テーマ:エレクトロニクスの草創期

書き込み欄へ テーマ一覧に戻る
お名前: カーター
上野の科学博物館で「日本を明るくした男たち」という企画展が開催されていま
す。このスレッドで紹介して来た藤岡市助を中心にして、志田林三郎、岩垂邦
彦、三吉正一などの業績が紹介されています。

科学博物館は地球館と日本館とがあり、地球館の2階では日本の技術の歴史が展
示されており、田中久重の万年自鳴鐘(和時計)、からくり人形(お茶を運
ぶ)、無尽灯(圧縮空気で油を上げる)、それから零戦、戦時中のジェットエン
ジン、豊田佐吉の自動織機などが展示してあります。

日本館では日本人の体型の変遷について蝋人形を使って説明があり、江戸時代の
女性のミイラには人だかりができていました。棺の中で腐敗せずに残っていたも
のですが、女性は小柄で歯槽のう漏になっていたと記されています。

日本館の中で企画展が行われており、上に述べた日本の電気技術者達についての
展示があります。協力は藤岡市助と三吉正一の出身である岩国市と二名を創業者
とする東芝です。企画展は11月29日まで開催されています。

首都圏に居ながら一度も科学博物館など見に行かなかったのです。日本の技術に
も誇るべきものがあると感じました。上野公園内では大道芸や野外コンサートも
開催されており、楽しく過ごすことができました。

[2009年11月01日11時24分]
お名前: 国立科学博物館
http://www.kahaku.go.jp/
http://www.kahaku.go.jp/event/2009/09engineer/index.html


[2009年11月01日10時13分]
お名前: カーター
5月1日は平日であったので、横浜鶴見の「電気の史料館」を再度訪問しました。
2月末から企画展を実施しており、入館料は300円ですが「電気は人なりー電気
事業に生命を賭けた男たち」と言う小冊子をくれます。私がこれまでこのスレッド
で紹介して来た藤岡市助の東京電燈、岩垂邦彦の大阪電燈などが紹介されています
が、現在の交流による電力システムの発展に大きく貢献した、交流の父と言われる
クロアチア生まれのセルビア人ニコラ・テスラの業績が大きく紹介してあります。
 直流派のエジソンと交流のテスラとの誹謗中傷合戦や、その後の交流優位の決定
打となるツイペルノウスキーの変圧器の発明(遠距離の電力を高圧で送電し、使う
時に低電圧に落とす)、ドブロウオルスキーの三相交流システム(6本の送電線を
3本に減らせる)などが紹介されています。
 2月に訪問した際に、展示室とは別の場所に置いてある電気自動車が気になって
係員の方に「電気自動車は?」と聞くと、昔の自動車の黎明期の電気自動車を紹介
されたのですが「いや、違う。あそこに見える奴です。」と流線形をしたスポーツ
カーを指差して、一般には公開していないらしいのですが特別に見せてもらいまし
た。この車はIZAといい1991年に清水浩博士が東京電力の協力で開発したもの
で最高時速176kmを出せました。イメージは下記を参照下さい。

http://www.r-d.co.jp/division2/ev/iza/iza.htm

 四つのタイヤの中にモーターを入れたインホイールモーターと言う方式ですが、
この車はトヨタのプリウス(動力分割方式を使うためIZAの方式とは異なる)開発
にも大きな影響を与えました。
 
 平日である1日は電気の文書館が開館しており、受付で文書館に行きたいと告げ
ると、事前に予約が必要であると言われましたが、特別に入れてもらいました。文
書館からわざわざ育ちの良さそうな美人の女性が迎えに来て私を文書館まで案内し
てくれました。
 閲覧したのは「大阪電燈株式会社沿革史」ですが、岩垂邦彦が大阪電燈を退社す
ることになった大阪電燈のGEとの代理店契約違反については書かれていませんで
した。大阪電燈では交流の発電システムをアメリカのGEから輸入して自社用以外
に他の電力会社(当時はすべて民営会社)にも販売していたのですが、発電機は高
価であったため国産化するために、修理のために使っていた加島工場を発電機の組
み立てのために稼働させたことなどが記してありました。岩垂が大阪電燈を退社し
た理由は、大阪電燈がGEとの代理店契約に違反する事実があったとして、エジソ
ンの時代にお世話になったGEへの信義から岩垂は大阪電燈に居続けることができ
なかったと言われています。岩垂本人は後日GEに宛てた英文の手紙で、契約につ
いての解釈に違いからと言っており婉曲に表現しています。
 大阪電燈での発電機の組み立てにおいては、当時の日本における知的財産への認
識の低さから特許料の支払いなどは十分考慮されなかったものと推測されます。大
阪電燈は、第一次大戦後の不況から累積債務を負い、事業を大阪市と大同電力(水
力発電を構想した福沢桃介「福沢諭吉の養子」が起こした)に譲渡することとな
り、大正12年(1923年)に解散しました。沿革史には解散時の従業員に対す
る社長の挨拶などが記されています。

[2007年05月04日11時13分]
お名前: カーター
ヘイさん、やっぱり早いですね。レスをありがとうございます。
役員の名簿を調べたところ、下記の通りです。すでに岩垂さんの名前は
ありません。

http://www.banyu.co.jp/content/corporate/about/summary.html


[2007年03月31日23時10分]
お名前: ヘイ
>岩垂孝一(現万有製薬副社長)

昔は典型的な同族会社で岩垂商会とも揶揄されてたようですけど、今は同族会社からは完全に脱却してると思います。岩垂孝一氏は副社長ではないと思いますけど。

なお、妻沼町にあるのは製造部門の工場ですね。昔はメルク万有と社名表記してたと思います。


[2007年03月31日21時47分]
お名前: カーター
 我が行田市の隣の熊谷市妻沼町に万有製薬という会社があります。第一次大戦中
にドイツからの梅毒の薬が届かなくなり、東大理学部化学科の岩垂亨がサルバルサ
ンを開発しました。岩垂亨は1915年に萬有製薬を創業し、戦時中は岩垂孝一
(現万有製薬副社長)が傷病兵のためのペニシリンを開発中でした。万有製薬は戦
後にGHQにより最初にペニシリンの製造の認可を取りました。残念ながら万有製薬
は2003年にアメリカのメルク社の100%子会社となっています。
 この岩垂亨は岩垂邦彦の次女裕子の婿養子でした。岩垂邦彦は一族の持ち株会社
である大六共同株式会社(大正6年、1917年)を設立し日本電気への出資や万
有製薬の設立にも協力しました。万有製薬のホームページには社名の変遷が次のよ
うに記されています。

1915年 萬有合資会社→1917年 萬有舎密(せいみ)株式会社→1925年 萬有製薬株
式会社→2000年 社名表記を「万有製薬株式会社」へ

http://www.banyu.co.jp/content/corporate/about/history/1915_1936.html

 社名が萬有舎密と変更された時点で岩垂一族による出資が開始されたものと思わ
れます。この年は岩垂の大六共同の設立年であります。

 この万有製薬と岩垂一族の話は、最近入手した下記の文書で知りました。
「岩垂家・喜田村家文書ー明治日本の工学維新を担った兄弟の足跡」
監修 高橋雄造、編集・解説 吉岡道子、創英出版
(自費出版のため吉岡氏より直接購入した。)

 吉岡氏は、岩垂邦彦を母方の祖父とするお孫さんで、この文書はお孫さんの岩垂
好裕氏が鎌倉長谷の自宅を改築しようとした際に発見したものだそうです。

舎密 (せいみ)とは江戸時代の学者宇田川榕菴がオランダ語の化学を意味す
る単語 Chemie を音訳して当てた言葉。 (Wikipedia)

[2007年03月31日14時45分]
お名前: カーター
電気の史料館にメールして「岩垂邦彦」岡本終吉著が蔵書としてあるかと尋ねたと
ころ、電気の史料館の文書館にはなく国立国会図書館にあるとのことであったので
昨日、永田町の国会図書館を訪問して「岩垂邦彦」を6時間をかけて閲覧しまし
た。貸し出しはできないとのことで、376ページもある大作なので全部は読めず
主要なところだけ読みました。

この本は1965年に元NECの社員の人が書いたもので、岩垂が1942年に死去
してから23年も経っていることから、伝記などと言う業績を誇張するものを嫌っ
た岩垂も許してくれるだろうと序文にありました。ご子息の岩垂好徳氏の「父の思
い出」と言う文章も載せてあります。

岩垂とテスラの関係について言及した内容はありませんでした。1965年当時は
日本ではテスラの業績が良く知られていなかったことが原因だと思われます。しか
し面白いことに、テスラと同じセルビア人の学者が交流を支持し学会で発表をした
ために、アメリカの大学を追われる羽目になったと言うエピソードが紹介されてお
り、交直論争の犠牲者であると書いてありました。この学者はコロンビア大学のピ
ューピン教授であり装荷ケーブルを使用して長距離通信の方法を発明したことで
知られています。

ピューピンの方式をさらに発展させて無装荷方式として現在の通信方法として確立
したのが日本人の松前重義であり、東海大学を創始した人です。松前は1966年
にピューピンの伝記を書いております。この伝記を入手すれば、テスラのことがも
う少しわかるかもしれません。

[2007年03月11日21時53分]
お名前: カーター
現在、東京電力が「電気の史料館」のことをテレビでピーアールしています。白
熱電球や古い電気自動車が展示してあります。先月、私も展示を見に行きました。
電力で交流と直流とどちらが優れているかの論争(交直論争)があったことを先の
メッセージで書きましたが、交直論争をネットで検索すると電気の史料館のホーム
ページにたどり着いたのですが、ちょうどテレビで宣伝をしていたこともあり、横
浜鶴見の電気の史料館まで見学に行った次第です。

 ちょうど企画展を行っており、直流発電を日本で最初に行った藤岡市助や日本で
初めて交流の発電を行った岩垂邦彦の業績が紹介されています。日本では良く知ら
れていないテスラの二相交流モーターも展示してありました。しかし、長距離送電
においてはテスラの業績が最も大きく、下記の通りテスラの写真が一番大きく出て
います。

http://www.tepco.co.jp/shiryokan/eve07_2-j.html

 テスラはクロアチアのセルビア人で、交流が優れていることを提案しにニューヨ
ークのエジソンの元にやって来ますが、直流論者であったエジソンから交流は危険
であるとのことで相手にされなかったため、ウエスチングハウスに交流発電の特許
を売りました。すでに直流の発電設備に膨大な資金を投じていたエジソンとしては
交流を認めるわけには行かなかったのです。日本で直流の発電を行っていた東京電
灯の技師長であった藤岡の立場もエジソンと同様でした。

 史料館の説明員の方に岩垂とテスラのことを聞きましたが、良くわからないとの
ことでした。しかし、「二人ともエジソンのところへ行き交流論者として破門され
たと言う共通点がありますね。」と言う話でした。

[2007年03月11日18時11分]
お名前: カーター
さて、交流のシステムを日本に導入した岩垂ですが、日本に帰国する前にエジソン
の研究所内で岩垂を解雇するようにとの動きがあり、エジソンは勤勉な岩垂を愛し
証拠がなければ岩垂を解雇できないと指示しています。その辺の事情についての手
紙が残っていますので翻訳にて紹介します。
 日本人にはビジネスのモラルがないなどと言う偏見が見えます。世界的な発明を
したエジソンの研究所内では東洋の新興国である日本人など信頼できない相手であ
ったようです。
 エジソンの直流システムに反対して、岩垂は交流のシステムを大阪電灯に導入し
ましたが、交流のシステムの有効性が認められた後にはエジソンと岩垂との仲は回
復し、大阪電灯を退社し岩垂電機商会を設立した際にはエジソン(GE)の代理権
を獲得しました。
----------------------------------------------------------------------
1888年6月21日
エジソン殿

 数日前、横浜のパートナーから「日本人の岩垂は、ウエステイングハウス製機器
を大阪工場用に契約をした。」という電信を受け取った。私はインスル氏に「岩垂
はまだニューヨークにいて、エンジン、ボイラー、発電機などの電気設備の価格を
取って日本へ帰ろうとしている。」と言う電報を送った。フィーク氏は数日前に岩
垂に会い、岩垂はロチェスターの会社からエンジンを手配しており、必要なのはボ
イラーだけであるとのことであった。岩垂は日本からの電信により発電機とランプ
を手配した。
 このことから日本人は全く信頼できない。・・・・・彼等は手に入るすべての情
報を使用し、自分達の目的に合うように機器を手配している。私の意見は日本人を
雇わないで欲しいと言うものです。・・・・
                   エヴェレット・フレイザー
1888年6月26日
エジソン殿

 マシンワークス社にいた岩垂についてのフレイザーの手紙を同封します。私はあ
の日本人を我々の仲間に入れたのは間違いだと思います。彼等は全くもってビジネ
スのモラルがないからです。エジソン会社で教育を受けた後に、彼等は躊躇なくエ
ジソン会社の利益に反するようにその知識を使用するでしょう。
 フレイザー氏が数年前から頼んでいるようにあの日本人はエジソンの仲間からは
ずすべきであり、彼等は知識をフレイザーやエジソンに敵対して使用するでしょう。
                   フラネル・アプトン
1888年6月28日
テイト殿

 エジソンはあの日本人をまだ首にしないのに驚いている。エジソンは、もし岩垂
が我々を裏切っていると言う証拠があれば彼を解雇する、と言った。私はエジソン
のためを思って言った。エジソンが岩垂を解雇することは我々の利益にとってはど
ちらでも良いことだ。それに私には証拠を集めるためにニューヨーク中を歩き回っ
ている時間もない。フレイザーが私に連絡した事実、つまり岩垂がウエステイング
ハウス製機器を購入して日本に帰ろうとしていることで十分である。エジソンは彼
のために今も働いているあの日本人を解雇しないと言う悲しむべき過ちを冒したの
である。
               セイン・インスル 部長
インスルに連絡乞う。
  理由もなしに岩垂(いいやつだ)を解雇するな!

[2007年02月04日16時53分]
お名前: カーター
志田は、明治21年(1888年)の電気学会設立にあたって記念演説を行ってい
ますが、電気技術の沿革と進歩について述べた後に電気通信の未来予測を行ってい
ます。その概要を下記に述べます。

電気通信の未来予測
1)1本の電線で毎分数100語の速度で数通の音声を送受信する。
2)遠隔地間で自在に通信や通話をする時代が来る。
3)音声伝送の方法の進歩で上海香港の歌や音楽を東京で楽しむ。
4)エネルギー伝送技術の進歩でナイアガラの水力でニューヨークの電灯を灯す。
5)電気鉄道、電気船舶の使用。(電気船舶はまだ実現していない。)
6)電気飛行船の改良による航空技術の高度化。(これもまだ実現していない。)
7)光も電気、磁気、熱と同様のエネルギー。光で遠隔地の人の顔を見る。
8)電話機は音声を電気に変える。音声を記録することができる。
9)地電気、地磁気、空間電気を観測することで地震や気候を予測する。

 1)、2)は国際間での電話の技術を、3)はラジオを、7)はテレビを、8)
はテープレコーダーを予言しています。9)についてはまだ実現されていませんが
地震の予兆で地磁気の変化が現れることなどが報告されるようになりました。

 先にNEC創立者の岩垂邦彦についての書き込みで、交流か直流かで争いがあった
と述べましたが、すでに直流の発電システムに膨大な投資をしていたエジソンに逆
らい、岩垂は交流論を支持したためエジソンに破門されました。帰国して岩垂が大
阪電灯に導入したのがアメリカのトムソン・ハウストン社の交流の発電機でした。
 この交流論の理論的な基礎を作ったのが、クロアチア出身のテスラでした。テス
ラは交流論をエジソンに提案しにニューヨークにやって来たのですが、同様にエジ
ソンから追放されていました。テスラは1887年に多相交流システムの基本特許
を取得しております。そして、ナイアガラ瀑布発電所が稼働したのが1891年で
あり、この交流発電機のプレートにテスラの13件の特許のうちの9件がテスラの
ものであったと言われます。これをもって交流、直流の論争はテスラの交流が勝利
しました。
 志田の演説の4)は電灯の技術に触れていますが、志田の演説が1888年であ
たことを考えれば、志田は1887年にテスラが交流の特許を取得したことを知っ
ており、交流の方が優れていることを知っていたものと思われます。エネルギー伝
送の技術の進歩とは直流から交流への転換であり、エジソンの発明を覆したテスラ
の交流技術のことを意味しているのです。
 テスラがアメリカに渡ってエジソンを訪ねたのが1884年で1887年にテス
ラは独立してTesla Electric Light Company を設立しました。岩垂がエジソンマシ
ンワークス社に入社したのが1886年すから、二人は会っていたかもしれないの
です。仮に岩垂がテスラに直接会って話をしていなかったとしてもエジソンの研究
所内では、交流と直流の話は研究仲間の話題の種となっていたことでしょうから、
岩垂はテスラの交流論に魅せられて行ったことでしょう。

[2007年01月21日18時20分]
お名前: カーター
志田林三郎は佐賀県多久市の出身であり武士の家系ではありませんが、幼いころか
ら算数が上手だと言うことで有名となり、地元の東原庠舎から藩校の弘道館に進み
藩の命令で上京し工部大学校の一期生を主席で卒業しました。明治政府の命令でイ
ギリスのグラスゴー大学に留学し、物理学、数学で一番となり、最高の学生である
と称賛されました。帰国後は、工部省に勤めと工部大学校の教授も兼務しました。
明治21年(1888年)に第一号の工学博士となりました。東芝の創業者である
藤岡市助は志田の二期後輩の三期生であり第二号の工学博士です。NECの創立者の
岩垂邦彦(工学士)は四期生です。

翌年には、33歳の若さで逓信省工務局長となり技術官僚のトップとなりました。
その時の上司が函館戦争で最後まで明治政府に抵抗した逓信大臣の榎本武揚でし
た。志田は電気学会を創設しましたが、榎本は電気学会の会長を20年も勤めたと
のことです。しかし1890年には逓信大臣が榎本から後藤象二郎に代わり、後藤
と次官の前島密(郵便制度の創設者)とが対立し、前島密が次官を辞職すると前島
派の志田も非職の命を受けました。背景には、電話事業の民営か官営かも対立があ
ったと言われています。

当時は、電話と並んで電灯の引かれていた時代です。しかし、権力者の家から引か
れ始めていた電灯はよく故障しました。そのたびに志田や藤岡は東奔西走したと言
われます。官と大学と二つも職を掛け持ち、このようなトラブルの連続で志田の体
力は失われ、志田は1892年に36歳の若さでなくなりました。過労死であった
と言われています。

志田が佐賀藩、藤岡が岩国藩出身であることを考えると明治維新を成し遂げた西南
の雄藩の出身者達が当時の工学のリーダーとなったことがわかります。雄藩出身者
たちには能力があればチャンスを与えられたのです。

[2007年01月14日17時39分]
お名前: カーター
ヘイさんレスをありがとうございます。

>日本国、あるいは企業など、牛耳っているのは、ほとんどが文科系といっていい
>でしょうね。

業界全体を見れば、文科系が多いかもしれませんが、現在執筆中のエレクトロニク
ス業界に限ってみれば、理系が多いように思います。これまでに書いて来た東芝、
NEC、沖電気などほとんど創業者は理系です。その理系の伝統は現在でも続いてお
り文系は例外的にリストラなどの場面において出て来ました。

さて、愛すべきからくり儀右衛門の記事が11月24日のサンケイ新聞のコラムに
出ました。25日、26日の川崎の東芝科学館で文字書き人形の実演の紹介でした。
筆を墨の入った硯につけて和紙に筆を運んで「寿」の文字を書き上げると言う
ものです。

日本からくり研究会の東野さんが米国のシンシナチに流出していたものを大金で買
い戻し、去年の愛知万博での展示にこぎつけたものだそうです。欧州で「アジアで
は文字書き人形は作れない」と言われていたのを覆したかったからだそうです。日
本のもの作りの伝統は江戸時代に花開いていたのです。東野さんによれば「からく
りは江戸時代のロボット工学であり、ホンダやソニーもからくりをヒントに階段の
上がり下がりの動きを学んでいる。感性や独創性では儀右衛門の方が上だ。」そう
です。

田中久重は明治になり、銀座に田中製造所を作り「万般の機械考案の依頼に応ず」
との看板が掲げられ、様々な機械の製造を請け負いました。久重の弟子の大吉が
二代目田中久重として養子となり芝浦製作所と社名を変更し、後に藤岡市助の東
京電気と合併し東芝となります。田中久重物語が東芝のHPにありますので、是非
お楽しみ下さい。日本の物作りの伝統は田中久重から始まっているのがわかりま
す。

http://www.toshiba.co.jp/spirit/roots/hisashige/index.html

[2006年12月16日16時37分]
お名前: ヘイ
>政治家が高く評価されているのに比較し経済
人や技術者が低く評価されているのが実態であり残念なところです。

毎日新聞で出ていた「理科系白書」によりますと、

文科系 技術的な専門知識にはうとい。
    政治的な面では視野が広い。
    収入や昇格の面で理科系よりも有利。
理科系 技術的な専門知識はよく知っている。
    その代わり視野は狭い。
    収入や昇格の面で文科系よりも不利。

ということのようです。

経済人はわかりませんが、これは日本だけに限らないと思います。
東アジアは、そういう傾向にあるんじゃないでしょうかね。

日本国、あるいは企業など、牛耳っているのは、ほとんどが文科系といっていいでしょうね。小さな会社だと、技術畑出身の社長もかなりいるようですけど。

たとえば、銀行。銀行で理科系といえば、コンピューター関係です。
オンラインシステムの不具合で顧客に多大の迷惑をかけた某銀行では、システムエンジニア系の偉いさんでも、最高位で常務止まり。
社長なんてオンラインシステムの技術的なことなんか全くわからんでしょう。理科系の補佐役がどの程度の発言権を持っているのか知らないけど、コミュニケーションをしっかり取っておれば問題は無かったはずです。ただ、この人が現場の実情を把握してなかったら問題外ですけど。

アメリカの銀行では、情報システム畑出身の社長(頭取?)もいるみたいで、この場合、こんなトラブルは発生しないんじゃないの。

日本史の教科書でも、記載される学者先生はかなり優遇されてます。それもほとんどが文科系と思えるものばかり。青木昆陽とか、評価は低いと思うよ。


[2006年12月09日23時21分]
お名前: カーター
田中久重は、幕末にからくり儀右衛門と呼ばれた久留米出身の発明家、技術者でし
たが京都四条烏丸に機巧堂と言う店を開いていました。弓引き童子などのからくり
人形、無尽灯と言われる空気圧を利用してろうそくよりも明るくして菜種油を燃料
としたランプを発明したこと、また万年自鳴鐘という時計と暦を兼ね備えたもの製
作して店は繁盛し、名字帯刀を認めれ内裏からは参内を許されるまでになっていま
した。
 薩摩や長州藩などが尊皇攘夷をスローガンにして政争を繰り返していた頃、佐賀
藩主の鍋島閑叟は開明的な君主で軍事技術を開発することで西洋に対抗しようと考
えており、製鉄技術や大砲を作ることを考えていました。蘭学者で佐賀藩の藩士で
あった佐野常民は江戸から京へ移り田中久重を訪ね、大砲を作れ、蒸気船を作れと
迫ります。攘夷で国は救えない、日本が鎖国の眠りについていた間に日本と西洋の
間の技術の差が生じてしまったことがこの国の安全を脅かしていると言う訳です。
その辺の詳しいやりとりが、高橋克彦の「火城」角川文庫に詳しく書いてあります
ので引用します。

「無尽灯は大工夫にござる。ですが万年自鳴鐘は田中殿の一代の無用物。・・・」
「田中どのはこの日本の宝にござる。それをご自身が自覚なさって下され。・・・
広瀬先生より蘭学を学ばれているお方だ。この国がこれからどうなるか分からぬ田
中どのでもありますまい。攘夷などと世間は喧しく騒いでおりますが、今の日本に
その力がなきことは先刻ご承知でありましょう。・・・田中どのは日本に二人とお
らぬからくり師ですぞ。・・」
「私になにをしろと申されるか?」
「蒸気船を、外国に負けぬ鉄砲も」
          高橋克彦著「火城」角川文庫


 田中久重は、佐野といっしょに佐賀で移り住み、蒸気船雛形、蒸気車雛形を作り
鍋島公の面前で蒸気車雛形を試運転を行いました。それから田中らは国産の電信機
も製作しと言われ、佐賀藩の技術開発の事業はの日本の明治以来の技術発展の元を
作ったと評価されています。しかし、政治家が高く評価されているのに比較し経済
人や技術者が低く評価されているのが実態であり残念なところです。


[2006年12月09日17時27分]
お名前: カーター
先日勤続30周年の休暇をもらい、姉のいる広島へ行き、その後に岩国の教育資
料館へ出向き、日本のエジソンと言われ日本で初めて白熱電球を量産した藤岡市助
の遺品の展示を見ました。
 女性の館長と思われる、県の職員の方に藤岡市助は評価されているが、その女房
役であった三吉正一は十分評価されていないのではないか?そうすると本を持って
来て、三吉のところを見せてくれました。その本には三吉の出身地は、藩主の吉川
経幹の住む屋敷に西の方向にあたる川西という地域で三吉の家系はやはり武士出身
でした。その本は地元の研究家である佐山和郎氏が書いた「日本のエジソンー藤岡
市助に学ぶものー」と言うものでした。2000円だということなので、さっそく
購入しました。
 三吉の苗字は私の同級生にもおり、彼が山間部の出身であったため旧岩国町内出
身ではないのではないかと思っていたのですが、三吉は吉川家に使えた藩士の子孫
だったのです。やはり藩士の子でなければ、十分な教育を受けることはできない時
代だったのでしょう。
 三吉の工場は、日清戦争後の不況で倒産して岩垂邦彦の日本電気に買収されたり
して、大企業に成長したわけではないので、十分資料が残っておらず伝記も書かれ
ていないとのことでした。三吉はその後日本電気の顧問として残りましたが、発電
機の製作を得意とした三吉には活躍の場はなかったと思われ、佐山氏の本には電話
機の製造を行う日本電気による買収後の三吉については書いてありません。
  

[2006年11月14日16時00分]
お名前: ヘイ
GEの名前が出たついでに

シックス・シグマ
http://www.sixcg.com/

シックス・シグマは、日本の品質管理手法を元にモトローラが開発したものです。これは品質管理だけの分野でしたが、経営改革の分野にまで踏み込ませたのが、GEでした。


[2006年10月21日12時08分]
お名前: カーター
藤岡市助が、なぜ日本のエジソンを言われるまでになったのかと考えていたので
すが、岩国には有名な錦帯橋があり、下級武士の子であった藤岡は毎日錦見の自宅
から錦帯橋をわたって岩国英国語学校に通っていたことを知りました。
 すべてにおいて優秀な成績で、上京して工部大学校に進んでもイギリスのお雇い
外国人であったエアトン教授の元でも模範生であり、藤岡は工部大学校(後の東大
工学部)を主席で卒業しました。エアトンの授業はすべて英語で行われたそうです
から、岩国英語学校での勉強の成果が生かされたのでした。
(東芝130周年、情熱の起源「電気の神様〜藤岡市助物語〜」BSフジ開局記念)
 しかし、藤岡にここまで物理学の一種である電気工学に興味を起こさせたものは
何だろうかと思っていたら、それはやはり錦帯橋ではないかと思うようになりまし
た。錦帯橋は、毛利の支藩である吉川藩の吉川広嘉が明の僧である独立から杭
州(現在の浙江省都)にある西湖のアーチ形の橋の話を聞いて、洪水に強い
橋と言うことであの五つのアーチ形の橋を思い付いて児玉九郎右衛門に製作
を命じたと言われます。杭州の橋は石の橋で同じく錦帯橋と言われています
が、岩国の橋は造形的にも美しい木造の橋となっています。私は三年前に杭
州の西湖を訪れ錦帯橋らしい石の橋を渡って歩いたことがあるのですが、あ
れが錦帯橋であったとは知りませんでした。

http://www.city.iwakuni.yamaguchi.jp/contents/7d630d0f0d1305b/7d630d0f0d1305b40.html
http://www.city.iwakuni.yamaguchi.jp/contents/7d630d0f0d1305b/7d630d0f0d1305b42.html

 あのアーチは学問的には逆カテナリーと言われ、カテナリー(懸垂線)は鎖を左
右で吊ると放物線の底の部分のようなゆるやかなカーブとなりますが、このカーブ
がカテナリーと呼ばれ引っぱりに強い構造となります。アーチはカテナリーの上下
を逆にしたもので、逆に圧縮に強いと言われます。上から押す力に強く左右に力が
分散されることになります。このアーチの構造が錦帯橋の強さの元なのです。ロー
マ時代にはアーチの真ん中にキイストーンを置きましたが、錦帯橋はゆるやかなア
ーチであるためキイストーンにあたるものはないようです。

http://homepage2.nifty.com/SUBAL/Arch.htm

 その錦帯橋を毎日見ながら通学した藤岡は、この橋がなぜこのような構造をして
いるのであろうかと不思議に思ったに違いありません。木を組み合わせただけでな
ぜこうも強くなるのであろうか、フラットな橋だったら木を組み合わせただけだっ
たら当然落ちてしまうのに、なぜ真ん中から折れて落ちないのか?当時ちゃんと説
明してくれる人はいなかったと思われます。疑問を解くためには勉強する必要があ
ると感じたのかもしれません。しかし、西洋に追い付くためにいつしか興味の中心
は、電気へ移って行ったのかもしれません。

[2006年10月01日21時52分]
お名前: ヘイ
またまた書き忘れ、補足です。

横川−軽井沢 間の電気機関車による運行当初は、旅客列車のみ。
貨物はSLであった。
アプト式SLが完全に消えたのは、大正10年5月

現在の横川−軽井沢 間は、アプト式ではありません。
アプト式では50分を要したのです。
このため、一部区間では別経路にして66.7パーミルの粘着運転となり、
専用の電気機関車(もちろん国産であります)を使用。

専用の電気機関車を使用している箇所はほかにもあって、
交直切り替え区間である関門トンネルでしたかね。


[2006年09月26日21時51分]
お名前: ヘイ
カーターさんへ、レスありがとうございます。

ウェスティングハウスの名前を出したのは、次の理由によるものです。

本筋とは話が若干ずれますがお許しを

日本の鉄道史における電気機関車
日本がアメリカからも電気機関車を購入してますが、メーカーは
GEとウェスティングハウスであり、WEの名前は見えないです。

最初は外国製のものを購入、後に国産のものへ順次切り替え
旧国鉄の電化は明治の終わり頃(電車は国産であったかも)
電気機関車導入のきっかけは碓氷峠(峠の釜飯のほうが有名?)

明治18年10月 高崎−横川 間が開通
明治21年12月 直江津−軽井沢 間が開通

横川−軽井沢 間 11.2km、標高差 553m

明治24年2月 横川−軽井沢 間をアプト式と決定
明治24年4月 横川−軽井沢 間開通

当時の機関車はSLであった。
ドイツのエスリンゲン
3950型(ベーヤピーコック製)

SLによる運行は困難を極めた。排煙や力の弱さからくるもの。
機関士の窒息事故や逆行による鉄道事故も発生。

明治43年 横川−軽井沢 間電化工事着工
明治45年5月 横川−軽井沢 間を電気機関車による運行開始

EC40型(旧型式10000)ドイツ・アルゲマイネ製
ED40型(旧型式10020)初の国産電気機関車
ED41型(旧型式10040)スイス・ブラウンボベリー製、
技術見本として2台購入
以降は国産のものを運用

横川−軽井沢 間以外の路線で使用された輸入電気機関車

ED10型(旧型式1000)ウェスティングハウス製
ED11型(旧型式1010)ゼルラルエレクトリック製
ED36型 イングリッシュエレクトリック製
ED17型 イングリッシュエレクトリック製
    (型番は目まぐるしく変遷)
EF50型 イングリッシュエレクトリック製
EF51型 ウェスティングハウス製
ED19型 ウェスティングハウス製
西武E5型 スイス・ブラウンボベリー製
ED24型 ジーメンス製(ED57 → ED24)
草軽デキ12 ジェフリー製、東電が信濃川発電所の工事用に使用

などなど


[2006年09月26日21時32分]
お名前: カーター
WE(Wester Electric)は、ベルと同時に電話を発明したと言われますが、
ベルの特許申請が早かったとかで、認められなかったのですがベルの
電話機の製造の子会社となることで電話事業を伸して行きました。英語
で申し訳ありませんが、下記の説明を参照下さい。
-----------------------------------------------
Wikipedia

Western Electric

Western Electric (sometimes abbreviated WE and WECo) was a U.S. electrical
engineering company, the manufacturing arm of AT&T from 1881 to 1995 .
It was the scene of a number of technological innovations and also some
seminal developments in industrial management. It also served as the
purchasing agent for the member companies of the Bell system.

In 1856, George Shawk, purchased an electrical engineering business in
Cleveland, Ohio. In 1869, he became partners with Enos N. Barton and,
later the same year, sold his share to inventor Elisha Gray. In 1872 Barton
and Gray moved the business to Clinton Street, Chicago, Illinois and
incorporated it as the Western Electric Manufacturing Company. They
manufactured a variety of electrical products including typewriters, alarms
and lighting and had a close relationship with the telegraph company
Western Union to whom they supplied relays and other equipment.

[2006年09月24日22時05分]
お名前: ヘイ
カーターさんへ

度重なる書き込み、お疲れ様です。


アメリカの電機メーカーには、こういうのもございます。

ウェスティングハウス・エレクトリック
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF

なお、WE(Western Electric) は、オーディオ関連メーカーとしては知ってましたけど、それ以外では知りませんでした。(汗


[2006年09月24日17時50分]
お名前: カーター
 さて、WEと沖との交渉が決裂した後の帰り道に、交渉のためにWEから派遣され
ていたカールトンに岩垂は次のように言ったとの事です。「危機にある三吉電機工
場を買い取って、私がWEと提携して経営しましょうか?」カールトンは驚きまし
たがすぐにWEの了解を取り付け方向転換がなされました。
 NECの社史は説明していませんが、この岩垂の決断には商売をしている者には当
然の結論であることがすぐにわかります。つまり、岩垂はWEの代理商をしていま
したから、WEが直接日本市場に進出する意志が強いことはわかっており、そうな
れば岩垂の代理商としての地位は終わってしまいます。沖がWEと提携すれば、WE
製品の販売権は沖に移管され、岩垂商会のWE製品の売り上げがなくなりますし生活
にも困ります。沖とWEの交渉の決裂は岩垂にとって渡りに船であったと思われ
るのです。
 そして、岩垂は同じ交流論者で古くからの友人であった前田武四郎に相談を持ち
かけ、WEとの提携で電話の会社を作ることで合意しました。岩垂は沖との交渉のた
めに大阪から上京して泊まっていた京橋の紅木屋と言う旅館に前田を招いて、頭
を下げて前田に事業への参加を要請しました。前田は日本電灯の技師長をやめて日
電商会を設立しドイツのヒーリング商会の支援で逓信省への入札資格を持っていた
ので、岩垂は電話機や交換機の政府への納入が可能であると考えたのでした。
 1998年に日本電気合資会社が設立され、1999年にはWEの資本参加を受け
7月に日本電気株式会社が設立されました。1999年は、幕末に締結された外
国との不平等条約である関税自主権の喪失、治外法権が撤廃された年であり、この
年の7月に外資の参入が認められたのです。日本電気は日本で最初の合弁会社とな
ったのです。

[2006年09月24日12時35分]
お名前: 広嗣
>3.八木アンテナ
(中略)
>4.テレビの基礎研究
(中略)

 日本人は悪い意味で言う自尊心即ち自惚れが強いのにこういうことになると西欧・北米にしか目が向いていないと言えます。

 ある人達が反対する立場の人に対して「自虐史観」と呼んでいますが、私から見れば「自虐史観」は日本の文化です。今では勘違いでなければシカゴが中心になっている穀物の先物取引は、18世紀に大阪で始まったものが、世界で最初の先物取引です。しかし、明治政府は「他の国にない」ことを理由に廃止してしまいました。

>阪神地区には、エレクトロニクス関係の特定業務用下請け町工場
が多いのでは。

 東大阪市ではないでしょうか。

>漁船の無線・魚群探知機

 こちらは長崎県か、兎も角九州だったと記憶しています。


[2006年09月24日10時56分]
お名前: ヘイ
書き忘れです。

・電子顕微鏡
 略して電顕とも言います。これは戦後の話だったと思います。
 アイデアは外国のものだけど、応用は日本お得意のもの。
 
 記憶がいい加減なんだけど、中心になってやっていたのは大阪大学
 だったかな。
 初代総長が有名な物理学者長岡半太郎であったのと関係あるのでしょうか。
 
 内容を読んだ印象
 当時の(いつ頃なんだろ)日本の技術は超一流。
 解像度もさることながら、細かいところに手が届く。芸が細かい。
 現在の電子顕微鏡技術はどうなってるのか知りませんが。
 
 阪神地区には、エレクトロニクス関係の特定業務用下請け町工場が
 多いのでは。
 漁船の無線・魚群探知機
 F1で使われ始めたカーエレクトロニクスをいち早く実用化
 などなど

・ダイオードのトンネル効果
 これは江崎玲於奈関連の話だったか、しっかり覚えていない。
 http://www.eonet.ne.jp/~fujiken1/N16.htm
 逆転の発想ですね。

さらに補足

八木アンテナについて書きましたが

八木・宇田アンテナ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%8A


[2006年09月23日23時36分]
お名前: カーター
 ヘイさん、レスをありがとうございます。

>2.電送写真
>ナチス・ドイツでオリンピックが行われた際の日本人技術者の苦闘
>今では映像も音声もデジタルデータで転送されるから楽ですわ

 本スレッドは、NECの創業者の岩垂邦彦が出て来たところですが、NEC創業後の
事情を先回りして述べますと、NE式写真電送機の開発があります。日本電気の創業
は1899年ですが創業してからはWEの技術習得にエネルギーが注がれ自主技術
としては見るべきものはありませんが、岩垂のリーダーとしてのパワーは経営の近
代化において成果が見れれます。

 当時の工場は親方制度でしたが、岩垂は親方が職人に賃金を払っていた制度を改
めて会社が月給を払うと言う制度にし、借金と浪費に明け暮れると職工の生活を計
画的なものにしたことです。次に生産工程をトレースするトレーサーを置き、親方
の権限を削減したのですが、新技術導入にあたっての問題解決におけるトレーサー
の活躍を見て、親方の抵抗も消えて行ったそうです。第三の改革は検査員の配置で
す。そして、技術部が設置され図面が作成されるようになり、生産技術を担当する
工匠部長により工程分析がなされピースワークレートと言う基準が作られました。

1910年には親方請負制度は廃止され、会社が直接職工と雇用関係を結び出来高
払いとする単価請負制度が導入されました。これにより、賃金は平均して15〜
20%も上がったといいます。当時の日本電気の賃金は通常の民間企業よりも五割
は高かったと言われ、ハイカラな社風の一方ではタイムレコーダーによる厳格な勤
務管理がなされました。

このように岩垂はアメリカでの経験を生かし、親方制度を廃止し、製造、技術、生
産技術、検査といった現代では当たり前となっている近代的な会社組織を作ると言
う大仕事を成したと言えます。足らなかったのが開発であり、1924年に丹羽保
次郎が入社してから研究開発が強化されるようになり、自主技術である「NE式写真
電送装置」と「遠方監視制御装置」でした。

[2006年09月23日11時36分]
お名前: ヘイ
自分が子供の頃は、科学技術礼賛でして、将来の夢は科学技術が切り開くといったものでした。

その頃に読んだ本(毎日新聞社発行だったかな)があります。

取り上げられた内容は

1.造船における溶接技術の導入
 溶接といっても色々種類があるんですけど・・・
 溶接技術導入前の技術はリベット留め ?

2.電送写真
 ナチス・ドイツでオリンピックが行われた際の日本人技術者の苦闘
 今では映像も音声もデジタルデータで転送されるから楽ですわ

3.八木アンテナ
 東北大学のエレクトロニクス技術は旧帝大時代からつとに知られる
 最初日本では評価されず、欧米がいち早くレーダーの実用化へ
 大日本帝国軍部でも遅まきながら実用化に着手

4.テレビの基礎研究
 浜松工専(現静岡大学工学部)の高柳という人が戦前にやっていた
 資材難ではあったけど、ブラウン管に「イ」の文字を出力させる
 これも最初に実用化したのはアメリカのほうであった

この本を読んだ当時は高度経済成長まっただ中の頃でしたね。
エレクトロニクス関係が3つもある。

日本は資源は無いが、勤勉な国民性だけが取り柄。戦後は、第二次大戦の反省から貿易立国、技術立国へと変貌しました。
戦前は、日本製というと、「安かろう悪かろう」という時代だったそうですが。
近年は人件費の少ない国で生産された商品が幅をきかせてるようで・・・。


[2006年09月18日22時56分]
お名前: カーター
藤岡市助は岩国市のホームページに記載があり、藤岡が岩国市錦見(錦帯橋に近い)の生まれです。しかし、三吉が藤岡と同郷の岩国市出身であり一緒に東芝の前身の白熱舎を創設したのにかかわらず、市のサ
イトには三吉の名前がないのです。藤岡の業績の詳細は下記の通り東芝のサイトに記されています。

http://kagakukan.toshiba.co.jp/history/1goki/1890lamp/index.html

幕末の岩国藩には士族のための藩校である養老館があり、藤岡は8歳の時に養老館
に入学しますが、その時の親友が三吉正一でした。後に藤岡が福田千勢子(旧幕臣
の娘)と結婚する際には三吉が媒酌人を務めたほどでした。三吉は藤岡の設計した
発電機などの電気機械を生産するために三吉電機工場を設立しました。

藤岡は日本初と言う電球、電車、エレベーターなどで知られていますが、三吉の方
は発電機の製作で水力、石油、ガスなどの動力の研究なども行ない、ガスエンジン
による発電機を製作するなど石油機関の将来性も見抜いていて、国産の発動機付き
の自転車(バイク)の開発に三吉の考えが影響を与えていたと言われています。ま
た、三吉自身の発明したものに足踏製糸機、絹巻電線製造機などがあります。

三吉電機工場は日本最大の電機工場になっていましたが、日清戦争後の不況により
負債をかかえ経営的に苦境にありました。それに目をつけたのが、GEとWEの代理
商をしていた岩垂邦彦でした。

[2006年09月18日18時35分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、仰せの通り・・まさしくトン・ツーの時代・・・良くてテレタイプ・・・かな!真坂の通信衛星など無い時代・・・GPSなど思いも寄らない時代でした。海底ケーブルか?短波帯による国際・遠距離通信・・・テレビ放送も白黒からカラーへの移行期・・・BS・CS衛星放送など夢之夢・・・だったかな!。・・・益して周波数カウンター(測定器)ビートダウン方式か、最新型でもネオン管表示の短波帯ぐらい迄で、超短波・極超短波・マイクロ波の技術は難儀でした。発信機も受信設備も高額で大掛かりでした。修理技術も熟練技術者の腕の見せ所で、今のようなブロック・パネル交換では無くて、配線・部品・真空管・メカの部品の一つ一つを探り出して、ハンダ鏝で外したり・付けたりでしたね!・・・プリント板からICチップへの変貌も今では思い出してもエレクトロニクスの発達は猛スピードで通過して来たのも、驚きですね。

[2006年09月09日16時33分]
お名前: カーター
水軍丸船長殿、ご無沙汰です。技術者の人生を歩まれたのですね。真空管の時代
からアナログの時代をずっと過ごされたのであれば、現在のインターネットの時代
は耐えがたいものがあるのではないでしょうか?我々の先輩の中には通信の技術者
として努力されたのに、インターネットの時代ではアメリカのラジオもテレビもネ
ットで聴いて見られるという信じられない状況です。
 アナログーー>デジタルーー>衛星通信ーー>光ファイーバー、とここまでは良
かったのが、何やらわかないインターネットの時代では電話代がただだとか訳がわ
からないですね。過去の積み重ねががたがたと崩れて行くような感じです。
 
訂正:
本スレッドの最初の部分に誤りがありましたので訂正します。
藤岡が在籍したのは工部大学校は現在の東京工大ではなく、現在の東大工学部の
前身です。
岩国市で藤岡が発案した電車が廃止されたのは交通渋帯が原因ではなく、現在の
岩徳線(岩国と徳山を結ぶ)で当時の山陽本線が開通したのが理由でした。
[2006年09月09日14時21分]
お名前: カーター
岩垂邦彦は1857年に福岡県に生まれ工部大学校(後の東大工学部)電信科を
1882年に卒業し、工部省に出仕しますが官を辞し単身でニューヨークへ渡り、
エジソンの工場で働き始めました。ニュージャージーの工場では白熱電球の量産を
始めていましたが、岩垂は電球のセールスマンとして一級の実績を残したと言われ
ています。その時の同じ日本人の同僚に後に東芝の創業者となる藤岡市助がいまし
た。藤岡はエジソンの忠実な部下で、エジソンから「工業製品を外国から輸入する
ようでは国が滅ぶ」と言われ、電球の国産化を心に誓いました。岩垂の方は、エジ
ソンの会社が合併などでGE(General Electric)となって行く様を見てアメリカ式の
経営を学んで行きました。
 電灯の配電について、アメリカでは直流と交流のどちらが優れているかの論争が
盛んであり、エジソンは直流論者ですでにシステムが確立されていました。交流論
は形成期にありましたが、帰国して東京電灯の技師長となって直流論を唱えていた藤岡に反対して、岩垂は大阪電灯(関西電力の前身)の技師長に就任し交流論を唱
え大阪電灯に交流発電機を採用しました。この事実を知ったエジソンは激怒し、岩
垂を破門したと言われました。交流、直流の論争は「交直論争」と言われ、後に交
流方式の方が発電設備が安く、送電のロスも少ないため遠距離送電には有利である
ことが実証され、エジソンと岩垂の関係も復活し、岩垂は1895年にGE社の輸入
販売代理権を取得しました。
 岩垂は1895年には WE(Western Electric) の代理権も取得し、日本での交換
機の生産を計画していたWEの交渉を仲立ちもしていました。WEの提携相手は、すでに日本で国産の電話機を生産していた沖牙太郎が沖商会でしたが、先に述べたよ
うにこの沖との3ヶ月に渡る交渉は失敗に終わることになりました。その理由は、
沖牙太郎には、日本の通信機業界の先頭を引っ張って来た自負があり、自分が倒れた後にWEが経営の実権を握る恐れがあるのではないか、国家への貢献も危ぶまれ
ると言う気持ちがあったのではないかと言われています。
 沖商会の株の50%をWEに売却すれば牙太郎には大金が入って来ますし、WE
からは経営には干渉しない旨の条件がついていましたら、牙太郎にとって決して悪
い話ではなかったはずです。その辺の心境を1932年発行の「沖牙太郎」の著者
は次のように書いています。
「今や彼の事業たる、一沖家の企業たるに止まらず、一朝国家有事の際には、全能
力を傾けて、奉公の誠を致すべき有用なる機関である。徒に一身の安逸を貪りて、
国家の大事を私すべきではない。」 沖電気120年社史より
 すでに、企業が私的なものではなく公的なものであると言う近代的は企業観が見
られるのです。
[2006年09月09日13時31分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、広嗣さま、ヘイさま、無沙汰にて失礼しておりました。
この話題は昔を懐かしみながら、昭和の良き思いでを偲んでおりました。正しく青春時代の辿った道程です。・・・昭和33年から37年頃には、関東諸処に学び舎と勤め先を定めて、主に弱電分野、通信、計測機器、軍需、新幹線開発を含む鉄道関連の制御機器の開発業務に従事しておりました。マダマダ真空管が主体で、ダイオードやトランジェスターは、はしり・初期の段階で、高価な代物でしたね!・・・極東捕鯨の秘話装置や、目黒の防衛技術研究所へ出入り、大宮の鉄道信号・制御機器の研究開発、建設省の搬送通信システムの保全業務、電通・NEC・安藤電気・東芝等々の機器製造や、検査・メンテナンに携わって居りました。
また、学生時代に国家試験(無線通信士)を取って、アルバイトでは、横浜のサウスピアーの米軍基地の通信局(海岸局)のオペレーターも経験をして東京湾の水運の業務にも従事した思い出が、湧いてきます。個人の趣味では、アマチュア無線局を開設して、807プッシュプルのハイパワーの自作無線器で楽しみ、シャーシの穴あけから、部品の購入(主に秋葉原ジャンク屋)等皆様のお話は誠に思い出しても色々と青春時代の血がよぎる感じですね! 良き時代・昔が懐かしい。
[2006年09月08日15時58分]
お名前: カーター
 沖電気の創業者、沖牙太郎(おききばたろう)は、広島県沼田郡新庄(現沼田
町)の出身ですが農家を嫌い、銀細工師となりました。しかし、1870年に工部
省の電信寮修技校の同じ広島県出身の原田隆造を頼って上京し、同じ構内にあった
製機所の雑役夫として採用されました。
 製機所では、スイスのお雇い外国人であるシェーファーの指揮下でモールス電信
機の製作を始め、技術を修得してまいりました。牙太郎はその後腕を上げて、日本
に持ち込まれた二台の電話機を見て研究し、後に東芝の創業者となる田中久重らと
1878年に二台の電話機の模造品を作りました。
 牙太郎は、官を辞して電気機具の製造を目的として製機所の仲間と明工舎を設立
しました。しかし、電話の普及はなかなか進まずアメリカWE(ベルの製造会社)
の交換機が輸入されるようになって初めて普及するようになりました。1880年
頃には、電球や電話などが市民の目には一般的になって行きました。WE社の交換
機は最新鋭のものでしたが、これの設置を行なったのは沖電機(1889年)でし
た。
 1894年の日清戦争後には政府の電話拡張計画で沖電機の売り上げは電話の加
入者が2万以上と事業は順調に伸びて行きました。その後大規模な工場を建設し、
社名は沖商会に変更されました。ようやく、事業の基盤ができたと思ってほっとし
ている時に、アメリカ最大の通信機メーカーWEは日本市場の通信機市場の有望性
を探り、1898年に沖牙太郎に正式の提携を申し入れました。この時の代理人が
WE社の日本総代理商であり、後の日本電気の創業者であった岩垂邦彦でした。し
かしのこの話は結局は破談になったのです。(次号をお楽しみに)


[2006年09月03日22時39分]
お名前: 広嗣
>「汗をかく」仕事=「重・高・長・大」

 「汗をかく」仕事=「重・高・長・大」=「立派な仕事」と言った方が、書き込んだ趣旨を理解し易いかも知れません。


[2006年09月02日10時46分]
お名前: 広嗣
 まず前回の補足です。

 ヘイさんが書いているように昨今はエレクトロニクスというとコンピューターや情報処理の意味もあり、いや、今ではそちらのほうが中心になっているかもしれません。ライブドア事件で堀江某が逮捕された際に団塊の世代と思える人が「もっと汗をかいて」云々と言っていました。堀江はあの時点で冷や汗はかいていたかもしれませんが、コンピューターや情報処理関係の人が汗をかいていないとは思いません。しかし、「汗をかく」仕事=「重・高・長・大」という考えは、根強いのだと思います。

 敗戦前の大陸(満州国)との弾丸列車のことは、相当前にまだ鈴木某という某国営放送の「人気」アナウンサーが在職していた当時にこの人の番組で見た記憶があります。計画当時の軌道が広軌だったか標準軌だったかは忘れました。

 余談ですが、日本の鉄道は、狭軌が標準です。広軌はないのではないでしょうか。標準軌は新幹線、第三軌条方式の地下鉄、京浜急行とこれに相互乗り入れする都営浅草線と京成電鉄が、私の知る限りの標準軌の鉄道です。

 九州と釜山なり韓国南部を結ぶトンネルや高架橋は、技術上は可能です。しかし、政治が不可能にしているのが、現状でしょうね。


[2006年09月02日10時38分]
お名前: カーター
 広嗣さん、ヘイさんレスをありがとうございます。東芝の創業者の田中久重が
操業した田中製造所、芝浦電気のことは知っていたのですが、あまりに偉い人な
ので、後で書くことにしてあります。からくり儀右衛門と言われ精巧な仕掛け時
計を自作したと言われています。また明治になり、沖電気の創業者である沖牙太
郎らと二台の電話機を模造したそうです。
 弾丸列車のことは、先日テレビ東京で「新幹線を作った男たち」と言う番組が
再放送されました。戦前に軍が大陸までつなごうと計画していたと言うのですか
らスケールが大きいですね。英仏と同じように下関から釜山までトンネルができ
るのはいつの日のことでしょうか?やはり無理でしょう。


[2006年09月01日22時30分]
お名前: ヘイ
>用地の確保

補足です。現在ある新幹線の話ね。新幹線は広軌ではなく、標準軌道でした。狭軌よりは広いけど。


[2006年09月01日22時16分]
お名前: ヘイ
電気関係では、動力・エネルギー関係が強電、エレクトロニクス関係が弱電と呼ばれていたはずです。今では、この言葉は死語になっているかも。
昔の話だと、エレクトロニクスの中心は、通信関係。電波高校とかありましたもん。途中から、コンピューターや情報処理などがエレクトロニクスにも入ってくるわけですが。
真空管 → ダイオード → IC → LSI だったかな。
強電関係では、東芝・日立・三菱などは電気機関車なども造っていたと思う。

弾丸列車計画は、戦前の軍が計画していたものと聞いてます。大陸への軍事輸送力強化のため、東京 → 下関 間を広軌にして、時速160km/h〜200km/hを計画していたそうです。当時の政府は、狭軌の在来線整備拡充に力を入れていたことと、戦局の悪化から、この計画は尻すぼみになったとか。
用地の確保でも、東京 → 大阪 間は、戦前の弾丸列車計画にほぼ近いものですが、大阪から西は、用地の選定・確保ができていなかったせいか、山間部のトンネルが異様に多いです。


[2006年09月01日21時35分]
お名前: 広嗣
 東芝のホームページ http://www.toshiba.co.jp/about/histo_j.htm によると、東芝の創業は、現在の福岡県久留米市出身の田中久重が東京・芝浦に創業した田中製造所を創業の年としています。それと日本は敗戦後は「重・高・長・大」を重視してきました。エレクトロニクスは日陰者とは言いませんが、良くて脇役、悪く言えば端役だった訳です。

 出身地の岩国市でさえ皆無に等しいくらいに藤原市助が知られていない背景にこういうことがあるのではないかと思いました。


[2006年09月01日11時56分]
お名前: カーター
最近のエレクトロニクス業界は元気がありません。どうしたらいいのかと思い昔
の人達はどんな人だったのだろうかと思い始め、NECや東芝について調べてみまし
た。そしたら、東芝の創業者は我が郷里の岩国市出身でした。岩国には18年住ん
でいましたが、学校でも岩国から日本のエジソンと言われる藤岡市助が出たと言う
話は聞いたことがなかったのです。
 昨年、帰省した時にレトロなバスが走っていたのですが、藤岡のことは何も知ら
なかったのであれはいったい何かと思っていました。岩国市は基地の町として知ら
れていますが、江戸時代は吉川藩の地であり毛利の分家であり、教育を重んじる風
潮が強い都市でした。その岩国から東芝の創業者である藤岡市助と三吉正一が東芝
の前身の東京電気を創業し、白熱電球を日本に普及させたのです。藤岡は工部大学
校(後の東京工大)の教授から、白熱電球の実用化を目指して奮闘し、同郷の三吉
は発電機など藤岡の設計したものを藤岡のために製造したのです。
 藤岡は後に大学をやめ東京電気を設立しますが、白熱電球の開発には苦労し最終
的にはアメリカのGE(エジソンの系統)の資本参加を頼み、GEの電球の量産技
術を導入しました。ようやく電球の量産にこぎつけた白熱電球で自信はつけた藤岡
は日本初の電車やエレベータを開発し、アメリカのエジソンにも似た発明をしまし
た。藤岡の開発した電車は東京のみならず岩国市にも導入され、戦前には市内走っ
ていたそうです。そして弾丸列車を構想し、後の新幹線の元となるアイデアまで出
して後世に託したのでした。
 残念ながら、戦後の車社会の到来で電車は交通渋帯の原因になると言うことで、
他の都市と同じようにバスに変ってしまいました。しかし、有名な井原市長の声で
観光の強化が叫ばれ、電車に似たレトロなバスである「市助号」、漫画「島耕作」
の弘兼憲史、小説家の宇野千代(「おはん」、「生きて行く私」などの作品があ
る。)などが市のPRに使用されるようになりました。夏休みには岩国や広島をドラ
イブしました。広島市内にはまだ市電が走っていてほほえましいですね。
 最近になり、藤岡のことを知りもっと当時のことを知りたい、日陰の存在であっ
た三吉はどんな人間であったのだろうかと思っていますが、資料も少なく簡単に岩
国には帰れないので研究も充分できていないのが現状です。

[2006年08月30日22時59分]
このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)
氏名 削除コード
E-mail URL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。