テーマ:長江文明と日本

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お名前: カーター
 昨日、両国の江戸東京博物館で国際縄文学協会主催の「縄文祭」が開催され参加
しました。サンケイ新聞に広告が出ていたので、本を読むだけでなく直接話を聞き
たいと思い参加したものです。
 安田喜憲の話で興味深かったのは、人間は森と共存するようにできており、森か
ら発せられる高周波が人間の体にいいとか、旨味(アミノ酸)が人間を穏やかにす
ると言った内容です。最近切れる子供がいますがファーストフードの普及で日本食
をあまり食べなくなったのが原因だと言うのです。また、日本の森がたくさん外国
人に所有され始めている。北海道のニセコなどは日本人がスキーをできなくなって
いる。オーストラリア人と中国人が我が物顔だと言うのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/安田喜憲

 黄文雄の方は嫌韓、嫌中の人にはおなじみの台湾人ですが、中国人はすでに有害
食品により不妊率が上昇しており、中国人は早晩滅亡するので中国のことを心配す
る必要はない、とか。また、最近中国人は時代の流れが早いのでついて行けない人
が精神病を患っている人が多いので、日本が移民を受け入れると一千万人を超える
病人が日本に来るので困る。民主党の政策は間違いであるなどなどで会場は爆笑と
なりました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/黄文雄_(評論家)

 縄文と言う切り口での集会ですが、安田氏は現在の中国の脅威を考えると沖縄は
地政学的な位置にあることから、中国か日本かのどちらを取るかを迫られていると
述べましたが、説得力のある内容でした。

[2010年09月20日13時52分]
お名前: カーター
倭人と言えば、魏志倭人伝にある日本列島の住民を指すのが一般的ですが、中国の
歴史書を見れば、倭人は四川省の巴、蜀、山東半島、朝鮮南部にもいたことになり
ます。そこで朝鮮南部の倭人がどのような人たちであったのか三国志見てみましょ
う。
朝鮮南部には馬韓、弁韓、辰韓の三国がありましたが、弁韓、辰韓とで24国、そ
の風俗は下記のようなものでした。三国志韓伝からです。

「土地は肥えていて、五穀や稲を植えるのに適し、人は養蚕の業に通じて、ヒ布
(かとりぎぬ)を織る。牛や馬に乗ったり車を引かせたりする。婚姻の礼には男女
ではっきりした区別がある。大きな鳥の羽を死者に随葬するが、死者に天高く飛ん
で行かせようと意図してそうするのである。この国は鉄を産し、韓、・、倭はそれ
ぞれここから鉄を手に入れている。物の交易にはすべて鉄を用いて、ちょうど中国
で銭を用いるようであり、またその鉄を楽浪と帯方の二郡に供給している。人々は
歌舞や飲酒が好きで、・・・・男女の様子は、倭人に近く入れ墨をしている。・・
風習として道で人に会うと、みな足をとめて道をゆずり合う。」
   「正史三国志4東夷伝」陳寿著、ちくま学芸文庫
 
弁韓では鉄を産出したようで、鉄の製法は弁韓から伝わったことでしょう。飲酒が
好きでとか道をゆずり合うというのは現在の日本人にも通じる風習ですね。

[2008年01月06日21時54分]
お名前: カーター
前の書き込みで安田氏の日本人と苗族とが同族ではないかと言う仮説を紹介しまし
たが、最近読んだ鳥越憲三郎氏の「古代中国と倭族」中公新書では苗族はもともと
黄河流域に住んでいた畑作農耕民であり、元々の稲作農耕民ではないとの記載があ
りました。その理由として、逃避した移住先でも土間式の住居で暮らして炊事のか
まども地面に設け、黄河文明圏の生活様式を維持しているからというものです。し
かも今でも黄河文化圏の盤古神話(下記)を伝えているからだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A4%E5%8F%A4

先に書いた長江の古代稲作文明であった湖南省の城頭山遺跡は紀元前2500年頃
に滅んでいますが、この時期が苗族の南下の時期に一致するため稲作の民は苗族に
よって滅ぼされたのではないかと述べています。それではその民族はどういう民族
かと言うと洞庭湖の上流に住んでいる・(トン)族(下記)らしいというのです。苗
族から追われて洞庭湖から逃れて来たという伝承があるからです。この・族が長江
の稲作文明を担ったと言うわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E6%97%8F

最後に日本に渡った人たちはどのような人たちかと言うと、春秋時代末期に越に滅
ぼされた呉の民といっしょにいた淮・徐などの民が一旦朝鮮半島に移り、加羅また
は伽耶を作り、北九州に稲作を伝えたのではないかというものです。その証拠に弁
韓には文身(入れ墨)をする倭人が住んでいたと言う記録が後漢書や三国志に記載
あります。晋書倭人伝には日本人が自らを「呉の太白の末裔」であると述べたそう
です。

[2008年01月01日16時58分]
お名前: ヘイ
カーターさん、刺身の話ありがとうございました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%BE

さて、中国人と日本文化の接点という話で・・・。そろそろ近づいてきましたね、こういう話が。

忠臣蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5

赤穂浪士
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E6%B5%AA%E5%A3%AB

元禄赤穂事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この四十七士の中で、武林唯七が元々は中国人なんだそうで・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%9E%97%E5%94%AF%E4%B8%83

在日中国人の間でも、赤穂浪士のメンバーに中国人がいたということで、武林唯七を誇りに思ってるそうです。昔の新聞でそんな話を聞いたような・・・。


[2007年11月25日23時14分]
お名前: カーター
ヘイさんレスをありがとうございます。
刺身は下記の通り説明があります。中国では膾(なます)を食べる
と言う習慣があったそうですが、食中毒のおそれがあるためなま物を
食べる習慣は廃れたそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E8%BA%AB

中国でも福建省、広東省では刺身を食べる習慣が残っている
そうです。

[2007年11月25日15時54分]
お名前: ヘイ
苗族とは?

ミャオ族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F

苗に獣へんを付ければ、猫。確かにみゃお族。

著名な在日中国人(文筆業であるが名前は失念)によると、日本の食文化で中国の影響を受けてないものは鰹節ぐらいだそうな。
刺身はどうなんでしょうかね?


[2007年11月25日14時13分]
お名前: カーター
広嗣さん、レスをありがとうございます。琉球食産という会社の
ホームページに記載があります。沖縄の稲作の始まりは7ー8世
紀だそうで本土より遅いようです。

http://www.cosmos.ne.jp/〜ryusyoku/oki-inasaku.htm

[2007年11月25日13時14分]
お名前: 広嗣
 「広」となっている署名は、私のものです。

 所謂四大文明が全て畑作だったことは、全く気付きませんでした。従来コリアから稲作文化が渡来したと言われていますが、コリアから(も)稲作文化が渡って来たのが事実として、コリアにまず渡るまでの時期や経路を見直す必要がありそうです。


[2007年11月25日11時20分]
お名前: 広
 長江文明と弥生文化の開始との関連についての仮説は、示唆に富む仮説です。海流と風によっては23時間で中国南部から九州北端まで到達した例がありますので、地図上から考える距離ほどは遠くないと言えます。

 当初は長江から渡って来た人々即ち弥生文化人であったかも知れません。しかし、他の既に日本列島に住んでいた人々が、稲作を受容したことで稲作が広まって言ったのでしょう。稲作文化は一度は現在の東北地方にまで広まりますが、結局東北地方では稲作は放棄されます。この人達は後に大和政府から「蝦夷」と呼ばれることになる人々の祖先なのでしょうか。

 ところで、疑問に思うのは、沖縄の農耕文化です。長江文明から分かれた人々が、台湾や日本(九州)に来た説が正しければ、沖縄にも当然来たと考えられます。沖縄で稲作が始まったのは、いつ頃なのでしょうか。


[2007年11月25日11時12分]
お名前: カーター
日本人の祖先であると言われる苗族について調べていると、司馬遷の史記本紀の冒
頭で中国民族の始祖である神農氏や黄帝に抵抗する蚩尤(しゆう)と言う者が出て
きます。諸侯は神農氏に従っていたのですが、蚩尤が最後まで抵抗しこれを討伐し
たのが神農氏の後と継いだ黄帝であリました。
この蚩尤を支持していたのが、苗族であったと言われています。下って堯帝の時代
には、苗族が支持したのは堯の息子の丹朱でしたが、堯とは血縁の薄い舜との戦い
で苗族は破れたと言われます。史記本紀の記述には次のようなものがあります。

「また当時、江淮地方には三苗がいて、しばしば乱を起こしていたので、舜は巡狩
から帰ると帝堯に共工を幽陵に流して北狄の風俗を変え、**を崇山に放って南蛮
の風俗を変え、三苗を三危に(甘粛の西方にあると言われる山)に移して西戎の風
俗を変え、鯀(こん)を羽山に遭うて東夷の風俗を変えるように請うた。この四者
が罰せられて天下が、ことごとく服従した。」「先に西方にうつした三苗には中国
の風俗に化したものもあるが、なお命令を聴かないないものがあったので、聴かな
いものは分けて北の方に置いた。」
      「史記」本紀、司馬遷著、ちくま学芸文庫

三苗は苗族のいくつかの集団を指すものかとも思われます。漢民族の支配者は少数
民族を強制移住をさせており、揚子江流域に住んでいた苗族は甘粛省の山岳部へ移
住させられたことがわかります。この風俗に化したものの意味ですが、稲作をやめ
て畑作に変えたことを意味するのが興味があります。聴かないものというのは頑固
に稲作文化を守ろうとするものナノでしょうか?

禹帝の時代になると「都野(甘粛・武威か)に至ると三危山地方は、すでに人が住
んでおり三苗も良くおさまって秩序があるようになった。」と言う記述がありま
す。しかし、禹が舜に話している言葉にも「・・・治績を上げました。しかし、た
だ三苗だけが頑強で帝徳に従わなかったのです。帝にはよくお考えくださいますよ
うに。」

苗族は、中国の神話の時代から漢民族に抵抗する大きな集団であったように見えま
す。

[2007年11月23日23時01分]
お名前: カーター
日本文化の源流が長江(揚子江)流域にあるのではないかとの仮説は鳥越憲三郎氏
の「弥生人の到来」(角川書店)、「古代朝鮮と倭族」中公新書などで知っていま
した。上杉博物館のスレッドで宮崎県の歴史から日本書紀のニニギのミコトが薩摩
半島の笠沙に上陸したとの記述について言及しました。笠沙について調べたところ
安田喜憲著の「古代日本のルーツ、長江文明の謎」と言う本があることを知り最近
読了しました。

安田氏は環境考古学が専門で、長江流域の浙江省良渚遺跡や湖南省城頭山遺跡など
を調査し、黄河文明よりも古い稲作・漁撈文明が存在したことを発見したと述べて
います。黄河文明を含む他のメソポタミア、エジプト、インダス文明はいずれも畑
作・牧畜文明であるのに対し優れた稲作・漁撈文明が存在したことは画期的であり
この長江文明から稲作が日本に伝えられ弥生文化が起こったのではないかというも
のです。

この長江文明は気候の変動により寒冷化から北方の漢民族が南下したことで金属器
を持たなかった稲作・漁撈民達は長江流域を追われ雲南省、貴州省、広西省の苗族
となり、台湾に渡ったものは原住民である生番族となり、日本に渡った人たちが弥
生人となったのではないかと述べています。その証拠に納豆、すしなど共通の食文
化があることがあげられます。

[2007年11月23日10時37分]
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