テーマ:大安宅鉄甲戦艦VS亀甲戦艦

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お名前: 土龍
 慶長3年、(1598年)、9月に入ると明・朝鮮軍は蔚山、泗川、順天へ攻勢にでます。
北方に逃れ、水軍の再建を図っていた李舜臣と彼の配下の朝鮮水軍も明水軍に合流、西方に突出していた日本軍拠点小西行長守る順天城へ水陸をあげた攻略に向かうことになります。順天城攻防戦の開始です。
 私の書き込みの主要な参考にしている『高麗帰陣物語』も主にこの順天城の攻防を主体に描写したものです。(同書は、『宇都宮市史』および「倭城址研究」に所収されています。興味のある方は是非ご参照ください。敵味方の戦闘方法の詳細さ、その時々の兵士の気持ちがかなり正直に記載され、朝鮮出兵時の記録としては日朝両国の五指に入るのではないでしょうか。特に、一兵士の述べたことを書き取った記録なので、へたな指揮官の述べるような空威張りや虚飾が−李舜臣にもその気が全くないとは言えません−殆ど見られない点、好感がもてます。)また、順天城そのものの現在でも遺構がほぼ完璧に残り、日本の研究者の詳細な記録図(「縄張り図」と呼びます)がとられているほか、この戦闘に従軍した明の画家が描いた「征倭紀功図」という絵画(驚くべき事に、微妙なディティールに目を瞑れば、描かれている城郭の構造は、この順天城の遺構にほぼ一致します。)(もっとも、資料としての出所に多少謎の部分もありますが・・・)が残されており、資料同士のクロスチェックが可能な希有なフィールドです。
 さて、順天城攻防戦自体も非常におもしろいテーマなのですが、話を水軍に戻しましょう。前にも述べたように『高麗帰陣物語』では、寄せてきた明と朝鮮の軍船について詳細な記述を残していますが、再建された朝鮮水軍に亀船の姿が見えません。「朝鮮の軍船は(日本船ならば)四・五百石ばかりの船の上を楯で囲い、矢狭間を切り、天井をはって欄干をまわし、その上で闘う。いかほど大きな船でも(片舷で)櫓は五・六丁ばかり。」という記述は絵図にも描かれる板屋船の姿に間違いないでしょう。明の水軍の船についても詳述されていますが、亀船を思わせる記述が全く無いのです。役の前半について記した記録(「朝鮮記」他)には多数のそれ(つまり亀船)を思わせる記述が散見されるのですが、この本の中には無いのです。前述の「征倭紀功図」にも(李舜臣の存在を示す「太極旗」は見えますが)それらしい船は描かれていない。というか、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の後半、漆川梁の海戦以降、亀船はほとんど記録から姿を消しています。鳴梁海戦(まあ、これは残存艦隊が闘ったものですが)にも参加していません。『亀船』の金在瑾先生の言うとおり、「乱」の後半漆川梁の海戦以後、亀船は「光を失ったように」姿を見せなくなってしまうのです。(これは、李舜臣が戦死した露梁海戦でも同様です。)李舜臣が朝鮮水軍の再建にあたり、「明の水軍から軍船をもらい受けたからだ」という説明がなされることがありますが、これが誤りなのは『高麗帰陣物語』の朝鮮軍船の記述から明白です。李舜臣は朝鮮自前の軍船で水軍の主力を編成しているのです。とすれば、彼は水軍の再建にあたって亀船を建造しなかったことになります。
 亀船自体は、これまで見てきたように板屋船の改装によって建造可能です。にもかかわらず、李舜臣が水軍の再建にあたって亀船を建造しなかったのは何故か?記録は空白のままで、可能性を述べるに留めますが、壬辰倭乱の後半、亀船が様々な側面から有効に機能しなくなったからではないでしょうか。
 もともと当初から李舜臣は多数の亀船を揃えていたわけではありません。数を揃えればいいというものでもなかったらしく、李朝の記録でも、李舜臣の統制使時代の5隻というのが最も多い数字で、『乱中日記』からうかがえる亀船の乱当初の隻数は2〜3隻というところです。『乱中日記』の文中「左右突撃将」という役職にふれられていることから、この「突撃将」が亀船の指揮官だった可能性が高いと考えられます。亀船はそれのみが単艦で機能できる船ではなく、主戦力はあくまで板屋船で、亀船は突撃し敵船団を混乱させる特殊船といった役どころです。日本側泊地にも侵入し、その形状を生かして水陸から発砲・砲撃する日本の船団に近接攻撃をしかけようとした様子もありますが、やはり有効な攻撃を加えている気配がありません。
 また、無敵の姿ばかり強調されてきた亀船ですが、絵図や記録を読み返すと、明らかな問題点が浮かび上がってきます。(すぐれた構造の軍船であれば、世界各地に類似の構造の船が生まれても良いはずです。例えば中国の楼船・朝鮮の板屋船・日本の安宅船・ヨーロッパのガレアス船、それぞれの状況に応じた特色を持ちながら、類似した構造をとるのは単なる偶然ではありません。しかしながら亀船は特殊です。似た船がどこにもない。−−例外に日本の「盲船」がありますが、これは後ほどお話したいと思います−−。これは朝鮮民族の独創力と優秀性を示すのか?それとも・・・・・。)まず最大の問題が、実のところ乗員を守ってくれるはずの亀甲型の甲板で、船の上甲板全体を覆ってしまっているため様々な問題が生じたはずです。何より問題なのは、乗員の視界が極端なまで狭くなることではないでしょうか。視界が確保出来なければ、敵を攻撃するのも航海することも容易ではないはずです。ヘタをすれば座礁しかねません。前にも述べたように操帆が容易ではないことも想像できます。そして何よりも乗員と火砲を密閉状態にしておくため、火砲の発射時に多量の煙が船内に溜まってしまうことが想像できます。(ただでさえ煙の多い黒色火薬なので多分、密室で花火を焚いたよう・・・・・。乗員は過酷な環境で闘っているわけですね。どう考えても、この欠点を克服する方法は無さそうです。亀船が「舳先の亀の口から煙硝を燃やした煙を吐いて、敵を威嚇した」という話も、案外船内に充満した煙が出ているだけだったりして・・・。)そして板屋船から受け継いだ平底ゆえの指針性の悪さ。さらに板屋船のそれに輪をかけた沖乗りの難しさ。こうやってあげていくと、亀船は、かなり使いづらい兵器だったような気がしてくるのです。(ここまで数え上げれば、類似の船がよそで生まれないことも不思議でも何でもありません。)
 どうも亀船を乗りこなし、運用するには少なからざる能力が必要とされたように思います。指揮官に必要とされるのは、敵の船団中に飛び込んで行く「勇気」と、不自由な船を操る巧みな「操船力」、劣悪な環境に曝される兵士と漕ぎ手をまとめる「リーダーシップ」、視界が無い恐怖と劣悪な環境に耐える「忍耐力」です。同時にそれは大なり小なり乗り手全員にも求められるでしょう。
 さきほど、乱の後半に亀船が有効に機能しなくなったのではないかと述べましたが、これはこうした亀船の欠点に求めることができると思います。視界が狭い上に指針性がわるく、速力にも限界のある亀船の場合、敵が不用意に近づいてくれれば、その威力を遺憾なく発揮できるでしょうが、慶長の役の釜山絶影島の闘いのように日本船が機動力を発揮し、その突撃を避けてしまったら、再度敵を捉えることは容易ではありません。火力も構造上板屋船以下のものしか搭載できないはずですから、単艦で突入してきても、うまくかわしさえすれば、そう恐れるべきものでもないはずです。
 そして考えられるもう一つの理由は、一度全滅してしまった朝鮮水軍に、乗りこなすのが容易ではない亀船を任せられるだけの資質を持った指揮官と兵士を揃えることができなかったのではないかということです。
 いつもながら、状況証拠からの推定にすぎませんが、いわゆる亀甲船つまり亀船が、本当に活躍したのは、壬辰倭乱・文禄慶長の役の初期においてのみで、日本側が水上での直接対決から、泊地での迎撃に切り替えた乱中葉あるいは文禄の役後半では活動がにぶり、日本側が船の機動性を生かし突撃してきた亀船をやり過ごすことを覚えた乱の後半においては兵器としての有効性そのものを失ったと言えるのではないかと思います。亀船はその肥大化した虚像とは全く異なり、きわめて限定した期間活躍した軍船で、日本側の対応(対処療法的ではありますが)がとられるようになると、乱の最中にはその姿を消してしまったわけです。(乱後、李舜臣とともに「神話化」され、再度建造されるようです。ただ、日本の徳川体制が固まり、日本軍の再侵攻可能性が薄れると、名実ともに姿を消し、歴史の闇の中に「神話」のみを残して消え去るのです。)
 話は飛びますが、
 文禄慶長の役後、西国大名の多くは水軍の充実に力を注ぎます。加藤清正、黒田長政、蜂須賀、鍋島等の大名が水軍の強化を図っていますが、その主眼は安宅船の建造、特に大型化です。鍋島氏は黒田長政の御座船(安宅船)を見て、「いちだんと見事なできばえ」と評し、それに負けない船を建造するよう国元に手紙を送っています。明らかに建艦競争をしているわけです。中でも巨大なのが加藤清正の御座船で、大坂に係留されていたそれは「事外の大船」「長さ二十間、幅五間、船中三重の座敷」とあり、徳川氏の安宅丸以前では記録に残る最大レコードです。長さ二十間、幅五間ではずいぶんスマートな船形となります。また二十間という規模は、この当時の和船としてはほぼ限界値マックスでしょう。(以前私は信長の「安宅船」の十八間幅六間という数値を和船の限界値と述べましたが、これは「前に二十五間と言ったが十七間でよい」という朝鮮の役に際して全国各地に発せられた秀吉の軍船建造に係わる朱印状を元にしています。最初、現実を見ないで兎に角、巨大な船をという指示を出したけれど、技術的な問題から、実現可能な数字に戻したといった旨の秀吉の命令書です。おそらくは役前の和船の技術レベルの一端を示すものとして良いように思います。)この時期、朝鮮出兵の安宅船の大量建造と明・朝鮮水軍としての実戦を経て、技術的レベルが上がったことは充分考えられます。(ちなみに、朝鮮側の記録に乱後、加藤清正に「板屋船」を造った罪で殺された船匠がいます。この問題に示唆的です。)「船中三重の座敷」とあるのは、おそらくは船体は含まない上粧部分のことで、一重目が漕ぎ手のいる「やぐら」内のスペース、二重目は「総やぐら」上の上甲板レベルかその上、三重目が「総やぐら」に廻らした楯板上に出る部分(安宅船の天守や矢倉に相当)で、二重目と三重目は、居住スペースと戦時の射撃場所を兼ねるものと理解すれば、スマートな船形による速力と居住性・射撃能力を兼ね備えた強力な戦闘艦です。(清正の船を「御朱印船」と理解する船舶研究者がいますが、記録は清正が「御朱印」を受けた時期に遡ること、また構造上ジャンク型式を基礎とした御朱印船に馴染まないことから、ほぼ安宅船と断定して良いいでしょう。)こうした西国大名の建艦競争が、徳川幕府の猜疑心を招き、慶長年間における安宅船の没収と禁止という事態を生んだことは良く知られています。
 朝鮮の役後、各水上戦の戦訓がもたらしたのは、鉄ないし銅といった金属板被覆による耐弾性の強化と不燃化(秀吉の鉄貼り船、慶長年間に記録された長州三田尻の鉄で覆った軍船、幕府安宅丸の銅板被覆)あるいは大型化(清正・黒田・鍋島・蜂須賀の御座船)でした。(『管流』の水軍書でも、朝鮮の役後、諸国で盛んに安宅船が重宝され、建造されたことが記されています。)不思議と大砲装備の強化や、西洋船や中国式のジャンクの採用、ましてや亀甲船の水軍主戦力への採用ではありません。
 大砲装備の強化へと向かわなかったのにはそれなりの理由が考えられます。第一の理由が戦当時櫓走する軍船の性格上、どうしてもその装備が舳先に限定され、舷側への装備(必然的に漕ぎ手の上の「やぐら」上に配置)が破壊力の弱い小形砲か、据え筒や抱え大筒といった大形の火縄銃に限定されることです。破壊力の弱い小形砲とは朝鮮水軍の玄字銃砲や黄字銃砲のようなものを思いうかべれば良いかと思います。その射出力から火箭ぐらいしか飛ばせず、船体破壊力はありません。据え筒の類も船上に隠れる対人用には効果的ですが、船体破壊に及ぶものではありません。そして何よりかんじんの大型砲(鋳造式)があまり信頼度の高い兵器ではなかったからです。火薬を馬鹿食いするわりには、命中精度は低く、発射速度も速くはありません。砲身がすぐ熱くなるでしょうから、そうたくさん撃てるものでもない。そして何より恐いのは暴発です。いったん暴発すれば、敵の砲撃よりも甚大な損害を受けかねないでしょう(小西行長の居城宇土城からは、暴発したと見られる大筒の破片が出土しています。)。むしろ、船体大形化の主眼は、海戦時に船上の敵を圧倒できる銃火の強化にあったものと考えるべきです。朝鮮の戦闘でも、前述の順天城の攻防や李舜臣の戦死した露梁海戦で、火砲を放つ明・朝鮮の水軍を鉄炮の銃撃で追い払う様子が記述されています。船上の兵士への銃撃に、日本側がそれなりの有効性を認識していたことは間違いないでしょう。特に明・朝鮮側の戦死者に李舜臣を筆頭に指揮官クラスが多いことが注目されます。(李舜臣の戦死を「流れ弾」によるものとする記述がまま見られますが、日本の鉄炮の射撃は、弾幕射撃ではなくあくまで狙撃形です。水軍書にも海戦では舵取りや指揮官を狙えという記述があるので、「狙撃」の可能性が高かったと思います。指揮官クラスの戦死者の多いことも、「狙撃」の傍証となるでしょう。まあ、撃った方も敵の主将と思って撃ったかどうかは、定かではありませんが・・・・。)
 ジャンクやガレオン船のような帆走軍艦ならば舷側への大型砲配置が可能になりますが、帆走技術特に操帆技術が未熟なため、ガレオン船の軍船への採用には無理がありすぎます。ジャンクは網代帆の性格上、日本船以上に操帆が容易と考えられますが、速力の得られる帆ではなく、帆柱は固定式なので、櫓走時に不利です。加えて、この時代日本ではまだ沖乗りの技術が未発達(本格的な「沖乗り」は江戸時代以降)ですので、船のとる航路は基本的に沿岸航海で、これら航洋船の長所を発揮できません。前者・後者とも、帆走で闘うことは、風向きがきまぐれで潮の流れが速い日本近海、しかも火矢や焙烙火矢を多用する海戦が多い日本では、不利と認識されていたと考えて良いでしょう。潮の流れが急でその変化が激しい瀬戸内のような海では、櫓が無ければ自由に行動できず、また帆走船が動けない無風時や微風時に櫓走で自由に動き回られ、攻撃を受けたのではたまらないはずです。『高麗帰陣物語』での(固定式帆柱の)中国船が「軍船には向かない」という評価が端的にそれを示しています。実のところ、慶長の安宅船没収後も、西国大名達には次々と朱印状が発行され、御朱印船が海外へ送り出されていました。伊達政宗が500トンクラスのガレオン船を建造したのも有名です。幕府は安宅船に神経を尖らす一方、こうしたガレオン船や御朱印船を軍事的脅威とは見なしていなかったことになります。

ところで、亀船(亀甲船)の採用には唯一の例外があります。大坂冬の陣に際し、九鬼守隆が徳川氏の命令で建造された「盲船」で、窓・天井を楯板と竹束で総て覆い、船の前後に引き戸式の扉を設け、前進用の櫓と後進用の逆櫓を有します。九鬼は徳川氏から与えられたフランキをこの盲船に搭載し、大坂城の川沿いにあった矢倉を破壊しているのです。搭載された火砲がフランキであることは、全体を防弾用の装備で覆い覆い敵の射撃拠点に接近しなければならないこの船の性格上不可欠のものです。また逆櫓を装備していることは、進退が不自由な河川内での運用のためのものと理解できます。本来、こうした戦闘には火砲を装備した安宅船が充てられるのが通常だったようです。伊勢長島の一向一揆や、瀬戸内の攻城戦で安宅船が同様の砲撃を行っています。大坂城の場合、河川が浅く、安宅船が運用できないためこうした特殊船が建造(あるいは改造か?)されたものと考え大過ないでしょう。前後の脈絡からすれば、この船は喫水の浅い川船で、規模的にもそう大きなものではないとして良いように思います。(また蛇足ながら、矢倉の破壊そのものが、この攻城戦の戦局そのものを左右したわけではありません。九鬼氏がこの戦で戦功をあげ、徳川氏への忠節を表した以上の効果は持っていないのです。)
 九鬼の盲船は、装甲で覆われた上甲板(もっとも防弾用の竹束と楯板ですが)、舳先の火砲、船体前後の窓、その姿は亀船の直接の影響下に生まれたものとして良いでしょう。しかしこの船は対艦用の軍船ではなく、あくまで攻城用の特殊船です。
 多分に逆説的ですが、この船は、亀甲船(亀船)の有効性よりもその限界性を端的に示しているのです。つまり日本の水軍将(あるいは大名達)は、上甲板を装甲で覆う有効性を知りながら、あえて水上戦用の軍船として同様の軍船を建造しようとはしなかったわけです。それは日本軍の固陋頑迷さを示すものでしょうか?(もちろん、亀船の戦闘法や構造が日本側に馴染まなかった側面も否定はできませんが)、むしろ前述のような亀甲船の欠点を熟知した上での現実的な選択と言うべきものと考えます。
 日本側に採用された亀甲船は、完全に換骨奪胎され、潮流や波風の影響を受けない河川や内海での、逃げない固定目標を対象とした攻城用兵器として生まれ変わったわけです。
 なお、江戸時代の水軍書には「亀甲船」の記述があちこちで見られますが、これは太平の世になって生まれた「空想科学」というべきものでしょう。中には水車を回す外輪船や船内に同様の水車を設けた内輪船?の記述も見られ、現実性のかけらも感じられません。なお、これら水車による推進船は、これら水軍書の書き手や、水軍の子孫達の全くの想像ではなく、中国の『武備誌』あたりの影響と考えていますが、いかがでしょう。日本でも泰平の世の到来とともに、亀甲船の「空想科学化」が進行したようです。

 長々、続けてきましたが、

大安宅鉄甲戦艦VS亀甲戦艦という本論のお題自体が、朝鮮の役において李舜臣の亀船(亀甲船と同意。以下亀船)にしてやられたという我々日本人が抱える歴史的記憶のトラウマから生じていること、「信長のあの鉄船が海を渡っていれば、状況は違っていたに違いない」という思いから生まれてくることは間違いありません。(すでに述べたように、鉄貼り船は海を渡っています。)
 それはちょうど先の大戦で「ミッドウェーの海の上でもし・・・・・、」とかレイテ湾で「もし、あの時栗田艦隊が湾内に突入すれば・・・・・、」という妄想と重なってきます。あっ、誤解しないでください。私はそれを「不健康な妄想」と考えているわけではありません。レイテ湾の「もしも」やミッドウェーの「もしも」は民族がその心の平衡を保つためのバランサーのようなものです。「我々は、奴らに勝つ力を持っていたんだ。決して一方的に負けて属国のような立場に成り下がったわけではない。」という思いを心の内に持ち続けることは自民族・自国への誇りと不羈の精神を維持する上で欠くことが出来ないと考えています。
 「400年前の朝鮮の役でも我々は勝てていたはずだ。秀吉が水軍を軽視したからだ。信長だったらもっとうまくやれた。」もおそらくは、同じ精神から生じます。(私がこのお題に頸を突っ込んだのも、同じ穴のムジナならぬモグラであったからに他なりません。)
 半島の人々が抱く亀船と李舜臣への思いもまたそこから生じるものでありましょう。
これはお互い様です。でも一方では、400年という年月を経て、もういいんじゃないかという思いがあります。こと歴史の尻尾を囓る立場にあり、朝鮮の役前後について書かれた文献を漁るにつれ、もう、失敗した秀吉と日本水軍をはじめ、李舜臣も、あるいは李舜臣の同僚かつライバルで日本水軍相手に大敗けして国賊扱いを受けている元均も、敵も味方もともにその呪縛から解放されてもいいんじゃないかと思い始めたのです。
 李舜臣の戦死した露梁海戦、乱後の朝鮮水軍、水軍書に記された九鬼以外の「盲船」、語り残したことも多々ありますが、亀船(亀甲船)と李舜臣の「神話」を引き剥がしたあたりで筆を擱かせていただきます。

 長らく、この掲示板を“不法占拠”してきたことをお詫びいたします。また、もしこの莫迦踊りにお付き合いしていただいた方がいましたらば、深く感謝申し上げる次第です。また、できることならば強烈に反駁していただけること(特に半島出身者のかたに)を切に願っております。
 
    土龍  拝
[2007年04月05日21時47分]
お名前: 土龍
 さて、元均が敗死すると「白衣従軍」いわば一兵卒として従軍していた李舜臣は再び三道水軍統制使に返り咲くことになるわけです。残存艦隊をとりまとめ、士気を喪失した指揮官から指揮権をとりあげます。全羅道右水営(水軍の基地)で戦力を再編成し、日本軍の侵攻に備えるわけですが、このときの残存戦力は板屋船(資料のほとんどは「大船」と書いてありますが、板屋船とみて良いかと思います。)わずか13隻、敗残艦隊を率いる李舜臣の心の内はいかばかりでしょう。彼の残した『乱中日記』は読み物としても面白いものですが(というより、現在の日記と異なり、はじめから他人に読まれることを前提に書いてあるので、読む側にもそれなりの注意が必要なのですが・・・・。)、統制使に返り咲いてから、後述する鳴梁の海戦までの記述は、その中でも白眉と言って良く、まさしくクライマックスを迎えた観があります。圧倒的な戦力差を有する日本水軍を迎え、兵士を鼓舞し、自らの心を奮い立たせる彼の姿には、自分が日本人であることを忘れ、胸が熱く目頭に涙が溜まります(毛沢東ではありませんが「尊敬すべき敵を見よ」というところでしょうか)。また、話がずれてきたようです。元に戻りましょう。
 慶長の役、漆川梁の大勝後、藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総等の水軍諸将は、全羅道を西進、李舜臣率いる朝鮮水軍の残存艦隊と接触するわけです。藤堂・脇坂らの水軍が、陸上部隊に合わせ西進するのは、全羅道にあった李舜臣の水軍を温存させ、手痛いしっぺ返しを喰らった文禄の役の反省によるものでしょうが、何よりも、朝鮮水軍主力の壊滅が、(水軍西進の)前提条件としてあったと考えるべきです。彼らの主たる目的は残敵掃討で功績を稼ぐことにあるとするのは想像が過ぎるでしょうか。日本水軍はその先鋒が九月六日に於蘭浦沖に達し、珍島付近にに布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍と接触します。
 李舜臣の『乱中日記』によれば、この闘いで朝鮮水軍は火砲を放って、日本水軍を撃退したとありますが、日本側の記述と前後の脈絡から考えると、これは現在で言う威力偵察であったと見てよいようです。日本側は無理な攻撃を仕掛けることなく引き上げ、大船が十二、三隻という朝鮮側の陣容をほぼ把握します。これには李舜臣も気づいたようで、後続の日本水軍の本隊の接近を知ると潮の流れと変化が著しい鳴梁に退き、十四日さらに本拠地の右水営沖に移っています。
 日本側の記録によれば、藤堂らは敵船団がこの水域の奥の潮流の激しい場所にいることを把握し、その捕獲を図ったとあります。前述したように、日本側諸将はこの闘いを残敵掃討戦と考えていたとみてよいようです。九月十六日、日本水軍はこの水域の潮流が激しいことから、大形の安宅船を外し、快速の関船主体で攻撃隊を編成します。朝鮮側記録では日本船百三十余隻とありますが、諸記録を総合する限り関船四十隻ほどと理解するのが正しい(このあたりは、ウキペディアの鳴梁海戦の記述が詳細に分析しています)ように思えます。江戸時代の水軍書を読むと、敵の大船を攻撃するとき、接舷するのは1隻か2隻で、それをやはり1、2隻が後方からやや離れて(射撃を含め)援護するのが適正な攻撃方法で、やたら多数で取り囲むことは(船の自由が効かなくなるから)やってはならないと記述されています。狭い水域にいる十二、三隻の敵船を攻撃するのに、四十隻はそういう意味で適正な数字でしょう。慣れない潮流の激しい水域で安宅船のような大型船を用いないのも、おそらくは正しい判断です。
 李舜臣は率いる板屋船十三隻でこれを迎え撃つわけです。最初に各船が日本側に砲撃をくわえたようですが、日本側にひるんだ様子は認められません。本文中これまで何度も繰り返してきたことですが、多数の敵に対したときの火砲の限界性(射程・発射速度の遅さ・命中率の悪さというか、よほど近距離ではない限りまず命中しない)がここで露呈していると言って良いでしょう。この時代の火砲は近接戦と量的な使用を前提としない限り、虚仮威し以上の意味を持っていません。『乱中日記』の記述によると日本船の接近を受けて、朝鮮側の船は逃走を開始したようです。(朝鮮船は他の闘いでもそうですが、日本船との接触を極度に恐れている気配があります。)一度敗北している部隊と言うこともあり、艦隊が崩壊しかかったわけですが、ここで李舜臣が古今類い希なリーダーシップを発揮します。自ら陣頭に立ち、戦闘を継続するとともに、逃走しかけた船の指揮官を叱責し、戦闘隊形を維持します。船が大型なこと、潮流を利用したこともあって、日本側の接舷切り込みを防ぎ、日本側の主将藤堂高虎が負傷、多数の戦死者をださせるとともに、日本船数隻が沈没、日本側の攻撃を防ぎきります。日が落ち、日本側の攻撃の手がゆるむと、脅しの火砲を発射、帆をはって水域奥に退き戦闘は終結します。日本側は損害が大きかったこと、また水路に不案内なため、追撃をあきらめます。残敵掃討戦は失敗しました。
 韓国側では、この戦いを鳴梁大捷と呼び日本に大勝した海戦とされ、日本水軍の参加兵力が軍船133隻、運送船200隻で、損失が沈没31隻、大破92隻、8000〜9000人が死亡したとしていますが、全く根拠のない「大本営発表」的な数字であることは断言できます。
 『乱中日記』には「賊船三十一隻撞破」とあり、比較的正確な数字と言えるでしょう。もっとも、李舜臣の報告は、例えば釜山泊地の戦闘で「日本船百隻を撃破」というふうに実数と明らかに異なる戦果が記される場合があります(実態として、釜山泊地の戦闘では李舜臣は戦果をあげることなく、損害のみ出して後退しています。)。ただこれも「日本船百隻」と闘って損害を与えたと読み替えれば、実態に則すわけで、日本船「三十一隻」に大きな損害を与えたと理解すれば、極めて正確な戦闘報告と言えるのではないでしょうか。前述の日本側攻撃隊の四十隻とも整合する数値です。(日韓ともに一部の歴史書では、この海戦以降、朝鮮水軍が制海権を盛り返したかのような書かれかたをするものが見られますが、これも全く根拠のない記述としか言いようがありません。その本の著者の史料に対する態度の良否をここで判断してもいいくらいだと思っています。)
 さて、朝鮮水軍が勝利をおさめたことは間違いありませんが、意外にも、この後の『乱中日記』の記述は部分的な空白を挟みながら、明らかに李舜臣(と彼の艦隊)が北上(後退)していることを示すのです。
 このあたりの事情は既にウキペディアの「鳴梁海戦」の記載が詳述しているところです。
以下、少々長くなりますが、引用します。
「この海戦と相前後して全州会議と井邑会議で決められた陸軍の方針に従って一度漢城付近まで進出した陸軍のうち全羅道西南部の掃討を担当する大名達が、九月中旬以降南下してきており、朝鮮水軍はそれらの日本陸軍部隊が西岸部に進出してきたために更に古郡山島までその後約一ヶ月の間、北上退避せざるを得なくなった。他方、朝鮮水軍の退却を受けて日本の水軍は海戦の翌日には朝鮮水軍の根拠地であった右水営を攻撃し、また対岸の珍島を攻略した。さらに陸軍に呼応して全羅道西南岸(現在の全羅南道西岸域)を制圧していった。(後に看羊録を残した姜コウが9月23日に藤堂水軍の捕虜となった地点は全羅道霊光の西岸である) 」(ウキペディア)
 一部の空白の後、『乱中日記』は日本軍によって荒らされた奪回後の右水営についての李舜臣の嘆きを記載しています。李舜臣は海戦での勝利にもかかわらず、その根拠地の全羅右水営を守ることはできませんでした。これも、繰り返してきたことですが、陸上に強く依存する朝鮮水軍(日本の水軍も似たりよったりですが)の場合、陸上を押さえられると必然的にその活動が封じられるわけです。
 さて、ウキペディアは鳴梁海戦について
「日本水軍の半島西岸への進出をいったん阻止した形ではあるが、陸軍が西海岸に進出したことにより李舜臣は全羅道北端まで撤退せざるを得ず、結局は制海権を失ったため、この海戦による戦略的な意味は見いだせない。朝鮮水軍の再進出は日本の陸軍の撤退を待たざるを得なかったため、鳴梁海戦は戦局の大勢には影響を与えなかった小戦闘と言えよう。」(ウキペディア)と評していますが、
私は、この評価は少し酷に過ぎる(ここまで言っておいて何ですが・・・)ように思います。
 なるほど、純粋に戦略的に見ればその通りなのかもしれませんが、より大局に立てば、朝鮮側にとってやはりこの勝利は二つの意味で大きかったと思います。一つは朝鮮水軍が全滅を免れ、後の水軍再建の基礎を残せたこと、そしてもう一つは(朝鮮水軍の再建とも深く関わりますが)李舜臣という優れた指揮官・軍人が日本側に敗れることなく逃げおおせたことです。
(やっぱり、未了。ああ・・・・・・。)
[2007年03月15日21時26分]
お名前: マック
ほとんどRESできない状態にあります。

資料の少ないテーマを土龍さんの要点を
まとめあげた内容に感服しているところです。

何か気のきいた書き込みをしたいと思ってい
ますが、最近とみに能力低下がはなはだしく
じれったい焦燥感でいっぱいです。

島津家の家譜なんかに戦いの実相があったり
また海将系の大名なんかの郷土研究家の何らかの
記載のある書物なんかを探したいと考えています。

マック


[2007年03月02日14時30分]
お名前: 興味深く拝見してます!
土龍さま、お久ししゅう。何時もながらご見識の豊かなお話しは拝見挿せて頂いております。
今後ともに、歴史の在り様を探訪することの意義の重さ、貴重なお話しに、資料(史料)の豊かさを感じております・今後共ご教示お願いします。
[2007年03月02日09時43分]
お名前: 土龍
ずいぶん、間を空けた投稿になってしまいました。
読んでくださる方、いるのかしら・・・・・。

 慶長の役を前に命令無視のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免、彼のライバルと目される元均が朝鮮水軍を率いることになります。李舜臣を陥れた上、日本軍相手に積極的な出撃を渋り、出撃したところで日本側に壊滅的な打撃を受けた元均は無能・臆病者・愚将扱いされていますが果たしてそうでしょうか?
 彼は陸上軍の司令官に、安骨浦に陣取る日本軍に対し水陸協同で攻める策を提案し、戦意無しとして出撃を強要されるわけですが、元均の策はそんなに消極的なものだったのでしょうか?李舜臣の「乱中日記」に記された日本水軍への攻撃で、李舜臣の水軍が日本軍泊地の目と鼻の先に停泊し攻撃を繰り返しているのに驚かされます。倭寇に対する沿岸防衛艦隊としての性格の強い朝鮮水軍は敵の支配領域に長躯侵攻する能力が無く、常に近接地に拠点をおいて武器・水・食料を補給し休養をとる必要があったのです。
 もちろん当然日本側がこうした状況を傍観していたわけではありません。文禄慶長の役で日本軍が構築した日本式の城郭を「倭城」と呼びますが、倭城の分布を地図上に落としてみると朝鮮の沿岸部を埋め尽くしているのに驚かされます。日本側は朝鮮水軍の攻撃発起点からの距離が短いことに目を付け、また水軍の泊地に近い浦々が朝鮮水軍に利用されることを防ぐために、船団が停泊可能な箇所の殆どに陣地を築城し、その利用を阻んだわけです。近代戦の「制海権」という言葉をこの闘いに使うことはできません。陸上が押さえられると必然的に水軍の活動が封じられるわけなのです。
 陸上基地が無ければ水軍の活動が困難になるのですから、水陸協同による攻撃と水軍の拠点の確保は必須です。むしろ責められるべきは、水軍の実態を良く知らず、無謀な出撃を強いた司令官自身にあるはずです。解任された舜臣自身も在任中は日記で、彼が突きつける無理難題について水軍への理解の浅さを嗤いあるいは憤っています。
 もっとも、見方を変えてみれば、負けがこんでばかりの陸上戦に対し、唯々「勝った」「勝った」「撃滅した」と景気のいい戦勝報告を繰り返し、彼我の水軍の実態をきちんと報告することなく、朝鮮の王朝に「我が水軍は無敵である」との印象を植え付けた舜臣や元均に責任が無かったかといえば、嘘になるでしょう。もちろん、舜臣は日本側が水上戦での対策を講じてくることも報告していますが・・・・・、「負ける」と言えないのは古今の軍人の性なのでしょうか。

 そうこうしているうちに、叱責を受けた元均が配下の水軍すべてを率いて日本軍の拠点である釜山泊地へ出撃、日本水軍との全面対決に臨むこととなります。ここからは少し詳細に事態を追っていきましょう。
 慶長(丁酉)2年7月5日、元均率いる朝鮮水軍は巨済島の漆川梁(チョルチョルリャン)に停泊、ここを攻撃発起点とします。水軍は元均が拘った安骨浦の日本軍拠点、同じく日本軍拠点となっていた加徳島を左に見ながら、6日同島玉浦、7日未明には釜山近くの多大浦に進出、日本船8隻(船種不明)を攻撃、焼き捨てています。(この8隻は、船員が抵抗することなく陸へ逃げているので軍船ではなく、輸送船団だった可能性が高い。)同日、元均は釜山沖へ進出、釜山絶影島沖合で日本水軍の本隊と遭遇するのです。ここで日本水軍は朝鮮の軍船に近づいては離れ、近づいては離れるという戦術をとったようです。朝鮮水軍はこれを追撃しますが、陣形が乱れ、艦隊は四散(沖合でのこの状況は、亀船を含め朝鮮水軍の軍船の特質を考える上で示唆的です(後述))。なお、8日の戦闘で直接指揮をとらなかったとして、11日に元均は昆陽の司令部に呼び出され杖罰を受け叱責されています。この段階で艦隊が四散し組織的な戦闘が困難になったため、元均は周囲の兵船を取りまとめ、漆川梁の入り口である永登浦へ後退します。しかしながら朝鮮水軍の給水を見越していた日本側に陸上を押さえられ、15日夜半、漆川梁を挟んだ巨済島対岸の小島温羅島へとさらに退却、16日払暁日本水軍は疲弊した朝鮮水軍を奇襲、水軍将のほとんどは戦死、陸に逃れた元均も、控えていた島津勢に討ち取られ朝鮮水軍は事実上(「大本営」的発表ではなくて、実態として)「壊滅」するのです。世に言う「漆川梁(チョルチョルリャン)の海戦」です。
 ここまで見てくるとこの戦いの主戦場は、漆川梁(チョルチョルリャン)ではなく、むしろ釜山沖絶影島付近であることに気が付きます。日本側の戦勝報告も、朝鮮船を全滅させた15日夜〜16日未明の漆川梁での闘いについてなされていますが、実際の戦闘は7日以降の戦闘で朝鮮水軍が四散してしまったことによって決着がついているのです。漆川梁の戦闘は言ってみれば残敵掃討にすぎません。
 罷免され官職が無いまま白衣従軍していた李舜臣の日記には、8日以降、次々と入ってくる水軍の敗報が書き記され、緊迫する事態と彼の無念が滲み出ます。
14日の記録「九日(8日の誤り)、倭の水軍と我が水軍が絶影島沖で戦闘状態に入り、我が方の戦船5隻が漂流して豆毛浦に漂着、7隻は行方不明。」
15日(前述のようにこの日の夜、朝鮮水軍は全滅した。)の記録「水軍20隻が倭賊に破れた。」
16日の記録(舜臣は水軍の壊滅をまだ知らない。)軍船の漕ぎ手で、戦闘から逃げてきた世男(奴隷身分)の言ったこととして「(略)闘おうとしたが、倭船は散り散りになって回避し捕縛することが出来なかった。自分(世男)の乗った船と他の6隻は船を制御することができず、漂流して西生浦に至り、上陸すると倭兵にほとんどが殺されてしまった。」
18日に李舜臣のいる司令部に水軍全滅の報告が入ります。

 連戦連勝(?)していたはずの朝鮮水軍が、一度の海戦で全滅してしまった理由は何か?
従前より「前司令官李舜臣がすこぶる有能だったのに対し、そのあと司令官になった元均が極めつけに無能だったから。」と説明され、また納得されているようですが、事はこのように簡単ではない。むしろ日朝両国の水軍とそれを構成する軍船の性格によるものと理解すべきです。今一度両国の軍船の構造に立ち戻ってみます。朝鮮水軍の主力は板屋船−日本側の記録(悲しいかな、朝鮮側の記録よりも日本側の記録に構造上の詳細が記されています)によれば、その大きさは平均五百石くらいから大型船で千石くらい(日本の安宅船同様に、どうも大小あるようです。)、船体は堅牢な箱形、船体上に名称の通り漕ぎ手を守る装甲された板屋を設け、さらに板屋上に甲板を貼り戦闘員を乗せます。朝鮮の役の従軍日記『高麗帰陣物語』の作者はこの板屋船を「いかにも良く作りたる軍船にて」と絶賛しています。(なお、同氏は援軍にきた明軍の軍船(帆船)を「軍船には向き候はず」と評価し、日本側の軍船観を示していて興味深いです。)帆は筵帆1ないし2本ですが、主推進力(特に戦闘時)は櫓走と考えられます。主兵装は火砲と半弓で、恐らく(以下は、私の想像です)大型砲(天字砲・地字砲)は船体舳先に、他の火砲は板屋上甲板に装備されたのではないでしょうか。構造的に日本側の安宅船に類似した形態です。−これに対し、日本側は安宅船(舳先に火砲を装備しながらその主兵装を鉄炮においています。)を中心に船隊を組みますが、主戦力はより快速の関船です。関船の大きさは(江戸期には大型化しますが)この当時おそらく大半が五百石以下、船体は長大な船首材「水押し」を舳先に置いてこれに幅の狭い船底材と上中下三段からなる舷側材を取り付けた構造です。平断面とも極めて水切りの良いスマートで軽快な形態を呈しますが、堅牢さには難があるようです。特に、船首材の「水押し」が構造材でもありますので、舳先を相手にぶつけるような体当たりには向いていないという指摘もあります。この船体にやはり漕ぎ手を保護する「やぐら」を載せますが、これは「垣立」といって楯板を立てるためのフレームにすぎず、戦闘あるいは指揮用の舞台は、船体中央に別途設けてあります(鋭いヒトなら、この「やぐら」がコタツの「やぐら」と同様のフレームを意味する言葉であることにお気づきでしょう。)。「やぐら」「垣立」上にも甲板が貼られ、特に大型船では舷側に沿って戦闘舞台となる通路「犬走り」が設けられますが、板屋船とは異なり、全通の戦闘甲板となるものはありません。「やぐら」に立てられる装甲であるところの「楯板」も薄く、信松院に伝わる関船の模型では確か竹で代用してあったと記憶しています。帆は木綿帆1本、江戸期に改良された木綿帆ほど丈夫ではありませんが、軍船にのみこれが使用されていることから、筵帆との性能差は歴然としていたと考えて良いでしょう。もちろん、戦時には櫓走です。快速ではあるが脆弱な構造の日本船というか関船が、李舜臣率いる板屋船中心の水軍に破れたのはご承知の通り。
 さて、堅牢な構造の板屋船ですが、日本船に対し大きく三つの欠点があります。まず構造上、トップヘビーとなるため極めて風浪に弱い。これは同じ構造の日本側の安宅船にも共通する欠点で、戦国時代の文書には虎の子の安宅船が浪や風に弱いため嵐にあって喪失しないよう心配した書状が残されています。特に李舜臣の『乱中日記』には、嵐にあって多くの板屋船が破損してしまう記録がでてきます。もう一つの欠点が平断面とも箱形を呈するため、水切り・指針性がわるく沖乗りに適さないということです。筵帆であることから、帆走にも不安が残ります。ついでに言っておけば上甲板総てを亀甲形の装甲で覆った亀船は、おそらくその極地です。もし、謂われるとおり亀甲上に刀錐を植え付けていたとしたら、(通路があっても)操帆の困難性は筆舌に尽くしがたいものになります。足を滑らせて(ただでさえ歩きにくい曲面の甲板)、串刺しになったのでは笑い話になりません。(ちなみに、亀船=亀甲船に関する江戸時代の水軍書に、この船は沿岸で使用するもので、沖での戦闘には向かないという記述があり、この問題についてとても示唆的です。)三つめの欠点は前述の性格に関連しますが、行動半径が恐ろしく狭いということになります。風浪に弱く沖乗りが苦手で漕ぎ手が頼り、武器は火薬を莫迦喰いする火砲中心ということになれば、長躯敵地に侵攻するということはもうほとんど無理と言ってよいでしょう。朝鮮の水軍基地が沿岸各地に多数配置されていること、日本軍泊地を攻撃する李舜臣の攻撃発起点・策源地が日本軍泊地の眼と鼻の先にあることはその傍証となるでしょう。結論から言えば、謳われるところの「重装甲の大型船中心」・「火砲装備が充実」した朝鮮水軍とは、倭寇を対象として編成された“沿岸防衛艦隊”なのです。(少々皮肉を言わせてもらえば、本当に「制海権」を握ったと主張されるのなら、肥前名護屋の秀吉本陣を長躯襲ってみればよろしい。)それゆえ、日本軍に攻撃発起点となる停泊地を陸上から押さえられると李舜臣が指揮官だった時代から、朝鮮水軍の目立った活動が絶えてしまっています。
 朝鮮水軍と板屋船に良いとこ無しだった関船ですが、速力・運動性・沖乗りでは遙かに優れています。朝鮮水軍を“沿岸防衛艦隊”と称すれば、関船を主戦力とする日本水軍はいわば“外海艦隊(航海術が無いので“外洋艦隊”ではありません念のため)”と称することができるでしょう。
 ここまでくれば、元均が水陸の共同作戦を主張し水軍のみでの出撃をしぶったこと、出撃後、釜山沖で速力・運動性にはるかにまさる日本水軍に翻弄され、敗北ついには全滅したことの理由は明らかでしょう。
 装甲・火力で優れながら、トップヘビーで風浪に弱く、水切り・指針性のわるい、さらに加えれば長距離の侵攻能力を欠いた軍船を率いた元均は、してはならない(そして彼の意志ではなかった)出撃をし、破れるべくして破れたのです。李舜臣の『乱中日記』の水軍敗北後の記述は微妙です。(私の深読みのしすぎかもしれませんが)統制使時代の日記中、とにかく罵り続けた元均への批判が全く無いのです。
(すいませんやっぱり未了)

[2007年03月01日21時59分]
お名前: 
ずいぶん、間を空けた投稿になってしまいました。
読んでくださる方、いるのかしら・・・・・。

 慶長の役を前に命令無視のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免、彼のライバルと目される元均が朝鮮水軍を率いることになります。李舜臣を陥れた上、日本軍相手に積極的な出撃を渋り、出撃したところで日本側に壊滅的な打撃を受けた元均は無能・臆病者・愚将扱いされていますが果たしてそうでしょうか?
 彼は陸上軍の司令官に、安骨浦に陣取る日本軍に対し水陸協同で攻める策を提案し、戦意無しとして出撃を強要されるわけですが、元均の策はそんなに消極的なものだったのでしょうか?李舜臣の「乱中日記」に記された日本水軍への攻撃で、李舜臣の水軍が日本軍泊地の目と鼻の先に停泊し攻撃を繰り返しているのに驚かされます。倭寇に対する沿岸防衛艦隊としての性格の強い朝鮮水軍は敵の支配領域に長躯侵攻する能力が無く、常に近接地に拠点をおいて武器・水・食料を補給し休養をとる必要があったのです。
 もちろん当然日本側がこうした状況を傍観していたわけではありません。文禄慶長の役で日本軍が構築した日本式の城郭を「倭城」と呼びますが、倭城の分布を地図上に落としてみると朝鮮の沿岸部を埋め尽くしているのに驚かされます。日本側は朝鮮水軍の攻撃発起点からの距離が短いことに目を付け、また水軍の泊地に近い浦々が朝鮮水軍に利用されることを防ぐために、船団が停泊可能な箇所の殆どに陣地を築城し、その利用を阻んだわけです。近代戦の「制海権」という言葉をこの闘いに使うことはできません。陸上が押さえられると必然的に水軍の活動が封じられるわけなのです。
 陸上基地が無ければ水軍の活動が困難になるのですから、水陸協同による攻撃と水軍の拠点の確保は必須です。むしろ責められるべきは、水軍の実態を良く知らず、無謀な出撃を強いた司令官自身にあるはずです。解任された舜臣自身も在任中は日記で、彼が突きつける無理難題について水軍への理解の浅さを嗤いあるいは憤っています。
 もっとも、見方を変えてみれば、負けがこんでばかりの陸上戦に対し、唯々「勝った」「勝った」「撃滅した」と景気のいい戦勝報告を繰り返し、彼我の水軍の実態をきちんと報告することなく、朝鮮の王朝に「我が水軍は無敵である」との印象を植え付けた舜臣や元均に責任が無かったかといえば、嘘になるでしょう。もちろん、舜臣は日本側が水上戦での対策を講じてくることも報告していますが・・・・・、「負ける」と言えないのは古今の軍人の性なのでしょうか。

 そうこうしているうちに、叱責を受けた元均が配下の水軍すべてを率いて日本軍の拠点である釜山泊地へ出撃、日本水軍との全面対決に臨むこととなります。ここからは少し詳細に事態を追っていきましょう。
 慶長(丁酉)2年7月5日、元均率いる朝鮮水軍は巨済島の漆川梁(チョルチョルリャン)に停泊、ここを攻撃発起点とします。水軍は元均が拘った安骨浦の日本軍拠点、同じく日本軍拠点となっていた加徳島を左に見ながら、6日同島玉浦、7日未明には釜山近くの多大浦に進出、日本船8隻(船種不明)を攻撃、焼き捨てています。(この8隻は、船員が抵抗することなく陸へ逃げているので軍船ではなく、輸送船団だった可能性が高い。)同日、元均は釜山沖へ進出、釜山絶影島沖合で日本水軍の本隊と遭遇するのです。ここで日本水軍は朝鮮の軍船に近づいては離れ、近づいては離れるという戦術をとったようです。朝鮮水軍はこれを追撃しますが、陣形が乱れ、艦隊は四散(沖合でのこの状況は、亀船を含め朝鮮水軍の軍船の特質を考える上で示唆的です(後述))。なお、8日の戦闘で直接指揮をとらなかったとして、11日に元均は昆陽の司令部に呼び出され杖罰を受け叱責されています。この段階で艦隊が四散し組織的な戦闘が困難になったため、元均は周囲の兵船を取りまとめ、漆川梁の入り口である永登浦へ後退します。しかしながら朝鮮水軍の給水を見越していた日本側に陸上を押さえられ、15日夜半、漆川梁を挟んだ巨済島対岸の小島温羅島へとさらに退却、16日払暁日本水軍は疲弊した朝鮮水軍を奇襲、水軍将のほとんどは戦死、陸に逃れた元均も、控えていた島津勢に討ち取られ朝鮮水軍は事実上(「大本営」的発表ではなくて、実態として)「壊滅」するのです。世に言う「漆川梁(チョルチョルリャン)の海戦」です。
 ここまで見てくるとこの戦いの主戦場は、漆川梁(チョルチョルリャン)ではなく、むしろ釜山沖絶影島付近であることに気が付きます。日本側の戦勝報告も、朝鮮船を全滅させた15日夜〜16日未明の漆川梁での闘いについてなされていますが、実際の戦闘は7日以降の戦闘で朝鮮水軍が四散してしまったことによって決着がついているのです。漆川梁の戦闘は言ってみれば残敵掃討にすぎません。
 罷免され官職が無いまま白衣従軍していた李舜臣の日記には、8日以降、次々と入ってくる水軍の敗報が書き記され、緊迫する事態と彼の無念が滲み出ます。
14日の記録「九日(8日の誤り)、倭の水軍と我が水軍が絶影島沖で戦闘状態に入り、我が方の戦船5隻が漂流して豆毛浦に漂着、7隻は行方不明。」
15日(前述のようにこの日の夜、朝鮮水軍は全滅した。)の記録「水軍20隻が倭賊に破れた。」
16日の記録(舜臣は水軍の壊滅をまだ知らない。)軍船の漕ぎ手で、戦闘から逃げてきた世男(奴隷身分)の言ったこととして「(略)闘おうとしたが、倭船は散り散りになって回避し捕縛することが出来なかった。自分(世男)の乗った船と他の6隻は船を制御することができず、漂流して西生浦に至り、上陸すると倭兵にほとんどが殺されてしまった。」
18日に李舜臣のいる司令部に水軍全滅の報告が入ります。

 連戦連勝(?)していたはずの朝鮮水軍が、一度の海戦で全滅してしまった理由は何か?
従前より「前司令官李舜臣がすこぶる有能だったのに対し、そのあと司令官になった元均が極めつけに無能だったから。」と説明され、また納得されているようですが、事はこのように簡単ではない。むしろ日朝両国の水軍とそれを構成する軍船の性格によるものと理解すべきです。今一度両国の軍船の構造に立ち戻ってみます。朝鮮水軍の主力は板屋船−日本側の記録(悲しいかな、朝鮮側の記録よりも日本側の記録に構造上の詳細が記されています)によれば、その大きさは平均五百石くらいから大型船で千石くらい(日本の安宅船同様に、どうも大小あるようです。)、船体は堅牢な箱形、船体上に名称の通り漕ぎ手を守る装甲された板屋を設け、さらに板屋上に甲板を貼り戦闘員を乗せます。朝鮮の役の従軍日記『高麗帰陣物語』の作者はこの板屋船を「いかにも良く作りたる軍船にて」と絶賛しています。(なお、同氏は援軍にきた明軍の軍船(帆船)を「軍船には向き候はず」と評価し、日本側の軍船観を示していて興味深いです。)帆は筵帆1ないし2本ですが、主推進力(特に戦闘時)は櫓走と考えられます。主兵装は火砲と半弓で、恐らく(以下は、私の想像です)大型砲(天字砲・地字砲)は船体舳先に、他の火砲は板屋上甲板に装備されたのではないでしょうか。構造的に日本側の安宅船に類似した形態です。−これに対し、日本側は安宅船(舳先に火砲を装備しながらその主兵装を鉄炮においています。)を中心に船隊を組みますが、主戦力はより快速の関船です。関船の大きさは(江戸期には大型化しますが)この当時おそらく大半が五百石以下、船体は長大な船首材「水押し」を舳先に置いてこれに幅の狭い船底材と上中下三段からなる舷側材を取り付けた構造です。平断面とも極めて水切りの良いスマートで軽快な形態を呈しますが、堅牢さには難があるようです。特に、船首材の「水押し」が構造材でもありますので、舳先を相手にぶつけるような体当たりには向いていないという指摘もあります。この船体にやはり漕ぎ手を保護す・
[2007年03月01日21時55分]
お名前: 水軍丸船長
土龍さま、何時もながらご見識の深さ感服しております!・・・さて、今年は九州筑紫の国々に出向きまして、伊予水軍・由縁の地・・・豊後の国の玖珠森藩久留島(来島)氏の史跡と同じく臼杵藩稲葉氏の地を訪問しました。伊予の来島通総(河野氏)の朝鮮之役の史実や、亀甲船に刺激されて、研究されたのか?周防矢代島にはスクリュウに似たる船型の図面史料も残されて居ると聞きます。・・・日本の水軍瀬戸内村上水軍の伝統の造船技術・戦闘技術・戦術等にも、この亀甲船は脅威の機動力と戦闘能力を備えた先進技術の船舶(戦艦)、少なからず脅威と興味を呼び起したのでは無いでしょうか?!。 今後ともご教示お願いします。

[2006年11月18日10時46分]
お名前: 土龍
すいません。
久しぶりに覗き込んだのですが、
書き込みすぎて、
どうも議論を途絶させてしまったようです。
申し訳ありません。
せっかく、面白いお題なので、
自分なりに判っているつもりになっている範囲は
書き込んでみようと思います。
もう一度、お話しが活性化すればと思うのですが・・・・。
前回に引き続き、読みにくい点はご容赦ください。
さて、本題となる文禄慶長の役(壬辰倭乱)における水軍戦の実相です。
軍船について、日本側に役後のものを中心に八王子信松院の安宅・関船に代表される精巧な模型、船大工による木割図、水軍書に登場する絵図(これはわりあい不正確なものが多い)、「肥前名古屋城図」をはじめとする絵図(これも玉石入り交じる)等多数の資料が残され、その姿をほぼ窺い知ることが出来るのに対し、朝鮮側の軍船に資料が少ないことに驚かされます。彼の民族の誇りたる「亀船」にしたところで絵図が正確とは言い難い数点あるのみですし、主戦力の「板屋船」もこれまた不正確な絵図とどうにか「木割図」と呼べる図が存在するのみです。(このへんは李氏朝鮮の人々特に官僚・識字階級が、儒教に傾倒し、軍事や工学的な問題に関心が低いせいなのでしょうか)(その一方で「倭賊」の船を「撃滅した」という大本営発表的な記録が検証もなく、さらに「制海権を取ったという」尾鰭も付いて現在までまかり通ってしまうのですから、悲しい限りです。)こうした中で、近年邦訳が出ました金在瑾先生の『亀船』(邦題『亀甲船』)は僅かな資料から実証的に当時の朝鮮水軍の研究した出色の本です(邦訳はこの問題に関心がある人の必読本の一つでしょう。もちろん、内容がやはり「忠武公=李舜臣」賛美一色であったり、「日本兵」を「勇敢で死を恐れない」と言った一方で「臆病」であると侮蔑する半島的ダブルスタンダード、日本側資料の軽視(無視しないだけ偉いか?)(ただし、「安宅船」についてはほとんど無視。板屋船と日本の関船を比較してもなあ・・・。)は随所にこれでもかと盛り込まれてはおりますが、それもご愛敬です。亀船の性能限界や板屋船の戦力としての重要性を指摘したり、文献に基づき亀船の姿を復元するなど、半島「研究者」の本としては至極まともです。)。マックさんをはじめ、このスレでの刺激的な議論もこの本の直接・間接の影響下にあるのでしょう。
 話をもとに戻します。ここでは主に金先生の本に基づきながら朝鮮の軍船、特に主戦力である「板屋船」と「亀船」ついて見ていきましょう。まず船体ですが、日本船が前にも言いましたように「かわら」と呼ばれる底板と「たな」と呼ばれる3枚の舷側材で船体を造り、梁で舷側材を繋ぐという構造をとるのに、朝鮮の船は幅の狭い厚板(ほとんど角材に近い)を平らに並べて船底を造り、舷側も同様の材を連ねて作ります。和船が「たな」板3枚で舷側を作るのに比べると、まるでログハウスのような形状となるわけです。和船(関船や弁財船)が「水押し」と呼ばれる大きな船首材に舷側の「たな」板を固着して、水切りのよいスマートな船形をとるのに対し、朝鮮の船は舷側材に方形の板の両側縁を固定した箱形の船首を作ります。ただし同様の箱形船首は、和船でも伊勢船=安宅船の「戸板造り」(朝鮮船よりややスマートですが)に見ることが出来きます。重ねた舷側材を船梁でつないで支えるのは、日朝の船とも同様です。形態上朝鮮の船が平底・箱形で、和船が平断面ともに水切りが良いスマートな形状を呈することを除けば、驚くべきことに(竜骨と肋骨に舷側材を貼った西洋船や隔壁構造中国のジャンクと比較し)、実のところ和船と朝鮮の船は兄弟のように良く似ているのです。ついでに述べておくと、朝鮮の船同様に幅の狭い厚材を連ねて平底・箱形の船体をつくるやりかたは「北国船」に使われた「面木造り(おもきづくり)」(同様の構造は列島の日本海沿岸に分布する)に見ることができます。船材は朝鮮の松に対し和船は杉(安宅船あるいは他の船でも条件がゆるせば)楠が使用されます。朝鮮における松材の使用は、軍船としての堅牢性を志向したというより単に国土に松しか生えていないという伐採が続いた結果生じた植生上の理由でしょう。和船の杉も生態上・また板が得やすいという経済上の理由が一番大きいと思われます。楠は堅牢なうえ、腐食につよく、防虫効果(船喰い虫に強い)もありますが、量的な問題がネックで、多用出来なかったと考えられます。
 板屋船の船梁は数段にわたって渡されますが、一番上の船梁は舷側から突き出させ漕ぎ手の足場にするとともに、船の上部構造の基礎とします(この点も日朝共通。ついでに、舵の構造も両者共通します)。この船体の上に漕ぎ手を格納する「板屋」を作り、兵士が活動する上甲板を張り、さらに兵士を守る囲い(女墻)と見張り所と指揮所を兼ねた望楼をつくれば「板屋船」となります。笑ってしまいますが、絵図に出てくる「板屋船」のその姿は日本の安宅船そっくりです。李舜臣の『乱中日記』をはじめ朝鮮側の記録にも日本側が「板屋船」そっくりの大形船を使用している旨が記録されています。(もっとも、漕ぎ手を保護して、敵船を上から見下ろして闘おうとすれば、同じ構造になるのは、どこでもいっしょなんですが・・・。)金先生によれば、この「板屋船」の上甲板を外し、亀甲形の防御甲板を張ったのが「亀船」となりますが、両船種の大きさや「亀船」の出現経緯からすれば、おそらく正しい推定でしょう。
 日朝双方の船の相違点をまとめれば、前述のように和船の水切りの良い平断面形に対し、「板屋船」は平底で平面的にも箱形を呈すること、和船(特に軍船)が木綿帆を使用するのに対し、ムシロないし網代の折りたたみ帆を使用すること(ちなみに、金先生は櫓走ならともかく、帆走性能で朝鮮の船が和船に優れると書かれていますが、根拠が示されておらず実証的ではありません。単帆の和船の速度は、二本マストのブリッグよりも速かったという江戸時代の記録があります。単帆とはいえ、木綿帆の和船の帆走性能はすばらしいものがあったようです。)櫓が和船が一人が漕ぐ小櫓、大櫓でも二人で漕ぐのに対し、朝鮮の船が5〜6人で漕ぐ大櫓である点(ただし、櫓の総数は少なくなる)、厚板を連ねた箱形船体の朝鮮船のほうが、棚板構造の和船より丈夫とまとめられるでしょう(ただ、安宅船クラスの大型船の場合、棚板や船底材「かわら」も相当厚いものが使用されますので(狭山池の発掘では慶長期の安宅船の転用材と見られる板材の暗渠が発見されています。)、板材の厚さからすると、構造的にやや劣る程度で、実戦面でさほど弱かったとも思えませんが・・・・。また、言われているように、安宅船に防水用の区画があったとすれば、船体強度は更に増すことになります。ただ現存する信松院に現存する文禄・慶長の役の安宅船の模型を実見していませんので、当該戦役時の安宅船にそのような防水区画が存在したかは未確認です。
 次は武装です。「板屋船」「亀船」の基本的な武装となるのは「天字銃砲」「地字銃砲」「玄字銃砲」「黄字銃砲」「勝字銃砲」の各種火砲と兵士の持つ半弓です。4種の銃砲のスペックは下記のとおりですが、
「天字銃砲」銅製、口径13p、砲身長130p、射程96m
「地字銃砲」銅製、口径10p、砲身長88p、射程64m
「玄字銃砲」鉄製、口径5.7p、砲身長80p、射程160m
「黄字銃砲」鉄製、口径4.3p、砲身長52p、射程 不明
「勝字銃砲」鉄製、口径2p、砲身長56p、射程 不明
(そういえば、多くの議論で船のスペックばかりが問題にされ、武装が議論されていないのは不思議です。)
 基本的には、鉄丸を撃ち出す「天字銃砲」以外は、火箭=棒火矢という焼夷薬を付けた火矢を捕鯨砲のように射出するもので、相手の船を撃沈できる性格のものではありません。「天字銃砲」でも火箭を撃つこともあり、「天字銃砲」「地字銃砲」射出の火箭は「大将軍箭」、「玄字銃砲」射出の火箭は「次大箭」とあるので、火箭にも大小があるようです。加えて、「勝字銃砲」は口径が小さく、火箭の射出器というより、日本軍の記録にある「手筒矢」(おそらくは銃筒から射出する短い矢)を撃ち出すものと考えられます。また、明の嘉靖年制の銘が入った「仏郎機」の伝世品が朝鮮にありますが、使用の記録が上記銃砲ほどはっきりしていません。なお、朝鮮水軍が明の水軍から火箭の供与を受けていることから、明と朝鮮の火砲のスペックが共通すると考えられます。上記4種の銃砲は明からの購入か、今で言うライセンス生産に近いものと考えるべきでしょう。なお、これらの火砲の射程の短いことに驚かされます。これは、鋳造技術と鍛造技術の未熟さに起因すると見て間違いないでしょう。記載されているのが最大射程であるとすれば、目標物を射通し、火災を起こさせる貫通力を維持する有効射程はさらに短いと見られます。口径と装薬の量にもよりますが、日本軍の火縄銃が最大射程200〜100m、有効射程80〜50mと比べれば明らかに短いのです。通常言われる朝鮮側の「アウトレンジ」は成立しません。

 対する日本軍はご存知の通り「火縄銃」が主体で、これに「石火矢」「大筒」「仏郎機」が加わります。「大筒」は前装砲、「仏郎機」は後装砲で、他にも文書や軍記物に「大鉄砲」という文字も見えます。なお、「大鉄砲」が現在見るような(火縄銃を大型化した大口径銃)「抱え大筒」や「据え筒」なのか、上記のごとき大砲を指すのか、戦国期の文献に記載される脈略からは、はっきりしません。記録する側にも明らかな混乱が認められます。ただ、朝鮮側の記録に大型銃によるものと考えられる被害があることから、海戦での大口径銃の使用は間違いないでしょう。
 また、これもよく知られるように、戦国期の記録には「火鞠」「焙烙」と呼ばれる手投げ弾あるいは焼夷弾様のもの、また火箭=棒火矢様のものが使用された記録(例えば、毛利家の家臣が「鉄砲火矢」を学んだことを示す手紙等)が散見されます。また、江戸時代の砲術では棒火矢の使用が行われています。江戸期の棒火矢を朝鮮の役による学習とするのは単純過ぎる理解でしょう。戦国期からの長い実戦と研究があったと考えるべきものです。しかしながら、朝鮮の役での日本軍による同種兵器の使用を示唆する記述は限定的です。

 こうした武器と戦術を持つ両軍の勝利への方程式は次のようなものになります。

 日本側の船の装備が鉄砲を主体とし、大砲の装備が貧弱であったことはよく知られていますが、前にも書きましたように大砲の発射可能な回数、命中精度、破壊力の貧弱さを考慮に入れればこれは当然のことです。実際の所、よほどの近接戦でない限り、虚仮威し以上の役割は果たさないはずですから、日本側にとって現実的な戦術は、銃撃で圧倒し、接舷切り込みをかけるという方法になります。
 日本側の水軍の編成を見ると500〜1000石クラスの安宅船を中心に関船が船団を組んでいます。安宅船を中心とした火力で銃撃、快速の関船で敵船を囲い込んで切り込み、あるいは信長の水軍に対してそうしたように焙烙火矢を打ち込んで焼き討ち、混乱させるということになるでしょう。こうした鉄炮による射撃、白兵戦という戦闘方法は、当時の陸上戦闘の延長線上にあるものと理解していいでしょう。艦隊の主体は500石以下の関船、勝利の鍵はこれらの船の速力と運動性にあります。

 一方、大砲の装備が良く日本軍を圧倒したかに言われる朝鮮水軍ですが、日本軍の大砲に相当する銃砲は上記「天字銃砲」「地字銃砲」の二つが相当するにすぎないのです。またこれも前に述べたかもしれませんが、朝鮮側の記録に「撃沈」の二文字は出てまいりません。出てくるのは「焚焼」と「撞破」です。つまり敵船を焼くか、構造的に優れた船体を利用して、体当たりで破壊(撃沈ではありませんよ。念のため。)するかなのです。つまり大小各種銃砲から火箭を射出し敵船を焼き払うことを意図するのが朝鮮側の戦術です(もっとも、火箭だけで簡単に船が火事になって、焼き払えるかは疑問です。船員だって消火活動しないわけではないし、舷側に刺さった火箭を叩き落としたりしています。ではなぜ「焚焼」なのかは後述します。)。火箭や砲弾で敵船が混乱したら近寄って半弓で矢を雨のように射かけます。文禄慶長の役直前の朝鮮水軍の主目的は倭寇に対する沿岸防衛です。沿岸部各所に防御された水軍基地が設けられ、艦隊が停泊していました。(水軍基地は驚くほど多いのですが、これは後述する朝鮮水軍の軍船の行動範囲の狭さと関連するものと思われます。)火力の運用と倭寇の切り込みを防ぐためにも板屋船のような大型船が有効です。朝鮮水軍は大型船で構成した艦隊で入り組んだ朝鮮沿岸を巡回し、倭寇の船を発見するとこれを包囲し攻撃したものと思われます。

 こうした両軍が衝突するとどうなるでしょう。日本側が朝鮮側の船団から射出される火箭と半弓の矢をかいくぐり、近接して銃を射撃(有効打のためにはやはり近接する必要があります。特に、日本の火縄銃射撃の特筆は、西洋風の弾幕射撃ではなく、狙撃型なのでなおさらです。)、甲板上の射手を圧倒した上、周囲を取り囲み、接舷して櫓同士を咬ませるか槍のような長柄の武器を差し込んで船の動きを止め、(5〜6人で動かす朝鮮船の大櫓(オールではなく櫓です。)が極めて力があり、これを止めるのに難渋する話が日本側兵士の記録にあります。)火矢・棒火矢を打ち込んで混乱させるか、さらに乗り込んで白兵戦に持ち込めれば、日本側の勝利。
 この間、日本船の甲板に朝鮮側の火箭が落ち、銃兵の身につけた火薬に引火、暴発や誘爆がおこれば船上は大混乱に陥ったことでしょう(従来、あまり注目されていませんが、火縄銃を持った兵士は火薬と火縄を常に身につけているため誘爆の危険性が付きまといます。現在でも火縄銃の射撃は、銃手同士あるていど距離をおいて実施しなければならないようです。私は、火箭の脅威は、船体そのものが燃焼されることよりも、銃兵の誘爆・暴発とそれによる船上の混乱にあると考えています。釜山沖の海戦において、九鬼嘉隆が船上に二重三重に不燃性の絹布を張り火箭を防ぐ話が残っていますが、これが銃兵への「火箭」対策だとすれば合点がいきます。)。ここに朝鮮船が近づいて半弓で矢を雨のように射かければ、朝鮮側の勝利となります。(つまり、火箭で船そのものが燃え上がっている事例は少ないと考えるべきでしょう。)乗組員達が船から逃げ出したら、朝鮮側は矢を受けて死んだり水死した兵士の頸を切り、主のいなくなった船に火をかけて焼いています。これが「焚焼」です。朝鮮側からの接舷切り込みの事例が見あたらないのは、朝鮮兵が臆病だからではなく、彼らの刀が全く切れず、また他の白兵戦用の武器が未発達だからでしょう。(日本側の記録にも、朝鮮の刀は「刃引き」をしたように全く切れないという記述が出てきます。)もっとも、接舷切り込みを行う日本側も、分捕った船をそのまま持ち帰って使うということはほとんどしていないようです。基本的な動力が人力なのですから、これは考えてみれば当然のことと思います。分捕った船を暢気に引いてきたり、貴重な漕ぎ手を移らせて帰ろうとしたときに敵の逆襲を受ければひとたまりもありません。敵に再利用されないよう焼いてしまうのが一番なのでしょう。

 緒戦の幾つかの闘いで日本側が勝利するのは上記のパターンだったと考えられます。単独行動ないし数隻からなる倭寇の船団相手ならともかく、日本側が数で勝り、迎撃する朝鮮水軍に戦意が無く、統一的な火力の運用ができなければ火箭は威力を発揮できません。散発的に飛んでくる火箭をかいくぐられれば、大型の「板屋船」といえど周囲を取り囲まれ白兵が乗り込んできます。
 逆に、李舜臣が海戦で成功を収めるのも統一的な火力の運用という朝鮮水軍勝利の方程式を忠実に実行したからに他なりません。大型船と火力を中心にした対倭寇の戦術が、有効に機能したわけですが、李舜臣はここに亀船という新しい要素を加えてきます。
亀船の真骨頂は、敵船団への突撃、必要に応じて体当たりして「撞破」することにあります。なお、亀船に関する多くの復元が、舷側に砲門を並べた姿を描いていますが、漕ぎ手との位置関係から、まずこうした装備はあり得ないと断言できます。上甲板上に板を貼って乗組員を保護した亀船に、「板屋船」と同様かそれ以上の火力が備えられたとは到底思えません。『乱中日記』中「天字銃砲」「地字銃砲」を射撃し、「玄字銃砲」を撃ったとの記載があることから、漕ぎ手のいない舳先に大型砲(「天字銃砲」か「地字銃砲」)を装備していること、火箭を射出する小銃筒を装備していることは間違い有りませんが、後者は舷側の窓から撃ったと考えるより、上甲板上に貼った亀甲に空けられた銃眼(亀甲船図には亀甲の片舷2箇所に小窓が見えます。)か、要所要所の舷側の窓から一時的に漕ぎ手をどけて小銃筒により火箭を射出したと考えられます。そして亀船の火力には、敵船の破壊より敵船に不用意に近づかれないための威嚇の意味が強いのではないでしょうか。また亀甲上に「刀錐」を植え込み、日本兵の切り込みを防いだこともよく知られるところです。
 『乱中日記』に亀井の船団と接触した記録はこうした亀船と李舜臣の指揮ぶりを余すことなく活写しています。安宅船を中心とした亀井の船団と接触した舜臣は、まずこの安宅船に亀船を突撃させ、船団を混乱させ、さらに接近して火箭、半弓を射かけ圧倒しています。なお、この海戦で亀井は負傷(舜臣は弓矢で射殺したと思っていたようです。)日本側の船団は敗北していますが、朝鮮の武将が安宅船船内から亀井に宛てた秀吉の金の扇を獲得していることに示されるように、亀井の安宅船そのものは海戦で沈没していません。(ここで詳しくは触れませんが、やはり抜け駆けで舜臣に破れた脇坂の艦隊でも、脇坂の乗った旗艦(おそらく安宅船)は「焚焼」「撃沈」されることなく、逃走に成功しています。)亀船の突撃で船団が混乱、さらに主将が負傷、火箭と矢の雨を浴びて、船員が船から逃げ出したというのが海戦の実相ではないでしょうか。火箭による混乱とともに、亀船の体当たりを受けた船が動揺し、銃撃が不可能になった可能性を考えてもいいかもしれません。半弓の殺傷射程(最大射程はともかく)は約30m、これに対する平均的な火縄銃の殺傷射程は約50mです。火箭の有効射程(火縄銃同様カタログデーターは大きいですが)もこれと大した違いはありません。銃筒によってはより短い射程のものもあったと見られます。(接舷切り込みを考えなければ、射撃戦段階での朝鮮側の「アウトレンジ」というのは、前述のように必ずしも当を得ていないことになるでしょう。つまり火箭と鉄炮の撃ち合いです。戦闘で朝鮮側は船体こそ大きなダメージを受けないものの船上の兵士の損耗が激しくなります。)こうなると火縄銃を多数装備した大形の安宅船の存在は朝鮮水軍にとってもやはり脅威です。これが、火箭ないし亀船のによる衝撃で射撃不能に陥り、日本側船団の陣形が崩れれば、朝鮮側の船団は一気に間合いを詰めて半弓の射撃に移れたものと考えるのです。
 なお余談ですが、李舜臣の活躍の背景には、文禄の役当初、日本側が水軍に大きな役割を持たせていなかったという面も無視できません。当初日本側の船団の役割は、釜山近辺までの海上支配権の確保と兵站輸送にあり、朝鮮西岸を長躯侵攻するという役割は期待されていませんでした。(結果、李舜臣の水軍を温存させ、反撃の機会を与えることとなります。)これを秀吉の水軍軽視と見る向きもありますが、当時の航海技術や日本側の保有船舶数からみれば、これはむしろ当然のことと考えます。(日本軍の輸送船のほとんどは民間のチャーター船だったようです。)また、補給を受けることなく大海を渡り、敵地へ長躯侵攻可能な海軍は近現代において初めて可能になるものです。鎌倉時代の元の水軍は航海術を駆使し日本沿岸に到達していますが(宋・元代の大型船は出土事例を見る限り技術的には、相当レベルに達しており、火砲の装備こそ無いものの船体だけなら350年後のそれにひけをとっていません。)、朝鮮海峡を渡った艦隊ですら、補給のないまま水上で衰亡し、東シナ海を渡った艦隊ともども海の藻屑と化しています。朝鮮の役当時の日本水軍に沖乗りの技術は無いので、恐らく陸伝いに渡航するしかないわけですが、それでも朝鮮西岸深く侵入した水軍に誰が補給物資を届けるのでしょう?倭冦のような単独行動の海賊なら略奪でも交易でもして補給がききますが、大規模な部隊ではそうはいかないでしょう。人力と帆走が頼りの当時の船舶が陸上に頼ることなくどの程度活動可能かは、後述する朝鮮水軍の事例が逆説的ですが、端的に示すこととなります。
 閉話休題、李舜臣は従前の朝鮮水軍勝利の方程式に亀船という新しいエッセンスを加え、より強固な勝利の方程式を編み出したことになります。ではこれに対する日本水軍はいかなる戦術をとったのでしょうか?

 李舜臣との接触後、日本水軍は脇坂安治の独走等、指揮系統の混乱から立て続けに敗北を喫し、泊地の奥深く逃げ込むことになります。泊地に大型船を並べて「大筒」「大鉄炮」を装備し砲撃で敵を近づけないようにする一方、陸上にも「鉄炮塚」を築いて海上の朝鮮船団を射撃する体制をとるのです。一見すると消極的な戦術にも見えますが、これは大型船に装備した大砲で、焼き討ちをかけてくる敵船を迎撃するという、大坂木津川河口での九鬼水軍の戦闘を思い起こさせるものです。今度は陸上砲台の援護も得られます。この戦術は有効に機能したようで、泊地内に侵入した李舜臣は果敢に戦闘を挑みますが、誤って座礁し日本側に焼かれかける船が出るなど、被害が増大し、目立った戦果があげられなくなります。現存する大型の火縄銃(大鉄炮や置き筒)と呼ばれるものには長大な射程(300〜1,000m)を有するものが存在し、遠距離用の照準装置(ややこしいですがこれも「やぐら」と言います。)も発達していました。当時の記録には本国に鉄炮とこの「やぐら」を送れといった命令を発したものが見られます。こうした大型銃は船体破壊こそできないものの、朝鮮の火砲より命中精度と射程、可搬性に優れ、安定性の高い停泊中の大型船や地上で使用すれば、高い命中精度を持つ文字通りの「アウトレンジ攻撃」が可能になります。朝鮮側の銃砲や火箭が破壊力はともかく命中精度や有効射程が日本側の銃砲よりも劣ることを考えれば、泊地奥の日本船に火箭や砲弾の有効打を浴びせるべく近づくと、船体はともかく、船上の兵士の損害が必然的に大きくなることが予想されるわけですが、記録を見ても朝鮮水軍は指揮官を含め多くの死傷者を出していますし、舜臣自身銃撃を受けています。
 また、この頃から日本側の火箭対策が目に付くようになります。九鬼の御座船日本丸は、釜山の泊地が襲われたときは、火箭対策に不燃性の絹布の幕を二重三重に張り(前述したように、これは甲板上に待機する銃兵を火箭の火から守るためのものでしょう)、舷側には突き刺さった棒火矢・火箭をたたき落とせるように、縄で縛った丸太や切り株を下げていたといいます。棒火矢が命中したときは、これを落として火矢を海中に叩き落とすわけです(これは鉄板装甲していれば無用の装備です。この点、九鬼の日本丸には、毛利水軍と闘った安宅船のような鉄張り装甲は無かったと考えられす。)。国内では秀吉の命により鉄板の徴発が始まります。信長に倣った鉄張り装甲船の建造が始まるわけです。また、これは記録にはなく状況証拠からの全くの想像ですが、安宅船のような大型船が総矢倉の上に設けていた矢倉が火箭対策に有効に機能した可能性を考えても良いように思います。総矢倉の甲板上に火箭が落ちてきたとき火薬を身につけた銃兵が大混乱に陥る可能性が高いことは既に指摘しましたが、甲板上に設けた矢倉内に入り、その銃眼から射撃すれば、こうした火箭の第一時的被害からは逃れられるのです(この矢倉が鉄板や銅板のような金属板あるいは、城郭建築のような漆喰で覆われていればさらに有効でしょう)。肥前名護屋城図には3艘の安宅船が描かれそのうち1艘は3層と2層からなる二つの天守様の矢倉を載せています。通常船のトップヘビーを招き安定性を失わせる上に、帆走するのにも不利なこうした構造物を単に乗船者の権威を高めるためだけに設けるでしょうか?他の欠点に目を瞑るくらいやはり軍事上の利点が高かったと考えるべきでしょう。なお、この3層の矢倉を持つ安宅船はその色から鉄板装甲の可能性が指摘されています。そして名護屋城図の中央に描かれた2艘の安宅船はなかなか象徴的です。絵画中にかなり意図的に配置されています。1艘は華麗な装飾がなされた安宅船で、秀吉の御座船に比定できるでしょうか。もう1艘の大型船は何か?私はこれこそが、秀吉の造らせた鉄張り船ではなかったかと考えます。
 どうも、横道に逸れすぎたようです。話を李舜臣との闘いに戻しましょう。
 亀船がこの時期の戦闘で、その装甲を生かし何度となく接戦を試みたふうはうかがわれ、上甲板を亀甲形の装甲で覆った亀船は日本側からの銃撃から人員を守り、有効に機能したと思われます。また「くじら」のような朝鮮の軍船(その形状から亀船のことでしょう)を日本軍の兵士が恐怖をもって眺めている記録がありますが、この段階での朝鮮側は初期のような勝利を得られなくなっています。数隻の亀船が突入し火箭を放ったくらいでは、火箭が威力を発揮できないのでしょう。何度も言うように命中精度の期待できない砲から放つ火箭は量的使用が前提となるものです。このころになると日本側は縄を張って、泊地に侵入した亀船を絡め取ろうとさえしている気配があります。視界が狭く見通しがきかない亀船を捉えることが出来るかも知れないと考えたのでしょう。戦略的に見れば、李舜臣は日本水軍の撃滅に失敗し、日本側は本土から釜山までの海路を確保することとなったのです。(未了)
[2006年11月17日17時50分]
お名前: 水軍丸船長
土龍さま・・・もぐらと読まれるのですね!・・色々と勉強になりました。
さて、太閤の朝鮮征伐遠征の際に大安宅・大型鉄甲船艦なる型の船も出陣したる旨、又、其の行く末の事が或るサイトで話題と為り、お蔭様で詳しい御説明を頂き、重ねて早速見せて頂くように案内挿せて頂きました。ご教示感謝
[2006年06月20日16時37分]
お名前: 土龍
 お久しぶりです。
 土龍(「もぐら」とお読みください。)です。
 朝鮮の役の水軍について述べようと思っていたのですが、やはり信長の「鉄船」から話しを起こしていかなければならないようですね。信長の鉄船の文献的な根拠が多門院英俊(前のはやっぱり字が違ってました。)の日記にある「鉄の船なり」「これは鉄砲の用心」という記載のみに拠っていることは間違いありません(英俊さんは奈良の興福寺にいますんで、日記の記載内容は伝聞を書き留めたにすぎない)。この船を見物した宣教師が「王国の船に似たり」と絶賛し、また大砲と鳥銃の装備(ご指摘のように、この大砲が弾と装薬を後装するフランキであった可能性はかなり高いと思います。同時代の中国船にフランキが装備されていること、船上の操作では後装のフランキがきわめて向いているからです。ただし、いかんせん物証が無い。前装の石火矢・大筒だった可能性も否定し切れません。)に驚嘆している一方で鉄板装甲に言及が無いことから、「鉄板装甲疑問説」が生じます。もっとも、伝聞を書き留めたにしても英俊さんの「鉄砲の用心」で「鉄の船」にしたという記述は具体的で、単に黒かったから「鉄船」であると思ったことにはならないでしょう。また、仮に「鉄板装甲」していても、それは船体上部を覆う「総矢倉(ここに漕手が入り、その上甲板に戦闘員が乗ります。朝鮮の板屋船も基本的には同じ構造。)」だけで、船体には装甲が施されなかったという「部分装甲」説もあります。この「部分装甲」説の根拠は今のところ把握できていません。管見のかぎりでは、法政大学出版の『和船』で、船舶史の石井先生が安宅船について述べられた中に、「部分装甲」を唱えられたのが今のところこの説としての初見です。石井先生は論拠を示していませんが、この本が最初とすると、安宅船の大きさと浮力、復原力から「部分装甲」が適切と考えられたかもしれません。藤本正行先生も「部分装甲」説です。しかし私は、この鉄船が船体部分を含め舷側の総てを鉄板で覆っていた蓋然性が非常に高いと考えています。それは後述するようこの後記録の散見する鉄張り船の多くが、喫水線上の総てを鉄で覆っていること、また火攻めに対抗するには舷側総てを鉄で覆う必要があると考えるからです。なお後出事例を含め「鉄貼り船」の上甲板と盾板内側には鉄板は貼られていなかったと思います。船の浮力と復元力に大きな負担をかけるわりに効果は見込めません。木部だったらめり込む火縄銃の弾が跳弾したり、手投げ弾のようなものが投げ込まれたときの人員の被害がかえって大きくなるからです。前述の宣教師が船の鉄張りに注意を払っていないのは、(可能性の一つにすぎませんが)鉄の砲弾を撃ち合うだけで火箭を用いない当時のヨーロッパの海戦において、鉄貼りの装甲がほとんど何の意味も成さないからでしょう。宣教師はその船がヨーロッパの船に比較できるくらい大きく、大砲が装備されている点に脅威を感じているのだと思います。(なお、宣教師の言う「王国の船」とは、帆走で舷側に多くの砲を積んだガレオン船ではなく、帆漕両用のガレアス船を指すものでしょう。)
 さて、信長の造った鉄船の大きさです。英俊の日記によれば「長さ十二三間、幅七間」ということですが、これは従来言われていますように、全長に比較して幅が大きすぎます。先ほども述べましたように伝聞記事ですし、情報を英俊にもたらした者自体目測だったと考えるべきでしょう。しかしながらおおまかな大きさは伝えてくれます。従来注目されてはいませんでしたが『信長公記』の前田家伝本に長さ「十八間」の数値が記載されているそうです。長さ十八間、幅六間とすれば、長幅比は3対1になり、当時の軍船の常識的な比率の中に収まります。この数値が九鬼嘉隆が朝鮮の役に際して建造した「日本丸」長さ十五間、幅五間(別伝で151尺×29尺もありますがこれは大きすぎる。)よりも大きいことは注意されなければなりません。なお、英俊の「長さ十二三間、幅七間」という数値も、上部構造である「総矢倉」部分の目測と見れば、妥当な数字と言えるでしょう。
 この船が実際どのくらい活躍したかとなると、先学のご指摘どおり大いに疑問なのです。毛利水軍との所謂「木津川口の海戦」ですが、大鉄砲で毛利方の指揮船を打ち崩しと景気のいいことを書いているのは『信長公記』のみで、肝心の九鬼家の家伝でも大鉄砲を撃って勝ったくらいのことしか書いておりません。具体的に敵船を何艘分捕ったという記述が無いのです。また毛利方小早川隆景の書状にも「木津川口」で毛利方が勝ったとあり(毛利方の記録は、言い訳がましくかなり苦しいものですが・・・。)毛利方も(存亡に係わるほどの)大負けはしなかったくらいのことはわかります。海戦の具体的な内容は想像するしかありませんが、おそらくは大砲と大型銃(藤本先生は、この鉄船に積まれていた鳥銃が「置き筒」と呼ばれる大口径銃ではないかと言われています。この銃兵が織田家からの「派遣社員」ではないかとのマックさんのご指摘は卓見でしょう。ちなみにレパントの海戦に際してヴェネチア共和国のガレー船は戦闘要員として同盟国のスペイン兵を載せていたようです。)の射撃に数隻の船(特に上部構造)が破損し、毛利方の船団が戦意を喪失して後退したくらいに考えておけば良いのではないでしょうか。実際のところ、この6隻の「船」は当時相当な評判で、前述の宣教師も「この船によって大坂の市は滅亡するだろう」と手紙に書きましたし、大坂の石山本願寺側も「船」の登場に戦々恐々としていたことが資料からうかがわれます。示威効果は充分あったわけです。
本願寺との講和後の「鉄船」の行方ですが、資料としては残っていません。私は、本願寺との講和成立〜本能寺の変までの間に解体されたと考えています。状況証拠となる理由は幾つかあげられます。第一の理由は、この船が大きすぎることです。大きいことは必ずしも良いこと、強いことを意味しません。「十八間」という大きささは恐らくこの時代の和船の構造上の臨界点であったのではないかと考えます。「かわら」と呼ばれる底板と「たな」と呼ばれる3枚の舷側材で船体を造り、梁で舷側材を繋ぐという構造の和船は、元来大型船の建造に向いた構造とは言い難いものがあります。(ちなみに、江戸時代最大の軍船であった徳川家の「安宅丸」は長さ三十間という桁外れの規模ですが、船体構造は竜骨と肋骨からなる西洋船形に船梁を併用する特殊なものでした。)大きすぎることによる問題点が多々生じたことが予想できるでしょう。また鉄板装甲による浮力や復原力の問題も生じます。秀吉が朝鮮の役に際して建造した「鉄船」の何艘かは、あまりの重さに耐えられず海上で割けてしまったと宣教師ロドリゲスが報告しています。九鬼嘉隆の「日本丸」が長さ十五間、幅五間となったのは、外洋を航海し水戦を行うのに適した規模が、技術的にそのくらいだったからと考えます。大きすぎる信長の「鉄船」は櫓走にせよ帆走にせよ推進力にも問題が生じます。速力がどの程度出たかも疑問です。その速力で進んで敵を撃破するには大砲3門は攻撃力としても充分とは言い難い。この船は専ら(示威効果をねらった)海上封鎖のための特殊船あるいは浮砲台に近いものと考えたらよいのではないでしょうか?この船の存在が、例えば後世のド級戦艦のように、そのまま水上の覇権につながるような性格のものではなかったことは確かです。また、装甲を剥がして民間の荷船として使用するとしても、運用コストが問題となるでしょう。第二の理由はこの時代、船の解体と船材の再利用がごく普通に行われていたことです。信長が京都との連絡用とするため琵琶湖に浮かべた長さ三十間(?!)百丁櫓の快速船はすぐに解体され、6隻の関船に作り直されています。湖水の上とはいえやはり構造的な無理があったのでしょう。第三の理由は消極的なものですが、これらの船に名前が付けられた形跡が今のところ見あたらないことです。朝鮮の役前後から徳川幕府による大船接収までの間、安宅船が御座船として大名権力の象徴を担う時期があります。同時に安宅船に「○○丸」という船名が付けられた事例が資料に散見されるようになります。九鬼の「鬼宿丸=日本丸」はその典型例の一つです。城郭の「本丸」「二の丸」といった郭の名前と関係があるのでしょうか、船名につけられる「丸」の起源がどこにあるのか興味深い問題ですが、安宅船に名前が付けられる行為自体は、安宅船を権力の象徴とする認識とリンクするものでしょう。(権力の象徴としての機能は、安宅船の禁止以降大型化した関船が担うこととなり、諸大名はやはり「飛竜丸」とか「鳳凰丸」という船名を付けた関船を大切にメンテナンスしながら使うこととなります。船の存在と大名の権力が同一視される)話が横道にずれましたが、九鬼の鉄船6隻+滝川一益1隻には名前が認められません。これらの軍船が織田軍の軍事的な象徴と見なされたことは諸記録から確かですが、まだ御座船として信長の権力と同一視される段階には至っていないと見るものです。やはり本願寺との軍事的緊張の解消後、速やかにかつ無駄なく解体・転用されたと考えるのが自然な気がします。
 マックさんが、このうち1隻が「鬼宿丸=日本丸」として朝鮮へ渡海した可能性を述べられていますが、ここで見てきたようにむしろ記録に残るスペックは「鬼宿丸=日本丸」のほうが小形化しているわけです。これも前述したように建造可能なギリギリの数値から、現実的な数値に帰ったと見るべきと考えています。もちろん、この6隻の解体材で、一回り小さな安宅船を造っても良いのですが、船材も傷んでいるのと思われますので(今でも明治くらいの和船の船材を骨董屋で見ることがありますけど、舟喰い虫の痕がびっしりです。)、水軍の将九鬼嘉隆の御座船としては新造した方がふさわしいように思います。鬼宿丸=日本丸」については、朝鮮の役の中で詳述しますが、鉄板装甲された形跡がありません。やはり信長の「鉄船」とは別物とするのがよろしいかと。また、秀吉の「鉄船」は諸記録を総合する限り新たに新造されたものと見て間違いないでしょう。

ずいぶん長々書いてしまいました。本当は、朝鮮の役の水軍について書くつもりだったのですが、そこまで至りませんでした。前回同様、参考文献を手元に置かず勢いで書いているので、人名・数値等少なからず不正確な部分がありますが、趣旨の大筋は問題無いかと思います。ご容赦ください。
[2006年06月20日13時11分]
お名前: 水軍丸船長
マックさま、本件のテーマの御教示、有り難うございました。早速関連の記事を私のグループのメンバーに御案内させて頂きます。・・・仮説三件、説得力が有り、情味を引かれます。
[2006年06月12日05時47分]
お名前: マック
織田信長の鉄甲船(通称・黒船)6隻は、九鬼嘉隆が作り。
残り1隻の通称「白船」は、滝川一益の建造であります。

これらの大型船7隻は、大坂湾の木津川口封鎖に使われ、石山本願寺
退去の後は消息不明です。
鉄甲船は3門のフランキ砲と、一般的な火縄銃よりもやや口径の大きい
大鉄砲が両舷に無数に配置されたことに特徴があります。

一般に軍船もしくは船舶の航行、保守管理は水軍衆と専門の水夫でなけ
れば無理なのですが、上記の鉄砲隊などのいわゆる海兵隊は織田軍から
の派遣社員が多かったのではなかろうかと??。

(仮説1)つまり6隻は、木津川口封鎖のため鎖に繋いで、浮かべて
     おいたら、みんな腐って沈んだ??。

(仮説2)本能寺の変、前後の九鬼嘉隆の動向は不明。
     豊臣秀吉の配下になったのは、早くて天正14年、遅くて
     天正19年。この間、本拠地の伊勢志摩に戻る時、残存の
     鉄甲船は廃棄された。

豊臣秀吉の初期の艦隊司令官は小西行長で、快速の関船にフランキ砲を
1門搭載し、同型艦の艦隊で瀬戸内海を警護していた。

(仮説3)朝鮮出兵の時、海上警護衆(護衛艦隊)の藤堂高虎、脇坂
     安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆と4人いました。
     このとき九鬼嘉隆の旗艦が、大安宅船『鬼宿』です。
     この船は、秀吉から『日本丸』の名前を与えられ、
     もしも秀吉が朝鮮に赴くときの御座船つまり総旗艦になった
     だろうといわれています。

     またこの日本丸こと『鬼宿』の船体スペックは、信長の
     鉄甲船と同じで、ひよっとしたら、鉄甲船そのものではない
     かと思う。
     艦橋構造物の改造にしても、まったくの新造艦にしても
     信長の鉄甲船を基本にした、同型艦であることはまちがい
     なし。






[2006年06月11日17時22分]
お名前: マック
土龍さん、はじめまして。

うーーん、タイムリーなRESは、出来ない
状態にあります。諸事多難なため。

ここのSIGは、RES返事が1ヵ月、2ヶ月遅れて
書かれることも、よくあることですので
長い目でよろしくお願いします。



[2006年05月26日18時38分]
お名前: 水軍丸船長
土龍さま、始めまして。詳しいご説明関心して居ります! 今、伊予の国では河野水軍の支流の末裔久留嶋通総の其の当時の戦・朝鮮珍島の処で亡くなられて、地元で未だに人々によって手厚く保存されている墓(碑)の件で話が出て参りまして、信長の鉄鋼船のその後事が話題になって居ります。・・・瀬戸内水軍の将・村上水軍もこの信長の最新型鉄鋼戦艦に歯が立たなかった話も聞き、その後の信長鉄鋼張り大型船の行方を探しております。・・・もし、太閤さんの朝鮮征伐の際には如何だったのか?ご存知あればお教えください。
[2006年05月25日18時23分]
お名前: 土龍
 ちょっと、お邪魔します。
安宅船の鉄甲云々の記載があったもので・・・・。
信長の安宅船の鉄板装甲の根拠になったのは
多門院叡俊(字が違うかもしれません。参考文献が今手元にないので。)の日記にある
「鉄船」の二文字だけですが、
朝鮮出兵時、多くの安宅船が鉄板装甲されていた証拠は散見されます。
たしか宣教師ロドリゲスの記録にも多くの船が鉄板で覆われていた旨の記載があります。また各大名に一万石あたり何百枚かの鉄板を供出するよう、そしてその鉄板が「筑紫の大船」を装甲するためであるとの文書はきちんと残されています。この鉄板は、想像するに、城門の門扉に貼り付けられているもの(姫路城等参照)と同様のものと考えられます。(お城の鉄板貼りは、門扉が焼かれるのを防ぐためです。「黒鉄門」の名称の見られる城門は、同様の鉄板貼りだった可能性が考えられます。「銅(あかがね)門」という名称の城門もあるので(例えば小田原城)この場合は銅板貼りか?)
また、江戸初期に日本を訪れた英国人(だったかな?)セーリアスの記録にも、
長州で千トンくらいの「ノアの箱船のような質朴な軍船を見た」旨、またこの船が全面鉄板でおおわれていたとの記載があります。「ノアの箱船のような質朴な軍船」とはその形態から安宅船に間違いないでしょう。(ただ、この時代は幕府による安宅船の統制後になりますので、千トンというのは、安宅船の上部構造物から見積もった過大な数値で500石クラスの小形安宅と見るのが適切です。)朝鮮出兵前後、軍船の鉄板装甲は相当一般的なものだったと考えてよいでしょう。
 鉄板貼りは、信長の鉄甲船に言われるように、焙烙火矢対策と考えられます。「焙烙火矢」には多く誤解がありますが、手投げ弾ではなく、焼夷薬をつけた火矢、あるいは小形の火砲から射出される火箭と考えるべきでしょう。実際朝鮮の役に際して、朝鮮の軍船が射出するのは多くがこの火砲から射出される火箭でした(宇都宮氏の家臣が残した「高麗陣中日誌」他参照)。朝鮮水軍の最も得意な戦法だったと考えて良いと思います。
 威力を喧伝される実弾を飛ばす大砲ですが、石火矢、フランキ、大筒を問わず、こけおどし以外海戦ではほとんど無力と考えた方がよいでしょう。日本海海戦のような砲撃戦と砲撃による木造船の撃沈は想像すべきとは思いません。板屋船や安宅船といえどせいぜい千トンを超えない、今から考えれば漁船程度の木っ端船です。射撃統制装置もなく、発射速度は信じられないくらい遅い前装砲(フランキは後装ですが)、装填も人力です。波に揺れる船上から至近距離でもどのくらいの有効弾が打てるのか大いに疑問です。李舜臣の『乱中日誌』中の戦闘記録でも「撃沈」の文字はほとんど出てまいりません。秀吉軍の大砲軽視という批判はあたりますまい。日本の水軍にとって有効な戦闘方法は総矢倉と呼ばれる装甲された上甲板の銃眼から鉄砲を撃ちかけ、接舷切り込みをかける方法だったわけです。そう考えると、肥前名護屋城図に描かれた天守閣の様な巨大な矢倉(前述の総矢倉とは別物)の存在も乗船者の単に権力の誇示や虚仮威しには見えなくなってきます。つまり敵船を見下ろす位置から有効な射撃が可能となってくるのです。現実問題として、朝鮮の役中の朝鮮側の記録にも、日本軍船がのせた巨大な矢倉に注意が向けられています。水軍書に言う「井楼船」の有効性もここにありましょう。ただ、江戸期の水軍書は「井楼船」を艦種の一つに扱っていますが、戦国時代の記録や文書では、「井楼船」と安宅船を同一あるいは同種のものとして扱っている事例がまま認められます。「井楼船」の扱いには注意が必要かもしれません。

 李舜臣率いる朝鮮水軍と日本水軍の闘いについても言いたいことは多々あるのですが
また、別の機会に。

 蛇足:信長の鉄甲船の装備した3門の大砲について、1門を船首、2門をそれぞれ左右の舷側という復元案が流布していますが、いささか納得しかねます。安宅船の場合、上部構造物下の舷側は漕ぎ手の位置であり、ここに大砲を装備することはまず考えがたいものです。(戦闘中、漕ぎ手をどかして、砲を突き出すのは現実的ではありません。)同時代のヨーロッパのガレー船の場合、大砲は船首のみに装備されています。
オール推進のガレー船が舷側にも砲を装備できるようになるには、漕ぎ手の上に上甲板を張った(奇しくも、安宅舟や板屋船と同じ構造になるわけですが)ガレアス船(ヴェネチア共和国開発。イタリア語では「ガレアッツア」)の登場を待つことになります。(ガレアス船・ガレアッツアのデビュー戦はトルコ対キリスト教国同盟の「レパントの海戦」です。)このガレアス船・ガレアッツアですら、大形砲の装備は艦首と艦尾のみで、舷側は小形砲のみだったのです。
 余談が過ぎました。結論を言えば、3門の大砲は3つとも船首に装備されたと考えるべきものです。大砲の発射速度や、舷側の防御(開けた砲門に手投げ弾でも投げ込まれた時のことをご想像ください。大砲の傍には装薬が・・・・。船はたちまち火に包まれて、あはっはっです。ちなみに、船首部分は現在残る安宅船の模型に示されるよう、厚い盾板によって亀甲形に装甲されています。)、速力の維持等からそれが適切でしょう。舷側に回り込んだ敵船は、それこそ上部構造物の上甲板から鉄砲でも大鉄砲でも雨霰と打ちかけてやればよいのです。

[2006年05月22日19時23分]
お名前: 悪魔   URL
亀甲船
[2006年05月10日16時18分]
お名前: 広嗣
>>今、スペイン無敵艦隊という本を読んでい
>>ます。まったく朝鮮役と同時期で興味深い

> 同時期なんすか・・・

 日本が朝鮮に殴りこんだのが16世紀末、英西間のこの戦争も16世紀末でした。イングランドはエリザベス1世、エスパーニャ(スペイン)はフェリペ2世の時代です。

 余談ですが、比律賓はこのフェリペ2世に由来するという話を聞いたことがあります。そう言えば、同じ秀吉の時代に日本に漂着した基督者を中心に言い掛かりをつけられて、基督者が長崎で処刑される事件がありました。この漂着した人達が出航したのは、マニラでした。



[2006年02月22日00時37分]
お名前: ATTILA
>今、スペイン無敵艦隊という本を読んでい
>ます。まったく朝鮮役と同時期で興味深い

 同時期なんすか・・・

 スペイン側は、馬や戦闘に従事しな従卒まで載っていたそうですから、もともとロンドン(イングランド)攻略までは考えていなかったようですね。

 たぶん、スペイン艦隊としては海上戦闘をする気はなく、威容を見せ付ける「脅し」だったのでしょう。
 ドーバー海峡近辺の一回だけ戦闘があったようです。その後、スペイン艦隊はイングランド島を一週してますね。



 
[2006年02月21日23時16分]
お名前: ちん
珍古!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

[2006年01月26日10時54分]
お名前: マック

織田信長の大安宅船級の鉄甲船戦艦と王朝水軍の板屋船級の戦艦と
大きさを長く考えていました。

板屋船はかなりの大型戦艦と考えていても、最近のあちらの研究者
のものは大きすぎる。古資料でも不明なことが多いですからね。

日本の安宅船については、木製の模型まで現存しているけど、大き
さはまちまちで、一般には平均値で出すことになります。

話を戻しますと、織田信長の鉄甲船についての大きさは、奈良興福
寺の僧侶の目撃談が根本資料となります。
通称『多聞院日記』で、全長23メートル。全長と全幅の関係が、
疑問符がつきますけど、これでは王朝水軍の板屋船とほぼ、同じ
大きさになってしまいます。つまり、ちょっと小さい。

豊臣秀吉の旗艦「日本丸」は、鉄甲船と同じ仕様というか、
ひょっとしたら信長の鉄甲船6隻の中の1隻そのものを改修しただ
けじゃあないかと、これが全長30メートルというのは間違いない。
志州鳥羽船寸法という造船資料によると、
最大船幅9.5メートル。つまり全長と幅の比率が、3対1になる。
これなら常識的な計算が合うのです。

ところで興福寺のお坊さん、堺の港で見物したとき、目で見たおお
よその大きさを日記に書いたわけです。
そして、このお坊さんが、鉄甲船を「鉄の船なり」とも日記に書い
ています。
外人宣教師のオルガンチノは、実際に鉄甲船に乗り内部の見学もし
て、その感想を聞いたフロイスが報告書にレポートしています。
しかし鉄張り等、鉄の装甲に関しての記述はありません。
まして船体の外郭構造に鉄が使われているという話もありません。

大田牛一の信長記でも、6隻の大型船が鉄張りだった等の記載は
ございません。
当時の他の資料でも、鉄張りという裏づけ記事記録は無いそうです。

織田信長の鉄甲船は、九鬼嘉孝が6隻、滝川一益が1隻作っていま
す。7隻あったわけですけど、九鬼の鉄甲船は黒色の塗装がなされ
て通称黒船、滝川の白色塗装で白船でした。
これを目撃した奈良のお坊さんが、鉄の船なりと日記に書いたこと
を理由に今日の通説の「鉄甲船」となったのです。

本当は、黒く塗装されただけの木造の超大型船だと思います。

[2005年10月24日22時24分]
お名前: マック
接舷からの白兵戦に関して。

それはですね、日本艦隊も王朝艦隊も
海戦の後に、敵船を何隻拿捕したか戦勝報告に
重要なところであり、その数は記録に残ってい
ます。特に王朝艦隊の方に・・・。
ただしあまり多くはない。

拿捕した敵船こそが、絶対的な勝利の証拠品で
すからね。拿捕した船が1隻もないようでは、
勝利は疑わしい。

拿捕するからには、敵船に乗り込み、
制圧するしかないわけです。

同じ時期、英国、スペインともに拿捕船とその
積荷、備品は売れました。正規海軍も海賊と同
じです。

[2005年10月09日01時56分]
お名前: ATTILA
 日本側に「接舷攻撃(ボーディング)」を仕掛けられたということがわかる資料なんてあるんでしょうか?

 あっと、半島側資料も必要ですね。

 まぁ、当時としては、「接舷攻撃」が当たり前といえば当たり前ですが、半島側兵士に、それほど根性があったか否か疑問符しておきたいと思います。
 海上で「接舷攻撃」する根性があれば、陸上での惨敗?などありえないような気がします。
[2005年10月05日13時35分]
お名前: マック
通常の板屋戦艦は、遠距離砲撃ですわね。
亀甲突撃艦で敵艦隊の陣形を乱し、、
板屋戦艦は砲撃距離を詰めて、火壷、手榴弾で
敵船の炎上を狙う。

弱った敵船を拿捕できると判断した場合、接舷
白兵戦です。


[2005年10月03日08時19分]
お名前: マック
亀甲船は砲撃専門船です、接舷白兵戦を防止
するために、上甲板にとげとげ刃の蓋をした
ものです。
砲撃つまり火力重視で、突撃艦ですね。
でもね、体当たりではなく、敵の艦隊の陣形
を乱すためです。
それでも艦首部分、つまり龍頭の下部は厚く
してあるようですから、相手が小さければ
体当たりもしたかもしれません。

零戦パイロットの攻撃方法に、体当たりする
つもりで接近せよ、というのがありました。
自機も敵機ももの凄い速度で動いているし、
何よりも敵も必死だから、なかなか意識的な
衝突は難しい。
体当たりしてもよいから、肉薄せよという
意味ですわね。

今、スペイン無敵艦隊という本を読んでい
ます。まったく朝鮮役と同時期で興味深い

[2005年10月03日08時14分]
お名前: ATTILA
 う〜んと、亀甲船も砲を積んでいたようですねぇ。でもって装甲は上面にしかない。すなわち、接舷攻撃は防げたが、敵が艦載砲の水平射撃すれば防げなかった。

 もう一つは、推進力は<櫓(ロ)>ではなく、<櫂(カイ=オール)>のようですね。これではスピードが出ない。

 結局、<亀甲船>が撃破したのは、<安宅舟>ではなく、<運送船>だったのではないでしょうか?
[2005年09月25日17時41分]
お名前: ATTILA
 ご紹介サイト拝見、やはり<こりあぁ〜 せんかぁん かぁめぇさぁ〜ん>のスペックも知りたいところですね。
[2005年09月22日17時24分]
お名前: 水軍丸船長
広嗣さま、ご案内の資料館を取り急ぎ拝見しました。此れは興味津々・すばらしい感じです。
詳細此れからじっくりと見挿せて頂きます。
[2005年09月22日06時20分]
お名前: 広嗣
 全部は見ていませんが、こんなサイトがありました。

http://www63.tok2.com/home2/fleet7/Museum/Museum.html


[2005年09月21日21時21分]
お名前: ATTILA
          鄭和艦隊の旗艦  大安宅船  安宅船  亀甲船
全長
全幅
喫水
乾舷高
トン数
マスト数
櫓櫂数
推定最高速力
推定通常速力
運行乗員数
搭載乗員・貨物量


 どなたか、こんな↑表を作ってもらえませんでしょうかね。

 ///////////////////////////////////////////////

 亀甲船て、どの程度の装甲だったのでしょうかね?

 <信長海軍の「大和」>は、3ミリ厚で、船上構造物のみ装甲されていた。すなわち、乾舷部分の装甲はなかったと考えて良いのでせうか?


[2005年09月21日17時37分]
お名前: ヘイ
ずいぶん前の本で「歴史と旅」特集・日本の海賊と海戦。これは昭和56年に出版されたものです。ここから、安宅船に関する考証・小佐田哲男。

(前略)

室町幕府の勘合貿易奨励の結果、急に膨張した膨大(ぼうだい)な交易物資を運ぶには、いかに森の国日本の巨木でも、その大きさに限度のある丸木舟を母胎とする発想の「刳舟式(くりぶねしき)準構造船」では、もはや間に合わなくなったからである。
一方、製材用工具の決定打、縦挽鋸(たてびきのこぎり)の「大鋸(おが)」が、この頃ようやく大陸から伝えられたため、<板をつくること>が、それまでの斧や楔だけによる「打割式(だかつしき)製材」に比して夜が明けたように合理的且つ容易になった。

(中略)

やがて戦国時代に入ると、海戦に意を用いる諸将や水路の要衝を扼(やく)する海賊の首領たちは、遣明船型の大型商船(その船首の形状によって「伊勢船」・「二形船(ふたなりぶね)」などと呼ばれていた)を改装して戦闘専用の船とすることを競うになった。これが「安宅船」(「安宅型」「安宅造り」ともいう)の始まりである。

(中略)

船底を「切り石」と「漆喰(しっくい)」で固め、船底の敷石を二重にし、適所には「防水隔壁」設けていた。上甲板から上部については、ほぼ船首から船尾に達する囲い(矢倉という)を設け、これを、銃眼をあけた厚さ2〜3寸(6〜9センチ)クスまたはムクの「装甲板」(盾板)で覆う。そしてその中央には2〜4層の「楼閣」(櫓−やぐら)が聳えた(そびえた)。船首正面の盾板を開けば口径3〜4寸の「大筒」が現れる、といった次第。その大きさは、「大安宅」と呼ばれる旗艦級の大型船では、全長34〜35メートル、幅約10メートル、船体の深さ約3メートル、推定排水量3000トン前後、両舷の櫓(ろ)の数、計100挺(ちょう)。

(中略)

和船史上最大の巨船「安宅丸」は、徳川秀忠が命じ、4年の歳月を経て家光の治世に成ったもの。総長約48メートル、幅約16メートル。天和2年に解体。


以上ですが、書いてある本が古いので、今でもこれが定説なのかどうかはわかりません。


[2005年09月19日00時08分]
お名前: ATTILA
水軍丸船長さん>こんばんわ
 毛利水軍=瀬戸内海賊衆は、戦法としては<集団戦法>であり、また<手投げ爆弾>の使用など、けして時代遅れとは言えないと思います。

 伊勢海賊、熊野海賊衆に<重砲>と<装甲>を持ち込んだ信長の発想が、それを上回ったということではないでせうか?

 では、その思想<重装甲、重防備、鈍重>が、李将軍の<亀甲船>と対抗できたのか?つうことが、日朝海戦のポイントか?
 小生は、<大型安宅船=戦国末期の戦艦大和>を朝鮮沿海まで運ぶのも大変だが、はたして、その速度で海上ゲリラと対抗できただろうか?つうことが疑問ですねぇ・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
[2005年09月17日19時50分]
お名前: マック

あまりテーマの背景を書いていては、あきてくるので、周囲の書き
込みのRES的なものを優先しましょう。

それは「大安宅船(鉄甲船)」のトップヘビー問題というか、外洋
航海に適さない、沿海用の戦艦だったか・・・ということについて
です。

大安宅船も安宅船も、基本的な構造は同じです。
そして安宅船には、伊勢船型と二形船型がありましたが、熊野水軍
系の九鬼氏の活躍のせいか、主流派は伊勢船型となります。
違いは、艦首の形状らしいのですが、詳細は今のところわかりませ
ん。

安宅船と大安宅船の断面図がありますが、当時の最先端の造船技術
を結集したらしく、複雑かつ見事な構造です。

従来、当時の大型戦艦は平底艦であり、外洋性が乏しいが通説でし
た。しかし断面図をみると喫水線下は見事に絞り込まれていて、
艦底は、ほぼ「V」字型になっています。底の竜骨に当たるところ
が近代軍艦に比べればやや幅広というかんじですが、平底船では
ありません。

また総矢倉が船体よりも張り出しているものの、船体の中央部が
膨らんでいるため、船体は上から見ると楕円型です。
これは抜群の安定性を示していると思います。

また矢倉の板に沿って、細長い3ミリ程度の鉄板が張ってあると
いえども、大型の火砲の門数が少ないので、李氏朝鮮の大型戦艦
に比べれば軽いでしょう。

朝鮮水軍、あちらの研究者は「王朝水軍」と呼んでいます。その
戦艦タイプの「板屋船」型の大型艦、これの概観図を見ると・・・
これこそが、平底船です。

東アジア規格なのか、安宅船も板屋船も、船体幅よりはみ出した
矢倉と櫓の位置関係が同じなのは注目したいです。

ナポレオン時代の戦列艦で、フランスの造艦技術は英国よりもは
るかに優秀で、逆にダメなのはオランダの戦列艦でした。
当時のオランダ艦は、平底だったのです。これはオランダの浅い海
を自由に動き回るのに適したわけです。

板屋船型の戦艦が平底なのは、朝鮮南部沿岸は浅い海が多く・・・
とあちらのひとは主張しています。
単に技術が無かったのか、単に製造工程を減らしたんだと思うので
すけどね。
王朝水軍の戦艦の体当たりに、日本戦艦は脆弱だったという主張は
それは日本艦が井楼船(せいろうせん)か荷船の場合ではと考える
次第です。しかしこれについては何とも言えません。

板屋船の改良型の「亀甲船」については後日・・・・・

あっちの国の劇場版アニメ映画に、宇宙戦艦亀船というのがあるよ
うです。宇宙戦艦亀甲船だったかもしれませんが・・・
なんとなく宇宙戦艦ヤマトとマジンガーZを足して2で割ったよう
なセル画で・・・・・

つづく

[2005年09月16日21時45分]
お名前: 水軍丸船長
ATTILAさま、信長水軍のハードは真に其の時代先端技術の見栄えある戦艦安宅船!方や毛利軍船団は古式戦法、夫々の水軍の戦術・船団配備・構成の瀬戸内毛利氏特有の先祖伝来のパテント体系を採り、従来の海戦戦法の奥義なのですが?!具体的には図形化しなければ成らないのですが、相手に即対応するノウハウは持ち、訓練も十二分に修練された船師・船頭の実力者もイザ実戦に望み、信長殿の戦艦大和に似合う鉄板張り、鎧兜や、最先端の大砲(おおづつ)の装備・威力(遠方からの狙い撃ち戦法)には、歯が立たず、魂消たものと想像しまねすね(航空機が無くて幸いでした)だけど逃げれましたからね!。昭和の巨大戦艦大和の最後も動きの鈍い超大型戦艦なる所以にて技術の粋を集結した構造も上空からの集中攻撃に為す術も無く、最期を迎えたとことが目に浮かびます!残念。
[2005年09月16日18時37分]
お名前: 水軍丸船長
ATTILAさま、信長水軍のハードは真に其の時代先端技術の見栄えある戦艦安宅船!方や毛利軍船団は古式戦法、夫々の水軍の戦術・船団配備・構成の瀬戸内毛利氏特有の先祖伝来のパテント体系を採り、従来の海戦戦法の奥義なのですが?!具体的には図形化しなければ成らないのですが、相手に即対応するノウハウは持ち、訓練も十二分に修練された船師・船頭の実力者もイザ実戦に望み、信長殿の戦艦大和に似合う鉄板張り、鎧兜や、最先端の大砲(おおづつ)の装備・威力(遠方からの狙い撃ち戦法)には、歯が立たず、魂消たものと想像しまねすね(航空機が無くて幸いでした)だけど逃げれましたからね!。昭和の巨大戦艦大和の最後も動きの鈍い超大型戦艦なる所以にて技術の粋を集結した構造も上空からの集中攻撃に為す術も無く、最期を迎えたとことが目に浮かびます!残念。
[2005年09月16日18時34分]
お名前: ATTILA
 そうか! 安宅船びは、装甲型と非装甲型があるんですね。

1、装甲型安宅船
 織田信長が石山本願寺攻めのために新造した3ミリ厚鉄板装甲の安宅船。装甲重量のため、非走行型より鈍重。前方と両舷に計三門の艦載砲あり。
 砲戦を意図した戦闘艦。
 日清〜WW2頃の戦艦に相当?砲によるアウトレンジ戦法となると、やはり<戦国末期の戦艦大和>と言えるだろう。

2、非装甲型安宅船
 戦国時代末期に登場した木造巨大櫓櫂船。前記<装甲型安宅船>と違い、最終的には<接舷切り込み攻撃>を意図している。艦砲装備はない。

 う〜ん、船足は遅そうだから<戦国末期の巡洋艦>とは言えまへんなぁ・・・



。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 例の「そのとき歴史が動いた」では、毛利水軍側旗艦は<安宅船>という表現はなかったような・・・
 ただ、「大将の乗った大型船」といふような表現をしていたとおもふ。



[2005年09月16日17時59分]
お名前: マック

とりあえず(1)から(5)までの等級別船の解説です。

(1)阿武船/安宅船(あたけぶね)
船首から船尾まで総矢倉として、厚い板で装甲された船。装甲には、
矢や鉄砲を撃つための隙間がある。
安宅船は船首から船尾まで楯板で装甲しており、弓や鉄砲を撃つ為
の狭間(銃眼)がもうけてあり、前後左右の死角がありません。ま
敵船に乗り移れるように楯板が外側に倒れ、船の橋渡しができる作
りになっていて、船底は防水区画を設け船体の一部が破損しても浸
水が他に及ばないようなどの工夫がされていました。

戦国時代になって「安宅船(あたけぶね)」が完成している。
小さいものでも五百石積級で、通常千石以上二千石積級の船をいう。
櫓は船の大きさにより、50から160挺立で、ふたり漕ぎの大櫓であれ
ばその六割程度であった。船首は箱形で亀甲型の装甲を施し、なか
に大筒を置いて正面から砲撃できるようにした。船首から船尾にか
けては総矢倉とし、楯板で装甲した。


(2)関船(せきぶね)
早船ともいう。とがった船首とスマートな船体をした船。板などで
装甲するのと同時に軽量化も図られていて、軽快な動きができる。
関船の由来は、中世の海賊衆が海上の要所に関所を設け、通行する船
から通行税をとってた事からこの名がついた。
通行税を支払わない船舶を追うため早さを重視し、それが戦国時代に
手頃な船だったので軍船として使用されたとの事。

通常40〜50挺(櫓)で漕ぎ、船の周りの楯板は、安宅船は装甲を
厚くしているのに対し、関船は薄く設計されており、時には竹を使用
するなどの軽量化がなされている。安宅船を戦艦とすれば、巡洋艦の
役割をしており、機動力に優れている船。
安宅船よりずっと小型の関船は、ふつう小櫓40挺立以上の船で、鋭い
船首と細長い船形をもち、スピードがあった。
室町時代ころに「関船」と呼ばれる快速船が現れている。


(3)小早(こばや)
小型の早船(関船)のこと。ほとんど装甲していないので、関船より
さらに軽快な動きができる。
関船との違いは櫓数で、だいたい14〜30挺(櫓)で、船団では駆
逐艦の役割をしている。
関船よりも軽量である
ため簡易装備となり、斥候用、連絡用に使用することが多かった。
全長 約11メートル


(4)荷船
兵員や兵糧を運ぶ。


(5)井楼船(せいろうせん)
関船や荷船などに楼をくみ高い位置から安宅船などを狙う。



毛利水軍もしくは直轄水軍の場合、戦艦に相当する安宅船は総大将の
旗艦ぐらいなものです。300隻の戦闘艦隊で、同族衆の副大将艦を
含めて、安宅船はせいぜい3隻あるだけです。

戦闘の主力は「関船」と「小早」になり、鉄砲、弓射の射撃があり
焙烙という直径30cmの手投げ弾を投げつつも、一番の決め手は、
接舷したあとの抜刀白兵戦です。

織田水軍が大阪湾で毛利水軍に苦戦したのは、手投げの焙烙玉と木砲
や竹砲の花火式に迫撃砲的に発射する焙烙火矢でした。
焙烙玉は導火線つきの炸裂弾で爆発での焼夷弾つまり敵艦を炎上させ
る効果もあったのです。

ここかで登場するのが、織田方の「鉄甲船」となります。
鉄甲船はその大きさで、瀬戸内海の水軍を圧倒することになります。
当時の安宅船の全長、船幅、全高、2倍の「大安宅船」だったからで
す。
後の朝鮮役での豊臣秀吉の御座船である旗艦「日本丸」は、
1500石級艦でして、織田信長の6隻の鉄甲船は「日本丸」とほぼ
同じカタログスペックだと思われます。
毛利の戦艦である安宅船は、500石級です???。

鉄甲船は、当時としては画期的であり、その登場は日本全国の水軍を
持つ大名に衝撃を与えたのです。
その後の朝鮮役では、2000石級の大安宅船まで登場することに
なるのですけどね。

鉄甲船のもうひとつの革命は、日本初の艦載砲装備艦だったことです。
青銅製のフランキ砲(石火矢)を艦首に1門、両舷に各1門、合計3
門装備していました。射程1000m、有効射程500m。
当時、日本では最大の大砲です。

装輪火砲のフランキ砲は、大友宗麟が1門「国崩し」と名づけ軍のシ
ンボルとしたことがあるのですがまったく使いみちもなく、
島津氏と耳川の合戦で壊滅的打撃を受けたことだけが有名だったのです。

大量の火薬を消費し、初速の遅い弾道のため、着弾点の敵兵は逃げ、
当然、実体弾であったため直撃しか殺傷効果も無いしろもので、全国的
に使用された記録のあまり無い、高価な輸入品だったわけです。

高価で構造的に自爆事故を起こしかねないフランキ砲を戦艦に積み。。
さらに3段の舷側からは、無数の長砲身の大鉄砲を装備していました。

鉄甲船の両舷要所に施した、鉄製3ミリの装甲板も含めて、
この鉄甲艦6隻の建造費と維持費は、信長の経済力を諸侯に見せ付けた
わけです。

つづく

[2005年09月15日18時58分]
お名前: ATTILA
 そういえば、最近の「その時、歴史は動いた」で、信長の<安宅船>をやってましたね。

 厚さ5ミリほどの鉄板を貼るだけで相当な重量になるそうで、場合によれば<重量オーバーの沈没>か、<トップヘビーによる沈没>かというギリギリの設計だったようです。
[2005年09月15日18時09分]
お名前: ATTILA
 http://www.nagaitosiya.com/a/bunroku_keicho.html
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu76.htm

 秀吉の水軍運用論であります。


 亀甲船って大砲を積んでたんですかねぇ???安宅船は5門ばかり積んでますよね。

 まぁ、陸戦では勝ってたのですから、南朝鮮地域だけでも、「日本海賊軍団」を使うべきだったと思うなぁ・・・

 ナポレオンのエジプト遠征も、ドイツ第三帝国のアフリカ軍団もそうですが、制海権を確保せんと「海外侵略」は失敗しますわな。


[2005年09月15日18時03分]
お名前: 水軍丸船長
皆様のお話は正しく仰せの通りです。時代の変遷を原点にして順次、海を介した各地に其の時代のニーズに先んじる総合力を有している者達(海民・水民とでも言いましょうか)が存在して居り、船(舟)の用途(輸送量・物か人か・漁とか・戦舟は如何に?)とか、移動距離(速度・近距離、遠距離)海域(遠洋・沿海・沿岸)か河・川・湖にて、正しく船の構造(大きさ、長さ、重さ、材料等々)と其れを造り出す技(造船技術・人材・組織)・ソフトの面では、長けた経験と訓練と勇気を備えた海人・水師とを集う力を有した一族、いや、各地に繋がるネットワーク(支配領域が線と点で繋がる)集団の形成も必要、何よりも重要な自然条件・地理状況(海図、海流、季節変動等々)の情報を如何に伝承し、政治的背景も知る頭を筆頭に一族郎等を抱えて使いこなすか能力を持つ集団(族)が優先的支配権を握るは納得頂けることです。其処で古代の舟は大木を刳り抜いた原始的な物、此れでは真に心細い、精々河・川・湖が精々の構造かと?、海に来り出すには精々5海里沿海まで。手漕ぎでは疲れて、食べ物にも困る、筏でも帆を張って、食料も多く積み、雨風を偲ぶ非難小屋的施設を備えなければならない、さてさて、舟の歴史を遡るは実に根気の要る話ですな!。この度のNHK大河ドラマの義経殿の乗られた船はどのような構造の船だったのか?益した室町時代・戦国時代・(安土桃山時代)・江戸時代の船の姿は如何なるものかと、思いを馳せる感也。鉄船ともなると、信長殿の時代に歴史に見られるも、骨格は木造、外装が鉄板張りでは無かったのかな?見てみた見たい物ですな。(コリアの亀の甲の船とは船長認識不足で申し訳ありません。)お教え下さい。
[2005年09月15日15時40分]
お名前: 広嗣
 日本の戦国時代、歴史に残る(?)海戦は殆どないのが実情でしょう。16世紀末の「朝鮮戦争」で秀吉や参謀も、朝鮮に行くには海を渡らないといけないことは理解していても、兵站(物資や人員などの補給)に海が重要な要素を持っていることは理解していなかったのかも知れません。それとも兵站は無視とは言わないまでも軽視していたのか。そうだとすると、アジア・太平洋戦争期の日本軍と変わらないわさ。

 現代コリアの亀甲船への評価が、過大評価かは分かりませんが、「第2回朝鮮戦争」(慶長の役)で李舜臣が解任されてからの朝鮮水軍の弱さを考えると、李が指揮官として優れていたことも大きいのでしょう。


[2005年09月14日22時45分]
お名前: ATTILA
 えーと、「秀吉の朝鮮出兵はなぜ失敗したか」つうスレッドで、関連しそうなことをば・・・

 亀甲船の実戦力はそれほど大きくないだろうと思う。安宅船にも共通することだが、鈍重な船であり、守備には強力だが、攻撃には足が遅すぎると言えましょう。
 まぁ、「慶長の<戦艦大和>」といったところか・・・・

 朝鮮(韓国)にナショナリズムが、過大評価を招いていると思います。

 やっぱ、海上ゲリラ戦にまけて石田光成のロジスティックが機能しなかったつうことでしょう。

 わがほうも、九鬼水軍、村上水軍の軽舟ゲリラ部隊を活用すべきであったのだ。彼らを輸送船に使ったのが間違いのもとだと断言・・・しない(^^)

[2005年09月14日18時38分]
お名前: 水軍丸船長
マックさま、お久し振りです。このテーマは興味を抱かずには居れませんね!
是非、お願いします。・・・・・因みに船長の愛艇はFRP製フィッシャータイプです。
[2005年09月12日05時51分]
お名前: マック
どこかのスレッドの水軍丸船長さん、
はじめまして、こんにちわ。

いきなりタイトルだけでもうしわけ
ないのですが、このタイトルで少し
書きたいと思います。

ただし稚拙遅漏のため、ちょいと
書くのに、時間がかかります。

[2005年09月11日17時32分]
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