。)
(うり坊の例を敷衍すれば、人体表面に施されていた顔料などによるボディペインティングや刺青が、線として表現された可能性も出てきますが、この場合もやはり「二次元」→「二次元」です)

逆に土偶で何かが判読できる場合は必ずと言って良いほどに立体表現をとります。
富山県で出土した三つ編みにした長髪を垂らした土偶などはその典型です。
耳の部分に穴を開けた土偶がまれに認められますが、埼玉県の縄文時代後期の遺跡では
穴に木製の耳飾りをはめ込んだ状態の土偶が出土しました。
耳の穴は耳飾りの穴だったわけです。

反論は具体的事例をもってお願いしたいところです。

あわせまして、
土器文様の共通性が土器大量生産の根拠にならないことをもって
何故そんしさんが「面白い話題展開」にならないと言っているのか
実のところ理解に苦しむのです・・・・?

土器生産が大量生産ではなく、個々の集落や集団で生産されていたハンドメイドであることは、縄文人の置かれた生態環境や彼等の技術レベルからすれば至極合理的なことで、
集落遺跡の調査からおそらく数人〜数十人、どんなに多くても百人を超えない程度の集団が散在して生活していた(三内丸山で騒がれた五百人とか三百人の人口は明らかに過大な数値です。)縄文人にとって、土器はそれぞれの集団が必要に応じ、必要な量を製作するのが最も無駄がない生産方法だと言ってよいでしょう。
にもかかわらず、ある一定範囲に散在する集団が全く同じ文様の土器を作り得るという現象は、縄文社会の構造を解き明かす鍵になるものだと思うのですけど、いかがでしょう?

それから、前の繰り返しになりますが、彼等の自給範囲を超えてはるか遠方まで運ばれていることが明らかな精作の土器(いわゆる精製土器)は存在しますし、縄文時代晩期の耳飾りなど、明らかに特定集団が製作し、流通していたと見られるもの、あるいは全国に流通する新潟県糸魚川産の翡翠などは、縄文文化が単なる自給自足の狩猟採集民文化ではなく、生活必需品を超える「余剰」を生み、蓄積する力を持った豊かな社会であった証左となる事例は枚挙にいとまがありません。

つまらないですか?
[2009年10月22日20時12分]
お名前: そんし
考えてみたら、やっぱりあまり面白い話題展開になりそうにない話題のような気がしてきましたけど、まあ正直言って土器が量産品ではないことは、類似生産品である縄文土偶を見れば一目瞭然と言ったところですけどね。類似品はあっても同一品はまず出土しない。

文化や使用目的が酷似している土偶が各地から出土している点を見れば、各地の文化交流がいかに緊密であったかは明らかですから、誰が作ったかにかかわらず、共通認識の元に作られていた、あるいはサンプルを見て作られていた、のどちらかであることは異論のないとことでしょう。

ならばやっぱり製法の同じ土器や、アクセサリー品なども、同じように共通認識で類似品が作られていたのであって同一人物が大量生産したわけではないという結論にすぐにいきついてしまいます。

線画の認識の件では、土偶の顔に矛盾がでてしまいますね。
鼻が立体的な土偶の多くで目がくぼんでいるなど、あきらかな三次元的なとらえ方による表現ですが、他方象徴的に平面に目鼻口をかたどっただけの二次元的な発想の絵画的な顔をした土偶も縄文時代の土偶には多数混在しています。純粋な線画ではないですが二次元的発想による表現であることは明らかです。

土偶そのものが三次元的発想による物ですから、部分をとらえて二次元と表現するのも変ですが、それでも三次元的な表現方法しか無かった文化圏では二次元表現は難しいという理屈で言えば、本来は立体で描かれる場所の顔面が二次元的に表現されているのは矛盾です。

体全体の表現に至っては明らかな線画が多数見られ、たとえば女性の胸の表現など、本来は線のないはずの胸に、平面に丸を線画で描いて、これは乳房であると表現したものもありますので、縄文文化イコール二次元表現が無かった時代という論説も無理があります。

もっとも、胸に丸を書いていた服のデザインを表現したものかもしれませんけれどね。それはそれで服装のデザインに二次元的発想があった証拠になりますので同じ事です。

土偶は今でこそ当時の文化程度を示す芸術品としてのランクで見られますが、当時にしてみれば病気平癒を願うなどの、今で言えば医薬品のような実用品です。絵画的表現は実用上必要だったわけです。同じ実用品の土器には、実用上絵を描く必然性はありませんので、描かれなかっただけというだけの単純な理屈では?

そんし

[2009年10月22日08時53分]
お名前: そんし
なるほどね。
乱暴なくくりではなく詳細に説明されるとなかなかの話題なのだと気づかされますね。
とすればナスカの地上絵なんぞ、他と明確に区別される相当ユニークな文化のあかしというわけですね。

写実画は日本画よりはるかに高度な画法と思われるのに、日本画の線画技法に新鮮な驚きを感じて、我先に真似ていたゴッホなんぞのヨーロッパの一流画家のことが、いまひとつ理解できませんでしたが、根底にある文化の違いによるものなら、確かにビックリ仰天したことは理解できます。

面白そうだから、またなにか反論してみようかな。

そんし

[2009年10月19日11時06分]
お名前: 守宮
そんしさま

楽しげなご主張に水を差すようで
申し訳ないのですが・・・・・・。

「線画」と「線描」を混同されているようなので
この辺は訂正させていただきます。
縄文土器の線で文様を描いた土器はご指摘以上、無数にあります。
縄文時代早期の東日本(北海道含む)に、
広汎に分布した沈線文土器はその代表格でしょう。
これは文様のほとんどを棒で引いた線や
二枚貝のギザギザを押しつけた線で構成しています。
その後も、縄文時代の各時代を通じて
棒やヘラ状のもの、竹の管を半分にしたようなもので
線を引いて複雑な文様を描いた土器が多数認められます。
これは文様の「線描」です。
一方、「線画」とは土器の器面に線で
動物や人物などの具体的な「絵」を描くこと。
弥生土器には建物・人面等「絵」が多々認められますが
縄文土器には見られない。
縄文土器に人面あるいは人体の表現があるときは
必ず粘土を貼り付けた立体で表現するわけです。
ゆえに
縄文土器に「線描」は認められるが
「線画」が無いということになります。

また、絵画表現の有無を文化程度の高さと結びつけられたようですが、
三次元(立体)を三次元(立体)として認知し表現するか
三次元(立体)を二次元(平面的な絵)に変換して表現するか
これは脳の文化的な認知システムの差異 によるもので、
文化程度の差と関係するものでないことは付記しておきたいと思います。
たとえば、旧石器時代ヨーロッパの洞窟壁画は
三次元(立体)を二次元(平面的な絵)に変換する文化の存在を示すもので
当時のヨーロッパに縄文社会より高度な文化が営まれていた根拠にはならないことになります。

ついでながら、土器の型作りについて、
例えば関東地方中期の勝坂式土器について
山梨と東京・埼玉で全く同じ文様を持った土器が出土します。
しかし土器の大きさや、個々の精粗という点では
山梨の土器の方が大型で作りも良いものが多い。
一方の東京・埼玉の土器はそれぞれ大きさが小さく
作行きもやはり劣っているように見えます。
さらには、同一遺跡出土の同じ時期の土器ですら、
土器の大きさは、ある一定の範囲におさまりこそすれ
個々が異なった深さと径を持つのです。
個々の土器は制作者のハンドメイドによっています。
これら土器に言われるような
同一の木枠が使用されているとは言えません。
なお、土器を含め、焼き物の紐作りという技法は
現在その形を変えながらも大型の甕などの製作方法に受け継がれています。
こういう甕類はロクロ挽きで作れないので、
粘土の紐を積み上げる技法は、
大型品を製作する方法としてそれなりの合理性を有しているのです。

これも、ついでに
いわゆる火炎土器は実のところたくさん出土するものではありません。
一遺跡からの出土はごく少量で、1点2点ということも少なくないのです。
大量生産はされていない。
祭祀用の特殊な土器、
あるいは保有者の社会的地位をしめすような奢侈品と考えられる土器です。

形からして、実用に不向きな形態をしておりますが
特別な品として、特別に製作され、
また特定集団間で交換あるいは交易されたものでしょう。
大量生産・大量流通はしていないのです。
[2009年10月16日20時29分]
お名前: そんし
北海道の網走のほうにあった遺跡土器を見にいったとき、明らかに縄文じゃない縄文土器(なんじゃそれ)がいっぱいあふれていました。線画で模様をつけているんですよね。

絵じゃないから線画という表現はあたっていないかもしれませんが、二次元的あるいは一次元的な物の感覚を持った土器文様であることには違いありません。

本州の縄文時代よりずっと後の時代の物ですが、地域自然派生の独立文化と思われますので、高度な線画文化が入り込んできたということではなさそうです。

ですから二次元変換が高度文明という発想はあたっていないと思います。

ずっと後の時代の話ですが、私が他の歴史ファンにはユニークとひとことで片付けられてしまった自説がありまして、昔のひとの地図感覚は二次元ではなく一次元だったのではないかという説です。

土地には広さの感覚はなく、中央からの距離だけが存在しているのです。ですから東山道北陸道などという表現されているのであって、広さはあまり気にしていない。境界とは道と道の境なんですね。

だから地図を書くときは、中央から線を一本引いて、その線上に何々の国と書くわけです。平面がない。線画は人が最も理解しやすい感覚というわけです。

そんし

[2009年10月16日08時58分]
お名前: そんし
木枠での縄文土器作成例は無いというお話ですが、私が指摘したのは、内型外型を作って、木枠に土を流し込んで大量生産するイメージの木枠ではなく、説明したとおり外枠の支え型を作って、その内側に細長い粘土をぐるぐると貼り付けるように巻いていき土器を安定させながら作るものです。

木枠はあくまでも土器製造を安定させるためのガード役ですから傷まで一致する型枠製法とは根本的に違います。固まらないうちに外側の不具合を整形しますので、当然ひとつとして同じ物は作れません。

下側が固まらないうちに、木枠を途中で外して整形してからまたはめるという行程を繰り返すことも考えられます。縄文を付けるのはその整形作業のひとつ。

だから、おおよその大きさは一致しているものの、微細な点まで一致する型枠流し込み製法とは根本的に異なります。火炎はおおよその形状ができればあとは業者の芸術感覚。腕の見せ所です。

何も無しで土だけを空中でぐるぐるさせる効率の悪さは子供達がひとりとしてまともな土器が作れていなかった土器作り体験教室をみれば一目瞭然。下が乾くまで上側が作れない積み上げ方法より、なにかガードを使ったほうが断然いい。

その型枠を背負って全国を流し歩く土器業者がいたとしたら形状が同じで土が異なる縄文土器の大量出土の謎は簡単に解けます。

現代でも型枠で何かを作る製法にはこの内枠外枠に材料を流し込む方法と、外枠だけを作って内側に吹き付けて作る製法があります。プラモデルを作る製法が前者、塩ビのキューピー人形を作る製法が後者です。吹きつけ製法では型に材料が密着するので、まったく同じ物が作れちゃいますけどね。

はっはっは、なんで実証なしにここまで断定的に物事が言えるんねん、という声が、あっちこっちから聞こえてきそう。

そんし

[2009年10月16日08時39分]
お名前: コンコン
守宮さんへ
お答えありがとうございます。<(_ _)>
参考になりました。
縄文時代も最近は1万4〜5千年前まで年代が増えているそうですね。
それに縄文時代の始まりも人により違うみたいですね。
私なんか縄文土器を使い始めていれば、縄文時代だと思うけど、それだ
けでは縄文時代の始まりとはいえないらしいですね。
[2009年10月15日22時04分]
お名前: 守宮
2.土器には絵がない
これは重要なご指摘だと思います。
ただ、実際の縄文土器には後期東北地方の土器に弓矢とその先にある獲物を粘土の紐で表現したもの(少数)や、中期前半の関東〜中部地方に「みづち文」とか「海獣文」と呼ばれる水生動物(オオサンショウウオという説あり)を表現した文様施した例、人面やイノシシと思しき獣面を付けた土器、同じく後期〜晩期の東北〜関東に人面や顔を含めた人体を貼り付けた土器(少数)があることを指摘しておかなければなりません。
 「土器には絵がない」というのは正確に言い換えると「線で表現された絵が無い」ということになります。つまり縄文時代の人々には三次元(立体)のものを二次元(絵画)で表現する認識が無かったわけです。
 何か特殊な事象のようですが、例えば近代ヨーロッパ絵画の表現方法を知る前の日本人が描いた絵に「遠近法」の概念が無かったり、精緻な立体彫刻を作成しながら、絵画表現は横からばかりで人間を正面から描かない古代エジプトの例など、三次元(立体)のものを二次元(絵画)に変換するという(脳内の)作業は、実のところかなり高度なものなのです。
 人間や動物、建物などを線画で表現するようになるのは続く弥生時代からです。土器の表面や銅鐸に線画の表現が残されてますね。これは大陸からの影響と考えて大過ないと思います。
 絵や抽象画に代わる表現方法については、1の土器の説明で代えさせていただきます。
小笠原というか八丈島ですね。
 江戸時代、島送りで最も重いのは八丈島送りでした。何故なら八丈島と本州の間には黒潮が流れ、人力の手漕ぎ船で黒潮を漕ぎ渡ることが出来なかったからです。
「鳥も通わぬ八丈島」というわけです。
 しかし、八丈島からは各時代の縄文土器が出土します。また墓地も調査されており、漂流した縄文人が流れ着いたのではなく、島に定住した集団がいて、半ば恒常的に本土と交流していたことをうかがわせます(何らかの理由で無人化した時期が無かったとは、言いませんけど)。
また、八丈島には江戸時代までイノシシが生息していました。イノシシは海を泳ぎますが(意外?)、さすがに黒潮を泳ぎ渡る体力は無いでしょう。農業にとっては害獣以外の何物でもないイノシシを、後の時代の人間が持ち込んだとは考えにくく、縄文人が食料として生きたまま運んだ可能性が非常に高い。
 日本全国から出土している丸木船は多数にのぼり、実に見事な造作のものも少なくないのですが、残念ながら出土事例は川や湖など内水面あるいは沿岸用です。
 しかし八丈島での「状況証拠」から、縄文人が沖乗りできる(黒潮を横断できる)舟と航海術を持っていたこと、(あくまで可能性ですが)その舟は帆を使用していたかもしれないこと、舟には相当の積載能力(土器や子どものイノシシくらい載せられる)があったこと、またこうした舟が恒常的に本土と行き来していたことがわかります。

土器製造工場というか、土器を焼いた痕跡は発見されていません。これは縄文土器の焼成が露天で行われ、焼いた跡も数週間〜数ヵ月で消えてしまうという実験結果に符合します。土器作りのための粘土を掘った跡は調査されており(東京の多摩ニュータウン)、近くの集落で土器が焼かれていたことを示していますが、周辺の土器をこの集落が一手に生産していたわけではなく、やはり個々の集落で焼かれていたと考えるのが自然なようです。例えば山梨県の東側から出土する縄文時代中期の土器と同じ時代の東京都あるいは埼玉の土器は、姿形こそそっっくりですが、それぞれ粘土の素地はまるで異なりますし、細部の整え方にも違いがあるのです。
 ただ、ある特定のきれいに作られた土器(考古学では精製土器と呼びます)が特定箇所で作成され、かなり遠方まで運ばれるということは確認されています。これなどはある種特殊な工芸品として、交易されていたのかもしれません。こういう土器はお墓に副葬されることも多いので、実用品というよりも奢侈品であったと考えるべきでしょう。実用品としての土器は個々の集団あるいは村で焼かれていたと思います。

粘土での「輪積み法」という製作方法に疑問があげられていますが、遺跡から出土する土器破片を観察しても、縄文土器が輪積み法で作られたことは間違いありません。破片断面に輪積みの痕跡が少なからず観察できます。
 火炎土器のような複雑きわまりない造形物は、逆に「輪積み」でないと作成できません。輪積み法だと、積んでいく段階で下と上の乾燥状況に微妙な差が生じてきます。上と下が同じ程度に湿っていると、土器は自重によってへたりこんでしまうのです。土器の下の方がしめった上の部分を支えられる程度に乾燥していること(あまり乾燥しすぎると、割れてしまうので、このあたりの加減は微妙ですが・・・)、積み上げていく部分が次の粘土と接着する程度の湿度を持っているのが、あの複雑な造形を可能にしています。
縄文時代については、木枠や型による製作は全く100%無かったと断言できます。型作りによる文様と粘土紐を貼り付けての文様は、実物をご覧になれば容易に区別がつきますよ。
前者型作りによる文様の代表は、飛鳥時代〜平安時代の軒丸瓦や軒平瓦の文様。後者の代表が縄文土器ということになります。前者瓦の文様についても型が出土したことは無かったはずですが、にもかかわらず型によるものであると断言できるのは、個々の文様が全くのコピーで、ものによっては型の傷まで写しているからです。型の摩滅具合から最初の頃に作られた瓦か、後の方で作られた瓦か区別できるくらいです。
 一方の縄文土器については、文様こそ似ていますが、全く同じ、寸分違わないということはありません。これは個々のハンドメイドであることを示しています。

[2009年10月15日08時32分]
お名前: 守宮(やもり)
ご質問への答えになっているかは、はなはだ心許ないですが、

1.土器には個人差がない
これは地域的な問題ばかりではなく、時間的な問題でもあります。
類型的に作成された土器を「考古学」の世界では「型式」と呼びます。
「亀ヶ岡式(考古学では「大洞式」)」「加曽利E式」「勝坂式」というのがそれです。
一つの型式には一定の空間的広がりと時間的な継続性があります。
例えば、上記「加曽利E式」は縄文時代中期の関東地方に分布します。
同じ時代の中部高地(山梨〜長野)には「曽利式」土器、
東北地方には「大木式」が分布、
有名な火炎土器(「馬高式」)は新潟を中心に分布しており、
言われる通り、これだけの空間的広がりを持ちながら同じ土器を作っている。

また「加曽利E式」は時間的な変遷からE1〜4式に細分できるのですが、
最近の詳細な年代測定法によれば、このE1式だけで90年前後継続していたわけです。

時間的・空間的広がりをもって同じ形の土器がどうやって作られ続けるのか?
これには2つの説明ができると思います。
1つは、ある地域内(直接・間接に)密接な係わりを持った人々の頭の中に一つの「手本」あるいは「型」が共有されているという考え方です。
例えてみれば、現代の日本で100人の成人をつかまえて「ビールジョッキ」の絵を描けと言えば、そのほとんどの人が把手のついた「ビールジョッキ」の絵を描くと思います。
逆に、「ビールジョッキ」の絵を描けと言ってもビールジョッキを使う習慣の無い人々にはその絵が描けない。この私たちの頭の中にある「手本」を「範型」と言います。
土器はそれぞれの地域・時代の人々が共有していた「範型」に従って作られていたというわけです。
もう一つは、一見すると複雑極まりない土器の文様が「絵描き歌」や「物語」として解釈され一定の範囲に暮らす人々や、ある時代の人々に共有されるというものです。
「へのへのもへじ」や、ど○えもんの絵描き歌「まる描いてちょん・・・・6月6日にUFOがあっち来て、こっち来て、落っこちて・・・」と同じということですね。
絵描き歌さえ覚えていれば、見ただけでは伝わらない複雑な文様も真似ることが可能となります。
 オーストラリアの先住民であるアボリジニの人たちが描く砂絵や樹皮画にも同じような例が報告されてるそうです。我々には抽象的な文様にしか見えないそれが、人であったり、砂漠の泉であったり、虹蛇(アボリジニの人達にとって虹は雨の神ある蛇)であり、さらにそれらが一つの物語の中にまとめられているのです。アボリジニの老人は物語を口にしながらその絵を描いていました。複雑極まりない縄文時代中期の土器文様もこうした物語として解釈すれば、同じものが作られるのも納得いくと思うのですがいかがでしょうか。
 ちなみに、アボリジニの人たちは部族や地域が変われば、同じ物語でも全く違う文様と配置で表現されるようです。このあたりも参考になるのでは?

[2009年10月14日18時19分]
お名前: そんし
むかしある遺跡の中にある工房で子供達相手に縄文土器作り体験という企画があって、覗いてみたら粘土を細長い麺状にしてぐるぐると巻いているんですね。
わざわざあんな効率の悪いこと本当にやってたのかと疑問でした。それじゃ永久に火炎土器は作れんだろうってね。
同じ製造方法でも、せめて木枠を作って内側に貼り付けるようにぐるぐるやればかなり効率がいい。わたしならそうやって定型土器を大量生産しますね。

そんし

[2009年10月06日22時13分]
お名前: コンコン
そんしさん、久しぶりです
現代、縄文土器を作ってみたら水漏れをしました。
作るにはコツがあるそうです。
土器は木型では作って無く、手で作っています。
最近、発掘関係者と知り合いいろいろ聞いたり遺物にさわったり
しています。 
[2009年10月06日18時47分]
お名前: そんし
ついうっかりしそうな事ですが、縄文人と現代人の知能には寸分の違いもないわけでして、つまり縄文人に携帯電話を預ければ、あっというまにメールを使いこなすはずだということです。

だから縄文文化を知りたければ現代人を使って実験してもほぼ正確なことがわかるはずなのです。

土器にふさわしいような土を与えて、全く同じ土器を大量に作る方法を考えよという命題を与えればいい。

私なら、すぐに木型なんかをつくる事でしょう。でも木型はよほどの偶然が重ならないと、なかなか現代まで遺物として残ることはない。一方で無機質の土器は残る。

こんなところなんじゃないでしょうか。全国をまたに商売する土器屋がいて、木型を背負って各地を歩くなんて事は、現代の商売人ならすぐに思いつくことです。

船だって木材の豊富な日本なら帆船なんか簡単に造れる。現代人と同じ知恵を持った縄文人なら当然考えるはず。小笠原に行く事なんて簡単簡単。

博物館に行くと、弥生時代の農機具が、木製と鉄製の違いくらいの微々たる違いはあるものの、現代のそれと全く同じ形状だったりして、ほんの数年前の日本文化を見る思いがします。

縄文時代の釣り針もおなじく、返しの形まで現代の物と全く一緒。現代人の文化程度なんて、縄文文化に多少毛が生えた程度のわずかな違いしかないのです。そのほんのわずかな違いで、コンピュータを作って月にまで行ってしまうことが可能になる。

逆に現代人が失った縄文文化というのもいっぱいありそうです。たとえばあく抜きの技術。

野菜とは有毒のアクがない植物という意味だとおおざっぱに言えるほど、食べられる植物と食べられない植物の差は大きい。

アクがないと動物に食べられてしまうので、滅多に出会えませんから、アクのない植物を探すのは大変なこと。偶然米や麦を発見した人達は、小躍りして喜んだことでしょうね。

でもそれまでは、アクのある植物からあくを抜く技術が生きる知恵となっていたはず。いまでは、いったいどうやれば有毒の木の実類を、主食として食べられるほど完璧にあく抜きできるのか、現代人には全くわかりません。あの縄文土器に謎解きのヒントがあるはずなのですけどね。

まあ私は、いつものことながら乱暴な発想だこと。古代史の学者も人類学の学者もついてこれんでしょうね。

そんし

[2009年10月03日22時54分]
お名前: コンコン
1.土器には個人差がない
 ・地域差は多少ありますが、東日本から出てくる土器に差異は無いと言います。
2.土器には絵がない
 ・文字がないのなら絵や抽象画で表すと思うのですが、土器にはない。
3.小笠原で縄文土器が発見されている
 ・いったいどうやって小笠原まで行ったのか?丸木船で行けるものなのか?

・土器製造工場は、まだ発見されていないらしいですからどうやって同じものを作ったのか。
・国家が無いとされていますから共通の製品を作れた理由が知りたいですね。
・土器だけではなく、装飾品に穴を開けるのは石を錐状に加工して開けたと言いますが、結構すごいですよね。
[2009年10月03日16時05分]
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