テーマ:万葉集の世界

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お名前: そんし
BSで放送されていたNHKの「日めくり万葉集」が今年から教育テレビで再放送されていたんですね。気づきませんでした。

その第1回放送が、わたしの一番気に入っている額田王の「あかねさす」の歌だったようで、やはりこの歌は万葉集を代表する歌なのでしょうね。

一国の王から、最下層の農民までが、すべて平等に扱われ、同じような長さの詩が並べて掲載されている書物というのは、世界ひろしといえど、日本にしか存在しないんじゃないでしょうか。

ところで、やはり「あかねさす」の歌をこよなく愛した歴史作家に、私の好きな永井路子がおります。題名もそのものズバリ「茜さす」という小説も出しているほどです。

永井路子の小説「茜さす」は、歴史小説ではなく、現代小説で、主人公は、どこかあぶなっかしい女子大生。物静かな中年男と結ばれるという、とてつもなく飛んだ小説です。

歴史作家の小説と聞くと、そのイメージだけで、硬い小説なんじゃないかと思ってしまうでしょうけれど、意外にも永井路子の小説に出てくる女性は、みんな現代女性の考えを、はるかに飛び越えたような、ぶっ飛んだ女性が多いように感じます。

その永井路子の女性史観の原点にあるのは、やっぱり額田王なんじゃないだろうかと思えてなりません。

そんし

[2009年01月27日00時45分]
お名前: 江戸通
 天智天皇が亡くなって間も無く、壬申の乱が勃発します。
 天智天皇の改革は、受け入れ難く、白村江の敗戦の矛盾がやはり大きかった
 とか、持統天皇の画策と諸説あります。
http://www.nara-np.co.jp/special/takamatu/vol_02a_04.html
>王氏は陝西省で見つかった高松塚古墳の同笵(型)鏡が7世紀末の鋳造とした上で、同じ鏡が>日本にもたらされた時期を慶雲元(704)年の第七回遣唐使帰国時と推定した。日本を出発し>たのは大宝元(701)年。実に30年ぶりの派遣で、この間、日本は新羅との交流を積極的に進>めた。海獣葡萄鏡は朝鮮半島で見つかっておらず、30年ぶりの遣唐使が、鋳造間もない海獣葡>萄鏡を直接持ち帰った可能性が高いと王氏は考えた。

  前掲論文からの抜粋
 陝西省の発掘からの推論ですが、迫力がありますね、
 
   隈(ひのくま)の草葉の陰に光りしは高松塚の宝の鏡 =王氏=
   高松の塚の主を照らせしは海獣葡萄の鏡の光 =直木氏=
  
  他に、藤原鎌足、石上麻呂、藤原不比人が上げられています。当然、他の皇族
  と言うこともありますね。
  時代は、則天武后の時代ともなれば、留学生のみならず、楊貴妃は伝説とても
 渡来人であった可能性も否定できない。

  江戸通

 
 
[2008年10月09日14時00分]
お名前: 江戸通
>比売朝臣額田(ひめあそみぬかた)
 694〜715年を費やして、完成させた粟原寺(おうはらてら)は、
既に廃寺となっていますが、神武天皇の即位の式典で、男坂、女坂と呼ばれた
押坂(古くは、おさか、現代では、おっさか)を挟んで、大体、バス停では、3つか
4つが、大和朝倉ということになります。
 
 内大臣、藤原卿、采女(うねめ)の安見児をまくときに作る歌、一首

 我はもや 安見児得たり 皆人の
    得てにすといふ 安見児得たり   巻2、95

 鏡女王は、近江の野洲郡鏡の里の生まれ、安見児は、采女の正員でした。
 謡われた場所は、近江の大津京のようになっており、天智天皇の晩年の事、
  朝孫額田と額田女王が同一人物とすれば、60歳以降の約二十年をこの、
 おうばらの地で過ごしたことになります。
  後宮の女性にも、2グループあり、藤原鎌足晩年には、興福寺を作ろうとする
 グループも、内大臣は、抱えていたことになります。

  舒明八年の記事に、
  「悉に、采女、ヲカせるものをカモガへて、皆罪す」とありますから、
  若き、藤原鎌足は、そのような罪を犯せるひとでは無かったのが解ります。
  話しは、巡るのですが、どれかなのでしょう。特定はできないですね。

   江戸通
[2008年10月08日21時47分]
お名前: 江戸通
 「薬猟」といっても、当時の薬草は?
 佐倉の万葉植物園には、あるのですが、なにかとなると難しい。
 一例をあげれば、「高松塚古墳」の麗人画にある色と素材の復活は、十年を
 費やし、完成しましたが、糸は、手繰りの絹があまりに高価なので使えず、
 染めは、椿の灰を加えた草木染めが復活したものの、色が定着するのが、難しく
 化学染料に頼ったとか。当時の技術の再現にまで至らなかったらしい。

> うちは、(和)歌のほうは詳しくないから、これ以上はパス。^_^;
 ヘイさん、ここらかな?

 大和朝倉の近くに、栗原寺という比売朝臣額田が、草壁皇子の為、晩年を
費やした寺があります。

 内大臣藤原卿、鏡王女をとばふ時に、鏡王女、内大臣に贈る一首

 たまくしげ 覆ふをやすみ 明けていなば 
  君が名はあれど 我が名し惜しも       巻二、93

  鏡女王は、天智天皇の九名の後室ではないものの、後宮にいたとされる
 人物で、額田女王とは姉妹ではないかとされています。内大臣、藤原鎌足の
 正室です。
  「うねめ」となれば、日本独自の制度?ですが、天皇の財産と見なされ、
 他人との関係禁止され、「相聞歌」を残していても、悲恋というか、関係
 は全ないのが、普通です。なんらかの事情で、天智天皇が、鏡女王を、一般人
 として、内大臣の正室としたらしい。
  通説では、中国の制度は、日本では、機能していなかったとされています。

  江戸通

[2008年10月08日09時01分]
お名前: ヘイ
万葉集 − 相聞歌とくれば、歌垣を連想しますですね。

歌垣(うたがき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%9E%A3
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/utagaki.html

うちは、(和)歌のほうは詳しくないから、これ以上はパス。^_^;


[2008年10月01日23時51分]
お名前: そんし
「あかねさす」は万葉人の粋を感じないで読むと、誠につまらない恋歌になりますが、これを、歌会の席で大勢の歌心を知る人たちの前で、即興でふたりが歌いあったものだと想像しながら読むと、そのセンスの良さに、ただただ脱帽するばかりです。

つまり額田王は、若き日の自分の姿を想像しながら、それに袖振る大海人皇子を想像の世界に作り上げて、さあ私のドリームワールドにいらっしゃいと大海人皇子を手招きしたわけです。

そりゃそうですよね。想像の世界の歌でなければ、かえって興ざめします。現実にそんな事があったとしたら、大衆の前で暴露して大海人皇子を辱めようとしている歌ということになってしまうのですから。

それに対して大海人皇子は何と返すか。凡才のわたしなら、きっとあわてて、「そりゃあんたの気のせいだよ。わたしゃ袖口がかゆくてぽりぽりかいていただけ」といいわけじみた返歌を作って逃げるでしょう。

しかし、そこは恋の歌をさんざん書き続けてきた大海人皇子の真骨頂。想像の世界でたしなめられたのなら、その想像の世界に迷い込み、恋い焦がれて苦しむ若者を演じて、即座に返したのが「むらさきの」ということなのでしょう。

きっと場に居合わせた人々は、感嘆の声を上げながら、ふたりの掛け合いに拍手喝采したのではないでしょうか。

[2008年10月01日23時24分]
お名前: 江戸通
>「あかねさす、むらさきのゆき、しめのゆき、のもりはみずや、きみがそでふる」
 大津の宮で行なわれて、「薬猟」(くすりがり)の様子ですね。
 葛城皇子(中大兄皇子)が、近江に遷都して挙行された行事で、
 蒲生野で行なわれたとされてますね。
  皇子は、歌人の評価としては、明日香の第一期の人、歌ぶりは古朴でおおらか
 であると言われています。
http://www.tokensoft.co.jp/manpo2002/manp0008.html
 今井町以外は、大分昔、よく行きました。最後は、1988年頃かな?
 当時と同じ町並みなのには、感心します。
  孝徳天皇の御世に、難波の宮から群臣を引き連れ、明日香に帰ってしまう、
 と言うほど、明日香が好きだったのでしょう。
http://www.nantobank.co.jp/syohin/manyou/motto/n0120.htm
>「むらさきの、にほへるいもを、にくくあらば、ひとづまゆゑに、われこいめやも」 
 織田信長は、車の高さや轍も図って、安土遷都を実施したようですが、
 古代の交通も考えていあたのでは。
  江戸通

[2008年10月01日11時01分]
お名前: 江戸通
 近江の大津の宮に天知らす天皇の代
  天命開別天皇 謚して 天智天皇(テンヂテンオウ)といふ

 鏡女王に賜へる御歌一首
 
 妹が家も継ぎても見ましを大和なる大島の嶺(ね)に家居(も)あらましを
                                91
 鏡女王の和へ奉れる歌一首
 
 秋山の木(こ)の下隠(がく)り行く水の吾(あ)こそ増(まさ)らめ思ほすよりは
                                92
 http://blog.hix05.com/blog/2007/07/post_275.html

  天皇は、唐より「李衛公問対」を入手し、戦略はほぼ、そのままであったという
 伝説があります。
  実際は、大化の改新のまえに、渡来した中国人から文書を習ったという所か。
  「李衛公問対」は、成立に謎はありますが、唐の太宗(李世民?)と名将
  李靖の問答という形式になっています。
    大津の宮以前、皇太子の時に作られたか、儀式的に謡われたという可能性
  もありますが、明日香の歌ではないかと考えています。

  江戸通

[2008年09月24日20時46分]
お名前: 江戸通
 前回、東郷元帥の銅像までなかったのが残念、別トピですね。
http://www.biwa.ne.jp/~tam/sansaku/report/21%20imose/imose.html
 例年5月に「薬猟(くすりがり)」を蒲生の野で行なったとあります。
 雪野大橋には、薬を狙う大海人皇子像まであるらしい、画像でも
 あれば、次回へと。
  額田大王と大海人皇子は、結婚まえに子供までいた恋人だったとか?
  天智(てんじ)天皇の后は、地方の豪族の人であり、前例がなかった
  為とか、心意は如何に?


  江戸通
[2008年09月18日21時24分]
お名前: しかのあまの歌
 海峡、対馬の歌に
http://wgs.wakayama-lib.go.jp/cgi-bin/hccd/hccdcsv.cgi?HC_WORK=TPL&HC_PATH=/av/ken/db/manyok.hcsv&NAME=HC_CSVDISP&TPL=8507
 「志賀(しか)の白水郎(あま)の歌十首」
 というのがあります。

  明治時代に、京都五山の僧侶が輪番で駐在するまで、実は、外交は、
  宗対馬家がかなり独自に行なっていた。万葉集の時代でも、筑前周辺から
  大量の米を防人や島民の為に送っていたようです。

 http://asagasumi.web.infoseek.co.jp/manyou/MK16-3868.htm

  官の使いではあるが、代理であり必ずしも、使いではない人を「荒雄(あらお)」
 という事が多くなったようです。
  貿易や交信に、独自の印鑑まででだすと、官もホッテおけなくなるという、
 繰り返しではあったようです。宗家が、鎌倉時代に領主として認められるまえは、
 かなり錯綜していたのでしょう。
  昭和62年、対馬尾崎のご神木が倒れ、その跡から、遺蹟が出土しています。
  かなり大量の陶磁器が発見され、当時の貿易は、70パーセントが、半島であった
  ことが証明されました。
   明治期には、外交権を国が接収し、貿易の不信から、軍事施設と漁業の島と
  なり、ロシア艦隊との決戦まで続いたようです。

  江戸通
[2008年08月14日08時07分]
お名前: 江戸通
 石舞台古墳に関連して、新たな発見があったようです。
 ちょっとハイク(俳句)の雰囲気も!
http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080501000731.html
 カンジョ遺蹟でしたか>駄洒落かな?

 俳人の黛まどかさんの一句
 キトラ古墳
  竹の秋地中の虎を眠らせて    2008.6.8
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/080802/arc080802a.shtml
  ”唐手長 大木に足をからませる”   江戸通
  ”片手写メ 大きい食卓 届かない”  江戸通
  ”星だけは 手を広げつつ 運び出し” 江戸通
 沙弥尼たちの歌
  秋萩は 盛りすぐるを いたずらに
   かざしに挿さず 帰りむとや   (巻8、1559)

  蘇我馬子は、石川の宅に、仏殿を修治(つくる)る、仏法の始め、これより
  作(おこ)れり  とか        日本書紀

  明日香の花園神社が、かつての石川精舎跡ではないかと推定されている。


 江戸通
[2008年08月06日07時23分]
お名前: 江戸通
 さて、話しを歌の世界にもどすと。
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/70.htm
 天武天皇が、在位8年目に吉野の行幸した時に、記されたと
する説を採用しています。
 あくまでも、儀式として歌われたものとすれば、芋峠でしか
ありえないとする。
 既に、神話となっていた神武東征は、この吉野を実質の拠点
としたという伝承があり、水銀の道と海人の関係を多く言う人
もあった。
 雲雀より 空にやすらふ 峠かな
                 松尾芭蕉
 ミミガミネを松尾芭蕉は、「臍峠」近くと考えたのかもしれない。
「臍峠」というのも芭蕉の命名らしく、細峠と言ったらしい。
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/one/m0054.html
 つばきは、万葉集でも多く歌われた花である。

 江戸通
[2008年07月03日22時26分]
お名前: 何処の歌なのか?
 大海人の皇子(天武天皇)の御製に
 み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくそ 雪はふりける
               間なくそ 雨はふりける
 その雪の ときなきがごと その雨の 間なきがごとく 隈もおちず
 思ひつつぞ来し その山道を
              (巻1、25)
  
 病床の天智天皇に、譲位を示された大海人皇子は、その日の内に僧形となり、官司
に私有する武器を返却し、吉野をめざした。
 当時の都大津京を旅たち、京都の宇治で左大神、右大臣、大納言の見送りを受け、
その日のうちに、明日香村島ノ庄につき、吉野入りを果たした。

 巨勢山に
  我が背子を こち巨勢山(こせやま)と 人は言えど
    君も来まさす 山の名にあらじ
                 (巻7、1097)

  巨勢山の つらつら椿 つらるらに 
    見つつ偲はな 巨勢の春野を
                 (巻1、54)
 これは、明日香から吉野に入る古道のひとつです。
 飛鳥川源流は、古来から禊の場所として、特別な感情を持って
 いたとされる。
   大海人皇子の大海人というのは、海部の人たちが育てたからと
 されている。
  君により 言の繁きを 故郷の
  明日香の川に みそぎしに行く
                (巻4、626)八代女王
  
 大海人の皇子も、そう多くは、吉野に訪れては、いなかったようですね。
 近臣は、海に関連する者が多く、大津京という、大陸交通をも視野にいれた
 場所からの急行であったため、耳が嶺(ミミがミネ)という語感をアクセント
 にしたくなったのでは。
  こせが、こさせろこさせるという語義にさえ恨むという感覚は、やはり海人
 (海部の人:うみぶのひと)と
 関連があることを連想させますね。

江戸通
 
 
[2008年07月03日10時59分]
お名前: 山田道について
 山川出版の「詳説日本史」 2002年版から
 
 606年  推古    豊浦(とゆら)宮  
             小墾田(おはりだ)宮
 628年  舒明    飛鳥岡本宮
             田中宮
             百済宮
 641年  皇極    飛鳥板葢(あすかいたぶき)宮
 645年  皇徳    難波長柄豊碕(ながえとよさき)宮
 654年  斉明    飛鳥川原宮
             飛鳥岡本宮
 661年  天智    近江大津宮
 672年  天武    飛鳥浄御原宮
 
 という付表が記載されています。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70330a.htm
 天武天皇の時代に、本格的な京城の整備が行なわれ。北は耳成山から
南は、この山田道まで、東は、中ッ道から西は、下ッ道までの巨大な都城
が作られ、その一環として、山田道は、道幅18Mになりました。
 歌が作られたのは、それ以前ではなかったと考えられます。それにしても、
人や馬が通るのがやっとというイメージは、中世の頃の話しであり、古代では、
必要に応じて、30Mの官道というのも発見さています。
 一応、山田道の歌全文です。
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/thirteen/m3276.html
 蘇我家、推古朝ゆかりの小墾田(小治田)の記事として
http://www.asukamura.jp/hakkutsujoho/hakutsjoho_index.html
 地名の飛鳥という表記は、町村合併で、無くなったようで、現在では、
明日香村が行政区画となっているらしい。それ以前は、行政区画としても、
飛鳥を使っていた。


  江戸通
 
 
[2008年06月26日11時22分]
お名前: 江戸通
 山田の道を歌ったものに、
 百足らず 山田の道を 波雲の 美し妻と語らわず 別れし来れば
 速川(はやかわ)にお 行くもしらに 衣での 反(かへ)るも知らに
 馬じもの 立ちてつまづく …
                        巻13.3276
 海石榴市(つばいち)から飛鳥に向う交通の要衝で読まれたものらしい。

  大君は 神にし坐(ま)せば 赤駒の はらばう田井を 都となしつつ
                        巻19.4260
                        大伴御行(おおとものみゆき)
  さらに足を伸ばせば、この雷丘にたどり着く。
    飛鳥浄御原宮のきよみはらは、音では、ジョウゴとなるので上居あたりでは、
  と以前仮説を立てた人もいるほどであった。
   現在では、飛鳥宮は、岡地区であり発掘も行われ確定している。
http://www.asuka-tobira.com/miya/tennoutomiya.htm
 蘇我入鹿(いるか)が実権を握っていたのは、小治田(飛鳥村奥山)のあたりで、
 万葉集の歌の多くが、葬祭にかかわるものが多く、

   采女(うねめ)の袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたずらに吹く
 この歌で詠まれた古京は、奥山の小治田の宮の可能性も否定できないのである。

  これらの歌に共通する雰囲気は、芝桜、ただし、近年の流行のものではなく、
 しゃくのような、草ではなかったと想定しても可笑しくない。
http://pcweb01.sakura.ne.jp/2008/04/post_317.html
   ある程度の大きな群生が見られたのは、事によると天の香具山周辺だったかも
  知れない。当時は、社は山頂付近にあり、現在の麓ではなかった。
   芝桜で、最近流行っているのは、アメリカ産のもが品種改良され、
  関東のほかの地域でも、栽培されている。
    
 江戸通

[2008年06月20日14時13分]
お名前: 江戸通
 坂越えて 阿倍(あへ)の田面(たのも)に をる鶴(たず)の
  ともしき君は、明日さへもがも   巻14、3523

 古代の一日が解る歌とされています。あの飛鳥考古館近くのうたですが、
一日の始まりは、日没時で、明日は、その日の夕方のことでありました。
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/080612/arc080612a.shtml
 キトラ古墳の主とも言われる、阿倍御主人(あべのみうし)の邸宅が
発掘されたようです。
 街道(飛鳥ー桜井線)に沿って、彼地と想定される場所がいくつかあります。
 丹宇(にう)というと朱泥や水銀の産地とか渡来人の関連がいわれますが、
 彼地が奈良では、朱や朱泥にちなむ場所らしい。
 かの地から、唐土の阿倍仲麻呂にちなんで西安から
http://yukibig.hp.infoseek.co.jp/xian2002/day02/day12.html
  歌からすると、時間感覚が一つの重要な鍵になってしまいますね。
 また、キトラ古墳の埋葬者が判明すれば、大事件ですね。

  江戸通
[2008年06月19日11時43分]
お名前: 江戸通
  もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが 汲みまがう
 寺井の上の 堅香子の花  (巻19.通番4143)
    大伴家持
 たしか、万葉集に「かたかご」を直接歌ったのは、この一首だったと記憶してます。

 越中の高岡あたりで雪深いさとで、春のかたかご、秋のナンバキセルなどや
 秋の七草を思いながら歌われたのでは?

  万葉時代の植物を再現する試みは、関東でもさかんなようですね。
 春日大社の万葉植物園などは、よく出かけました。
 
 
>一重とは、花びらが重なっていない花、八重はボタンのように重なっている花、
>つまり花には一重と八重しかないわけで、八は、たくさんという形容なんですね。

 八重の花弁のヤブカンゾウは、わすれぐさと言って、万葉時代は、この草に
触れることで、恋の悩みを忘れると信じられていたそうです。
犬飼さんが、必ずこの草を見ると説明されていたそうですが、難しい歌の話しより
音や調子、具象的な花などにふれることを大切にしていたようです。

江戸通
[2008年06月11日04時38分]
お名前: 水軍丸船長
そんし殿、江戸通さま、重ね重ねお知恵を授かり、古への豊かな思いを感じております。
只今は、伊予の国の古き因みの、道後の湯の里(湯築城・日本名城100選の中世の城跡)で、同じ思いの方々と、日々賑やかに、美濃の国の住人共々に交えて・・歴史談義で賑わっております。 御暇があれば是非お越し下さい!
[2008年06月06日17時03分]
お名前: 江戸通
>この和気とは伊予の国の和気郡の旨なり。
 水軍丸船長さん。万葉集の編さん行なわれたのは、
8世紀後半、唐の時代で言えば、安史の乱の時期です。
 マスコミでは、山口県の向津具(むかつく)半島に楊貴妃の遺蹟が
あることから、楊氏亡命説がさかんに言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%A6%84%E5%B1%B1
 ウィキでは、アンロクザンは、ソグド人と言う言い方をしていますが、トルコ系
の北方異民族、楊さんは、四川省出身の名門です。
 乱を避け、四川に向う途中で、兵士をなだめる為に処刑されたらしいですね。
 また、楊貴妃が、安録山と仲が良いという伝説から、母方のペルシャ系渡来人
となって、日本に渡ったというのでしょう。
 唐は、南北朝以来の門閥貴族が根強いので、楊家が肉屋の主人ということが、
主張されていますが、南北朝貴族が楊を蔑んで言う言い方ですね。
 武家としては、名のある李家もしょせんは、二流貴族というのと同じようです。
 楊貴妃が、ペルシャ系の血統を持っていたかも知れませんが、楊国忠の叔父の実子
で、四川で育ったとあります。
 また、伊予は南海道に属し、往路は、伊予、復路は土佐と海道が整備されるのは、
室町期であり、それに準じて、宋代に、楊貴妃を模した観音などが、中国に注文生産
された事があるほどです。
 隣りの中国では、乱後、アンロクザンに似ているという理由で、ソグド人狩りが
行なわれ、現在では、トルコ、ペルシャの融合文化としてのソグドという見方をしなく
なったらしいです。
 いずれにせよ、ペルシャ系住民が多く、日本と係わりがあったのは確実ですが、楊貴妃
との関連ではなく、安録山、史思明の難を避けた人々でしょう。
 必ずしも、古今集の時代の歌とも言い切れないとは考えています。

江戸通

[2008年06月06日16時41分]
お名前: 水軍丸船長
『堀江漕ぐ』の歌の想いを色々とお教え頂き、あらためて歌心の深さに想いを馳せて居ります。
かつて、『堀江漕ぐ櫓な記小舟漕ぎ皈皈り・・・』の歌を万葉集では見つからず、確か古今集ではなかったかと記憶が甦りました。・・・また、調べてみます。 感謝
[2008年06月06日12時14分]
お名前: そんし
水軍丸船長さんこんにちは。「堀江漕・・」は、なかなか想像させる詩ですね。ああいう恋の歌は歌人の歌心の深さを想像させてなかなか楽しいものです。
万葉集には「堀江漕」の詩はいっぱいあるみたいですね。
「防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ」
「堀江漕ぐ伊豆手の舟の楫つくめ音しば立ちぬ水脈早みかも」
「葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに」
「小夜更けて堀江漕ぐなる松浦船梶の音高し水脈速みかも」
一般的には、みな難波と解されているようですが、伊予和気郡とした人の説は難波の堀江は誤りとだけしか記載していないのでしょうか。わたしは定説を切り捨てるその根拠のほうには興味を感じますが、それがわからないと、それに基づくその後の話の展開にはあまり興味を感じません。
よく自説を正当化するのに都合の悪い歴史書を「あれは誤記」と一言で片づけて根拠を示さない例が、アマチュアだけではなく専門の学者にもみうけられ、あれはよくないといつも感じています。古書にそれを要求するのは酷ですが、やはり理屈は同じだと思います。

[2008年06月06日07時50分]
お名前: 江戸通
 大化の改新の頃、中大兄と中臣鎌足が、新来の帰化人
請安(南淵請安)の許に馬を揃えて、孔子の王道を受けるべく
通ったとされています。

 まそ鏡  南淵山は 今日もかも 
  白露おきて 黄葉(もみじ)ちるらん (巻10、通番2206)

 どうも、この「まそ」と言う言葉は、研究の結果、「み」という音(オン)に
かかる言葉らしいです。
 この、現在では、稲淵と呼ばれる、石舞台から島ノ庄へと行くあたりは、
新しく大陸からきた漢人の集まる所だったらしい。
 「八十島掛けて」や「水伝う浦(廻る)」というのは、瀬戸内海の海上の
難所を指す事が多く、「今来の郡」から転じて稲来とか呼場うようになったとか。
 また、飛鳥川と並んで、暴れ川というのも、あまりに多くの渡来人が、住む為に、
川岸の林を伐採した為、本来の暴れ川飛鳥川とならび、細川も暴れと言う事が多く
なったり、禁制が出されたことがあるうらしいです。
 更に、此処まで儷(なら)の話しとすれば、

 いそのかみ ふるの神杉 神さびし 
  恋をもわれは 更にするかも

通常「石上布留」と続けて詠むことが多く、磯の守ではなく、石上であるというのが、
破という流れになります。
 布留の社は、ご神体は、布都御魂(ふつのみたま)であり、神武天皇が、たけみかずち
から熊野の高倉下(たかくらじ)という人物から受け取った神剣です。
 熊野の霊と瀬戸内海を渡ってきた、神の人々の邂逅を歌ったので、少々硬くなった
詩とすべきではないでしょうか。

江戸通
[2008年06月05日22時21分]
お名前: 水軍丸船長
ヘイさま、お久し振りです・・ご案内のこと有り難う御座います。(拝見指せて頂きました)新本・古書との販売の義・・検討させて頂きます。 感謝

[2008年06月05日10時13分]
お名前: ヘイ
水軍丸船長さんへ

名字でたどるあなたのルーツと愛媛の歴史 (単行本)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%88%E3%81%B2%E3%82%81%E5%90%8D%E5%AD%97%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E2%80%95%E5%90%8D%E5%AD%97%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%A8%E6%84%9B%E5%AA%9B%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E5%9C%9F%E4%BA%95%E4%B8%AD-%E7%85%A7/dp/4901108360

既に所有しているのでしたら、ごめんなさいです。


[2008年06月04日13時33分]
お名前: 水軍丸船長
万葉の世界・・聊か手前味噌ながらテーマに重ねて、我等伊予之越智姓河野氏の古書の中に下記の歌一ッ句を見ゆ。昔若い頃興味を抱き・・万葉集を詠み漁って辿り着いたことを想いだし、皆様方のご見解を御伺いたく、お訪ねした次第也。その歌は『堀江漕(こぐ)、櫓無記(なき)小舟漕皈里(こぎかえり)、おもふ人をや恋渡るらん』・・古語には云う、難波の堀江と云うは誤にて此歌之堀江と読みしは和気之堀江可也と記す。この和気とは伊予の国の和気郡の旨なり。
誠に意味深にて候にて、真偽の程は判らねど先祖の想いを偲べばこそ単に見過ごすは船長の深意ならず、是非そんしと江戸通・カーター両師のご意見をお聞かせ下さい。恐惶謹言
[2008年06月03日11時38分]
お名前: 江戸通
 平城京の遺蹟から出土した木簡から、
 常陸 イノシシ アワビ
 上野 シカ
 甲斐 クルミ
 武蔵 フナ
 というのが、貢進されていたようです。

 伎波都久(さはつく)の 岡のくくらみ 我摘めど
 籠もにも満たなふ 背など摘まさね   (巻、十四)

 これは、鹿を唄ったように聞こえますね。(^o^)丿

 戯奴(わけ)がため 我が手もすまに 春の野に
 抜ける茅花(つばな)ぞ 召して肥えませ
 
 あれ、これも鹿を歌ったように聞こえますね。

http://www.nara-kankou.or.jp/co/index.html
 旧暦の2月頃、かぎろいの見える阿騎野あたりに、徳川吉宗の命令で
薬草園が作られました。(森野薬園)
 徳川家康が、織田信雄を大和松山(合算5万石、伊勢、下野領を含む)に封じ、
葛湯の看板を残させたとか。
 徳川家康、徳川吉宗は、神社によっては、御祭神ですよね、
 徳川家康命
 徳川吉宗命
 徳川慶喜命『忘れてはいけないそうです。(-_-メ)』

 大和松山あたりは、かぎろいの見えるあたりではありますが、
 この三つ柱の神様が、そうなさったとか?

江戸通
 歌の話しには、凝ってしまいました。
[2008年05月28日22時40分]
お名前: カーター
>万葉集に「下野の 三毳の山の こ楢のす まぐはし児ろは 誰が笥か持たむ」

この観光地としての三毳山は下記の通り佐野市観光協会によって紹介されていま
す。

http://www.sano-kankokk.jp/tour_guide/atrct/tg_atrct_003.html

三毳山の写真が出ており、また「万葉自然公園かたくりの里」というのもありま
す。前玉の地から宇都宮方面へ車を走らせる時にはこの地を通ります。最近は佐野
新都心と言われるアウトレットやイオン佐野ショッピングセンターもできて風景が
かなり変わって来ました。イオンを通り過ぎると道の駅があり、地元の野菜を買う
ことができます。

下記にはかたくりの群生地も紹介してあり、かたくりの花の写真を見ることができ
ます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%B3%E5%B1%B1
[2008年05月25日18時36分]
お名前: カーター
今日は、妻といっしょに久しぶりに埼玉古墳群を訪れてみました。知らぬ間に駐車
場は新しく増設されており、新しい方ではバスも停まれるようになっています。新
しく看板ができて「目指せ世界遺産埼玉古墳群」と書いてあります。

古墳は置いといて、目指す前玉神社へ南へ120M歩きました。ひしゃくで手を洗
い神社境内の方へ歩いて行きました。階段をのぼると神社に到着しましたが、特に
変わったようなものはありませんでした。階段を降りるとと西行の歌がひらがなで
石の板に印してあります。前玉を読んだ万葉集の歌があると、日本語の案内板に書
いてありましたが、その肝心の歌の碑を探したのですが、どこにあるのかわからず
そのまま帰ってしまいました。

家に帰ってネットで調べたところ、神社に昇る階段の下に灯籠に歌が印してあった
ことがわかりました。近江商人の末裔が経営する行田市の横田酒造のホームページ
から下記を引用します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その苔生した石灯籠の竿に刻まれた二首は、読みにくく大変ですが、いろいろな文
献から次の通りであることがわかりました。

●佐吉多万(さきたま)の津におる船の風をいたみ
綱は絶ゆとも音な絶えそね
「さきたまの津にある船は風が強いので綱が切れそうだ。
船の綱は切れようとも、私への言葉は絶やさないでください」
(巻十四・3380) (読み人知らず )

●前玉(さきたま)の小崎の沼に鴨ぞ羽きる
おのが尾に降りおける霜をはらうとにあらし
「さきたまの小崎沼で鴨が羽をきっている。
自分の尾につもった霜をはらっているのであろう」
(巻九・1744) (高橋虫麻呂)
http://www.yokota-shuzou.co.jp/city/manyou.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
埼玉古墳の博物館の展示によると、前玉の津は利根川にあったらしく、利根川と使
用して東京湾のあさりやはまぐりが、この地まではこばれていたらしく、遺跡から
海の貝の発掘されています。千葉県の遺跡では秩父の石灰岩も発見されており、利
根川を通した南北の交流が窺い知ることができます。

この地では10年前頃までは夏になると米作のために、ヘリコプターによる農薬散
布が行われていましたが、現在では農薬散布はやめたようです。農家の人に聞いた
ところ政府がやめなさいと言ったそうです。この前玉の地に引っ越して来た当初は
たんぼにいた鴨が急に飛び立ったりすると、鴨がいるのかと驚いたものですた。し
かし、最近は農薬散布をやめたせいかどぶ川に魚が見えるようになり、鴨などの水
鳥がたくさん増えました。むかしから鴨は多かったのですね。

[2008年05月25日18時23分]
お名前: そんし
「もののふの 八十娘子らが 汲み乱ふ 寺井の上の 堅香子の花」万葉集の中でも、特にたくさんの歌が収録されている大伴家持の歌です。

堅香子(カタカゴ)はカタクリの古い呼び名だろうと言われています。カタクリは日本全国の野山に普通に自生している花でしたが、近年開発で激減し、その可憐な様子が好まれて、群生地はいずこも「カタクリの里」と呼ばれ観光の目玉になっています。

「〜の里」という響きは、遠い万葉のむかしを連想させ、それゆえに大伴家持は、この場所でこの歌を詠んだのではないかという勘違いが、全国でおこなわれています。カタクリの里イコール万葉のふるさとという具合です。

その遍歴から、富山県あたりでは、とくに盛んですが、我が地元近くの栃木県みかも山にあるカタクリの里も、やはり例に漏れず、どう考えても大伴家持とは、何の関係もないだろうと思うのですが、万葉の里をキャッチコピーにしているようです。

これはやはり同じ万葉集に「下野の 三毳の山の こ楢のす まぐはし児ろは 誰が笥か持たむ」という歌があるからで、これゆえに万葉の里をうたっていたのですが、いつのまにか、カタクリの里とごちゃまぜになってしまい、大伴家持現るになってしまった、というのが実態だと思われます。

失脚した人の歌が、普通に好まれて万葉集を独占しているあたり、天平の昔から、日本人は、鷹揚な性格だったようです。

[2008年05月20日20時55分]
お名前: 江戸通
「八」−−>「五」
 縄文から古墳への複合遺蹟に残る歌

  橘(たちばな)を 守部(もりへ)の里の 門田早稲
    刈るとき過ぎぬ 来じとすらしも

  山之辺の道 内山永久寺付近の事であります。
 只、一人で待っております。沢山の早稲も見てますと言う心持か?

  更に、
   
  みわおおかみに長屋王の屋敷に伝わる口伝として
   
   うまさけ(美酒)みわの社の 山照らす
     秋の黄葉(もみじ)の 散らまく惜しも
    長屋王の歌ですが、何処で読んだかは、記されていません。

  更に、「五社の森」 あたりに
   衾道(ふすまじ)を 引手の山に 妹置きて
    山路をいけば 生けりともなし  
  柿本人麻呂の歌である、引手山あたりで、荼毘に付された妻を尋ねたが、
 嬰児を残して亡くなった妻を山中に尋ねるという趣旨ですが、
 犬飼孝氏は、敢えて、大和神社御旅所が見えるような場所を、当地とされ
 石碑を建てられたようです。

  当地= 石上社から、北に向った山之辺の道沿い

 江戸通


    
[2008年05月11日21時40分]
お名前: そんし
「八」で、ふと昔、歴史ファンの女性が川越歴史博物館で「八はたくさんという意味です」と紹介してくれたとき目の前に掲げてあった歌を思い出しまして・・・・
「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」(後拾遺集 兼明親王)
後拾遺集までもが出てきては万葉集の表題が台無しですけど、ご勘弁ください。

おや、「あやしき」じゃなくて「悲しき」じゃないの?
と思った方は、なかなかの通です。あやしきが正しいのですけれど、太田道灌の故事でこの歌を知っている人は、必ず悲しきと詠みますね。わたしもそのくちです。

元々は兼明親王の歌ですが、逸話としてのお話によれば、鷹狩りの帰りに雨に降られた太田道灌が、山里の民家に簑を借りに寄ったら、娘が黙って山吹の小枝を渡したのだそうで、その意味がわからず、城に帰ってから歌の師匠に聞いたら、この歌の意味を教えられ、「貧しい家ゆえ、ミノひとつだに無いのです」と無言で山吹の小枝を差しだした村娘の恥じらいを理解できなかった自分の不勉強を恥じた。となります。

城作りの名人太田道灌が築城したことで知られる川越ではそれゆえ市の花がヤマブキ、同じく岩槻城の旧岩槻市(現さいたま市)の市花もヤマブキ。大山のある神奈川県伊勢原市もヤマブキ。みいんなおらが村こそが山吹の里って具合です。

山登りを趣味にしていますと、春の山の登山口付近では、いずこもヤマブキの花が歓迎してくれ、山吹色と呼ばれるオレンジがかったその黄色い花は、本当に気持ちを明るくさせてくれます。

一重とは、花びらが重なっていない花、八重はボタンのように重なっている花、つまり花には一重と八重しかないわけで、八は、たくさんという形容なんですね。

そんし

[2008年05月10日21時41分]
お名前: カーター
>八岐大蛇(という出雲地方の勢力)に勝利した直後のスサノオが、当地に妻籠み
>の住まいを作ったという歌で、そこで支配下に納めた有力者の娘達をたくさんめ
>とって、次々と子供を作ったという話と理解しましたけど、それでよかったで
>しょうかね。

八俣のおろちが出雲の8つの勢力と考えるのは岩波的な考え方ですね。確かに八と
言う数字は大蛇の神話に何度も出て来ます。
「私どもには初めは娘が八人ございました。ここに高志の八俣の大蛇・・・頭が八
つ、・・八つの谷、八つの山峡を這い・・・八潮折りに絞った強い酒、・・八つの
門、八つの桟敷、・・八つの酒槽、・・八雲立つ」
ここの高志(コシ)について角川文庫の解説は「強暴なものの譬喩。また出水とし
それを処理して水田を得た意の神話とする。コシは島根県の地名説もあるが、北越
地方の義とすべきである。」としています。福永武彦さんは(越はすなわち北陸と
指す)と考えています。もし大蛇が北陸の勢力であったとすると、出雲と越の国と
が争っていたのをスサノオが出雲を助けたということになります。

大蛇を切ったとの尾を切った時に太刀の刃がこぼれたので、その尾を切り裂いてみ
ると鋭利な太刀がみつかったのでスサノオはこの草薙の太刀をアマテラスに献上し
たというエピソードは、出雲は越との戦いで製鉄技術を入手したと言う説となって
います。

福永武彦氏は文学者であり、歴史家ではありませんでしたら、八雲立つの歌を素直
に次のように訳しています。
「八重に雲は立ち上る。その名も出雲の国に、雲は立ち、八重の玉垣をなして私の
宮殿を取り囲む。私はいま妻を得てこの宮殿を建てるのだが、私と妻とを閉じ込め
るように、雲は立ち、八重の玉垣をつくる。ああ雲は八重の玉垣を作っている。」

角川文庫の解説は「や雲たつは枕詞。多くの雲の立つ意。八重垣は幾重もの壁や垣
の意で宮殿を言う。最後のヲは完投の助詞。」として次のように訳しています。
「雲の叢り(むらがり)立つ出雲の国の宮殿。
妻と住むために宮殿を作るのだ。その宮殿よ。」

[2008年05月10日15時23分]
お名前: 立国の年
 

>> 磐代(いわしろ)の浜松が枝を
  (^_-) 用語の解説ですが。   
 磐城国 明治1年に現在の福島県南東部及び宮城県の南部
 石代国 8世紀始めに、現在の福島県浜通りと宮城県南部に作られたが、
     724年に陸奥国に編入
 浜松  平安、鎌倉、室町に遠江国の中心都市、国府は、磐田あたりだった
     とされ、荘園が乱立し、栄えるが、今川氏に滅ぼされ、飯尾氏の居城
     とした。荘園としては、松尾社池田荘などが有名

 有間皇子  中大兄皇子の政的。孝徳の皇子と知られ赤兄の姦計により処刑された。
      とされる。歌からも解るように、連行も造営の為に集められた丁ということは、
      当時は、近圏から集められた、徴用者により行なわれたようで、反乱にしては、
      舎人も尽き、建築労働者を使ったか?兵などなくとも連行できたかという
      ことになるのですが。


   江戸通 
[2008年05月08日22時03分]
お名前: そんし
カーターさん、古事記の「八雲立つ・・」の歌も意味深ですよね。
八岐大蛇(という出雲地方の勢力)に勝利した直後のスサノオが、当地に妻籠みの住まいを作ったという歌で、そこで支配下に納めた有力者の娘達をたくさんめとって、次々と子供を作ったという話と理解しましたけど、それでよかったでしょうかね。つまり配下に納めると言うより、文化程度の高かった出雲勢力を取り込んで同化したということでしょうか。

古事記は岩波書店の倉野憲司校注本しかないので、素人向けの解説本を読んだことがないものですから、かってな解釈してます。

古事記・日本書紀は、朝トイレで読む本がないかなと探すときに目につく本です。両書とも、なんだか書かれていることがすごい下品で、世紀のエロ本だからこそ、こんなに長いこと消えずに残ったんじゃないかって気がします。

[2008年05月06日22時37分]
お名前: 江戸通
 以前、関西にいた頃、お世話になった方々がいたあたりの歌

 「市経(いちぶ)の家へ」
 「この夜半に、赤兄、物部朴井連鮪(もののべのえのゐめむらじしび)を
  遣わして、宮造る丁(よほろ)を率ゐて

   磐代(いわしろの浜松が枝を 引き結び
  ま幸くあらば またかへりみむ

  蘇我赤兄(そがのあかえ)が、有馬皇子を捕らえ護送した。
  祈りもむなしく、藤白坂(和歌山県)あたりで、
   「天と赤兄が知っている、私はいうことがない」と絶命したそうです。
  どうやら、はめられたらしいですね。赤兄は助けなかったということらしい。
  近くの生駒神社は、延喜式では、
   往馬射坐(いこまにいます)伊古麻(いこま)都比古(つひこ)神社と
  いうらしい。どう考えても、重畳的表現ですね。
   また、よく出かけたファミレスの近くの歌
   はっきりしないが、柿本人麻呂作と言われる。

    八田の野に 浅茅色付く 愛発山(あらちやま)
   峰の淡雪 寒くふるらし
   
   古今集では、改作し
    矢田の野に 浅茅色付く 有乳(あらち)やま
   峰の淡雪 寒くぞあるらし
    となっています。
   まるで、マリーンズの根拠地、海浜幕張のうたのようで、ビックリしました。
  セスナが民間飛行機の代名詞だった時代の歌かと錯覚してました。

  現在では、フルハムロードの経営から、手を引いた三浦和義容疑者ですが、和美さん
  殴打事件の頃は、近くのスナックで、水割りをグビグビやったり、しぶちゃでイタトマ
  にいったりマスコミに気を使ったものですが、感心はなくなりましたね。 
  
  古式では、「いこまにいます いこま つひこ 神社」って言う名前なのですがね。

  江戸通
   
   
[2008年05月06日17時47分]
お名前: カーター
そんしさんが万葉集を読まれているとのことですが、私の方は「古事記」福永武彦
訳、河出文庫を読みはじめました。若い時に角川文庫の古事記にトライしたのです
が途中で挫折したことがあったためです。
その解説で山本健吉さんが、本居宣長に言及しその古事記の知識についての普及に
果たした役割が大きいと述べています。我々が古代日本人の生活感情や思想た夢を
生き生きと思い起こすことができるのは宣長のおかげなのだというのです。
実は宣長に古事記の研究を勧めたのは賀茂真淵であったそうで、真淵も古事記を研
究したかったらしいのですが、そのためには古の心を知る必要があり、古代人の心
を知るために万葉集の研究を始めたらしいのです。万葉集の研究をしている間に真
淵は年をとってしまい古事記の研究する時間がなくなってしまったので宣長に古事
記を研究するよう勧めたというわけです。
古事記には漢文のところと万葉がなの部分とがあり、それを美しい純粋な日本語に
読み下したのが宣長の「古事記伝」であったのでした。その古事記伝を元に古事記
の研究を行い、けちをつけているのが現代の研究者であるというのです。
古事記を読み終わったなら次は万葉集を読まなくてはと思っている今日この頃で
す。
古事記の最初の部分のスサノオや大国主命の話などは出雲神話です。日本国形成に
おいては出雲が大きな役割を果たしたことでしょう。畿内政権はヤマトタケルによ
る東国の平定の前に、出雲を平定したということでしょうか。最後に歌を紹介しま
す。
「八雲立つ 出雲八重垣 
 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」 

[2008年05月06日13時36分]
お名前: そんし
万葉集の中で最も好きな歌は、額田王の「あかねさす、むらさきのゆき、しめのゆき、のもりはみずや、きみがそでふる」と、大海人皇子の返歌「むらさきの、にほへるいもを、にくくあらば、ひとづまゆゑに、われこいめやも」。ひとづまへの恋をおおらかに歌うなんぞ、なかなかいいではないですか。

「こんなところで私に袖を振ったりして、警備員がみてたら、どうしましょう」
「あなたが憎かったら、人妻になったあなたに、何で恋などしましょうか」
人妻になった元カノの額田王にラブサインを送る大海人皇子。それをくすぐったそうに楽しむ額田王。万葉の絵になりますねぇ。

額田王が原因で壬申の乱がおこったと、昔は本気で信じられていて、それゆえに、戦前は壬申の乱の評価は今ひとつ高くなかったのだとか。

実際には、この歌は、ふたりが結構な年齢になってからのものとも言われています。そうなると、昔は世間が二人の関係を、いろいろと取りざたしていたね、という郷愁を、人々の前でぬけぬけと詠ったともとれますので、これまたイキな歌です。

[2008年05月06日09時34分]
お名前: 江戸通
 近くに万葉の郷「手児奈霊堂」があり、矢切の渡しを経由して、
柴又帝釈天に向うというハイキングルートがあり、かなりの人気です。
 途中、山口百恵さんの主演で有名な「野菊の墓」文学碑などもあります。

 現在は、話題には、上っていませんが、「帝釈天遺蹟」から発掘された
 埴輪の帽子が、「寅さん」そっくりだったり、石材が行田市の古墳と同じ
 県南「鋸山」周辺のものだったりと、マニアにはかなり注目されています。
  天台宗の最澄ゆかりの品もあったとか、古来からの交通の要衝という
 位置付けは、はっきりしました。
  万葉集に留まるものとはいいきれなくなっています。
 さらに、真間の手児奈周辺は、三浦梅子こと水之江滝子さんや話題の三浦
 容疑者がいたことでも、近くでは、有名です。

  江戸通
[2008年05月05日11時12分]
お名前: そんし
子供の頃、万葉集に出てくる群馬県の歌で「かみつけぬ、いならのぬまのおおいぐさ、よそにみしよは、いまこそまされ」という歌を覚え、この歳になっても、いまだにスラスラと出てくるのは、ごろの良さのせいでしょうかね。

ここに詠われた「伊奈良沼」は現在の群馬県板倉町の雷電神社前の小沼といわれていて、当時はかなり大きな湿地帯の中にあった沼だったろうと言われています。そのなかの小高い小島が雷電神社で、その位置関係から、平将門を祭った神社ではないかと予測して、現地でいろいろと調べたことがありました。ここが将門終焉の地ではないかという仮説をたててのことでした。

仮説をたてて、その仮説通りに現地で調べるというのがとても楽しい遊びだった頃のお話です。結局は何もわからずじまいでしたが、湿地帯をうまく使って戦を行っていた将門なら、ここを戦の地にしようと考えても不思議でないと思えるほど板倉町は湿地帯の中にある町でした。名物がナマズ料理というのも象徴的です。

そんし

[2008年05月03日00時16分]
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