テーマ:上杉博物館

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お名前: カーター
 産經新聞に先の内容でメール送信後に下記の読売新聞の記事を見つけ
ました。公文書が見つかったそうですが、早く文書を誰もが見れるよう
にしていついつ話したとわかるようになればいいですね。

【山形】ケネディ元大統領が「尊敬する日本人は上杉鷹山」と発言した
ことを記録した文書存在

★就任直後会見でケネディ大統領「鷹山尊敬」 文書存在

ジョン・F・ケネディ元大統領が1961年の大統領就任直後の記者
会見で、「尊敬する日本人は上杉鷹山」と 発言したことを記録した文
書が存在していることが17日、分かった。

在日米大使館(東京・赤坂)のカート・トン首席公使が、元大統領の
長女キャロライン・ケネディ駐日米大使の 本県招請のため、同大使館を
訪れた大沼瑞穂参院議員(山形選挙区)に明らかにした。

元大統領の鷹山に関する発言を巡っては、米沢市の安部三十郎市長が先
月25日の記者会見で、「言い伝えはあるが、 映像記録や文書などの証
拠がない」と述べていた。

その2日後にケネディ大使が講演で、元大統領が鷹山を尊敬していたこ
とを明らかにしたが、トン氏の発言により 公文書でも裏付けられること
になる。トン氏は文書の写しを大沼氏に渡すことも約束したという。

17日に同大使館を訪問したのは、大沼氏と米沢市議9人。ケネディ大
使宛てに招請状と共に米沢織のストールを、 トン氏にはネクタイを贈っ
た。トン氏は市議らに謝意を示し、「大使に伝える」と笑顔で話した。
また、大沼氏には 「鷹山に関する祭りはいつあるのか」などと質問した
という。


トン氏は20日、情勢調査のため本県を訪れ、吉村知事と会談する予定。

(2013年12月18日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamagata/news/20131217-OYT8T01567.htm
[2014年06月30日20時05分]
お名前: カーター
 6月18日(水)の産經新聞に「お札の顔一新し国の方向性示せ」
と言う記事が載りました。この新保佑司教授の文章について、特に異
論があるわけではありませんが、上杉鷹山とケネディのエピソード(
ケネディが上杉鷹山を尊敬していた)に関しては納得がいかないもの
がありました。

 2005年に米沢の上杉神社を訪問した際にケネディとのエピソー
ドを知り上杉鷹山関連の書を読み、本当にケネディが上杉鷹山のこと
に言及したのか疑問に思い勉強して来ました。
 このサイトでも議論して来ましたが、そのような証拠はないように
見えます。「ライシャワーの日本史」にも記載はありませんでした。

 いついつの新聞にそのことがニュースとして載っていると言う記事
があれば事実だと確認できると思うのですが、現在でもその記事があ
ったと言う話を聞かないのです。


[2014年06月30日20時00分]
お名前: カーター
八幡さん、「小説伝記 上杉鷹山」では詳しく書けなかった事柄についてご説明
を頂きありがとうございます。

・ケネディの賛辞について
>「嘘」と言い切ると、これまで、それを引用してきた方の面子をつぶすので、

なかなかむつかしいものですね。藤沢周平の場合は「ありもしないことを書き
綴っていると、たまに本当にあったことを書きたくなる」と言っているように
かなり事実と書こうと努力した跡が見られます。

・三好善太夫について
>高鍋藩の資料で江戸で死んだことが分かりましたので、会ったことがあるの
は間違いなさそうです。
 
治憲は、隠居した後に江戸に出向いたりしたようですから、三好と会った可能性
もあります。はなむけの言葉とおくった三好の立場からすれば、秋月藩主の弟で
ある治憲が米沢から江戸に出て来る時には、りっぱになった治憲に会いたいと思
うのが秋月藩の家老としての気持ちだと思います。

・小説と史実について
>童門さんの方は、上杉鷹山に限らず、史実はあくまでも素材と割り切っておら
>れるようですが、これは、童門さん特有の問題でなく、たとえば、司馬さんな
>ども同じで、日本では普通に許されている技法です。好ましいこととは思いま
>せんが、とくに問題なのは、読む方がフィクションだということを理解してい
>ないことと、ノンフィクションの伝記も人気がある外国と違って、フィクショ
>ンばかりが世の中に流布している我が国の現状です。

読む方が嘘だと思わずに読んでいると言うことは困ったものです。その辺の所は
書く人の責任は重大だと思います。確かに「作者がカリスマ化すると『司馬さん
が嘘を書くはずがない』と信じる不幸な人まで出てくる。」(八幡さんの文章か
ら)と言うことです。

・歴史的な用語についての問題
>藩主時代なら弾正大弼、隠居後なら越前守というのが、普通でしょう。さら
>に、「藩」とか「天領」というのは明治元年から四年までの三年間だけ使われ
>た名称ですから、江戸時代のことを論じる時にはおかしいわけです。

 この藩についての説明が八幡さんの本に次のように説明されていますので引用
します。
「当時はのちにいう『藩』と言う言い方はあまりしなかったので、普通は『国』
と言ったし、『上杉彈正大弼御家中』などとも言った。国持ち大名の場合は『長
州』といったのであって、『長州藩』とはいわなかった。」(八幡さんの文章か
ら)
藩と言う言葉は中国の清の時代に皇帝から任命された藩王の領地のことを言って
いるので、藩が公式の名称となったのは明治元年に天皇陛下から大名が任命され
るようになってからで廃藩置県までの3年間使用されたと言うものです。

新しい本をお書きになったようです。また読んでみます。すでにレビューも下記
に載っています。

http://www.amazon.co.jp/本当は恐ろしい江戸時代-ソフトバンク新書-八幡-
和郎/dp/4797351586


[2009年05月09日16時44分]
お名前: 八幡和郎
 しばらく、HPを見ていなかったので、気が付かなかったのですが、私の著書について、いろいろ、ご紹介有り難うございます。
 さて、私の著作は「独白録」の形を取ったので、あまり、詳しい説明をしていません。そこで、少し、補足したいと思います。

・ケネディの賛辞について

この点については、まったくの嘘であると断定していいと思います。「小説伝記 上杉鷹山」を書いたあと、さらに、いろいろな方からご教示もあったのですが、「嘘」と言い切ると、これまで、それを引用してきた方の面子をつぶすので、そういえないというだけのようです。「逆説の日本史」の井沢元彦さんにも情報を提供したのですが、週刊ポストの連載で、井沢さんなりに「都市伝説」という上手な表現をされました。面子も大事ですが、やはり、嘘と分かったものについて曖昧なことはいうべきでないと思いますし、すでに、書かれている人は、増刷などの機会に訂正するのが社会的義務だと思います。ウィキペディアでも「この逸話の正確性には疑問があると言われる」などと書いていますが、良識を疑います。

・三好善太夫について

三好については、最初、そもそも江戸に行ったことはなく、鷹山と直接には面識がないのではないかと心配したのですが、高鍋藩の資料で江戸で死んだことが分かりましたので、会ったことがあるのは間違いなさそうです。ただ、三好自身がいつどのように江戸往来をしたかは、資料が見つかっていないので不明で、どの程度の接触があったかは、全く分かりません。ただ、鷹山の養育掛的な存在ではないと思います。

・小説と史実について

童門さんと藤澤さんの小説についてですが、藤澤さんのほうは、少なくとも、明らかに事実に反することは書いていません。藤澤さんは、史実にヒントがあっても、事実と違うことを書く時は、実名を使っていません。庄内藩を「海坂藩」というがごとしです。童門さんの方は、上杉鷹山に限らず、史実はあくまでも素材と割り切っておられるようですが、これは、童門さん特有の問題でなく、たとえば、司馬さんなども同じで、日本では普通に許されている技法です。好ましいこととは思いませんが、とくに問題なのは、読む方がフィクションだということを理解していないことと、ノンフィクションの伝記も人気がある外国と違って、フィクションばかりが世の中に流布している我が国の現状です。さらに、小説家がエッセイや講演でも、小説の登場人物のことを史実とごちゃまぜに扱うことも慣習的に許されているのですが、これはいかになんでもおかしいと私は思います。

・歴史的な用語についての問題

歴史書でも文学でも、言葉遣いや用語を当時使われていなかったものを使用して良いのかどうかは頭痛のタネです。「小説伝記」では、上杉鷹山が現代に甦ってという設定ですから現代的な用語法でもおかしくなかったのですが、厳密に言い出すとたいへんです。鷹山についても、晩年の号である鷹山はもとより、治憲などという名も使われたことなどほとんどないはずです。藩主時代なら弾正大弼、隠居後なら越前守というのが、普通でしょう。さらに、「藩」とか「天領」というのは明治元年から四年までの三年間だけ使われた名称ですから、江戸時代のことを論じる時にはおかしいわけです。ですから「江戸藩邸」というのも本当はおかしいわけです。「桜田邸」とか「江戸屋敷」というべきなのでしょうが、このあたりも難しい問題です。

最近も「本当は恐ろしい江戸時代」(ソフトバンク新書)、「47都道府県の関ヶ原〜西軍が勝ったら日本はどうなった」(講談社+α新書)、「江戸雄藩 殿さまたちの履歴書」(日文新書)を刊行しました。よろしかったら見てください。

[2009年05月06日22時44分]
お名前: カーター
4月29日の書き込みで八幡さんのお名前を名和さんと書きました。
大変失礼しました。訂正にてお詫び申し上げます。
「起業家エジソン」と言う本の著者が名和小太郎さんですが、どう
いうわけかこの人の名前が出て来たものです。






[2009年05月03日13時35分]
お名前: カーター
昨年に八幡さんから三好善太夫の訓戒書のことでご質問を頂いたのですが、八幡
さんの著書に三好のことがどのように書かれているかを紹介します。高鍋藩在住
の三好と江戸藩邸で育った治憲が会った可能性について次のように書かれていま
す。
「いよいよ八月に桜田藩邸に引き移る時にくれた『奉贐書(はなむけたてまつり
しょ』はたいへん優れたもので、私は生涯、座右に置いて大事にした。・・・・
子供頃であるので、三好善太夫が江戸にどのくらいいたのか記憶がはっきりしな
いのだが、この二通の書状は彼の遺言というべきものになった。」

私と言うのは治憲のことで、本人が回想すると言う形で書かれています。二人が
会ったかどうかが史料から推測することができないため、「記憶がはっきりしな
い」と言う表現になっているものです。

私が紹介した永井哲雄著の「仁と諌」については「高鍋藩の資料として使用し
た」とあとがきで紹介され、その中の高鍋藩の代官で藩校明倫堂の師範であった
千手八太郎については次のように記載されています。
「筑前以来の重臣であったが、その父が種美侯によって左遷されて中級武士に格
下げさせられたものの、兄の種茂侯によってまた引き立てられたのである。」

現在の宮崎県の高鍋町のことについては次のように記されています。
「明倫堂の遺伝子は健在で、私立中学から出発した高鍋高校は県下の名門校とし
て知られる。甲子園にも十回出場し、歌手の今井美樹さんの母校でもある。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/今井美樹

今井美樹の来歴を見て、スチュアーデスを目指して上京と書いてあるのですが、
大学へは行かなかったのでしょうか。20歳でモデルとしてデビューしています
。鷹山には関係ねいですね。


[2009年05月03日11時36分]
お名前: カーター
さて、八幡氏の言う事実と違うと言う小説の内容とはどのようなものでしょう
か?具体的に記すと次のようなものがあります。

まず、上杉重定の娘の幸姫と上杉鷹山(治憲)は結婚しますが、幸姫が身体障害
者あったと言う小説の記述は事実ではなく、子供を産めない小さな体であったと
言うものです。幸姫は治憲が32歳の時に江戸の桜田藩邸でなくなりましたが、
遺品の着物は10歳くらいの子供の体のものであったと言われています。

次に小説では重定公が倹約に反対であったと言うことになっているが、重定公が
倹約に反対であったと言うわけではないとしています。

また、小説では治憲が米沢に入る時に板谷峠の宿で何も用意されていなかったの
で野宿したと言うことになっているが、異例の時期の旅となったので板谷の人々
に負担をかけてしまったと言うだけのことだそうです。また、小説では治憲の行
列が貧相であったと書いてありますが、貧相であったのは治憲が隠居し家督を継
いだ治広(重定の実子)が米沢に初のお国入りの時の行列であったと言うのが正
しいとしています。

七家騒動の重役の処分の際に「小説上杉鷹山」には「もし、この建言書におまえ
たちも同意しているということが事実なら、私は潔く米沢藩主としての座を去
る、そして日向高鍋に帰る」(332頁)にあります。これについて、名和さん
はそんなことを治憲が言うはずがない。なざなら治憲は九州に行ったこともない
し、実家に帰る場所などないからだと述べています。治憲は麻布の高鍋藩の江戸
藩邸で生まれたのであり、日向の高鍋に生まれたのではないからです。

ただ、歴史小説と言うものを考えると、こういう場面で治憲がどう言ったかと言
うことは想像して書く他はないし、そういう手法が許されるから歴史小説が面白
いのです。読む方も本当にこんなことを言ったであろうと鵜呑みする人もいない
でしょうから、「日向高鍋藩に帰る」と言うところは正確には「高鍋藩の江戸藩
邸に帰る」と書くべきだったと弁明することできます。実際には帰るところなど
なくても、その場面ではそう言うしか治憲の決意を示せなかったかもしれませ
ん。


[2009年04月29日13時39分]
お名前: カーター
名和さんの「小説伝記上杉鷹山」を読了しました。執筆の意図はフィクション
である小説が読まれて、事実を記したノンフィクションが読まれないのは残念
だからだと言うものです。そこで、日経新聞で連載されている「私の履歴書」
のような形式で上杉鷹山が書いたらどうなるかと言うことで、回顧録のような
形式で小説伝記と言う形式で書いてみたと言うことです。歴史的に十分検証さ
れていない事実と異なる内容が小説には多いと言う不満から出発しています。

確かに小説家である童門冬二や藤沢周平の著作が読まれることが実態があるの
が実態ですが、読者である我々から言わせれば上杉鷹山に関するノンフィク
ションには手軽に読める新書や文庫の名作がないため、このような事態に至っ
ていると言いたいのです。私が最初に読んだ上杉鷹山のノンフィクションは童
門冬二の「上杉鷹山の経営学」PHP文庫ですが、童門冬二は小説家であり歴史
家でないため冒頭から有名なケネデイと上杉鷹山の話が出て来ます。しかし、
いつどこでケネデイが発言したという説明がないのです。そこで私はこのボー
ドで書いたように「ライシャワーの日本史」を読んでみたりしたのですが、ケ
ネデイに関する記述は反米家の間でもケネデイの人気は高かったと言う記述し
か見つけることはできなかったのです。

「上杉鷹山、ノンフィクション」をキーワードにしてネットで調べると「異端
の変革者上杉鷹山、著者加来耕三、集英社」と上記の童門冬二の「上杉鷹山の
経営学」PHP文庫、「小説上杉鷹山、八幡和郎著」PHP研究所の三つがトップ
に出て来ます。普通の読者でしたらやは手軽に読めるPHP文庫を買ってしまい
ます。上杉鷹山の研究者には小説の手法ではなく、歴史学と言う手法を用いて
何十年も読まれる新書のような著作を希望したいところです。


[2009年04月29日11時10分]
お名前: カーター
昨日、本屋で八幡和郎氏の著作である「小説伝記上杉鷹山」を偶然見つけたので購
入しました。八幡様から本を無料で頂くわけにはいきませんので、気にはなったの
ですが、新書本ではなく単行本なので本屋での展示も十分ではなかったので、目に
つかず今日まで購入しなかったのです。

このボードに上杉鷹山のことを書いたのは2005年の8月ですが、ケネデイーが
尊敬する日本人と言ったと言う事実に対する疑問から出発しています。八幡氏は小
説であっても、良く調べもしないで嘘を書いてはいけないとおっしゃっていますが
全く同感です。ネットで本件を調べると本スレッドに日向人と言う人が書いた記事
を引用してやはり嘘だと言われています。引用されるようになれば、本スレッドも
たいしたものですね。自信を持とう。

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4289271.html

八幡さんの本はまで読んでいませんので、読んでから感想を書きます。


[2009年03月28日13時23分]
お名前: 八幡和郎
 三好善太夫のことについて、その後、高鍋の皆さんのご協力をいただき調べたところ、善太夫は江戸で亡くなっていますので、上杉鷹山と会ったことがないということはないようです。 果たして、高鍋藩で国家老と江戸家老という分担があったのか、あるいは、殿様が江戸にいるときだけ家老の一人が同行していたということなのか、そのあたりは不明です。
 なお、このほど、「小説伝記 上杉鷹山」(PHP研究所)という本を出版しました。上杉鷹山が現代によみがえって「私の履歴書」をこうなるだろうという趣向です。詳しくはHP(http://www.yawata88.com/jiji14801.htm)に紹介しています。「小説」ということにはなっていますが、「自伝」という設定はともかく、事実関係については史実と違うことは書いていません。
 
ps 管理者の方へ 本を送らせていただきたいのですが、連絡先をメールでお知らせいただければ幸いです。
 
[2008年11月24日17時56分]
お名前: 八幡和郎
たいへんありがとうございます。

さっそく、『「仁」と「諫」』を取り寄せ参考にさせていただきます。

なお、どうも、三好善太夫は鷹山に会ったことがないという可能性が高そうですが、もし、善太夫がこの時期に江戸に出てきたことがあるという記録などご存じの方がおられたら是非ご教示ください。
[2008年08月31日20時01分]
お名前: カーター
>あの訓戒が鷹山のキャラクターをよく知って書いたのか、それとも、一般
>論としての心構えを説いたものかなのかにたいへん興味があるのですが。

鷹山は確かに高鍋藩の江戸藩邸で生まれ育っているので、高鍋藩の家老で
あった三好善太夫には会っていない可能性もあります。三好から鷹山に呈さ
れた存寄は二度あり、最初のものは鷹山が9歳になって上杉家家への養子縁
組が決まった時と、鷹山が実際に江戸の上杉桜田邸に入る時です。
その内容は、この時期までに高鍋藩で培われて来た存寄であり、兄種茂にも
政治理念として求められた存寄と同じものです。つまり、高鍋藩の君主に対
する一般的な心構えを説いたものです。

先に紹介した『「仁」と「諫」』永井哲雄著 で永井氏は、本書で高鍋藩の
代官であり藩校明倫堂の師範であった千手八太郎の生涯とその存寄を含む政
策を紹介することで、上杉鷹山の改革の背景を説明しようとしています。永
井氏は次のように述べています。
「この『諫』という言葉は高鍋藩の上下いずれの士にも求められる『存寄』
を指していて、ここでは藩主となるべき者は家臣の言に意を留めることの必
要を説いている。・・・この『仁慈』の心は、種茂・治憲兄弟には時代の要
求もあり、強く求められた。・・松三郎(治憲)の方はやや遅れて藩主とな
った直後の明和八年(1771年)『生児愛育』を令している。」
上杉鷹山の政策は、高鍋藩の存寄が米沢藩で実行されたものであると言える
でしょう。


[2008年08月31日17時23分]
お名前: 八幡和郎
カーターさん。丁寧なご教示ありがとうございます。
ただ、カーターさんの仰るとおり高鍋藩の国家老だったとすれば、江戸藩邸で生まれ育ち高鍋に一度も足を踏み入れたことのない上杉鷹山とは出会ったことはない可能性が強いということでしょうか。
あるいは、1760年に種美が隠居して種茂に家督をゆずっているので、その節に国家老の三好善太夫も江戸へ出てきて鷹山に会っている可能性もなくはないのですが(家督相続のご挨拶に江戸城へ登城するときに国家老のうち何人かも同行することはないわけでもなかったようなので。鷹山の家督継承の時も竹俣当綱など何人かの重役が米沢から出てきています)。
いずれにせよ、あの訓戒が鷹山のキャラクターをよく知って書いたのか、それとも、一般論としての心構えを説いたものかなのかにたいへん興味があるのですが。
[2008年08月30日17時33分]
お名前: カーター
三好善太夫重道は、宝暦6年(1756年)に高鍋藩の家老となりましたが、この
サイトでも過去に紹介した存寄(提案書)を出せる能力を持った人です。善太夫は
藩主秋月種茂の弟である上杉鷹山(幼名直丸のちの治憲)が上杉家への養子が決ま
り、宝暦10年に直丸が上杉家に入る際に2通の訓言を呈しました。
善太夫の祖先は安芸の国(広島県)三好郡の出身であり、筑前秋月の時代から従っ
た家臣ではなく、秋月家の騒動以後に家臣に召し抱えられたもので善太夫は三代目
に当たります。

『「仁」と「諫」』永井哲雄著、鉱脈社において、三好重道のことは詳しく書いて
あります。三好は治憲にはなむけの言葉である書を呈しましたが、中身は高鍋藩で
培われて来た存寄でした。

「貴人は御身随分と明鏡の如くなくては、下の善意を知ること能はづ、・・」
さらに、諫言をおろそかにしてはならないとして、
「大臣はお国の柱、必ず用ひなされ、小臣と言えども異見を申し候者、必ず御悦び
なさるべき候。諫を納むる事(家臣からの直言を聞くこと)は、人君の美徳にて、
諫を申し候臣は、戦場の一番槍の功より増さる・・・かねがね御覚悟なさるべく候」
そして、三好は「仁慈」すなわち人と人との間の慈しみの心を説きました。仁慈は
他人にやさしくであり、それが人君の道にかなうとしました。治憲は藩主になった
直後に「生児愛育」つまり、生まれて間もない子供を生活苦から殺してはならない
との命令を出しています。

繰り返しになりますが、藤沢周平は「漆の実のみのる国」文春文庫で高鍋藩の家老
三好善太夫重道の治憲への藩主の心得について次のように引用をしています。

「その中に人に君ある御身は寛仁大度と申し候て、ゆったりとして人を憐れみ御胸
中を広く人を疑うことなく云々という箇条がある。一藩の君主たる者はひろい心で
人民を憐れみしかしながら小事にこせつかず悠然と構えているように心がけるべき
であると、君主の日ごろの在りようを諭したのであった。
三好善太夫の教訓は、いまも治憲の手文庫の中に秘蔵されていて、そのときどきに
治憲がきびしい態度決定にせまられたときの指針の役目をしている。」

上記の後半は過去の書き込みから引用したものですが、これでご質問に答えたこと
になりますでしょうか?善太夫は、鷹山がまだ高鍋藩にいた頃の家老であり、高鍋
を発つ前に鷹山に藩主としての心得を呈した人であると言えます。



[2008年08月30日14時12分]
お名前: 八幡和郎
 上杉鷹山にあてた三好善太夫の訓戒書のことを調べていて、どうしても分からないことがあり、もしご存じの方がおられたらご教示いただきたく投稿します。
 多くの上杉鷹山の伝記に善太夫のことをおもり役などと書いているのですが、本当にそうなのでしょうか?そもそも、善太夫は江戸詰だったのでしょうか?さらにいえば、そもそも、鷹山は善太夫に会ったことはあるのでしょうか?
[2008年08月29日18時12分]
お名前: カーター
日向女将様、お久しぶりです。佐藤文四郎の話は童門冬二の「小説上杉鷹山」の冒
頭から出て来ますね。佐藤文四郎の叱責にも鷹山が素直に自らの非を認めることで
読者は物語に引き込まれます。
 一方、藤沢周平の「漆の実る国」では森利真の悪政の話から始まり竹俣当綱らに
よる森の殺害へと発展して行きます。そして竹俣による森の殺害に協力した須田や
芋川らの七重臣が今度は鷹山の改革に反対し、いわゆる七家騒動となります。
 この童門による佐藤文四郎については日向女将様のご紹介の通りですが、藤沢は
次のように書いています。

「その者らは何と言っているのか」
「お館さまに申し上げたき儀があるとのみ」
「よし、聞こうではないか」
と治憲は言った。
「文四郎、供をせい」
「お待ちくだされ」
と文四郎は言った。文四郎は顔面蒼白になり、すさまじい形相をしていた。いつも
は半分ぐらいひらいている口を引き締め、眼光鋭く治憲を見ている。
「重臣たちは今朝、決死の覚悟で登城してきているかに見受けられます。いまこの
広い城内に、お館さまとそれがしに味方する者は一人もござなく、四面みな敵と心
得るほかはござりません。決してご油断なされず、御胸の内に相応のご用意をなさ
れたく願いたてまつります」
「わかった。そのつもりで行こう」
「では、お供いたしまする」
と言ってから、佐藤文四郎はつけ加えた。
「ただし、お館さまに危難がおよぶようなときは、文四郎身にかえてお館さまをお
まもりいたします。ご安心召されませ」

これが七家騒動の始まりです。


[2008年08月02日10時37分]
お名前: 日向女将
●少年だった鷹山が小姓〔小姓は、今でいえば秘書役〕の
 佐藤に叱責される。

まだ鷹山が少年で 正式に上杉家の相続を得てない頃
江戸藩邸で本を読んでいた。傍には、小姓の佐藤 文四郎がいる。
夏なので蚊が多かった。 はじめ鷹山は蚊帳の中に入って
本を読んでいたが 蚊帳にさえぎられて明かりが暗くて
仕方がない。そこで鷹山は佐藤にこう言った。

佐藤、灯が暗くて本がよく読めない。 すまないが蚊帳を外して
お前、そこから扇子で蚊を追ってくれないか?と言った。

すると佐藤が反撃してきた。これは、もっての外を承ります。
私は貴方の蚊を追い払うために給料をもらっているのでは
ありません。貴方お一人だけが 安楽に本が読めれば
それで宜しいのですか?万民が、塗炭の苦しみに陥っている
米沢藩の現状を見てよくそんな事がおっしゃれますね。

また士たる私に扇子で蚊を追えとは、士を用いる道を
1つも心得ていらっしゃいません。 大体貴方は本ばかり
読んでおられる。書物から得られる事だけが学問では
ございません。 今度は生きた学問をお眼にかけましょう。
私と一緒においでください。声を荒げて先に鷹山を促した。

佐藤文四郎が連れていったのは、江戸藩邸の足軽の長屋で
あった。御覧なさい、この者たちの姿を。
あんなに沢山顔に蚊がたかっていても、一匹も叩き潰す事
さえ出来ないではありませんか。これは全て貴方達の性です。

鷹山は他家から来たばかりなのに、貴方達の性といわれ
驚き、これが私達のせいとはどういう事か?と聞き返した。

佐藤は鷹山(将来藩主になる)を見て厳しい言葉を放った。
私達の給料は低い。にも関わらず藩庁は、その安い給料を
さらに半分にしてしまった。しかも未払いなのです。
内職を必死にしなければ、彼らは食っていかれないのです。

藩がこういう貧しい者の給料をさらに半分にしたのは
即、藩主の責任です。藩主の相続人たる貴方の責任です。
あなたは、毎日本ばかり読み たかが蚊が止まった位で
私に扇子で追えという。わがままそのものです。
そういうことでは、次の藩主になっても決して良い政治は
出来ないでしょう。 つまり下の者への思いやりがないのです。

冬の雨の激しい日、お供に労をねぎらった。あんな事は
誰にでも出来ます。生きた学問とは、これだけ蚊に
食われても振り払わないで必死に家族を挙げて内職で
働いている足軽達の生活をどうするかという事です。
それが出来ないような学問なら、いくら学問をつんでも
無駄でしょう。 佐藤の言葉は少年の鷹山に容赦なく
厳しかった。鷹山は佐藤の言った心情に心を打たれ
うなだれて部屋に戻り、佐藤に今日は良い学問をさせて
もらった。礼をいうぞ、確かに書物だけでは生きた学問は
学べない。私は相続人として足軽達に心からすまないと思うと
いった。

すると佐藤が、何をおっしゃいますか。
私はああいう失礼な事をいったのですから切腹を
しなければいけない立場です。にも拘らず貴方は
私の言葉を受け止めてくださった。貴方は本当の部下思いの
やさしいお方です。今日の失礼はくれぐれも、どうか
お許し下さいと詫びたのである。

ほかにも佐藤は何度か若い鷹山少年に説教したりしている。
その事で後々、細井平州が出てきて
佐藤に対しこらー佐藤!私はお前の師であるぞ。師の私が
お見限りしない若君〔鷹山〕に弟子であるお前が見限ったとは
何事か。家臣が次期君主にお許し申すなどと言う生意気な
事があるか、自分の考えに拘りすぎる、改めろと叫ばれ
その後は、鷹山と文四郎は前のような君臣関係に戻った。
この辺で一旦おわります。
[2008年07月21日17時00分]
お名前: 日向女将
・上杉鷹山がなぜ、養子に抜擢されたか?

上杉鷹山の幼名は松三郎、またな直松といった。
いみなは、治憲(はるのり)であった。
この後に鷹山と呼ばれるようになるのだが、鷹山は
元々 宝暦元年〔1751年〕7月20日に日向〔今の宮崎県〕
高鍋町の藩主であった秋月種実の次男として江戸の麻生で
生まれた。母は筑前〔ふくおか〕の秋月城主の黒田甲斐守の娘
である。 鷹山の養父となった上杉重定とはいとこに
当たる女性が鷹山の母親になる。

鷹山が9歳の頃、この母親と 上杉藩主の重定がいとこで
ある縁で上杉家の養子縁組が決定した。

母親が上杉家に推薦状を出していたのだ。

上杉家には跡取りがおありにならない。
私の方に秋月の次男 松三郎と言う子供がいます。
まだ九つですが、とても利口な子です。
それに毎日の遊びなども、普通の子と違って
みんなの褒めものになっています。 この子を養子に
推薦します。という推薦状。
しかし、この推薦状での縁組は、鷹山にとっては幸福と
言えなかった。鷹山を待ち受けていたものは、華麗な
大名の座ではなく、苦難の連続だったのである。

しかし窮地に追い込まれた米沢藩は、この他家から来た
少年に望みをかけたのである。
上杉家の相続人となった鷹山なのに まだ子供だった為
江戸藩邸に送られた鷹山は麻生桜田邸に居た。月光で
本を見ていた鷹山の離れで 物々言いながら月に向かって
話している男を発見した。 それが上杉藩の医者でもある
藁科 松柏(わらしな、しょうはく)であった。

松柏は月を見てこう呟いた。月の姿はいつも変わらない。
それなのに、何故人の心は変わるのだろうかと言って
落涙した。これを見た少年、鷹山はびっくりして
声をかけた。 松柏、どうしたのか?なぜ泣いている?
何か心配事でもあるならば、私に話してはくれないか?

松柏は恐縮し振り返り、流石は若君。ご明察恐れ入りました。
あなたは他家からおいでになって この上杉家の相続人に
なったばかりで こんな事を言ってもお分かりには
ならないでしょうが、お話しましょう。
米沢藩に 森 平右衛門と申す男がおります。出身は
いたって低身分の者でございます。その男が藩主に甘い
言葉で取り入り 藩政をろうだんするに到りました。

特に森は、悪徳商人と結びつき 農民を苛め
それから搾り取る収益を私腹としております。
江戸でこの噂をきく我々は我慢出来ず 寄り寄り相談
してきました。そして竹俣が森を刺殺する事に
決定し、森を呼び出し一刃で 森を刺し殺しました。
国許の重臣らもこの行為を悪臣を成敗したことで
大いに誉めそやしました。これこそ米沢の真の忠臣だと
皆が称えました。ところが森が刺殺されたのを知った
藩主(重定)は、激怒され 切腹を命じたのです。
驚いた国臣の重臣が必死になってとりなし、切腹は
免れました。 すると藩公は森を殺した竹俣の顔は
見たくないといって江戸藩邸へと追放しました。

そうなると人の心とは情けないもので
あれだけ森が殺された事に安堵していた者らが
ふところを返すように 変わりました。
今度は刺殺した竹俣を批判するようになったのです。
私はそれを思い人の心ははかなきものよと
月は変わらないのにと嘆いたまででございます。

これを聞いた鷹山は、国が乱れて忠臣が現るとは
昔からの言い伝えがあるが、彼こそ本当の忠臣であろう。
しかしそれが養父に理解されず誤解されているのは
誠に残念だ。しかし、私はあなたの今夜の話を決して
忘れないぞといった。松柏は、少年の鷹山に期待し、こんな
話も出来たのであろう。

[2008年07月21日16時26分]
お名前: 日向女将
打てるまで打っていきますので過去記事から見てください。
流れがわかるので。
●ついに米沢藩が破産申告●
米沢での1700年、今から300年ほど前
上杉藩、余りの貧しさになり破産を申告する。
武士の中では、体面は捨て武士の家格さえ売ってしまう者も
いたり 下級武士は日雇い稼ぎをして働いたり
細工ものに従事して内職をしたり武士を捨て商人の下働きを
する者、荷物を運んで米沢を捨て他の地へ人夫として出る
者も、刀や槍など売り払う人は日常茶飯事。

今まで商人が財政援助をしていたのに米沢藩が破綻したと
なると、一文のお金も貸さなくなった。

そうした中で農民や商人が貸してくれる優しい気持ちの
ある者には苗字を与えたり刀を与えてやったりの特別待遇をした。

しかし、唯一の税源であるお米は絞りとるだけ搾り
取るのでもう米沢はだめだと逃げる者が多かった。逃散である。
逃散人口は急増し 余りの貧しさから生まれてきた
赤子を殺してしまう間引きが当たり前のように行われ
14万人いた人口が9万人にも減ったのである。

明和元年(1764年)藩主の上杉家重は、謙信公以来の名家で
あるが このままでは米沢藩は野たれ死にする。

いっそ、版籍奉還をし 名だけは保つようにしたいという
悲惨な決意に立ち至った。それを知った尾張藩主 徳川宗勝が
驚き 上杉家の家老の竹俣を呼んで 上杉家の版籍奉還の話を
聴いたがとんでもないことである。謙信公以来の名家を
このようなことで潰すのは、謙信公の名を汚すこととなる。
どんなに辛くても ここ一番財政再建のため、藩政改革をし
藩名を存続するよう勤めなければならないと諭される。

それを聞いた上杉家家老は、お話はよくわかりますが
藩の財政が苦しいのは予想以上で藩政治も相立ちがたく
国民は非常に苦しい生活で喘いでおります。

どうしても心力の及ぶ所ではございません。
どうか、もう一度米沢藩の版籍奉還をお許しのほど
おとりなしお願いしますと頼んでいる。

徳川幕府の時に 大名が版籍奉還したいと封土を放り出したいと
いう大名は、明治時代以前では米沢藩だけであった。

当時の米沢藩の藩主の上杉重定も贅沢な生活が好きで
改められないため、財政は逼迫していった。

赤字も気が遠くなるほど増大していき、重定は隠居を決意し
藩政の大借金の事、藩の建て直しの事は新しい藩主へ
託すように考え始めた。そして その白羽の矢が立ったのが
遠い九州の小大名の家に生まれた秋月家(治憲)
のちの上杉鷹山だった。
[2008年07月21日15時53分]
お名前: 日向女将
・吉良上野介に乗っ取られた上杉家
元録15年 (1702年)の12月15日未明に、吉良上野介は
赤穂浪士により、討たれた。
この時の米沢藩では吉良を怨んでいる者が多かったので
この知らせを受けると悲しむ人は殆どおらず、むしろ
いい気味だと口に出す者が多かった。どうしてそんな
事を言われたのか?米沢藩の五代 上杉綱憲は、この
吉良上之介の息子である。吉良の息子の綱憲が上杉家に
入るとことにより上杉家の30万石が15万石に減らされた
ものの上杉家は存続した。
しかし上杉家の家臣団は、吉良の息子が上杉家を存続する
事について不透明な味方をし、良い気はしていなかった。

理由がある。四代目の上杉藩主の上杉綱勝は寛文4年
〔1664年〕閏5月1日に たまたま江戸城近くにあった
吉良上之介の屋敷に立ち寄った。そこでお茶を出して
もらったのだが、そのお茶を飲んでから 夜中になり
綱勝は苦しみだし極度の腹痛を訴え 嘔吐を1週間
続けて苦しみぬいた挙句に 5月7日に亡くなってしまった。
この有様を見た家臣達が、あの吉良の屋敷で出されたお茶に
毒が盛られていたのではないかと 誰しも疑った。
確かに上杉の食べ物であれば、必ず毒見役もいたはずだ。

そしてその疑いが増すような事が起こった。
吉良の息子が亡くなった上杉綱勝の後継者として
急に養子に入るように立てられていたからである。
この吉良の息子が上杉家に入ることは、保科家の奔走に
よることが大きかった。保科が将軍の了解を得て
老中を説得し吉良の息子を上杉家の相続人にすることに
したからである。

元々上杉に仕えていた藩士達は、このような吉良の息子が
藩主になろうものなら、全く違う人物を上杉家の相続人に
したほうがいいという動きもあったのである。
しかし保科家の(保科は幕末の守護職で有名だった松平容保
なんかが、正式には保科容保と言う)奔走でこのように
仕立てられたのである。
そして吉良家から迎えたことで米沢藩のお金を湯水のように
使い借金を大借金へと膨らませていった。
この吉良の息子の上杉綱憲は1年の衣食代に二千両も
使った。そしてその父の赤穂浪士に殺された
吉良上之介も、贅沢三昧をしその金を米沢藩へと払わせたり
商人が沢山米沢藩邸に押しかけ吉良上之介さまの借金を
払ってくれと迫ったという。
贅沢三昧をしすぎて米沢藩は赤字になり吉良殿の支払いを
月賦で払ってもよいか?という程、破綻寸前に追い込まれた
のである。
[2008年07月21日15時24分]
お名前: 日向女将
藩士たちには、以下のような厳しい禁令が出ていた。
・武具や馬具は、自弁すること
・京や江戸の上り下りの際、妻子には勿論、組頭や他のものに
 扇子一本土産も買ってはならぬ事
・酒肴を整え、人にご馳走してはならぬ事。
・給料が出たときに、このときとばかりに妻子に衣装を買ったりしないこと。
・下級武士は、絹は着てはいけない。
・寄り合いにご馳走をすることを禁ず。
 親類縁者でやむをえない祝儀、不祝儀がある時も一汁、一菜にとどめること
・遊山賭博は一切禁止
・若衆くるいし、酒を飲んだり女と戯れることは禁じる
・上からの支持について、でたらめな噂を流したり君臣の間を
 妨げることはいってはならない。そういう者がいればすぐ捕らえよ。
・主人を謗ったり 自分より上役にみだりなことをいったり
 また下の者に侮ったり 辱しめたりするような事はいってはならない。
(現世で、言動の悪い年配じじいなんかに、煎じて飲ませたいわ)
・法律にそむくような者あれば、親子兄弟でもすぐに密告すること
・他藩の者とは交際をしてはならない。
 また他藩の者に米沢藩のことを とやかくいう事を禁止する。

今の時代だから話せる話ですけど。
[2008年07月21日15時02分]
お名前: 日向女将
カーターさんへ:1週間前鷹山の本を借りたので
少しずつ本の中身を紹介したいと思います。

上杉鷹山の人材登用は、何でも言いなりになるイエスマンより
問題児を登用した。上杉家は、初代の上杉謙信の頃は
越後地方で2百万石を超える収入を得ていたが
二代目の景勝の時に 豊臣秀吉によって会津(福島)へ
120万石に移され さらに関が原合戦後には家康によって
米沢30万石に減封された。それだけでは済まず四代目
から五代目になる時は、相続手続きにヌカリあり
危うくつぶされる所、辛うじて半分の15万石に減らされ
家の存続を許された。

ここからは、本ではなく私の知ってる情報で打ちますね。
一方、鷹山は、元々上杉家の人間ではない。
九州の日向(宮崎県)の秋月という三万石の小大名の家に
生まれた。と言っても元々秋月家は2千年前の祖は漢の皇帝。
その血統血筋は素晴らしいものらしい。

秋月は大昔は筑前に構えていた。が、秀吉の島津討伐の
為に九州の藩主らは、みな秀吉に味方し島津を討とうと
した。秀吉が九州を統一するために。しかし秋月家は
島津を潰してはいけないと秋月と島津と組んで
他の九州の藩+秀吉軍と戦った。
秀吉は立腹し、秋月種実に秋月!その方、島津と組んで
余に弓をひくとはけしからん。筑前、筑後、豊前は
没収じゃ。36万石ではなく3万石にする。そして日向の
財部へと(今の高鍋)転封じゃーと
下って来て 長い事、日向で基礎を築くことになったのです。
その後々で この町で生まれたのが 鷹山でした。
鷹山が上杉家へ養子にいったのは、秋月と上杉家が
親戚筋だったからです。
[2008年07月21日14時47分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、お久し振りで。新たに御出ましの日向之人と、船長の先祖由縁の旧知の女将さんの語り草は、改めて米沢藩と日向之国と今様の深い繋がりを歴史背景・施政も其れを司る賢人の存在を考えさせられる事柄なれば、せめて今の混迷日本の国の矛盾を厳しく是正する、先人の貴い教えの奥義哉?(賑やかに益々話題沸騰兆しかと)

[2008年05月03日07時55分]
お名前: カーター
日向人様書き込みをまた、日向女将様もレスをありがとうございます。

>ただルーズベルト大統領が、鷹山を紹介したくだりがある新渡戸稲造の「武士
>道」に感銘を受けたという記録があることから、それと混同されたのかもしれま
>せん。

やはりそうだったのですか。ケネデイが日本に興味を持っていたというようなこと
は聞いたことはなかったので、米沢の上杉博物館でケネデイの話を聞いた時にはお
かしいと思ったのです。
いずれにせよ、内村鑑三の「代表的日本人」と新渡戸稲造の「武士道」の双方に紹
介されていることから考えて、アメリカ人の日本研究者に早くから知られていたの
かも知れません。

[2008年05月02日21時30分]
お名前: 日向女将
カーターさん日向人さんって私じゃないですよ。
上二文字が、かぶってしまって驚いた所ですが(汗)
ご指摘してくれる方は有難いですね。
ケネディが鷹山公について触れたというのは違うのですね。
色んな本なんかに それが本当かのように書かれてありますよね。
私もそれが本当なのかと思っていました。小冊子読んでみたい感じです。
機会があればですが。お知らせして頂いて有難うございました。
鷹山さんは有名になりましたけど私は種茂さんも結構すきですね。
[2008年04月29日13時36分]
お名前: 日向人
ケネディが鷹山公について触れた。そういう話が一人歩きして、もう消すことも不可能なほど流布していますが、そういう記録はありません。米沢の「上杉鷹山公と郷土の先人を顕彰する会」が追跡調査した結果です。それによると40年以上昔、当時の米沢市議が地元の郷土史家と対談し、ケネディのエピソードを披露したのが掘ったんだったそうです。それが出版物となり、ラジオ番組で紹介されて広まったようです。ただルーズベルト大統領が、鷹山を紹介したくだりがある新渡戸稲造の「武士道」に感銘を受けたという記録があることから、それと混同されたのかもしれません。この話は、「高鍋町制施行100周年 たかなべ100年のあゆみ」(2001年)という小冊子にまとめられていますので、興味のある方は高鍋町立図書館を訪ねられてみてはいかがでしょうか。ケネディのエピソードが否定されても鷹山の評価が揺るぐわけではありませんが、あまりにでたらめが流布しているのでほっとけない気持ちです。日向人
[2008年04月28日15時17分]
お名前: カーター
藩主治広の代になって、志賀八右衛門が財政担当となりますが、財政は一向に改善
せず志賀は辞職を求めますが、この時代に藤沢周平は高鍋藩の家老三好善太夫重道
の治憲への藩主の心得について次のように引用をしています。

「その中に人に君ある御身は寛仁大度と申し候て、ゆったりとして人を憐れみ御胸
中を広く人を疑うことなく云々という箇条がある。一藩の君主たる者はひろい心で
人民を憐れみしかしながら小事にこせつかず悠然と構えているように心がけるべき
であると、君主の日ごろの在りようを諭したのであった。
三好善太夫の教訓は、いまも治憲の手文庫の中に秘蔵されていて、そのときどきに
治憲がきびしい態度決定にせまられたときの指針の役目をしている。」

万策尽きて莅戸(のぞき)義政 が再登板となった、改革案をまとめる際に藤沢は次
のように述べています。
「審議の中身は、さきに家中からあつめた存じ寄り書(意見書)のくわしい検討、
すでに不正があきらかになっている役人の処罰対策、またもっとも重要かつ緊急を
要するいかにして財政を建て直すかという問題、疲弊して活力を失っている農村を
いかにして甦らせるかなどという具体的な政策の審議であった。」
存じ寄り書が、高鍋藩に特有のものではなく他の藩においても行われていたものと
推察されますが、米沢藩でも存じ寄り書が提案書として藩主に提出されていたよう
です。

上記のように藤沢周平は米沢藩と高鍋藩のつながりを十分理解して本小説を書き上
げたように見えます。

[2008年03月03日22時02分]
お名前: カーター
日向女将さん、お久しぶりです。ついに女将さんになられたんですね。
相変わらず宮崎の県知事はテレビばかり出ていますが、ちゃんと県の仕事は
しているのですかね。

>カータさん、ご無沙汰でしてます。カーターさんが読んだ本、過去にわたし
>読んだような記憶が。

その本は「仁と諫」永井哲雄著のことですか?秋月種茂のことを知りたくてこの本
を買ったのですが、その家臣の千手八太郎のことばかりで種茂のことはあまり書い
てなくて、日向女将殿が言及されたようなエピソードは載っていなくて残念です。

さて、鷹山と秋月家との関係ですが、藤沢周平は「漆のみのる国」で次のように書
いています。七家騒動の時に須田満主と芋川延親が治憲(鷹山)に面会を申し入れ
た際の模様を次のように記しています。

「皮膚がざわめき立つようなその感触に襲われたが、治憲は腹に力を入れてその感
触を静めた。人は治憲のやわらかな外貌からその内面を推しはからうとするが、治
憲の内部には遠く戦国の猛将秋月種実の血が流れている。異常を悟って緊張はした
ものの、眼前の七人の重臣を恐れてはいなかった。」

また、治憲は引退後に幕府に脚痛の治療を理由に20か月の暇を願い出ましたが、
その時の事情を次のように述べています。
「しかし事実は、治憲はこのたび帰国すれば、ふたたび出府することはないだろう
と考えて、青山長者丸にある秋月藩屋敷に、実父秋月種美をたずねたり、芝白金の
藩屋敷に治広(治憲の先代藩主重定の実子で新藩主)夫人、子息の久千代をたずね
たりしてひそかに親戚、血縁との暇乞いを済ませていた。」

治広の治世になって米沢藩は未曾有の緊縮財政となりましたが、治憲は再び出府し
実父秋月種美を見舞いました。その際に将軍家斉からじきじきにお褒めの言葉があ
たそうです。その時の老中で白河藩主松平定信が推奨したらしいのです。そうこう
するうちに秋月種美がなくなりました。

[2008年03月02日17時29分]
お名前: 日向女将
カータさん、ご無沙汰でしてます。カーターさんが読んだ本、過去にわたし
読んだような記憶が。私が読んでるのは地元の同じ藩出身者の家系の方が
書いてるので事実を記載してあるので読み応えがありますよ。
高鍋藩第7代藩主「秋月種茂」の実の弟である上杉鷹山は(弟は米沢に
養子藩主となり上杉鷹山となっていたが)兄の事を常にこう言っていました。
自分は幸に大藩を継いだから世に知られたが兄は西の一小藩主であるが為に
世に顕れない丈であって自分など到底及ばぬ程のすぐれた人物であると
話している。兄の施政を見て弟の鷹山がそれをヒントに善政を行った観方が
あるそうです。弟の鷹山が日照り続きで餓死者の多かった米沢を救った話は
有名で殿様が断食をして3日間山にこもって雨乞いをした話も知られているが
その前に、兄の秋月種茂も雨がずっと降らない時に尾鈴山で雨乞いをして
大雨を降らせた話も残っている。兄の秋月種茂は、聡明で学を好み
情け深く、よく人の意見を入れ父祖の遺業を継ぎこれを発展させ
高鍋藩の全盛期を実現させた人物です。情け深さは種茂の施政を
見れば一目瞭然だが農民の弁当と自分の厨食の立派な食事と
交換し種茂は農民の飯を食べ農民の労をねぎらったりもしている。

秋月家はまれに見る立派な家系で二千年前には漢の皇帝であり
後々日本に帰化した。兄の種茂の政のおかげで立派な人物を輩出し
ここの藩は「文化藩」と呼ばれる程でもあった。
それは兄の種茂が明倫堂を創設し学問教育、道徳教育に熱心だったから。

 1代目・秋月種長の話に遡るが九州征伐の結果 天正5年秋
筑前から財部(のちに宮 崎県の高鍋)に移封させられ5年後には
征韓の役に出兵、慶長5年関が原の役では西軍で出兵
これにより居城を福島にうつし慶長9年には再び高鍋に治城と
して戻り2代目秋月種春の時は大阪冬の陣、夏の陣もあり
島原の乱にも出て さらに大阪城の修営、仙洞御所の造営を命じられ
少しばかりの財政で財力をついやし当時は藩内でもいろいろの
事件相次いで起こり多事多難であった。
3代目の種信は初めて検地し権臣をおさえ、才能ある士族を選び適材適所で
人を置いた。・・7代目まで書くと長くなるのでこの辺で
こういう政治家、現在いないかな?って思いますよ。
また何か話があったら打ちますね。
[2008年02月20日20時53分]
お名前: カーター
藤沢周平の「漆の実る国」上下文春文庫を最近読みました。堂門冬二の「小説上杉
鷹山」は鷹山が藩主になってからの事業について、財政、政治、道徳、産業改革と
改革の詳細を記しているの対して、藤沢の著作は鷹山が藩主になる前の藩主上杉重
定の時代に権力を握った森利真の悪政に対して、重臣が結束して森を暗殺するまで
の描写が100ページ以上もあります。となると物語の主人公は鷹山ではなく、家
老の竹俣当綱であるように見えます。終始、財政改革が主題です。

森を暗殺して終わりではなく、藩主である重定の引退まで勧告する騒動についても
詳しく書かれ、その後にようや治憲(鷹山)が藩主となって乗り込んで来るのです
が150ページを過ぎてからです。その際には多額の借金から米沢藩の封土を幕府
に返上するという議論までがされると言う事態となります。

それからも竹俣当綱が江戸や新潟の大商人と交渉して借金の金利を棒引きにすると
言った苦労話などが詳しく書かれています。頼みの産業改革も漆を植えるのに膨大
な資金がかかるとか、またせっかく植えた漆もロウにして販売して利益を出すどこ
ろか、西国のはぜの木の実から作ったロウの方が品質が良く高く売れるため結局産
業改革は十分な成果を上げることができなかったことが述べられています。

竹俣は長年にわたる改革の停滞に疲れ汚職に手を染め解任されますが、また改革の
もう一つの主役であった莅戸(のぞき)義政も竹俣の解任後に隠退します。しかし
経験のない若い者達だけでは改革は後退してしまいます。そこで、莅戸(のぞき)
義政の再登板ということで物語は終わってしまいます。

藤沢周平は映画にもなった「蝉しぐれ」などの時代物を書く作家だと思っていまし
たが、本書はなかなか時代考証も優れており、しかも江戸経済史を学ぶ入門書的な
本でもあります。全く予想に反しハードな歴史小説でした。
http://www.semishigure.jp/introduction.html

本書は藤沢の最後の作品であり藤沢の69歳の死後に発表されてものです。藤沢は
体調を崩してから、末尾6枚の原稿を書き終わると「これでいい。このまま本にし
てもいいし、雑誌に載せてからでもいい。」言ったそうです。

最後のむつかしい日本語の部分を紹介します。
「愛妻のお豊の方を喪った。糟糠の妻だった。その欠落感は大きく、・・・」
糟糠の妻については下記を参照下さい。

http://www.d1.dion.ne.jp/〜kalinka/china/yomoyama/culture/soukou.htm

勉強になりましたね。次回は藤沢の江戸経済史。

[2007年12月01日11時43分]
お名前: カーター

>でも神武天皇が、筑紫から安芸、吉備、浪速と瀬戸内海を 進んだのは知らなかっ
>たです。

日本書紀の記述がどこまで信頼できるかは議論のあるとことろですが、大和王朝 は
畿内の土着の勢力を征服してできた王朝であるように見えます。その起源が薩摩半
島に上陸した大陸のずる賢い人たちであったように見えます。土着の勢力に酒を飲
まして安心させ、陰謀でだまし畿内を征服しました。縄文から続いた文化は純朴で
あり、陰謀は日本的ではなく中国的です。中国の歴史はだましあいの歴史です。新
中国の赤軍がチベットを征服した時も、最初は友好的であったのですがその後過酷
な支配に変わったそうです。

それでは下記に日本書紀の内容を紹介します。

「天皇の軍はついに東に向かった。舳艫相つぎ、まさに難波岬に着こうとするとき
速い潮流があって大変速く着いた。よって名付けて浪速国(なみはやのくに)とし
た。また浪花ともいう。今難波というのはなまったものである。」
 「日本書紀上」宇治谷孟訳、講談社学術文庫
日本書紀には地名の起原についての解説がよくなされています。

「みんな座について酒を飲んだ。敵は陰謀のあることを知らず、心のままに酒を飲
んだ。そのとき道臣命は立って歌った。・・・味方の兵はこの歌を聞いて、一斉に
頭椎(くぶつつ)の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに悦び天を仰いで
笑った。」
中国の歴史書を読んでいるようではないですか?


[2007年10月20日14時42分]
お名前: カーター
日向女さん宮崎市と高千穂の違いを説明頂きありがとうございます。同じ県内でも
かなり風土が違うことでしょうね。山口県でも周防と長門という二つの国が合わ
さってできています。ただ、明治維新の時にはこの防長二州が協力して成し遂げま
した。吉田松陰や高杉晋作は長門の、伊藤博文や井上馨などは周防の出身です。

那須与一の伝説が宮崎にもあるのですか。私は週末にドライブをするのが好きです
が、栃木県には那須という観光地がありますので那須には良く行きます。書き込み
が一時止まったりするのはドライブで行っています。那須には皇室のご用邸があり
ますし、夏でも32度くらいしかなりませんので真夏の暑い時には埼玉県から那須
へ逃げていました。もちろん那須与一記念館も那須の中心からはずれた所にありま
す。

[2007年10月20日14時39分]
お名前: 日向女
一番有名どこは、県北ーーの高千穂くらいかもですね。
東国原さんが、何度かPRしましたしマスコミや情報に
即・影響されてしまう日本人は、新しいもの好きな
いちげんさんが多いですから
すぐいこーとなる人ばかりで現地には人が多いらしい。

天孫降臨は、昔、高天原の天照大神は地上界があまりに
乱れていたので孫のニニギノミコトに地上界に降りて
治めてもらおうと考えニニギノミコトが八百万の神々を従え
高天原を出発。

途中猿田彦の出迎えを受け高千穂の峯にたどり着きました。

しかし峯のあたりは深い霧に覆われてミコト達は困り
そこの土地に住んでいる者があらわれて「あなたが持ってる稲穂を
籾にして辺り一面に蒔きなさい。そしたらその霧は晴れるでしょう。
と言うのでミコトはその通りにしたそうです。

すると霧が晴れ、ミコト達は先に進むことができました。
ミコトはこの地に宮を建てられ末永く住まわれました。

◎天孫降臨は天照大神の孫のニニギノミコトが地上界に
降りられた事を意味してます。

神武天皇
ニニギノミコトが高千穂に住まれて三代後の頃ウガヤフキ
アエズノミコトという神様に五瀬命、稲飯命、ミケヌノミコト
神倭伊波礼毘古命という四人の皇子がおりました。

四人の皇子はくしふる峯の近くの四皇子峯というところで
成長しました。

五瀬命と神倭伊波礼毘古命は日本をどのように統治していくか
話し合われ話し合いの結果、東の国に行くこととなり
日向の美々津から船出されました。

この後、神倭伊波礼毘古命は大和に都を造られ
初代天皇(神武天皇)になりました。
でも神武天皇が、筑紫から安芸、吉備、浪速と瀬戸内海を
進んだのは知らなかったです。

[2007年10月13日12時44分]
お名前: 日向女将
まぁしいていえば日向といっても今でいえば
それは、ひっくるめた広ーーー地域の意味になるし
今は日向市とかありますからね。

歴史がある所といえば日向市もあったと思いますが
日向市の場合は、ひょっとこ踊りが出来た土地で
著名人は、若山牧水の出た所。
私の亡き祖父が牧水とは同じ大学で付き合いあったと
聞きました。

あとは県北にある高鍋町の秋月と(元は筑前の藩主で
秀吉にはむかったので移封された)と

別で高千穂町の天孫降臨の地や

別で、椎葉村では、平家の落ち武者がいた地もあり
ここでは、那須与一の弟の那須 大八郎が頼朝の命を受け
平家追討にきたにもかかわらず平家の哀れな姿を見て
同情して助け平家の姫と愛した悲話がある 鶴富屋敷など

県の南ーにいったら日南の飫肥(伊東藩主で)元は関東武士
とかそれくらいですかね。

あとかごんまに近い今の知事のふるさとに
都 城という島津氏の城や日和城とかもあったかな。

だから県でも北ーーーーーーーーと南ーーーーなら
歴史はあるんです。うちの父が県外者だったんですが
宮崎市内は40、50年前の○○通りはなーんもなくて
ほんとに何もない田舎で凄くビックリしたそうで。

昔は宮崎市内はびっくりするくらい、なにもなく
佐土原や高鍋の方が、ちょっとした城下でにぎわっていたんです。
今は、そっちの方が少し静かーですけど

戦後は、なにもなかった宮崎市内に県外移住者
特に四国出身者なども沢山きて、ほかの県外者も
やってきて、満州のような開拓地と思ってきたのも
いたそうで、宮崎市内がにぎわってきたんです。

でも歴史としては、市内はほとんどなく
「市外」の北ーーのほう、南の方にあるんですよ。
といってもぜんぶを日向とひっくるめてみたら
わからないかもしれないですけど。

[2007年10月09日23時24分]
お名前: 日向女
カーターさん、日向を全て宮崎市とくるめたら
少しちがうんですよ。

高千穂は「高千穂町」のことであり、宮崎市内でありませんし
宮崎市の場合は、ほんと歴史ないようです。
だから本当に歴史を知らない人が多いんですよ。

昔が、どーしたってな具合が多いんですよ。
正直言えば私の職場でも鷹山の事を知っている人は
1人も居ないんです。

知ってるとすれば、藩のそばの地元の高鍋町の人でしょう。
私の場合は、先祖がいろいろ縁があるので知っていたけど

大きな城下がある県外と比べたら、敬う気持ちとか持つ人も
少ないのですよ。私の場合は特別です。

テレビでクローズアップされて、高千穂だけが神々しい
イメージですが、県北になれば確かにあります。
それは、高千穂だけではなく平家も落ち武者のいた
椎葉村とか、もうすぐそこで平家祭りもあるようですが
歴史のある所はあります。

ただ大概、歴史があるといわれるのは県でも北ーーの方か
南ーーーに極端になってて宮崎市内には歴史は殆ど
ないんですよ。

天孫降臨は、高千穂町の歴史です。宮崎市と高千穂町は
全くちがうんですよ。県としてくるめたら入るけど
地 域性があり、そういう歴史の出た所に住む人達は
柄も違います。

高千穂は県でも北の方です。
どっちかといえば、延岡市のほうに近いでしょう。
県外の人は、遠い地域でも近く思えてしまうのでしょうけど
ちいきによって違うんですよね。

それはないだろうと思うよりも
一度色々な場所を目で見た方が地理のことも
歴史も理解できやすいかなと思います。
やっぱり百聞は一見にしかずだと思います。

[2007年10月09日23時01分]
お名前: カーター
日向女様お久しぶりです。

>でも正直、日向は歴史が本当にない土地のようです。

そんなことはないです。天孫降臨神話は日向のものです。皇孫ニニギは日向
の高千穂の峯に降りました。そして良い国をもとめて吾田国の長屋の笠狭崎
(かささのみさき)に着いたそうです。

神武天皇は日向の生まれです。また、天皇は日向国の吾田邑(あたむら)の
吾平津媛(あひらつひめ)を娶って妃とされました。神武が東征に向かい速
吸之門(豊予海峡)に来た時に一人の漁師が天皇の道案内をして筑紫の宇佐
に着いたとされています。神武は筑紫から安芸、吉備、浪速と瀬戸内海を進
みました。
吾田は、現在の日南市の吾田地区であり実在の地名のようです。笠狭崎は現
在の薩摩半島にある笠沙であり、笠狭崎は現在は野間岬と言われています。
笠狭崎をネットで調べてみたところ、下記のような論文を見つけることがで
きました。
笠狭崎は中国から漂流して来たものが到着する岬であり、稲作農耕を行って
いた長江文明の民が北方の漢民族に圧迫されて押し出されたのが雲南省の苗
族であり、台湾の原住民となり、日本列島に移住したのではないかと言う仮
説です。その証拠に苗族と同じように日本には味噌、醤油、なれ寿司などの
食文化があるというものです。なれ寿司は、滋賀県の鮒寿司(淡水魚のふな
と飯を発酵させたもの)など。

http://www2s.biglobe.ne.jp/〜nippon/jogbd_h15/jog304.html

安田喜憲、「古代日本のルーツ 長江文明の謎」★★★、青春出版社、
[2007年10月08日16時33分]
お名前: 日向女
ずっとご無沙汰してました。高なべ藩の三好殿は旧家ですね。
余り色々書くと、ご子息に迷惑になるといけませんし
今の俗世は昔に比べ乱れてて、そういう方々の流れを敬うって人達も
少なくなってきているし色々な事を見極めれる人も少ないので
用はガンタレの多い世の中になったので色々書かずに
そっとしとこうかと。

何いってんのか意味わかんなくなってきました。汗

日向っていう所には北海道や満州など開拓地と聞き移住を決意
したという者も居たり四国での南海地震の災害や冬に雪が降ると
いった状況から日向は気候は暖かく雪も降らないと聞いた方々が
降りた人も多いようです。

明治時代や大正時代のメイン通りの店主は殆ど他県出身で
愛媛県出身者が多いといわれていました。
これを聞けば地元の男は何やってんだ?って感じですけど
東国原さんの場合は、あの人は都城出身のようで
都城はどっちかというと島津領で鹿児島に近いので気質的には
行動派の薩摩系が強いように思います。
今話題の県のおとなしい頼りない日向男と違うかも。

でも正直、日向は歴史が本当にない土地のようです。
あえていえば高鍋藩くらいですよ。よくぞ秀吉にはむかって
下ってきたって感じですよね。

宮崎と同様に城下町起源でない都市を言ったが早いのですが
札幌、青森、横浜、神戸、長崎で、すべて有数の港町や
宿場町でしたが その都市の母胎どころか核集落もない所
から発展したのが全国で2箇所→「宮崎と札幌だけ」
だからかしれませんが、そういう所の民は歴史知らないのが
多すぎるし関心持ってない人ばかりなので足りない感じは
しますよね。

農水大臣を辞職した遠藤武彦氏さんという方は
山形県米沢市の出身だのですか。
鷹山が後継の治広に残した「伝国の辞」を掲げていたのですね。

鷹山が自治体の首長からは理想のリーダーとして断トツの一位
は嬉しいですね。私も山形県の米沢へ行ったら歓待されるかも?
ここでは色々書けないけど。根掘り葉掘り聞かれるかも。

三好殿は高鍋藩の人で竹俣は米沢藩の鷹山の重臣だったかな。
本で見た事あります。三好さんのことは祖母からも聞いた事
ありますよ。
[2007年10月07日16時55分]
お名前: カーター
>昔の幕末期か四国を襲った南海地震でここには住めないで
>災害後にこっちへ下った人が多いって話とかも幕末期を生きた人が
>昔、話してたそうですよ。

なるほど南海地震で四国が住めなくて移住したというのは納得できま
す。我々中国地方に住んでいたものは四国は対岸ですから、本州に渡っ
てから門司から南下するのではないかと思ったりしますが、四国が九州
に面していることは忘れがちです。

ところで、先日農水大臣を辞職した遠藤武彦氏は山形県米沢市の出身だ
そうです。自身の公式ホームページであるエンタケネットは現在工事中
で見ることはできませんが、鷹山が後継の治広に残した「伝国の辞」
(国家は先祖より子孫ヘ伝へ候国家にて我私するべきには之なく候)を
掲げていたそうです。(産經新聞9月4日から)
読売新聞の調査によれば、鷹山は自治体の首長からは理想のリーダーと
して断トツの一位だったそうです。遠藤氏には、もう一度勉強をし直し
て再出発を期待したいです。東国原知事にも当然鷹山を勉強して欲しい
です。

最近、藤沢周平の「漆の実のみのる国」を読み始めました。先のメッセ
ージで紹介した高鍋藩の家老であった三好重道について藤沢は次のよう
に書いています。
「・・・ご実家の三好どののお仕込みがよろしかったのでしょうな」
「直丸を幼少時から訓育して来た高鍋藩の老臣三好善太夫重道が、二度
にわたって養家の人となる心構えを記した訓戒書を与えたらしいという
風聞を当綱(竹俣)も耳にしていてそう言ったのだが、・・・・」
読了した感想を童門氏の著書との比較などもしてみたいです。



[2007年09月15日10時27分]
お名前: 日向女
秋月家のこと、カーターさんよくネットで調べましたね。
多分あってたと思います。この前、別の武家屋敷で
藩主以外の秋月家関係の方々の写真が色々と飾られてるとこも
見ましたよ。品がやっぱありますねー。

今の高鍋には四国からの移住者が(多い)っていうのは、
多いといっても沢山ではないと思いますが私の推測と
してはー四国は昔から大きな災害がある災害県ですし(最近ないけど)
それに雪も降る所なので、高鍋に限らず日向は雪も降らないし災害も
さほどないしで住み易いと言う点で下った人が多いのだろうと
推測しますが、船長さんの話も納得ですね。秋月氏と山内家の縁組かー
それも一理あって来た人もいるのはあるかも。でもそればかりでは
ないかな??昔の幕末期か四国を襲った南海地震でここには住めないで
災害後にこっちへ下った人が多いって話とかも幕末期を生きた人が
昔、話してたそうですよ。

それが愛媛からきた人か高知からきた人かまでは流石に
分からないけど(苦笑)
宇和島経由か他のフェリーできたかはそこまでは、推測出来ません。

今でいえば日向に来るフェリーは2つしか無かったかと?どちらか
使ってきたんでしょう。豊後水道もわたった人もいるでしょう。笑

でも昔から秋月藩としての流れをくむ人々も根付いて
居りますよ。元は福岡の筑前にあった藩でしたからね。
秋月藩でしたけど、藩主が秀吉の九州征伐にはむかったために
日向移封になり、家臣ともども300人ほどだったか下ってきて
後々では高鍋藩って名乗ったりもしたけど、元々は秋月藩だったし
藩主の名も秋月氏なので秋月藩とも言われてましたね。

私としては昔のままでいてほしい町です。
フェリーである港まできても、そこから車で移動すると
その町までは1時間30以上かかるかも。
もしいっても、期待するほどの立派な城下ではないですが
私は好きな町ですね。
[2007年09月03日22時16分]
お名前: 水軍丸船長
訂正のこと!・・・すみません。高鍋城(藩)の字を高城城と誤記して居りましたので謹んで訂正します。
[2007年09月02日18時22分]
お名前: 水軍丸船長
もう一言・・・土佐の国の山内一豊の直系のお方も、江戸時代に秋月家に縁組にて当主を継いでおられた記憶してます。・・・高城城下に土佐の縁深い人達が、多く居られるとすれば、多分船長の推測では、土佐の山内家・・高城の秋月家(元の所領は別所、筑前他近國ではなかったかと?)・・・もしも、土佐の国人が、移住したとすれば江戸時代の山内家の縁組が発端ではないでしょうか?。
[2007年09月02日17時08分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、もうソロソロ・・・秋の先達の涼風が恋しい季節に想いを馳せて居ります毎日です。
秋月は真に日本の侘び寂の面持ち(心穏やかな趣かもと)・・・九州筑紫と四国伊予の古之古事由縁はまだまだ謎々領域とかと?・・・我等伊予の水族越智氏由縁之水軍河野の子孫を代々家伝にて、今日まで受け継いで参って居ります一人として、瀬戸内水軍の誕生の歴史を紐解くのも容易ならず、又時代の変遷に遡れば、諸処の学識・学説の巷に、諸説・・・翻弄の義も否めず、
毛利氏と秋月氏の主従関係も、或る時代から古き因縁の係わりは在って不思議では無く、船長のささやかな認識では、源平合戦の時代前後(平安・鎌倉)政治体制の移行変遷の世情の最中にて筑紫と伊予(例えば承久の乱前後の伊予河野氏と直前の肥前・筑前・豊前の守護武藤氏と親密な関係)と中央政権動向(院政から・・・武家の台頭)の巷に、足を踏み入れば、其の後において伊予河野氏と水運(軍)の将村上氏と毛利氏の懇意・親密なネットワークは歴史の奥深さを感じざるを得ませんね。 未だ未だ探索の労を重ねる思いに・・・生甲斐を感じております。
[2007年09月02日16時35分]
お名前: カーター
水軍丸船長様、日向女様お久しぶりです。秋月氏が漢の皇帝の子孫であったことは
初耳でしたので調べてみました。家紋のホームページで秋月氏について下記のよう
に記してありました。秋月氏は一時毛利氏の家臣になったとも書いてありました。

>秋月氏は大蔵氏を遠祖とする。大蔵氏は後漢霊帝の玄孫が、来朝し帰化したもの
>の後裔といわれる。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/akizuki.html

また、邪馬台国を研究している人のHPには次のような記述もあります。

>秋月家由緒によれば、大蔵氏は後漢霊帝の玄孫が来朝し帰化した阿知使主
>の後裔といわれる。大蔵春実は天慶3年(941)、藤原純友が反乱を起こ
>し大宰府に攻めこんで焼き打ちしたとき、 朱雀天皇 より錦の御旗および
>天国の短刀を賜わり、小野好古らとともに純友を追討した。

ところで高鍋には四国からの移住者がおいい(多い)とのことですが、宇和
島のあたりから直接、豊後水道を渡って来るのでしょうか。

[2007年09月02日14時16分]
お名前: 日向女
カーターさんは県外の方なのに実に熱心な鷹山ファンですね。
私、今日はその種茂殿の居た地へ又行って参りましたよ。

神社でもお祈りしてまいりました。その神社のわきには
梅がなってまして看板みると太宰府天満宮から拝受した
菅公ゆかりの飛梅と書いていました。それを見上げて大宰府から
貰ったのか、なんでやろーと思ったり。笑
あーー分かった。種茂の教育がいまだにその町に生かされてて
優秀な人材が出るから合格祈願の学生が多くてそれで
貰ったんかもしれません。でも人がここの町は最近は
四国から移住してきた人がおいー(多い)なったーと
言ってましたよ。雪が降らないからかな。

少しだけ歩いて秋月氏の邸宅へ
そこの神社の手前に看板があるので、それを一部打ちますね。

舞鶴灯篭まつりは、秋月種茂を偲び明倫堂の教えに明かりを
ともすことを目的にはじめました。秋月種茂公は、上杉鷹山の兄に
なるのですが、種茂公は、18歳にして間引きを止めさせるため
農家の子供3人目からは一日米を二合
または?(写真の写りが悪くよめなかった)を支給させ
児童救済を先駆けて行われた人でした。
また種茂公が人材育成のために創設された藩校の明倫堂では
各人が自分の行動規範を確立することという心の教育が熱心に
行われました。現在のような家庭内暴力、幼児虐待といったことが
頻繁に行われている今日、いまいちど明倫堂の教えを思い起こし
心の教育を町内に広めていきましょう。 
秋月種茂公は、祖が漢の皇帝であったため灯篭を中国から
輸入し設置しています。 ・・とかそんな事が書いてありました。

隣接する資料館にはもう飽きるほど行ってるので
そこには行かず違う所へと行きました。

ある有名な屋敷にいったのですがそこは、うちの先祖も
一緒にそこへ住んでた事もあった屋敷でして
昔の事をよく知る方(かなりご高齢な方)にも出会えて
なんとうちの先祖の事を、きいた事あるって言いだし
色々な話で盛り上がってしまいました。
そこに○○さんの孫がいるからお会いすればいいのにとか
○○にもお会いすれば喜ぶのにと色々すすめてくれました。
その方が、昔の話をよく知っていらして
色々教えていただき、余計に昔の事が更に目に浮かぶよう
分かりました。うちの親戚は高鍋藩だらけだったらしいので
そういう藩だけの人としか付き合いさせなかったとも聞いてて
鷹山殿のことや種茂殿のことは少しは聞いていました。





[2007年08月25日23時11分]
お名前: 日向女
うわーーーびっくりしました。本当ここを久々に見たので
件数増えてると思っていたら水軍丸船長さんまで、どうも有難う
ございます。さてさてカーターさんやりましたね。
県知事にメール発信しましたか!!笑 尊敬します。その行動力。
私も実は数ヶ月前に文書作っていて、送ろうと思ってて
作ってたのにそのまんまだったんです。カーターさんに先越されました。

船長さんの言うとおり裏金があったというのは実に役人がルーズで
怠慢でずるがしこい!!というイメージが出来てしまいますよね。

民間レベルで自営の方々のような自分のお金で胸を痛める事がない
結局は税金で楽して使おう、できれば残して来年楽にしようという
汚い根性から、隠し貯金みたいな裏金になるわけですよね。

大体裏金なんかを作ってんのどーせ正規の男性で
頭のかてー変な奴が横車まわしてるんだろって思うし。
上杉鷹山が見ていれば許さないでしょう。

でも上杉鷹山と一般人を比べると失礼かもしれません。
上杉鷹山は、元は高鍋藩に居ました。

高鍋の秋月種茂の実弟でしたが、今の山形県(昔の米沢藩)を
救う為に上杉家へと養子で入って上杉家の藩主となった訳です。

だから元は秋月家の人間で秋月氏の祖は、漢の皇帝です。
皇帝の末裔と裏金作りや自分の保身しか考えない学力だけの
一般人と比べたら上杉鷹山も俺と一緒にするなと思うかもですが
それくらいの身の引き締めをしてもらいたいですね。

昔の県庁は家柄のある藩・出身者がしめていたらしいんですが
今は人間性なくてもルーズでも?昔は、ものすごい人選だったので
裏金なんか作る奴もいなかった。今は少しルーズになってて
だらしなくなってる人が各部署に数人はいるからそうなるのか?

「学力だけ」「試験にさえ通れば」って感じではつぶれます。
心の教育、人間性を豊かにしないと威張るだけで
ずるがしこい道に進むなら昔の悪代官と同じです。
全部のしょくいんに上杉鷹山の本、読んでみろって言いたくなりますね。
知らないっていうのは、かなり情けないですよね。

[2007年08月25日22時51分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、残念ながら米沢藩まではお伺い出来ていません!日向の国高鍋城内に在る高鍋藩資料館にて、鷹山の出自や、江戸から、上杉家との縁組関係所以や、米沢藩政の改革等の功績や、歴史の諸書にて、興味を持ち、誰も知る『為せば為る為さねば為らぬ云々』のスピッツを垣間見る程度の知識しかないのですが、この時代には・・・地方経済・ずさんな年金・所得格差・少子高齢化の諸問題も、身分を『律』して、正しく鷹山の爪の垢でも舐めて、官公庁のお役人や地方行政の公務員にも、精神精励を傾けて頂きたいものですね!
[2007年07月22日17時08分]
お名前: カーター
高鍋藩の存寄(ぞんじより)の制度は、藩政についての献言(意見の具申)、献策
をさせる「下意上問」(下の者の考えを上の者が聞くこと)の体制でしたが、この
制度は人材育成、発掘の一つの方法でもありました。出された献策は時宜に応じた
施策かどうか、適否を検討され、すぐれたものはすぐに採用されました。そのため
には領内の実情をよく知り、時代の動きに適応した存寄がだせる人であること、そ
れを聞くことができる人であり、そして適正な判断がくだせる人物であることが求
められました。

高鍋藩では上士よりも、検官、代官などの中間層の実務家にすぐれた人材が育ちま
した。この人達によって藩士の教育、藩校明倫堂の「実学」教育も推し進められた
ので、さらにより優れた実務者が育ちました。

さて、『「仁」と「諫」』においては、鷹山のことにも言及されており、治憲(上
杉鷹山)が秋月家から上杉家へ養子で行くことが決まった際に、家老の三好重道は
治憲にはなむけの言葉である書を呈しましたが、中身は高鍋藩で培われて来た存寄
でした。

「貴人は御身随分と明鏡の如くなくては、下の善意を知ること能はづ、・・」
さらに、諫言をおろそかにしてはならないとして、
「大臣はお国の柱、必ず用ひなされ、小臣と言えども異見を申し候者、必ず御悦び
なさるべき候。諫を納むる事(家臣からの直言を聞くこと)は、人君の美徳にて、
諫を申し候臣は、戦場の一番槍の功より増さる・・・かねがね御覚悟なさるべく候」
そして、三好は「仁慈」すなわち人と人との間の慈しみの心を説きました。仁慈は
他人にやさしくであり、それが人君の道にかなうとしました。治憲は藩主になった
直後に「生児愛育」つまり、生まれて間もない子供を生活苦から殺してはならない
との命令を出しています。

[2007年07月22日14時17分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、日向之国の国政を命を懸けて極まった政治体制・大胆な経済政策改革を為した人物を忘れてはなりません!・・・今の宮崎県は?・・・なんと何と!・・・二億五千万円の裏金(隠し金)の存在が暴露されたとの報道!・・・時を得た東国原知事のお手柄なのか?・・・真に従来のお役人のふしだらな・・自惚れの積み重なった悪銭ですね!・・・聊か腹も立ち、時代は移れども、当国救国の賢者・上杉鷹山のご意向・逆鱗に触れるのも当然の諸行。・・嘗て、縁あって鷹山の資料館に足を向けて、自らの目で確かめた記憶が甦って、今更ながらカーターさまの御投稿の義の必要性を感じ、検めて、東国原知事の耳に届けなければ為りますまいか!?。
[2007年07月19日20時51分]
お名前: カーター
水軍丸船長殿、お久しぶりです。レスをありがとうございます。先のメッセージを
宮崎県知事宛に下記のホームページから発信しておきました。もちろん返事はあり
ません。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/chiji/

「貴重なご意見をありがとうございました。」と言うようなメールを自動返信する
ような細工があっても良かったですが。

ところで、先日みやざき文庫34『「仁」と「諫」−高鍋藩・鷹山を育んだ風土の
形成と展開」』永井哲雄著(2005年2月18日)をAMAZONで購入して読み
ました。”秋月種茂、AMAZON”をキーワードにしてGoogleで検索すると「仁と
諫」が出て来たので購入したものです。昔だったら、わざわざ宮崎まで行って本屋
で探さないと地元で発行された本はみつからなかったものです。

この本は、地元の研究家である永井哲雄氏が上杉鷹山の実の兄で高鍋藩主であった
秋月種茂(1744〜1819)の時代に藩の代官や藩校明倫堂の教授などを勤め
た儒学者「千手八太郎」の著書である「自求録」をもとに種茂の時代の藩政につい
て述べたものです。上杉鷹山と秋月種茂(鶴山と号す)を育んだものは何であった
のかという問題意識からスタートしています。

当時の藩の方針は「学問・武芸の振興」「農耕の出精」「倹約」の三点がありまし
たが、一向に成果が上がらなかったために採られた制度がありました。
その中でも重要な「存寄(ぞんじより)」という制度があり、藩主の方針が出され
た際にその方針を実施するにあたって、どのような方法があるかを直接担当者から
策を出させ、中間管理職は人事を中心に成果の上がる存寄を出し、これに基づいて
家老の存寄が示され決定実施されていくというものです。上からの一方的な命令で
はなく下からの提案という制度であったのです。

その存寄には千手八太郎が実現したものに、朱子学を藩の正学として藩校明倫堂の
開設、また天明の飢饉(1788)に際しては、飢饉を目にした地方役人として義
倉の設置を献策して実現しました。八太郎は朱子学者でしたが、学問の目的は実行
にあるとし、実務を離れた学問は真の学問ではないという考えの人でした。
        ー続くー
[2007年07月15日11時44分]
お名前: 水軍丸船長
お久し振りです・・・日向之国も真に東国原知事の誕生と共に、スポットライトを照れされた感なれど、恰も阿波踊り・・今様蜂須賀公の如き哉?!・・歴史を偲び先人の宮崎の起死回生を願いて、高貴なスピリットと業績を正しく今に評価して・・中心帰一の喩えを敬い、凛として尊ぶ真情を望みたいものですね!・・カーター殿・・・日向の女さま。
[2007年07月09日12時38分]
お名前: カーター
日向女様。お久しぶりです。レスをありがとうございます。高鍋藩の認知度について
宮崎県の事情については了解しました。さっそく知事宛ににメールします。


[2007年07月08日22時14分]
お名前: 日向女
久々見ました。カーターさんのお気持ちは私も
分かります。でもここで書いても知事は多忙で
気付かないでしょう。高鍋藩の事に関しては
県民もですがそして県庁なんかも歴史認知度はまだまだ低い
ようなのでとくに知事には分かってもらえるように
しないといけないですね。

多分というか今の時点では、高鍋藩のことも上杉家へ養子にいって
米沢(今の山形県)を救った藩主が高鍋から行った者とか
絶対知らないはずですよ。観光PRはもう十分したようですから
歴史的な事をも少しPRして 人づくり、景気回復
まだまだすべきことはあるんだと思います。
鷹山の事を知っていただき、それが参考になれないいとも思いますね。
まずは、鷹山の事を知ってもらうことですね!! 
[2007年07月06日23時54分]
お名前: カーター
宮崎県
東国原知事殿

 最近のご活躍応援しております。本日のテレビでは宮崎の神話と癒しの道と言う
構想をご紹介頂きました。宮崎県のホームページには、ひむか歴史街道の構想も出
ていました。サイト内での高鍋藩の中興の祖で上杉鷹山の兄にあたる秋月種茂と上
杉鷹山の二人の名前を探してみましたが、残念ながら二人とも県庁のサイトの中に
は記述がないようです。県庁での知名度は低いようです。
 知事がテレビに出られる度に秋月や上杉の名前がいつになったら出てくるのかと
思っていましたが、いまだに知事の話の中で出てこないのはとても残念です。上杉
鷹山は世界的に知られた宮崎県が生んだ最高の偉人であるからです。
 最近は、新渡戸稲造の「武士道」を読んでいますが、新渡戸は第五章「仁ー人の
上に立つ条件とは何か」の中で新渡戸は章の冒頭で「民を治める者の必要条件は
『仁』にあり」と述べ、プロシアのフリードリッヒ大王の「朕は国家第一の召し使
いである」と言う言葉を紹介し、次のように述べています。

「あたかも時を同じくして日本の東北の山間部にある米沢では、上杉鷹山はまさに
同一の宣言をしていたのだ。
『国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民には之無く候」と。
封建君主は自分の家臣に対しては相互的な義務を負っているとは考えなかった。し
かしながら祖先や天にたいしては高い責任感をもっていた。君主は民の父であり、
下からその民をいつくしむことを委ねられていたのである。」
 「武士道」新渡戸稲造著、奈良本辰也訳解説、三笠書房、知的生き方文庫より

このスレッドでは、前に内村鑑三の「代表的日本人」の中の「上杉鷹山」を紹介し
たことがあります。内村は鷹山の「民の幸福は治者の幸福である。」と言う言葉を
紹介していますし、行政改革、産業改革、社会と道徳の改革と鷹山の改革について
述べて行きます。

このように二人とも奇しくもキリスト教徒であり、英語が堪能であったため英語で
自著を出版することができました。上杉鷹山は海外で二度も英語で紹介されたので
した。日本人により日本人とは何かと言うテーマで英語で二回も紹介されれば、さ
すがのケネデイーも知ることになったのではないでしょうか?

東国原知事が上杉鷹山と秋月種茂のことを知っていれば、当然改革は現在の観光を
中心としたものから、産業改革の方向へ進む必要があります。神話と癒しの街道も
所詮は観光事業に過ぎません。それでは、東九州高速道路の建設の後にどのような
産業起こせばいいのでしょうか?知事の発言と行動に全国が注目しています。
ご活躍に是非期待します。

[2007年06月03日14時26分]
お名前: 日向女
石井十次、孤児救済の前には放蕩してたなんて知らなかった。
逆にちょっとショックだったかも。

祖母とかは、よう石井さんの事は知ってましたわ。
特に曾祖母の代までは、金持ちだったんで
寄付をかなりしたみたいです。

 種茂の映画はないけど、私のブログに詳しい事やら
書いてますが写真も。
ここにコピペすると色んな人がみちゃうので・・

そういう映画作るといいですよね。知人に言ってみようかな。
映画作る人いるんですけど、でも九州の歴史はその人知らないからな。
知ってる歴史の方作っちゃいますからね。
兄の種茂と弟の鷹山の映画をもし作ったら
出来上がりは、皆が感動して今の生活を改めるかもね。
こんなに尽力した殿様が居たなんてと涙が出る映画が
出来るかもしれません。
陰にかくれてる兄の映画だけでもなんか出来たらいいかも
しれないですね。
[2006年11月12日21時07分]
お名前: カーター

 日向女さん、石井十次の紹介頂きありがとうございました。
ネットで調べたところ、「石井のお父さん、ありがとう」と
言う映画が2004年に公開されていました。松平健と永作
博美が主演しています。

http://www.gendaipro.com/juji/index1.html

 放蕩の末にキリスト教の洗礼を受け、3000人の
孤児を救ったそうですが、腎臓病で48歳の若さで亡く
なりました。
 種茂の映画はないようですね。もっと調べてみたいです。


[2006年10月22日14時43分]
お名前: 日向女
重複しますが、宣伝のため。笑
種茂の弟の鷹山は上杉家の養子として山形の米沢藩に入り活躍する
宮崎の高鍋藩を大きく発展させ「中興の名君」と言われた種茂

藩政改革の重要な事業として、取り組んだのが
「優秀な人材を育成し登用する」事。
国を作るには人づくりから。秋月種茂は、1778年の安永七年に
藩校「明倫堂」を創立。
ここで八歳から三十歳まで、幅広い世代にわたって農民、商人、武士
身分は関係なく熱心な教育が行われた。
この「明倫堂」から、驚くべき人材が躍り出てきた。
何故かは、勉強をさせ成績の良い子には江戸や京都で留学という形で
勉学を更に積ませそのお金も藩が全て出して奨励していたから。

種茂は元は36万石の大名だったが秀吉の九州征伐にはむかい
日向へと移封されて家臣共々下ってきた。 そして日向で
3万石となってしまったが家臣に優れた者多く、水田工事、治水工事
その他、色々で実際の力は7万6000石。
しかし江戸には、昔のまま秀吉が3万石と命令したままにしていたが
実際は、倍以上もの力保有。その分、貧しい農民を救済
間引き、ばくちなど禁止した。そして日本初の児童手当の実践者。
庶民の生活にも心を用い、農民の三人以上の子どもには、
一日米二合または麦三合のいずれかを支給し
産婆のない町に産婆を大阪から招きよせ
双子の出産にはお金をとらず、扶助料を給した。
貧しい農民には、朝鮮人参を栽培して藩の蔵に備え
領民へ無料で施す。足軽の江戸勤務の生活資金も援助。
博愛精神が強いのでこの藩からは石井十次も出た。
石井氏は孤児の父である。元々は石井十次は土佐の遍路の
人より自分の子供の面倒を見てくれと渡され、それが
きっかけに孤児救済するようになったとか。
のちにこの地では、大審院長として活躍した三好退蔵や
〈足尾鉱毒事件で弁護士として農民たちの勝訴を勝ち取った〉
孤児教育の世界的先駆者の石井十次とか→秋月藩主も
だいぶこの方に寄付して、結構、石井さんが助けた孤児が
何千人となって藩の財政圧迫する位になった話も聞いたこと
あるけど、藩士達も石井氏に協力し、だいぶ寄付したようです。
ほかに明治の外交に活躍し創価教育学会の顧問であった
秋月左都夫氏も「明倫堂」出身。

先日、灯篭祭りがあったので10月14日行ってみました。
小学生の手作りの灯篭が城跡に並べられてて綺麗でした。

秋月種茂とか石井十次とか博愛精神とか、まめ侍とか
好きな事を色々書いてあったけど、綺麗で良かったです。
そばの美術館には若き頃の種茂と鷹山の胸像があって
写真色々とりました。太鼓とか露店があって、大規模では
ないけど良かったです。
[2006年10月16日21時40分]
お名前: 日向女
時間があったら来てみたいとの事ですが
鷹山さんの故郷を訪ねるなら、やっぱ高鍋でしょう
移動は市内ーだと汽車の方が早いかも。
一番いいのはレンタカーだけどナビないと
迷うかもね。案内人いないとスムーズに移動が
厳しいかもしれません。
これ言っていいのか?・・・実は1ヶ月前に
秋月氏の末裔さんも来たそうです。
さらっと流してください。
[2006年10月06日16時13分]
お名前: 日向女
安田氏は、ご先祖様が秋月藩の絵師の家系
本出してるのは私の方は随分前に知っていましたが
本は売ってません。県立図書館で貸し出ししていますが
県外貸し出し対象になるかは、分かりません。
私が前にいた公共施設でもその本ありました。
両方見ましたけど、漢字だらけなので
古文が得意な人にはいいかも?でも大体の内容は読めば
分かりますよ。
[2006年10月06日15時55分]
お名前: カーター
 私と同じようなことを考えた人はいたようで、安田尚義さんが「秋月種茂と
秋月種樹」と「上杉鷹山」の二冊を書いています。日向文庫と言うところから
出ていますが、現在は古本屋にもありません。運良く入手できた人もいるよう
です。時間があったら妻といっしょに宮崎まで旅行に行きたいですね。
[2006年10月05日21時20分]
お名前: 日向女
わたしPCしてる場合じゃないんですけど返信まで
カータさんのかいていたURLの↓は、資料館にありますよ。
一部がホムペ載った感じですね。
http://www.town.takanabe.miyazaki.jp/history/index.html
重複しましたが。

高鍋町は、文京の町だったので昔は、現在、活性化してる
宮崎市内よりも町で城下だったんです。
今では、高鍋は静かで長閑な町です。
他から来た人は、なんだ田舎じゃんと思うかも
しれませんが、昔は、良民ばかりで私の祖母が若い頃
(明治時代か)夜中の2時、3時に町を歩いても怖くない位に
治安も良かったそうです。同じ町内で出た
石井十次にも孤児3000人救ったり人を助ける精神を
持った人が多かったようですね。

しかし現在ではよそ者がいりこんで来て、
私としては余り博愛精神の無いようなもんが
住み着くのは、歓迎しないですね。

たまに山形県(米沢)から資料館に団体ツアーで
来られた時、あぁこの人が米沢を救ってくれた
鷹山さんなんだわーと言っているそうです。
こっちの人が山形いくと、大変丁重に扱う話も
聞きます。

鷹山と種茂とのやり取りの手紙は、
勿論やりとりは、確実にあったようです。
ただ、手紙があったかは、覚えてませんが
秋月家はまだ残ってますよ。開放型なんでそこに
物(文だの色々)は置いてないですよ。家の中に
入れていたら盗られるでしょう。
だから館のガラスケースの中にあるものは、入れてるのですが
でも、そこの資料館にあるのが全てではないと思ってます。
だって藩に仕えた重臣の子孫なんかは
藩主からもらったものを個人宅で持ってる場合が
ありますから。館の横が秋月さんの屋敷になるんで
どーせなら一度遊びがてら行って見るといいかも。
100聞は1見にしかずで、見た方がよく分かると
思いますよ。ただし宮崎空港からそこは車で2時間は
みといた方がいいかもね。


http://www11.ocn.ne.jp/~k-found/jyokaku/hyuga/takanabejyo.htm
http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/shisei/hisyo/takanabe.htm

↓これ用水路そばの灯篭撮ったのかな?
   もっとすっげー綺麗なんですけど!こんなもんじゃないよ。
http://www.geocities.jp/npogreens/miyazaki-maturi.html

[2006年10月03日10時39分]
お名前: カーター
日向女様、秋月三郎が移封された際の書状や明倫堂のを紹介を頂き有り難うござ
います。興味深く読ませて頂きました。高鍋町のHPや明倫堂などを調べて見たとこ
ろ、下記のようなものがありました。

http://www.town.takanabe.miyazaki.jp/history/index.html

秀吉朱印状
天正15年(1587) 7月3日、豊臣秀吉より秋月三郎種長にあたえられた書状「日
向国高鍋城をあてがうが知行方目録は中納言(羽柴秀長)より受けとれ」としるし
てある。

http://www.miyazaki-c.ed.jp/takanabehigashi-e/higashi-meirindou.html

 高鍋東小学校では、明倫堂の精神を守って教育を行っているとのことで、この小
学校から将来優秀な人材が出て来ると期待できます。

 ところで高鍋の明倫堂の設立は1778年ですが、米沢の鷹山が設立した興譲館
の設立は1776年です。細井平洲を招いて鷹山が人材育成のために始めたのです
が、童門冬二の「上杉鷹山の経営学」にあるように明倫堂と同じように、「興譲館
は、決して孤立した士だけの学校ではなかった。平洲は、鷹山と相談して庶民の中
でも学問好きな者はどんどん入学させた。そして同時に、平洲はじめ教授陣は、町
や村に積極的に出かけて行って、村人や町人を集めて。出張講義をした。」
 上杉治憲は兄の秋月種茂の影響を受けたかもしれませんが、種茂は弟の治憲の実
行力の速さに影響を受けて明倫堂を設立した可能性もあります。高鍋の資料館には
鷹山と種茂とのやり取りの手紙が残っていなかったでしょうか?秋月家はまだ残っ
ていますか?その家の倉などに手紙が残っていればわかるかもしれません。
[2006年10月01日10時44分]
お名前: ATTILA
 横レスでぇす

 日本で最初の西洋産婦人科医は、シーボルト稲(シーボルトの娘)さんです。もちろん、例の事件でパパが追放された後のことですね。

 稲さんは、緒方洪庵塾の女子学生一期生でもありんす。




[2006年10月01日01時54分]
お名前: 日向女
上一行だけだぶってます。↓

さっき2つ投稿して記事が違ってるんですが先頭の1行だけ
おなじになってました。すみません。

[2006年09月30日21時03分]
お名前: 日向女
その女医さんの事は前々から知っていました。ドラマでありましたし
他に見たものでは、5代目の秋月種弘が徳川吉宗(八代の
TVの暴れん坊将軍っていったらわかる?→実際違うって)に
吉宗の息子の端午の節句祝いとして丹物を送ってるんです。
吉宗がそれを嬉しく思い、礼状を書いて送った文もありました。

6代目の種美は、明倫堂を作るきっかけを作ったようで
7代目の種茂が1778年の2月に明倫堂を作ったんでした、
そこの看板は藩主自ら書いたもの
その明倫堂っていうのは、農民も商人も士族の子も身分
関係なく勉強させて文教精神を養ったんです。
他の所ではこんなことしてなかったと思います。
さらに成績の良い子には、身分関係なく藩がお金を
出してもっと努力なさいと江戸や京都のどちらかに
留学みたいな形で更に勉学を積ませたと。だから優秀な人が
色々出たんでしょう。
11代の種樹(たねたつ)は、後々で明治天皇に本の読み書きを
教えています。それは秋月氏が家柄もあり聡明で賢かったから
です。でも可哀想なのは、種樹の弟の種事(たねこと)は
西南戦争の激戦、田原坂の戦いで33歳で戦死し、それを
兄の種樹は嘆き悲しみ泣きながら詠んだ詩も 実はうちの
父方も母方もこの戦いに出て生きて帰ってきていますが
殆どが死んでその場で埋められたり帰ってきても
銃弾の跡が悪化して死んだりだったようです。

西郷さんは、鹿児島:幕府軍(実は幕府軍も鹿児島人多かった)で
戦ったけど、援軍で宮崎の佐土原藩、高鍋藩、飫肥藩あちこち
呼ばれ近隣の藩も援軍に借り出されてるんです。
だから高鍋藩も全員援軍で出たので種事も田原坂で死んだんです。
ってことで最後に話が脱線しましたけど、一度カーターさん
城下跡にきてみてはどうですか?遠いね。
10月14日には灯篭祭りがあって今年こそはいくつもりなんです。

[2006年09月30日21時00分]
お名前: 日向女
その女医さんの事は前々から知っていました。ドラマでありましたし
昔は女が出産で苦労したらしいですから、産後こき使われたりや
出産後にすぐ風呂に入って抜けたようになったりとか。

今日は久々に高鍋にいってきましたよ。
資料館には、種茂の直筆の看板とか、功績も少しありました。
秋月氏の先祖は、一番初めの祖が中国の漢の高祖
劉邦の末裔です。後漢時代の皇帝 霊帝の祖孫である
「阿知王」が魏の乱を避けて一族を連れて応神天皇の
時代に日本に亡命して帰化したようです。

みたものには、豊臣秀吉が直筆で秋月氏に送った
文がありました。結構達筆です。
それが、昔に秋月が島津と組んで戦いをしたのが
あったんですが負けて秀吉が九州征伐しようとした
のをはむかったので、これに怒った秀吉だったが
秋月氏は死にたくはなかったので秀吉の
日向高鍋への移封の命をやむなく組んだのです。
秋月は元々は36万石でした。高鍋へ下って3万石に
なりました。

その当時、秀吉が秋月氏に移封を命じた書の内容

今度の御恩地として日向の国 高鍋城仰せ
付けられ候
条、同じくその廻り明き処分の事、
あてがわれおわんぬ、但し知行方目録は
中納言(秀長)より之を請け取り全く領地せしめ候
今より以後 忠功を抽きんずべきの由候也
天正十五年 七月三日 (秀吉朱印)

秋月三郎殿へ
ーーーーーーーーーーーーーーー
実はーですが、資料には3万石になったとか
江戸に提出したのは3万石と書いていたけれど
殿は、頭が聡明で人情家、書や絵も得意
家臣も優れた者が多く、土木工事、治水工事、水田開発で
活気付いて実際は7万6000石の力はあったが
それを出すと取り立てられるので力はあったが
初めの3万石に申し付けられた通りのまま江戸に
報告してたとか、だから領民に色々手厚くできたのかも

[2006年09月30日20時38分]
お名前: カーター
日向女さん、書き込みをありがとうございます。
種茂の資料を集め、まとめたりして書き込みをして
頂きたくお願い致します。将来、鷹山に影響を与え
た種茂と言うことで出版することも可能だと思います。
「鷹山」は二人いたと言うことです。

 ところで、女医についてですが、我が行田市の隣の
旧妻沼町(現熊谷市)から日本最初の女医が生まれました。
詳細は下記を御覧下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E9%87%8E%E5%90%9F%E5%AD%90
[2006年09月17日10時05分]
お名前: 日向女
まだ寝てなかったんですが、笑 余談な話なんですがー
昔ーは産婆がいなくて大阪から招騁しとか書いてましたが
産婆が居ない時は、産褥熱で亡くなる人が多くて産後は
最低1ヶ月以上安静しないといけないのに昔だから
いきなり農作業させたり、出産後にお風呂は
絶対厳禁なのに風呂に入らせて、呆人みたいになって
死んでく女性が凄く多かったらしいんです。それで
祖母の叔母になる人がこの町は産婆が誰もいない。
出産で死ぬ女性も多かったので、あまりにも不憫だと
いって、勉強して女を助けるといって産婆になって
町の女医になったそうです。種茂も立派ですが種茂と同様
博愛精神を持ってたので有名なのは石井十次です。
彼は孤児救済で大変有名になりました。祖母が石井さんには、
相当な額寄付したと言ってました。昔は市内より高鍋の方が
城下町として賑わっていたようで、今はのどかな所です。
藩主やこの著名人のは展示されてると思いますが
聞いてみるとしますのでお待ち下さい。
[2006年09月17日00時59分]
お名前: 日向女
歴史民俗資料館などに展示して有るのでしょうか?は
身内に聞いた方が早いので聞いてみます。
あらっ、もう遅いので寝ないと。( ^^) ~~

[2006年09月17日00時39分]
お名前: 日向女
ここに書いていいのだろうか。詳しく書けない部分が出て
くるんですが、ここ内緒とかが出来ないので。(汗)
今では展示品色々でしょうが引き取ってください!て
言われたそうなんで、今度は違うの置くのかなっておもったり?
親戚も昔は秋月藩出のが多いから種茂関係の直筆の書とかも
見ました。他にもあったようで、殿から色々貰ったようですね。
前にも言ったかもですが??うちの先祖、種茂の重臣でしたし
先祖が種茂の事を書いた漢文の本もあって、昔の漢文で
販売はしていませんけどね。うちの親戚のとこの方が資料館
みたいかもしんないですよ。笑
[2006年09月17日00時35分]
お名前: カーター
 日向女様、秋月種茂の話をありがとうございます。
人材の登用、土木工事、児童手当、藩校の建設など
鷹山の政策にも影響を与えたことでしょう。話あって
いなくても親戚の噂と言うものは聞こえて来るもの
でしょう。
 兄、種茂のことは高鍋町の歴史民俗資料館などに展
示して有るのでしょうか?

[2006年09月11日21時53分]
お名前: 日向女
今度は鷹山の話に戻しましょう。日向から婿養子に
上杉家に入った鷹山は、上杉家の名門の陰はなく
養子に来た時には、すでに財政圧迫で300年以上も返済に
かかるといわれた莫大な借金を背負わされ水害や雪での
自然災害で農村は荒廃、民も飢餓で苦しみ米沢の人々に
生気も漂っていなかったという。

当初、九州の小藩からやってきた鷹山を家臣は冷ややかな
目をし距離を置いた。批判する者も言う事を聞かない
家臣もいた。そこで鷹山は若い家臣や足軽、農民にまで
自分から声を掛け励ましていく。藩主自らのねぎらいに
人々は感動し、幼い頃から培ってきた慈愛の精神で人々の
心を掴んでいった。そして古いしきたりを打破し意欲的な
適材適所の人材登用を行う。名門の甘えを捨て自ら
1汁、1菜、着るものも絹ではなく綿に切り替え
家臣がその格好ではと泣いた者が居ても綿の服で
出かけて行く。大型の用水路を作り新田開発もした。

家臣50人が鷹山に荒地の開拓をしたいと申し出る。
これには鷹山も喜び一緒になってクワを振るった。
皆に酒をふるまい開墾資金を渡す。数年後
絶対に農作物はできないといわれた地に農作物が実った。

家臣の一人が、どうしても鷹山に見せたくて
自ら自分の家財道具を売り払ってまで旅費を作り
江戸(東京)に居た鷹山へ届けた逸話が残っている。

大飢饉も考え、もみ蔵を建設。東北中心に
大被害を与えた天明の大飢饉に餓死者を出さなかった。
また、米沢藩が潤うように、こけし作り、織物、製紙を
奨励。米沢織は特産物になり江戸で評判になる。

当時、貧困を理由に民が生まれてきた我が子を
殺すことが公然と行われていた。生まれてきて
罪もない子の命が沢山絶たれていく。家臣が
その姿を見て鷹山へと報告。すぐに生児愛育令を
出し救済の手がさしのべられた。

おむつのない家には、1両
15歳以下の子供が5人いれば5人扶持を支給した。
この民の立場を考えた福祉の心の藩政は兄の影響が
強かったという。
[2006年09月10日11時59分]
お名前: 日向女
ずっと書き込みしてませんでした。ふと今日秋月の本を
見たので秋月氏の祖は、平安時代に伊予で反乱を起こした
藤原純友を討伐した大蔵春実。しかし、まだまだ大昔に
遡ると祖は漢の皇帝。

この功績により大蔵春実は九州に所領を与えられ大宰府の
官人となって筑前に土着したと言われている。
秋月氏は少弐氏や大友氏よりも古い家柄であり名族。

黒田秋月藩と日向秋月藩は、縁戚です。余談ですが。

鷹山の兄・秋月種茂の功績です。
高鍋藩第7代藩主(佐渡守・右京亮)
1743年(寛保3)年〜1819(文政2)年 享年77歳

寛保三年十一月三十日、江戸麻布の藩邸に生まれる。
種美の長子で幼名は黒帽子。後の兵部と改めた。
宝暦十年七月八日父の隠居により
十八歳にて家督を継ぎ、翌十一年五月入封。
 
 種茂は聡明で学を好み、情け深くて、よく人の意見を入れ
父祖の遺業を継ぎこれを発展させ高鍋藩の全盛期を実現した。

初入部の後、小田岡右衛門らの新進気鋭の人材を登用し
藩政全般にわたり斬新な発想と周到な計画によって様々な
政策を実現した。

溜池や水路の築造、大規模な開墾事業や水除工事等は
歴代藩主中随一の実績を残した。換金作物の植付けを奨励し

山林資源の開発利用を促進し、馬牧を盛んにして農業生産の増大と
牧畜収益の増加をはかるなど経済の充実につとめた。

庶民の生活にも心を用い、農民の三人以上の子どもには、
一日米二合または麦三合のいずれかを支給し、

産婆を大阪から招騁し、ばくちや間引きを厳禁し
双子の出産には貴賎をとわず扶助料を給し

朝鮮人参を栽培して藩倉に蓄え、薬価に乏しい領民へと
施したり、江戸勤務の足軽の生活を援助した。

特に藩校明倫堂を設立し、自ら『明倫堂記』を作って建学の精神を
明らかにし、人材の育成に努めた。

因みに高鍋は文京の町ともいわれてまして、宮崎県の中では
東大へ行った方が一番多いと聞いた事あります。昔の話かな?

天明八年に隠居、文政二年江戸麻布邸にて没し
広尾光林寺に葬る。遺髪を竜雲寺に葬った。七十七歳。
法号清観院殿前佐州大守真乗宗円大居士。

これでは分かりにくいかもしれませんがこの兄の種茂が
全国初の児童手当の実践者でもあります。
常に民の事を考え民のの側へ向けられた善政を行ったと
言われています。よく水路の築造や水田開発など水にかかわる事は
よくしていたみたいです。生活に直結していますしね。
上杉家に婿養子に入った種茂の弟(鷹山)は、
8歳上の兄のこの改革などを米沢藩の藩政改革の手本にしました。
実際文などで相談もしていたようですし。
[2006年09月10日11時39分]
お名前: 日向女
随分このページ見てませんでした。m(__)m
カーターさんの兄の秋月種茂の政策の理念や実際の政策による効果が
どのようなものであったかですか、興味あるのですね。

地元にしかない貴重な本があるには、ありますが
今色々忙しいので、時間が空いた時に本を見てみます。
返事が遅くなるかもしれませんけど・・
[2006年05月11日22時01分]
お名前: カーター
日向女様、秋月藩の歴史を紹介頂きありがとうございました。

>高鍋藩の藩主(鷹山の兄の 種茂)は、地元で児童手当といえる
 農民多子家庭への援助や飢饉に備える種蔵の設置、藩校明倫堂な
 どを開校弟の鷹山は、兄の藩政の方法を聞きそれを参考にした事
 もあったようです。例えば飢饉に対する備えや藩政の事等。

 上杉鷹山は、内村鑑三が代表的日本人として取り上げ、それをケネデイーが尊敬する人として日本
人に紹介したために有名になった感じがします。しかし、歴史小説などの題材にならなくても立派な
業績を成し遂げた日本人も多いはずです。例えば、鷹山の兄の秋月種茂のように。このように歴史に
埋もれた人たちを発掘して行くのも地方の歴史研究家の仕事でしょう。

 童門冬二の小説上杉鷹山には、兄の秋月種茂と連絡を取って藩政の参考にしたと言う内容は全く書かれていませんが、高鍋藩と米沢藩の政策の比較研究をすれば、鷹山の政策の根本にあるものが見えて来るかもしれません。

 兄の種茂の政策の理念や実際の政策による効果がどのようなものであったか、詳しいことがわかれ
ばご紹介頂きたくお願い致します。


[2006年04月29日09時57分]
お名前: 鷹山さん側近 
宮崎の児湯郡(こゆぐん)高鍋町は元々古くは日向の
財部(たからべ)と呼ばれていました。この地は
新納院(にいろいん)島津荘に属しており
9世紀の半ばには延岡にいた豪族(土持氏)が支配を
広げて居館を構えました。土持氏の財部(たからべ)→
(今の高鍋)の支配が600年にも及びました。

15世紀になると日向の中原をめぐる戦いが激しくなり
1457年には財部は、伊東氏の支配下になり
1557年(100年後)には伊東氏が薩摩と大隈と日向の3国の
守護である島津に追われ伊東は逃げていきました。

そして1587年(30年後)天正15年に秀吉の九州平定に
よりはむかった秋月氏が元いた福岡の筑前より
移封され家臣共々下ってきました。

財部(たからべ)と呼ばれた地域は
3代藩主の秋月種信が1669年に城を改築した際
幕府に願い出て高鍋と改称されました。
秋月氏の藩政時代は280年にわたり明治4年の1871年に
廃藩置県を迎えました。

秋月初代藩主の種長の時は朝鮮出兵など
戦陣に明け暮れる時代で2代目の種春の代は
上方下方騒動という争いが繰り広げられ
3代の種信は乱れた藩政を改革し検地を行い
税制を確立し基礎を固め、高鍋城の整備を行い
広く人材を全国に求めました。

4代は種政、5代は種弘、6代が種実(たねみつ)
7代が種茂で、種茂の弟の松三郎(治憲→後の上杉鷹山)
は、後に上杉家に養子入り。高鍋藩の藩主(鷹山の兄の
種茂)は、地元で児童手当といえる農民多子家庭への
援助や飢饉に備える種蔵の設置、藩校明倫堂などを開校
弟の鷹山は、兄の藩政の方法を聞きそれを参考に
した事もあったようです。例えば飢饉に対する備えや
藩政の事等。

高鍋の姉妹都市が福岡の甘木市で、ここは
筑前時代の所領でしたので、宮崎の串間市も
ここは高鍋藩秋月氏の所領であった。

それともう1つが米沢市 米沢10代藩主の上杉鷹山は
高鍋藩の秋月氏より養子に入った。
[2006年04月11日13時25分]
お名前: 鷹山さん側近 近江女将
カーターさん
秋月家は筑前に居たのですけど(福岡)豊臣秀吉の
九州征伐のときに反抗したんです。それで秀吉が怒って
秋月種実に日向移封の命令を下したんです。
九州の人なら知ってると思う。

わざわざ秋月を地図で探しましたか。確かに福岡県南部に
甘木市(あまぎし)にあります。秋月武家屋敷は
日帰り旅行ツアーとかで出てた事もありました。
宮崎県に児湯郡(こゆぐん)高鍋町(たかなべちょう)は、
上杉鷹山の出身地です。秋月ー高鍋へ下ってきた後に
藩の一部の家臣で傲慢で税金を搾り取るのがいて
腹を立てた農民が大暴動を起こし藩の士族に対し
大反乱を起こしたこともありました。
でもうちの先祖は狙うなといわれてたようで
横着な士族だけが農民から狙われたのとか
あったようです。西都原古墳も凄い近くでは
ないけどありますね。
[2006年04月11日00時21分]
お名前: カーター
 日向女様、秋月家の歴史を紹介頂きありがとうございます。上杉治憲の実家の歴
史については童門冬二の本にも詳しく書いてありませんので、秋月家が秀吉により
日向三万国に移され関ヶ原の後に高鍋藩ができたと言うお話は、興味深く読ませて
頂きました。
 関ヶ原で家康に反抗して小藩に移されたと言う話は、防長二州に押し込まれた毛
利家及び家臣の我が吉川家(基地の町岩国市)のようによく聞きますが、秀吉によ
って移されたと言う話はあまり聞かないですね。しかし、上杉家は秀吉に反抗して
会津藩にそして家康によって米沢藩にと言うぐあいに、運が悪いと言うか先見の明
がないのでしょうね。
 ご紹介頂いた秋月を地図で探したところ、福岡県南部の甘木市(あまぎ?)に下
秋月、上秋月などの地名で残ってあり秋月武家屋敷も記載があります。また、宮崎
県には児湯郡(これの読み方がわからない)高鍋町と言う地名がありますね。この
高鍋藩が上杉憲の出身藩です。弥生時代のものと言われる有名な西都原(さいとば
ると読む)古墳が近くにあります。これをご存じないはずはないでしょう。

[2006年04月10日14時06分]
お名前: 鷹山さん側近 
いいHP見つけました。鷹山の事があるので見てください。
http://www.e-yone.co.jp/backnumber/yozan/profile.htm

一部↓(餓死者を出さなかった話は以前にも出ましたけど)

米沢藩の餓死者なし

それでも、米のとれない山奥の村々の生活はひどいものでした。
例えば中津川村では全戸の8割が御救米をもらいましたが
それだけでは救われず、鍋・桶・樽から鍬・鋸・馬の鞍まで
質に入れて、お金を借りなければなりませんでした。
 天明の飢饉では全国で多くの人が餓死しました。
白河藩主で、のち幕府の老中となった松平定信が残した記録に
よれば天明4年から5年にかけて、全国の人口は140万人減った
ことがわかります。当時の人口を3000万人とすれば、
実に4.6パーセントも減少したことになります。
しかし米沢藩からは1人の餓死者も出ませんでした。
貧しい家臣や農民に対する貸金や救米など、藩の救済処置が素早く
しかも領内の隅々まで行われたからでした。

第5話には、側室お豊の方の事も書かれてあります。
[2006年04月04日18時23分]
お名前: 鷹山さん側近
カーターさん、鋭いですね。高千穂は北部ですね。
私は高千穂に行った事がない。県外客には
高千穂がうけるようですが・・高千穂峡見られたのでしょう。
付近には、民宿もあるでしょうね。
岩戸神社??知らないです。勉強しときます。

私は秋月の実家なら知ってます。舞鶴城跡ももうすぐ
お祭りがあるだろうから行ってみたいと思ってます。
福岡の甘木にも秋月の城下町があるし良いみたいですよ。

という事で今日は鷹山の遠祖を紹介します。

筑前の古処山城によって威勢を振るった秋月氏は
後漢霊帝を称する渡来系古代氏族の大蔵氏を遠祖としている。

大蔵氏の祖・大蔵春実は、天慶三年(941)平安時代に伊予で反乱を
起こした藤原純友を討伐したのが秋月の先祖の大蔵春実である。

藤原純友が反乱を起こした時、朱雀天皇より錦の御旗および
天国の短刀を賜わり源経基・小野好古らとともに出陣して
藤原純友を追討した。

乱の平定後、その勲功によって征西将軍となり筑前に所領を賜り代々
太宰府政庁の府官の職につく。のちに山麓の原田に居館をつくり
地名をもって原田を名乗り土着した。


春実の孫の大蔵種材は、寛仁三年(1019)の刀伊賊の来寇に
功があり大宰大監となった。大蔵氏の代々は大宰大監に任じられ
種資(輔)の代に、鞍手・岩門・別府らの庶子家が分かれ

さらに、秋月・原田・高橋・田尻・三原などの諸家が分かれて
大蔵氏は鎮西の大族となった。

そのなかでも原田・秋月・高橋の三氏が大蔵氏の三大豪族と称される。

秋月氏は少弐氏や大友氏よりも古い家柄で名族であった。

秋月氏はもともと筑前国を領していたが豊臣秀吉の九州征伐のとき
時の当主・秋月種実が島津氏に与して秀吉に抵抗し、怒りを買い
秀吉に屈する事になる。
これにより秀吉の命で日向国3万石に移封され家臣共々下っていった。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いのとき、秋月種長は西軍に
与して大垣城を守備していたが9月15日の関ヶ原本戦で西軍が
壊滅するといち早く東軍に寝返って大垣城にあった西軍の諸将を殺害し
開城したため所領を安堵された。

その後1604年(慶長9年)居城を財部城(高鍋城)に移し
正確にはこの時点より高鍋藩が成立した。

3代種信は、1673年(延宝元年)財部から高鍋(日向にある)に
城地の名を改める。
4代種政は、1689年(元禄2年)弟の種封に3千石を分与したため
以後の表高は2万7千石となる。

江戸時代中期、6代種美の次男は米沢藩(上杉氏)に入り
名君で有名な上杉鷹山(治憲)となるが、兄に当たる7代種茂は
高鍋藩の歴代藩主の中の名君として治績を上げた。
秋月は10代にわたって高鍋を支配し明治時代に至った。
紹介まで。
[2006年04月04日18時04分]
お名前: カーター
日向女さん、小説上杉鷹山の内容を紹介頂きありがとうご
ざいます。私も最近童門冬二のこの作品を読み終わりました。

>だからか、日向の人が米沢にいくと旅館とかで
>どこからきたのですか?と聞かれ答えると
>鷹山様の実家の所ですね。
 
 日向女さんと言うことで宮崎県の方でしょうか?宮崎県へは
30年前に旅行で高千穂に行ったことがあります。きれいな峡
谷を見ました。民宿で一人用の鍋物を食べた記憶があります。
天の岩戸や岩戸神社などが残っていて、岩戸と天のウズメの命
の話は高千穂で起こったことかと思いました。
[2006年04月01日18時43分]
お名前: 鷹山さん側近 日向女
カーターさん
 鷹山が米沢藩を17歳で継いだ時の米沢藩は、たった5両の
金にも事欠く有様で窮迫のどん底だったのです。
元々鷹山が出た秋月家は、確か、曾が漢の皇帝だったと思います。
史料どっか行ってしまった。(>_<)
お豊さんの事は、余りかかれていないかも、私も覚えが
無かったくらいですし。

鷹山は、勝ち組とか負け組みで人を分ける程、愚かな人では
ないですよね。謙虚で聖賢、慈愛に満ちて心が大変綺麗で
大者です。この方には、男の醜い部分も一切ないし
悪には厳しいが優しさで溢れている人ですね。

当時の米沢は、貧しいからか風紀が乱れており全ての
報告を受けた鷹山は、風俗の取り締まりを強化し一掃します。

日照り続きで畑の作物も枯れ農民の嘆きも
地に落ちていく姿を見て鷹山は、この様子を見
食うものも食わずに断食で3日間祈願をこめた。
3日目に大雨となり鷹山が下山する時に近臣が
長枝の傘を差し出しても退けてずぶぬれで帰っていったとか

その様子を見た農民が、水溜りに身を投げてむせび泣き
道々に鷹山を迎えたといいます。
どこの殿様が農民の為に雨乞いなんかしますか?
他にも色々話があったけど

農民の暮らしを豊かにするため、漆の木を植えたり
米沢織を推奨したり 米沢は海域ではないので塩を
輸入し塩ごときに金銭が他へ流出していました。
小野川温泉場に山塩が出たので製塩場を作り激励し
陶器の製造も奨励、花沢村に瀬戸焼の陶芸場を開かせ
他に会津梨の移植や墨作りの奨励、洋蚕、産馬の奨励
そのほか色々・・・全部上げるとキリがないんですけど
こけし?もじゃなかったかな。

いえるのは、農民のことも身分の差別なく同じ人間として
見ており米沢の町農民も含め生活を豊かにしてやろうと
いう思いやりが感じられますね。

それまでは、米沢は、貧しく生まれた子供を
水をはった盥に付けて間引きしたり金がなければ
遊女になったり、食べることに困り一家で餓死してく者も
多く農民は生きる力さえ失っていたんですからね。
どうする事も出来ない状態で、藩はしかも大借金でしょう。
それを自らが苦労しどっちも良い方へ実現したのだから
凄い方ですよ。

農民を導き、金も与える事もした殿様は偉いですよ。
普通は取るばかりですよ。笑
だからか、日向の人が米沢にいくと旅館とかで
どこからきたのですか?と聞かれ答えると
鷹山様の実家の所ですね。鷹山さんのお蔭で今の
米沢がありますと言われたりとかするそうです。

カーターさんの書いた
侍の家族に鯉を飼うように言ったり
新田開拓、紅花の完成品として付加価値をつけ
売らせるようにしたとか、竜門さんの本で記憶に
あります。楽するより汗を収入を得ると喜びも違いますからね。
日向から出た偉大な偉人です。


[2006年03月27日23時16分]
お名前: カーター
 鷹山側近さん、お豊の存在を認めて頂きありがとうございます。治憲の仕事を影
で支えたのがお豊です。もっと、お豊のことが知りたいと思ったのですが、童門冬
二の本はもう最後の方になりますが、お豊は出て来ません。本の冒頭の登場人物名
の紹介欄にも出て来ませんから最後まで出て来ないものと思われます。
 ところで、ご紹介いただいたHPを見てみました。「鷹山の功績」のところで、ケ
ネデイーに影響を与えた内容が紹介されています。What you can do for your
country. と言うケネデイーの有名な言葉があります。これは鷹山の自助の精神に
影響を受けたものであると書いてありましたが、納得します。戦後の日本は、社会
主義の思想に影響を受けており一方的に国が施すべきだと言う考え方が支配的であ
り自助を主張する鷹山は注目されなかったのが、バブル崩壊後に鷹山が注目される
ようになったとそうです。

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do
for you, ask what you can do for your country.
http://www.bartleby.com/124/pres56.html

 ここまで考えてみると、ケネデイーが一番尊敬しているのは上杉鷹山だと言った
のは嘘でもないようにみ見えます。藩主からの施しを期待せずに侍の家族に鯉を飼
うように言ったり新田を開拓をさせたり、紅花などの商品作物を材料ではなく完成
品として付加価値をつけて売らせるようにしたのであり、汗を流して働くことを教
えたのです。
 しかし、治憲はお年寄りや体の不自由なものにはやさしく、足の悪い人の作業を
自ら助けたりと、現在の勝ち組、負け組といった単純な発想ではなく、自助が大切
であるが弱い者へのやさしさや愛情も持っていたと言われています。


[2006年03月26日14時17分]
お名前: 鷹山さん側近
カーターさん、私1点誤りがありました。m(__)m
幸姫がいた頃は、側室は断ったはずだがという記憶があったのですが
鷹山の側室でお豊、子供もうけてますね。
お豊は上杉綱憲の第六子式部勝延の娘で重定の従兄弟で
鷹山の10歳年上で鷹山の男子を二人もうけたと。
失礼しました。幸姫がいるときはキッパリ側室を
拒んだのが書いてありましたので。そのときのばかり
思ってました。
[2006年03月23日20時33分]
お名前: 鷹山さん側近
http://hi-speed.hp.infoseek.co.jp/uesugi-1.htm
↑上杉鷹山の生涯を見てみてくださいな。

米沢藩での鷹山の一番の理解者であり改革の実行者
は竹俣当綱と莅戸善政の両名で、竜門さんんの本
見ていたらこの両名の名前が何度も出てくると
思いますよ。

鷹山が20歳の時に持った10歳年上の側室である
お豊?あー鷹山は、側室なんか持たない人でしたよ。
持ったじゃなくて周りからお節介されただけですね。

側室を周りから用意された事はありました。
ハッキリと鷹山が断ってます。

周りの重臣達が、殿、言いにくい事ではありますが
幸さまのあの身体ではお子が出来ぬかと思います。
別に側室を持たれ世継ぎをお作りになってください
と何度も言われました。(←現代言葉でいいましたよ)

本妻が、身障者だったので周りの計らいで
言われていますが鷹山は、身奇麗で精神も大変立派
なのでキッパリと即答で言われたその場で断ってます。

それで生涯その殆ど寝たきりの(頑張れば体だけなんとか
起こせる)妻を生涯大切にしました。
殿様の血筋になると今の時代の半端男と違いますよ。

私の親戚が書いた本は興味深い記事いっぱいありますよ。
その当時を知ってる人が書いてるし、ただそれを書くと
延々かいていかないといけないので私も今多忙なので
時間があったらにします。

[2006年03月23日00時37分]
お名前: カーター
 上杉鷹山の側近さん、レスをありがとうございます。再度、童門冬二の
「小説上杉鷹山」集英社文庫を読んでいます。もっと詳しく知りたいと思
ったのです。まだ半分した読んでいませんが、残念ながら20歳の時に持
った10歳年上の側室であるお豊の方は出て来ません。家庭人としての治
憲(鷹山の本名)がどういう人間であったかが知りたいのですが、小説で
は政治を中心に書いているため、お豊の方がどのような人であったかがわ
かりません。その親戚の方が書かれた本で面白い内容があれば、アップを
お願いします。
 童門冬二以外では、藤沢周平の本があります。また、時間があったら読
んでみたいと思っています。
  「漆の実のみのる国 上下」、藤沢周平、文春文庫、H12.2
[2006年03月21日17時34分]
お名前: 鷹山さん側近
童門冬二著の本は何年か前に読んだので(同じ本)
内容知っていますよ。(^^♪うちの親戚が昔々竜門さんより
詳しい鷹山の本出してて、それは非売品なので検索しても
出ないんですけど昔に起こった当時の出来事が克明に
記されています。私の先祖も秋月種実に仕えてて
重臣に近い状態だったのと親戚の先祖も何人も
仕えていましたので種実の弟のことは知ってたでしょう。
鷹山の優しい人柄はよく判ります。
人形を変え与えた話は有名ですね。相手の良い点を見つけるのが
得意のようですね。
でも鷹山が上杉(米沢藩)の大借金を自分の肩にかかった時は
色々策を考えて実行しますが、家臣の反対や批難もあり
何度か兄へ相談して、もう日向に帰ろうかと実際に思った事も
何度かあったみたいです。でも踏みとどまったようですけど。
[2006年03月21日08時57分]
お名前: カーター
 鷹山さん側近様、書き込みをありがとうございます。鷹山の実家の秋月家の事情
が紹介されることは稀ですので、参考になりました。
 鷹山の事業をまとめたもので参考になるのが、「上杉鷹山の経営学」童門冬二著
PHP文庫ですが、その秋月家の事情は次のように記されています。
「一方、鷹山はもともと上杉家の人ではなく、九州の日向(宮崎県)高鍋の秋月と
いう三万石の小大名の家に生まれた。縁があって、上杉家の養子に入り、家つき娘
と結婚すべく十七歳の時に藩主の座についた。この家つき娘は幸(よし)という名
だったが、心身障害者だった。・・・彼は、宝暦元年(1751)七月二十日に日
向高鍋の藩主であった秋月種実の次男として江戸の麻布で生まれた。母は、筑前の
秋月城主黒田甲斐守の娘である。鷹山の養父となった上杉重定のいとこにあたる女
性である。これが鷹山が上杉家の相続人になるつながりをなった。」
 鷹山の妻である幸は障害者でありましたが、鷹山は顔の書かれていない人形を送
り、幸が顔に自分に似せた顔を書いて「幸、幸」と言って自分に似ているだろうと
鷹山に持って来て見せたといいます。そして鷹山は、良く似ていると言って幸のこ
とをほめ、絵こころがあるとして鷹山は幸のために何度も人形を作って与えたそう
です。「あなたにそっくりだ。」と鷹山が言うと幸は涙ぐんだとと言います。幸は
次の日も次の日も、鷹山が新らしい人形を持ってきてくれるのを今か今かと待って
いたそうです。
 この辺の事情はドラマではカットされることが多いので鷹山の人柄を知るのには
参考になります。実際には、幸は伴侶としての妻の役を担うことができなかったの
でお豊の方(上杉博物館で紺野美沙子が演じた)が実質的な妻として鷹山を支えて
いました。お豊がどういう人であったのか別途書きたいと思います。
[2006年03月12日11時46分]
お名前: 鷹山さん側近
上杉鷹山(うえすぎようざん)の兄も負けては
いない。鷹山の兄の紹介も少し。秋月種茂は、
宮崎県高鍋の高鍋藩歴代中の名君として治績を
あげている。1751年7月20日に日向
(今の宮崎県)の高鍋藩(高鍋藩の者は全員、
元は福岡の筑前だったか秋月藩から降りてきた
一行で高鍋にきたので高鍋藩と名乗る。


鷹山は秋月種美(あきづきたねよし)の次男として
生まれケネディが尊敬する人物でもあるが
当時、ケネディが鷹山の事をいっても日本人記者は
誰もその人物を知ってる者がいなかった。

数ある大名のなかで名君中の名君といわれ
秋月家は皆節約上手、忍耐強い、人情深い。
秋月種美の次男の鷹山は、養子として17歳で
上杉家を継ぎ、藩主となる。

嫁は障害者であったが側室を持たず真面目に
藩政改革に取り組み藩の窮乏→上杉家に
あった莫大な大借金を無くす為に生涯をかけ返済。


ただし上杉家の家臣に鷹山の節約術に邪魔を
する者も多く鷹山は苦労した。藩主に来る前からの
大借金を返そうとしているのに邪魔が何度も入る。

当時の米沢は、江戸中期、幕府はもとより
全国諸藩が藩財政破綻の中、どこの藩も借金を
かかえ、米沢は特に破綻状態(農民も全ての人も
侍も破綻寸前。)そこから養子の鷹山が
米沢を蘇えらせたという稀な藩である。

その大改革は、米沢の者ではない、よそ者の
養子藩主により決行されたのも珍しい。

先々の災害に備え米を大量に備蓄させ
大飢饉の時に誰1人農民も餓死者を出さなかった。
農民に色々な特産物を植えさせお金を与え生活を
豊かにした。子供を間引き等で、殺す事などを
止めさせた。言い出せばキリがないほど貢献している。

鷹山は、藩主自ら木綿の粗末な着物を着て
外出したり、それを始めはバカにする家臣も居た。
食べものは自ら1汁1菜を続け、大節約術を
次々に生み出す。本来なら借金の額を返済するには
幾ら頑張っても300年以上かかると言われたもの
だった。

彼の母は、筑前(現在の福岡)秋月城主の娘で
春姫。

春姫の母(鷹山の祖母は)米沢藩4代藩主
上杉綱憲の娘・豊姫・瑞耀院(ずいよういん)で
鷹山にとって上杉家は、祖母が現米沢藩主
上杉重定と従姉弟にあたるという遠い親戚関係に
あった。そういう縁もあり上杉家へ養子と
なったのである。
[2006年03月11日02時17分]
お名前: カーター
 「ライシャワーの日本史」を読んでみましたた。上杉鷹山のことが書いてある
かと思ったのですが、書いてありません。ライシャワーがケネデイーに上杉鷹山
のことを入れ知恵をしたのではないようです。この本では、できるだけ人名や事
件などの個別の名称を書かずに何がなぜどのように起こったかと言うふうに書か
れています。
 江戸時代については、より中央集権的な後期封建制と言うことで書かれていま
す。江戸初期には、国の富は農産物に依存しいましたが、商業経済の成長に伴い
武士階級の受け取る国富の割合は次第に少なくなって行きました。一方、消費水
準は上がり、都市生活にかかる費用はかさむ一方となりました。そこで、藩も藩
士も商人に多額の借金をするようになりました。ライシャワーは次のように述べ
ています。
「諸藩は諸藩でとくに利潤の多い産物から利益を吸い上げようと専売事業を起こ
し、幕府は幕府で独占的な商人の組合から手数料を取り上げると言う挙に出た。
倹約令が繰り返し出され、武士の俸録を減らして藩の財政に振り向けたりもし
た。」    「ライシャワーの日本史」国弘正雄訳、講談社学術文庫

 米沢藩には、上杉家の高い家格に反して石高が下げられたと言う特有の事情が
ありましたが、時代背景としては江戸後期の上記の事情がありました。ライシャ
ワーの歴史観については別に書きます。
 
                  カーター
[2005年10月16日14時37分]
お名前: 広嗣
 カーターさんのきょう12時38分付の書き込みを見て、ふと「先ず隗より始めよ」を思い出してしまいました。勿論元の意味は違うのですが、国民に財政改革を訴えるのに自身を振り返らなければ、「笛吹けど人は踊らず」でしょう。

 考えてみれば、昔は役人の給料は低いものでした。しかし、今は首相などの閣僚、次官、政務官、国会議員、最高裁判所長官、衆議院と参議院の議長、検事総長といった役職は、<<月給で>>100万円を越える俸給を貰っています。しかもこれは本俸(基本給)だけです。一般職の指定職と呼ばれる役職(例えば事務次官や局長)や自衛隊の将官にも月100万円以上の俸給を貰っている人がいます。

 例えば内閣総理大臣、最高裁判所長官は222万7000円です。内閣官房長官を含めた国務大臣、最高裁判所判事、検事総長が、162万6000円です。国会の議長は、首相の俸給相当額、副議長は国務大臣の俸給相当額、議員は政務官の俸給(132万8000円)相当額となっています。

 何年か前にあるTV番組で大韓民国大統領の給料の額がクイズで出題されていましたが、かなり低い金額だったことを記憶しています。また亜米利加合衆国大統領も決して高い報酬ではなかったと思います。ただ、亜米利加合衆国の場合、East Wingと呼ばれる私的な部分とWest Wingと呼ばれる公的な(執務室などの)部分が同じ建物にあり、実物支給とでも言えるような給料(手当て)と看做せるものもあり得ますが。


[2005年09月18日21時58分]
お名前: カーター
 昨日の新聞に財務省が政府公報で上杉鷹山の言葉「なぜばなる。なさねばならぬ。」
を引用していました。日本の財政が厳しい状況であることを数字を上げて訴えていま
した。

1)国の財政の状況
 税収: 48兆円、 歳出: 82兆円、 公債金収入: 34兆円

2)高齢化
 2000年: 一人を3.6人で、 2050年: 1.4人で養う。

3)財政構造改革への取り組み
 基礎的財政収支の2010年初頭に黒字化を目指す。(累積赤字は残る?)
http://www.mof.go.jp/zaisei/


 そこで、米沢藩のお役人はどうであったかを見てみてみましょう。内村鑑三の「代
表的日本人」岩波文庫を購入して上杉鷹山の章を読みました。古本屋にあったものは、
活字が古く読めないので新しいのを買いました。もともと英語で書かれたものですが、
翻訳も新らしくなっており読みやすいです。
 改革を進めるにあたって、鷹山自身は食事を一汁一菜をこえないようにしました
。家来も同じように倹約しました。人材の登用も能力に応じた適材適所と言う考え
で行いましたが、当時の門閥と言う発想からすれば民主的なものでした。
 第二に役人は、民には母のように接しなければならないとしました。民をいつく
しむ心があれば、才能の不足を心配する必要ないと言っております。(我々を勇気
づけます。)
 第三に厳しい警察の役が役人には要求され犯罪の摘発は厳しいものでした。
 そして、内村鑑三は倉成竜渚と言う学者の言葉を次のように紹介しています。
「鷹山の役所では、きまって重役がいちばん貧乏である。筆頭家老は、藩主の
愛顧と信用を得ている点ではだれにも劣らない。だが、その暮らしぶりをみる
と、衣食は貧しい学生と変らない。。。。」 (土光さんみたい。) 

 財務省の高級官僚は、政府公報を載せる際に上杉鷹山について本を読んで勉
強したのでしょうか?民より官の方が収入が多いと言う逆転現象が起きていると言われ
ている状況で、官が上杉鷹山を引き合いに出せるのか大いに疑問です。上杉鷹山の
改革は民の心から改革を始めて、快楽主義を否定し公娼の廃止も行っているのです。
 おそらく、あの政府公報は広告代理店任せであり、本当に国民に訴えたいと言う
気持ちはないものと思われます。利用された上杉鷹山は迷惑でしょう。米沢市民よ
怒れ。

                         カーター

[2005年09月18日12時36分]
お名前: カーター
 甘 興覇さんレスをありがとうございます。インターネットと言うの
は便利な代物で、上杉鷹山で調べるとたくさん出て来ました。同
様の疑問を持った人はたくさんいてすでに書き込みがあります。
    ケネデイーは、内村鑑三の「代表的日本人」を読んだのであろう
と言う書き込みが多いです。内村は、代表的日本人として西郷隆盛、中江藤樹、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人の5人を上げてい
ます。この本は、新渡戸稲造の「武士道」と同じように英語で書い
て出版された啓蒙書でアメリカでも入手できたものだと思われま
す。  はじめさんと言う高校教師らしき人のホームページから引用
しますと下記のような書き込みがありました。
------------------------------------------------------------------
  世界に光る先駆的な“民主宣言” 
 上杉鷹山は、民衆を愛し、民衆のための政治を行った名君として知られる。彼は、君主の心得として、次の三項目を内容とする指針を残している。
 一、自らの利益のために国家を用いてはならない。
 一、自らの利益のために人民を用いてはならない。
 一、人民のために君主があるのであり、君主のために人民があるのではない。 
 「伝国之辞」と呼ばれる、この“民主宣言”が伝えられたのは、一七八五年(天明五年)。これはアメリカ独立宣言(一七七六年)の九年後、またフランス人権宣言(一七八九年)の四年前のことである。身分差別の厳しい封建社会において、世界に先駆ける形で残された、この民主精神、人間主義の叫びが、ケネディ大統領の胸にも強く響いたのであろう。 

http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/uesugiyouzan.htm
-------------------------------------------------------------------------
  この「伝国之辞」については、上杉博物館にもパネルに記載があり、「人民のために君主があるのであり」と言うところが印象に残っています。
  上杉鷹山については、童門冬二の「小説上杉鷹山」などの著作
があり、簡単に読むことができます。私の高校の日本史の教科書にも
寛政の改革のところで、上杉治憲と記載がありました。
 「諸藩においても藩政の改革の動きがめだっていた。上杉治憲(米
沢)、佐竹義和(秋田)らは国産の奨励・藩学の設立などに熱意をみ
せ、名君としての評判が高かった。」
 詳説日本史、山川出版社、昭和46年


                   カーター

[2005年08月28日15時56分]
お名前: 甘 興覇
 ドモドモ、甘 興覇です。

 私もそれこそ十数年前、米沢の上杉神社・上杉博物館
を訪れたことがあります。私も訪れるまでは謙信公の資料
が多いと思っていたのですが、圧倒的に鷹山公の物が多く
驚いたことを覚えています。そうそう、直江兼続公の資料
も以外と多かった記憶があります。

 当時私は鷹山公のことはあまり知らず、カーターさんの
おっしゃる通り、ケネディ大統領がが尊敬していたという
文を見て驚いて帰ってから調べたことが記憶にあります。
 ちなみに私が学んだ高校の日本史の教科書には鷹山では
なく治憲の名前で載っていました(^_^)

 バブルがはじけた後、ちょっとした「上杉鷹山ブーム」
があって、今では少し一般にも知られるようになったとは
思いますが、確かにケネディ大統領が当時知っていたと
いうのは「?」の部分がありますよね。
 っということで‥‥
                以上、甘 興覇でした。

 P.S.西村和彦さんと西村雅彦さんは無関係と思いますよ。
  親子にしては年齢が近すぎますし(^_^)
[2005年08月25日01時04分]
お名前: カーター
 先日、山形、米沢の白布温泉に行きました。残念ながら、山形県に入った頃から
雨が降って来て山の景色は十分堪能することは出来ませんでした。翌日、米沢の上
杉博物館を見学しました。上杉と言うので謙信のことかと思っていましたが、やは
り上杉鷹山を主とした展示でした。館内では、上杉家に伝わる洛中洛外と言う京都
の町並みを描写した屏風も展示してあり、それを三次元で俯瞰する鳥の視点で見た
CG映像はとてもわかりやすくなっており興味深く見ることができました。
 また、30分毎に上杉鷹山の改革の映画も上映されております。スクリーンが3
つあり、右が鷹山、左が生涯鷹山の改革を支えたお豊の方、そして真ん中に食事の
お膳が置いてあると言った見せ方です。鷹山を西村和彦(西村雅彦の息子?)が、
お豊の方は紺野美沙子が演じております。NHKで筒井道隆主演の上杉鷹山を見た
ことがあるので30分の映画はそれほど感動した言うほでではなかったですが、初
めて見る人には興味深いものと思われます。
 博物館の近くには、米沢城の城跡に上杉神社があり、上杉謙信、上杉鷹山の銅像
が立てられてあり、観光客が写真を撮っていました。銅像の説明書きには、故ケネ
デイー大統領が最も尊敬している政治家が上杉鷹山であると日本での記者会見で答
えたなどと記されておりました。しかし、この事実には疑問を持たざるを得ません。
高校の日本史の教科書にも載っていない上杉鷹山をケネデイーをどうやって知った
のか?当時の駐日日本大使は、日本史の専門家であるライシャワー博士でした。お
そらく、ライシャワーが事前に入れ知恵したと思われます。もし、ケネデイーが自
ら学んだとすれば、それはライシャワーの著書を読んだものと推測されます。ライ
シャワーについては、別途このボードで紹介したいと思います。
[2005年08月20日10時57分]
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