テーマ:儒教を日本に伝えた朝鮮人

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お名前: 江戸通
>慶長四年(一五九九)二月十五日、見事に上梓をみる。
>このとき惺窩は、感動に震えながら、
>『日本、宗儒の義を唱うる者、この冊をもって原本とせよ』
  禅宗の僧侶が、日本ではほぼ、これら知識を独占し、律令制下「音博士」も
 素読すら難しいとされた状態と言われていたのですから。
 はっとするくらい「目から鱗が取れる。」とは、このことですね。
 素里奈さん。
  藤原惺窩も、「庠序」の主として相国寺筆頭の地位をすてこの学説を支持したという
 主張なのでしょうね。ところで後醍醐天皇は、「新釈」を聴講し、朱子の説を翳したと
 されますが、実際はどうだったか?お考えはありますか?
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-101024.php
  残念なことに、一切の教典を網羅したと言われる↑の「大蔵経」は、息子「護良親王」
 に持ち出され、この教典を拐(かた)に天下を揺るがしたとされるほどで、禅宗には、
 「大蔵経」は渡らなかったのが実情らしく、禅宗では、「四書五経」も教理、教典の
 一部ということらしい。
  現在では、東寺の「大蔵経」よりも↑のサイトのものが、整理もパーリー語からの
 訳もあるものとされているらしいですね。

  江戸通

[2009年05月11日21時32分]
お名前: 素里奈
文字化け した箇所は『三国史記』の原文を伝記したのですが、受付られなかった 模様です。ご了承願います。お詫びします。
[2009年04月20日06時15分]
お名前: 素里奈
文字化け した箇所 は 原文(文字)です。お詫びいたします。
[2009年04月20日06時11分]
お名前: 素里奈
「下句麗」
先に述べた「王もう(もう・草冠+大+十+廾の字「文字化けのため」引用者注)」の負け戦 云々へつづく。

 ようやく戦列を整えて、高句麗を破ったときには、積年の溜飲をさげたかのように、喜んで、高句麗のことを 「下句麗」 として呼ぶよう、天下に布令をだしたという。
 漢書、資治通鑑、三国志、三国史記にのっている史実である。この記事・三国史記の原文のくだりをそのまま参照する。
“十二月에王子 解憂를 세위 太子 를 삼았다. 0 사신을漢 [後漢 ]에 보내어 朝貢하매、光武帝가王號를回復퀘하였다。이때는(光武帝) 建武八年이었다。二十年에 王 이 楽浪을침습하여 滅 하였다。”  日本語に直してみる        
“十二月に王子解憂を立てて太子と定めた。 0使臣を漢(後漢)に派遣して朝貢を行うに伴って、光武帝が王号を回復するようにさせた。このときは(光武帝)建武 八年であった。二十年に王が楽浪を攻め込んだ。”

別記「注11」として次のように読める:−  
“この記事は三国志 魏志 東夷伝 高句麗條に「もう(草冠大十廾)」更名高句麗,為 
下句麗、当此時為候国、漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢,始見称王」としたのと、後漢書 同伝 同條に 「建武 八年、高句麗遣使朝貢、光武復其王号」としたことによるものであるので、先に見た王もう(・・) 時代からは高句麗に限らず、多くの蛮夷 君長を称して 候王とした。” とある。

蛇足ながら、ここに見る「下句麗」のこと、後世高句麗が「百済」との戦いの後広開土王稜碑文に「百残」と記録としたことは周知のことである。(参照者加筆)」。

[2009年04月20日06時06分]
お名前: 素里奈
先に述べた「漢字文化の東遷」・高句麗の項を今少し覗くことにする。

高句麗に文字が伝来してきたのが、小獣林王の二年(372)であるのにくらべて、これより早くはないだろう、との意見が有力であるが、これには賛成できかねるものがある。
 372年である。これは王莾→

(本項との関係は、王莾が儒教政治を標榜して人心を収攬「うまくまとめてとらえる/引用者注」云々、元帝の皇后の弟という身分とあるので、生まれは高貴なようだが、政敵を毒殺、暴君の印象であり、終局的には、王莾本人も後漢の光武帝に敗死させられたとの記録である。
在位8〜23/前45後23とあるから、気の遠くなるような時代の話である。「引用者」。) 

←時代における高句麗との関係を念頭に入れた場合には、疑問をおこさずにはおかない年代なのである。
 言うまでもなく、「漢」を倒して、「新」をたてた一代の風雲児である。しかし、かれの存在は前述のごとくあっけなく終りを告げた。→

このときの王莾のことを次のように記す記録もある。前漢はA.D.8年に漢室の外戚の王莾によって簒奪された。王莾は「新」という王朝を建てたが、多くの不満を生み、赤眉(せきび)の賊などの農民反乱や、劉玄(りゅうげん)、劉秀らの漢室の一族の挙兵によって間もなく滅びた。(シルクロード辞典/森川哲男・九州大・教授)

←在位はわずか十四年にすぎなかったが、高句麗にとっては、たいへんな暴君であった。
王莾が、幼帝を殺して、みずから即位したあくる年の九年である。胡族を討つために、高句麗に出兵するよう厳命した。しかし高句麗は言いなりにはならなかった。胡と闘うよりは、辺地にはしって、これを避ける道を選んだのである。烈火の如く怒った王莾は、征討を命じたが、戦線の動向はいっこうに思わしくなく、負け戦であった。
 
(参考文献:@『博士王仁と日本の漢字文化』Aシルクロード辞典 その他)

[2009年04月17日23時06分]
お名前: 素里奈
漢字文化の東遷
先の項で日本の儒学者藤原惺窩と同じく韓国の姜(カンハン)両者が『四書五経』を解して倭訓を上梓した話を参照したが、漢字文化が玄界灘を渡って来たのは、王仁以前、第二、第三の王仁が存在したはずである。ちなみに漢音(時代は王仁東来四世紀以後ではあるが、ご存じ隋(ずい・581〜619)代、唐(とう・「619〜907」長安(今の西安)などの中国北方系の音が遣唐使や留学生によって日本に伝えられたもの・漢音、同じく漢字音ではあるが、古代日本へ朝鮮半島経由で渡来した音で、中国南方系の発音すなわち呉音(「明」を「ミョウ」、「眼」を「ゲン」、「若」を「ニャク」と読むが如く、おそらく百済仏教僧などの入来と関係が深いと思う。理由:この読み方は仏教語に多い。
 
したがって漢字が、いつ日本にわたってきかか、という問いに対して、かならずしも王仁の来日と付け合わせて考える必要はない。歴史的必然は、いつも偶然性をその先行にしているからである。言いたいことは、藤原惺窩その弟子林 羅山などの儒学の素は王仁にあるということ。

百済に儒教が流入してきた時期は、文献にあらわれているところでは、四世紀中葉から後半である。以下高句麗への伝来を調べる必要があるが、紙面の都合・ここではさておく。

[2009年04月12日08時11分]
お名前: 素里奈
『看羊録』 の著者は姜(カンハン)である。先の項で、この人物は日本滞在中慶長四年(1599)に儒者藤原惺窩との共著で『四書五経』の倭訓(和訳)を上梓したことを記した。
帰国した姜は、国王宣祖(ソンジョ)に召され、日本の状況を報告して賞された。しかしこの頃、姜の思想に対立する者があり、日本の捕虜になったという一事をもって、これをいやしみ、罪とする者があった。姜は士官の意思を失い、故郷へ帰ってしまった。
弟子を教えて十八年、その間に、二度教授として招かれ、一度は赴任するも、その意志をなくして戻り、一度は赴任することなく断ってしまっている。一本気な彼の性格が、官吏として栄進の道を閉ざしてしまったのであろうか。
しかし私(村上氏)は考える。姜と藤原惺窩は、互いに友であるとともに、互いに師でもあった。そして、たとえ海を隔てた他国であっても、姜に思い出されるのは、惺窩の生き方であったろう。一国の最高権力者、徳川家康から招かれながら、これを断り、清貧に甘んじ、学究一筋に生きる惺窩の生き方――――それは姜にとって、生涯の指標であり、あこがれでさえもあったのではなかろうか。その清貧の生活が、姜十八年、惺窩十九年と相似し、その死去が、わずか一年違いであったことも驚くばかりである。
姜が書いた『看羊録』は、その後半生紀を経て、その弟子たちによって刊行された。
 (文面の一部『賊中封疏』は紙面の都合で割愛する「引用者」)

蛇足ながら、京都伏見で姜に出会った時、惺窩から見れば、まず年下、そして捕虜とういう身分の姜に対し、賓師の礼を尽くして教(知識を共有・最初は筆談?「引用者注」)えを乞い、そして日本儒学の基礎を確立した事実は、まぎれもなくそれを証明している。

参考文献:村上恒夫氏『儒者姜と日本102頁(他)



『看羊録』 の著者は姜(カンハン)である。先の項で、この人物は日本滞在中慶長四年(1599)に儒者藤原惺窩との共著で『四書五経』の倭訓(和訳)を上梓したことを記した。
帰国した姜は、国王宣祖(ソンジョ)に召され、日本の状況を報告して賞された。しかしこの頃、姜の思想に対立する者があり、日本の捕虜になったという一事をもって、これをいやしみ、罪とする者があった。姜は士官の意思を失い、故郷へ帰ってしまった。
弟子を教えて十八年、その間に、二度教授として招かれ、一度は赴任するも、その意志をなくして戻り、一度は赴任することなく断ってしまっている。一本気な彼の性格が、官吏として栄進の道を閉ざしてしまったのであろうか。
しかし私(村上氏)は考える。姜と藤原惺窩は、互いに友であるとともに、互いに師でもあった。そして、たとえ海を隔てた他国であっても、姜に思い出されるのは、惺窩の生き方であったろう。一国の最高権力者、徳川家康から招かれながら、これを断り、清貧に甘んじ、学究一筋に生きる惺窩の生き方――――それは姜にとって、生涯の指標であり、あこがれでさえもあったのではなかろうか。その清貧の生活が、姜十八年、惺窩十九年と相似し、その死去が、わずか一年違いであったことも驚くばかりである。
姜が書いた『看羊録』は、その後半生紀を経て、その弟子たちによって刊行された。
 (文面の一部『賊中封疏』は紙面の都合で割愛する「引用者」)

蛇足ながら、京都伏見で姜に出会った時、惺窩から見れば、まず年下、そして捕虜とういう身分の姜に対し、賓師の礼を尽くして教(知識を共有・最初は筆談?「引用者注」)えを乞い、そして日本儒学の基礎を確立した事実は、まぎれもなくそれを証明している。

参考文献:村上恒夫氏『儒者姜と日本102頁(他)





       


       

[2009年03月27日21時21分]
お名前: 素里奈
「儒学は乱を撥(おさ)めて正しきにかえし、鼓を鳴らして俗を矯(た)める大義なるも、まだ是れかの理を窮めて性を尽くし、陶冶変化する実論にあらざるなり。能(よ)く始を原(たず)ね終を要めて天地を一区と為し、萬物を芻狗(すうく)と為し、駭覧玄通して形景の宗を求め、禍福の素(もと)を同(ひと)しくし、死生の命を一にするが若きは、吾は道に慕うことあり」    『三国志』の魏志常林伝注『魏略』にのせられた一文である。

儒学は乱れた現状を改めて調整して正しい方向へ導き、世間一般でいう当り前なものでも正しくない形を整えるために、まっすぐなものを曲げたりまがっているものをのばしたりするが、まだものの道理をきわめて人間本来のあるべき姿、人の本性や才能を鍛えて育て上げるものであることを教える学問である。ことの本質を窮めて世の中を正し、物事があるべき方向に進むように導き、よくわからない微妙な道理を窮めて、表裏一体なる不幸を幸福へと転じ、死生は天命によるもので、人の力ではどうすることもできないものであることを承知の上でさらに如何に正しく生きるかを認識出来る道を諭すものである。
『三国志』の魏志常林伝注『魏略』
(解説は自己流なので、誤りは乞うご容赦「引用者」

[2009年03月04日00時33分]
お名前: 江口素里奈
秀吉の朝鮮攻めは五年の間隔をおいて最初が文禄の役、そして慶長の役であるがこの後者の折、朝鮮の儒学者  姜(カンハン) は海上で郷里へ向かう途中、藤堂高虎の船団の虜囚となり日本に連行された。囚われの身でありながら、その知識を高く評価されて優遇された。姜は藤原惺窩と親しくなる。また彼を通じて播州竜野(たつの)城主である赤松宏通とも儒学の仲間として相通ずる仲となった。

このことを『看羊録・姜本人の著書』はこう書いている。「日本の将官はことごとく盗賊であるが、赤松弘通だけはすこぶる人心がある。―――唐の制度や朝鮮の禮を篤く好み、衣服や飲食まで、必ず唐・朝鮮に習おうとする。日本にいながら、日本人でないと思われるところがある」弘通は藤原惺窩に深く師事し、儒学をもって領内を教育しようとしていた。

弘通も秀吉の命令で朝鮮侵略に参加した武将の一人であり、姜にしてみれば、秀吉、高虎、清正そして小西行長らと同類という気がしないでもなかったであろうが、一度会い、学友としてはその人となりに心服した。

来日して二年半ぐらい後と想像するが、姜の学識に感じた惺窩は、弘通の援助を得て、
『四書五経』の倭訓(和訳)を計画した(四書とは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』をいい、五経とは『易経』『詩経』『書経』『春秋』『禮記』をいう)惺窩はいずれの日か帰国する筈の学師姜が日本に滞在中にそれを仕上げるべく心骨を注ぐ。そのために惺窩は、姜の立場に同情しつつも、書物ができあがるまでは妥協しない厳しさがあった。文中の小さな誤りも、厳しく責めてともに研鑽をかさねて完結させた。慶長四年(一五九九)二月十五日、見事に上梓をみる。 このとき惺窩は、感動に震えながら、
『日本、宗儒の義を唱うる者、この冊をもって原本とせよ』

と書き残した。まさに自信と誇り、そして喜びがほとばしる瞬間の言葉である。また姜は、憑かれたように筆を走らせ、翌年の春までに、十指に余る関連書を書き残した。そこには敵国日本に対する恨みも憎しみも介在する余地はない。学問に生命をかけた一伝道者の姿あるのみである。
 
その弟子、藤原惺窩や林羅山が江戸に「湯島聖堂」をつくり、のち幕府学問所・東京大学に発展した。弘通をよく理解した藤堂高虎の功も記されるべきである。記録では、姜は来日三年後にその兄とともに無事に帰国されたとある。かの有名な『看羊録』は帰国後の著書か? 『広辞苑』をみたが、藤原惺窩の名はあっても 姜 の名は無い。

参考書:『儒者姜と日本』村上恒夫・辛基秀著/歴史研究第568号、原文縮小、他。

[2009年01月29日16時56分]
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