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お名前: ATTILA
明日香村で大規模な石垣出土、入鹿「谷の宮門」一部か

 大化改新=乙巳(いっし)の変、645年=で、中大兄皇子(後の天智天皇)らに滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我氏の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおか・とうろく)遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡が見つかったと、奈良文化財研究所が1日、発表した。

 蘇我入鹿(いるか)らが城柵を巡らせていたことを描いた「日本書紀」の記述と一致し、入鹿邸「谷(はざま)の宮門(みかど)」に付随する要塞(ようさい)の一部とみられる。古代最大の政変である改新の前夜、飛鳥を覆った軍事的緊張を物語る資料となりそうだ。


        (略)


 「日本書紀」の皇極3年(644年)11月の条には、蘇我蝦夷(えみし)、入鹿の父子が、家の外に城柵を作り、兵で守らせたという記述があり、蘇我氏が強大な権力を背景に、軍備の増強を進めていた様子がうかがえる。

 現地見学会は11日正午〜午後4時。

(2007年2月1日20時34分 読売新聞)



[2007年02月02日15時23分]
お名前: ATTILA
武人埴輪の頭部を公開 5世紀、鹿児島で出土(西日本新聞) ― 不気味なほどに写実的だ


http://www.nishinippon.co.jp/nnp/lifestyle/20061014/20061014_002.shtml

鹿児島県大崎町横瀬の神領10号墳から5世紀の武人埴輪の頭部が出土、鹿児島大学郡元キャンパス(鹿児島市)で17日から始まる特別展「発掘!鹿児島の古墳時代」で公開される。

 発掘調査した鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也助教授によると、同種の武人埴輪は6世紀に主に関東で作られているが、5世紀のものは全国でも珍しいという。

 見つかった埴輪の頭部は、高さ、直径とも約20センチで、かぶとをかぶった精巧なつくり。はっきりした目鼻立ちで、口の中には溝があり、歯の跡とみられる。

 胴体は見つかっていないが、全身を復元すると高さ70−80センチになるという。霊的なものや外敵を防ぐ目的で古墳の周りに並べられたとみられる。

 橋本助教授は「近畿から技術が伝わり、地元で生産したのではないか。活発な地域間交流がうかがえる」と話している。

 特別展は11月17日まで。

2006年10月14日08時54分

[2006年10月15日02時07分]
お名前: ATTILA
うっすら「唐風女性」、奈良〜平安期の板絵発見 島根
2006年10月05日

 唐風の衣装を着た女性を墨で描いた奈良から平安時代の板絵が、島根県出雲市の山持(ざんもち)遺跡で見つかった。県埋蔵文化財調査センターが4日、発表した。平安初期以前の女性の全身像の出土は、高松塚古墳壁画以外に例が少なく、同センターは「仏教の地方への浸透ぶりや当時の風俗を知る貴重な発見」としている。

 板絵は4点で、一緒に出土した土器の年代などから、いずれも8世紀から9世紀初頭のものと見られる。うち、長さ65.5センチ、幅8.5センチ、厚さ1.4センチの板には、髪を頭上でまげのように結い、両肩上に垂らした姿が描かれていた。服は詰め襟仕立てで袖は長く、すそは足首まである。

 これよりも短い長さ46センチ、幅8センチ、厚さ0.5センチの板には、頭の後ろに頭光(ずこう)と言われる円形の光のある女性が描かれており、聖武天皇が普及に努めた仏教の「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」に出てくる「吉祥(きちじょう)天女(てんにょ)」とみられる。ともに目や鼻、口はない。

 残る1点は、板の上下が欠けて、腰付近の絵しか残っておらず、もう1点は髪と顔の一部のみが描かれていた。

 奈良大学の東野治之教授(日本古代文化史)は「女性の風俗を伝える像の出土例は少なく興味深い。女性は上流階級とみられる。頭光のある絵が吉祥天女だとすれば、地方にまで吉祥天女への信仰が伝わっていたことを示す貴重な資料だ。何かの祈りに使ったとも考えられる」と話している。

 板絵は8日午前10時〜正午、現地の発掘調査事務所で公開される。


http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200610040057.html
[2006年10月07日21時46分]
お名前: ATTILA
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20061005i412.htm

続日本紀の「田原道」か、大津で大規模道路跡が出土
 大津市の関津(せきのつ)遺跡で、奈良時代から平安時代前期(8〜9世紀)にかけての大規模な道路跡が出土したと滋賀県教委が5日、発表した。

 規模や位置などから、764年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際、仲麻呂を追う官軍が通ったと古代の歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記された「田原道(たわらみち)」とみられるという。

 道路跡は幅約15メートルで、両脇に幅約1〜3メートルの溝があった。

 今回は約70メートルが確認され、これまでの調査と合わせ、約250メートルにわたって直線に延びていることがわかった。

 同遺跡の北約4キロの地点には、淳仁天皇が造営した「保良宮(ほらのみや)の推定地があり、小笠原好彦・滋賀大教授(考古学)は「保良宮の造営に伴って整備された道路の可能性がある」と推測している。

 現地説明会は、7日午後1時から。

(2006年10月5日21時22分 読売新聞)



[2006年10月07日16時12分]
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