テーマ:武蔵の河原太郎次郎

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お名前: カーター
 「日本史史料論」の主任教授は五味文彦氏ですが、執筆されている専門の中
世史の「文学・絵画史料」については次のように述べています。
 「その書かれた時代のものの考え方や風景を描いている点で、文書や日記よ
りも優れた面を持っている。ただ作者が不明のことが多く、架空の作品や偽書
と言うことも多いから作品の質をよく見きわめ、制作された時代をしっかりつ
かんで分析する必要がある。
 たとえば『平家物語』を取り上げる場合、どのような材料を使用して書かれ
たのかを探り、書かれた時代がいつなのかを注意を払わねばならない。」
 
 この質問に答えるための研究は五味文彦氏の「平家物語、史と説話」平凡社
ライブラリーがありますが、非常に専門的で読了しておりません。作者は信濃
前司行長であり、承久の乱以前の1221年以前とも1309年以前には成立
していたとも言われております。いずれにせよ鎌倉時代です。
 河原兄弟についての前回の書き込みについて、石母田氏は「この物語は大名
と下級武士の対立が明確になった鎌倉末期の事情を反映した増補であるかもし
れない・・」と述べています。
 文学作品とは歴史書ではなく、その時代の問題を描くために歴史的事実が材
料として使われることがあることを意味しているのでしょう。
 なぜこのような増補が行われたのかは、平家物語が元々は年代記的な形式で
書かれ三巻しかなかったのが、その後色々と書き加えられ十二巻までになって
行ったからと言われます。

[2015年08月02日12時14分]
お名前: カーター
先程の書き込みに間違いがありました。義経のことばを
「鯨鯢のあざとにかく」と紹介しましたが、正しくは下記
の通りです。「あざと」ではなく「あぎと」です。

------------------------------------
鯨鯢(げいげい)の顎(あぎと)にかく

クジラに食われそうになる。海で危険な目にあって命を落としそうになることのたとえ。

  goo辞書から。

[2015年08月01日14時16分]
お名前: カーター
 放送大学の「日本史史料論」の試験が先週終わりました。テキストと平行し
て石母田正著の「平家物語」(岩波新書)を読んでみました。
  第二章の「平家物語の人々」の中で、石母田氏は当時の武将の理想像とし
て、義経のように指揮を取っても自分でも戦闘にも参加することであると述べ
ています。義経は後に回顧して「或る時は峨々たる厳石に駿馬を鞭打ち、敵の
為に命を滅ぼさん事と顧みず、或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、海底
に沈まん事を痛まずして屍を鯨鯢のあざとにかく」と述べており、自ら戦った
ことを述べています。
 同様に河原兄弟について、石母田氏は「大名は家来の手柄を自分のものとで
きるが河原兄弟のような小名は、自分で手をおらさなければ武勲を立てること
ができないこと」を述べています。また、河原兄弟が典型的な名主階級の下層
武士であることは「げげ」と言う草履履きをはいていたことからも察せられる
と述べています。
 そして、自ら手をおろして合戦をすることが、理想的な武将だとする考え方
は、この時代の中下層の武士階級の現実の要請と結びついていたと結論づけて
います。

 げげについては下記を参照。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/67605/m0u/

[2015年08月01日14時09分]
お名前: カーター
 国会図書館のサイトで「河原兄弟」で検索すると下記の論文が出て来たので
甲南女子大学のサイトでダウンロードして読んでみました。

 覚一本における河原兄弟の死について : 『平家物語』巻九「二度之懸」
野見山, 亜沙美(甲南女子大学 2013-03-12)
 
 まず、平家物語には語り本系と読み本系とに大別され数種の本があること、
河原太郎が弟の次郎に対して、「大名は我と手をおろさねでも、家人の高名を
もって名誉とす。われらがみずから手をおろさずばかなひがたし。・・・」と
言う場面があるのは語り本系であると言います。

 しかし、読み本系の「源平盛衰記」には河原兄弟とともに藤田三郎(猪俣党
)もいっしょに逆茂木を登り越え、平家の真鍋に撃たれました。その後、勲功
により頼朝により、河原太郎と藤田の子供に生田庄が渡されたと言うのです。

 「勲功の時、河原太郎と藤田行安が子共に、生田庄を給、其墓所の為也。
今の世までも彼社の鳥居の前に、堂塔を造立して菩提を弔ふとかや。」

 同様の内容は「吾妻鏡」にも見られるそうです。息子の藤田能國に領地を
与えると言うことです。

「藤田三郎行康、・・・その勲功の賞に募り、かの遺跡においては、子息
能國伝領すべきの旨、今日仰せ下さる。・・」

 しかし、この吾妻鏡には河原太郎の名前はなく、語り本系の平家物語には
勲功に関する記述はなく藤田の名前もありません。その理由として、野見山
亜沙美氏は、語り本では兄弟である河原兄弟が重要であったと延べています。

 つまり、語り本では熊谷直実と直家の父子、梶原景時親子や、単身の藤田
三郎ではなく河原兄弟の物語が詳しく書かれ、勲功については一切触れてい
ないのです。大名ではなく、小名であった兄弟の物語を伝えたかったのが作
者の意図であると言うのでしょう。

[2015年05月12日22時46分]
お名前: カーター
 4月から放送大学大学院では「日本史史料論」と言う科目が始まり
ます。内容は六国史である日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後
紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録を原文で読んでみようと言うも
のです。その準備のために学部の「日本古代中世史」(五味文彦・佐
藤信著)を読んでおくようにとのことでしたので読んでみました。

 その中で河原太郎次郎に関係する治承・寿永の乱(源平合戦)の時
代の状況については、次のように記載があります。

「頼朝に求められたのは、いま所有している土地への権利を保証する
こと(本領安堵)であり、功績があったとき新しい土地を公平に分け
与えること(新恩給与)であった。その機能を果たしてもらえるなら
戦場に赴き、命を投げ出すことも厭わずお仕えします。ここに頼朝と
在地領主との主従関係が結ばれ、在地領主たちは幕府の御家人になっ
た。・・自らの利害を代弁してくれる権力。在地領主による、在地領
主のための権力。・・それこそが頼朝が率いる、鎌倉の幕府だったの
だ。」

 馬にも乗らず草履履きで平氏の陣へと出て行き、河原兄弟が命をか
けて守ろうとしたもの、下級の武士としての名誉もあったかもしれま
せんが、何と言っても子孫のための本領安堵であったように思えます。
荘園を貴族や平氏が支配するのではなく、本領を安堵してくれる在地
領主のための権力を頼朝に求めて戦ったようです。

 その本領が河原一族にどのように安堵されたのか、新恩給与があっ
たのか、これまでの芹澤さんや三沢さんの研究ではわかりません。以
上のようなことを考えながら四月から勉強するつもりです。

[2015年03月16日22時55分]
お名前: カーター
 2月10日の会合の際に、川原桔梗さんが現在お勤めの会社のある浜松か
ら埼玉県の嵐山(正確には滑川町)に転勤になることを伺っておりました。
それじゃあ、私の住んでいる南河原から近くなるので、引っ越しして落ち着
いてから河原兄弟のゆかりの地をご案内しますと言うことにしていました。
 私が9月末に定年退職となり時間が出来たもので、川原さんに10月30
日(水)に休暇を取って頂き会うことにしました。JR行田駅で待ち合わせ、
私が車で先導し、まず河原神社にご案内しました。どこにでもあるさびれた
神社ですが、社には○に二の紋を確認できました。この神社は元は勝呂神社
と言い、明治になって河原神社となったこと、となりにあるのが神主をされ
ている河原兄弟のご子孫とされる松本秀夫さんの家ですなどと紹介をしまし
た。神社内には鎌倉時代のものと言われている石碑があり、判読できません
が何やら文字が書いてありました。

http://www.tesshow.jp/saitama/gyoda/shrine_skawara_kawara.html

 次に観福寺にご案内をしましたが、河原兄弟のゆかりの寺であることを記
した立て看板がありました。寺の西側が墓地になっているのですが、河原兄
弟の血を引くと言う今村や松本の姓の墓がたくさんありました。しかし、中
でも真ん中にあるのが、○に二の紋がある今村氏の墓で河原姓を云々と漢文
で書いてありましたが、意味を理解することはできませんでした。回りにあ
る今村姓の墓の紋は下がり藤の紋で、これは藤原氏の紋と言われていますが
藤原氏でなくてもたくさん使われているものだそうです。お寺の方と思われ
る年配の人に尋ねましたが「隣村から来たのでわからない。」とのことでし
た。
 ここには国定史跡とされている南河原石塔婆があるのですが、建物の中に
入っていて鍵がかかっているので見られないだろうと思っていましたが、川
原さんが、「たまに鍵が開いていることがあるんですよ。」と言うので、引
き戸を動かすとするすると開いて中を見ることができました。電気のスイッ
チを入れるとガラス戸の向こう側に二枚の石板が立っているのが明るく照ら
し出されました。キリークと言われる梵字の下には人の名前と思われる漢字
が書いてありましたが、意味はわかりませんでした。

http://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/minamikawaraisitouba.html

 最後に北河原地区にある照岩寺に参りました。お寺の屋根には○に二の紋
が見えました。ここには、十数年前にできた河原兄弟の墓があるのでその場
所を探って行って見つけることができました。ちゃんと源平合戦で討ち死に
したと書いてありました。この寺には河原兄弟の位牌があるのですが鍵がか
かっていました。写真は下記を参照下さい。

http://www.kodaihasu.com/gr/hito/69th/69tht.htm
 
 一通り終えて、熊谷のコーヒーショップでお話をしましたが、なぜ先祖に
興味を持ったのかと尋ねました。川原さんは三重県の出身なのですが、お父
上が北海道で生まれ育った場所に連れて行ってもらったのですが、そこには
すでに家はなく畑になっていたとのことで、その時の衝撃から先祖のことを
調べるようになったそうです。戸籍調査により、富山県が先祖の地と分かり
愛知県一宮市から高速道路で富山県に何度も先祖の調査に行かれたそうです。
 
 歴史を学ぶことは現在及び未来について考えることに必要だと良く言われ
ますが、自分の先祖について知る事で自分の残りの人生をいかに生きるかを
考えることができるのかもしれません。

[2013年11月20日12時59分]
お名前: カーター
 2013年2月10日(日)神戸の国際会館で河原啓さん、河原一郎さん
川原桔梗と私の4人で昼食会を開催しました。半年以上経ってからのレポー
トをお許しをお願い致します。この後には、続きがあるので追って書いて行
きます。
 当日は一人でホテルのある元町界隈から、三宮神社の河原霊社を通り抜け
て、市役所方面から小野八幡神社へ向かいました。神社には河原兄弟ゆかり
の神社であるとの立て看板がありました。下記を参照下さい。
 
http://seiyo39.exblog.jp/8052608/
 
 それから、線路を越えて生田神社へ参りました。ここは源平合戦の古戦場
であり、その説明がありました。生田神社内には生田の森が保存してあり、
遊歩道になっております。源平合戦の時代には、このような森が現在の神戸
全体に広がっていたものと想像されました。
 
http://www.ikutajinja.or.jp/ikutaoasis/ikutanomori.html
 
 12時に国際会館に着き、お三方とお会いしました。河原一郎さんとは、
2010年の12月以来であり、2年ぶりの再会となりました。河原一郎さ
んは、ご夫妻で私の住む寒村にお見えになっており、お会いしておりました
が、河原啓さんと川原桔梗さんとは初めてお会いすることになりました。神
戸の国際会館の西村屋と言う和食レストランでしたが、東京や埼玉とは違っ
てお金持ちが多いと言う感じがしました。
 河原啓さんがご先祖について、興味を持たれている理由については当日も
色々お話を伺いましたが、下記の通りまとめて頂きましたのでご紹介致しま
す。

1.祖母が信心深く、またご先祖のことを調べていたことが分かった。
2.父が遺言で、先祖の供養をしっかりするようにと書いていたこと。
3.内科医を38年も続けていると、何百人と亡くなっていく方をお見送り
  してきたことで、ご供養をするようになったこと。
4.自分自身も下手をすると命に関わるような大きな病気を何回か、軽く済
  ませていただいたこと。
5.仏教では、ご先祖の因縁と言いますか、流れ、遺伝子が現在の自分を表
  している。
6.霊的なものを信じられるか分かりませんが、確かに患者さんでも霊的な
      支え、を感じることがありますし、自分自身も先祖に守られているな、
      と感じることが何回かありました。
 
 河原一郎さんからは、ご先祖に高等女学校の校長を勤められた立派な方が
いらっしゃること、また系図も作られ河原一郎さんと河原啓さんとがまた従
兄弟であることなどが明らかにされ、そのCDを頂きました。
 食事が済んでからは、4人で神戸の追谷墓地の河原兄弟の墓にお参りに行
きました。当日は天気も良く六甲山の中腹からの眺めは最高でした。

[2013年11月18日21時17分]
お名前: カーター
 先の河原啓さんの書き込みに対して、日本の武士団をどうとらえたらい
いのか、悩んでおりました。最近、河原啓さんが書かれた内容の元となる
論文のコピーを頂きましたので、ざっと読み後半の部分を理解した次第で
す。
 
>江戸時代となって、武家社会がほぼ完成?して、鎖国を続けてきたとい
>うことが却ってよかったのでしょうか?
 
 そういうことでしょう。鎖国とはキリスト教の問題のためスペイン、ポ
ルトガルらを閉め出したと言うことで、オランダの文物は輸入されてお
り、蘭学が発展し、西洋の思想は流入していました。日本の学者は西洋で
起こっているほとんどのことは知っていました。
 韓国と比較すれば、日本の先進性は抜きん出ていたと思います。韓国で
は朱子学を公式の学問としたため、キリスト教や西洋の学問は禁止され、
学問は排他的な朱子学だけとなり、キリスト教は弾圧されながらも徐々に
広まって行ったことは日本とは違う状況です。
 また、江戸時代には貨幣経済が進展し、現在の財閥の前身となる三井、
住友(大阪)など、また近江商人による現在の総合商社の元となる形態も
江戸時代に発展しました。また、大坂では送金の方法として為替制度が発
達し、日本の資本主義の発展の元となりました。すべて武家社会が創造し
たもので中央集権的官僚制度が長く続いた韓国ではなかったものです。
 ところで、もののふの道とつわものの道との違いは論文を頂きましたの
で、大体理解できました。さらに入間田氏の武士の本質が東国の狩猟民の
ものであったと言う問題についても、鈴木国弘氏の次のようなコメントに
同意します。

「だが、・・そのことのために、武士たちが自己の地域社会を守り切るた
めに持った(つわもの)としての精神の純粋性までも否定してはしまって
はならないのである。・・
 入間田氏の所論の最大の欠陥は、中世武士=狩猟民と言う昨今いささか
ブームとなっている一種の人種論的見地から、その罪業を告発する構想を
取っている点にある。だが、人種論的な告発主義が、歴史上いかに多くの
誤りを侵してきたかは、あらためていうまでもない。・・・・狩猟民・農
耕民が混血=融合して作り上げた中世的世界そのもの中に、後世の歴史社
会をプラスにもマイナスにも展開させる分岐点が内在していた。・・」
  「東国武士団の社会と鎌倉幕府」 鈴木国弘著

 「朝鮮の近代化と日本」のサイトでも書きましたが、朝鮮王朝では地方
の反乱が鎮圧されて中央集権が確立したのに対して、江戸幕府では中央集
権的体制を取ることなく地方の自治が温存され、地方の藩は独自に行政経
済改革などを行い、その後幕末の雄藩の活躍を見ることになるのであり、
中央集権体制の続いた中国や朝鮮とは異なっていました。地方に活力をも
たらしたのは、入間田氏の告発する狩猟民の技術を取り入れた武士達でし
た。

[2012年11月11日17時39分]
お名前: 河原啓
カーター様、
武士に対する歴史家の見方、というものをお教えいただき、有り難うございました。
不勉強で、明治維新以来の日本の近代国家としての歩んだ道、経済発展の道というものをあまり知りません。
昨日もNHK「平清盛」を観ていました。忠盛、清盛が「武士が頂点に立つ社会、武士が国を動かせる社会」と盛んに言うのですが、その後、源平合戦に突入し、鎌倉幕府、室町幕府、そして、戦国時代へと混沌とした世界に迷い込むのですね。また、864年から約300年間は、たびたびの富士山の大噴火や貞観の大地震、浅間山の大噴火、飢饉と、それに併行して武蔵野の開拓が進められる一方で、戦乱の世が続きましたね。自然災害が世の中を大きく変化させてきた、という要素もあるのでしょうね。江戸時代となって、武家社会がほぼ完成?して、鎖国を続けてきたということが却ってよかったのでしょうか?
私も、清和源氏の私闘をみているとがっかりさせられました。
「義朝は父を、弟九人を殺害。頼朝は弟二人を含め、近親者十人を殺害。義家以降の棟梁七代中、四代を近親が殺害。嫡系の四親等中、37人を近親が殺害。熾烈な相克、繰り返される惨劇、「暴力の優位」と言われる所以。清和源氏、血の宿業を持つ一族。」と学研の歴史群像シリーズ76「源義経」に記述されています。身内同士でなぜこのように殺し合ったのか、未だに私には分かりません。本当に内ゲバ、あるいはヤクザのような世界なんでしょうか?
これまで、御家人制論・惣制論などは歴史的段階差とか生産環境の違いとかと理由づけていたが、そもそも中世武士団は地域社会における自家の利益擁護のために、その軍事力を発動した存在に他ならない(私闘集団としての性格)、と結論づけている研究者もいました。しかし、鈴木国弘氏は、中世前期のイエ世界にあっては、上級領主の支配イデオロギーである主従制原理よりも、すぐれて本源的な族縁原理が圧倒的な意義を持ち、この族縁原理のうちに内包された家父長制的タテ関係と、族縁共同体的なヨコ関係とが、その頃の人々の社会的存在形態や精神世界のあり方を規定したのである、と述べています。
また、以前にご紹介いたしましたが、「もののふの道」と 「兵(つわもの)の道」について、石井紫郎氏の研究はこう述べています。
「もののふの道」― 公戦
「公戦」はかなり厳しく、中世武士たちが示した合戦倫理は、女や子供など、非戦闘員の殺害をもものともしない殲滅戦であったという点に現れている、といいます。敵方の復讐の種を根絶やしにして、主君の統治、国家体制の安定を図ろうと意図したところに、こうした合戦倫理形態が現れる最大の理由があった、といいます。
「兵(つわもの)の道」― 私戦
一方、「私戦」時に中世武士団が示した合戦倫理は、それが次のごとき作法に則って行われたところに示されていた。@合戦の目的と場所をあらかじめ敵方に明示する。A合戦時の軍使の生命の安全を互いに保証し合う。B合戦の場では、自らの名前や身分を名乗り、同じレベルの武士同士の一騎打ちを闘いの原則とする。C勝敗の帰趨に関係しない限り、敵方の重要な武将を無闇に殺害することをしない。D女性や子供など、非戦闘員の生命の安全を保証する。E「降人」を大切にして、虐待したりはしない。 とあります。
 石井氏は、中世武士団の合戦倫理は、おおよそ源平合戦の頃を境に、「兵(つわもの)の道」の段階から「もののふの道」の段階へ向けて推移したこと、そして、そうした歴史的推移の中で、武士団が本来持った「兵(つわもの)」としての倫理が失われていき、「もののふ」の倫理を事とする酷薄な武人の相貌が現れたことを指摘された、ということです。
 さらに、入間田氏などは地頭御家人の歴史的本質は、東国社会に存在した狩猟民という点にあった。したがって、こうした地頭御家人のつくりあげた鎌倉幕府は、狩猟民という殺人者集団の利益を保証する政権であった。かつて、石母田正氏が提唱されたような新しい中世国家の時代を切り開いた在地領主などの時代の到来といったような積極面での評価は不可能。以後近代まで数百年は、殺戮を本業とする武士たちが歴史の表舞台に登場し、天下を動かした異常な時代。太平洋戦争でもその性格が表れている。不幸な結果だと述べています。しかし、当の鈴木氏は、鎌倉時代は中世国家の集権性と多元性という二重構造が存在していたから、「一家」世界がそのまま入り込んでいたので、兵の道(私戦、多元性)は失われてはいなかった、としています。所領を死守する一所懸命であって、田園地主としての朴訥な性格をも合わせもつ存在であった、と述べています。守るためには、武力も必要だったのでしょう。この鈴木氏の考え方を支持したいですね。
 前者、入間田氏のこういった考え方は、イスラムの世界にも共通している点もあるのでは。荒涼たる砂漠を家畜とともに移動し、部族同士、まさに生きるか死ぬか、の戦いの連続でした。食料がなくなれば、他の部族を殲滅してでも侵略、略奪する。イスラム世界では、今でもこのような衝突が起きています。宗派間の争いも混在し、事態をますます複雑にしています。

[2012年09月10日23時39分]
お名前: カーター
 以前、このサイトで河原啓さんが『源氏と坂東武士』野口実著を紹
介されていましたが、私は以前、同じ野口実氏の『武家の棟梁の条件
』中公新書を読んだことがありました。野口氏の主張は次のようなも
のでした。
「現代の日本人がイメージする高潔で忠義を重んじる武士像は、近世
に概念化され、明治以降、国家主義的教育の中で作られたものであり
、本来、武士とは政治史的にはこの上もなく暴力的性格の社会集団で
、職業的な殺し屋的存在だった。」と言うのです。また、「八幡太郎
義家も今で言えば広域暴力団の組長のようなもので」あり、このよう
な武士団が長期にわたり日本を支配して来たのであり、近代も薩長の
武士を基盤とする集団により構築されて来た、そして東北出身の入間
田宣夫氏を引用して「文よりも武を尊ぶこの国の気風が近代にいたる
まで払拭されきれず、その侵略戦争の触媒となり・・」と。
 このような主張は読者の反発を招くだろうが、野口氏自身も最初は
全面的に武士を支持していた一人であったとのことです。このように
弁明されてもこの本の読後感は不快であり、長い間この主張を受け入
れることはできませんでした。あまりにも長い間、NHK の大河ドラ
マに影響を受けて来たためでした。
しかし、読了してから十数年が経ち、他のアジア諸国家との違いな
どを理解するようになり、もし日本が封建的な武家社会を経験せず、
朝鮮のような中央集権的な官僚国家が長く続いていたら、市場経済や
資本主義経済の発達もなく、近代的な科学技術の導入も遅れ、他のア
ジア諸国のような西洋の植民地になっていたことがわかりました。戦
後のアジア諸国の独立も経済繁栄もなかったことでしょう。
 理想主義者の言うような歴史はどこの国にも存在しないし、日本の
武士だけが暴力的なのではなく、十字軍やモンゴルなど武士に劣らな
い存在もありました。しかし、承久の変後に西国に配置された東国の
武士団はその暴力性から恐れられたそうです。

[2012年08月16日12時39分]
お名前: 河原
桔梗様

沢山の書き込みを有り難うございました。

所詮確定は難しいですね。そういう実感を抱きました。
しかし、可能性ゼロではないような気もします。

「尾張での可能性としては一宮市か春日井市しかありません。
三河だと豊田市か豊川市、岡崎ですね。豊川市御津町泙野の河原さんが河原様の言われる一族かもしれません。私のカンでは可能性大、旧家そうですし。
期待を持ってます。」ということでした。

土曜日に、研究会で休みを取っているので、親族(この方は、父方の祖母の姪に当たる方です)も居る豊川市にも足を伸ばしてみたい、と思っています。
豊川市御津町泙野の河原さんの番地は分かりませんか?


[2012年07月19日15時31分]
お名前: 川原桔梗
久しぶりに書き込みます。
なかなか分からないことばかりですが、分かることを載せます。

武蔵の河原兄弟は、我々の先祖か?
なかなか証明は難しいと思いますし、残念ながら確証は見つけていません。 

そういえば、今村と松本は前田家家臣におりますね。
今村や松本から河原に復姓したのなら系図か何かに記載があるかもしれませんが、
まずその資料を所有されている管理者に巡り合い、
しかも、その方が自己所有資料の内容を詳細に理解されてないと難しいかもしれません。

話を戻し河原姓について調べ、現在の河原姓の分布を客観的に見ます。
結果、荒子出身の河原家があったとしても、荒子に在住したのは短期間(一代限り等)と考えられます。
理由はに河原姓が少ない事。
極端に聞こえますが、長い期間一カ所に地侍や豪族、武士が居住した場合、その周辺には支流が増えに増え、何十家、何百家にもなったりします。
仮に三河から尾張へと移住した河原一族があって前田家に仕えたとしても、荒子周辺に住みついてないと考えられますね。
尾張以外の国から前田家に仕官した可能性が高いかと思われます。

尾張での可能性としては一宮市か春日井市しかありません。
三河だと豊田市か豊川市、岡崎ですね。豊川市御津町泙野の河原さんが河原様の言われる一族かもしれません。私のカンでは可能性大、旧家そうですし。
長野には真田家家臣河原家の支流
関東だと埼玉県川口市、神奈川県横浜市緑区
群馬県は高崎市と前橋市
京都では右京区、伏見区、西京区、亀岡市に多く、室町幕臣の一族かもしれません。
関西だと大阪府泉佐野市、牧方市
兵庫県は姫路市、たつの市、豊岡市が多い。
全国1の岡山県は岡山市北区に200件もあり、戦国時代末期に加茂川町の鍋谷城の城主であった河原直次の弟秀光を祖とする旧家の支流が多いと思われます。
広島県も300件以上で比較的多く、福山市、呉市に多い。
福岡県も300以上見え、小郡市に多い

前田家が治めた加賀〜越中には多く、富山市、金沢市にそれぞれ100件ぐらい見えます。
多くが河原兵庫様縁者かと思われます。たいていは、200年以上在住するとこのようになります。

次に、遠方の縁者が亡くなった時に枕元に寄ってくれたとのこと、私も経験があります。
しかし、私自身の宗教においては私が自分で調べるまで宗派も分からなかった状態で信心深い家柄とは言えません。

@直系は名前に“直”が付く。
→代々続けてきたなら可能性大ですね。

A家紋が源氏―足利の○二(二つ引き両というのですか)である。
→足利一門に由縁ありそうですね。

B「源平生田の森合戦と河原霊社の由来」(川辺賢武氏著、昭和33年4月発行)の中にある記述で、「・・・現在群馬縣、東京都、愛知縣その他にも子孫と伝えて河原兄弟を祖先として祀っておられる家があるから、
そののち兄弟の子孫は各地に廣く繁栄したのであろう。」と。
→現在、河原さんの多い地域は上に記入しましたので参考になると思います。

河原兄弟の残された頭髪の一部からDNAを取り出して、現代の方たちと比較する、ということも考えられますが、・・・
→そうですね。髪の毛で分析してくれる協力的な医者様(大学教授や研究機関)がおりましたらいいと思います。
一番確かな証拠でDNA鑑定は良いと思います。ちょっと現実的でロマンに欠ける??と思われるかもしれませんが。
私はDNA鑑定で数千年前ぐらいのルーツはわかりました。

1.今村に移住した今村帯刀義明より七代後の今村織部重利が武蔵国河原郷に帰住し、
とありますが、一部の今村一族、あるいは今村帯刀義明の弟、松本三郎太重行の一部の一族が三河に残存していた、というのは可能性としてどうでしょうか?
→なんともいえません

2.三河の今村、松本(隣村ということですが) と 尾張国富田荘(前田村)の今村、松本、それらの関係は? 冨田荘に移住することにより、逆に土地に姓名と同じ名がつくことがあるのでしょうか? 
荘の所有者であれば、今村、松本という家の名前そのものが地名として付いてもおかしくありませんか? あるいは、たまたま同名の土地が元々あったのか?
→なんともいえませんが地名については図書館にある角川日本地名大辞典で調べることですが、由来のはっきりしているのは半分以下です。

3.荒子村か前田村か? 先祖は、荒子衆であるから、荒子近辺に住んでいた、と考えるのが妥当か? 荒子は、庄内川を挟んで前田村の対岸です。
元々前田村近辺に居住していたが、利家が荒子城主となって荒子に移住した際に、一緒に移住したのか。
→荒子衆だから荒子近辺とはいえません。各地から仕官しにやってきたりします。何かの縁があってというのもあります。

4.そして、今村姓、松本姓から河原姓に復姓したのか? 埼玉苗字辞典の享保年間(1700年代)によれば、年代が合わないかもしれない。
→復姓は無いとはいえないですが、条件が満たされればあればあります。本家が断絶した時に、支流の一族が復姓を願い出て、主がそれを認めたような場合あったようですよ。
 
寶暦九年(1759年頃?)四月十日に金澤で大火災があり、一萬五百余戸が消失したとあります。
→火事は致命的です。私もお寺の火事で資料が途中までしか無いため調査中断しました。今は休息中です。

三河今村、あるいは松本の地(あるいは尾張冨田荘今村、あるいは松本)に居住していたものが、前田利家が前田村から荒子城主となった頃(1569)には、一族のために高名を揚げようと、
神南合戦(1355)の後ご先祖が憚って一旦改姓した河原姓を復姓し、前田家の家臣(後に荒子衆と呼ばれた)となって馳せ参じたのではないか、との思いを馳せるのです。
いかがでしょうか?
→なんとも言えません。

[2012年07月09日23時35分]
お名前: 河原
カーター様、川原桔梗様

武蔵の河原兄弟のお話しから、また少しずれるのですが、お付き合い下さい。
武蔵の河原兄弟は、我々の先祖か? 
これは、祖母、河原榮(エイ)の大きな命題だったようです。祖母は晩年に武蔵の河原太郎次郎と当方の先祖、荒子出身で加賀前田家に仕えた河原家(加賀時代の初代、河原兵庫以降)との関連性、接点を見つけようと図書館通いをしたものと思われます。しかし、結論には至らなかった模様で、「源平生田合戦 河原兄弟忠死の事蹟」の手書きの写しや荒子(あるいは前田村)出身の河原家の現代までの系図などは残っています。この命題を証明するためには、三河から尾張へと移住した河原(今村、あるいは松本)一族があるとの証拠が必要ですが、見つけられなかったのでしょう。
 ただ、彼女は永平寺まで修行に通ったほど仏教(禅宗曹洞宗)に信心深く、またひじょうに強い霊感をもっていた、と思っています。例えば、彼女は10人兄弟姉妹でしたが、遠方の妹が亡くなった時には、即座に分かった、枕元に寄ってくれた、と申していました。
(こういうことは、日常診療でも何例も経験しています。ふだん音信がなくとも、ご本人が植物状態であろうと、分かる方には分かるものなのです。)その霊的直感力でも先の二つの流れが繋がっていたものと考えていたように思います。その他にも、傍証として、以前にも書かせていただきましたが、@直系は名前に“直”が付く。A家紋が源氏―足利の○二(二つ引き両というのですか)である。B「源平生田の森合戦と河原霊社の由来」(川辺賢武氏著、昭和33年4月発行)の中にある記述で、「・・・現在群馬縣、東京都、愛知縣その他にも子孫と伝えて河原兄弟を祖先として祀っておられる家があるから、そののち兄弟の子孫は各地に廣く繁栄したのであろう。」と。そして、私の直感。その他、可能かどうか分かりませんが、今後は河原兄弟の残された頭髪の一部からDNAを取り出して、現代の方たちと比較する、ということも考えられますが、・・・
この2年間、カーター様はじめ、多くの方々にお教えいただき、深謝いたしております。以下、様々な資料、あるいは図書館での文献などから武蔵の河原兄弟から荒子(あるいは前田村)出身の河原家までの道筋を推察してみました。
・「源平生田合戦 河原兄弟忠死の事蹟」や「河原霊社」での記述の通り、
 末裔で足利義詮公に使え、城州神南(コウナイヤマ)合戦(今の高槻市、1355)にて討ち死にした河原兵庫介重行があった。そして、家名は一時中絶して、弟の三郎太郎義国が参州(三河)に蟄居。その子の帯刀(タテワキ)義明が河原姓を名乗るのを憚り、地名を以て今村と改名。その弟、三郎太重行は、今村の隣村の松本を以て、姓とし、松本三郎太重行と名乗った、とあります。さらに、七代後の今村織部重利が応仁中に武蔵国河原郷に帰住し、土着し、その末裔は勝呂明神の社司となり、明治維新には、河原神社と改む、とあります。
・三河国の城塁地理誌・墳墓誌(愛知県立図書館)
 賀茂郡郷村 今村、 設楽(シタラ)郡郷村 松本、 神戸(カンベ)郡 松本村 久寶山 松本寺(真言宗)などの記録が散見されます。豊橋市美術博物館に問い合わせますと、西三河に 松本町があり、設楽郡は、市の東北の丘陵地帯とのこと。また、話は別かもしれませんが、ゼンリン、デジタウンでは、豊橋市内を鳥瞰してみますと、吉田城の北部、豊川が東に凸に湾曲した西岸に為河原郷という土地があります。近くには、長光寺というお寺があります。ここで、今村、あるいは松本の姓から河原に復姓したのでしょうか?
・愛知県史に尾張国富田荘絵図(鎌倉時代、円覚寺、鎌倉国宝館所蔵)が掲載されているのを、昨年、愛知県立図書館を訪ねた際に偶然見つけました。ここには、円覚寺所領富田庄が掲載されており、今村、松本、助光などの地名が記載されております。ゼンリン、デジタウンでも富田、助光、江松(エマツ)、蟹江などの地名は残されています。
・図説 前田利家(菊池紳一著、新人物往来社)のp101の記述によりますと、助光の東側にあたる御厨余田方付近が前田村(前田城は15世紀中頃、菅原道真の子孫が築城?(1584年落城)であろうとのこと。この土地は戦国時代から現在まで前田速念寺として知られています。前田利家は後に荒子城(1544年、父、利昌(利春)が築城)城主となったわけではありますが、荒子村出生地説については、武田茂敬(シゲノリ)氏がその著書「荒子城物語」において疑問がある旨、述べておられます。前田家のご先祖は、美濃本領前田郷(岐阜県安八郡神戸町前田)出身ということで、尾張御厨余田方前田村に移住し、そこで利家は出生、城主となり、荒子に移住した、というのが真実ではないか、とされています。
・そこで、河原兄弟末裔と我が先祖、荒子の河原家との繋がりについての疑問点は、
1.今村に移住した今村帯刀義明より七代後の今村織部重利が武蔵国河原郷に帰住し、
とありますが、一部の今村一族、あるいは今村帯刀義明の弟、松本三郎太重行の一部の一族が三河に残存していた、というのは可能性としてどうでしょうか?
2.三河の今村、松本(隣村ということですが) と 尾張国富田荘(前田村)の今村、松本、それらの関係は? 冨田荘に移住することにより、逆に土地に姓名と同じ名がつくことがあるのでしょうか? 荘の所有者であれば、今村、松本という家の名前そのものが地名として付いてもおかしくありませんか? あるいは、たまたま同名の土地が元々あったのか?
3.荒子村か前田村か? 先祖は、荒子衆であるから、荒子近辺に住んでいた、と考えるのが妥当か? 荒子は、庄内川を挟んで前田村の対岸です。元々前田村近辺に居住していたが、利家が荒子城主となって荒子に移住した際に、一緒に移住したのか。
4.そして、今村姓、松本姓から河原姓に復姓したのか? 埼玉苗字辞典の享保年間(1700年代)によれば、年代が合わないかもしれない。

  何か、殆どこじつけのようなこととは、自覚しておりますが、ご意見はいかがでしょうか?
  また、川原桔梗様にもご呈示いただいたことがありますが、埼玉苗字字典では、以下、とくに第5項目の記述が重要に思われます。しかし、内容が複雑でよく分からないところもありますが。
 1.河原兄弟の先祖は、摂津生田の庄の出身なのか、あるいは従来の説通り、武蔵国出身なのか? 河原姓に復姓したのは、いつか?
埼玉苗字辞典  
河原 カワラ 日本書紀神代上に「天安河(あまのあのかわ)」、「天安河辺(あまのあのかはら)」と見ゆ。天は朝鮮、安は安羅国(後の百済)、河及び河辺は非農民である商工業者の集まる市を云う。朝鮮語のナリで都の意味なり。斉明五年紀に「川上、此には箇播羅(かはら)と云ふ」と見ゆ。また、近江国犬上郡甲良郷あり、「今河原荘と云ふ所是なり、甲良・かはらと訓ず」と見ゆ。延喜式筑後国御井郡高良神社はカハラと註し、現在はコウラと称す。各条及びカワハラ、ゴウハラ参照。所沢、行田、熊谷、上尾、浦和、大宮、戸田、和光等に存す。
一 私市党河原氏 埼玉郡南河原村及び北河原村(行田市)より起る。私市氏系図に「家盛―家景―則家―則房―河原権守成方(武州埼玉郡、同国男衾郡所々相伝)―河原太郎成直―河原太郎有直(弟河原次郎高直)―小太郎重直(弟成木守直)―兵衛尉景直(城入道退治時討死す。弟河原宮内丞長基)―兵庫允師継―師氏―兵庫助宗基」と見ゆ。但し、此の系図信用出来ず。私市(きさい)条参照。
二 私市氏流熊谷氏族河原氏 大里郡河原明戸村(熊谷市)より起る。古代氏族系譜集成に「成木権大夫直幹―熊谷兵衛太郎直季(又成木大夫、住大里郡熊谷村)―河原二郎三郎直光(一説私市大夫直常子)―河原小二郎直広(住大里郡河原村)―河原太郎大夫忠広―河原太郎高直(又有直、寿永摂州生田合戦討死)―小太郎重直(弟成木小次郎重宗、其弟河原守直)―又太郎直重―兵衛尉景直(弘安乱・城入道退治時討死。弟宮内丞長基)、高直の弟河原次郎盛直(一に忠家、摂州生田合戦討死)―忠政(一に忠教)」と見ゆ。丹治系図(武蔵志)に「私市大夫茂直―熊谷兵衛太郎直季(天喜元年十月、於武州大里郡領)―河原次郎直光―直則―次郎太郎則光―河原太郎高信、弟河原次郎盛直。瀬山、河原、小久保、常木の祖」と見ゆ。河原明戸村の隣村は瀬山村にて、小久保氏多く存す。風土記稿河原明戸村条に「小名殿ノ内あり、此所は往昔河原太郎が住せし所と云。河原は武蔵七党私市党の人にて、太郎高直と呼べり、此人のことは埼玉郡南河原村に出したれば彼村について見ゆべし」と見ゆ。
三 藤原姓成田氏族河原氏 埼玉郡河原村より起る。成田系図に「成田太郎助広―助忠(寿永二年義経従軍)、弟平戸太郎兵衛九郎―河原左近允」と。武蔵志に「成田三郎大夫助広―河原右京亮義泰」と見ゆ。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「川原、藤原、本国武州埼玉郡、モン一ツケン酸漿、成田四郎助広男、左京亮泰義・之を称す」とあり。また、南河原村観福寺石塔婆は河原氏の墓と伝へ、「文永二年乙丑二月、完人氏、藤原氏(三名)、佐伯氏、平氏、高□氏、日前氏」の銘あり。私市氏の名は無く、河原氏は藤原姓を称していたか。
四 清和源氏河原党 南河原村今村文書に「姓河原、其先源氏、今は今村を以て姓と為す」とあり。次項参照、武蔵志・埼玉郡北河原村条に「河原太郎高直は新羅三郎義光四代、一谷にて戦死の人なり、弟二郎盛直同日同所戦死。河原氏古文書に云。治承四年三月、河原一家歴々・河原源五常直・稲村八郎正直・中村四郎正広・和泉田藤太正信・間宮仲太盛久・毛利三郎友直。着座面々・布施田新平次・今藤正五郎・鈴木二平治・新井弥平太・高沢七郎太・川瀬四郎三郎・大井五郎治・川島三郎太郎・加藤仲治五郎・小沼八郎次・藤田弥平太・長井弥太郎。惣侍列位・名越十五郎・大河内三郎太・吉田仲五郎・布施田新平太・高野小平太・沢田十郎太・酒井源次三郎・鈴木二平太・川島又五郎・中条八郎次・同一十郎・加藤新八郎・川島五郎太・薬師寺四平太・平井三郎次・今藤九八郎・松本七平次・同六郎太・小和泉金平太・平野大三郎・田中小惣太・太田小五郎・森武平次・金沢藤次太・馬場門太三郎・橋本八五郎・岸軍次三郎・篠塚弥太三郎・竹井仲次太・園田太四郎・正田小軍治・三枝弥市太・津田定五郎・同藤八郎・小笠吉郎太・同文治三郎・新村吉五郎。是は河原太郎家の武家法令也」と見ゆ。河原党の人々は本名にて埼玉郡に存す。
五 清和源氏河原姓今村氏 
風土記稿南河原村条に「河原兄弟碑、河原太郎私市高直・同次郎忠家の碑なり。中古迄村北畑中にありしを、農民河原太郎左衛門、己が先祖の碑とて、後年爰に移すと云ふ。碑面一は文応二年、一は文永二年と彫り、共に弥陀像施主の名あり。正しき供養塔なり、しかのみならず彼の兄弟の碑とせんには、年代違へり。されど正保改の国図に小高き塚を書き、側に河原兄弟墓と記したれば、此の碑は疑ふべきにもせよ、中古迄彼の碑の存せしことにて、村内墳墓所ありしことは疑ふべからず。今の如く塚をも切崩して、陸田としたる年代等は伝へず」と。
武蔵志に「青石、当村の北畑中堀端有しを、高直より二十三代の嫡孫今村源左衛門重光子、河原太郎左衛門重次観福寺境内へ引」と見ゆ。但し、文永二年の碑面には、私市氏及び源氏の銘は無し。三項参照。
風土記稿同村条に「河原氏、家系あれど、後に附会せしものなり。相伝ふ、古へ河原氏なりしを、中古今村を名乗り、今より五代の祖、享保年中・太郎左衛門重信復姓して、再び河原を氏とす。彼の家系といへるも、この頃附会せしものなるべし。されど成田下総守より先祖源左衛門へ与へし判物あれば旧家なることはしらる」と。
増補忍名所図会に「勝呂大明神は南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云。高直摂州より出し人にて往古明神を信仰す、此地に来りて、後川越領勝呂村の住吉を爰に移す、依て勝呂明神といふと云へり。今村佐渡守重光之墓は川原太郎草創の真南院観福寺にあり、碑面蓮乗院泰翁道寿居士・天正十九年八月十七日河原姓今村佐渡守重光と記す。重光は太郎高直の末葉にして成田家に属す、天正の役に籠城して軍功ありといへり、子孫猶当村に散在して民間に下る。今村河原太郎左衛門といふあり、同処入口に川原高直旧所と記す石標あり。高直旧館之跡は同村北裏の方にあり、疑しくは重光の旧館ならん。また重光の末葉今村某の家に、天正五年六月九日・今村源左衛門どの・氏長ノ丸印あり」と見ゆ。観福寺墓地に「太祖河原太郎源高直二十三世同姓今村佐渡守重光」と。埼玉郡上之村龍淵寺寛政八年鐘銘に「成田下総守家来末葉、今村佐渡守末葉・忍御城内今村理左衛門・南河原河原源蔵」あり。
行田史譚に「享保六年・名主河原太郎右衛門。天保元年・名主河原太郎右衛門」。河原神社文化三年富士講碑に河原長蔵あり。河原氏の先祖某氏は摂津国生田神社(神戸市)の神職或は社人にて、武蔵国勝呂郷(坂戸市)塚越村住吉神社に移り、兄弟の祖父あたりの代に埼玉郡河原村へ移住して私市党に属し河原氏を名乗ったのであろう。源平盛衰記に「武蔵国住人篠党河原太郎高直・同二郎盛直、生田庄を給ふ」と。篠(しの)は私ノ(しの)党なり。兄弟は先祖相伝の生田庄を安堵され、郷里の生田神社の森で討死す。吉士条参照。
また、行田市史に「河原氏は入間郡勝呂村の出身と伝えられ、河原村に移住するに及んで河原を氏とした」と。南河原村に河原氏は現存無し、今村氏は多く存す。河原神社は応仁年中に今村織部重利が造営すと伝え、これより遥か前の古代には土着しており、河原兄弟の名跡を当村の源姓今村氏が継承して河原氏を名乗ったのであろう。

 昨年11月、河原一郎が金澤市立近世資料館を訪問し、加賀藩史料、第八編の中に発見し、判明したことなのですが、寶暦九年(1759年頃?)四月十日に金澤で大火災があり、一萬五百余戸が消失したとあります。その後に「金澤大火事記」類焼之覚 があり、河原左次馬(加賀五代目 左次馬直秀と思われる)が被災者として挙げられています。この大火の際に、先祖の記録などが消失したことも考えられます。幸い系図は残存したようです。
また、この際に一郎が史料、第二編の中に発見したのは、慶長十六年(1611)八月廿七日、前田利常が河原兵庫など五人を金澤の惣屋敷奉行とす、という記述です。
河原兵庫については、これに先立つこと四半世紀前、天正十五年(1587)四月一日に、秀吉九州征討豊前巌石城攻撃で一番乗りをして著功を挙げ、太閤の御前で褒賞を賜った、とあります。私は、河原兵庫左次馬というご先祖は、かなり意気盛んな勇猛な武士であったように思います。
ですから、以下のように推測しました。三河今村、あるいは松本の地(あるいは尾張冨田荘今村、あるいは松本)に居住していたものが、前田利家が前田村から荒子城主となった頃(1569)には、一族のために高名を揚げようと、神南合戦(1355)の後ご先祖が憚って一旦改姓した河原姓を復姓し、前田家の家臣(後に荒子衆と呼ばれた)となって馳せ参じたのではないか、との思いを馳せるのです。
いかがでしょうか?

[2012年06月28日17時11分]
お名前: 河原 啓
カーター様

小さな武士団は、どのような過程を辿って大きな武士団になっていき、鎌倉幕府にどう関わっていったのか、武士団の始まりと河原兄弟の関わりについて、調べてみました。
前回のカーター様の投稿文と一部ダブるところもありますが、ご容赦下さい。
武士の時代へ 東国武士団と鎌倉殿  関幸彦(NHKカルチャーアワー歴史再発見)
東国武士団「もののふの道」「つわものの道」  鈴木国広 インターネット
「鎌倉幕府の滅亡」 細川重男 吉川弘文館
などを参考にしました。

武士の起こりについては、各説があり、官牧の馬の管理者であった牧官が武装化したという説、都の治安を維持する検非違使が武装化したという説、地方の荘園の荘官が隣接する勢力に対抗するために武装化した、という説、あるいは狩猟民が「弓道の道」を成して武士となった、野の人=農民が武装化した、山の人=木樵(きこり)などが戦時に駆り出された、など諸説がありますが、すべて正しいように思われます。
カーター様の言われるように、8世紀頃には、律令軍団制の解体過程で、農民に替わる軍事力が必要で、軍事力としての農民兵士の十人分の戦闘能力をもつ俘囚(蝦夷えみし)を活用して、盗賊(群党・群盗)や海賊征伐に坂東(関東)、瀬戸内、北九州に派遣したようです。しかし、時として当該地域の群盗や海賊勢力と同化を引き起こし、9世紀段階の坂東(関東)は、俘囚反乱が先鋭化していたようです。また、894年9月、新羅が衰退したため、新羅海賊が本格化し、難民が北九州に来襲した、とあります。10世紀以降は、俘囚・海賊問題で新しい方策が必要になったわけです。また、蝦夷戦争の後遺症が残る東国・坂東地域での治安悪化は、中央政府にとっても急務の課題でした。武力の請負化が始まります。
「武士」(もののふ)の前身ともいうべき、「兵」(つわもの)と呼ばれた人々が十世紀以降に登場してきます。正に軍事部門のプロでした。
源宛や平良文の乱では、兵は5〜600人規模。楯を持った歩兵。“狭く・深い”関係の「武士」、いわゆる「もののふの兵」。これらの兵は、地域との関わりは浅かったらしいです。“広く・浅い”関係の「兵=つわもの」と段階の違いがあったようです。後者の従者たちの忠誠度は強固なものではなかった。さらに、『今昔物語集』の源宛と平良文の「兵ノ道」の説話は、嵯峨源氏・桓武平氏を祖とする貴種たちの10世紀初頭での実態を記述しているとのことで、軍事貴族と述べているようです。これとは別に、坂東は伝統的に王胤オウインたちが下向しやすい土壌があり、中央政界での栄達が難しくなった「武士」は、地方に土着し地方豪族との婚姻により、勢力拡大を図ることは、自然の流れだったようです。いわゆる「辺境軍事貴族」でしょうか?
939年(10世前半)、東国、常陸国衞こくがを攻撃し、反乱を起こした平将門や西国、瀬戸内を中心に乱を起こした藤原純友。乱の鎮圧に寄与した平貞盛・藤原秀郷は、武功により四位や五位の位階を。「中央軍事貴族」へと抜擢された、といいます。乱の鎮圧も武力。律令軍団制が解体した段階の王朝国家にあっては、兵たちによる武力の請負化が進んでいた、ということです。鎮圧した平貞盛・藤原秀郷は乱後に東国諸国の受領や鎮守府将軍の官職を得て、その子孫達は中央軍事貴族として大きく飛躍することになったわけです。
『将門記』には、この時の武力として「従類」、「伴類」という二つの武力集団が記述されているそうです。
「従類」は、側近的軍事力。少数精鋭の騎馬部隊、所従・下人も(後世の家の子・郎等)
「伴類」は、周辺農民で構成され、数百・数千の規模。歩兵であり、主人との情宣関係が薄い。離合集散の度合いが大きい。戦局を左右したのは、伴類の動員力だった。焦土戦だったのは、敵側の軍事力である伴類(一般農民=私営田領主)の再生産機能の破壊するためといいます。
*河原兄弟の先祖(私市(きさい(ち))家盛―家景―則家―則房―河原成方―成直)辺りもこの類に属したのでしょうかね?
一方、10世後半以降の東国は、坂東平氏各流の対立と対決の時代となります。 とくに、
忠常の乱 1028年(11世紀)以降、秀郷流藤原氏、貞盛流平氏、公雅流・良文流平氏、さらには経基流源氏、それぞれが発展。
@貞盛流は、常陸方面や伊勢・伊賀方面(平清盛に代表される伊勢平氏)への進出
A公雅流は、摂関家に仕え、「都ノ武者」として活躍する一方で、伊勢方面にも進出。貞盛流と対立。
B良文流については、坂東平氏の代表的存在としてクローズアップ。房総の千葉・上総氏をはじめ、武蔵方面では、秩父・畠山・江戸といった東国の雄族を分流させる。 後に
鎌倉幕府の樹立に参加した有力武士団は、この流れ。坂東地域への在地志向性が強い。
*東国武士団のうち、大武士団の始まりはこの辺りだったのでしょうか?
しかし、忠常の乱は、その功臣間での私的な争いが反乱へと拡大したもの。坂東平氏内部での内乱。坂東を荒廃させた。この反乱は「敵人」関係によらない“兵のなかの兵”
源頼信(河内源氏)を起用することで終息する。平将門の乱後の功臣三派(@貞盛流平氏、A秀郷流藤原氏、B経基流源氏)のうち、当初は@とAの両勢力で関東の分割(開発)が進行。平忠常の乱後はこれにBの勢力が入る。当然@とB、AとBの対立が各地域で生じることになった。概していえば、@とAは「辺境軍事貴族」とあります。
「中央軍事貴族」が武力の供給源として「兵の家」を形成。地方では、地方名士ともいうべき「住人」たちが、「辺境軍事貴族」として、勢力を拡大。彼らの多くが功臣の子孫であり、中央・地方相互の人的交流がなされた、とあります。
 東国・坂東では忠常の乱後、兵が在地領主(地域領主)へと成長して、それぞれの領域の開拓・開発ラッシュの時代に突入。“大開墾時代”の到来。東国地域の荘園の成立は、まさにこの開発ブームと対応している。「住人」と呼ばれた兵たちのなかには、私営田領主からこの在地領主への方向転換を顕著にした者も多かった、とのこと。そして、私営田領主段階としての「兵」が、在地領主の風貌を有した「武士」へと移行。
*河原兄弟の先祖は、この類か?

# 東国武士団の諸相 北関東  在地領主と武士団
源平両氏の棟梁級の武士たちは、東国・西国を問わず、地域の領主たちを自己の戦闘集団に組み込み、勢力を拡大していった。源氏に統合された東国武士団の内部事情という下からの視点では、・・・
規模に応じて三つの類型:
@数郡から一国規模の領域を基盤とした棟梁級武士。多くが郡司や国司系の(雑任系=
権介・権掾)国衙の在庁官人などの職に従事。豪族級領主。
中央軍事貴族たる源氏が地方に下向した折には、その勢力拡大の近道に、この伝統的な力を保持した豪族級領主との婚姻関係を有効に用いた。
A荘や郷の規模を自己の所領単位とした武士。在地領主層の最も典型的な姿で荘官級領主とも呼ばれ、後に鎌倉幕府の地頭領主になってゆくレベル。源頼朝の東国武士団はまさにこの荘官級の地頭領主に繋がる武士たち。彼らの多くは内乱期にあっては、所領拡大の好機として活躍。 
*河原郷 があったとする文献有り。河原兄弟もこのレベルか?
B名主級武士。最も規模が小さく、村落領主とも。このレベルの武士たちは、Aの領主以上に戦闘での恩賞に敏感な立場にあり、土地領有の日常的な不安感から大領主への統合を志向したのだ。 
*河原兄弟は二人だけの武士団との記載もあることから、このレベルか? 
Cその他、惣領型武士団、党的武士団という二類型も設定することができる。
前者は惣領を中心としたピラミッド型集団で、結合の中心が明瞭なもの。
  後者の党的武士団は、典型的には武蔵の東国武士団に多く見られるように、小規模な党の連合によるもので、フラットな関係での結びつきに特色をもつもの。横の緩やかな連合。
*河原兄弟は、私市党に属していたといわれる。熊谷父子と同じ系列とも。

(NHKカルチャーアワー「武士の時代へ 東国武士団と鎌倉殿」関幸彦、NHK出版)

インターネット 
東国武士団の「社会」と鎌倉幕府
―「もののふの道」「つわものの道」展開史論   鈴木国広
P43
鎌倉幕府世界に関する研究 二つの異なる視点から進められつつある
一.京都・朝廷の地方統治の機関であった国衙制を地域的武士団連合の力をもって補完することを通して成立した政権であったとする視点。
党的武士団を中心に、という意味なのか?
二.こうした鎌倉幕府の権力体制=公田体制の統治下にあっては、いわゆる自力救済という名に象徴される一種野性的な性格を持つ在地世界が展開していたとする視点。

鎌倉幕府前後の中世前期では、主従関係よりも「イエ世界」といった本源的な族縁原理が圧倒的な意義をもっていたとされています。内包された家父長制的な縦関係と族縁共同体的なヨコ関係(党的武士団という意味?)が中心。幕府が成立した後も幕府の国家支配や社会構造のあり方に関わる集権性と多元性という相矛盾する二つの原理が内在していくことになった、とあります。
これまで、御家人制論・惣制論などは歴史的段階差とか生産環境の違いとかと理由づけていたが、そもそも中世武士団は地域社会における自家の利益擁護のために、その軍事力を発動した存在に他ならない(私闘集団としての性格)、と結論づけています。
P48
いわゆる公田体制の枠内で捉えられた体制的・求心的な「一家」世界と 私的「党」的遠心的な「縁者」世界を統一的に把握する必要がある。「一家」世界の基盤は、「兄弟親類」で、広義の親類に他ならない、とされます。「縁者」世界が「公戦」の中で分断されて、個々の家族(家父長制家族=狭義のイエ)そのものが、まさに「公戦」の単位として動員されつつあった、と述べています。

*そもそも中世武士団は地域社会における自家の利益擁護のために、その軍事力を発動した存在に他ならない(私闘集団としての性格)、と結論づけていますが、私は 河原兄弟はそういった目的の他に頼朝挙兵の「おもしろき世の実現」といった新しい国づくり、政治変革に参加したいという強い志があったに違いない、と思うのです。
私の乏しい経験でも、昭和44年(1969年)大学入学当時、70年安保を前に、全国に学生運動、社会変革の嵐が吹き荒れていました。昭和44年1月には、ついに東大安田講堂攻防戦が勃発し、全共闘と機動隊との2日間の攻防の末に収束。全共闘運動は下火になっていったわけですが、彼らは彼らなりに社会変革のために何かしなければ、と追いつめられていったのだと思います。その年の東大入試が全国の国立大学歴史上初めて中止となり、私自身も受験の年でしたから、大変な影響でした。大学入学後には何か変革に関わらなくては、とクラス単位のデモや穏和なデモなどには結構参加していました。その後、大きな変革があったとは思いませんが、現代までに大学は徐々に変わっていったのではないか、と思います。
こういうようなものでしょうか? 討ち死には悲しいですが、河原家としては名を挙げたので、本望だったのかもしれませんね。
P60
最後に、「もののふの道」と 「兵(つわもの)の道」について、石井紫郎氏の研究から、
「もののふの道」― 公戦
「公戦」はかなり厳しく、中世武士たちが示した合戦倫理は、女や子供など、非戦闘員の殺害をもものともしない殲滅戦であったという点に現れている、といいます。敵方の復讐の種を根絶やしにして、主君の統治、国家体制の安定を図ろうと意図したところに、こうした合戦倫理形態が現れる最大の理由があった、といいます。
「兵(つわもの)の道」― 私戦
一方、「私戦」時に中世武士団が示した合戦倫理は、それが次のごとき作法に則って行われたところに示されていた。@合戦の目的と場所をあらかじめ敵方に明示する。A合戦時の軍使の生命の安全を互いに保証し合う。B合戦の場では、自らの名前や身分を名乗り、同じレベルの武士同士の一騎打ちを闘いの原則とする。C勝敗の帰趨に関係しない限り、敵方の重要な武将を無闇に殺害することをしない。D女性や子供など、非戦闘員の生命の安全を保証する。E「降人」を大切にして、虐待したりはしない。 とあります。
石井氏は、中世武士団の合戦倫理は、おおよそ源平合戦の頃を境に、「兵(つわもの)の道」の段階から「もののふの道」の段階へ向けて推移したこと、そして、そうした歴史的推移の中で、武士団が本来持った「兵(つわもの)」としての倫理が失われていき、「もののふ」の倫理を事とする酷薄な武人の相貌が現れたことを指摘された、ということです。
しかし、当の鈴木氏は、鎌倉時代は中世国家の集権性と多元性という二重構造が存在していたから、「一家」世界がそのまま入り込んでいたので、兵の道(私戦、多元性)は失われてはいなかった、としています。確かに、平家物語で河原兄弟が名乗り出て、先制攻撃をする場面でも、平家の兵も個人相手には、無闇に戦わない素振りを見せるなど、兵の道も隠顕されます。
最後に、「もののふ」の面の他に、中世武士団の持つ田園地主的側面こそ、自己の所領や地域社会を外敵から守るために私戦従事者としての性格の基礎にあるもの、自己の故郷の安泰を祈って作法に生きる「つわもの」としての生き方への憧れと夢を持ち続けた存在、祖霊の眠る地域社会の安泰を守り続けていった精神的源泉である、と述べています。
河原兄弟も遠く離れた故郷に思いを馳せながら、祖霊を祈り子孫の繁栄を祈りながら、兄弟で互いにかばい合いながら、逆茂木を乗り越え、突撃していったのだろう、と、その勇猛さに感嘆し、その優しさに和み、そしてちょっと寂しい複雑な気持ちで彼らのことを思わずにはいられません。
以上の他に、
「もういちど読む 山川 日本史」(五味文彦・鳥海靖=編)という本を読みますと、武士団のことは簡潔にまとめられていました。

[2012年05月26日16時30分]
お名前: 河原 啓
カーター様

ご教示有り難うございました。
すみません。ご指摘の通り、前回の私の投稿文を見直すと、何か感情的になっているところでありましたね。長い文章でくどくどと申し訳ありませんでした。
一つには、仕事柄、追究し出すと、とことん追究する習性があります。
二つめには、前回書かせていただきましたように、何度も自ら病に倒れましたが、何とか仏様に助けていただき、短期間で復帰できました。聖路加国際病院の日野原先生は、医者は死なない程度の病気にかかった(経験した)方がいい、と言われたものの、自分の最後の胸膜炎の原因がもうひとつ分からず、癌ではないが、膠原病かもしれない、難治性かもしれない、と思っています。それで、8月で63才になりますから、残りの人生も短いかもしれない、いつ頓死するかもしれない、という気持ちがあり、自分の先祖のこと、ルーツが大変気になるのです。(幼少期にも喘息様気管支炎で死にかけていたらしいです)
 カーター様のご意見のように、いろいろと文献を読んでおりますと、河原兄弟はどうも村落領主クラスの領主のようで、また私市党に属していましたから、横の繋がりも戦の時だけの緩い繋がりだったのかな、という印象を持っています。この辺は、調査中ですので、次回に投稿したい、と思います。
4月26日、神戸市立中央図書館(大倉山)に出かけ、「源平生田の森合戦と河原霊社の由来」(川辺賢武氏著、昭和33年4月発行)を見つけ、コピーさせていただきました。一読すると、タイトル通り、合戦までの概要、合戦と霊社の由来につき、書かれており、福原潜次郎氏編集、芹澤大次郎氏発行の「源平生田合戦 河原兄弟忠死の事蹟」(原本も同図書館に置かれていました)を平易に解説したものと「河原霊社」(野中春水氏編集)には書かれていた通りでしたね。「河原霊社」には川辺氏の記載を引用した箇所があります。そして、平成2年、南河原文化会発行の「源平合戦の勇士 河原兄弟」が総まとめということでしょうか。
 この「源平生田の森合戦と河原霊社の由来」の中にある記述で、「・・・現在群馬縣、東京都、愛知縣その他にも子孫と伝えて河原兄弟を祖先としてまつっておられる家があるから、そののち兄弟の子孫は各地に廣く繁栄したのであろう。・・・」と述べられています。この愛知県の家系が尾張の河原家、加賀の河原家に繋がるのかもしれません。探し求めていた記述という実感がしました。しかし、証拠となると難しいでしょうね。
また、昭和13年の著作で、陸軍関係者が作成したような「一の谷戦記」という本が見つかり、かなり詳しく調べられていました。義経の戦法(上陸作戦を研究し、日中事変に活用しようとしたのでしょうか?)を研究していたようです。今、読んでいます。
いずれも御入り用でしたら、またコピーをお送りいたします。(コピーは可能でした。)
「源平生田合戦 河原兄弟忠死の事蹟」もコピー可能でした。コピーをしておきます。
他の方もコピーが必要な方は、仰って下さい。
 最近、
インターネットからの 東国武士団「もののふの道」「つわものの道」(鈴木国広氏)と
いう論文や「武士の時代へ 東国武士団と鎌倉殿」(関幸彦氏、NHKカルチャーアワー歴史再発見)を読みましたが、大変参考になりました。ご参照下さい。
歴史文化ライブラリー(吉川弘文館)
「鎌倉幕府の滅亡」細川重男
 「源氏と坂東武士」野口実
講談社学術文庫
「中世武士団」 なども参考にいたしました。

 余談ですが、阪神大震災の時には、私の仕事場が東灘区の西方・灘区に近いところにあり、被災地のど真ん中でした。建物はほぼ無事だったものの、周囲のお宅の被害、皆さんの被災は相当なもので、スタッフのお子さんが二人亡くなったり、赤ちゃんホームが全壊したりして、しばらくスタッフも集まらず、医師会も機能せず。電気は10日間、水道は1ヶ月間なし。少数のスタッフには助けられましたが、医師としては当初は孤軍奮闘していました。インフルエンザも流行っている時期で、1週間目には自分自身が感冒性胃腸炎で下痢。ふらふらで仕事をやっていたのを思い出します。
少し違いますが、これらも河原兄弟の因縁かもしれません。

この掲示板で好きなことを書けるのも、カーター様の御陰といつも感謝いたしております。有り難うございます。

[2012年05月02日20時34分]
お名前: カーター
河原啓様、詳細な書き込みを頂きありがとうございます。
 様々な本を読まれ勉強されていらっしゃるようですが、開業医
としての悩みや苦しみがおありのためからでしょうか。子孫に名
を残すために討ち死にした河原兄弟も、後の世になって自分たち
の行為がこれほど子孫に影響を与えるとは思わなかったことでし
ょう。
 さて、河原啓さんにご紹介頂いた「源平合戦の虚像を剥ぐ」川
合康著(講談社学術文庫)の最初の部分を読んでみました。まず
平家物語史観を克服すべきであるとの内容に驚きます。盛者必衰
ではなく、鎌倉幕府の成立は予期せぬ結果であると言うのです。
また戦闘の主役はやはり騎馬武者で、馬上から敵を射る「馳組」
の戦いが主であり、騎馬武者には雑色、下人と呼ばれる徒歩立ち
(歩兵)の従者が随行したとのことです。騎馬武者の戦闘法には
馬当てというのがあり、敵の馬の胴や首に馬ごとぶつかり倒すと
言う戦法でした。しかし、当時の日本の馬は虚勢する習慣がなか
ったため、ひどい暴れ馬だったそうです。
 河原兄弟のような村落領主クラスの武装能力を持つ者まで広く
動員され、わずなか下人・所従を連れ農耕馬に乗って出陣する小
名階層が源平合戦(治承・寿永の内乱)の大多数であったとのこ
とです。
 また、当時の武士は従来言われていた地方の農村で農地を守る
ために武装した武士を言うのではなく、弓馬の芸に優れた職業
的な戦士身分の呼称であったと言うのです。そして、9世紀には
蝦夷と新羅に対抗するためには、律令国家の騎兵が弓馬に優れる
蝦夷の騎兵に対抗できないため、辺地の狩猟民を兵士にしたて、
弓馬の精兵を組織したことが武士の元となったと言うのです。さ
らに、武士は地方の農村から興ったのではなく、都の貴族社会に
おいて発展したのであり、武具である鎧は京都の専門の職人によ
り作られたからだというのです。
 さらに驚くのは中世の城郭というのは近世のような天守閣や堀
のある完成されたものではなく、堀、垣楯、逆茂木のような現在
で言うバリケードであったというのです。そして生田の森・一の
谷合戦は「城郭」攻略戦であったというのです。馬はバリケード
に弱いため、騎馬隊の進入を防ぐために作られたのです。そのた
めに木こりが大量に動員されたらしいです。城郭を築くための工
兵隊(足軽と呼ばれた)が動員されました。足軽は逆に敵の逆茂
木を除去するためにも登場します。つまり、武士だけでは戦争を
勝ち抜けなかったのであり、楯持ちの非戦闘員ともなる工兵隊の
存在があって武器や兵糧を運搬し戦争を遂行することができたの
です。
「馬にも乗らずげげをはき、弓杖をついて、生田の森の逆茂木を
のぼりこえ、城のうちへぞ入りたるける。星あかりに鎧の毛もさ
だかならず、河原太郎大音声をあげて、・・・」
 平家の方には是を聞いて、
「東国の武士ほどおそろしかるける者はなし。・・・」
 「平家物語」(九)講談社学術文庫から「二度の懸け」から

 この文章も川合氏の解説でわかりますね。河原兄弟は、騎馬武
者に加えて動員された多数の小名階層の内の一つであり、当時城
と言われたバリケードを乗り越えて平家の陣地に乗り込んで行っ
たのです。平家にとっての東国の武士は、アメリカ兵から見た日
本兵と同じように見えたことでしょう。

[2012年04月29日23時26分]
お名前: 河原
 先月の3月27日、昨年は東日本大震災のために中止されました恒例の河原霊社例祭がとり行われました。私は初めて出席させていただきましたが、行田市南河原公民館 館長 松本秀夫氏、「河原霊社」の編集者 芹澤大次郎氏の孫で、ブティックセリザワの社長 芹澤豊成氏、京都の河原義彦氏、岡山で十六代続いている河原氏、三宮神社 禰宜(ネギ)清水氏、三宮町三丁目商店街の皆様方、そして河原一郎、河原啓と親しくお話しさせていただきました。大変貴重な機会で、有意義なお話を聞かせていただくことができました。河原兄弟が結ぶ因縁の不思議さと芹澤大次郎氏のご功績が改めて心に深く残りました。
さて、カーター様には、討ち死にやその後の武士道精神、カミカゼ特攻隊の精神などについて、ご意見を頂戴しました。私も武士道の定義や河原兄弟の活躍についての書物を色々と紐解いてみました。
同級生の笠谷和比古氏(国際日本文化研究センター研究部、近世武家社会)の「武家政治の源流と展開」によると、
第8章で、(前略)新渡戸「武士道」に対する評価が、専門研究者の間においても否定的であり、同書は近代明治の時代が作り上げた虚像にすぎないといった類の批判がかなり広範に存在するという事実 ・・・ 前近代(とくに中世以前)の日本社会には実際には存在しておらず、欧米諸国の人々に向けて日本社会の文明性、道徳的な高さを主張するために、・・・新渡戸が創造したとする論である。
その例として、英人チェンバレンや津田左右吉の記述を挙げています。
 しかし、その後の研究で、前近代社会において「武士道」という言葉がなかった、という点は否定されているようです。「甲陽軍艦」「葉隠れ」「武道初心集」といった諸書には「武士道」という文字は明確に記載されているということです。ただ、これらは「戦国時代の余習とも呼ぶべき暴力的、非道徳的性格の行動形態であり、その意味において新渡戸の『武士道』とは隔絶したものとする論調である(津田の議論に合う)」と笠谷は述べています。
 さらに、辻善之助の「日本文化史」の中の記述を挙げて、「武士道」の語は中世にはみえないで、中世ではもっぱら「勇士の法」(源平盛衰記)、「弓馬道」(吾妻鏡)、「弓箭の道」(沙石集)、「弓矢の道」(太平記)、「もののふ(=武士)の道」(風雅和歌集)などが用いられているようだ、と笠谷は述べています。
 河原兄弟の時代には、「武士道」という言葉自体はなかったわけですが、おそらく漠然とした武士のとる道、といったものはあったのではないでしょうか? カーター様の仰るように、河原家のDNAというよりも日本人全体のDNAのなす業かもしれません。ただ、以下に河原兄弟の討ち死にの場面をいろいろな書物から引用してみました(過去にこの掲示板にも登場した文献もあるかとは思います)が、小名であり、大名とは違って、自分たちの生活基盤である領地の維持と拡大のためには、自らの命を張らざるを得なかった状況だったのかもしれません。当時は、武蔵国は平清盛の知行国であったものの、石橋山の合戦に敗れた頼朝が安房国に逃れ、上総氏や千葉氏の支援を受け、建て直し、さらに畠山・河越・江戸の秩父氏一族の帰属も受けて、武蔵武士の大部分が頼朝に帰順することとなったのです。源平合戦を機に、戦功を挙げ、一族を一気に大名の列(大規模武士団)に参列させたかった、ということも考えられます。NHKドラマ「平清盛」でも個人の名誉よりも一族の名誉、繁栄を目指していたことはよく解りますし、また戦功を挙げれば、朝廷から土地、位などかなりの褒賞を受けています。大名も元はと言えば、小名だったのでしょう。戦い抜いて功あり、大名となっていったのでしょうか?
 中世武士団の成り立ちというのは、どういう経過をとったのでしょうか? 調べてみたい、と思います。

・「源平合戦の虚像を剥ぐ」川合康(講談社学術文庫): 河原兄弟―戦闘員の階層的
拡大。(前略)未曽有の規模の大軍勢が動員されたとすれば、平安後期に固定化された 武士身分だけでこの戦争の戦闘員が構成されていたとは、・・・ 治承・寿永内乱期の戦争においては、「国兵士」とよばれる正規の武士身分だけではなく、・・・村落領主クラスの武装能力をもつ者までが、ひろく動員対象となっていた事実である。・・・(中略)『平家物語』(巻第九「二度之懸」)の生田の森・一の谷合戦のくだりには、「大名は我と手をおろさね共、家人の高名をもって名誉す。我らは自ら手をおろさずば、叶いがたし」と述べて、下人にあとを託して先陣をきり、兄弟揃って討死した武蔵国の住人河原兄弟の姿があざやかに描かれているが、この河原兄弟のように、わずかな下人・所従を連れ、農耕馬に乗って出陣するような「小名」階層こそ、じつは治承・寿永内乱期の戦争に参加した戦闘員の大多数を占めていたのである。
・「源平興亡三百年」中丸満(ソフトバンク新書): 義経の逆落とし。範頼軍が攻め寄せた大手の生田口では、河原高直・盛直兄弟が先陣をきった。二人は「大名は家人の武功を自分の名誉にできるが、家人が少ない我らは自分たちで手を下さねば功名は得られない」といって、二人そろって逆茂木を乗り越えて敵陣に突入し討ち死にを遂げた。これを機に、源氏軍は、・・・
・「平家物語」(角川書店編): 二度の駆け。・・・その中に河原太郎・次郎の兄弟がいた。大名でもない二人は馬にも乗らず、藁草履履きで城内に一番乗りし、果敢に戦ってともに討ち死にした。河原兄弟の奮戦に勢いづいた範頼軍は、・・・
・「宮尾本、平家物語」(朝日文庫): 一ノ谷戦の序盤。・・・なかでも武蔵国の住人、河原太郎高直と弟の次郎盛直は名立たる弓の上手、力を合わせて差しつめ、引きつめ、さんざんに射て戦ううち、こちらも西国の強弓、備中国住人の真名辺四郎、五郎兄弟の弟、太郎めがけてひょうと放つ。・・・
・「マンガとあらすじでよくわかる平家物語」関幸彦監修(じっぴコンパクト新書):
  一ノ谷の合戦。生田の森に布陣する範頼軍からは、馬すら持たない武蔵(東京都)の河原太郎・次郎兄弟が二人で敵陣に斬り込み、討ち死にを遂げる。これがさらなる合
戦のきっかけとなった。・・・
・「1日で読める平家物語」吉野敬介(東京書籍): 二度之懸。・・・生田森にいた五万余の大手軍(範頼軍)の先陣は武蔵国の住人、河原高直と盛直という兄弟であった。兄の高直は弟の盛直に、「自分は決死の覚悟で手柄を挙げるから、おまえはここに残って証人になれ」と言うが、盛直は、「兄を見殺しにして弟が生き残ったとて、どれほどの名誉であろうか」と言い、結局二人は一緒に討ち死にするつもりで、夜中に・・・弓の名手である二人は、散々に矢を放ったが、・・・
・「神戸の伝説」田辺眞人(神戸新聞総合出版センター): 河原兄弟の塚
  ここには、生田の森合戦での河原兄弟の言動が詳細に書かれています。やはり「誉」のために、攻め込んだように書かれています。   
・「県史11 埼玉県の歴史」(山川出版社): ・・・また河原郷(南河原村)を名字の地とする河原高直・盛直(『吾妻鏡』では忠家)兄弟の場合も同様で、「大名」(大規模な武士)でない彼らは、自分の命と引き換えに恩賞に預かろうとして、壮烈な討死を遂げたとされる(『平家物語』)。
・「決定版、図説、源平合戦人物伝―――河原太郎、河原次郎」(学研): ・・・しかし、河原兄弟は、一族のために何とか勲功を――と、悲壮な決意で執拗に射込んでくる。仕方なく、・・・
・「源平1000人」(世界文化社): 河原高直:・・・河原兄弟の勇ましい討ち死が、源氏軍の士気を鼓舞した。
以上の文献の出典は、おそらく「源平生田合戦 河原兄弟忠死の事蹟」(福原潜次郎著)などを基にしたものと思われます。

1項目、2項目などの記述など、私どもの境涯とひじょうによく似ています。同じ医師と言っても、大学の教授クラスの医師や大病院の院長、医療行政のトップなどといった、いわば医師の中の大名とは違って、開業医というのは、少人数のスタッフとともに日夜死ぬ気で診療に取り組んでいるのです。大学では実験用ラットや患者さんからのウイルス肝炎に二度も感染、短期間ながら休職したり、開業してからはオーバーワークで腰椎椎間板ヘルニアとなって動けなくなったり、胸膜炎となり、胸水も溜まりました。また、しゃべり過ぎたのか、喉頭癌=声帯ポリープ癌にもなりました。討ち死にしかけています。医療分野に限らず、中小企業幹部社員、大企業の社員、・・・大きな組織の駒として、前線で戦い、討ち死にしている方々の何と多いことか! 次元が少し違いますが、医師の世界でも、病院や関連介護施設を新設・拡大するために、色々と政略的、戦略的な対策をしておられることがありますし、真偽はともかく、医師が4人居れば、病院が建つなどということも言われます。やはり、大きな病院ともなれば、医師もコメディカルも多くなり、上層部は経営や指示さえしておけばよいというようなことも多くなるでしょうね・・・。製薬大企業にしても合併が繰り返され、無駄なコスト削減、人件費削減、スリム化して、しかも国際競争に打ち勝てるように巨大化、というような傾向がありますよね。やはり、人間誰しも(?)社会的に大きくなっていきたい、大きく見せたい、という願望があるのだと思うのです。何か現代社会に通ずるものがありますよね。
 結局、領地の維持、拡大のため、一族発展のために、継承者を残して、命懸けで戦いに参戦し、名誉を得る(これは結果的には子孫への恩賞を願い、繁栄を願う)ために、先陣を切って、討ち死にしていったものと思われるのです。河原高直の子、小太郎頼直は大名の列に参加した、とあります。このことは、「源平生田合戦 河原兄弟忠死の事蹟」にも記述されています。その後、尾張の河原家に繋がっていくものかどうかは、今のところ、想像ではありますが、加賀の初代、河原兵庫左次馬は、豊臣秀吉の九州平定初日、筑前、岩石城の攻防において、戦功を上げています(太閤記)。同じ精神だと思うのです。

[2012年04月05日14時16分]
お名前: カーター
 河原啓さんの先の議論で、河原氏には自分の身を省みずに無理を
して働いたりするDNAがあると言う内容がありましたが、私はこ
れを河原兄弟が恩賞のために突撃をしたとか、そうではなく子孫の
名誉のためだったのではないかと書きました。
 しかし、これをもっと素直に考えるとこれは河原氏も持っていま
すが、自分の命を省みず突撃をするのは日本人全体に言えることで
はないでしょうか?
 アーミテージとジェセフ・ナイJRの対談の本を読んだ時に、な
ぜ、戦後アメリカが日米同盟を結んだかと言うとアーミテージが「
日本人との戦争は地獄の苦しみであり、もう二度としたくない。」
と言う意味で日米同盟はできたのだと言っていたのを読んだように
思います。
 また今日読了した、日下公人と増田悦佐の対談で、増田は次のよ
うに述べています。
「上官からとんでもない理不尽な命令を出されても、命令に逆らっ
て逃亡兵になったり、上官を後ろから撃ち殺したりしませんでした。
・・・弾がなくなったら歯で噛みつこうと敵に向かっていき、敗戦
が確実になっても一方的に撃ち殺されようが命令にしたがったわけ
です。
 これが実はアメリカ軍が日本軍をもっとも怖がった原因なんです
ね。出てくれば100パーセント殺されるとわかっているのに、平
気で万歳突撃をしてくる。こんな連中は友軍として一緒に戦うのさ
え勘弁して欲しい、とアメリカは心底恐怖感を覚えたんです。」
このことが憲法第九条の戦争放棄へとつながったとのことです。
 日本軍のカミカゼや突撃は、河原兄弟の討ち死に良く似ています。
平氏の弓で撃たれることはわかっているのに、河原兄弟は名誉の戦
死を遂げました。このような日本精神(台湾でこう言う)は、私は
武士が登場した平安時代末期に成立したのかと思っていましたが、
そうではないようです。
 国際縄文学協会の代表理事の西垣内堅佑氏は次のように述べてい
ます。
「震災で日本では暴動が起こらないばかりか、被災した人々が助け
合って、黙々と復興に力を注ぎ、世界の人々がそれを褒め称えた。
・・・縄文時代は狩猟・採取・漁労生活を基本とし、・・戦争など
起こらなかった。・・個人がばらばらになることはなく調和的な協
同社会を形成でいた。・・さらに自然を破壊せず、自然とともに生
活したので環境破壊も起こらなかった。」「縄文」11巻から
 とまあこんな具合です。

[2012年03月18日23時00分]
お名前: 河原啓
カーター様

武士道論、有り難うございました。
平清盛、私も欠かさず観ておりますが、あの場面、私も同じようなことを感じました。

もう少し勉強します。

かわらあきら
[2012年01月20日16時17分]
お名前: カーター
 昨日の「平清盛」で中井貴一演ずる平忠盛が、祗園女御とその子(白河法
皇の落胤であるとする)をかくまいますが、二人を法皇に差し出せば恩賞が
もらえるのに、白拍子である祗園女御とその子の命を助けようとします。経
済的な利益だけでは動かない、貴族とは違う新しい武士階級を描こうとして
います。

[2012年01月09日16時03分]
お名前: カーター
 先の書き込みで、鎌倉武士の討ち死には子孫に名を残すだけでなく、主君から恩
賞を得ることが目的であったと述べました。しかし、果たしてそれだけなのかと疑
問に思い、年末から武士道に関する本「武士道」相良亨、講談社学術文庫を少し読
んでみました。
 著者も同じ疑問を持ち、「鎌倉武士もその例外ではなく、主君の恩顧恩賞によっ
て生活を維持した。・・・さまざまの史料が彼らの主従関係が経済的関係であるこ
とを証明するように思われる。・・彼らの名の追求も、実は経済的繁栄の追求に還
元さるべきものであるという理解が生れてくる。ーーしかし、私はこのような理解
に賛成することができない。」と述べています。
 たとえば「保元物語」では「合戦の場に出て、主君と共に討ち死にをし、腹をき
るは常の習なれども、かかるためしは未だなしとて、ほめね人こそなかりけれ」と
たたえています。また「双なき名将勇士と云えども、運命尽きぬれば、力及ばず、
されど名こそ惜しけれ。東国の者共に弱気見ゆな。いつの為に命をば惜しむべき。
唯是のみぞ思ふ事」『平家物語』と、「己の運命を見つめる武士は、時に『今は何
をか期すべき』と『生涯の運を思い切る』時があった」と述べています。武士に
とって大切なものは名であり、「今生の願望を思い切った武士は、ただ純粋に武士
らしい武士であったという名をのみ惜しみ、主君の馬前に討ち死にするのであっ
た。」でした。
 先の恩賞の問題に戻ると、恩賞よりも名を残すことにこだわった事例もありま
す。「一方の武士はすでに他の戦場での先陣の功が認められていたが故、内々この
戦場におけるおける先陣の功は他に譲るように、もしそのようにすれば、破格の恩
賞が与えるであろうと云われていた。しかし彼は『勇士の戦場に向かふは先登を以
て本意と為す。・・・一旦の賞に耽り万代の名を汚すべからず』といいはった。ま
た、「縦ひ万賞に預からずと雖も、此論に至りては承伏す可からず」『吾妻鏡』と
いい切っている」と著者は述べています。
 つまり、恩賞は二の次であり、恩賞を棒にふっても先陣の功名だけでは譲
れないというのです。また、「『保元物語』の鎮西八郎為朝、『平治物語』
の悪源太義平(源義朝の長男)は、ともに彼らを勇戦させるべく公家があら
かじめ官位を与えようとした申し出を拒否した」そうです。公家の時代から
武家の時代へと変わる転換期に現れた、官位よりも名誉を重んじる風潮が見
られます。
 このように考えると河原太郎の討ち死について「わ殿はのこりとどまって
後の証人に立て」と言わざるを得なかった理由は、主君からの恩賞だけでは
なく、「大名は我と手をおろさねども、家人の高名をもってす。われらはみ
づから手をおろさずはかなひがたし。・・」と、小名である河原兄弟が子孫
に名(名誉)を残すためであったと考えるの自然であるように思えます。

[2012年01月03日15時35分]
お名前: 河原 啓
カーター様

この1年、有り難うございました。
武士道については、仰るように、東日本大震災で、自分の命を省みず、最後まで放送をしておられた市役所の女性職員など、鏡だと思いました。
何はともあれ、日本人に綿々と引き継がれたこの武士道精神というものが、これからの先細りの日本のおいても、失われずに保たれていってほしいな、と思います。

来年が皆様にとって、日本にとって、幸多き佳き年となるように、お祈りいたしております。

来年もよろしくお願いいたします。

河原啓
[2011年12月30日17時45分]
お名前: カーター
 河原啓様、詳細にわたる書き込みを頂き有り難うございます。
 河原兄弟が子孫に名を残すために討ち死にしたと言う事実と武士道精神の関連に
ついては、武士道の歴史を詳細に調べたわけではありませんので良くわかりません
。河原太郎が弟に向かって「残りとどまって後日の証人に立て」とか、成田五郎が
「味方の見ていないところで討ち死にしてなんの役にも立たぬ」と言う発言をし、
熊谷直実が平敦盛を討ち取りながら頼朝に十分評価されなかったために嫌気をさし
て出家したと言う事実を見ても、勇猛果敢な東国の武士というのは名誉心と主君か
らの恩賞が目的であったようです。(直実が敦盛を討ち取ってから人生の無常に目
覚めて出家したと言うのは後の脚色とも言われる。信長も人間五十年と謡った。)
 現在の武士道の精神からすれば、自分がやったとか自己主張しなくても世間と言
うものはちゃんと見てくれているから、声高に主張しないのが美徳とされています
から、当時の武士道と江戸時代を経て現代に伝えられている武士道とは違うように
見えます。「エレクトロニクスの草創期」と言うスレッドで、2006年9月9日
に沖電気を創業した沖牙太郎の言葉を紹介しましたが、「今や彼の事業たる、一沖
家の企業たるに止まらず、一朝国家有事の際には、全能力を傾けて、奉公の誠を致
すべき有用なる機関である。徒に一身の安逸を貪りて、国家の大事を私すべきでは
ない。」
 このような私よりも公と言うものが大事だと言う考え方は、おそらく江戸時代に
資本主義経済の発展とともに出て来たものと推測されます。近江商人の三方に良し
とする考え方に「売手によし、買手によし、世間(公)に良し」と言う考え方があ
り、住友の精神にある「信用を重んじ、浮利を求めず」と言う思想も、公が重要で
あると述べているように見えます。
 今回の震災でも日本人の「私よりも公」と言う考え方が発揮され世界に感銘を与
えた事実は日本人としても誇らしいものでした。3月の末にオーストラリアに出張
した際にも、日本人は尊敬(esteem)すべきだと言う言葉を何度も聞く事ができまし
た。しかし、この公の精神の元をたどると、自分よりも子孫へ名を残したいと言う
東国武士の自己犠牲の精神があるように思われます。
[2011年12月25日12時04分]
お名前: 河原啓
桔梗様。私自身が確認したわけではありませんが、祖母や曾祖父の河原一郎直道さんが、金沢の菩提寺、寺町の融山院で、調べたと思われるものが残っております。一郎直道さんは、金沢の近世資料館にも届けているようです。これは、先日(10月)、現在の従兄弟、河原一郎(尼崎在住)が確認しております。
そこから先が分かりません。荒子速念寺には、問い合わせましたが、荒子衆のはないのではないかと言われてました。
よろしくお願いいたします。



[2011年12月24日07時41分]
お名前: 川原桔梗
皆様、ご無沙汰しております。
川原桔梗です。
私事ですが〜〜転職〜引越し〜により、この掲示板を久しぶりに訪問しました。

河原 啓 様におかれましては、いろいろと調査されておられますようで、敬服致します。
 まだ、ざっくり目を通しただけですので内容につきましてはじっくり確認したいと思います。
 一つだけお尋ねしたいと思います。
 私の場合ですと江戸時代初期まで遡れたのは、ご先祖様の菩提寺の過去帳によるものですが、河原 啓様のご先祖様の菩提寺は調査されましたでしょうか??調査の参考になるのではと思います。
    
 では失礼致します。
[2011年12月20日22時51分]
お名前: 河原 啓
カーター様

大変ご無沙汰いたしております。
数年前にこの掲示板を見つけ、しばらく閲覧させていただいていましたが、門外漢の私には、余りに内容が高等で理解しにくかったため、時々眺める程度でした。
カーター様の日本の歴史へのご造詣の深さ、考察には、感心させられます。何とか、理解していきたいと思いますが、今後ともお教え下さい。
また、桔梗様の歴史的考察や実地的な資料、文献的考察にも驚かされますが、今回は昨年の 桔梗様の 河原兵庫 の投稿をきっかけに、河原兄弟が私の先祖も関係があるのかもしれない、と思うようになり、調べてみよう、という気持ちが起こったのです。途中から参加させていただいています。
この半年間ほどは、自分探しをしてきました。そして、自分なりにある程度は筋書きが出来てきたのでしょうか? しかし、分からないところは分からないままです。
1.東国武士の興り(最近出た 関氏の本)
2.河原兄弟のその後、系図の件。疑問点。
3.三河に蟄居 ・・・ 尾張に移住? (大阪府立図書館、浜松中央図書館)
4.尾張荒子時代(愛知県立図書館)
5.豊臣秀吉、前田利長の時代、加賀の河原家(福岡県立図書館)

1.東国武士の興り
武士の興り、歴史については、素人で勉強中です。6月上旬に、お台場で肝臓学会総会があって上京しましたが、その途中、浜松で降り、図書館で調べました。とくに河原兄弟の末裔につながるような目新しい文献はなかったのですが、浜松市史の中に、武士の歴史が大変詳しく書かれた物がありました。さっと読んでみました。それと、世田谷の従兄弟の家を訪ねたときに、カーター様の書かれていた 福原潜次郎氏編集、芹澤大次郎氏発行の 「源平生田森の合戦 河原兄弟の事蹟」 を祖母が書き写した原本を戴きました。また、先日インターネットで「河原兵庫助重行」を検索しておりますと、ご存じかもしれませんが、カ(カネコ〜カンレイ)という項目があり、埼玉苗字辞典でした。これを最後の方まで観ていきますと、カワラ があり、詳細な歴史が書かれていました。
これらを観ておりますと、元々 武蔵野の原野を開拓していく過程で、敵から防御する必要もあり、あるいは荘園を守る必要からか、武器を持つようになったのでしょうね。農民であった人々が、時折武士として活躍していたのでしょうか。元は、農民であったような記述もあります。その後、平家の奢り、源頼朝の挙兵に伴い、源平の戦いに東国武士らも加勢に立ち上がった、との解釈でよろしいのでしょうか? 
武士団は自らの集団の拡張、家族、一族、同族の繁栄のため、死を覚悟してでも功名を上げようとしていたのでしょうね。当時としては、仕方のないことですよね。

2.河原兄弟のその後、系図の件、疑問点
3.三河に蟄居 ・・・ 尾張荒子に移住? 
河原兄弟の次郎高直も子の時代には、大名となり、末裔は13世紀に三河今村に蟄居し、15世紀には武蔵野河原郷に帰住し、今村、松本と名乗り、現代に至るようですね。その後、姓を河原に戻したとの記載もあります。また、農民をしていたのでしょうか。その間、一部の末裔が三河からお隣の尾張に移り住んでもおかしくはないのではないでしょうか。なぜか荒子の前田家に仕えるようになった、・・・ と想像します。多くの先人が調べても、よく分からなかった、ということでしょうか。詳細な繋がりを見つけるのは、期待薄ですが、さらに調べようと思います。
最近出た 関幸彦氏の「その後の東国武士団」(p.176)によると、太郎有直の孫、景直は
霜月騒動で自害したとあります。その後は、末裔はどうなったのか? これも不明です。
そもそも河原兄弟の名前に4通りあるとか。平家物語には、太郎高直、次郎盛直。吾妻鏡には、太郎高直、次郎忠家。群書系図の私市党系図によると太郎有直、次郎高直。今村家の系図では、兄直高、弟盛直だとか。河原兄弟の系図や末裔については、諸説があるように書かれており、確かに兄弟の名前自体が諸説有り、また後世の方々が、私たちのように兄弟につながりがあるように思いこんだような節もありますね。後世の方々があれこれくっつけたのかもしれませんね。

4.尾張荒子時代(愛知県立図書館)
 詳細はこれから。

5.豊臣秀吉、前田利長の時代、加賀の河原家(福岡県立図書館)
戦国時代があり、当家の先祖、河原兵庫左次馬も主に前田利長と共に加賀一向一揆の平定や摂津有岡の荒木村重の平定に、また豊臣秀吉、前田利長、蒲生氏郷らと共に九州平定にも出兵していたなど、かなり多くの合戦に参加していたと思われます。その後は、足軽頭(千石拝領、おそらく鉄砲足軽頭と思われます)、江戸時代には馬廻り組頭、火付け盗賊改め、などをしていたようです。

まとめ 
河原兄弟が加賀前田家家臣、荒子衆の河原兵庫左次馬に繋がっていく、と直感的に強―く感じたのは、河原兄弟以下、名前に 直 が付く方がひじょうに多く、また兵庫左次馬以下の当家の家系図を見ると、直澄、直資、直英、直行、直忠、直道とこれまた名前に 直 が付く者がひじょうに多い。近代でも、本家の者は、直孝、直一郎、直大、と付きます。また、家紋が○二、と同じ。そして、河原兄弟以下、東国武士団は、主君のため、また河原家の家族、一族の繁栄のために、敵と戦ってきたということですが、これは、戦国時代の鉄砲足軽の河原家、江戸時代の馬廻り組頭、火付け盗賊改めなど、やはり警察勤務のようなことをしてきた河原家、明治維新では、加賀藩主の刀持ち、その後国軍の予備軍に所属した河原一郎直道(後に校長)、日中戦争で満州国に軍医大尉として7年間従軍した父、故河原信二、現在、奈良県警に勤務している河原直祐、と通ずるものがあるのではないかと思うわけです。これは全く勝手な憶測です。 夢とロマンなのかもしれません。
考えてみると、主君(天皇?国民?)、地域、家族のために、敵と戦う河原家なのかな、と。私は? 主君は患者さん、武器は聴診器、エコーと薬物、敵は癌や糖尿病など生活習慣病、あるいは慢性肝炎などを起こす微生物であるわけです。ちょっと上司(大学や医師会)の命に背いたりして、目立つことをしたがります。
 大変おこがましいことですが、自分の人生と比較してやはり同族なのかなあ、と思うのは、以下のような処からです。平成元年に先代から継いで、今は一塊の開業医として、医療の第一線で日夜 病気の方々に為に、従業員のために、家族のために奮闘しています。自分自身、職業病や過労で死ぬかと思うような病気も何回か経験し、乗り越えてきました。一塊の医師で、討ち死にというようなことはなかったわけですが、実際、先輩や後輩の中には、過労やストレスで討ち死にしたような方々も何人もおられます。それと余分なことですが、私や父、従兄弟、みな走るのが速かったのです。一番乗りが好きですね。
自殺者が三万人を超える日本の現状、一般企業や中小企業、公務員の方々、自営業の方々の中にも、同様のケースは多いのではないかと思います。時代も観点も違って、比較にもならないかもしれませんが、他方で時代は繰り返すと言いますか、時代が違うものの、何か先祖の歩んできた道と重なり、感慨深いです。
中高時代の同級生で、国立国際日本文化研究センター教授の笠谷和比古氏の「武士道と日本型能力主義」(新潮選書)などを読みますと、武士道もその概念には、時代の変遷、地域差、武士個人の経歴、考え方でかなりの違いがあるようですね。新渡戸稲造の本来の儒教的、正統的な考えから、かなり進化があるようですね。

資料
1.愛知県立図書館で
@生田の森合戦の資料に、河原兄弟の末裔が三河に蟄居したとありますが、三河と
尾張とは隣国同士で、人の交流もあったかと思われます。末裔が尾張の荒子に移住したことも考えられます。
A三河国の資料(墳墓誌)に、賀茂郡郷村に今村姓、設楽郡郷村に松本姓、
神戸郷に、松本村という記述もあります。
  B尾張国の地図にも今村という地名はあります。
C尾張藩士録には、藩士に河原が二人ほど名前が見られます。
 河原一太郎、河原長助ですが、ただ家紋が違いました。どうなんでしょう?

2.同図書館で、同封の武田氏の「前田利家の出自、荒子城物語」を見つけました。
武田氏から分けていただき、お手紙も頂きました。
3.去る10月20日には、福岡の消化器疾患学会週間(肝臓学会)に参加する道すがら、
  河原兵庫左次馬さんが前田利長氏と攻略したという岩石城の資料がないものか、と
  田川郡添田にある岩石城(ガンジャクジョウ)跡を観に行きました。といっても、450m位の山城で、登る時間はなかったのですが、親切な巡査さんに教えられて、教育委員会に行き、「岩石城」という書物を購入しました。
駅にある豊前面の物産店の奥様と話しますと、偶然にも岩石城の家老の末裔だそうでした。まったく不思議なご縁で、親しくお話しさせていただきました。
  その他、博多の丸善で購入した「筑前戦国史」、文春文庫、加藤廣氏の「秀吉の枷」  に岩石城の攻防の場面がありました。
  福岡市東区図書館にも立ち寄りましたが、似たり寄ったりの記述の物がいくつかあり  ました。

[2011年12月19日23時30分]
お名前: カーター
8月の河原神社の夏祭りで、武蔵あばれ太鼓が開催されました。写真を下記のブログに
貼り付けています。神社の管理人で河原氏の後裔にあたる松本秀夫さんにもお会いし、
ご挨拶を致しました。

http://jcarter.at.webry.info/201109/article_1.html

写真を貼付けるのは初めてでしたが、何とかアップロードできました。


[2011年09月17日17時54分]
お名前: 江戸通
>前田家の家臣の河原兵庫のことのようですが、(以下略)
 カーターさん
 信長公記に、
  前田又左兵衛門
  毛利河内
  毛利十郎
  木下雅楽助
  中川金右衛門
  佐久間弥太郎
  森小助
  安食弥太郎
  魚住隼人
 上のモノドモが、手に手に切り取った首を持って、参ったと。
  桶狭間の戦いでの一場面です、当時、前田利家は、熱田や御油の関係宅
 転々としていて無給ですね、他の面々は、馬廻り相当でしょうね。
  織田信長が主(あるじ)ですから、侍を前田利家としては、部下には、
 出来ないわけですね。
  荒子の領主(3千貫)として家督を継いでも、家臣は、納得しておらず、
 呪詛騒ぎにまで発展し、慶次の竹馬の友と呼ばれる人達は、人形を残して、
 隠棲までしてますね。
  後、府中三人衆として3万3千3百石余りを領有してからは、荒子衆なども
 呼び、府中でくらしたそうです。やっと問題が解決したと言う訳でした。
  あなかしこ
 江戸通 
[2011年05月19日23時30分]
お名前: カーター
 河原啓様、お久しぶりです。神戸の名谷から帰って来ている娘が無事出産し、連
休中は子供中心にてんやわんやの状態でした。

 さて、4月30日(土)に国会図書館を訪問にて「源平合戦河原兄弟忠死の事
績」福原潜次郎編、芹澤大次郎1923を閲覧しました。通常の閲覧ではなく、古
典扱いとなっており、直接本を見る事はできず専用端末で電子化された文書を読
むと言うことになりました。コピーはさせてもらえませんでした。

 精読ではなく、ざっと読んだだけですが、内容は平家が傲慢になって行き源平合
戦が始まり、河原兄弟の登場する二度の懸けの場面へと展開して行くと言う物語形
式になっています。文章は文語調で書かれていますので古典の扱いとなっているも
のと思われます。そして、後半に芹澤大次郎氏の河原兄弟の塚の発見から、河原氏
発祥の地である南河原、北河原、児玉郡秋山の河原神社訪問などを経て、河原霊社
の建立などが記載してあり、これは野中先生のまとめられた「河原霊社」に書かれ
ている内容と同じです。

 「源平生田の森の合戦と河原霊社の由来」川辺賢武著が神戸中央図書館にあるそ
うですが、次回孫を見に神戸に行った時にでも閲覧したいと考えています。

 芹澤氏が河原兄弟の事蹟に興味を持ち、北埼玉地方を調査し、河原霊社を建立
し、またそれらを本にまとめたと言うことは、河原兄弟の生き方に共鳴し、感動す
る部分があったからかと推測されます。

 河原兄弟のように自分のためではなく子孫のために名を残すと言う生き方は、す
でに平安末期に武士団が登場してからあったようです。特に東国の武士は勇敢であ
り、そのことが平家が滅び源氏が興隆する要因の一つとなったと言えるようです。

 今回の震災で、日本人の行動があらためて世界から注目されています。日本と韓
国は近いのに、感情を押さえる日本人と号泣する韓国人、なぜこんなにも違うのか
と言う疑問が韓国にはあるそうです。最後までマイクに向かって「津波が来るので
避難して下さい」と防災無線で呼びかけた職員、名もなき消防士など皆同じDNA
を持っているようです。オーストラリアの新聞には「Nameless fire fighter] と書
いてありました。

 You tubeで「海ゆかばを聞くと涙が出る」、「それはあなたが日本人だからだ」
と言う書き込みを読んだことがあります。戦後に民主主義をたたき込まれても、本
質的な日本人の部分は変わっていないのでしょう。日本人の生き方は河原兄弟のあ
たりから始まっているようです。

[2011年05月14日12時14分]
お名前: 河原 啓
 皆様、ご無沙汰いたしております。
私の方も、少しだけ情報が増えました。
カーター様が言われていました文献の件ですが、
「源平合戦河原兄弟忠死の事績」 福原潜次郎編、芹澤大次郎1923。この文献は、私の祖母、河原 榮 という者が書き写しておりまして、昨年の 河原一郎直道(加賀の初代、河原兵庫左次馬から8代目)の90回忌が京都大徳寺で行われたときに、分家すじの河原宏誠という従兄弟がコピーを持参してくれました。もちろん、この掲示板の 河原一郎氏も参列していましたが、彼は本家すじになります。榮さんは、私や宏誠氏の祖母になり、一郎直道氏の三男、繁氏の嫁になります。一部、読みにくく、6月に学会で上京する際に、原本をお借りしてコピーし直そうと思っています。
「源平生田の森の合戦と河原霊社の由来」 川辺賢武著。これは、本日(昨日)、大阪府立中之島図書館を訪ねた際に司書の方から有り場所を教えてもらいました。神戸市立中央図書館(大倉山、神大医学部の傍)の2階の郷土資料コーナーにあるそうです。館内閲覧のみだそうで、コピーが出来るのかどうか? 不明です。訪ねることがあるので、寄ってみます。カーター様の昨年、神大病院にお見舞いに行かれたではなかったですか? 惜しかったですね。
本日は、大阪府立中之島図書館、大阪市立中央図書館の2カ所に立ち寄り、河原家の情報がないかと調べてみました。こんなことは、滅多にしてこなかったことですが、皆様のおかげで、やっと動くことができました。
人名辞典では、桔梗様の言われるように、河原、川原も同じ扱いでしたね。河原、川原とも、カハラ、カハハラ、カワラ、カワハラ、などと読むようですね。父や祖母からは、
カワラ だからね、と言われていましたが、小学校の時から、カワラ と呼んでくれない、あるいは読んでくれないことが多く、いちいち訂正してきました。何のことはありません。ある先生は、カハラ と言われていましたが、それはそれで根拠があったのでしょうね。
その他、いろいろコピーしましたが、その中で、桔梗様が言われたように、これは加賀藩の方ですが、廃藩の時には、やはり6家に分家していたようですね。
祖母の 榮さんは、家族の半分を早くから亡くしたためか、大変信心深く、またご先祖を敬う思いが強かったものと回想します(実際は、私が小学1年の時から22才頃まで同居していました)が、河原家の由緒に興味があったようで、その当時としては、かなり調べていたようです。しかし、河原兄弟の系図と加賀の河原兵庫左次馬以降の系図とが最期まで繋がらなかったようですね。
戴いた三沢茂著の「源平合戦の勇士河原兄弟」や野口先生の「河原霊社」を読ませて頂くと、河原太郎高直の孫の太郎次郎国直が、1222年、参州(三河)、今村に蟄居とあります。その子孫の河原兵庫助重行(さらに5代後)が討ち死にした後、甥の代で、今村姓、松本姓に変えているわけですね。その後また武蔵国に帰って、河原神社の松本様に至るわけですね。
私は、河原兄弟の末裔が三河に移った後(1222年)、今村姓に変えるかなり前に分家の河原(姓がどうなのか?)が隣の尾張(荒子)に移り住んだのではないか、と想像するのですが、どうでしょうか?
荒子衆であった河原兵庫左次馬以前の河原家を探ろうと、名古屋市中川区の前田城跡、前田家菩提寺の前田速念寺に電話してみました。ご住職の奥様(長種さん=前田長種さんの子孫?)がご親切にお教え下さいました。江戸時代に、前田家の隠れ蓑として、寺を建立していたようです。残念ながら、荒子衆の過去帳、系図などの資料はないようで、川原桔梗様が以前(個人的に)お教え下さった 金沢市立玉川図書館近世資料館を訪ねないと無理な気がしてきました。それも、どうなのか、新たな資料が出てくる可能性は半分くらいの感じですね。
 近いうちに、訪ねてみます。

[2011年05月13日07時28分]
お名前: カーター
 3月27日に三宮神社の河原霊社の例祭に行かれた河原一郎さんから、「河原霊
社」(昭和四十七年、沖縄本土復帰の春。河原霊社奉賛会)と言う小冊子を頂きま
した。この小冊子は、元神戸大学教授の野中春水先生がまとめられたもので、下記
の二冊の稿を元にしています。
 「源平合戦河原兄弟忠死の事績」 福原潜次郎編、芹澤大次郎1923
 「源平生田の森の合戦と河原霊社の由来」 川辺賢武著

 前者は国会図書館にあるようですので、連休にでも行って閲覧して来たいと考え
ています。後者についてはネットで探しても出て来ません。川辺氏はネットで調べ
ると名前がたくさん出て来ます。平家物語や郷土史などに関する著作があります。
 芹沢大次郎がなぜこのように河原兄弟についてこだわったのか興味があり、読ん
でみました。先に紹介した三沢茂著の「源平合戦の勇士河原兄弟」にも「河原霊
社」の文章をそのまま紹介していますが、その内容は下記の通りで、野中先生は、
芹沢が河原兄弟に思い入れしたことについて次のように述べられています。
 横浜の貿易商であった芹沢大次郎は三宮三丁目に商店を開きましたが、『ところ
が店に接近して「従是河原兄弟塚道」の標石があり、またその北手の小路のかたは
らにわけありそうな一株の古松がある。土地の事情に通じない芹沢氏は不思議に思
いながら年を過すうちに、河原兄弟の事績と塚のことを知り、この由緒ある勇士の
墳墓の地が心無くも破壊煙滅していることを遺憾に思い、三丁目町内の有志にはか
り、兄弟が忠死の地という古松の側に霊社を造ってその霊をまつり、かつは源平合
戦の遺跡を世に顕彰しようと志した。』
 その後、芹沢氏は埼玉県の児玉郡の勅使河原、そして北埼玉郡の南河原へ向か
い、合戦の後に河原兄弟の遺髪を持ち帰った森五郎兵衛のご子孫や河原兄弟の子孫
である河原神社(南河原)の神主である松本氏や当主の今村氏などに会って、系図
や遺品などを見て念願の宿望を遂げたのを喜び、神戸に河原霊社の建立を思い立っ
たそうです。
 12月に河原一郎さんが南河原に来られた時に河原神社でお会いした神主さんの
方は松本秀夫と言う人で、芹沢大二郎が会った松本さんのご子孫だと思われます。

[2011年04月17日11時48分]
お名前: 河原一郎
 去る3月11日に発生しました東北地方太平洋沖地震により、
東日本方面に大災害をもたらし、被災者の皆様に対し心より
お見舞い申し上げます。
 昨年12月に行田市に伺い、河原太郎次郎兄弟ゆかりの地を
カーターさんにご案内いただいた際にお会いした河原兄弟の
末裔の方がご紹介下さいました三宮神社河原霊社奉賛会より、
3月27日の河原霊社例祭のご案内が2月に届きました。
しかしその後、震災と言う予期せぬ事態が発生したため、
今年は例祭を中止するとの連絡がありました。私は家内と私の
従兄弟とで当初より参列を予定してましたので、河原霊社への
お参りだけでもと思い出向きました。午前11時過ぎに三宮神社
へ着きますと、思いがけず祭典が始まっており、お参りできました。
正式ではないですが、内輪で催していただいたようです。
私たち以外の参列は、岡山の河原さん(息子嫁)だけ見えており
御挨拶できました。
その後、禰宜(宮司さんの息子さんと)の方とお話することができ
ました。例年なら、京都にお住いの河原さんも来られ、お会い
出来たかもしれないのにと残念に思いました。
また、「河原霊社」という冊子をいただくことができました。
その後、追谷墓苑に行って、河原兄弟の墓地へお参りしました。
[2011年03月28日21時11分]
お名前: 河原一郎
川原桔梗 様

 自分自信の先祖のことを考えだしましたのは最近で、私などまだまだ不勉強で、
 この掲示板に投稿されておられる方々の足元にもおよびません。
 >苗字や歴史の本に、本家から同じ苗字や家紋を使わないように指示されたり
 >する家があったという記事がありました
 とのこと、カーターさんに行田市内の史跡を御案内頂いたときに河原神社で偶然
 お会いすることができました松本さん(氏子総代をされているとのこと)も、同じ
 ことを言われてました。現在の苗字、家紋だけでは家系の判断できないのですね。

カーター様

 河原太郎次郎に由来する史跡だけでなく、行田市内の史跡もいくつか御案内いただき
 誠にありがとうございました。事前に訪れるところも計画していただき、限られた時
 間の中で効率よく見学することができました。山並みが一望できる景色があり、古代
 より歴史的にも重要な地域であったことも知り、感動しました。
 再度訪れたくなる魅力的なところでした。
 そして、何よりもカーターさんとの出会いが一番うれしいでした。
[2010年12月25日12時30分]
お名前: カーター
 12月12日(土)に河原一郎ご夫妻がお見えになりました。
熊谷駅を10時に出て田舎道を車で走りました。南から北へ向けて
走ると、左手の西には秩父連山が横たわっており、その西北の方角
には浅間山、榛名山、赤城山が見え、そしてまっすぐ真北に日光男
体山が見えます。早朝であれば、西南の方角に雪をかぶった富士山
が見えるのですが、南方はすでにもやがかかり富士山の姿ははっき
りしません。埼玉北部は最近都市化が進んでいますが、この関東平
野のど真ん中で見える風景だけは、河原兄弟の時代と九百年以上た
った今とでは変わっていないことでしょう。
 まず、河原兄弟の菩提寺と言われる南河原の観福寺で向かいまし
た。当日は法事をやっているらしく黒い礼服を来た人がたくさん来
られており、いつもはひっそりとしているこの寺もにぎやかに感じ
られました。兄弟を祀った供養塔と言われる石塔婆は、鍵をかけた
建物の中に納めてあり、見ることはできませんでした。寺には河原
兄弟のゆかりのある寺であることの説明文があり、寺の紋が二引き
に丸であることが確認できました。
 次に河原兄弟の墓がある北河原の照岩寺へ参りました。この寺も
何か行事らしく人は寺の中に入っておられました。さっそく墓へご
案内しましたが、墓が真新しいのがわかり、墓の側面には源平合戦
の説明がありました。この寺には河原兄弟の位牌が安置してあるの
ですが、鍵がかけてありやはり見ることができませんでした。ここ
でも寺の紋が二引きに丸であることが確認できました。
 そして河原神社では河原兄弟にゆかりのあるものは何も見ること
はできなかったのですが、新しい出会いがありました。神社に参拝
した後、境内でお掃除をしておられる人に声をかけたところ、神戸
の三宮神社にも行かれたことがあり、三宮神社の前で武蔵あばれ太
鼓を実演したところ、たくさんの見物客が来たとのことでした。
 三宮神社のある河原兄弟の塚は三宮駅近くの地下街である「さん
ちかタウン」のセリザワという衣料品店の人が工事中に発見したの
ですが、最初は何のことかわからなかったのが、いろいろ調べて平
家物語にある一の谷の合戦の河原兄弟の塚であることがわかり、最
終的に三宮神社に河原霊社を作ってもらったとか色々な話を聞くこ
とができました。そして毎年3月27日には三宮神社で大祭がある
ので、その日は毎年神戸に行かれているとのことでした。大祭の日
には三宮神社で会おうと言うことにしました。
 久しぶりに、以前このボードでも紹介した「源平合戦の勇士河原
兄弟」南河原文化会発行を読み返してみました。あばれ太鼓の一行
が神戸へ行かれた時の世話人であったさんちかタウンのセリザワの
芹沢豊男さんのことが書かれてありました。また先日、河原神社で
お会いした方の名前が見えます。
 さんちかのセリザワは下記の様なサイトがあります。社長は三代
目の芹沢豊成さんとなっています。塚を発見したのは芹沢大次郎氏
ですが、同社の会社概要に大次郎氏の名前が創業者として記載され
ています。

http://www.serizawa.co.jp/company.html

 河原神社では岡山の河原氏についても行って見る価値があるとか
の話題となりましたが、岡山の河原邸は下記のようなものらしいで
す。

http://tonko.butanishinju.com/080611.htm

 その後、現在映画の制作が進行している小説「のぼうの城」で有
名になった忍城と埼玉古墳そして前玉神社(埼玉の名称の発祥の地
)をご案内しました。丸形の古墳の山の頂上では上に述べた四方の
山がすべて見渡すことができ、この埼玉の地が関東平野の中心的な
地であり、豪族が早くから育ち古墳を作っていたことが理解できま
した。

[2010年12月25日11時40分]
お名前: 川原(河原??)桔梗
皆様久しぶりでございます>>川原桔梗です。


河原 啓様

お返事遅くなりました。
富山県出身の川原和夫様についてですが、私の父親と顔や髪質と目の形が似ております。(私は母似のため目は似ていません。)
もしかしてと思い、彫刻をされてみえる富山県井波に訪ね、奥様とお話ができましたが家紋が違いました。江戸時代のいつかに家紋を変えてしまったのかもしれません。
先月までは、休みに電話帳と地図で富山県の川原(河原)さんのお宅を訪ねておりましたが、同じ家紋の方が全く見つかりませんので、少し休憩中です。」
家紋は違えど、風貌や容姿が似て見える方が数名見えました。まだまだ調査が必要だと考えております。

河原 一郎様

いろいろと活動されてみえるようですね。私などは若輩者ですが、地道に活動しております。
先日、私の本家さんの菩提寺の住職さんに初めてお会いできました。
高岡大法寺といいまして、分寺関係の富山大法寺は富山藩2代藩主前田正甫の菩提寺でその後、4、6、8代の富山藩主前田家が菩提寺としたお寺でございます。
前に、本家さんからお寺は明治時代に火事で焼けて、古い書類は無いと伺っておりましたとおり、1700年頃までの過去帳しかございませんでした。その中の古い二冊は角が火に焼けた跡が残っています。
お寺の過去帳に期待はしておりませんでしたが、一つ発見があり、明治に入ってから苗字を記載し始めた最初の私の先祖の記載に川原ではなく、河原とありました。
河原源七です。なので、元々は河原だったが、何かの理由で明治中頃に川原に変えたのです。
苗字や歴史の本に、本家から同じ苗字や家紋を使わないように指示されたりする家があったという記事がありましたし、現在、判明している本家さんの先代さんが明治頭には知っていた本家から『河』を『川』に変えるように指示されたのかもしれません。
なので、私の先祖は加賀藩(石川県の一部と富山県の一部)のどこかに見える河原家ではないかと考えております。


★追記

前回、書き込みしました『河原系図帳 河原直行編 自筆 文政7 6丁 河原案は尾張時代からの家臣。』
についてですが、河原案ではなく河原家と思われますので訂正??したいと思います。『案』とは何だろう、河原案という名前か??と思ってしまいましたが、『家』と書き写しミスなどではないかと思います。
[2010年12月23日23時32分]
お名前: カーター
河原一郎様

 河原兄弟の墓地のレポートを写真付きで頂きありがとうございます。
追谷墓園は行ったことがありませんが、今度神戸へ車で行こうと妻と
話していますので、その際には行けるかもしれません。
 河原兄弟も今頃は驚いてることでしょうね。何百年もの後になって、
訪ねて来る人がいるなんて。

[2010年12月05日22時59分]
お名前: 河原一郎
カーター様

メールありがとうございます。
12日、どうぞよろしくお願い致します。

本日、神戸市中央区にあります追谷墓園に河原太郎次郎の墓碑があるとのことで
行ってきました。
この掲示板でも紹介されていたかもしれませんが、以下のリンク
http://www.feel-kobe.jp/genpei/heritage/h06_01.html
の情報をもとに車で出かけました。
神戸北野ホテルの前を山に向かって進み、再度山ドライブウェイを少し上がった
ところにあるトンネルの手前で追谷墓園の案内板があり細い道を登って行きます。
駐車場は無く、路肩に縦列駐車で止めるしかありませんでした。
上記リンクの記述では、
「初めての方には標識もなく探すのは不可能です。墓園の管理者か花屋さんに
 聞いてください。」
とのことでしたが、管理事務所は閉鎖されており花屋さんも閉まってましたので
誰にも聞けず自分たちで探すことになりました。
入って行きますと、山の斜面一面に墓石が立っており、確かに簡単に見つけ出せる
ようなところではありませんでした。家内と一緒でしたので、手分けして歩きまわり
ました。リンクに乗っていました写真の映像を頼りに1時間程探しましたが、
見つからず、諦めかけたところで、やっと見つけることができました、意外と墓園の
入り口近くの崖の上で別区画されたところにありました。
写真のリンクを添付しますので、見てください。
http://edit.photos.yahoo.co.jp/ph/bjichiro/slideshow?&.src=ph&.view=t&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/ph/bjichiro/lst%3f%26.dir=/f61a%26.src=ph%26.view=t&&.dir=/f61a&.spd=s&.full=n&.thema=10&.tDisplay=y

河原一郎

[2010年12月05日18時17分]
お名前: カーター
河原一郎様

 12月12日(日)10時と言うことで了解しました。詳細はメールしておきま
した。
 2006年には丹波大山庄の小次郎様が来られ、児玉郡秋山郷の河原神社をご案
内した経緯があります。こちらは遠いので今回は予定からはずしています。
 丹波や神戸の須磨と関わりがある、行田市の南河原地区ですが、もっとPRすれば
関西からの観光客も増えるのではないかと今後方法を考えたいと思います。

[2010年12月05日10時39分]
お名前: 河原一郎
カーターさん

先ほど編集途中で書き込みを押してしまいました。
追記です。

ご案内いただけるというご進言有難とうございます。
当方そちらの地理に疎いものですから、行けばなんとかなるかと思いつつ
不安でしたが、お会いできると心強いです。
12日のご都合、時間の許す範囲で結構ですので、無理をされないようにして下さい。

河原一郎

[2010年12月04日23時42分]
お名前: 河原一郎
カーター様

こんばんは
私も六甲台へ通ってました。奇遇ですね。
従兄弟の河原啓が書き込みましたように、近々行田市へ行きます。
今日は調度そのスケジュールを立てていました。
家内と次女と12月11日から2泊3日で東京へ観光に行く予定で、
12日には、家内と二人で行田市を訪れ、照岩寺、観福寺、河原神社
等河原太郎次郎ゆかりの地へ行く計画です。その後、忍城も行こうと
考えてました。
前日は品川泊で、朝出てJR熊谷経由で、まずは照岩寺行くことに
してます。計画ではAM10時に照岩寺着です。
もし、カーターさんのご都合に問題なければそこで、お会いできると
嬉しいです。

[2010年12月04日22時59分]
お名前: カーター
河原啓様、書き込みを頂きありがとうございました。
 私も六甲台へ通っていました。河原一郎様が行田市へお出での際には、河原兄弟
のゆかりの河原、照岩寺などをご案内させて頂きます。

 行田市は現在映画の撮影が進んでいる小説の「のぼうの城」和田竜著の舞台となっている町です。石田三成も落せなかったという忍城もご案内できます。

http://nobou-movie.jp/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/のぼうの城

[2010年12月04日16時20分]
お名前: 河原 啓
カーター様
こんばんは。実名で愛想ないですが、河原啓です。
10月の書き込みを読ませて戴きました。
三宮まで来られていたのですね。神戸大学は私の母校でもあり、東灘区に住んで居られたとか。懐かしく、これも何かの縁かな、と思いました。私も、東灘区で生まれ、現在も東灘区住吉本町2丁目で仕事をしております。
今後とも、よろしくお願いいたします。
従兄弟の 河原一郎が行田市の河原神社を見学、探索に行く、と申しておりました。

川原桔梗様
12月1日(水)〜7日(火)まで、大丸神戸店において、富山県出身の川原和夫・正士両氏の木彫展が開かれますが、この方々に似ておられるのでしたか?
なにか、縁を感じます。
見に行こうと思っています。

河原 啓



[2010年12月02日17時56分]
お名前: カーター
 10月2日に後輩がガンで入院しているので見舞いに神戸の大倉山の大学病院に
行きました。昔のことを話すと若返ると言うので、会いたがっていると聞いたので
見舞ったのですが、阪急の御影(東灘区)あたりに住んでいたことなどを懐かしく
話しました。10月7日になくなりました。
 せっかく神戸に行ったので、須磨の名谷にいる娘の婿に会い、それから須磨寺、
三宮神社を訪問しました。須磨寺には、熊谷直実と平敦盛の騎馬の像がありまし
た。敦盛を追って直実が声をかけ敦盛が後ろを振り返っている平家物語のシーンが
再現されています。山を上ると、敦盛の塚があり敦盛の霊が祀られています。須磨
寺駅で写真を取っていると大阪から来たと言うご婦人に声をかけられました。先
日、NHKのテレビで須磨寺の放送を見て来たらしいのですが、東京ではやっていな
かったのでおそらくNHK大阪が独自で制作した番組のようでした。

http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/sumadera.htm

 須磨寺駅にはお寺の紹介の看板がありますが、写真は敦盛の騎馬像を使っていま
す。ああ、こちらでは敦盛が勇者として見られているのだなと感じました。そのご
婦人に熊谷直実の話をしましたが、直実のことは全くご存知ないようでした。埼玉
県の熊谷市もどこにあるのかご存知ないようでした。私がこれから三宮神社に行く
と言うと、ご婦人はいっしょに行くと言ってついてこられました。
 
 三宮神社には「従是河原兄弟」の塚がありました。三宮神社で神戸事件の説明を
読み、神社の裏に回ってみると河原霊社があり、河原兄弟が祀ってありました。霊
社から戻ってみるとご婦人は消えておられました。やっと解放されました。すぐ近
くが中華街の南京町なのでそちらへ行かれたようでした。三宮神社は三宮の地名の
元だそうです。

http://www.geocities.jp/mzs26112/tyuoku7ko-su.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/神戸事件
http://www.feel-kobe.jp/genpei/heritage/h06_09.html

[2010年10月09日13時39分]
お名前: 河原 一郎
川原桔梗 様

貴重な情報を頂きありがとうございます。
ご紹介いただいたホームページの情報をもとに今度金沢に
行ったときに、調査したいと思います。


[2010年09月23日22時21分]
お名前: 川原桔梗
また、下記ホームページで紹介されていた系図は実物確認はできていませんが、石川県内のどこかに保存されているようです。
これを見つければ尾張時代の系譜が分かるかもしれませんね。
URL http://www.geocities.jp/kirche_7/keizubunken_ishikawa.htm
『河原系図帳 河原直行編 自筆 文政7 6丁 河原案は尾張時代からの家臣。』
[2010年09月23日13時38分]
お名前: 川原桔梗
河原一郎様

川原桔梗です。

河原兵庫様は尾張の頃から利家に仕えていますよ。(荒子とは記載されていませんが)

私が石川県図書館で写真を撮ってきました系図によると、その系図の冒頭に

『於尾州仕 高徳公度々加合千石足軽頭』(尾張国に於いて仕え 利家に度々加合され録は千石となった)

とありますから、この系図が本物であれば、まちがいなく尾張国に存じた前田利家に仕えてみえたことになります。
[2010年09月23日13時05分]
お名前: 河原 一郎
カーター様、川原桔梗様
情報提供ありがとうございます。
機会を見つけて『武蔵あばれ太鼓』をぜひ見に行きたいです。

小次郎様の書き込みによりますと、[2006年05月04日23時03分]
室町期には、盛直九代孫備前守友直也とあり播磨に居を構えていた様です。

河原啓が書き込みましたように、金沢市の融山院には、河原兵庫代々の墓石が
あります。それによりますと以下のようになってまして、正に江戸初期から末期
の時代になります。
初代 河原兵庫左次馬 元和二年 4月 4日 没
二代 河原兵庫左次馬 寛永八年10月12日 没
三代 河原兵庫直澄  生徳二年 3月20日 没
四代 河原貞進直資  延享三年12月12日 没
五代 河原左次馬直秀 文化二年 8月20日 没
六代 河原右近直行  天保十一年6月16日 没
七代 河原監物直慶  文久二年 8月11日 没

仮に河原兵庫左次馬が河原兄弟との繋がりがあるとしますと、室町時代の
河原友直の後、戦国時代、安土桃山時代にどう家系が繋がっていったのかと
言うことになります。
金沢の河原家は、代々前田家の家臣でした。
前田利家の父は尾張国荒子城主の前田利昌ですから、河原家も加賀(石川県)
の前は、尾張(愛知県)に住んでいたのかも知れないと考えているところです。
[2010年09月22日22時33分]
お名前: 川原桔梗
書き込みを確認いたしました。

前回の書き込みで
『河原兵庫と河原兄弟と同族の可能性が高いですね』
と書き込みましたが、
『武蔵あばれ太鼓』のイベントで二引両紋が使われていたため、
河原兄弟がこの紋を使用していたものと思い込んでおりました。
申し訳ないですが裏はとれておりません。
『武蔵あばれ太鼓』の関係者に確認してみたいと思います。
下記URLがこの『武蔵あばれ太鼓』です。http://www.kobaton.info/minami/minami.html
http://www.pref.saitama.lg.jp/site/midokoro/midokoro-gyouda.html
[2010年09月22日00時19分]
お名前: カーター
河原一郎様いらっしゃいませ。このスレッドに水軍丸船長殿が
二引きに丸が見えると2005年06月30日07時22分に書かれて
います。
[2010年09月21日22時59分]
お名前: 河原一郎
兵庫県尼崎市の河原一郎です。はじめまして。
河原啓の従兄弟になります。
私どもの家系が、河原兄弟とのつながりがあるかどうかはまだ
分かりませんが、昨日神戸の三宮に出る機会がありましたので、
河原兄弟の史蹟がある三宮神社へお参りしてきました。
河原兄弟の霊を祀って「河原霊社」が建立されています。
川原桔梗さんの投稿の中で
「河原兵庫代々の墓石がありましたが、その中の一つに二引両紋が
ついていましたので河原兵庫と河原兄弟と同族の可能性が高いですね。」
とありますが、河原兄弟の家紋は二引両紋でしょうか。
それが分かる資料でもあるのでしょうか。
よろしくお願いします。
[2010年09月20日22時48分]
お名前: 河原 啓
カーター様、
そうなんです。川原さんや私が触れている河原兵庫は、加賀前田家の荒子七人衆の次くらいに出てくる家臣で、1550〜1600年頃の人物だと思います。金沢市寺町の融山院というお寺に墓があります。その先を知りたいのですが、なかなか資料が見当たらないのです(あまり真剣に探していませんが)。そのお寺には、初代から7代の墓があり、いくつかは河原兵庫さんが作ったことになっています。ということは、1600年代の人物かもしれません。つながりは分かりません。川原さん、どうでしょう?
従兄弟の河原一郎がまた書き込みをするかもしれません。以後、よろしくお願いいたします。
[2010年09月17日15時58分]
お名前: カーター
河原啓様、過去のログを見てみると河原兵庫とは前田家の
家臣の河原兵庫のことのようですが、そうであれば河原兄
弟とのつながりはわかりません。研究者の三沢茂さんも前
田家の河原兵庫には言及されていません。

[2010年09月12日10時35分]
お名前: カーター
 河原啓さま書き込みをありがとうございます。深く読んで頂き光栄です。河原兵
庫の子孫とは由緒あるご家庭でよろしいですね。河原兵庫は太平記の神南合戦に出
て来る河原兵庫助重行のことですね。太平記の記述に次のようなものがります。

「河原兵庫助重行は、今度の軍に打負かば、・・・・数万人の敵の中は只一騎駆け
入りて、終に討ち死にしけるこそ哀なれ。」

 数年前に河原兄弟や私市党について調査していた時に南河原村の研究者の人が書
いた本があると言うので村の公民館で「源平合戦の勇士河原兄弟」と言う本を頂き
ました。この村は現在は市町村合併で、行田市南河原(大字)となっています。

 私市党の系図には次のような記載があります。

 有直(太郎)ー重直(小太郎)ー景直(兵衛尉)ー師継ー師氏ー宗基(兵庫助)
 高直(次郎) 守直(成木)  長基
                     「武蔵武士」有峰書店から
 
 有直(太郎)、高直(次郎)は平家物語では高直(太郎)、盛直(次郎)となっ
ています。また、上記の系図にあるかどうかははっきりしませんが、「吾妻鏡」に
は河原兄弟の討ち死にから6年後に、頼朝が上洛する際に同行する随兵として河原
小三郎が伴っています。この小三郎について、上記「源平合戦の勇士河原兄弟」の
著者である三沢茂氏は河原兄弟の弟か叔父であった三郎の子が小三郎ではないかと
述べられています。
 詳しくお知りになりたい場合は、行田市南河原支所にお問い合せにて「源平合戦
の勇士河原兄弟」を送付依頼をして頂ければよろしいかと思います。もちろん送料
をご負担頂く必要があります。

[2010年09月12日10時21分]
お名前: 河原 啓
兵庫県神戸市東灘区の河原啓(カワラ アキラ)と申します。河原兵庫は私の先祖です。金沢の融山院では、ここの初代から七代目の墓があり、八代目から十代目(父)は京都の大徳寺に墓があります。だいぶ以前に興味深く読ませていただいたのですが、しばらく見ていませんでした。河原兄弟以降のつながりがはっきりしませんでした。つながっているのですか?
[2010年08月03日00時04分]
お名前: 川原桔梗
[2010年01月28日23時13分] に河原兵庫について書き込みしました川原です。。

名を川原桔梗と変えて調査した結果を載せます。

図書館にある藩士人別帳の記載の通り、河原兵庫の墓所は金沢市寺町2丁目1-4 融山院(地理的に金沢城と野田山(加賀藩武士の墓所)の中間ぐらいの位置)にありました。
 河原兵庫代々の墓石がありましたが、その中の一つに二引両紋がついていましたので河原兵庫と河原兄弟と同族の可能性が高いですね。
 ですが、私の家の家紋は丸に桔梗であるため元々河原太郎次郎とは同族ではないようです。
 ちなみに家紋調査団体によると私の同族の可能性のある桔梗紋の河原(川原)さんはこれだけ見えます。

川原 丸に桔梗     清和源氏族     茨城県牛久
河原 丸に桔梗     清和源氏族     岩手県北上市
河原 桔梗枝丸     清和源氏族     神奈川県鎌倉
河原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   愛知県春日井市
河原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   愛知県名古屋市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     岡山県岡山市
河原 五瓜に桔梗              岡山県岡山市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     岡山県津山市
川原 土岐桔梗     清和源氏頼光流   岐阜県関市
河原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   岐阜県岐阜市
川原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   岐阜県恵那市
河原 丸に剣桔梗    清和源氏頼光流   岐阜県山県市
河原 三つ葉桔梗    清和源氏族     宮城県仙台市
河原 鉄砲桔梗     藤原氏秀郷流    宮城県仙台市
河原 桔梗桐      藤原北家族     京都府京都市
川原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   京都府京都市
川原 五つ環に桔梗             京都府京都市
川原 割り桔梗菱              熊本県玉名市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     群馬県高崎市
川原 丸に桔梗     清和源氏族     広島県広島市
川原 上下割り桔梗             広島県福山市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     香川県高松市
河原 裏桔梗      清和源氏頼光流   佐賀県佐賀市
川原 清明桔梗               埼玉県所沢
河原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   三重県いなべ市
河原 丸に中陰桔梗   清和源氏頼光流   三重県津市
河原 三つ割り桔梗   清和源氏頼光流   山梨県甲府市
河原 丸に桔梗               滋賀県大津市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     鹿児島県鹿児島市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     秋田県大仙市
川原 光琳桔梗     清和源氏族     新潟県上越市
河原 中陰三つ割り桔梗 清和源氏族     新潟県新潟市
河原 丸に桔梗               新潟県長岡市
川原 雪輪に中陰桔梗  清和源氏族     青森県青森市
川原 丸に桔梗     清和源氏族     静岡県浜松市
川原 隅切り角に桔梗            静岡県浜松市
川原 丸に桔梗     元加賀藩士家    石川県金沢市
川原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   石川県金沢市
河原 丸に桔梗     前田藩家臣     石川県金沢市
河原 剣桔梗      清和源氏族     千葉県松戸
河原 石持ち地抜き桔梗 清和源氏多田氏族  大阪府茨木市
河原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   大阪府堺市
川原 八重桔梗               大阪府生駒
河原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   大阪府大阪市
川原 丸に桔梗               大分県大分市
川原 桔梗       清和源氏頼光流   長野県松本市
河原 桔梗       清和源氏族     長野県木曽町
河原 雪輪に覗き桔梗  清和源氏頼光流   長野県木曽町
河原 桔梗       清和源氏族     東京都八王子
河原 丸に桔梗     清和源氏族     東京都西多摩
河原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   東京都多摩
川原 中陰三つ割り桔梗 清和源氏族     東京都台東区
河原 丸に桔梗     清和源氏族     徳島県徳島市
河原 花桔梗      徳島藩士      徳島県徳島市
川原 比翼桔梗     清和源氏族     栃木県宇都宮市
川原 裏桔梗                奈良県桜井市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     奈良県奈良市
川原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   富山県小矢部、砺波地方
川原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   富山県高岡市
川原 丸に桔梗     清和源氏頼光流   富山県氷見、新湊地方
河原 丸に桔梗     清和源氏族     富山県富山市
川原 丸に桔梗               福井県大野市
河原 丸に細桔梗              福岡県飯塚市
河原 丸に結び桔梗   清和源氏頼光流   福岡県福岡市
川原 丸に桔梗     清和源氏族     福岡県北九州市
川原 中陰丸に桔梗             福島県福島市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     兵庫県加古川市
河原 丸に桔梗     清和源氏族     兵庫県神戸ひよどり
川原 中陰桔梗     清和源氏族     兵庫県神戸ひよどり
川原 丸に桔梗     清和源氏多田氏族  兵庫県川西市
川原 丸に桔梗     美濃、清和源氏頼光流 兵庫県 
川原 丸に剣桔梗    美濃、清和源氏頼光流 兵庫県 
川原 抱き葉桔梗    清和源氏族     北海道札幌市
河原 丸に桔梗     藤原氏族      北海道小樽市
川原 蔓桔梗                和歌山県和歌山市

全ての現地調査に何十年かかるか未定です。もし、何か情報をお持ちの方がおりましたらご連絡ください。アドレスkawa-net@xk9.so-net.ne.jp

[2010年07月25日13時15分]
お名前: 川原桔梗
[2010年01月28日23時13分] に河原兵庫について書き込みしました川原です。。

名を川原桔梗と変えて調査した結果を載せます。

図書館にある藩士人別帳の記載の通り、河原兵庫の墓所は金沢市寺町2丁目1-4 融山院(地理的に金沢城と野田山(加賀藩武士の墓所)の中間ぐらいの位置)にありました。
 河原兵庫代々の墓石がありましたが、その中の一つに二引両紋がついていましたので河原兵庫と河原兄弟と同族の可能性が高いですね。
 ですが、私の家の家紋は丸に桔梗であるため元々河原太郎次郎とは同族ではないようです。
 ちなみに家紋調査団体によると私の同族の可能性のある桔梗紋の河原(川原)さんはこれだけ見えます。

川原丸に桔梗     清和源氏族茨城県牛久
河原丸に桔梗     清和源氏族岩手県北上市
河原桔梗枝丸     清和源氏族神奈川県鎌倉
河原丸に桔梗     清和源氏頼光流愛知県春日井市
河原丸に桔梗     清和源氏頼光流愛知県名古屋市
河原丸に桔梗     清和源氏族岡山県岡山市
河原五瓜に桔梗      岡山県岡山市
河原丸に桔梗     清和源氏族岡山県津山市
川原土岐桔梗     清和源氏頼光流岐阜県関市
河原丸に桔梗     清和源氏頼光流岐阜県岐阜市
川原丸に桔梗     清和源氏頼光流岐阜県恵那市
河原丸に剣桔梗     清和源氏頼光流岐阜県山県市
河原三つ葉桔梗     清和源氏族宮城県仙台市
河原鉄砲桔梗     藤原氏秀郷流宮城県仙台市
河原桔梗桐     藤原北家族京都府京都市
川原丸に桔梗     清和源氏頼光流京都府京都市
川原五つ環に桔梗      京都府京都市
川原割り桔梗菱      熊本県玉名市
河原丸に桔梗     清和源氏族群馬県高崎市
川原丸に桔梗     清和源氏族広島県広島市
川原上下割り桔梗      広島県福山市
河原丸に桔梗     清和源氏族香川県高松市
河原裏桔梗     清和源氏頼光波佐賀県佐賀市
川原清明桔梗          埼玉県所沢
河原丸に桔梗     清和源氏頼光流三重県いなべ市
河原丸に中陰桔梗    清和源氏頼光流三重県津市
河原三つ割り桔梗    清和源氏頼光流山梨県甲府市
河原丸に桔梗          滋賀県大津市
河原丸に桔梗     清和源氏族鹿児島県鹿児島市
河原丸に桔梗     清和源氏族秋田県大仙市
川原光琳桔梗     清和源氏族新潟県上越市
河原中陰三つ割り桔梗清和源氏族新潟県新潟市
河原丸に桔梗           新潟県長岡市
川原雪輪に中陰桔梗清和源氏族青森県青森市
川原丸に桔梗     清和源氏族静岡県浜松市
川原隅切り角に桔梗      静岡県浜松市
川原丸に桔梗     元加賀藩士家石川県金沢市
川原丸に桔梗     清和源氏頼光流石川県金沢市
河原丸に桔梗     前田藩家臣石川県金沢市
河原剣桔梗     清和源氏族千葉県松戸
河原石持ち地抜き桔梗清和源氏多田氏族大阪府茨木市
河原丸に桔梗     清和源氏頼光流大阪府堺市
川原八重桔梗          大阪府生駒
河原丸に桔梗     清和源氏頼光流大阪府大阪市
川原丸に桔梗           大分県大分市
川原桔梗     清和源氏頼光流長野県松本市
河原桔梗     清和源氏族長野県木曽町
河原雪輪に覗き桔梗清和源氏頼光流長野県木曽町
河原桔梗     清和源氏族東京都八王子
河原丸に桔梗     清和源氏族東京都西多摩
河原丸に桔梗     清和源氏頼光流東京都多摩
川原中陰三つ割り桔梗清和源氏族東京都台東区
河原丸に桔梗     清和源氏族徳島県徳島市
河原花桔梗     徳島藩士     徳島県徳島市
川原比翼桔梗     清和源氏族栃木県宇都宮市
川原裏桔梗           奈良県桜井市
河原丸に桔梗     清和源氏族奈良県奈良市
川原丸に桔梗     清和源氏頼光流富山県小矢部、砺波地方
川原丸に桔梗     清和源氏頼光流富山県高岡市
川原丸に桔梗     清和源氏頼光流富山県氷見、新湊地方
河原丸に桔梗     清和源氏族富山県富山市
川原丸に桔梗           福井県大野市
河原丸に細桔梗      福岡県飯塚市
河原丸に結び桔梗    清和源氏頼光流福岡県福岡市
川原丸に桔梗     清和源氏族福岡県北九州市
川原中陰丸に桔梗      福島県福島市
河原丸に桔梗     清和源氏族兵庫県加古川市
河原丸に桔梗     清和源氏族兵庫県神戸ひよどり
川原中陰桔梗     清和源氏族兵庫県神戸ひよどり
川原丸に桔梗     清和源氏多田氏族兵庫県川西市
川原丸に桔梗     美濃、清和源氏頼光流兵庫県 
川原丸に剣桔梗     美濃、清和源氏頼光流兵庫県 
川原抱き葉桔梗     清和源氏族北海道札幌市
河原丸に桔梗     藤原氏族     北海道小樽市
川原蔓桔梗           和歌山県和歌山市

全ての現地調査に何十年かかるか未定です。もし、何か情報をお持ちの方がおりましたらご連絡ください。アドレスkawa-net@xk9.so-net.ne.jp
[2010年07月25日13時06分]
お名前: そんし
川と河の違いはさしたる違いではないので、さほどこだわる必要はないと思われます。
徳川家康が先祖と言い張る新田一門徳川氏も吾妻鏡の記録では得河と記載されています。

ちなみに湊川神社など明治期に忠臣を祭る神社として創建された神社に、南朝遺臣が祭られたのは明治初期の南朝遺臣ブームによるもので、南朝方の家臣として記録のある人物は総まとめに祭られていますから、探せば自分と同姓を見つけることはたやすく、逆に太平記などに北朝方に同姓を探すこともたやすいので、同族が両朝に分かれて戦ったかのように錯覚するのは勘違いですから、こちらもさほどの意味はありません。

ときどき、南北朝にさかのぼった先祖捜しの相談を受けることがあるのですが、その史観には宗教に近い一種独特の雰囲気がありますので、あまり近寄りたくないのが本音です。

そんし

[2010年02月22日00時49分]
お名前: カーター
川原様、書き込みを有り難うございます。確かに河原兵庫という家臣
が前田家にはいます。下記のサイトに記されています。

http://www2.pf-x.net/~matazaemon/kashin.htm

ただ。河原と川原では漢字が違いますので川原氏が河原兄弟の
末裔がどうかはわからないですね。


[2010年02月20日22時09分]
お名前: 川原
私は川原といいますが、江戸時期での先祖は加賀藩領(現在の石川県の一部と富山県の一部)の富山県高岡市です。加賀藩侍帳に1000石河原兵庫(前田利家が信長に仕える前から前田家に仕えていた譜代)とあり、現在調査中ですが河原兄弟の末裔だと称していたそうです。ちなみに加賀藩領には河原さんと川原さんはとても多く、加賀藩士河原兵庫の庶流である可能性が高いと推測されます。ここまでが私の現況調査結果ですが、何かご存知の方はみえませんでしょうか??
[2010年01月28日23時13分]
お名前: 河原克浩
今は八王子ですが出身が関西なので、帰郷したときにはどちらの神社もいってみたいと覆います。
ありがとうございました。

[2009年03月14日14時47分]
お名前: カーター
>ところで、河原兵庫助重行(よく知りませんでした)ですが、神南戦争ではどち
>らについたのでしょうか?

河原重行はこの戦いで北朝の義詮について直冬軍と対峙します。

>河原重行
>一谷は摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)の国にある。今日の戦
>場もまた摂津の中だ。国も月も、ご先祖様のあの時とまったく同じさぁ
>ね。おれもまたご先祖様と同じように、今日この場で討死にして、ご先祖
>様の高名をますま>す輝かかしいものにしていこう。そうすりゃ、冥土黄泉
>(めいどこうせん)の道の>岐(ちまた)ででくわした時に、ご先祖様もさ
>ぞかし喜んでくれるだろうぜ(涙)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/taiheiki/e04/e32s12.html

私は南北朝の時代については、NHKの大河ドラマを見ただけで良く知りませんので
上記の紹介にとどます。南北朝は本ボードのオペであられる足利市にお住まいのそ
んし殿がお詳しいです。

河原正次が湊川神社にまつられているのとは反対に源平合戦の河原兄弟は三宮神社
に祀られています。同神社内の河原霊社については下記の通りです。

http://www.geocities.jp/mzs26112/tyuoku7ko-su.html


[2009年03月08日12時12分]
お名前: 河原克浩
カーター様

もともとカーター様が熊谷市近郊の南河原村に移られ地元で名を残した河原兄弟の書き込みから始まった話に、ルーツ探しの「河原」が4年もたって書き込んだ内容に丁寧にレスいただき、恐縮いたします。これも何かの縁とご容赦ください。

丁度、ルーツ探しに感心を持ち出したときに、眼に飛び込んできた河原太郎次郎の話に、自分の姓と関係があるかどうかは別にしてロマンを感じ、丁度自分が調べていたことと何かつながりがありそうな気がして思わず発言してしまいました。あとで、他の方のレスを読んで、自分の書き込みが何か突拍子もなく恥ずかしく思えました。

ところで、河原兵庫助重行(よく知りませんでした)ですが、神南戦争ではどちらについたのでしょうか?北朝(足利)についたのであれば悲劇的ですね(武蔵の河原と、河内の河原が同祖であるという前提ですが)。というのも南朝についた、河原正次(河原城の河原弘成も楠木正成の配下。いずれも河原連の後裔)は、湊川の戦いで楠木正成とともに自決しているからです。因に、楠木正成は、その後、勝者の足利氏に悪党と呼ばれ、歴史から消し去られていました。その尊王の精神が評価された明治5年になってから神戸の湊川神社に祭神として祀られています(河原正次も)。「河原」という氏姓が歴史上に登場することはなかったのではないかと思います。

因に、私も武蔵の河原は、交野(北河内)の私市から出ているのではないかと思います。というのも、ご存知のとおり、河内から東国に移った源頼朝の父、義朝が河内源氏であり河内を基盤としていたからです(羽曳野市壷井が拠点)。河内源氏の家臣団のなかに、河内の豪族であった河原連を祖とする河原氏が組したことは十分考えられます。元々河原連も、渡来人でありながら、元々物部氏の土地であったところを分けてもらって(藤原氏からかもしれませんが)おり、天皇家には恩があったうえ、河内源氏の始祖、源頼信以降、河内国国司として朝廷から任官されていたからです。

ところで、氏名というのは、若い頃は、「どうせ明治の維新以降、氏名が必要になり、旦那寺か氏神の神主にとりあえずつけてもらったようなものだ」と考えておりました。特に「河原」なんていう姓は、九鬼、冷泉などといったルーツの明瞭な氏とちがい、淀川の川原に近いから河原とつけたんじゃないの?と考えておりました。しかし、祖母の昔話や旦那寺の古い墓石に刻まれた河原の姓を見る機会があり、江戸時代からある氏姓であることを知りました。著名な武将や公家に繋がらなくとも、どこから来たのかという関心が、特に今の歳になったからなのでしょうか、無性に知りたくなりました。しかし、旦那寺は、戦火で焼け落ちて何も残らず、また、一旦廃寺になりかけたこともあり、さらに、氏神も明治の終わりに近隣7ヶ村の祭神をまとめて合祀するようになったこともあり、なんの痕跡もなくなっていました。ここで終わり、と思っていた時に、ふと思いつきで「河原」、「野中(旧村名)」というキーワードでgoogleしたところ、羽曳野の河原城と野中寺にあたりました。もしやと思い、いろいろ調べてみると、新撰姓氏録の第二十八巻河内国諸蕃、続日本紀巻第三十、日本後記巻十二などに、「河原」の姓が見られ、さらに郷土史家の研究で渡来人を祖とする河原氏が多くすんでいたことを知りました。私の「河原」が、羽曳野の「河原」とどう関係しているかは今のところ何の資料もありませんが、わからないからこそもっと調べていたいという欲が出てきました。このことがきっかけで古代史にも興味を持つようになり、にわか古代史ファンになった次第です。

おつきあいいただきありがとうございました。
[2009年03月02日03時34分]
お名前: カーター
河原様、書き込みをありがとうございます。河原の姓の起源が河内の国にある
のではないかと言う考え方はこのボードの「私市古墳」と言うスレッドに書い
たことがあります。綾部市に私市と言う地名があり、また大阪の交野市にも私
市と言う地名があるのです。河原氏は武蔵七党の中の私市党でした。
河原氏の続日本紀にある記載と言うのは下記のことですね。

《神護景雲三年(七六九)九月丙戌【廿二】》○丙戌。左京人従八位下河原毘登
堅魚等十人。河内国人河原蔵人人成等五人。並賜姓河原連。

河原城(1331年)は下記のような記載がありました。

http://www.city.habikino.osaka.jp/info/115/bunkazai/iseki/muromati/t_
m_kawarajyo.html

羽曳野に河原城の跡が残っているようですが、この河原弘成は南北朝時代の河原
氏ですね。しかし、河内の河原姓は続日本紀(697年〜791年を記述)に記
されていると言うことは武蔵の河原太郎の姓が河内から来た可能性もあります。

一方、南北朝の時代には神南合戦(1355年)の際に河原兄弟の後裔と言われ
る河原兵庫助重行の名も出てきます。河原弘成は河内の河原氏で河原兵庫助重行
は武蔵の河原氏で河原違いだと思われますが、ルーツは同じ可能性もあります。


[2009年02月15日14時49分]
お名前: 河原克浩
私の氏の河原のルーツ探しをしているなかで、こちらのウェブにあたりました。書き込みお許し下さい。

『系図纂要』の某の部分を補完している系図で、『摂河和諸氏系図』の中に楠木正成の系図が書かれていますが、そのなかに(正成の前)に、河原権之介成信、河内丹比郡河原郷住の記載があります。この地には、現在、河原城という地名が残っています。鎌倉時代末期、楠木正成の配下にあっ た武将、河原弘成が、元弘元年(1331)、鎌倉幕府を滅ぼそうと後醍醐天皇が企くわだてた 元弘の乱の 際に、後に河原城かわらじょうと呼ばれる砦とりでを築いたと伝 えられています。河原城周辺は、現在の羽曳野市で、古くから河原連(かわはらのむらじ)など中国から渡ってきた渡来系の氏族が支配した地域であると言われています。河内国の氏族を記した河内国諸藩には河原連について、「広階連(ひろはしのむらじ)と同じき祖。陳思王植(ちんのしわうち)の後なり。」の記載が見られます。因に、陳思王植とは、三国志に登場する魏の皇帝曹操の第5子で詩人として広く知られている人です。また、続日本紀巻第三十には「河内国の人で、河原蔵人ら5人が、河原連(むらじ)の姓を天皇から賜った。」ともあります。羽曳野市のこの周辺の地名には、野、野中、野上などがあり、近隣に所在する、聖徳太子の命により蘇我馬子が建立したとされている野中寺も、一説では、河原連氏の氏寺との見方もあるようです。

余談ですが、私の本籍地は、現在の大阪市淀川区野中北一丁目ですが、江戸時代には、野中村と言われていました。氏神は野々宮といい、羽曳野の野中と関係があるのではと考えています(私の家は、江戸時代は村名主で、名字も江戸時代からありましたので、ある程度古くまで遡れるのではないかと考えています。


[2009年02月09日05時06分]
お名前: カーター
河原一族の末裔と言われる今村家(現当主榊伴夫氏)に河原一族にまつわる資料が
残されていますが、その史料は「武蔵誌」(福島東雄1734ー1802が村々を
調査して書いた未完の地誌)に所収されている「河原太郎家武家法令」です。

「不肖五常道 不怠文武勇 不忘家業勤 石之外定目之通 下々迄可申渡事 以上
治承四年庚子三月日 河原一族歴々 河原源五常直 稲村八郎正直 中村四郎・・
新村吉五郎 是ハ河原太郎家ノ武家法令也」

治承四年(1180年)とは清盛の孫にあたる安徳天皇が即位した年で、平家の没
落が始まった年であり、頼朝が伊豆で挙兵したのが治承四年の8月17日でした。
一の谷の合戦は1184年の事ですから、その4年前の一族のことを記していま
す。

また、今村家に伝わる河原家系図は次のようなものです。
源義家   八幡太郎義家
ー義綱
ー義光   新羅三郎
ー盛義
ー義信   保元平治の乱に活躍。武蔵河原郷に移住。
ー直高(太郎高直)ー盛直(次郎)

先のメッセージで紹介した「河原兄弟」の著者である三沢茂は、「その先祖を源氏
とする大胆なものであると、河原氏の血統を源氏としたい末裔の意図が見える。こ
の系図は江戸期に作られた可能性が高い。」と述べています。

[2007年05月20日11時28分]
お名前: カーター
埼玉県行田市の郷土史家による「郷土の偉人」と言う本が出ています。その中に河
原兄弟に関する章があり、源平合戦の一の谷の合戦で数万の平家軍の中にたった二
人で勇猛果敢に討ち入り、壮絶な死を遂げた河原太郎次郎のことが紹介されていま
した。その郷土史家の文章には先行研究があり、南河原村の三沢茂氏の「源平合戦
の勇士河原兄弟」南河原文化会発行と言う著作があることが紹介されていました。
さっそく女房に頼んだところ、公民館に行ったらただでもらえたとのことでした。
先週、読了した所ですが、内容は次のようになっています。

第一章: 河原兄弟とその時代背景
     保元の乱、平治の乱、平家全盛、東国の情勢、武士の生活、
     平家打倒の動き、頼朝の挙兵
第二章: 河原兄弟と生田の森先陣
     平氏の前進基地、源氏軍の進発、生田の森先陣、資料(史料か?)に
     見る河原一族、一の谷合戦場を訪ねて
第三章: 河原兄弟の史跡と建造物
     観福寺、阿弥陀三尊図像板碑、照岩寺、河原神社(南河原、児玉町
  秋山)、河原兄弟の塚(神戸)、河原霊社(神戸)

史料に見る河原一族の項では、吾妻鏡に出てくる河原三郎、河原小三郎に言及され
ており、河原兄弟には三男がいて、三郎には家を継がせるべく計ったのではないか
また、小三郎は三郎の息子ではないかとも述べています。当時、兄弟は太郎、次郎
そして息子には小次郎、小三郎とか言った名前をつけたようだと説明があります。
また、三郎とは河原兄弟の叔父である可能性もあるとも述べています。平家物語は
琵琶法師が語ったものであり、人の心を打つように扮飾しているため、平家物語の
「幼い子と妻だけを残して出陣した」と言うより、末弟を備えとして残した方が自
然な気がするとも述べています。平家物語を良く研究されていらっしゃいます。

以前、小次郎さん(次男の息子を意味するか?)から紹介があった蔭涼軒日録に見
える河原兄弟の系図についても三沢茂さんは言及されています。驚いたことに当地
の南河原には河原兄弟の末裔と言われる今村家(現当主榊伴夫氏)がいらっしゃ
り、史料が残っているらしいのです。(次号)

[2007年05月13日22時25分]
お名前: 小次郎
>カーターさま

ご多用中美里町・旧児玉郡秋山の河原神社へご案内頂き、有難うございました。

鎌倉府の滅亡時に、中澤広木氏は上杉憲実と共に京方へ参じたとの伝承が丹波に残っています。

地元にはこれと言った史料が残っておりませんが、戦国期の広木・大仏合戦によって、寺社が壊滅的な破壊をうけた為、史料が残っていないのでしょう。

文字の上だけでした理解していなかったことを、実際に現地に立って、伝承地の幾つかを車で走ってみますと、地図上で考えるより、はるかに近いことがわかりました。
鎌倉と美里の間にも寺院を建立した記録があります。鎌倉府の要人になっていましたので、中澤郷だけでなく、新田氏の所領であった場所へ一族が分散したようで、鎌倉街道沿いに越後まで痕跡らしきものが残っています。

ますます頭を悩ませそうです。
[2006年10月11日21時17分]
お名前: カーター
「承久の乱における勲功で丹波国大山荘を獲得しその地に西遷した一族がいる。
( 参考「大山村史」)中沢次郎左衛門尉基政が大山荘を拝領し、後に西遷したとい
う (史料30)

 昨日、丹波大山庄の小次郎様が来られましたので、埼玉県北部の寄居町の鉢形城
で待ち合わせし、美里町の資料館、旧児玉町秋山の河原神社をご案内しました。
 鉢形城は山内上杉氏の長尾景春により築城されたものですが、前田利家らにより
開城させられました。訪問の理由は大山庄にある城と鉢形城が良く似ており、中世
に特徴のある城であるからと言うことでした。

http://www.town.yorii.saitama.jp/kanko/kanko_page/park.html

 鉢形城の駐車場に着くと手を上げると小次郎さんも手を上げられたので、ご本人
であることがわかりました。鉢形城の資料館はすでにご覧になっておられ、いっ
しょに城の敷地内を歩きました。土手のようなものを超えると、これが土累だと説
明頂き、また土累の外側に堀があったとのこと。谷を降りて深沢川を渡ります。空
気は澄み深い緑の中で目白などの鳥の声が聞こえ、前日の嵐が嘘のように気持ちの
いい日でした。谷を登る時にリュックサックを背負った旅人に出会いました。谷の
上に上がると道路があり、年配の夫婦が歩いておられました。
 道路を渡りきると、本曲輪に着きました。右手に荒川の急流が見えます。城は荒
川の断崖絶壁の上にあるのです。川は前日までの雨で濁流となっており、これが本
当の荒川なのだなとわかりました。「荒川の上流は秩父です。秩父は和同開珎の
銅の産地で早くから開けました。秩父の両神には両神神社があり、岡山県須須木氏
発祥の地と記されています。」「やはり、東国から来たんですね」この地には薄と
言う字があり、薄をすすきと読みます。荒川の支流に薄川があります。
 本曲輪のあったところには、田山花袋の碑が立っています。田山花袋は埼玉県の
羽生市の教師の悲しい生死を綴った「田舎教師」で有名です。
 美里の資料館で美里町史を購入され、館の職員と方と美里町から旧児玉町まで
あったと言われる中澤郷についての話で盛り上がっていました。最後に児玉町の河
原神社をご案内したのですが、この神社は以前にも紹介した平家物語の河原太郎の
弟である次郎(盛直)を祀ったと言われるものです。旧児玉町の秋山地域ですが、
ここも中澤郷であったそうです。

[2006年10月08日10時45分]
お名前: カーター
そんしさん、レスをありがとうございます。入道も武士であるとのこと了解しま
した。舒明天皇の後胤についての説明もありがとうございます。日本史の教科書を
見てみたところ、舒明、皇極(斎明)の子が天智と天武です。相当古いと言いたい
のでしょうか。役所の件、了解致しました。今後も懲りずに誤りは指摘して参りま
す。
 小次郎さんもフォローありがとうございます。私市氏について調べたところ、
下記の通りでした。開化天皇の後裔と言うことですから相当古いですね。私市氏
から河原氏が出ていることがわかります。私市(きさい)村は、現在の騎西町で
す。南河原地区で、おしつ様と言う病気を直す民間信仰があるのですが、このお
しつ様の本尊は騎西町の玉敷神社にあるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【私市氏】
開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、日下部氏より別れる。
河内国交野郡私市村から地名を負つて、武蔵国埼玉郡私市村に移住したものと思
われる。私市氏一族は武蔵七党の私市党とも呼ばれ、埼玉郡北部を中心に大里郡
に分布する。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01221.htm

 私市党 (きさいとう )私市 (きさい )家盛が 武蔵守 (むさしのかみ )になっ
てやって 来(き)てはじまったといわれる。
「私市 (きさい )」は 皇后 (きさいのみや )領地 (りょうち )(天皇 (てんの
う )のおきさきの 領地 (りょうち ))を 治(おさ )める 仕事 (しごと )をす
る 人(ひと )で、皇后の 牧(まき )の管理 (かんり )もしていた。 北埼玉 (き
たさいたま )郡(ぐん )から 大里 (おおさと )郡(ぐん )中心 (ちゅうしん )。
一族 (いちぞく )には 久下 (くげ )氏(し)、成木 (なりき )氏(し)などがあ
る。
------------------------------------------------------------
 関西道路地図で調べたところ、私市は大阪府の交野市の中にありました。私市
CC(カントリークラブ)もあります。98年頃滋賀県の水口に単身で行っていま
したが、奈良まで行って交野市から信楽方面へ右折して水口に帰ったことがあり
ます。私市地区も走った可能性があります。
 私市氏は武蔵の埼玉郡に移住し、それから河原氏や久下氏となって鎌倉時代以
降に西へ移動したことになります。ご苦労様でした。
[2006年05月28日22時33分]
お名前: kojirou
播磨を研究されているサイトで河原友直の居住地が地図で表示されていました。

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/rekishi/tizu/ezu_1491.htm

[2006年05月23日14時51分]
お名前: 小次郎
 >カーターさま

ちょっと姓氏家系大辞典を確認してきました。
播磨に私市党を伝える家があります。家紋も書いてありました。
また播磨の近くに同じく私市党を伝える家があるようです。

私が答えを書いてしまうと感動が薄れるでしょうから、ご自分でご確認
下さい。河原は「カハラ」と読みます。「カワハラ」ではないようです。

「蔭涼軒日録」は続史料大成にあります。
http://webcatplus.nii.ac.jp/ 全国の図書館にある図書をここで検索で
きます。市町村の図書館は検索できませんので、市の図書館サイトで検索
してみて下さい。

大学受験の為にしか漢文は勉強しておりませんでしたので、送り仮名無し
の漢文には苦労しますが、その気になって努力するのも楽しいものです。

蔭涼軒日録は代々書き継がれたのもですが、最初書いた季瓊真蘂(読みは
わかりません)は播磨の守護赤松氏の出身です。
守護と同じ立場で河原氏を見て、「殿」と敬称をつけているのは、余程人
格を評価していたのでしょう。出家の「導師」となったことも大いに評価
されます。河原氏の「家格」が高かったことの証明でもあります。
我が家の中澤でも「殿」は全付かず、全て呼び捨てです。

文中の「江見河原」というのもあります。これは守護赤松氏の一族です。
河原氏とどのような関係なのかは存じません。

「舒明天皇の後胤」というのは久下氏が伝える系図と合致します。
久下氏の系図は兵庫県の山南町史に所収されていますので、図書館から史
料請求されましたら、入手可能です。68〜94ページに久下氏が記載さ
れています。河原氏の出自についてこれ以上のものは無いと思います。

入道の意味は「そんし」さまご指摘の通りです。

 >そんしさま

昨年以来掲示板でお世話になっていながらご挨拶の機会を得ることができま
せんで、大変失礼致しております。
河原氏については以前より「同勢」と認識しておりましたが、何分我が家の
ことを研究するだけで精一杯で、生田の森から先は全く存じませんでした。
良い機会を得させていただきましたことを、改めてお礼申し上げます。
[2006年05月22日22時46分]
お名前: そんし
鎌倉末期から室町期にかけて「入道」とは、単に頭をそって、「政治家ではないので、命令はするけれど、責任は持たない」という意思表示しただけです。北条高時などが、突然出家したもので、われもわれもと大名達が入道して、佐々木道誉のような後にバサラ大名と呼ばれる無責任政治家の代名詞ができた時代です。ですので「河原入道殿」と書かれていても、あくまでも武士であって、僧とは全然違う存在ですから勘違いしない方がいいですね。

「舒明天皇の後胤」という事は、「天智系でも天武系でもない」という意味でしょうね。とすると、源氏や平氏より由緒あるぞ!という意味でしょうか。

カーターさん、役所への誤記指摘は、必ずしも意味がないという事はありませんよ。
私は硬派ではありませんが、何度かおおやけの責任で書かれた歴史記載の誤りを指摘したことがあります。確かにほとんど(というか全部)返事が来たことはありません。
それなのにしばらくすると、ちゃんと内緒で訂正されていることが多いんですよね。
ホームページの場合でも修正されます。また史跡地などに建てられた紹介看板などは、しばらくして訪れると新品に変えられていることがあります。自分で気づいたことにしちゃうのでしょうね。別に自分の手柄だと自慢する気がないのでしたら、それで充分ですよ。
ひどいのがありましたよ。史跡の紹介看板が平然と逆さまに取り付けてあったなんてね。
「お役所仕事」なんてそんなものです。別に悪気があるわけじゃなくて、箱物行政の延長で、中身になんてたいして興味がないというだけの事です。

ところで行田市で思い出しましたが、あそこは本当は歴史的な由緒で言えば当然「忍市」になるべき市名でしたね。「おしし」じゃ語呂が悪いって理由だったのかな。だったら忍城市なんて、知恵を出せばいくらでも考えられたのにね。

[2006年05月21日19時05分]
お名前: カーター
 小次郎さん、お久しぶりです。ご紹介頂いた河原友直で検索すると朝倉尚さんと
言う人が書いた「蔭涼軒日録」と言う文が出て来て、そのなかに「河原入道殿」
(河原友直)と言う僧が出てきます。室町時代まで、河原氏は活躍していたようで
すね。播磨の国にいたとは、どのような経緯で移住したのか知りたいです。「蔭涼
軒日録」は本を入手することができるのでしょうか?
 また、舒明天皇の後胤河原太郎高直とはどう言う意味なのでしょうか?河原氏の
系図は「蔭涼軒日録」に記載されているのでしょうか?その後の河原氏の動きは不
明ですが、河原と言う苗字は残っており埼玉県には河原実業と言うガス会社があり
ます。
 南河原村は行田市と合併しました。先日行田市の広報に河原氏のことが紹介され
ていて戦国時代と紹介されていたので、戦国時代ではなく源平合戦の時代であると
メールをしたのですが、返事がありませんでした。役所と言うのは誤りを認めない
し、返事もしないですね。

[2006年05月20日18時30分]
お名前: 小次郎
 >カーターさん

蔭涼軒日録の記事を読みますと、河原氏はナント漢詩を吟じていました。
この時代歴史に名を残す有名な武将でも、文盲の人が多々あります。
友直は文武両道に優れた、知識豊かな人だったようです。

河原氏の室町期の本領は播磨(今の兵庫県南部)でした。兵庫県史の史料編
は何度か見ていますが、ちょっと記憶にないのですが、下記史料に友直の住
んでいた場所が記載されています。

長享元年9月12日(1487)
【 常徳院殿様江州(ごうしゅう 滋賀県のこと)御動座当時在陣衆着到 】
(群書類従 所収)

足利義尚(よしひさ)将軍が江州の守護六角佐々木氏が命令に従わないので
直接征伐する為に、近江国栗太郡鉤(まがり)へ出陣します。
このとき直轄軍である奉公衆が鉤へ到着した記録に、

二番衆 播磨 河原備前入道友直と記載されています。

四番衆の中には 久下新左衛門尉政光
五番衆の中には 江州 熊谷孫次郎 があります。

この時中澤氏は奉行人として京都―江州を何度も行き来しています。
中澤基重(官途不明・・北野社別奉行 カ)
中澤備前守之綱 (幕府政所奉行人)

久下・河原・中澤・熊谷 仲良くやっていたようです。
[2006年05月18日23時54分]
お名前: 小次郎
こんばんは 掲示板が復活できて良かったですね。

さて、武蔵野の河原氏ですが、生田の森で戦死した兄高直には息子があり
ませんでしたが、次郎盛直には息子がありました。
室町期の記録として第一級の相国寺の蔭涼軒日録に河原備前入道との交流
が記載されています。
その中で、(延徳4年9月6日)

午後河原備前入道殿来。吾家之系図持之来。一見之。蓋私市氏也。舒明天皇
後胤河原太郎高直・次郎盛直、高直息無。盛直ー景直ー定直ー頼直ー信直ー
元直ー祐直ー憲直ー友直。盛直九代孫備前守友直也。留袖勧以曇華并酒盃。

返り点は省略しています。

河原氏はこのころ蔭涼軒日録に良く出てきます。有名な家だったことは間違い
ありません。

源氏伝説は江戸期に作られたものでしょう。二引両の家紋も江戸期の伝承から
引いたのかもしれません。

久下・中澤・河原・熊谷は全て一流です。あわせてご研究下さいね。

今更私市氏であることを地元でご理解頂けるでしょうかね。^^:
[2006年05月04日23時03分]
お名前: 水軍丸船長
そんし殿、お久し振りです。家紋の由来のこと御教授真に仰せの通りにて、少し船旅をして見ました。足利氏の紋章(家紋)を結城合戦絵詞を永享の乱・結城合戦の絵の中に、二引き両についても見聞諸家紋や、永録年間三年(1560年)将軍足利義輝殿から毛利元就に下賜鎧直垂には桐紋がついて居りますが、又、今までは足利尊氏の画像と云われていた、馬具太刀の紋が輪違紋と見られて、家臣の武将・高師直の騎馬姿で有り得るちの判断が為されていますにも、家紋は正しく家門を誇る証であろうかと考えます。さて河原太郎・次郎の地元の伝承の二引きの謎は、足利氏と北条氏の家柄に、家名を誇ったのでしょうか?また、場合によっては、主従の関係か、又は姻戚関係を保った由縁を誇示した物か、実に奥深い感じを持っております。
[2005年12月16日10時01分]
お名前: そんし
こんにちは。丸に二引、正確には「二引両(ふたっぴきりょう)」は、正式な足利家の家紋で、足利一族を意味しております。たとえ足利氏の台頭以前から使用していたと主張してみたところで、室町時代以降明治時代に至るまで、室町将軍家の家紋である二引両は、とても格式の高い家紋とされておりましたので、他家が勝手に使用することは絶対にできない家紋でしたから、よほどの格式がなければ使用しなかったはずです。
一方、丸に一引の家紋は、通常「大中黒」と呼ばれ、新田義貞の系図ですから源氏の家紋ではありますが、足利家とは敵対する家紋。
元々親戚ですから敵対したとはいえ、あの近辺では両家系が入り交じってはおりますが(実際、その時代の評価の違いに従って時には足利家、時には新田家を名乗っていた家もありますが)、通常は両家紋が混在する家系というのは考えにくい気がします。
もちろん、ここでのお話は、南北朝よりはるか以前のお話であることは承知しておりますが、系図はその後も代々伝わってはじめて現代に伝わるもの、二引両や大中黒を、その時代の権威を無視しながら代々つたえるのは至難の業かと存じます。
ちなみに源氏のトップ源義家は三本引ですので、順位うんぬんのお話と矛盾するような気がします。
[2005年12月12日19時13分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、お久し振りです。足利氏の家紋は概ね「丸に二引き」を用いておりますね!一門でも中には河内源氏家流は丸に一引の物も有る様ですので、出自を誇る意味で使用していたのかとも。  研究四して見て下さい。
[2005年12月05日10時00分]
お名前: カーター
 水軍丸船長様、家紋の解説をどうもありがとうございます。
河原氏の○に二の字が、北条氏と同格とは嬉しいですね。足利
氏も同格と言うことでしょうか。

          カーター
[2005年12月04日22時14分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、家紋のことは誠に複雑にて、一の字・二の字・三の字など、其の原点の所以は、源氏戦勝の宴が由比ガ浜にて催され、平家との戦に戦功の有った全国の武将の宴席の順位を決めて座し、鎌倉幕府(武家政治)における貢献度合いにて、上席家門の誇りを誇示するものと云うも、今日に至っては定かではないものとも考えるが、伊予国の河野一族の「予章記」の記事には、一の字は源氏の頼朝一族、二の字は北条一門、三の字は伊予河野通信の席の前の順位だったと言い伝えられております。さすれば、丸に二の字は北条一族はそれに順じた戦功のあった家名の家柄かとも思いを馳せるのも、頼もしい感也!・・・ご参考まで。
[2005年11月20日19時41分]
お名前: カーター
 ○に二の字家紋が同じと言うことは、河原太郎と次郎が本当の兄弟であったかは
別として同族であったと考えられます。村のHPによれば南河原に伝わっている河原
氏の家紋は○に二のようです。一方、中澤氏でも一部使っている家紋もこの家紋の
ようですが、足利氏も使っていると言うことであれば、源氏の紋であった可能性も
あります。 埼玉郡の河原郷には源義信が住んだと言われています。埼玉県のHPに
記載があります。それで、河原太郎次郎は自分を源氏と考えたのかもしれません。

http://www.vill.minamikawara.saitama.jp/geinou.html
http://www.biwa.ne.jp/〜nakasawa/tanba/jitou/oyama.html
http://www.pref.saitama.lg.jp/A02/BN13/gyouda/kyoutuu/midokoro/minamika/minamika.html

 本日、再度熊谷の県立図書館と訪問し、児玉町史の民俗編で河原神社の記述を調
べました。中澤郷秋山の河原神社は、河原次郎盛直(弟)を祀っているとのことで
埼玉郡の河原郷出身であって秋山村の領主であったと書いてあります。それで、昨
日の老人の話は河原次郎太郎と順序が逆になったと思われます。
 一方、美里町史によると中澤の中はこの地の那珂郡の那珂が中へ変ったものであ
るとのことです。那珂郡出身で大山へ移動した中沢氏は、支配者の河原氏とも連携
も保ちながら活動した可能性があります。
 ところで、村史のない南河原ですが行田市には北河原も属し、行田市史というの
がちゃんとあります。それによると、吾妻鏡には頼朝上洛のお供の中に河原小三郎
の名が見えるそうです。また、太平記の神南合戦の事の条に河原兵庫助重行の名が
見え、先祖の河原太郎、次郎の名に恥じることはできないとして、「重行同じく討
ち死にして弥先祖の高名・・・・と数万人の敵の中へ唯一騎懸け入って、終に討ち
死にしけるこそ哀れなれ。」とあるそうです。
 太平記の話題となるとそんし様のお目見えでしょうか?

                カーター

[2005年11月20日18時35分]
お名前: カーター
 水軍丸船長様、励ましのお言葉ありがとうございます。田舎の貧乏侍のことを書
いただけだと思っておりましたが、水軍丸船長や小次郎様より思いもかけないレス
を頂き感謝しています。お陰様で自分でも予想もしなかった展開となり、週末も充
実している次第です。
 今日は、妻を連れて再度児玉町の秋山地区へ車を走らせました。児玉町の河原神
社の大体の位置を確認してから出発したのですが、近くへ来てから良くわからない
ため90歳に近いと見える男性に尋ねたところ、「秋山の河原神社は右へ回って火
の見があるから、その火の見の右だ。」「南河原から来たのです。」と言うと、老
人は「そうかそうか」と言ってほほんでいました。妻に火の見とは何かと聞くと、
火の見櫓(やぐら)のことだと言うので、そのまま走ると櫓が見え右に神社があり
ました。
 門には河原神社と書いてありました。神社の境内の中はどこにもあるような戦没
者の供養、天皇関連の碑などがあるだけでした。本堂には鍵がかかっているため、
中を見ることはできませんでした。河原太郎次郎の文字はどこにもありませんでし
た。そこで、近くに軽トラックで走って来た年配の人(70歳くらい)に尋ねたと
次のようでした。
「南河原から来たのですが、この神社は河原兄弟を祀っているのですね。南河原に
も河原神社がありますが、なぜここにもあるのか理由をご存じでしょうか?」
「ああ、河原次郎太郎(順序を間違えていた)を祀っているのは知っている。あち
らとこちらも家紋が同じだと聞いている。あちらの河原神社が本家なのだな。南河
原には以前行ったことがある。・・・・でも、・・・なぜこちらにもあるのかはわ
からない。」
 なぜ、ここにあるのかと言う理由をしばらく考えておられたのすが、どうしても
理由がわからないと言うようでした。家紋が同じと言う事実を知ることができたの
で、お礼を述べてその場を離れました。以前、水軍丸船長様に南河原の家紋の意味
を聞かれましたが、村役場にメールをしたのですが返事は来ませんでした。残念な
がら、この村の村史と言うのが無いのです。再度、児玉町史を調べてみたいと考え
ています。
                   カーター

[2005年11月19日18時47分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、ご案内のHPを拝見・・河原兄弟の墓碑見せて頂きました。嘗て源平雌雄口火を切った戦場にて、語り継がれる、草鞋装束にても忠義の兵(つわもの)歴史の片隅に夢の跡とのみ葬るは誠に不憫なる心持也。是非、巷の陽のあたる御仁よりは、我が庵の近く屋島の合戦の佐藤兄弟の戦振りにも劣らぬ語り草に、思いを寄せるは、吾のみならんか?今後の行く末に光明を期待します・・フルスロットル・面舵一杯の感也。
[2005年11月14日18時27分]
お名前: カーター
 河原兄弟の墓が神戸にあるそうです。平野歴史クラブと
言う神戸の人達がHPを作っているようです。

http://kobe-genpei.jp/heritage/h06_01.html

          カーター
[2005年11月13日15時58分]
お名前: カーター
 今日は風もなく天気が良かったので昼から熊谷方面に散歩に出かけ帰りに南河原
村の観福寺に行きました。この寺には鎌倉時代中期に立てられた石碑があります。
江戸時代の「新編武蔵風土記稿」に河原太郎次郎の供養塔であると伝えられていま
すが、時代が違うため真偽のほどは明らかでないと言われています。
 梵語(キリーク文字?)で書かれているそうですが、この梵語と言うのは仏教と
関連している様ですが、私は良く知りません。その他、河原太郎次郎で検索したと
ころ下記のようにゆかりのあるものが出て来ました。神戸では河原太郎次郎は有名
なのですね。村民もびっくりです。

                    カーター

南河原石塔婆
http://www.vill.minamikawara.saitama.jp/sekitouba.html

三宮神社
http://www013.upp.so-net.ne.jp/rekisikaido/sanyousub07.html

河原煎餅
http://www.kameido-honke.co.jp/senbei/index.html

小野八幡神社
http://kobe-genpei.jp/heritage/h06_06.html
[2005年11月13日15時38分]
お名前: カーター
 昨日、行田市桜町にある長久寺に行ってみました。普通のお寺です。戦没者慰霊
や功労者の業績などが、石の板に記されたものが建っています。中澤との関係のも
のは残念ながらありませんでした。お寺の本堂に入って住職に尋ねないとわからな
いことでしょう。墓地へ行ってみたら、立派な墓で「秋山氏」と言うのがありまし
た。江戸時代から続く古い家のようです。しかし、児玉町の秋山との関連は不明です。
 ところで、亀岡の河原ですが、丹波国分寺跡の近くに河原林、河原尻(県道405号添い)と言う地名が残っていますね。馬堀は、関西道路地図にはうまほり
と平仮名で記してありますが、人見の地名は見えませんでした。人見をネットと検
索したところ、下記の通りです。人見の地名は、熊谷市の隣の深谷市にありますが
寄居町や美里町に近く現在の猪俣に近いです。

>埼玉県 教育委員会は、 埼玉県 文化財保護条例の規定により、県の区域内に
>存する有形 文化財、無形の民俗文化財、記念物等のうち県に ... 人見氏は武
>蔵七党の一つ猪俣党 に属する河匂政経(かわにまさつね)がこの地に住ん
>で 人見 六郎と名乗ったのに始まる。 ...
 
                     カーター
[2005年11月13日10時15分]
お名前: 小次郎
>カーターさま

北河原の照岩寺レポート拝見しました。

>「さあ、わかりませんね。おじいさんなら知っているかも。」
> と全く関心がないと

私も中澤氏が関係していた寺社仏閣へ何度か訪ねておりますが、
一度も史学的な反応はありません。

「私は宗教家であって史学者ではありません」
というような答えが殆どです。酷いのになりますと、日本史の通史
に書かれている、自分が生まれ育った寺院のことでさえも知らない
、また知ろうという努力もしない・・というのが現実のようです。

河原氏に関しては平家物語の後どうなったのか、吾妻鏡に出てくる
河原兵衛尉以降のことが史学的にわからないようです。
(私の勉強不足だけかもしれませんが)

丹波国桑田郡馬堀、現在の京都府亀岡市馬堀に、河原・人見・中澤・
中川の4氏が独自の土地支配権をもち、また、4氏が一箇所に纏まっ
て、各自が一族を祀る小社を独自に持ち、現在に至っています。
人見氏は室町期にも文書に見えます。武蔵国に人見という地名が残っ
ていますね。興味深い場所です。中川氏についてはわかりません。

先日書きました、中澤郷が行田市付近まで・・・というのを再度確認
しようと再度図書館へいって史料をコピーしてまいりました。

/--------------------------------------------------------------/
永正12年8月の墨蹟銘がある行田市長久寺絹本十二天画像軸裏書に
「東寺西院末葉、武州那珂郡中澤郷秋山村宝光寺」とある。
/--------------------------------------------------------------/
「角川書店 埼玉県の地名」

宝光寺の画像がなぜ長久寺に来たのかは不明です。長久寺は江戸期に
再建されているようですから、そのときに宝光寺から持ってきたのだ
と推測できます。

当時の支配者が何の関係もないのに、秋山の宝光寺の寺宝を持ってくる
ことは考えにくいですし、やはり寺を再建したころ、地域的に繋がりが
あったのでしょう。
現在行政が線引きする範囲は全く無視してくださいね。

[2005年11月08日23時26分]
お名前: カーター
本日、行田市北河原の照岩寺に行ってみました。寺内は、誰も訪問する人はおら
ず、年配の女性が畑仕事をしていました。寺の本堂へは、鍵がかかっていて入れま
せん。そこで、裏をのぞいてみましたが、檀家の人のものと思われる墓があるだけ
だと思っておりましたが、何と御影石の河原兄弟の供養塔がありました。墓の裏に
は、河原太郎、次郎の二名の名が記載され源平合戦で討ち死にしたと書かれていま
した。供養塔は新らしくまだ10年も経っていないように見えます。その供養塔の
隣には、古い石の塔が置いてあり昔の供養塔のように見えましたが、古いため字は
判読できませんでした。
 埼玉県のHPで写真が紹介されていた、河原次郎盛直の位牌らしいものもありまし
たが、書いてある字からは河原の文字は読めず、貧しかった人を供養すると言うよ
うな内容が書いてありました。
 若い(とは言っても50歳くらい)の女性が来られたので、あいさつをして「河
原太郎次郎の位牌があると聞きましたが?」と尋ねても、「さあ、わかりませんね。
おじいさんなら知っているかも。」と全く関心がないと言う感じでした。寺に
お嫁さんで来られたのなら、興味はないことでしょう。

                  カーター

[2005年11月05日22時17分]
お名前: 小次郎
>カーターさま

> また、児玉町史には中沢氏について、武蔵七党には属さない武士であったらしく
>系譜も実態も明らかでなく「吾妻鏡」に見える中沢次郎、十郎の名が武蔵出身の者
>か不明であると述べています。

児玉町史がかかれましたのは大山村史1990年ですので、まだ建治元年5月(1275)
の「造六条八幡宮用途支配事」(以下六条八幡史料)は知られておりませんでした。
(平成4年 1994年出版)

六条八幡史料は寄進者を「鎌倉中」・「在京」・「国別」と分け 氏名を記録して
おります。

丹波大山に残る壱岐守信明譲り状に書かれた武蔵国中澤郷と吾妻鏡、東寺文書、近衛
家文書、仁和寺文書、六条八幡史料とで、現在なお「不明だ」という学者は少ないの
ではないかと思います。

中澤郷がどれだけの範囲であったのか今は知るすべもございませんが、六条八幡史料
に記載されている84名が当時武蔵国で鎌倉幕府から正式に領知を認めたれた人々と
思ってほぼ間違いないのではないと思います。
(氏名の中には 西條人々 5貫文 というような記載もあります)

河原神社については秋山のことしか知識はございませんでしたが、行田市、河原村に
もあることは存じておりました。
本社と分社という関係かな?という程度しか知識はございませんので、行田市付近ま
で・・という表現を致しておりました。ここは考察が不十分でしたね。

三宮神社の河原霊社については知識がございませんでした。近世になって誰かが
建てたのでしょうね。「瓦せんべい」は存じておりましたが、いわれは初耳です。^^;

照岩寺に河原次郎盛直の位牌がある・・これは興味を引きますね。
レポートを楽しみに待っております。


[2005年11月02日21時08分]
お名前: カーター
先のメッセージで下記が抜けていましたので、追加します。
------------------------------------------------------------------------------------------------------
 今日、車で児玉町の秋山まで走ってみました。走った道は、次のようで武蔵武士
の名を多く残しています。車で片道1時間程度。

南河原 ー 久下 ー 熊谷  ー 桜沢 ー 猪俣 
ー 広木(美里町) ー 秋山(児玉町旧中澤郷内)

[2005年10月30日21時26分]
お名前: カーター

 中澤郷であったと言う秋山と言う地名は確かにありました。家の住所を見ると、
児玉町秋山・・番地となっているため現在は中澤の名前は残っていません。秋山の
地域は普通の住宅街で川も流れておりのどかな場所です。

 帰ってから、もう一度児玉町のHPを見て観光案内、児玉町の歴史も見てみました
が河原神社の文字はみあたりませんでした。それで、最後の手段で河原神社と入力
すると驚いたことに児玉町の秋山に河原神社があると記載してありました。埼玉県
のHPで北埼の人物と言うコーナーに河原兄弟が紹介されていますが、その最後のと
ころに秋山の河原神社の紹介があるのです。下記の通り引用しますが、詳細は下記
のアドレスを参照下さい。

--------------------------------------------------------------------
また、行田市北河原の照岩寺に河原次郎盛直の位牌が安置され、児玉町秋山の河原
神社は河原太郎高直が祭神として祀られている。更に神戸市三宮にある三宮神社本
殿横には河原霊社がある。なお、一説に神戸名物の瓦せんべいは、この河原兄弟に
ちなんだものだといわれている。
----------------------------------------------------------
http://www.pref.saitama.lg.jp/A02/BN13/gyouda/jinbutu/jinbutu.html

次回は、事前に児玉町の地図を購入し事前に調べてから秋山の河原神社を訪問し
たいと思います。南河原の河原神社には何のゆかりも記載がなく、ただ伊勢神宮参
拝記念だのとかまた金を出した人の名前が記載してあるだけで退屈です。また、北
河原の照岩寺は歩いて行けますので、来週にも訪問しレポートします。

 小次郎様は、この二つの河原神社を混同され児玉町と南河原村、行田市といずれ
も中澤郷だとお考えになったのでしょうか?しかし、なぜ中澤郷秋山の河原神社に
河原太郎が祭神として祀られているのでしょうか?何か関係でもあったのでしょう
か?

 神戸の三宮神社に河原霊社があるとは全くの驚きです。むかし、神戸に住んでい
たことがありますので、関西へ行くことがあったら三宮神社を訪問して見たいです。
これは一冊の本がかけるかもしれませんね。南河原村は来年1月に行田市と合併し
ますが、村民がこんな話を聞いたら全くおどろくことでしょう。

                       カーター

[2005年10月30日18時03分]
お名前: カーター
 小次郎様、お待たせしました。ようやく中澤郷の位置がわかりました。中澤郷は
当時の那珂郡に位置し、現在の児玉郡の児玉町と美里町とにまたがっています。熊
谷市の県立図書館で美里町史、児玉町史を調べた結果です。児玉町史には中世の児
玉地方と言う地図が巻末にあり、下記の土地を当時の中澤氏が支配していたらしい
のです。中沢氏は廣木郷も支配していたそうです。
  中澤郷秋山村(現児玉町)、廣木郷秋山村(現児玉町)
  中澤郷和田村(現美里町)
 また、児玉町史には中沢氏について、武蔵七党には属さない武士であったらしく
系譜も実態も明らかでなく「吾妻鏡」に見える中沢次郎、十郎の名が武蔵出身の者
か不明であると述べています。引用すると下記の通りです。

「承久の乱における勲功で丹波国大山荘を獲得しその地に西遷した一族がいる。(
参考「大山村史」)中沢次郎左衛門尉基政が大山荘を拝領し、後に西遷したという
(史料30)。以後、大山荘での中沢氏(主に基の字を通字する一族)の活躍は東
寺百合文書中にその名が多く見られる。また丹波国弥勒寺別院の地頭となった中沢
氏(主に綱の字を通字とする一族で、室町時代の奉行人となる)がいる。この大山荘の地頭となった中沢氏は武蔵国中沢郷内和田村(史料237)を本貫地とする東
国御家人で、その地で活躍するが、関東にも中沢氏は残り行動する者もいる。」

 この中澤郷には現在河輪神社と言うのがあるようで、河原神社とは関係がないようです。大山荘を支配したご先祖の故地が明らかとなりました。地図でもう一度児玉町の秋山地区をご確認頂きたくお願いします。道路地図にも秋山はのっています。

                   カーター

[2005年10月30日13時30分]
お名前: 小次郎
追加です。

カーターさん wrote

>中澤郷は、南河原村にあったようには見えないです。

下記投稿のように、中澤郷の範囲は広いですので、中澤郷の中に
河原村がある・・とお考え下さい。

小字が残っている場所は一族が居住していたでしょうが、どこが
本拠であったかは不明です。

すみません ミスタイプがございました。

[2005年10月29日19時57分]

>壽永に源範頼に従って一の谷の戦いに有名を馳せた河原六
>郎兄弟を祠っている。

壽永に源範頼に従って一の谷の戦いに有名を馳せた河原太
郎兄弟を祠っている。

>大山地頭を長澤氏とするHPを書かれている方がおられますが、私が
>認めていません。

大山地頭を長澤氏とするHPを書かれている方がおられますが、私は
認めていません。

[2005年10月25日22時53分]

>久下氏は源満仲の子を養子に迎えて源氏と称したともありますが、南北朝
>期の久下重元軍忠状では、私(カ) 重元と記載してあり、前掲の久下氏
>由緒書にも私氏であると記載してあります。

久下氏は源満仲の子を養子に迎えて源氏と称したともありますが、南北朝
期の久下重基軍忠状では、私(カ) 重基と記載してあり、前掲の久下氏
由緒書にも私氏であると記載してあります。
[2005年10月29日22時40分]
お名前: 小次郎
>カーターさま

図書館お調べになられましたが、中澤郷がわからなかったよう
ですね。
下記は昭和41年に大山村史編纂の裏方をされました、郷土史家
の中澤栄一氏(故人)が、私的に書かれたものです。
公開しておりませんが、中澤郷を説明するサイトが他にありません
ことと、カーターさんが中澤郷にお住まいですので、私の一存で
書かせて頂きます。

/-------------------------------------------------------------/
武蔵国中澤郷

大山の伝承では、中澤氏の出身を、武蔵国中澤郷とする。東寺文書は
承久の乱後(1220)丹波国大山庄の地頭職に新補せられた中澤小次郎
基政の名を伝えているが、吾妻鑑は遡って建久元年(1190)頼朝が、鎌
倉幕府構成後始めて上洛した十一月七日の行列の中、先陣畠山重忠の
随兵百八十騎中に中澤兵衛尉のあることを、更に、正治元年(1199)五
月、鎌倉浜で火災の類焼に逢った御家人中澤兵衛尉のあった事を記し
ている。
そして明徳年の信明譲り状は武蔵国中澤郷と多胡庄と関東に二箇所に
伝家の領地のあることを記しており、これ等によって大山の伝承が正
しく、他のすべての伝承の誤りを訂している
中澤郷は和名抄に武蔵国那珂郡に在り、郷内には甘粕、木部、駒衣、
広木、秋山、小平、猪股の七村があったと謂われるが、那珂郡は後、
児玉郡に併合せられ、これ等の各村は殆んど埼玉県児玉郡秋平村、松
久村、美里村等の大字として見られ、秋平村秋山にはその1480番地に
小字中澤(ナカサハ)、俗に堀内と謂われるところが残っている。
これ等中澤郷の場所は、鉄道八王子、高崎線、児玉町の南方、関東平野
が山地に移ろうとする兵埠地で、しかも秩父渓谷の入口に当たっている。
右の信明譲り状面中の中澤郷の所領は和田村とあるが、児玉郡美里村大
字駒衣には小字和田がある。埼玉県郡村誌によると、小字和田について、
新田前(略)、毘沙門山(略)、新堀(略)、和田、・・・村の北方本
庄往還の西に在り、東西三町十一間、南北一町三十九間とあると言う。
同じ譲り状中の多胡庄は群馬県多野郡多胡村、吉井村一体の地を擬せら
れており、和銅年間外来人を入植せしめた記念碑、即ち多胡碑を以って
有名な所であり、又、木曽義仲の父、多胡先生義賢所縁の地としても聞
こえている。領地今泉は、いま吉井町鍛冶屋町の小字に指摘する事が出来る。
中澤郷、多胡庄は共に関東平野の西北隅にあり、平野の先進地帯として奥
州、信州に通ずる交通要衛の地にあたり、共に所謂鎌倉街道に沿い、直距
二十キロメートル内外のところに在る。
小字中澤のある秋平村秋山には安永年間に六百年祭を修したとする村社河
原神社があり、壽永に源範頼に従って一の谷の戦いに有名を馳せた河原六
郎兄弟を祠っている。そしてその氏子細見氏は家紋としてΘ(丸の中に一
つ引き)を伝え、源氏所縁を語っている。
譲り状の表示では、中澤郷と多胡庄が相違している事から、多胡庄が更に
中澤郷の故地であったかとも察せられるが、今では推定の限りでもなく、
別の資料を待たねばなるまい。
伝承の一つが、関東より大山への中継基地として、京都府船井郡本梅村神
尾山をとっておるのは、大山中澤氏の東丹波への関係を微かに伝えておる
のであろう。 又、出身を越中国長澤村とするのは、中澤氏を著名な土岐
長澤氏に結ぼうとする作為であると断ぜられる。
幸いにして大山中澤氏は信明譲り状の所持により、武蔵国中澤郷と中澤氏
をも失わなかったが、他の伝承、上野国、秩父等も誤りではなく、遡れる
限りに於て大山中澤氏は関東平野西北隅につながりを持つ。

/------------------------------------------------------------------/

大山地頭を長澤氏とするHPを書かれている方がおられますが、私が認めて
いません。足立氏を源義経の後胤に結びつける為に、信用すべきでない
丹波長澤氏伝承を結びつけておられるようです。
ご本人が拙宅へお訪ねになったときに、義経後胤説は信用すべきでないと
申し上げておいたのですが・・・。残念です。

その他で出てくる丹波中澤氏のサイトは私が書いているものです。
上記文章は載せておりません。

[2005年10月29日19時57分]
お名前: カーター
 大山の小次郎様、中澤郷についての詳しいご説明をありがとうございます。昨日
埼玉の道路地図と児玉町のHPの中の字を調べてみたのですが、中澤と言う字はあり
ませんでした。
 今朝、私立図書館へ行って埼玉県史を見たところ、西へ異動した武蔵武士の章で
児玉郡の中澤氏が丹波の国の大山荘へ移住したと書いてありました。埼玉県史の中
の武蔵武士の地図には河原、熊谷、久下、榛澤と言った地名が記されていましたが
中澤は探したのですが載っていませんでした。埼玉の地名と言う本は私立図書館で
あるためがありませんでした。

>中澤郷とは現在の埼玉県児玉郡美里町、行田市付近のこととされています。
>そして、ご存知の河原神社は中澤郷の中にあります。

 児玉郡の中澤氏と河原氏とが関係があったと言うご見解ですが、児玉郡と河原氏
のいた埼玉郡とはかなり離れております。美里町と行田市とは地図を見てもわかる
ようにかなり離れています。美里町のHPから明治以来いろいろな小さな村が合併し
て美里町になったのがわかります。明治時代の村々の名前を見えても中澤と言う郷
はありませんでした。また、河原神社は私の家から徒歩で10分のところにありま
すし、現在の南河原村字南河原に位置しております。中澤郷は、南河原村にあった
ようには見えないです。

 しかし、インターネットで武蔵国中澤郷で検索するとたくさん出て来ますし、そ
れによると菅谷(現嵐山町)から北西に2ー30キロに地点に中澤郷があったと主
張されている人がいます。そのあたりは美里町です。もし、中澤郷の現在の町名と
字をご存じでしたら、ご教示頂きたくお願いいたします。

                        カーター


[2005年10月29日19時05分]
お名前: 小次郎
>カーターさま

源平合戦東寺の武蔵国を思い浮かべることは難しいですから、河原氏
が熊谷直実の家臣と思われたのは、ごく自然なことだと思います。

私が持っている史料に、建治元年5月(1275)の「造六条八幡宮用途支配事」
があります。
荒廃した京都六条八幡宮を造営するめに、鎌倉幕府関係者が勧進に応じた名簿
を元に、室町時代に書き写されたもので、京都醍醐寺に現存しております。

武蔵国では84名が総額584貫の勧進に応じ、その中に

[前略]
久下権守跡 10貫文 中澤三郎跡 8貫文 同後家跡 5貫文
熊谷三郎入道跡 6貫文 別府左衛門尉跡 5貫文 
別府刑部丞跡 3貫文
[以下略」

「跡」というのは源平合戦の時に荒廃したのを再建するために、幕府へ度勧進
しており、その名簿に基づいて、再度勧進したとのかと思われます。(私見)

武蔵国で中澤氏の13貫文(三郎・後家)を超える寄進者は7人だけです。
この史料で「後家」の所領が確認できるのは、中澤氏だけであり、史学上
注目に値します。

[国立歴史民族博物館研究報告 第45集」 平成4年12月
ー史料紹介 「六条八幡宮造営注文について」− 

残念ながら河原氏の名前は記載されていません。
この時点で御家人とは認められていなかったのでしょう。

西遷した御家人については、埼玉県史の本編に論説があったと思います。
丹波へ移住したあとのことは、中澤氏については兵庫県史、丹南町史(兵庫
県)、大山村史(兵庫県)の郷土史に判り易く書かれています。
映像では、篠山市ビデオライブラリー「大山荘を訪ねて」があります。
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/video/osusume/ooyama_hall.wmv
(篠山市に合併する前の、兵庫県西紀町・丹南町教育委員会)

中澤郷については 「埼玉県の地名」という書籍を見ればわかります。
大きな図書館できたら、必ず備えてあるはずです。

今谷明氏・桑山浩然氏による室町幕府奉行人奉書の研究は欠かすことは
出来ません。
室町幕府幕府奉行人奉書 上下巻 思文閣出版 今谷明
室町幕府引付史料集成 上下巻 近藤出版社 桑山浩然
他、大日本史料を参照してください。

室町時代政治史論 塙書房 2005  今谷明
室町幕府解体過程の研究  岩波書店  今谷明
他にも多くの学者が研究されていますので、今谷氏の本から参考文献を
探してみられたらよいでしょう。
どの図書館にあるかは http://webcatplus.nii.ac.jp/ で検索できます。

久下氏は源満仲の子を養子に迎えて源氏と称したともありますが、南北朝
期の久下重元軍忠状では、私(カ) 重元と記載してあり、前掲の久下氏
由緒書にも私氏であると記載してあります。

中澤については、鎌倉期に中澤三郎左衛門尉源基員と署名しており、代々
源氏を称します。訴訟書類で自称しています。

武蔵国中澤郷・・どうぞ地元の歴史を大事にしてくださいね。ではでは。

[2005年10月25日22時53分]
お名前: カーター
 小次郎@丹波大山様、武蔵武士の丹波での事情をご紹介頂き
頂きありがとうございます。河原氏は、私の住んでいる村の出
らしいですがその後の事情については知りません。
 河原氏が熊谷直実の家来かと思ったのは、現在の熊谷市が大
きくなっているため、昔も熊谷市の勢力が大きかったのかと錯
覚をおこしたためです。現代の価値観が歴史に持ち込まれて間
違いをおこした例です。
 講談社の「平家物語巻9」によれば、河原氏は私市党に属す
ると書いてあります。私市は「きさいち」と読み、現在では騎
西(町)と呼ばれているようです。
 丹波の国の事情については良く知りませんので、別途調べて
また書きたいと思います。

                   カーター

[2005年10月23日21時28分]
お名前: 小次郎
今晩は 始めまして・・@丹波大山地頭・室町幕府奉行人跡です。

河原太郎次郎という私にとって興味深い話題がありましたので、
少しレスさせてください。

>カーターさん
> 河原太郎次郎は、武蔵の大里郡(埼玉県北部)の源氏の武将熊谷直
>実の家来であったと思われますが、熊谷直実の名が熊谷市となり河原
>太郎次郎の名は現在行田市の北河原地区、そして現在の南河原村(北
>埼玉郡)として残っております。

丹波国多紀郡大山庄の地頭、中澤氏に明徳元年の譲り状が現存しており、
そのなかで、武蔵国中澤郷の領地が相続されています。
中澤郷とは現在の埼玉県児玉郡美里町、行田市付近のこととされています。
そして、ご存知の河原神社は中澤郷の中にあります。

/--------------------- 他に書いたものから -----------------------/
平家物語において、河原太郎、次郎兄弟が三草戦で奮迅の働きをする前に、
「大名は家人の功名によって、自ら手を下さずとも名誉する」という下り
があるが、河原氏を中澤郷内に神社を建てて祀っていることを考えると、
河原の属した大名とは中澤のことだったのだろう。しかし後年数人の郎党
を従え、中澤兵衛尉と並んで晴れの上洛をする河原兵衛尉を吾妻鏡にみる
ことから、河原氏もまた中澤の一族であったと考えるのが妥当かと思う。
/------------------------------------------------------------------/

久下氏が今に伝える系図は弘治元年(1555)の編纂であり、極めて
信憑性の高いものであるが、その中で、久下氏は頼朝が旗上げした頃の「
直光・重光・実光」の祖父の頃に中澤を称したとの伝承がある。
また、室町後期、永正9年の久下政光遺言状案、弘治3年の久下重像由緒
書には、
「久下・村岡・中澤・川原(ママ)・熊谷一流なり、但子細あり氏紋は替
わるなり」
とあることから、河原氏は久下氏また中澤の一族郎党であった考えるのが
妥当かと思います。

久下氏は中世文書を持ち越しておられます。兵庫県史史料編に採取されて
います。
また、中澤氏は落城と共に文書を焼失していますが、大山庄が東寺の庄園
であったことから東寺文書に沢山出てきますし、近衛家文書、仁和寺文書、
において鎌倉期に地頭として丹波へ入部してきたころの事がわかります。
南北朝・室町・戦国とかけて、室町幕府奉行人としても活躍しました。
日本法制史の観点からも考察されています。

興味深いのは丹波国桑田郡に河原氏があり、その地域に中澤氏の支流もあり
ます。史料はないようですが、江戸期に河原氏は郷士格を与えられていた
ようですので、室町期には武士であったでしょう。今後史料の発見があれば
よいのですが・・・。

熊谷・久下・河原と地元で語り継がれていますが、なぜ中澤が忘れられた
ままなのか不思議です。室町時代は奉行人として、史料も豊富ですし、大
山庄については沢山の論文が発表されており、下地中分については日本の
歴史の通史にも描かれているというのに、どうも理解できないです。

ではこのへんで・・・ありがとうございました。
[2005年10月22日23時21分]
お名前: 水軍丸船長
ヘイさま、お久し振りです。さてカーターさまから始まった河原太郎次郎の為お話しからNHK「義経」の話が絡みまして徐々に水軍史の様相に成って参りました。此の侭続けるも良し、又新たに、陸の関東武士から伊予を始めとする水軍史の展望に新たなテーマで、私船長の一族伝承の資料「史料予章記(龍隠寺・長福寺写本)河野家家譜・自伝系図等)を踏まえて、越智姓の所以・河野氏の出自等々について順次お話を挿せて頂きますので、少しお時間を置き、手許史料の再検を済ませて、新たに出航いたしますので宜しくお付き合いください。
[2005年09月16日06時13分]
お名前: ヘイ
>高知でもかなり多いんじゃないでしょうかね。

訂正です。越智と武智が、どういうわけか、ごっちゃになってました。
ここのところは無視してください。


[2005年09月15日23時42分]
お名前: ヘイ
越智氏は、承平・天慶の乱のうち天慶の乱で藤原純友の討伐に加わったのが、越智用忠(もちただ)。純友平定の功で朝廷から叙位され、北中部伊予の押領使(おうりょうし)の役目を授かる。これが河野水軍の濫觴(らんしょう、起源)ということらしいです。

よって、越智氏の地元は愛媛ということになりましょうか。

愛媛だけではなく、高知でもかなり多いんじゃないでしょうかね。


[2005年09月15日23時30分]
お名前: カーター
 今から30年前、地方から来た集合体がありました。その中に四国の
今治の役場に就職した越智(エッチでなくオチと読む)と言う変った名
前の人がいました。越智は四国の姓なのですかね。


[2005年09月15日21時55分]
お名前: 水軍丸船長
ヘイさま、ご案内真に恐縮。色々とお話が弾んでおりますな!特に河野を『こうの』と『かわの』と各所にて読みを持って、名乗る所以の交信は面白い感也。此れ等を含み北から南まで御先祖の由来を伊予之越智姓河野氏に辿るは、船長、機会とテーマに寄っては伺う時も有ろうかと存じます。ご案内感謝!
[2005年09月11日18時35分]
お名前: ヘイ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1110779912/l50

既にご存知なのかもしれませんが、河野、越智氏に関するBBSです。


[2005年09月11日17時58分]
お名前: 水軍丸船長
赤間の関・壇ノ浦にいよいよ辿り着くも、史実とドラマのギャップを放送内容・思考上、矛盾と評価の狭間で難儀して居ります。対極的には平家物語・吾妻鏡の対比に史実を探る道理也。
片や物語・方や戦記史の結われと思えば、自ずと差違を感じるを否めず、益した大河ドラマとなれば、往々にして原作者と脚本家と演出にて、史実と掛け離れる場面・描写が多く読み取れるのは、止もう得ないと考える。が、しかし、NHK大河ドラマともなれば、今少し歴史学者の検証、史料の収集と相乗的検証を重ねて、過去・現在・未来に繋がる歴史認識の重要性を鑑み、慎重に監修・描写に信憑性を求めなければ成らないのでは無いでしょうか?
或るサイトの厳しいマスターが曰く『一次史料が無ければ歴史の史実を問うはおこがましい』とのご意見が、原点なのか、然もあらねば、総合的検証史料の積み重ねによる確率を見極め、史実に限りなく近づける推測等もを集約して、限りなく史実に沿う描写に重きを置き、視聴者に訴え・述べる歴史学術的ストーリーに可能性を求めるべきか、悪までもフィクションとして最初から表示すべきか?悩む所です。今後の大河ドラマは江戸時代に近づくにつけ、一次史料も多く整い、信憑性も自ずと高まるは良しとして、この度の『義経』は後味が悪い感なり。如何に?
[2005年09月01日09時54分]
お名前: 水軍丸船長
広嗣さま、義経殿も屋島の合戦を勝利し、鞆浦の至り、イヨイヨ下関壇ノ浦の戦に近づく様子也
瀬戸内水軍河野通信の話はチョコット出ただけでした。残念無念の感也!
三浦水軍の当主大介義明殿は、頼朝挙兵の企てを聞くに際し、石橋山合戦にて、『吾は源家累代の家人たり。幸いにして貴種再興の秋に逢う』と吾妻鏡に見て取れますね!これに一番恐れたのは平家方の大庭景親殿と聞く、これらに房総の千葉介常胤氏や上総介広常が加われば敗色が伺われる状況だったが何とか防いだ経緯を記す。衣笠合戦にては畠山氏との鎌倉由比ガ浜のにも絡むのも、挿すが東国水軍の雄と感じます。吾等瀬戸内水軍の河野氏も源氏とは縁故の内にて、伊予の国にその後多大な勢力を誇るも、通信殿の後・承久の乱以降難儀が続いたのです!その後実質、お家再興は通有殿の活躍を待たなければ成りませんでした。歴史は流れるままに兵共の夢之跡の感也!合掌。
[2005年08月23日11時00分]
お名前: 広嗣
 先日のオフ会で改めて感じたのは、私の住む横浜に如何に坂が多いかという点です。熊谷などの今回話題になっている関東平野は、文字通りの平野で、帰りの東武伊勢崎線は、だだっ広い平野を走っているという印象でした。こうした地形の違いが、片や熊谷直実や河原太郎・次郎、後の足利尊氏や新田氏を生んだのに対し、現在の横浜市に名立たる武将が生まれなかった背景になっているのでしょう。

 横浜市はプレートテクトニクスの影響か、意外と起伏に富んだ土地柄です。横浜でも弥生時代までには農耕が始まりましたが、人々は横浜で「谷戸(やと)」と呼ぶ谷間を開墾するしかありませんでした。

 横浜や神奈川が歴史の表舞台に出てくるのは、意外と新しく、19世紀半ばの「開国」からとなります。それまでは東海道の宿場町を除けば、殆どが寒村という場所でした。

 尚、これはあくまでも今の横浜市に限った話で、横浜の南にある三浦半島には三浦氏がいて、「義経」の時代、頼朝の挙兵の際には「腹切り松」の悲話があります。


[2005年08月22日23時07分]
お名前: 水軍丸船長
ヘイさま、オハヨウ御座います。ご案内のサイトを拝見しました!感謝。
以前、船のテーマで、伊予の湯築城の方々と鎌倉時代の船について情報を交わした事が有りました。その際には、ご案内頂いたHPで歴史を検証でき、重宝したことを思いだし、改めて見させて頂きました。大河ドラマ『義経』の摂津・阿波の渡海の船の話しは、何と何と、鎌倉時代の船の船体構造が、納得が行かない感じしましたね。今週の日曜日で見られるかも?
史実とドラマの差違は当然のことながら、聊か問題も有ろうかとの意見が伊予の連中の話では、不平漫漫の様子也!?。輸送積載頓数は如何なものかとも?、茣蓙帆は嵐の海では雨風、強風にて、揚げて、張れば、転覆は免れないとも?納得が行かない事ばかりの感なり。それでは・・・
[2005年08月11日08時11分]
お名前: ヘイ
水軍が出たついでに、当時使われた軍船について

登場した時代については省略するとして、古い順に

丸木舟 → 刳船式(くりぶねしき)準構造船 → 関船 & 小早(こはや) → 安宅船(あたけぶね)

となるようです。

水軍で使われたのでよく知られているのは、主に関船 & 小早 以降ということになりますでしょうか。

ちなみに、安宅船の「あたけ」「あたける」から来ているようです。意味としては、「暴れまわる」ということなんですけど、標準語なんでしょうかね。イメージとしては、飲んだくれが酔っ払って手がつけれられない状態といったとこですかね。
三河地方ではおなじみの言葉ですけど、尾張でも使われるんでしょうか。


日本の船/和船
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/wasen.html

安宅船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9

御座船“天地丸”(ござぶねてんちまる)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1997/00667/contents/021.htm

水軍というのは、いわゆる海賊としての略奪行為もありましたけど、本来の仕事は海軍・海上保安庁・水上警察を合わせたようなものです。それから、海の関所とでもいうのか、通行料も取っていたようです。

物資の移動で陸路を取るか海路を取るか、

デメリット

陸路 − 山賊・峠越え
海路 − 海賊・シケ


[2005年08月10日21時50分]
お名前: 水軍丸船長
広嗣さま、ヘイさま、度々のレスにて誠に親しみを感じて居ります。今後共宜しく御教示お願いします。我々伊予越智姓河野氏の末裔にて、中先代の乱に際して、伊予両沢白瀧城落城の故にて土佐国細川氏に縁有りて延命した、河野通有三男通種(拝志・林を名乗る)二男通任(みちとう)の末裔の者にて、此度ご案内頂きましたサイトの河野通信殿は正に源平合戦の勇・その通信の血筋を継承して居ります一人です。
河野は阿波・日向では、『かわの』と読み、伊予・土佐では『こうの』と読むを常として居ります。やっとお蔭様で、先祖の足跡を辿り、前史・鎌倉・室町・戦国・江戸・明治・大正・昭和・平成の時代を遊行を続け、幻から空ろに身を預け、現に夢を見続けて、今日に至り、先祖の供養が出来つつ有ります。其れまでには『そんし』『マック』殿との御縁にて、数々の御導きの機会を授かり、一歩一歩と遊行を重ねて、史実の検証を求めて導かれる侭に歩みを進めて居ります。
今後共、御親交をお願いします。
[2005年08月09日03時43分]
お名前: ヘイ
広嗣さん、レスありがとうございます。

伊予のほうには、河埜という苗字もありまして、確か「こうの」と呼んでいたと思います。昔、巨人や南海にこの名前の野球選手がいたと思うんですけど。


[2005年08月08日23時13分]
お名前: 広嗣   URL
>河野水軍 − 「こうの」と読むのか、「かわの」と読むのか。

 源平の合戦の屋島と壇ノ浦でも河野水軍が活躍しています。この時水軍を率いたのが、河野通信(こうのみちのぶ)。純友の乱の討伐で名を上げた河野水軍の末裔なら、「コウノスイグン」と読むのでしょう。

http://hyohyohyo.cool.ne.jp/hyohyohyo/mousounihonsi/genpei/m_kounomichinobu.html


[2005年08月08日22時46分]
お名前: 水軍丸船長
ヘイさま、各地の水軍の諸族のご紹介、真に恐れ入ります。
丁度、NHK大河ドラマ『義経』はいよいよ讃岐之国矢島の合戦の場に移る間際です。関東騎馬軍団と瀬戸内水軍の連合が重要な戦術にて、一の谷以後の赤間壇ノ浦の終焉の戦まで、海を舞台に戦を交わす経緯からも各地の水軍中でも、阿波の田口水軍、紀州の熊野水軍、伊予の河野水軍の勢力の取り込みが源氏・平家の雌雄を決する重要な勝因になったのは、頷ける史実かと。湖賊の話も近江・美濃の方々からお聞きし事もあり、水利を匠にこなした水師の集団は、海上・河川・湖水を自由自在に船を操り、水運・漁労・時に際しては、武力を備えて海賊行為に及んだ史実も否めません。陸上交通は未開の時代には特に水路・海路を西に東に南に北に船をこなし、港・港にネットワークを組み・生業とする集団(海の民・海族と云いたい)が、其の時代時代に、政権の拡大の野望を抱く権力者にとっては無くては為らない勢力であっても不思議ではないのでしょうか?日本国は周りは海と河と川が内陸にまで、込み入り真に舟・船は専業・独占の体制が古くより、かなり成立していたと考えます。・・・・・話せば長くなりますね!では此れからも宜しくお願いします。
[2005年08月08日14時46分]
お名前: ヘイ
水軍丸船長さん、レスありがとうございます。

水軍という言葉が使われているので、少しばかり調べてみました。

河野水軍 − 「こうの」と読むのか、「かわの」と読むのか。河野水軍の指揮下にあったのは村上水軍だけど、こちらのほうが知名度は高い。越智氏と共に藤原純友の討伐で功を上げる。活動拠点は伊予。

村上水軍 − 宿敵陶晴賢(すえはるかた)を討つべく毛利氏に味方した水軍。村上三家には、能島(のしま)・来島(くるしま)・因島(いんのしま)がある。活動拠点は瀬戸内。

松浦水軍 − 「まつうら」と呼びそうだけど、「まつら」と呼ぶのが正しいのだろうと思う。松浦党とも松浦源氏とも呼ばれる。豪族の連合体。活動拠点は九州西海(佐賀長崎あたりか)。

九鬼水軍 − 織田信長に味方して鉄張りの安宅船を造る。活動拠点は伊勢。

武田水軍 − 甲斐の武田氏に水軍があったとは気がつかなかった。勝頼の時代に北条氏と一度だけ海戦を行い勝利。武田家滅亡後は家康の水軍に組み込まれた。活動拠点は駿河湾。

里見水軍 − 南総里見八犬伝で連想されるように、房総半島を活動拠点とする。三浦半島の三崎沖で北条水軍と戦う。

このほかには、塩飽(しあく)水軍というのもあります。本拠地は丸亀付近でしょうか。瀬戸内には大小いくつか水軍があるようです。毛利水軍に対抗して織田信長が九鬼水軍と共に味方に引き入れたのは塩飽水軍。幕末に咸臨丸で渡米した際、水夫として乗り込んだのが塩飽水軍の者だったそうです。

水軍は海賊とも呼ばれるけど、山賊に対する海賊という意味合いだけではなさそうです。海賊大将という言葉はあるけど、山賊大将という言葉は聞いたことがない。

海賊ではなくて、湖賊というのもあります。琵琶湖は湖としても日本最大であり、また交通の要衝といっていいのかどうかわからないけど、船を使えばすごく便利です。琵琶湖を根城とするのが堅田(かただ)衆。敵対するは、陸上の宅配?部隊、馬借集団。構図としては、本願寺(蓮如)・堅田衆 対 足利義政・延暦寺・馬借集団。この当時の堅田衆首領は女であったという。
信長の時代になると、運送権という特権を堅田衆に認めた。浅井・朝倉との戦いで堅田衆は敵味方二分される。秀吉の時代になっても特権は認められたが、政略的には堅田衆の勢力を弱める方向(船の製造配備及び徴用)。徳川になっても、この方針は継続されたため、衰微。

思い違いのところがあれば、ご容赦のほどを。


[2005年08月08日11時46分]
お名前: 水軍丸船長
ヘイさま、地名・氏名等の読みは真に仰せの通りです。我共の河野氏も四国でも九州、中国地方でも、コウノ・カワノと読み、又、川野と書かれた物も存在しますね。特に四国における西遷東国武士団(御家人)の姓・氏名は、正に鎌倉幕府成立期に源平合戦・承久の乱等々戦乱の機に各地に新たな所領・諸職を得て、惣領・庶家の同族が『一所懸命』の戦功や、幕府将軍家、執権の政治的地方実権の確立を狙い、鎌倉時代中期以後にも蒙古軍の九州襲来を契機に西国・四国等にも東国出身の武士の家名が広く土着している様子が見られますね。
その後、南北朝・室町にもそれらの同族の守護・守護代・地頭職と家人等又は姻戚関係に起因するに至っても、其の名残が多く見られます。本当に其の所以・ルーツも地域性に富み、複雑に絡み、派流の数は相当なものになり発展していったと考えます。いやはや歴史は興味深いものですね

[2005年08月08日05時28分]
お名前: ヘイ
熊谷市に住みついて思ったことなど。

地名・駅名は「くまがや」なんですけど、熊谷次郎直実の場合は「くまがい」と読みます。某ゼネコンも確か同じ読みだったと思います。
ちなみに、熊谷寺は「ゆうこくじ」と読みます。

遠くに住んでいる人から見ると、ピンとこないかもしれませんが、人名と同じくらい地名についても、わかりにくいとか読み違いなんかはあるんじゃないでしょうか。

戦国末期の大分における戸次川の戦い。これは「へつぎがわ」と読みます。青森の八戸や三戸と同じ読みだけど、「戸」を「へ」と読ませるのは一般的ではないかもしれない。

こういったことは歴史通には常識的なこととして漢字表記だけですませちゃってるだろうと思うんです。

以上、老婆心ながら。(余計なお世話?)


[2005年08月07日23時55分]
お名前: 水軍丸船長
広嗣さま、四国の土佐も山と海に囲まれた偏狭の地ゆえ、長宗我部氏も所領地を増やすためには野望と云うよりは、他国領域に拡大しなければ、土佐一国では家臣の禄高も加増も望めず、所帯が限界に為るを悟り、侵攻を周辺諸国に進めた所以だと考えれば、唯単に憎めない人物戦国大名かもと最近は、頷いております。最近はホリエもんとか云う御仁は錬金術にて国盗りを企て成就されたるも、誠に時代の流れ、人之世も『土地神話』は遠い夢の又夢か?『一所懸命』も失われつつあるかのようです。残念・無念の感也。
[2005年07月21日21時15分]
お名前: 広嗣
 水軍丸船長さん、早速のRESをありがとうございます。きのうの書き込みでは「東国武士」と補足するのを忘れていました。

 さて、こうした東国武士の土地へのこだわりが、鎌倉時代の「一所懸命」につながっていることは間違いないですが、嘗てのバブルにまで話が進んだのは意外でした。

 そう言えば、この泡の時代に「土地本位制」と言っていた人がいました。歴史SIGとして見れば、泡の時代の根幹は、確かにこの東国武士団にまで遡るのかもしれません。


[2005年07月21日20時50分]
お名前: 水軍丸船長
広嗣さま、仰せの通り、カーターさまの東国武士の諸氏の名字は土地と概ね合致しており、出自の所以は先祖の地(所領・在所)に由来する『名』に依るものと考えます。
鎌倉時代の根底に見られる、各地の武士団の『一所懸命』の思いが矢張り土地・所領・拡大を願う武勇の誉れを競った姿も本領の安堵と新たな褒美を授かり、同族・子孫の勢力の拡大図ったのも頷けます。嘗てのバブル時代の不動産獲得合戦の様相が浮かぶ感・ルーツかな?

[2005年07月21日06時20分]
お名前: 広嗣
 このスレッドの始めから書こうと思いながら書きそびれていたのが、土地と苗字の関係でした。

 どこでだったか展示の地図に載っている苗字(氏(うじ))が、現在の地名と同じのが多いなと思ったことがあります。ムラの中では太郎や次郎で済んでいても、ひとたび外に出れば、そうもいかなくなります。それと苗には血筋や子孫という意味もあります。つまり、他の武士団との区別と、先祖代々開墾し守ってきた土地への愛着と誇りを示すために、出身のムラの名前を氏に使った可能性が考えられます。

[2005年07月20日22時06分]
お名前: カーター
 確かに、名字があって地名が生じたのではなく地名があってその地名を
名字として名のった可能性は大です。「河野四郎越智の通信、生年廿一、
かうこそいくさをがすれ。われと思はむ人々はとどめよや」と平家物語の
9巻「六ケ度軍」にあります。「越智は、河野氏の本姓」と同書の解説に
記してあり河野は地名を意味していたと思われます。
 河野の地名は、(愛媛県北条市の内)
 沼田次郎と言う武将も出て来ますが。その地名は(広島県三原市沼田)
 讃岐七郎義範の名も出てきます。
ですから、河原の太郎高直と名のったのは、河原と言う地の出身のリーダ
ーである高直と言うものが苗字を持たないため、河原を苗字にしたように
見えるのですが、名前に詳しい人はいらっしゃるでしょうか?

[2005年07月19日22時54分]
お名前: 水軍丸船長
一字訂正熊谷氏の後の熊谷氏は熊谷市の行政名です。カーターさま訂正してお読み下さい。
[2005年07月19日20時31分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、熊谷氏が現在の熊谷氏・河原氏が河原村は、寧ろ名から見れば、熊谷に住してこそ熊谷氏・河原地区に住して河原氏と名乗るが道理と思います。何故ならば我等伊予の越智姓河野氏と名乗るは、我家伝承の古書『豫章記』に小千と云えば先祖の御諱也・・・・・故に越智と云う。又名字は・・・・・高縄山より流だしたる水の末なり。高縄山は観音菩薩霊験の地也、当初は十六人の天童彼の地に来遊し賜う、即ち三嶋大明神十六王子の由縁の地なり。・・・・流れだしたる水なり、汝も然れば、水の上に住するを可されば、水(河・海を)可(可能な限り活かして)予里(里を預かる)と云うを、二文字に成し、河野と名乗し故にて云々と伝えるも誠に理に叶う感也。さて熊谷は何ゆえ?河原は何故と?考えれば昔の姓・氏名(ウジナ)の所以は其の一族の成り立ちの原点ではないでしょうか?。そんしのご意見・ご指導をお頼み申します。恐惶謹言
[2005年07月19日20時26分]
お名前: カーター
 今日の「義経」でも出てきたように重衡(清盛の四男)は生け捕りに
されましたが忠度(清盛の弟)は、薩摩の守と呼ばれていましたが源氏
方の武将である岡部の六野太忠純が討ち取りました。この岡部の六野太
忠純は先の書き込みにも紹介したような武蔵北部の武将で、榛沢郡岡部
の出身(現在は埼玉県大里郡岡部町であり本庄市の隣の町)です。
 忠度は一の谷の大将軍でしたが、部下に囲まれ退いていたところを六
野太忠純に大将軍に違いないと目をつけられ、名のれと忠度に追いつき
ました。しかし、「これは味方であるぞ」とふりかえられたのをそのか
ぶとの内をのぞくと歯をお歯黒で染めており、平家の公達であることが
わかってしまったのでした。
 同じく、熊谷次郎直実が敦盛(清盛の弟である経盛の息子)を討った
時も同様に平家の公達であることがお歯黒でわかってしまいます。敦盛
は「年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かね黒(お歯黒)なり。我が
子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀
を立つべしともおぼえず。」
 直実は敦盛をなんとか助けたいと思いましたが、後ろには源氏の軍勢
が迫っていました。直実は涙を押さえて、助けたいが軍勢に討たれるよ
りは自分が討って後の供養をしようと敦盛に言ったところ、敦盛は、「
ただとくとく頸をとれ」と答えました。直実は、どうしていいかわから
ず泣く泣く首を取りました。直実は、義経に面会した際に「いくさの陣
に笛持つ人はよもあらじ。」と述べ、この笛の件がきっかけで直実の出
家の意志はますます強くなったそうです。
 この笛は、祖父忠盛(清盛、経盛の父)が笛の名手で鳥羽院から頂い
たもので、経盛が伝えていたものを敦盛が才能があると言うことで譲ら
れたものでした。出家した直実は上京して法然の弟子となりましたが、
京都の東山の草庵で念仏を唱えながら亡くなったそうです。能にはこの
平敦盛を素材にした「敦盛」あります。熊谷市では直実をしのんで、山
車が出て来る「うちわ祭」が7月20日から始まります。平家の系図を
参考のために図示します。

忠盛 ---- 清盛 ---- 重盛
     |   宗盛
     |   知盛  
     |   重衡
     |   時子
|
    経盛 ---- 敦盛
|
教盛 ---- 教経
|
    忠度

[2005年07月17日22時24分]
お名前: そんし
水軍丸船長さんどうもです。
一ノ谷は後の時代には湊川と呼ばれて楠木正成が壮絶な最期を遂げています。海路を逃がれて滅びた平家と、海路を勝ち上った尊氏の全く正反対の生き様が繰り返された歴史のターニングポイントの海でもありますね。

そうそうカーターさん、久下二郎重光で思い出しましたよ。この人物の子孫が「太平記」で大活躍して居るんですよ。活躍といっても、反旗した足利尊氏の元に、真っ先に駆けつけたというだけの話ですが。当時の久下氏は関西方面にいたみたいですから、源平の戦いの後、北関東の武士団は全国区になって活躍したという事なのでしょうね。

[2005年07月16日19時57分]
お名前: カーター
そんしさんにも出て頂き有り難うございます。この地に10数年も
住んでいると日本一暑いと言われる熊谷近郊の地にも愛着がわきます。
 平家物語の9巻をめくっていると埼玉県北部の地名を名字とした武
将がたくさん出て来ます。三草合戦(先週のNHKの義経の夜襲)の
章では武蔵北部の武将がたくさん参加して功を争った様です。武将の
名前は次のように紹介されており、現在の地名とも対応します。

 中村太郎時経: 武蔵国秩父郡中村  埼玉県秩父市
 玉井四郎資景: 武蔵国幡羅郡玉井  埼玉県熊谷市玉井
 庄三郎忠家:  武蔵国児玉郡本庄  埼玉県本庄市
 小代八郎行平: 武蔵国比企郡小代  埼玉県東松山市正代
 久下二郎重光: 武蔵国大里郡久下  埼玉県熊谷市久下
 河原太郎高直: 武蔵国埼玉郡河原  埼玉県北埼玉郡南河原村
 藤田三郎大夫泰: 武蔵国榛沢郡藤田 埼玉県大里郡岡部町
 長野三郎重清: 武蔵国埼玉郡長野  埼玉県行田市長野
 渡柳弥太郎清忠: 武蔵国埼玉郡渡柳 埼玉県行田市渡柳
 別府小太郎清重: 武蔵国幡羅郡別府 埼玉県熊谷市東別府
 熊谷次郎直実:  武蔵国大里郡熊谷 埼玉県熊谷市
                   (現在の鎌倉町?)

 その他、相模、常陸などの関東の武士の名前が出て来ますが、半数
以上が武蔵の北部の武将です。平家物語の解説を読んでいて驚くのが
武蔵の武士に熊谷直実も含め桓武平氏の子孫と記されている武将が多
い事です。頼朝の新しい武家の社会を作ると言う思想に共鳴したので
しょうか。
[2005年07月16日19時22分]
お名前: 水軍丸船長
そんし殿、真に仰せの通りです。吾等伊予国瀬戸内水軍に縁有る者たちも、一年ほど前からこの度の一の谷以降の攝津よりお阿波に渡りし背景と屋島の合戦壇ノ浦・志度浦を過ぎ、赤間の壇ノ浦までの話題を盛んに争論したれども、此れまでの大河ドラマ『義経』の描き方には、聊か異議を申し上度、先般伊予之国のNHKの某氏との面談も叶いましたと聞くも中々満足いかない話しの場だったと伺いました。そんし殿の別のコーナの『歴史を語るは難儀なる』ご意向が今更ながら真に本意と感じております。さて、ドウナリマス?ことやら最後まで見届けますかな?!
[2005年07月16日15時44分]
お名前: そんし
大河ドラマでは、敦盛は出てきませんでしたが、地元紹介のときに、チラッとだけ「青葉の笛」の文字が画面に出ましたね。

一ノ谷の逆落しでは、あれば面白いのにと思っていた、馬を背負った畠山重忠は出てきませんでした。畠山重忠も熊谷市のすぐ近くですから、カーターさんのお話にあった埼玉県北部一帯は関東武士の宝庫ですね。

そういえば、宇治川の先陣争いでは、義経みずから先陣したことに変わってたし。この先、義経に無関係の場面に、扇の的がありますけど、那須の与一は消されるかな。義経や、その周囲の人がメインの名場面は、まさか消さないでしょうね。八艘飛び、しずかの舞、勧進帳、立往生など、まだいっぱいありますよね。

[2005年07月16日15時19分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、一の谷の合戦には、河原兄弟の御出ましが有りませんでしたね!
この大河ドラマは私の古里土佐之国出身の宮尾登美子流の『平家物語』が原作ですよね。『日本史』とはフィクションを挟み、宮尾さまの原作は女性のロマンを挿し込んだ『物語』では無いでしょうか?。NHK番組の『その時歴史が動いた』とは聊か異なり、真に史実を語るには、脚色と美化の域のドラマではないでしょうか!
地元の行政は観光客の誘致に此れをチャンスに、予算を割き、案内旗を立て、カラーパンフレットを作り、県外訪問観光客のUPに地元経済効果に期待を懸けられておりますね。寧ろ地元の史書を調べずして、平家物語・吾妻鏡等の古書の正しい解釈をも、外れた劇作的シナリオ構成と大事な史実の逸脱は、真に不本意にて、次ぎの讃岐之国屋島・檀之浦・志度の浦の戦場の放映内容に、期待するのも疎ましい感じです!河原太郎・次郎兄弟殿も悔しい想いであろうかと、情けなく御座候得度も、思いは同じ感也。
[2005年07月14日19時12分]
お名前: カーター
 残念ながら、NHK「義経」の一の谷の戦いでは義経中心の描写でしたから、
熊谷直実や河原太郎次郎が出て来ませんでした。有名な平家の美男子と言われた
敦盛の話(直実が敦盛を討取り、後に直実は悔やんで出家した。)もありません
でした。別途、敦盛の話をこのボードにアップしましょう。
[2005年07月12日23時10分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、お手数お掛けしました。武将と雑兵との装束は鎧・兜から足元の履物まで、其の差がよく伝わって来ますね。
今週のNHKの義経のテレビ画面を良く観察してみてみます!御教示アリガトウ御座いました。
[2005年07月07日06時13分]
お名前: カーター
 平家物語ビギナーズクラシックをぱらぱらとめくっていたら、当時の
武将の衣装の絵図が載っていました。武将が履いている靴は、貫(つら
ぬき)と書いてありました。そこで、広辞苑(義母が子供のために揃え
た)で調べてみたら下記のように記してありました。

「毛皮製で、口元に赤紐を貫き巾着形にひきしめて履く浅沓。」

 また、同書の口絵を見るとモデルとなった鈴木敬三氏の大鎧着装姿と
言う写真が載っており、黒い毛の生えた沓を履いています。
 それでは、今夜はお休みなさい。
[2005年07月06日23時10分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、色々お調べ頂きまして恐縮です。いよいよ来週から大河ドラマ義経も一の谷の合戦に入るようですね!是非河原兄弟の出番・忠義の働きを見たいものです。
其れから戦場の騎馬に載る武将の足元を絵物語等にて拡大鏡を覗きながら、想像した考えでは、鹿皮かは判別できないが、何か皮製品の下履き(足袋か靴のような物)の上に(下と言うべきか)草鞋は履いて、地面の悪路・泥道・荒れた路面のすべり止め為に矢張り草鞋かもう少し丈夫な植物で作った紐で括り付けた足元が確認出来ました。雑兵の足元は素足に草鞋のようにも見えます。何分にも絵図の画面の解像ですので定かでは在りません。今後共よろしく!
[2005年07月03日21時02分]
お名前: カーター
 水軍丸船長様、本件についてご興味を頂きありがとうご
ざいます。今回のようなメッセージを頂けるとは思ってお
りませんでしたので、ご質問にもすぐにお答えできる状況
ではございません。
 平家物語についても全部は読んだことはなく、ビギナー
ズクラシックという抄訳版のみを読んだのみでしたので、
さっそく平家物語九巻「講談社学術文庫」をさっそく購入
し勉強を始めているところです。河原兄弟のことは平家物
語の九巻「二度之懸け」と言う章に紹介されております。
私の先のメッセ―ジの内容よりもさらに詳しく書いてあり
ます。
 身分の低いものは高いもののように家来の手柄を自分の
ものとすることはできないため、自分から手をおろさねば
ならないと言う河原太郎の心境は次のように記されていま
す。
「大名は我と手をおろさねども、家人の高名をもって名誉
とす。われらはみづから手をおろさずばかなひがたし。」
講談社学術文庫、平家物語9巻
 そして、弟の次郎に対して自分が討ち死にしたことを伝
えるため「わ殿はのこりとどまって、後の証人にたて。」
と述べます。
 ご質問の河原兄弟が藁草履ばきであって当時の武将がど
のような履物であったかですが、今日本屋で義経関係の図
鑑を見たところどうやら皮の靴を履いていたように見えま
す。義経が頼朝に謁見する絵を見ますと、鹿の皮のように
見えるのですが、それはその靴に毛のようなものが生えて
いるように見えるからです。
 その次の家紋の二の字ですが、なぜこのような二の字な
のか家紋についての知識がないため現在のところわかりま
せん。村の役場に聞いてみることにしましょう。

               カーター

[2005年07月03日17時17分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、おはようございます!早速御案内のHPを拝見しました。バックの幕の書かれております家紋の丸二と其の変形枠に同じく二の字等が目に付きました。これの由来は、通常は武家順位二番目の家柄を表す古事が有るのではないのかと、興味を持ちました。鎌倉時代に由比ガ浜の戦勝の宴席の順位がルーツとも聞きますが、ご存知であれば御教示ください?。
今後共よろしくお付き合い下さい。
[2005年06月30日07時22分]
お名前: カーター
 水軍丸船長殿、さっそくのレスをありがとうございます。南河原村のHPにこの芸能の
紹介が載っていますので、ご紹介致します。また、今週末には関連の内容を紹介します。

http://www.vill.minamikawara.saitama.jp/geinou.html

                      カーター
[2005年06月29日22時49分]
お名前: 水軍丸船長
カーターさま、NHK大河ドラマ義経の一の谷の合戦も直前に、源氏の軍勢の中に、大手の総大将範頼殿、侍大将梶原景時殿・搦手の総大将は主人公の義経殿・侍大将土肥実平殿と聞く。
熊谷直実とご子息小次郎直家と諸々の経緯にて、土肥実平受け持つ播磨冶一の谷の先駆け・先陣を切るべく、西木戸口に着くと記す。其の際にも生田の森に陣して居られた源氏軍の総大将範頼殿の大手軍5万(一説では事実は5000と言う記事も有ります)の中に河原太郎高直・次郎盛直の兄弟2人が居られ、カーターさまの仰せの通り、只2人にて平家の陣へ突撃を行い、周りの武士にも『東国の武士ほど、おそろしかりける者は無し』と呆れさせた勇猛果敢な先駆けの武勇伝が残っておりますなあー!その出自の郷が熊谷市・又、河原氏の由来の地名が町名に残っているとは誠に面白い所以あるお話は、特に藁草履ばきの件は知恵がつきました。感謝!
処で其の当時の大将殿や名の有る武士の方々の戦場で履物は何だったでしょうか?皆さん御存知の方が居られましたら、お教え下さい?
[2005年06月27日16時01分]
お名前: カーター
 熊谷市近郊の南河原村に1991年に引っ越してから5年くらい
して長女の通う中学校で「南河原あばれ太鼓」と言う芸能を見まし
た。これは、平家物語にある一の谷の合戦の際に、一番乗りした河
原太郎次郎の話から作ったものでした。源氏の武将である熊谷次郎
直実や義経の一の谷の鵯越の話は有名ですが、河原太郎次郎の話は
知らなかったのです。
 中学校の講堂で、太鼓がなり始め、女生徒により平家物語の朗読
が始まります。
「一の谷の東方、生田の森に布陣する範頼軍は五万騎、その中の河
原太郎・次郎の兄弟がいた。大名でもない二人は馬にも乗らず、藁
草履履きで城内(一の谷城)に一番乗りし、果敢に戦って討ち死に
した。
 河原兄弟の奮戦に勢いづいた範頼軍は、ただちに総攻撃に移った。
なかでも梶原の父子の奮闘は目覚ましく、とりわけ父景時は息子影季
を救出するため二度も敵陣に駆け込んだ。」
  「平家物語」角川ソフィア文庫、ビギナーズクラシック
 
 この二人は馬にも乗らず、藁草履履きで城内に一番乗りしたと言う
場面の朗読は、女子中学生が涙を流しているからのようで聞いている
方も涙が出そうになったほどでした。無名の家来であった河原兄弟は
一の谷で一番乗りをすることで子孫に名を残そうとしたと思われ、そ
の藁草履ばきで討ち死にしたと言う事実がとても悲しいのです。
 河原太郎次郎は、武蔵の大里郡(埼玉県北部)の源氏の武将熊谷直
実の家来であったと思われますが、熊谷直実の名が熊谷市となり河原
太郎次郎の名は現在行田市の北河原地区、そして現在の南河原村(北
埼玉郡)として残っております。この南河原村は、来年には行田市と
合併します。

                カーター

[2005年06月26日21時57分]
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