テーマ:戦国期の関東情勢

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お名前: 江戸通
 「太平記の世界」から、トピとしては唐突ですが、足利荘あたりの
情勢について、話題を開きたいです。
 天正5年、島津氏の攻撃を受け領国を維持できなかった日州都於郡の
伊東義祐は、豊後(大分県)の妻の実家に逃げ込んだ。
 このとき、一族の伊東万千代の守り役をしていたのが、刀工でもある
田中国広である。
 万千代は、マンショと名を改め肥前有馬のセミナリオに通い、成績優秀
により、天正遣欧使節として選ばれローマに渡った。
 イエズス会の宣教師シャビエルは、足利をして「日本国中で、大にして、
最も有名な学校」とした足利学校にこの、守役の田中が、郷里の縁を頼り
宗銀和尚(祥主)に寄宿していた。
 ときの領主は、長尾新五郎顕長は、館林に居を構え足利周辺を支配していたが、
小田原の北条氏が、長尾に「礼に欠け、下地に従わない」と介入を決意し、
二万余を越える軍勢で館林を囲んだ、このとき、足軽大将を命じられ、
館林周辺で北条勢を撹乱し軍功をあげたのが、田中国広である。
 戦闘は北条の勝利となり、この時だけではないようですが、多くの資料
が足利から持ち去られ、北条家に都合のよい歴史は、この戦いで完成した
ようです。
 戦敗の結果、小田原に臣従することとなった長尾顕長は、豊臣秀吉の
小田原攻めのときにも、領地2万石、篭城勢300と北の丸詰めを命じられ
ていたようです。この結果、領地は没収、常陸太田の佐竹氏に預けを命じら
れた。
 何度かにわたる北条家の侵攻があったようですが、足利学校は、比較的
守られ、鑁阿寺に資料のみが無くなったのは、この間に事情が大きかった
ようです。
 シャビエルや、伊東マンショの影が見え隠れするのは、当然なのですが、


江戸通

[2007年04月21日11時33分]
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