テーマ:朝鮮の近代化と日本

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お名前: カーター
 放送大学大学院のテキスト「東アジアの歴史と社会」に第14章「植民地
期の朝鮮」と言う章があり、「産米増産計画は食料問題を解決したか」と言
う疑問を呈しています。

 日本では1918年の米騒動で露呈した国内の米不足に対応するために、
朝鮮と台湾で米を増産させ日本へ移入しようとしました。朝鮮では1920
年代から日本人の資金を使用して農業に大規模な投資が行われました。日本
の方が米価が高かったと言う理由もあって、米の日本への移出量は増加し、
1920年代には生産量の40%が日本へ移出されたほどでした。

 著者の橋谷教授は、日本の莫大な投資を持って植民地支配を正当化できな
いとし、その理由は米の増産は本国の利益の増進にあったからだとしていま
す。また日本への米の移出量は増加し、朝鮮人の一人当たりの米消費量は減
少しており、増産の成果が朝鮮社会に還元されなかったのも事実だとしてい
ます。

 この事実を述べるにあたって橋谷教授はデータを1920年から1930
年まで取り、1930年の時点での一人当たりの消費量を0.5石であると
しています。しかし、日韓併合は1945年まで存続し1930年で終わっ
たわけではありません。
 
 中川八洋氏の「歴史を捏造する韓国ー韓国併合と搾取された日本」による
と次の通りです。

             生産高(千石)  人口一人当り消費高(石)

1912年〜16年平均  12,303    0.7188

1927年〜31年平均  15,798    0.4964
             (日本への移出: 6,607千石)

1942年        24,885    0.7571

    「大蔵省管理局ー日本人の海外活動に関する歴史的調査」より
    
 1930年代には確かに一人当たりの米の消費量は減少していますが、大
豊作となった1942年には一人当たりの消費高は元に戻り、全体の生産量
は1912年代の二倍となっています。これの背景には、自然降雨に頼る水
田を灌漑設備のある水田に改造したりしたことなどがあります。

 崔基鎬教授の「日韓併合ー歴史再検証」によれば、1910年から191
8年までに田畑は1617千町歩から2800千町歩まで増えて、朝鮮の人
口は次の通り増えています。

1910年    1312万人
1942年    2552万人

 一人当りの米の消費量が増えたわけではありませんが、米の生産量は倍と
なり人口も倍になったと言うわけです。医療の改善で人口は増大しましたが
増大した人口を支える米は増産されたと言うことです。

[2015年02月18日23時03分]
お名前: カーター
 呉善花の「反日韓国に未来はない」を読むと、韓国の反日は日本の
日韓併合による支配ではなく、韓国に独特の小中華の思想によるもの
で中国の属国であった朝鮮の伝統を受け継ぐ韓国の方が独立していた
日本よりも上位にあると考えるためだとのことです。清朝の時代にな
り野蛮人である満州人が支配者となったのですから、まはや中華の伝
統を保持しているのは朝鮮しかないと言うものです。

 この小中華の思想は今回紹介した、朴趾源の「熱河日記」の冒頭を
見ることで理解することができます。朴趾源の時代は明が滅亡してか
ら130年になりますが、明の最後の皇帝である朱由検(毅宗)の年
号である崇禎を使い崇禎百五十年などと日記に記しています。朝鮮は
先王(毅宗)をただ一人守っていると言うのです。引用すると次の通
りです。

「明の帝室はいまなお、鴨緑江以東(朝鮮半島のこと)に存続してい
るのだ。戎狄を駆逐して中国を統一させ、先王の原形を回復できる力
は欠くけれども、崇禎と言う年号を尊重して本来の中国をしのぶこと
はできる。」

 このように野蛮人の支配する清から学ぼうとした実学派の朴趾源で
さえ小中華の思想を持っていたのであり、現実ではなく、理念の世界
に生きていたのです。中国の臣下ではない東夷の日本は当然蔑むべき
対象であったことでしょう。


[2015年01月10日17時40分]
お名前: カーター
 今年の10月から放送大学大学院の「東アジアの歴史と社会」を受講
しています。レポートは鄭和のスリランカ遠征について書きました。15
世紀の始めに鄭和の2000人の軍隊はスリランカの支配者を捕らえ、明
の皇帝の前に差し出し、それ以後スリランカは明の朝貢国となりました。
現在、スリランカの港には中国の軍艦が出入りしている状況ですが、中国
人は明の時代を思い出していることでしょう。

 さて本題の朝鮮ですが、李氏朝鮮の時代には日本は朝鮮、中国、琉球、
アイヌそしてオランダを窓口とした欧州と交易を行っていましたが、朝鮮
の場合は重要な情報に関しては中国が最重要と考えられていました。吉田
教授の執筆されている「東アジアの国際関係と近世の朝鮮」では儒学者の
朴趾源の「熱河日記」を引用して中国の儒者に広まっている地球球体説を
紹介しています。

 そして、朴趾源(1737年〜1805年)の考えは「西洋人はすでに地球が球
であることを確定したのに、回転のことだけは言っていない。これは地が
球であることを知りながら、球が回ることを知らないからである。・・」
と述べ、地球の自転、月の公転のことに言及していますが、日が地を回る
(天動説)と考え、地球が太陽の周りを回っているとまでは考えが及びま
せんでした。

 北京に派遣される朝鮮の知識人は燕行使と呼ばれ、中国の知識人の考え
方を知り、朝鮮に知識を持ち帰ったとのことです。そして「わずかに釜山
倭館よりもたらされるほかは、間遠な通信使がもたらすわずかな情報に頼
っていた日本との違いは大きかった。」と朝鮮が中国を通して国際認識を
形成していたことを吉田教授は強調されています。ここに倭館とあります
が、これは対馬が朝鮮との交易のために釜山の草梁に建てたもので、対馬
から多くの日本人がここに住み働いていたものです。

 確かに中国からの情報と言う面では、朝鮮の方が情報量としては多かっ
たと思います。しかし、コペルニクスは1543年に『天体の回転について』
を刊行し地動説を主張しておりますが、このことを中国の儒者も朴趾源も
知らなかったようです。

 一方、日本では通詞の本木良永が『和蘭地球図説』(1771年)と『天地
二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介しました。本
木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュート
ン力学を紹介しました。本木の業績は朴趾源とは同時代ですが、オランダ
からの直接文献を翻訳すると言う方法で地動説に到達しています。

 当時の東アジアでは日本、朝鮮、中国いずれも海禁政策を行っており、
日本だけが鎖国を行ったわけではなく、日本の場合はオランダと言う西洋
に対する窓口を持っており、西洋の科学・技術、思想などが江戸時代から
入って来ていたため、明治になってからの近代化を容易にしたものと考え
られます。

 日本ではキリスト教は禁止されましたが、西洋の科学や技術などについ
て幕府は反対せず積極的に導入しようとしました。しかし、朝鮮では残念
ながらキリスト教のみならず西洋の科学や技術までが否定され弾圧された
のでした。今回紹介した朴趾源は実学派で進歩的でしたが、進歩を望まな
い人たちがいたためでした。

[2015年01月01日12時24分]
お名前: 広嗣
 平日に講演会に行けたのは、今の仕事の都合で平日が休みだったからです。

 日本とコリアを比較する場合の鍵になるのは、唐突かも知れませんが、次の3点が関わっているのかも知れません。つまり1.漢字、2.宗教、3.言語の3つです。

 日本では漢字の読み方に音読みと訓読みがあり、音読みは更に複数の読み方があります。どの漢字だったか忘れましたが、音読みと訓読みを合わせて十は優に超える読み方のある漢字さえあります。コリアや中国では例外はありますが読み方は一つです。

 日本は本地垂迹という形で仏教を受け入れ、近代以降は宗教上の思想を除いた文化としてキリスト教を受け入れてきました。例えば明日はハロウィーンです。後2か月もすればクリスマスです。しかし基督教徒として祝う人は、少数です。基督教の受け入れは、「近代版本地垂迹」なのでしょうか。一方韓国では近年基督教が広まり、12月25日は休日になっているほどです。

 日本語は外来語の受け入れに鷹揚な言語です。元々無い単語の補完だけでなく、既にある大和言葉や漢語と入れ替わる形で受け入れる外来語さえあります。韓国ではこうした現象は、稀です。

 日本は様々なことが同時並行で存在できるのに対してコリアは一つ良いということが出てくればそちらに集中する文化というところでしょうか。今最初にカーターさんの書かれた文の最後の部分「現在の北朝鮮の状況は改革を拒む李氏朝鮮王朝にそっくりです」を読みながら思ったのですが、コリアは意外と保守的なのかも知れません。だから優れた文化を持ちながら停滞してしまったのではないでしょうか。

 アジアの視点からの歴史が可能かは、私も分かりません。しかし今の日本の世界史は、欧州(特に西欧)の視点からの歴史だと言っても過言ではありません。日本のある地域を呼ぶのに「極東」を使う人がいます。「極東」とは何でしょう。日本から見て「極東」は、アメリカ合衆国東海岸やブラジルとなるはずです。しかし現実は違います。西欧の視点から見ての「極東」でなければ、日本のある地域を「極東」とは呼べません。

 アジアの視点と言うよりは中国の視点即ち中華思想からの歴史が今後の世界に影響を与える可能性があります。少し脱線しますが、中華民国といい、中華人民共和国といい、正式な国名に「中華」が入っているのは、伝統的な中国の中華思想と中国の置かれた状況に大きな乖離があるからだと見ています。世界経済第2位となった中華人民共和国は、今後国際政治にも大きな影響を与える国になり得ます。自信を深めた中華人民共和国が、国名から敢えて「中華」を外す日が来るかも知れません。

 更に脱線すると、日本名尖閣諸島を巡って日中間が緊張しています。中国名は釣魚島と言いますが、面白いことに中国の中枢のある場所を釣魚台と言います。11月8日から始まる予定の中国共産党大会で中国の指導部が変わる予定になっています。この変更を前に釣魚台の権力闘争が激しくなっています。手元の反中国共産党系在日日本語新聞によると、尖閣問題の一部は、この釣魚台での権力闘争の反映でもあるそうです。


[2012年10月30日02時50分]
お名前: カーター
 広嗣が行かれたのは文京学習センターですね。私が行ったの埼玉の大宮学
習センターで土曜日だったのですが、25日とは木曜日ですが仕事を休んで
行かれたのでしょうか。
 吉田教授は埼玉の講演でも、イギリスのマグナカルタが世界史の教科書に
載っているのに、朝鮮の****の扱いは低いとおっしゃったのを覚えてい
ます。私は経国大典のことは知らなかったので、良く理解できなかったので
す。昔の世界史の教科書を調べてみたところ、マグナカルタは出ています
が、李氏朝鮮の記述の中で経国大典の記述はありません。前者が失政の多い
イギリスの王権を制限するために貴族が王に認めさせたの対して、後者は
Wikipediaに記載があるように「儒教的法治国家としての朝鮮王朝の原点を
なす法体系」であり、両者の性格は異なります。
 そこで経国大典の意義について調べてみましたが、良くわからないため、
吉田教授の放送大学の学部のテキストである「北東アジアの歴史と朝鮮半
島」の経国大典に関する記述を見てみると、次のように記載(概要)があり
ました。「経国大典は1484年に成立し、朝鮮王朝の統治規範。法律が体
系化され変更不可能。中央集権化に対して、地方が反発し、反政府闘争が起
こった。士大夫階級である両班による全国支配が成立。」
 確かに体系化と言う意味では、経国大典の優れていた点は認められます。
また、金属活字や陶磁器の技術は秀吉の朝鮮遠征により日本に伝えられ、優
れた朝鮮の文化があったことは事実です。しかし、その後の停滞はなぜだっ
たのでしょうか?朱子学を公認とし、陽明学や蘭学など多彩な学問が発達し
た日本とはかなり違っていたようです。
 アジアの視点からの歴史と言うものが可能かどうかはわかりませんが、世
界史における中国の扱いが大き過ぎるのに対して、確かに朝鮮史の扱いは低
いですね。中国史と同等とまでには行かなくても、その60%くらいまで上
げてもいいと思います。隣の国ですから、やはりその国の歴史や文化を尊敬
すると言う姿勢は必要でしょう。そうすれば、日韓関係も少しは変わるかも
しれません。

[2012年10月28日17時32分]
お名前: 広嗣
 10月25日に放送大学副学長の吉田光男氏の講演「変わりゆく韓国の「儒教」社会〜韓流歴史ドラマの一つの読み方〜」を聴いてきました。講演内容はカーターさんが聴いた講演と重なる部分もありますが、90分の予定を30分超過しての講演でした。

 この講演で印象に残っているのは、1997年7月16日の韓国憲法裁判所判決(95憲ka6〜13)とマグナカルタと経国大典の比較です。

 1997年の判決は、韓国民法第809条第1項の違憲判決ですが、当時は同姓同本の男女の婚姻を禁止していました。姓は金や朴、李などの姓を、本(本貫)は「金海」などの先祖の出身地と考えられている場所を言います。姓と本貫を合わせて、例えば「金海金」と言います。「金海金」が9%弱と韓国で一番多く、この民法第809条第1項の規定のために結婚できず、あの世で一緒になろうと決意し実行する痛ましい事件も相次いでいました。

 この違憲判決を受けて、8親等以内の血族間の婚姻禁止と戸籍・本籍・戸主制の廃止と個人別登録制度に移行しています。戸籍・本籍・戸主制廃止と個人別登録制度に急速に移行できた背景には注意が必要で、韓国で行われてきた「国民総背番号制」との関連に注意が必要だと思います。

 マグナカルタは「大憲章」とも呼ばれ、1215年に制定されたもので、その前文は連合王国(イギリス)で現行憲法の一部を為しているほど重要なものです。マグナカルタはどの教科書にも載っています。一方の経国大典は、日本との関係に於いても重要なものにもかかわらず、その扱いは非常に軽いものです。吉田氏はこの扱いに疑問を呈しておられますが、その通りです。

 経国大典については、こちらをご覧ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%85%B8

 歴史教育で「アジア重視」と言いながらその中心と言うよりも唯一と言って良い扱いを受けているのが、中国史です。3つある日本列島から臨める国の一つである朝鮮の扱いは、広嗣式に言えば、コラム的な扱いです。

 マグナカルタを学ぶことは無用の長物とは言いません。しかしその時間を削ってでも学び理解することが朝鮮史にはあるという思いを新たにした講演でした。


[2012年10月27日02時32分]
お名前: カーター
 10月13日に放送大学で副学長の吉田光男教授の後援会があり聞いて
来ました。演題は「韓流ドラマに見る朝鮮時代史像」と言うものです。吉
田氏は小学校の5年生の頃から朝鮮の歴史に興味を持ち現在に至っている
そうで、当時と比べれると現在の韓流ブームは信じられない状況で韓流を
早くから始めた自分としてはハッピーだとのことです。
 本題の韓流の歴史ドラマですが、最近の傾向として男性中心であったの
が女性が前に出て来ていること、韓国は武よりも文を尊ぶ国であったのに
刀をふるうシーンが多くなっている。そして、指摘があったのは、私も以
前より気づいていたのですが、朝鮮時代には白い服を着た人がたくさんい
ると言うのが韓国の印象なはずなのに、カラフルな衣装をまとった人がた
くさん出ていることです。特に、大事なお客を出迎えるには白い服でなけ
ればいけないことになっていたはずです。
 また、韓国の社会は自殺率が日本より高いこと、大学進学率は82%と
日本やアメリカのような約50%と言う数字と比べて異常に高いこと、ま
た従来は土葬が主流だったので、火葬の割合が67%となっており、韓国
の社会は急速に変貌と遂げていると言うのです。将来、歴史家が2000
年代は韓国社会の大きな転換点であったと言うようになるであろうと言う
のです。
 それでは、なぜこのようになってしまったのかと言うとやはり1997
年のアジア金融危機により、IMFの支援を受けたことからアメリカに新自
由主義を押し付けられたために、競争に勝たなければならないと言う社会
に変わっていったことがあるのではないかとするのです。グローバルな世
界で生き残るためには、文治主義よりも武断政治と言うことで、歴史ドラ
マでも「大王四神記」や「チュオクの剣」と言った勇ましい勇者が好まれ
るようになったと言うのです。
 日本は侍の国ですから、刀を振り回す野蛮な国と言われても仕方があり
ませんが、武よりも文を尊び儒教の伝統が根付いていた韓国の社会が変わ
りつつあることは隣人としても由々しきこととして見ています。

[2012年10月16日22時16分]
お名前: カーター
 最近、放送大学の大学院で学んでいるので、心に余裕がなくこのボードに書き
込めませんでした。寝る前にイザベラ・バードの「朝鮮紀行」講談社学術文庫を
読んでいます。バードはイギリスの旅行作家で「日本奥地紀行」を始め多数の著
書があります。
 バードは朝鮮を四回訪問しているのですが、日清戦争前後の朝鮮の変化には強
い関心を持ったので文章を書き留めたようです。バードは最初は朝鮮の悪習に嫌
悪感を抱きますが、長く滞在すると心をつかまれてしまうと述べています。バー
ドはハバロフスクを訪問し、シベリアのロシア統治下の朝鮮人達は勤勉で豊かで
清潔であり、朝鮮本国よりはましだと述べています。そのことから、朝鮮人に素
質がないのではなく、長年の専制体制つまり、国王と役人が国民を搾取すると言
う体制に問題があるとしています。バードは次のように述べています。

「みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官はロシア人入植者や軍人
から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人・・・朝鮮本国にお
いても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間になり
うる・・」
 本書の序文でイギリス人のヒリアー氏は、ロシアが引き上げた後に日本が仕事
を引き受けただが、やり方は少し乱暴であったかもしれないが真摯であったこと
は間違いない、「発展をめざした前進ー公正を期す為に今一度繰り返すが、始動
させたのは日本である」と述べています。
 戦前に日本がやった仕事は十分に評価されていませんが、現在の韓国の繁栄を
見れば戦前から戦後にかけての日本の韓国に対する取り組みはプラスの方向に働
いたと考えて良いでしょう。私自身が25年前に最初に韓国を訪問した時には三
菱のミラージュをベースにしたポニーが走っていましたが、現在では韓国は日本
車に劣らない高級車と作るようになりました。

[2011年11月23日17時25分]
お名前: 素里奈
カーターさん、お久しぶりです。

『朝鮮基督教及外交史』上の李瀷はおっしゃるとおりキリスト教宣布のキーパーソンの役目をなしたようですね。このことは仁祖・筆者がいう凶還王の狂信的で時代遅れな「尊明排清」思想によって無実の罪(生存して永らえたとしても父王が反対すれば、天主教の信者にはならず、西洋学に専念しただろうとの判官ひいき論ですが。)を負わされて変死させられた昭顕王子の霊をいささかでも慰めることにはなりますね。

話変わって、尊敬する姜在彦・カンジェオン氏は、李瀷(1730〜1800)は朝鮮でさいしょに天円説をすてて地円説を確信し、それを唱導した学者である。このことは朝鮮天文学史上においても重要な意味を持つ、云々とありますが、天円・地円説とはやや外れとはいえ、潮水は月に従う説を解した鄭麟趾「(1396〜1478)・『訓民正音』制定に参画とある。」」その著書『龍飛御天歌』によりますと。
 “陰陽の成す業によって、六尺を一歩という。川と海の水は朝には潮水が生まれ夕方には汐水となる。余安道の説によると、潮水が満ちてきて引いて行くのは海の水が増えたり減ったりするのではない。これは月が位置するところに伴って水が従うからである。(中略)
太陽と月は右に回り空は左に回り一日に一周するからである。であるから、月が卯酉の位置するようになると潮は東西云々。(以下省略)“
この紙面で述べたいことは、コペルニクス的転回説に近い自然の動きを、李瀷より400年以前に東洋的陰陽学で考えた人物が存在したことです。

[2008年04月18日10時27分]
お名前: カーター
素里奈様宛です。失礼しました。訂正します。
[2008年04月13日15時29分]
お名前: カーター
素離奈様、レスをありがとうございます。続きです。

17世紀の後半には朝鮮でも漢訳西洋書を取捨選択していいところを取り入れて行
こうとする実学的な傾向を取るようになって来ます。その流れは李翼を中心とする
星湖学派と呼ばれ、現実から遊離した朝鮮儒教の論議を批判して「実事求是」「経
世実用」をモットーとする実学思想でした。
李翼の西学についての考え方は、西洋の科学は確かに天文学、地理学、測量などに
おいて優れているが、キリスト教と儒学を比較してみる儒学の方が優れているとい
うものです。キリスト教においては仏教と同じように天国や地獄という考え方があ
り現実の世界よりもあの世の世界の方が大事であると言う考え方であるのたいして
儒教は現世をいかに生きるかという哲学であるから儒学の方が優れていると考えた
のです。
このような李翼の考え方に対してもやはりキリスト教を信奉する一派は、最初の受
洗者として李承薫が現れ、1794年にはソウルの明洞に最初の信者の集会を開き
ました。朝鮮でのキリスト教は士人層でなく中人層から庶民層まで、外部からの布
教ではなく内部からの求教によって始まりました。
しかし、問題はキリスト教が朝鮮社会で一般的な祖先や主君を奉るのではなく、天
主のみを信仰することは当時の儒教の朝鮮社会にとっては受け入れがたいものであ
りキリスト教は弾圧の対象となり、キリスト教のみならず技術に優れたすべての西
洋の学問は禁止されるようになりました。君主への忠、親への孝を否定するとし
て、キリスト教から支配層である士人層の脱落が相次ぐ一方、庶民層の信者は増大
していきました。

[2008年04月13日15時23分]
お名前: 素里奈
先ノ頁朝鮮の悲劇(2)

とにかく、日本の徳川幕府が1811年に天文方のなかに「蕃所和解御用」を、56年にはそれを独立させて「蕃所調所」を、さらに62年には「洋書調所」、63年には「開成所」へと・・・・これが洋学受容による日本近代化のcoreになっていることはいうまでもない。

先に述べた、凶還王(1649)は、悉く徳川幕府の逆を行ったことになる。

さらに福沢諭吉(1834〜1901・歴史上の人物なので敬称略)が西洋行きの最初のバスに乗ったのは幕府使節団・三回往復であり、『脱亜論』ほか数冊の書を世に贈るようになる185年推定以前の凶還王(仁祖王この紙面上のニックネーム)の存在ではあった。了。
誤って2回投稿・お詫びします。
[2008年04月06日14時17分]
お名前: 素里奈
朝鮮の悲劇(1)

凶還王=仁祖王(仁祖王(在位1623〜49)を凶還王とした理由: 私見では、占いに見る 陽の卦 が誤ってこの人物が王に選ばれたことを意味する。また阿呆が刃物(権力)を手にすると 陽の卦が陰に変わって凶に還るのものとして、この紙面上、筆者の独断で「凶還王」と改名した。)

カーターさん 今日は!

貴台の参照なさった書物と同じものの巻末を数行参照し、その著者である姜在彦氏の高い
識見には遼遠にして及ばないまでも、お許し願って多少私見を加筆してレスポンスを試み
る。  昭顕世子が幽閉から解かれて、帰国する際にアダム・シャールを朝鮮に招聘した
かったが、諸般の手続きに難があり不可能になった。この悲劇の王子が同宣教師から受け
た知識は当時の朝鮮半島の未開文化を西洋に近着ける鍵であった。(天主像・天球儀、洋書
籍等など)。 父王に土産話をし、本人は西洋留学でもして、修業の後、将来は王位に就く
といったような洋々たる希望を胸に帰国した筈である。

ところが何と!時勢の変化(明国の衰退が手前の足元をさらうことに気を馳せず(盛者必
衰・一端挫折した王国が甦る筈はないのが政治ではないか、元オランケ略奪を業とした「清」
の確固たる勢いとその広がりを認めず、もとの「明」そのものの再起を信ずるなど、・・・ああ神様!この愚直が一時朝鮮半島の王様であった、を、ご照覧あれ!) 珍品を持参して得々と語るわが子の土産話を悪魔の囁きに聞き、持参した文明の利器を悉く叩き潰し、激昂のあまり対話中のわが子に向かって壇上の硯を投げつけるありさまであったとか。次頁につづく・・・



 朝鮮の悲劇(1)

凶還王=仁祖王(仁祖王(在位1623〜49)を凶還王とした理由: 私見では、占いに見る 陽の卦 が誤ってこの人物が王に選ばれたことを意味する。また阿呆が刃物(権力)を手にすると 陽の卦が陰に変わって凶に還るのものとして、この紙面上、筆者の独断で「凶還王」と改名した。)

カーターさん 今日は!

貴台の参照なさった書物と同じものの巻末を数行参照し、その著者である姜在彦氏の高い
識見には遼遠にして及ばないまでも、お許し願って多少私見を加筆してレスポンスを試み
る。  昭顕世子が幽閉から解かれて、帰国する際にアダム・シャールを朝鮮に招聘した
かったが、諸般の手続きに難があり不可能になった。この悲劇の王子が同宣教師から受け
た知識は当時の朝鮮半島の未開文化を西洋に近着ける鍵であった。(天主像・天球儀、洋書
籍等など)。 父王に土産話をし、本人は西洋留学でもして、修業の後、将来は王位に就く
といったような洋々たる希望を胸に帰国した筈である。

ところが何と!時勢の変化(明国の衰退が手前の足元をさらうことに気を馳せず(盛者必
衰・一端挫折した王国が甦る筈はないのが政治ではないか、元オランケ略奪を業とした「清」
の確固たる勢いとその広がりを認めず、もとの「明」そのものの再起を信ずるなど、・・・ああ神様!この愚直が一時朝鮮半島の王様であった、を、ご照覧あれ!) 珍品を持参して得々と語るわが子の土産話を悪魔の囁きに聞き、持参した文明の利器を悉く叩き潰し、激昂のあまり対話中のわが子に向かって壇上の硯を投げつけるありさまであったとか。次頁につづく・・・



 




[2008年04月06日13時49分]
お名前: カーター
最近は韓国人の書いた本を読んでいます。「加耶を知れば日本の古代史がわかる」
とか「西洋と朝鮮」姜 在彦著、朝日選書です。前者について別途として、今回は
後者について紹介します。

著者は韓国の済州島出身で大阪市立大学講師などを経て、現在は朝鮮近代史、思
想史家です。著者の問題意識は日本が江戸時代からキリスト教を排除しながら、
オランダとは貿易を続け西洋の学問が入って来て後の明治維新につながったのに
対して、朝鮮では何が起こっていたのかと言うものです。

朝鮮への西洋の学問(西学)は、明、清の時代の中国にキリスト教伝道のために
北京入りしたマテオ・リッチとその後継者によって中国語に訳されたキリスト教
の本や天文学、世界地図、幾何、測量などの科学書などでした。中国語の西洋の
科学書が朝鮮に伝わったものでした。

しかし、その地図は大地が球体であるとか世界にはアジア、ヨーロッパ、アフリ
カ、アメリカなどがあり、中国はそのアジアの一部のすぎないという考え方は中
華思想との小中華の意識の中にあった中国や朝鮮の知識人にとっては受け入れが
たいものでした。

そういう時代に一つの悲劇が起こりました。満州人の清が勃興すると朝鮮の「崇
明排清」の思想は清の侵略を誘発し、清は朝鮮にたいして降伏条件として朝鮮の
王位にある仁祖の長子である昭顕世子と大臣の子を人質とし、昭顕世子を通じて
その条件の履行を迫りました。

明が滅ぶと昭顕世子は瀋陽から北京の紫禁城に入り、そこでイエズス会士であっ
たアダム・シャールと交遊を重ね、キリスト教や西洋の科学について学んで行き
ました。その後明を滅ぼした清にとって昭顕世子を人質とする必要はなくなった
ので、昭顕世子一行は1644年の9年間に人質生活終えソウルに到着しまし
た。しかし悲しいことの父親の仁祖は清が圧力をかけて昭顕世子に譲位を迫るの
ではないかと疑いました。昭顕世子は二か月後に怪死しました。毒殺だったので
す。

著者は昭顕世子の怪死によってアダム・シャールとの絆が断絶し西洋との交渉史
における画期的なチャンスがついえ去ったと述べています。「それに代わって仁
祖につづく孝宗の時代は、権力の座を独占した西人派政権のもとで、明王朝の亡
霊に憑かれた崇明排清論と、実力の伴わない反清的な北伐論とが思想界を風靡す
るようになった。清に臣礼をとりながら、それを夷荻視するよじれた対清観であ
る。」

そして、昭顕世子が帰国し王位についていればアダム・シャールとの交遊が続き
朝鮮でもイエズス会の活動が続き、西洋文明に閉鎖的な体制を一新できたかもし
れないと。

[2008年04月05日13時11分]
お名前: 江口素里奈
カーターさま
早速レスポンス有り難い。小生も併せてこれから研究します。
何だか『日韓親善の橋」はこの紙面からスタートする見たいですね。
ブラボー!
[2008年03月30日17時47分]
お名前: カーター
江口様、金鍾学や戴天仇のご紹介をありがとうございます。
日本論を読んでみたいと思います。韓国論が私にかけるかどうか
わかりませんが、努力してみます。
 
[2008年03月30日13時42分]
お名前: 江口素里奈
「正しい歴史認識」をもっていた戦前派の韓国人!  前頁の続き・・・

「私がこんな考え方になったのは、日本に勤務している時、古本屋で 戴天仇著『日本論』(昭和16年官界情報社/森 豊太訳)という本を見つけたからである。(略)

 彼はこの本の中で、中国人が中華思想に安住して日本を蔑視し、日本に学ぼうとしない高慢な態度をしかっている。 そして、日本の中 韓 両国から文化を輸入してきたが、独特の個性を見失わず、自己の生活に適応させ日本的大同文化と国家組織を完成させた(略)。

 現在の日本は、確固たるアジア政策を持たず、政治家の頭は欧米の方に向いている。韓国や中国にたいしては お詫びするだけであり、 韓国人は怨念の方が先行している。

 私は先述の 戴天仇 を見習って、『日本論』を書くから、日本のみなさんは『韓国論』を書いて相互の間に理解を深めようではないか。

『参考文献』金鍾学 教授
元在日居留民団文化部長(平成3年肺がんにより逝去)
生存中に、 韓国ソウルに「韓日文化研究所」設立とあるが、現存するか否かは不明。了。
尊称に「教授」とある記されているが、教壇は不明。「筆者注」

[2008年03月29日23時37分]
お名前: 江口素里奈
「正しい歴史認識」をもっていた戦前派の韓国人!

「略」例えば、今日は八月二十九日である。この日がどんな日か、日本の皆さんに解るであろうか。韓国人にとってこの日は「国恥記念日」である。
今から九十八年前の1910年(明治四十三年)八月二十二日、日韓併合条約を調印し、二十九日公布された。それ以来大韓帝国(日清戦争の日本勝利で韓国は有史以来、初めて日本に独立させてもらい帝国の地位を得た)は日本に併合され、消滅した。韓国人にとって悲しむべき屈辱の日なのである。

 だから韓国人は、日本への怨念を燃やしてやまない。私はそれを残念に思う。
日本人はお詫びしたのでは日韓ともに実りはない。

愚者は感情でものを考え、賢者は歴史の事実を教訓化する。日本はなぜ韓国を併合し、中国にまで進出し、あの大戦争を起こすようになったのか。韓国は何故日本に併合されるような屈辱を味あわねばならなかったのか。せきにんをすべて日本に転嫁したのでな、何の教訓も得られない。韓国の反省、責任もあわせて考えるのが「国恥記念日」の意味である。
  (次頁につづく)

[2008年03月29日23時28分]
お名前: カーター
3月27日の産經新聞に韓国の新教科書が紹介されていました。これまでのような
民族主義的な歴史観を批判し、日本統治時代については暗黒面や抗日運動だけでな
く、経済発展や近代文明の流入による近代化の進展など肯定的な面にも触れている
そうです。

この新教科書はソウル大の李栄勲教授らの保守派学者による「教科書フォーラム」
が高校の教科書用に作ったそうです。これまでの近現代歴史の教科書が民族的抵抗
や反政府運動中心のいわゆる左翼的な民衆史観で記述され、単純で偏狭な歴史にな
っていたとの批判、反省が背景にあります。ただし、この教科書が実際には使われ
るには政府の検定に合格し、各学校の審査を受ける必要があります

フォーラムは、これまで今日の韓国人の基礎となっている現代文明の基礎を曖昧に
してきたとし、新教科書では資本主義経済の拡大、身分社会の解体、学校教育など
を通じた近代的規律、新しい生活スタイルの導入など日本統治がもたらしたプラス
を含む多様な変化を紹介しています。

このような事実を直視しようとする姿勢に対して、当然左派勢力からの批判があり
ますが、もしこの教科書を採用する高校があるとすれば韓国社会は成熟した段階に
入ったと言えるでしょう。

朝日新聞には出ていましたか?

[2008年03月29日12時57分]
お名前: 江戸通
> セマウルは、都会では成功し、農村では頓挫した。
> 「見果てぬ夢」としての南北統一。
 学生時代、躍進政策で作られた、高速道路も年月が経ち、補修や
改善が行なわれ、都会でのセマウルも一応の成功を見たと言う事です。
 当時は、財政的にも逼迫しており、インフラ整備という言葉もままならない
状況だったようです。
 近代化と農村のひずみという現状にいつしか変わってきたようです。
 最近、二十年(三十年?)の文脈から唐突だったかもしれません。

 以前は、家にもクリシュナを奉じる人達がきたり、パンフを家人が買う
こともあったようですが、
>あの踊りのなかで悪ふざけるかの方を。
> ふざける回るあの方を
 クリシュナの文句にあるかもしれませんね。まだ、西欧行きの客船が定期航路
だった頃からの、インド西部の伝聞だったと記憶しています。

  江戸通

[2008年01月06日09時41分]
お名前: 素里奈
何度か投稿させて頂きましたが、都合で投稿先を ”歴史発見” のマスへ移動させていただきます。もし筆者の古代史にご興味のある方は、レスおまちしております。
色々有難うございました。
[2008年01月04日22時28分]
お名前: 素里奈
新年明けましておめでとうございます。
東アジアの平和と発展をいのります。
[2008年01月03日19時44分]
お名前: 素里奈
書物の話が出たので、私ごとで恐縮ですが、お許し願って自分のことをご照会させていただきます。(前に関様のペイジに簡単に紹介しました。そして前掲のどこかで、ちらっと触れた気がするので、重複でしたらお許し下さい。)もし江戸通さまが、古代史にご興味があって、いまだお目通しになられてないようでしたら、ご一読頂けると今後、ここのテーマ―にもっと親しくレス出来る話題が増えると存じますので、あえて重ねてご案内します。
  
江口素里奈著『江田船山古墳鉄剣銘の秘密』五月書房 2007年8月初版

ご近所の書店でお取り寄せ、または、池袋ジュンク堂、新宿紀伊国屋、
Yahoo−Amazon books,などで入手できます。

パネルは討論やデスカッションの場であるのに、宣伝がましくなりますこと、重ねてお詫びします。

内容は、140年前に発掘された件の大刀に刻まれた75文字が、76年現在まで、解読不明のままでしたが、正解・解釈されたものであることを申し添えます。

[2008年01月02日11時38分]
お名前: 江戸通
 踊りと南北統一
  北は、工業地帯、南は農業地帯という様相を
 躍進政策が一変させたようですね。
  皮肉なことに、躍進のひずみがでたのは、農村ではなく
 都会であったようです。
  セマウルは、都会では成功し、農村では頓挫した。
 「見果てぬ夢」としての南北統一。
 *********
  李恢成 りかいせい 1935〜 小説家。在日韓国・朝鮮人文学の中心的人物。
  樺太(サハリン)に生まれる。朝鮮語ではイ・フェソンとよむ。早稲田大学露文科卒業。
  亡き母をえがいた「砧(きぬた)をうつ女」(1972)で芥川賞を受賞した。
  "李恢成" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) 1993-2000
  Microsoft Corporation. All rights reserved.
 *********  引用ですが
 筆をすすめると、
  私のは心この場所で、思い浮かべる。あの踊りのなかで悪ふざけるかの方を。
 ふざける回るあの方を

  一見唐突な、文章が、TK生の描く韓国であったような記憶がある。
 ベトナム、インドとアジアの最深部からの謡曲ではないか?
  日本のような、民族の同質性を持つ国が珍しいことを思い出さなければ
 いけないと感じる次第であります。
  端的に結論を言うと、マカオでした。壁だけの教会、時期によっては、
 周辺はインドだったり、ベトナムだったりする不思議な場所。
  上海から、警察予備隊構想を持ち込んだのは、高杉晋作であったが、
 岩崎弥太郎も当初から係わっていた人物である。
  マカオの成立には詳しくないが、租界となっる以前から、「壁だけの教会」
 に象徴される不思議な世界があったのでは。政情が不安定化すれば、30万人
 単位で流民化した群集が来ては去る。果たして意思や魂などあったのか?

  江戸通
[2008年01月02日09時10分]
お名前: 素里奈
江戸通さん 早速賀状をたまわり有り難く存じます。
2008年が東アジア全地域に平和が訪れる最良の年でありますように・・・特に韓国半島と日本列島に幸せのレインボウ・ブリッジがかかるように念じております。

話変わって、朴正熙大統領時代に、勤労青年の酷使に耐えかねて、金泰壱青年が、たった一人の母を残して抗議の焼身自殺をしました。そして朴大統領の警護室の金戴圭は車鎮てつと共謀して、朴大統領を狙撃、二人がその場で死亡した。人間も鳥も、尻尾が長いと、踏まれることがある。
 独裁はさて置き、ヒトラー死して、アーバン・ストラッセー(西独全土に、胸の透くような高速道路)を残した。先年、通常180キロ〜210キロで一時間程、走ってみた経験があるが、別世界の感があった。ヒトラーの偉大な遺産。規模はやや小さいが、朴正熙死して、京釜高速道路と、漢江の奇跡・経済発展を残した。
 話題を変える。
前掲、宇喜田秀家の「請願書」が、話半ばなであり、江戸通さんがお触れになった、捕虜になった朝鮮王子二名の話が、その後どうなったかが、気になるので、締めくくることにしたい。  漢城西方十四キロメールにある朝鮮山城(城主・丁傑)を、宇喜田の依頼により、攻めおとす先峰をかついた小西行長が目的を達することの出来なかった、ほんとうは、その成功によって、小西行長が起こした以前の失戦の挽回をはかって、その名誉回復を図るという計らいがあったが、小西の戦果ははうまく宇喜田の思惑を満たすことは出来なかった。敗退した小西に、明・朝鮮軍に「和議」の書を作らせた。
その書状は、次のような経路で回送された。先ず、丁傑の元に,白旗を立てた日本側の使者が命がけで疾駆して持参。受け取った丁傑は、義州に在った王朝政府にいる柳成龍「リュウソンヨング」・領議政(宰相)に渡した。柳成龍はその書状を、明将・査大受(サデジュ)に届ける。査大受は自分で封を切らずに、平壌の李如松に届けられ、始めて封が切られた。李如松はそこに居合わせた、朝鮮駐在のしんがりである明臣・宗応昌と共に読んだ。内容は、  “日本側はすみやかな和議の交渉をしたいので、代表者を日本側の陣所まえよこしてほし” いとの内容であった。明側は沈惟敬をその使者にたてることにした。      明側が示した和議の条件は、きびしかった。
一、日本側は朝鮮二王子、陪臣らをただちに朝鮮へ還元すべし
二、日本側は朝鮮の故土をことごとく返還して、日本軍は釜山まで交退すべ
 三、右二件完了後、和を許す
というものであった。 以下、長いので省略するが、しかじかあって、この和議が功を奏して、生き残りは、無事に日本に帰還したから、のちの大河ドラマに加藤清正だの、小西行長の名が残るが、この時の和議を履行して、無事に戻って来た滓影でなかろうか。


[2008年01月01日22時33分]
お名前: 江戸通
韓国からの通信
―― 1972.11〜1974.6 ――
T・K生
「世界」編集部 編
雑誌「世界」の1973年5月号から88年3月号にかけて連載された「韓国からの通信」.それは72年10月に戒厳令が布かれて以来の緊迫する韓国の政情,民主化を求める知識人の動き,そして民衆の声を伝えて反響を呼んだ.連載をもとに編まれた4冊シリーズの1冊目である本書では,金大中氏拉致事件を含む激動が生々しく報告される.
 http://www.iwanami.co.jp/search/index.html

 素里奈さん。明けましておめでとうございます。
 高校時代、「韓国からの通信」には、だいぶお世話になりました。
 お世話様です!。年間を通じて購読会にも参加しました。
  T.K 生 って誰だろうということも話題になりました。
 @、OOTAKE先輩 
    理由 子音を除くとTとKだし、生徒だから。
 A、大竹じゃ似ているだけし
    金策の誰かじゃないか?
 B、金芝川
    案外辛辣なこと言う、著名人だから
  皆さんは誰だと思いますか。
   私ごとながら。Aの意見を言って、謹慎処分となりクラスで授業を受ける
  ようさとされました。
   
  朴体制があまりに、専制的になり暗殺、暗殺という結果に終わり、
 農村でうまくいった「セマウル」がどうなろうかという時期でした。

  懐かしいですね。


 江戸通


[2008年01月01日19時21分]
お名前: 素里奈
確かに、一時は日本軍の鉄砲(火縄銃)の放列で、明・朝鮮連合軍は、じつに呆ッ気なく崩れたち、しっぽをまいて敗走した。しかし日が経つに従って、水上軍の李舜臣の奇襲に伴って、日本陸上軍の兵糧にも問題であり、李舜臣軍が浅瀬に座礁する失敗もあったが、女まで動員して抵抗する朝鮮側の義兵を向こうに回すには限界があった。
話をはしょって、秀吉の渡海に移す。
秀吉の渡海を知らされた漢城(現在のソウル)諸将は、一様にびっくりした。いくら秀吉が大軍とともに渡海しても、苦境にある現況を打開できる見込みはなかった。
 宇喜田秀家は、急遽、二月七日(文禄二年・一五九三)生き残った日本軍の将たちを、漢城の戦線後方・本陣に招集、朝鮮へ侵略して始めての会議をひらく。だがしかしこの会議で出るべき結論は、最初からはっきりしていた。秀吉の渡海に賛成する者はいなかった。会議は秀吉に提出する請願書の文案作りに終始した。
「請願書
熊谷半次、垣見弥五郎、重而(かさねて)差下され当春御渡海なさる可き旨仰出され候処、憚り乍ら御延引成され候様にと存知奉り,有姿言上致し候
一、都の兵糧色々穿鑿(せんさく)仕り、ぞうすいを給(たべ)居候で、今四月一一日迄充分御座候、諸々成る兵之儀、熊谷半次、垣見弥五郎言上有る可き事
    (以下便宜上省略) 
一、赤国、青国、成敗の儀、各々申し談じ「省略」。

要するに現状の苦しさを、使者として来た熊谷・垣見の両者が直接見たままを証言する筈である、云々である。

請願書の文尾:
然者当年御渡海の儀、憚りながら御延引成され候様にと存知奉り候
三月三日
  益田長盛 石田三成 大谷吉継 加藤光泰 前野長康 黒田長政 小西行長
 毛利吉成 加藤清正 鍋島直茂 福島正則 生駒親正 蜂須賀家政 大友吉統
 吉川広家 小早川隆景 宇喜田秀家
十七名。秀吉直轄と思われる加藤清正も署名したほど、戦況は逼迫していた。しかも加藤清正が(北の安辺「アンビン」)から敗走しながら、本陣へ参じたため)出席した時点では会議は終っていたが、全員膝詰めで清正に署名を迫った。なにごとも強気の清正にも、いま秀吉が渡海することは、愚策であることはあきらかだった。無言で署名した。件の請願書を紙面のスペースの都合で省略したが、文中赤国、青国云々は、秀吉が大阪城内の陣机の上で、朝鮮八道に色づけして、もし分捕ったら、各将軍に分ける算段をした原図の表現にしたがったものによる。


[2007年12月30日01時00分]
お名前: 江戸通
 大明国御動座または、唐入りについて、
 京畿道に宇喜多秀家。忠清道に福島正則。全羅道に小早川隆景。
 慶尚道に毛利輝元。平安道に小西行長。咸鏡道に加藤清正と分担を
決め。ソウルから小西行長が朝鮮国王が移った平壌を占領、加藤清正が
會寧で二王子を捉えた。
 明の介入で戦線が膠着しだすと秀吉本人が、渡海する意思を明確にした
時、大老職の徳川家康と前田利家が名古屋(肥前)の本陣を預かる立場から
反対し、出陣を止めさせた。こうなって、兵站に責任のある石田三成(??笑い)
は結果的には渡海していない。施政方針は、国内と同じで年貢をとり、
在地を掌握するようにと指示がでていたのですが。
 この問題は、確かに近代でもありえますね。国内の合戦と同じようにせよと
言う指示が守られなかったということですね。
>当時の名宰相であった李完用は、解決の道は韓国を日本に
>併合することだと考え、日本の力で近代化を達成する道を選んだわけです。決し
>て、韓国の教科書の言うような売国奴であったわけでは無かったのです。
 渡海に参加した大名の大半は、西国の大名で、国内の矛盾を外国に押し付ける
という感覚ではないはずですよね。
 関が原で、石田三成に反感が集まったのは当然ですね。文治派といえども、
西国の大大名ですから、また加藤作内(光泰)のように借金まみれで蔵入地に
手を付けるようなこともないですしね。
 後に、大垣城に30万石の米を集積しており、これが一つの争点となり、
戦場は、大垣と京都の間でなければならない原因ともなっていますね。
 石田三成は、官僚ではないのですから行動が少しおかしいですね。官僚と
いうと足利義昭出家して道休と号して入洛、変わって楠長諳を祐筆として
重用していますね。国内の問題は、織田信長以来の問題には、決着をつけて
はいます。

  江戸通
 
[2007年12月29日22時16分]
お名前: 素里奈
(東アジアの古代文化を考える会へ投稿した「年の瀬の挨拶」ものを、そのまま転記する)。

おそくまでご苦労様でした。
知ったかぶりに、手元の参考書を探り、「Good−by」の語源を求めて、頑張り屋さんの玉枕氏の投稿にエコーし、そして幹事皆さんの一年の労をねぎらう。

Good-by[e] さよなら、ごきげんよう。“God be with you!”の転化。エリザベス朝によく用いられた“God be with thee.”[ごきげんよろしゅう]は敬けんの念からおこった送別のことばであるが、いまでは good−by[e]という形に短縮されて、単に因襲的の無意味な定型にすぎなくなった。すなわち、good−night,good−morinig などの類推によってgoodをGodの代わりに置き換え、good be wi‘you,God bwy yee,
God b‘wy,God−by‘eを経てgood−by[e]となったものである。

「参考」この句の語源についてはTrautmannは‘good be by you’のcontractionであるといっているが、Skeatはこれに反対し
‘God be with you’であるといって、つぎのように説明している。
God be with youが God bwy or God buyとなり、意味がobscure(あいまい)となり、ye,yee,or you がつけられたのである。したがって、現代のgood−by(e)は God be with you ye,or God be with youの代わりをしているもので、T r a u t m a n nがこのSkeatの説をimpossible といっているようには
‘impossible’なものでは断じてないといっている。
「Principles of English Etymology」より抜粋。
 
耳学問ですが、かの有名な劇「ハムレット」の時代は、さようなら を
God be with you all the time などと、長たらしくお別れの言葉としたが、面倒なので、短縮してGod−byが転じてGood−byになったとか。しかし上記に参照した辞書には、そんなことは書いてないので、出鱈目かもしれない。
ついでに、韓国語では、親しい間柄だと、“さようなら”を“Jarr Kasseyo”(雅にお帰りあれ)という。
皆様よいお年を!

[2007年12月29日14時59分]
お名前: 素里奈
前述 下から8行目 「ご母堂が法的」云々は
          [李王垠殿下の妃殿下[梨本家から嫁した、後の李方子氏」が正です。
  
      勘ちがいをお詫びして訂正します。
[2007年12月23日16時31分]
お名前: 素里奈
李承晩元初代韓国大統領の在任期間は12年であるのを、前の項で、13年間としたのは、筆者の勘ちがいでした。お詫びして訂正いたします。
ついでに、言い残したことを追伸する。

記録では、朝鮮(南北)戦争が起きる直前(1950年5月30日)に実施された第二代国会議員選挙は、あなたの惨敗でした。無所属が多数当選し、210議席中162議席の62・8%をしめたものでした。つまり、あなたはみんなの支持を得ることが出来ない位置にあったのです。戦争中であったので、あなたはソウルにおることができないで、其のキャビネットを南端の釜山へうつさざるを得なかったのです。
 そして、おのれの位置を守る為に恐々として、大統領直接選挙制と両院制を骨子とする改案を仮政庁・国会に提出しました。そして翌一月、国会は賛成9、反対143、棄権1という圧倒的な評差で否決されました。
 しかしあなたはふたたび改憲案(抜粋改憲案)を提出し、七月四日、非常戒厳令下で議員を強請連行し警察と軍人、白骨団、民衆自決団などと称するテロ団体が取り囲むなか、起立票決で可決させました。この一連の事態を現在でも、韓国の歴史家は “釜山(ブサン)政治波動” といっております。
 1952年、第二大統領選挙で再選されたあなたは、1954年9月「初代大統領に限り重任制限を撤廃する」という内容を骨子とする改憲案を国会に提出、在籍議員203名中賛成135票、反対60、棄権7、欠席1となり否決されると、改憲に必要な三分の二議席は135、3だから四捨五入すれば135になると言って、可決されたと宣布しました。奇想天外なこの事件を韓国社会では、現在でも「四捨五入改憲」と言い伝えております。
あなたは在任中に、植民地下で、伊藤博文が留学の名目で日本に連行して再び帰国させることの無かった李朝最後の国王「李王垠」とも面会しました。 筆者の私見では、ご母堂が法的(元は7世紀の朝鮮渡来人の後裔で無い証拠はない)には国籍は日本の皇族であっても、垠殿下は朝鮮王の正当な血筋であることは間違いないものでした。この最後の「王」があなたにお会いした時に『何を望んでおられた』かは、筆者の想像外ではありますが、あなたが、その存在を無視した裏には、もしかしたら、前述にみる「李承晩が大統領である限り重任制限を撤廃する」法律や、「四捨五入改憲」と無関係だったのでしょうか。もし、あなたが現在もご生存中でしたら、直接訊問してみたいと思うのは筆者一人の妄想でしょうか。

[2007年12月23日16時05分]
お名前: 素里奈
年明けに、隣国の大統領が10人目に変わる。
過去の9人の面影を追って、一筆啓上方式で筆者の私見を述べてみる。
李承晩 (l948〜l960)13年間もキャビネットを預かりながら、マック・ア
ーサー元帥を説得して敗戦・日本国民の飢えをカバーして成功した吉田 茂さんには遠
く及ばない人物(政治家)でした。筆者の間違いでなければ、吉田さんは乞われて三度(う
ち一度は、かの有名な“バカヤロウ”解散を含めて)総理を勤めた。そして、岸、佐藤総
理の時代までアメリカ梱包のケアー物資が、横浜港から列車に積み込まれて、次から次
と東京に運び込まれ、敗戦後の腹をすかした日本人の褐を癒すために奔走したのでした。
図らずも朝鮮半島に南北戦争が勃発したが、あなたには米国進駐軍の力を借りる他に、何等手立てはありませんでした。あなたは、名ばかりの大統領でした。反面、G・H・Qの要求により日本は、その朝鮮戦争に自動的に米軍の銃後の軍需物資・武器の製作を担う羽目になり、吉田さんが一言 「“これで日本は助かった”」。 という名言を発すような立ち回りに恵まれたのでした。占領下の日本経済発展に多いに寄与したものでした。

あなたの13年間の在任期間は、明治政府が朝鮮半島を併呑していた36年の年数の
1/3に相当するのです。決して短い歳月ではありませんでした。あなたの大統領府は名ばかりでした。話は前後するが、朝鮮総督府・伊藤博文以後36年間の収奪で日本は大いに潤いました。 その後、朝鮮半島に、米国の進駐軍が上陸するや否や、まるで、
“後ろ足で砂を引っ掛けるかのようにしたまま”で、そそくさと朝鮮半島から引き上げてしまった日本人の残した傷跡(貧困)から立ち直る術を知らず、右往左往する韓国民衆の生活を、貴方は一歩も改善・発展させることが出来ない大統領でした。そして著名な出来事は、あなたの何人かの政敵らしき複数の著名人が、犯人不明のまま、暗殺されたことは、人口に膾炙して久しい事柄であります。有為転変する時代のスピードについて行けなかった時代遅れの妖怪、そしてあなたは権力の上に胡座(あぐら)をかいた怪物 Rhee Sueng Man でした。13年の歳月が、今更惜しまれます。 あなたの唱えた反共の大義名分(アメリカの顔色伺いの)」と、腹をすかした民衆の飢えた生活とは、全く別な政治問題だったのです。国民の飢えを満たすことの出来ない大統領は、大統領ではありません。早々に、アメリカあたりへ亡命でもすべきでした。
  
こう描写すると、貴台はまるで無能な人物であったように見受けられますが、
決してそうとは言いません。あなたは、朝鮮半島解放前には、上海で韓国臨時政府を樹
立して地下・反日闘争に明け暮れ、そして、あなた個人の肉体的なことでは、当時日本
の関東軍の憲兵に捕らわれて、筆舌に尽すことの出来ない拷問をうけた結果、貴方の両
手の指爪が10本とも、永遠に生えてこないまま、毎朝夕・その手を洗うたびに、爪の
無い両手を見つめて伸吟したことまで無意味とは言いません。しかし、貴方は在任中
一度は日本を訪れる努力をすべきでした。あなたの13年は一体何だったのですか。


[2007年12月22日00時24分]
お名前: 素里奈
前掲・・・水軍はほぼ全滅した・・・云々に続く
  
そうして慶長の役では、行動開始後わずか一ヶ月半ばで、南岸沿いの東は蔚山(ウルサン)(清正)から西は順天(ジュンテン)(行長)の間の海岸地帯に押し込められる。秀吉を支えてきた西国の武将たちは人的および財政的な損耗がはなはだしく、そうして武将間の対立を生む。一六00年の関が原の戦いおよびその後の豊臣家の運命は、侵略戦争の過程ですでに決まっていたのである。
 
 両国の国交は、徳川家康と秀忠の誠意によって再開されるが、家康は一六00年九月、関が原の戦いの後、対馬の宗義智に対し、国交回復に全力をあげるように指示している。
「日本朝鮮和交の事、古来の道なり。しかるを太閤一乱の後その道絶えぬ。通交はたがいに両国の為なり。まず対馬より内々書をつかわして尋ね試み、合点すべき意あらば、公儀より命と申すべし」。
 
 これをうけて、朝鮮王朝政府は、二度と侵略しないことを誓う家康の国書をよこすこと,朝鮮王の陵墓を犯(盗掘)した賊を捕えて送ることの二条件を示し、一六0七年に国交が再開される。貿易協定がむすばれるのは一六0九年。そうして明治維新までの二六0年間、史上稀に見る善隣友好が保たれ、両国の社会・経済および文化の発展をもたらす。

 江戸時代の善隣関係は、秀吉の引き起こした不幸な関係を二度とくりかえさないための教訓が生かされた結果というべきだろう。 了。

蛇足: 1.折りよく明晩NHK『その時歴史は動いた』(前ペイジでも触れた)の番組が「対馬・宗義智」のくだりなので、筆者のこれまでの描写と併せて、乞うお楽しみ。
   
2・上で示した徳川時代の善隣友好が維持され、そして明治政府の併呑政策の再発    
が無かったなら、今日の朝鮮半島の38度線も生まれなかったであろうことが
おしまれる。

[2007年12月18日07時03分]
お名前: 素里奈
前ペイジ日付け(07.12.12.)は(07.12.19.水曜日)のあやまち、お詫びして訂正します。
[2007年12月17日19時07分]
お名前: 素里奈
いつまでも長々と秀吉の無謀な采配ぶりを描写しても、新鮮味は薄い、そして人口に膾炙して久しい歴史的記録でもある。 そろそろ終戦(乱)の前後の日本侵攻軍のありさま、そして豊臣家の最後の様子を垣間見ることにする。長いので本頁他3度ほどに分けて綴る。

しっかりと記憶すべきことは、日本と韓国は隣国同士であるため、ときには斬轢とか紛争が生じた。豊臣秀吉の起こした侵略戦だけは二度とも宣戦布告なしの不意打ちだったので、手の打ちようがなかった。記録によると 
小西行長や対馬の宗義智 (余談になるが、明後日07.l2.12.水曜日)のNHK総合『その時歴史は動いた』でこの辺の微妙な雰囲気が描写されるか否か楽しみである。)
等は、諮って止めようと奔走した様子であるが、彼らの力ではどうにもならなかった。

一五九二年四月に起こった秀吉のわがままな作戦(日本でいう文禄慶長の役/韓国でいう壬辰倭乱)は、はかり知れない惨禍をもたらし、その痛手をいやすのに長い年月を費やさねばならなかった。いっぽう、日本側も兵士や農民を狩り出して多大な犠牲を強い、日本の農村を荒廃に追い込んだ。たとえば、開戦十一ヶ月後、小西軍は、出っ張る時期の人員
一八、七00名に対し、生き残り六六二六名、加藤清正軍は定員一万名に対して実員残数
は五四九二名に減っていた。第一線の軍勢は十一ヶ月間に約半分をうしなっていたのである。しかも、日本水軍は李舜臣(イスンシン)の亀甲船(当時としては、画期的な武装船であった。)の奇襲作戦によってほぼ全滅したとある。つづく・・・・
 


[2007年12月17日15時13分]
お名前: 素里奈
前掲「豊臣秀吉の朝鮮侵略」につづく

この時代の朝鮮王朝はオランケ(女真族)が、朝餉の油断している時間帯に、時々、馬で乗り付けて来て、女、子供を攫って行く人災などがあったが、自ら鴨緑江を渡河する遠征隊を送って平定し、大過なく安泰で平和な時期であった。朝鮮社会全体が順調な展開をしている一時大きく攪乱したのが、一五九二年と九七年の二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争であった。この侵略戦争の原因を、秀吉個人の誇大妄想にのみ求めたり、中国への侵入通路を求めたのに過ぎないのに朝鮮側が拒んだのをとがめたものとみるのは、皮相な見方で、天下統一後の内部矛盾である大名の不満を領地の拡大によって解消することを策したものである。つまり、まがうことなき封建的侵略・膨張主義の表れで、何ら弁明の余地がない。実際、侵略後に参戦諸大名に朝鮮全土を分割賜給する試案(大阪城内の陣机の上には、朝鮮の地図を線引きして、色をつけ、ここは加藤に、その上は宇喜田某にと色筆で区分けして楽しむのが秀吉の日課であった。「筆者注」)まで準備されていたのである。日本側ではこれを「文禄・ぶんろく慶長・けいちょうの役」という平面的な名でよび、はなはだしくは「朝鮮征伐」などという言葉があるが、朝鮮側には何ら征伐(::)されるような理由はない。朝鮮側で「壬辰・丁酉倭乱イムジン・チョンユ ウェラン」とこれをよぶのはとうぜんである。
端午の節句に「加藤清正の虎退治」の人形を飾る風習は江戸時代に始まるというが、それは恥ずべき侵略排外主義の民間への普及を物語る事柄である。 (この加藤清正の虎退治のことであるが、15世紀末頃までは、朝鮮半島の森林は昨今より深かった、虎がいたことは確かである。たまたま蔚山沖の入り江(日本史の記録では、今の西生浦になっている。)に下船した清正軍が布陣して,その日の行動会議をしている所の前を,早朝帰りの腹の膨らんだ虎が通りかかったに過ぎない。もしも、真夜中空腹の虎が車座めがけて突進したと想像・・・無事にすむわけがない。第一、虎と言う動物、人間とは反対の時間帯に腹ごしらえをするものである。おそらく帰国後、熊本あたりの酒席で生まれた凱旋談義で 無責任な調子者が、 “清正の前では、虎まで遠慮した” に尾びれがついて、さらに羽根が生えた物語・虚言の延長線上のものではなかろうか。)
筆者は空前この場所を踏査したことがあるが、城門跡・門の奥に広場があり、2町ほど両脇に人家が建ち並ぶ奥が登り坂になっていて、頂上のまばらな松林には、元その城の礎石かと思わる同じ形の四角い切り石の残骸が数メートル土中に頭を擡げている場所があって、清正か小西行長の築いたものかも知れないとされている。その城門跡奥の広場では、今でも月の15日には、近郷の農家や漁師が生鮮な食糧を商う楽市が立つ場所になっている。「筆者注」)つづく・・・

[2007年12月15日12時12分]
お名前: 江戸通
>「留魂記」も一回ぐらいは読んでみたが、なにも記憶はなく、
>この沼崎某という人物の記憶くらいしか残っていませんでした。
 「留魂記」は誤りで「留魂録(りゅうこんろく)」ですね。
 お詫びして、訂正させてください。m(__)m
 音から流れるという部分を意識しすぎたようです。
  話を下関に戻したいのですが、下関は、大半が、長府藩(5万石)
 清末藩(一万石)の領地だったので、下関竹崎の有力者である白石正一郎
 は、支藩の御用を務める商人として有力者ではあるが、豪商ではなかった。
  自らの居宅を高杉晋作に開放し、奇兵隊結成に尽力し、また、西郷隆盛、
 吉井幸輔と言った薩摩藩士、さらに土佐藩から中岡慎太郎が談合を重ねて
 いる。
  奇兵隊の結成にあたっては、久坂玄瑞が京都で結成した「光明寺党」
 50人が、中核メンバーとなり下関防備の為、上海の警察予備隊を参考に
 正規兵である先鋒隊を補完する目的で、結成した。
  ところが、八月十八日の政変と先鋒隊とのトラブルから奇兵隊総督を辞任
 、総督職は廃止され二名の総監に変更された。
  政変や事変の相次ぐなか、白石正一郎は、奇兵隊に入隊し、士分となり、
 さらに、薩長連合が、木戸孝允、坂本竜馬、西郷隆盛の協議の末、倒幕を
 目的とした。薩長連合の結成は、京都で行なわれることとなった。
  久坂亡きあとの京都では、伊東甲子太郎らが影響を強く与えた「花山(院)党」
 が、近代化に尽力したのですが。
http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigokugai3a.html
  また、藩籍奉還が行なわれた明治4年には、長州藩は、僅かであるが、
 剰余金を政府に返すことにも成功している。
  莫大な借金は、藩の会計にそのままにし、撫育会計として別会計の予算
 を組み、明治初年に相殺しているようです。
http://www.kazan-in.com/
  重要な経済の拠点である下関では、豪商ではなく実際には、撫育として
 特別会計で、資金の運用も行なわれてらしい。
  宮廷女官も係わりが、あったのでしょうね。現在は、妖怪ずくしの
 ようです。

  江戸通
 

[2007年12月15日10時04分]
お名前: 素里奈

豊臣秀吉の朝鮮侵略
筆者は前の項で元寇に触れ、ついでに和寇始まりの時期にも触れた。そして大和寇・だいわこう(これは、『朝鮮史』を著わした元神奈川大学教授の梶村秀樹氏がその著書に描写した文言であるが、馴染の薄い言葉である。)そして、なんとも不思議な言葉である。しかし一時期和寇が、かの有名な村上水軍のある時期を意味したものでもあったといわれていることや、中部地方から出立した群れは頭領の名前を取ってA船団云々と言い合った。私的な海賊たちが日本の港を離れた場所によって、その名称が幾通りにも異なった当時の日本海賊船団の行為に比べれば、秀吉の命令で武装した船隊は、朝鮮側に対して、宣戦布告無しであったことが国際法上遺憾なしとはいえなくはないことをのぞけば、ほぼ日本全国を統一した後、形の上では立派な国家的な侵攻であったので、“「大和寇」”むしろ的を射た表現であると言えるのではなかろうか。

本当は、前述で前置きした「来る07・12・19日(水曜日)のNHK・『その時歴史は動いた』対馬の宗家の頭領が秀吉の朝鮮王宛てに発した「文書」を自己の立場の都合に合わせて添削・偽造した成り行き(当然話題になる筈である。と筆者は期待しておる。)を観てからこの項を投稿してもいいわけであるが、それはそれ、とりあえず、先行して「豊臣秀吉の朝鮮侵略」のありさまを、さきに描写・参照することによって、後にテレビ放映で観る「対馬島主・宗義調(よししげ)とその子・宗義智(よしとも)が、秀吉が朝鮮侵略に出立前の時期、対馬島対朝鮮王国、そして秀吉の誇大妄想的・いや雄大な政治感覚との板ばさみで苦しむ様を、事前に了承した上で、・・・・・一説では、宗家は徳川家の朝鮮宛ての文書も添削したとも言われている。などなど、件のテレビ番組「「その時歴史は動いた」」でどのように解説・描写されるかを拝見するのも一興かと思ったりするものである。つづく・・・

[2007年12月14日23時44分]
お名前: 素里奈
来週の水曜日(12月19日)9:30pm〜10:45pm時間帯にNHK・『その時歴史は動いた』で「対馬宗家の悩み」が放送される。お時間がありましたら、またご興味がおありの方は、明治政府が韓国併合を行う、すこし以前の「日本と韓国」の様子(歴史)が描写される筈であります。ご覧になられることをお勧めいたします。
[2007年12月13日02時16分]
お名前: 素里奈
 つぎに和寇は、むしろ元寇より早い一二二三年に朝鮮側の最初の記録があり、一六世紀まで間歇的に無数の襲撃・殺戮・略奪がくりかえされたが、とくに南北朝から室町初期(;一四世紀後半〜一五世紀前半、すなわち朝鮮の高麗末李朝初期)と、戦国時代(一六世紀)との、日本の動乱期=社会変動期がもっとも激しかった。なにゆえに、社会変動期の日本民衆のエネルギーが他国への海賊行為に向かったかは、日本史の中で解明されるべきだが、責任転嫁論をもてあそばず、まず我々(日本人)の先祖たちが、まぎれもない海賊行為をながい間くりかえしていたことを銘記することが重要である。
 侵略を受ける側からみれば、いつどこから不意討ちしてくるかわからない無統制な和寇は、ある意味では正規軍よる始末が悪く、朝鮮側に「沿海数百里の地、人煙を絶ち荒野となる」状況を生じさせた。物産豊かな海岸地帯で生活していた人々が、山奥へ避難せざるをえなくなったのである。(時代が直近の植民地になるが、朝鮮に於いては、土地を没収された農民が僻地へ、或いは朝鮮半島の外へ:例 満州〜一部日本内地に出稼ぎに・・出稼ぎを繰り返した。)
 こうした史実が、「何の物産もない貧しい海島中に住むゆえに、すきあらばがつがつと襲いかかってくる油断のならない連中」という蔑視を含んだ『倭奴・ウェイノム』『ナップンノンドル・度し難い奴等』観を朝鮮側に形成・継承させる遠因となったのである。植民地統治下のある民話風創作童話の描写では、「対馬島・テマド」に住む賊の額のまん中には角が一本生えていたくらい,和寇のイメージは強烈であった。 
 朝鮮側では,和寇の根拠地である対馬を反攻(一三八九、一四一九年)する一方、李朝に入ると「飢えているから悪事を働く」との認識のもとに懐柔策をとった。一四一九年,富山浦/ブサンポ(今日の釜山)・乃而浦ノイポ(今日の馬山マサン付近)・塩浦ヨンポ(今日の蔚山ウルサンの唐浦・タンポ付近)の三浦を開港地として、とくに倭人の在留と必需物資の調達を許し、これによって以後しばらくは平穏な時が続いたが、一五一0年その三浦在留倭人が乱を起こして以後、またまた盛んに海賊行為をやりはじめ、ついには最後の大和寇である豊臣秀吉の朝鮮侵略にいたるのである。(秀吉の侵略については後述)。
 参考文献:梶村秀樹氏の著書 『朝鮮史』新書東洋史・講談社現代新書 「所々筆者の私見を補筆」より。

蛇足:プンシン・スキル、ソシェ・ヘンジャン、カトン・チョンジンはエチオピア語ではない。現在年齢80歳代の韓国人はうたい文句のように諳んじるのである。翻訳は、ぼうとから、豊臣秀吉、小西行長、そして加藤清正の、朝鮮半島に滓るつわもの達の呼び名である。

[2007年12月12日18時51分]
お名前: 素里奈
元寇に於ける高麗人の立場は、加担を強制(後門の虎前門の狼・たとえ)後生日本の教科書は、「元・高麗連合軍」などと言う言葉を使って、まるで高麗に自発的侵略意図があったように描き出して「報復はとうぜん」という合意をもち、日本人の排外意識をあおりたてる卑しい意図を含んでいると言える。後の高麗軍の三別抄(済洲島での元軍への反抗参照)
実際、元寇侵略軍が二回とも台風(神風が吹いた!は意図的誇張である。台風は人力で起こせるものではない。)(中略)三回目の元軍来寇を免れたのは、モンゴルがベトナム侵攻戦に力を消耗させていた為である。勿論朝鮮・ベトナム両者も徹底的に抗戦した、これを乗越えてまで、再度日本侵略を行う意欲を沸かせなかったことを銘記すべきである(くわしくは旗田 魏氏の著書『元寇』中公新書 参照)

[2007年12月12日07時50分]
お名前: 素里奈
日韓や日中関係を一方の当事者の目から「對」でみるよりも、第三者の目でみれば、お互いがもっとよく分かる。韓国から日本を見れば悪魔に見え、日本から韓国を見れば、遅れて野蛮に見えるかももしれない。だが、それでは、まともな説明にならない。
 隣国に住む者として日本の存在は大きい。「日本の植民地になった方が得だ」と言われて、朝鮮は植民地にされた。だが、それは他の帝国主義国の支配より苛酷だった。日本自身が貧しかったから朝鮮を激しく収奪した。
 
(以下参照者の私見)
そればかりか、日本はただ収奪するに止まらず、施政方針にも問題があった。
例:英国と日本との口約によって、片やインドを、一方日本は朝鮮半島を手中に入れたが、両者のやり方は、天と地の違いを見た。前者は、如何なる場合も話し合いで事を処した、その延長線上にガンジーの「無抵抗の抵抗」が生まれる余裕があり、またアヘン戦争の約束であった99年9ヶ月満ちて香港を返還するにあたり、現地人は、英国人が引き上げることなく、政庁の政務のみ中国に返還して、現状維持を望むほどであったのに対して、後者は、直接に現地人(朝鮮人)を殴打・日本刀で斬首するようなことをして現地人の息の根をとめるやり方であった。村山談話「日本は国策を誤った」があり、一時、朝鮮半島人の心も柔らいたかと思いきや、最近は、再びそれを否定する政治家も現れているようである。善隣友好・遠くの親戚よりも近くの隣人と手を取り合う日の近からんことを切にねがってやまない。      (07.11.27日 朝日新聞『歴史は生きている』権 五g氏の論説を参照し、私見を加筆した。)

[2007年12月09日17時06分]
お名前: 江戸通
>安重根がロシア領の東南端に亡命していた朝鮮義兵団に、
>参謀中将としてむかえられていた。
 非常に微妙な関係だったのですね。あらためて驚きですね。
 この手の話になると「留魂記」にあるとやることが習いになって
いるようですね。
 江戸の伝馬町の牢名主沼崎吉五郎という福島藩士が、手配をして
「留魂記」「諸友に語(つ)ぐる書」を表し、この吉五郎に託した。
また、遺体の受け取りにも牢名主として奔走した。
 後、島流しになり、明治になって初代神奈川県知事となった
野村靖に、面会を求めこの二書を手渡した。
 野村靖は、明治4年には、岩倉欧米使節団に随員として同行し、
また、明治24年には、特命全権公使としてフランスに派遣され
明治27年には、内務大臣となっています。
 長州藩は、三浦半島の警備にあたり、伊藤博文も士分の始めは、この
任務であって、神奈川県ゆかりの件と考える人も多いのでは?
 吉田松陰が、李家に「才」があるとした文章はなにか知りませんが、
「陽明学」は、明代の李卓吾の例もあり、極めて危険思想扱いが行なわれて
いたのではないかな。明の李卓吾は、周囲にイスラム教という中国でも
珍しい環境のもとで、「陽明学」を学んだひとで、街の導師という「儒者」
には、いまもなお崇拝するものが跡を絶たないひとである。
 吉田松陰は、伝馬町で講義に及んだのは、「孟子」であって、「王陽明」
の説ではなかった。日本では、「実学」と呼ぶこの立場は、明治初年に、
諸隊の反乱、士族の反乱のなかで、自らを危険思想として封印したので、
若干ずれがでるのはいたしかたないと思う。
 ここでのゆきさん達の努力で、むしろここ数年紐解かれているとしても
過言ではない状態です。
 学生時代、「留魂記」も一回ぐらいは読んでみたが、なにも記憶はなく、
この沼崎某という人物の記憶くらいしか残っていませんでした。
  江戸通
[2007年12月08日22時55分]
お名前: 素里奈
安重根がロシア領の東南端に亡命していた朝鮮義兵団に、参謀中将としてむかえられていた。義兵団は大陸進出の日本兵と戦うことしばしば、ある時その部下が、日本兵と日本商人四名を捕えてきた。安重根の前に引き出された。日本軍が朝鮮人義兵を虜えた場合、日本兵は必ずと言っていい、容赦なく惨殺している、その場所が中国(当時の支那大地であるに拘わらず)それを知っている日本の捕虜たちは、恐怖におののいだ。
しかし安重根は、日本兵たちを殺さなかった。かえって安重根は、捕虜たちに向かって、つぎのように諄々(じゅんじゅん)と説いて聞かせた。(中略)「今日、君達がこのような目に遭わなければならないのは、みな伊藤博文の誤った政策のためてである。伊藤博文は明治天皇の聖旨を守らず、ほしいいままに権力をもて* (伊藤博文が朝鮮で出来なかったことは、「女を男にすることが出来なかったこと意外は、何でも出来た。個人的には、全羅道一の美女を、妾に指名して、鹿鳴館に連れてきて、この美女は余の韓国に於ける秘書であると嘯(うそぶ)いた。」 *あそび、日本と大韓国の生霊を数えきれないほど殺害している。このことを知っている日本兵の何人かがうなずいた。安重根はそれを認めると、にっこり笑った。そしてさらに、きみたちは乱臣賊子を掃滅しなければいけいない。そうすれば十年を過ぎぬうちに東洋の平和を図ることができると付け加えた。・・・」この安重根の雄大な理想は伊藤博文の朝鮮半島・中国大陸掌握の野望とは正反対のものであった。

[2007年12月08日20時01分]
お名前: 江戸通
>韓国では1907年に国王高宗(李太王)がハーグの万国平和会議に密使をおくって
>日本の不当をうったえて失敗し(ハーグ密使事件)、韓国民衆による反日武装蜂起は全土にひろ>がって激化したが、日本はこれらの動きを制圧した。
Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) 1993-2000 Microsoft
 Corporation. All rights reserved.
 現在は、ブッシュ親書が話題になっていますが、李朝の高宗は、その存在も
アメリカにも認められており、統合んもシンボルとしても価値が高く、かえって
日本からうとまれたんでしょうか?
 高宗ではないと思われるが、李朝には、実学の立場からも認められる存在が、
多数いたようですね。
 日韓併合は、勝海舟いらいの念願とされていますが、このラインは再考の余地
があると考えています。近代化というか列強のなかで軍備も整えながら近代化を
実施するのは、至難の業だと指摘されていました。
 初代統監の伊藤博文は、吉田松陰の主張をよく理解していたようです。暗殺という
テロ行為を無批判に受け入れては、いけないと考えています。
 史料等はないが、安重根は、大アジア主義でロシアとは関係が特にないうちに
テロを行為に走ってますね。英雄扱いが、一つ問題だと考えますね。
 高宗のハーグ議定書重視という視点は、斬新で中味までは、知りませんが、
 受け入れ易いものだったのでは、まー大げさに言えば、国際連盟の走りの
 ような提案ですから。実際問題、覇権を認めつつ近代化を計るというのが、
 趣旨ではなかったと思います。世界大戦前なので、日本の覇権というのが
 認められるものではなかった。ちう国際関係は、確かにあったですね。
   
  江戸通
[2007年12月08日15時43分]
お名前: 素里奈
土龍さん今日は。
なるほど! おっしゃる通りだと思います。根拠は「くだりもの」が京・上方からのもので、「くだらないもの」・「つまらないもの」が江戸在云々。この言葉は和訓が日本国内で成立し、夏目漱石の標準語が書物になる前後に定まった?ものであったらろうと想像するから。夏目漱石以前は、お互い言葉の通じないことで、大変だった模様ですね。
 
わたしが参照した韓国側の書物『王仁と日本文化』は、大分韓国びいきな面がうかがえ、船着場の地名「くとれ」に、日本の和訓「江戸前期・ふじわらせいか・以後」に出来た江戸前のことばを譬えたのは、だいぶ無理があるみたいです。
 やはり、韓国側の件の「くとれ・たとえ」は、渡来文化・河内王朝の歴史的背景とは切り離して研究すべきかとおもいます。
 ご指摘のレスに感謝・多謝。

[2007年12月07日11時51分]
お名前: 土龍(もぐら)
 すいません。
「くだらないもの。」とは
江戸時代、江戸の町で生まれた言葉です。
江戸前期〜中期(ものによっては幕末まで)
江戸はまだ産業・文化の後進地でした。
着物・酒・その他諸々
良いモノは、京・大坂からの
「くだりもの」だったのです。
「くだらないもの」とは江戸在地の「つまらないもの」です。

ご参考までに。
[2007年12月07日10時18分]
お名前: 素里奈
百済(古代朝鮮半島南西部の国ノ呼称)日本ではごく自然に「クダラ」と読む。ところが本場の韓国ではこの「クダラ」が通じない。史学者も一般の人も「ペクチェ・ハクサイ」でないといっこうに話が進まない。
 日本の大阪の市内には、クダラ駅がある。この駅の漢字書きは「百済駅」である。近い所に百済橋さえある。日本語で百済を「くだら」と言う。それは韓国の白馬江の扶餘(ふよ)の方に「くとれ」船着場があった。昔百済人が毎日順番に船に乗って日本へ渡って行く時、この「くとれ」船着場を通して行った。百済のという文字を「くだら」と伝播させて読む由来がここにある。そうして、現代でも日本人は「つまらない」という言葉を「くだらない」と言う。その言葉は即ち「百済でないもの」又「百済にないもの」は、「役に立たない」「つまらない」と言う言葉である。おそらく昔の河内地方に落ち着いた渡来人が、日々の生活が落ち着いて来ても、おにには、郷愁やるせない心情が、ことが巧くいかない折に発した言葉がその語源ではあるまいか。
 河内王朝を作り上げた応神天皇は、果たして何処から来た人物であるかという問題に対する歴史的論難(はっきり韓国から来たと描写した『書物・もある』)も長い間続いている。
 河内王朝史をつぶさに研究してみる必要を感じる。

[2007年12月06日14時40分]
お名前: 師にとう
 本題とは、離れますが、小生日本史は嫌いです。
>長州では下関の
>白石家(維新後に破産)とか、
>薩長と幕府の双方に資金を提供した三井家とか
 松陰が、高杉に宛てた書簡に

 死して不朽の見込みあればいつでも死ぬべし。
 生きて大業の見込みあればいつでも生くべし。
 
 これは、吉田松陰が、李氏の文に触れ、感動を
 文章にしたものとされています。朝鮮の李氏は、
 半島にあっては、宗学の家柄で、リャンパンを
 作った人としても有名です。
  王朝完成を祝う式典で、文武両官を並ばせた
 ところ、きれいに二つに分かれて左右に侍した
 序列から作られた貴族制が「両班」です。
 下関の話題ですが、白石家は、長府藩の関係から本藩の命により
 全ての商権を取り上げられ、幕末には、既に破産しており、
 白石正一郎が、功績により士分に取り上げられ、維新を迎えています。
  高杉宛の書簡が、白石に残されたといっても過言ではありません。
 なお、東行庵という墓所には、うの(おうの は 通称)が生前に、
 果たせなかった、高杉とくらすという夢を実現したといいます。
  この、うのさんは、京都の芸子さんで、金払いの「良い」長州の志士
 といる事が、しやわせという事を実現した数少ない人です。
  ちなみに、薩摩藩の大久保さんは、色が黒かったに、モアイのような
 顔だったため、晩年、髭で体裁を整えたとか。
  維新は、回転しています。

  江戸通
[2007年12月01日22時26分]
お名前: 素里奈
日韓や日中関係を一方の当事者の目から「對」でみるよりも、第三者の目でみれば、お互いがもっとよく分かる。韓国から日本を見れば悪魔に見え、日本から韓国を見れば、遅れて野蛮に見えるかももしれない。だが、それでは、まともな説明にならない。
 隣国に住む者として日本の存在は大きい。「日本の植民地になった方が得だ」と言われて、朝鮮は植民地にされた。だが、それは他の帝国主義国の支配より苛酷だった。日本自身が貧しかったから朝鮮を激しく収奪した。
 
(以下参照者の私見)
そればかりか、日本はただ収奪するに止まらず、施政方針にも問題があった。
例:英国と日本との口約によって、片やインドを、一方日本は朝鮮半島を手中に入れたが、両者のやり方は、天と地の違いを見た。前者は、如何なる場合も話し合いで事を処した、その延長線上にガンジーの「無抵抗の抵抗」が生まれる余裕があり、またアヘン戦争の約束であった99年9ヶ月満ちて香港を返還するにあたり、現地人は、英国人が引き上げることなく、政庁の政務のみ中国に返還して、現状維持を望むほどであったのに対して、後者は、直接に現地人(朝鮮人)を殴打・日本刀で斬首するようなことをして現地人の息の根をとめるやり方であった。村山談話「日本は国策を誤った」があり、一時、朝鮮半島人の心も柔らいたかと思いきや、最近は、再びそれを否定する政治家も現れているようである。善隣友好・遠くの親戚よりも近くの隣人と手を取り合う日の近からんことを切にねがってやまない。      (07.11.27日 朝日新聞『歴史は生きている』権 五g氏の論説を参照し、私見を加筆した。)

[2007年12月01日16時18分]
お名前: カーター
 ヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡・日本」を読みました。歴史学者でありGHQの一員であったヘレン・ミアーズは、1948年に本書を出版し、アメリカは日本
を裁けるほど公正でも潔白でもないことを証明しました。ハードカバーの高いもの
しかなかったのですが、角川Oneテーマ21の抄訳の新書版が出たのですぐに購入して読んだものです。
 ミアーズは、開国から第二次大戦までの日本の歴史について、信義と友好などと
言う古い考え方ではなく国益に基づき行動する欧米列強のやり方(パワーポリテイクス)を真似することで日本は成長し列強の仲間入りをしましたたが、1922年に日英同盟を破棄したころから欧米の言うことを聞かなくなり自分で考えて行動するようになったと述べています。英米は日本の先生であったのですが、言うことを聞かなくなった日本は孤立化されあの悲劇の大戦に至ったと説明しております。戦争のための鉄や石油などの資源までアメリカに頼っていた日本は、アメリカによる経済制裁のため資源確保のために、大陸や南方へ進出せざるを得なかったのでした。マッカーサーも認めたように、あの戦争は自衛のための戦争であったと。
 そこで、ミアーズが韓国についてどう書いているかを紹介しましょう。
---------------------------------------------
 日露戦争後、アメリカは「事実の論理」を認め、韓国から代表を引き上げた。韓国皇帝はセオドア・ルーズベルト大統領に訴えたが、大統領は韓国は「自主統治に
も自衛にも全く無能力であることがはっきりした」として介入を拒否した。「その後の3年の間に、現地情勢に詳しい外国人たちの称賛を勝ち得るような改善が数多く出現した」と書いたアメリカの歴史家もいるのだ。・・米政府はとくに韓国と中国における日本の特権を認めた。ランシング長官は、次のように確認している。
「合衆国政府と日本は、領土的近接が国家間に特別な関係を構成することを認める。したがって、合衆国政府は日本が中国に、とくに日本の租借地が近接する地域
に権益を有することを認める。」
 こうした記録を見るかぎり、なぜ日本が韓国国民を「奴隷にした」として非難されるのか理解できない。もし、奴隷にしたのなら、イギリスは共犯であり、アメリカは少なくとも従犯である。日本での韓国での行動はすべて、イギリスの同盟国と
して「合法的」に行われたことだ。国際関係の原則にのっとり、当時の最善の行動基準に従って行われたことである。しかも、その原則は日本がつくったものではない。欧米列強、主にイギリスがつくった原則なのだ。
----------------------------------------------
 上記の前の文章で私が英米が日本の先生であったと言った理由が理解されると思います。日本は、当時英米が作り上げた世界のルールに従って行動したわけです。現代の価値観で当時を理解しようとすると多くの問題が出て来ます。戦後になって
もアメリカは懲りることなく、一旦たたいた日本を今度は反共の砦として利用しようとします。戦前の友好国であったソ連や中国との冷戦が始まったのです。大戦後
の朝鮮戦争やベトナム戦争はその象徴でした。「敵の敵は味方だ」と言う論理のパワーポリテイクスは際限ない問題を引き起こします。イイ戦争後のイラクしかり。
 ミアーズの本を読めば、アメリカの良心を感じることができます。胸のもやもやがすっきり取れて楽になることうけあいです。

                        カーター


[2005年08月13日14時09分]
お名前: コンコン
今日は久しぶりにのんびりできたぁー(^^)
そんしさんの
>でも立場によって変わる歴史認識というのは「歴史」の本質でも
>あります。
広嗣さんの
>「正しい歴史認識」
その通りですね。だから他国の歴史認識に左右される必要はないと
考えています。
中国の教科書では、日清戦争の時の黄海海戦は中国側が勝っている
ような記述となっています。そんな国から「正しい歴史認識」とい
われて同調する人たちがいることが、情けない。
カーターさんの
>日本の敗戦はとても申し訳ないと言う気持ちがあります
私は日本が負けてよかったと思っています。あの時代の体制は続い
てない方がよいでしょうし、韓国もそのまま日本に同化してしまう
というのもどうかと思いますね。

 ところで「新しい歴史教科書」のどこがおかしいのか、誰か教え
てくれませんか?尚、前回の「新しい歴史教科書」は持っています
が、今回のは持っていません

[2005年07月31日19時09分]
お名前: 広嗣
 私は「歴史観は人格権」と思っています。

 所謂自由主義史観や「新しい歴史教科書」然り、自由主義史観の立場に立つ人々の言う「自虐史観」然り、夫々の立場から言えば、「正しい歴史認識」になります。自分の史観が正しいと思うのは、大いに結構。しかし、自分(達)の史観<こそ>が正しいと思うのは、大変危険です。歴史教育で教師がある史観に基づいて授業を行うのは、止むを得ないでしょう。しかし、誰かがその人の史観にのみ基づいてその授業の「善悪」を決め付けるべきではありません。理想論ですが、夫々に正しいと信じる様々な歴史観があることを、児童・生徒が理解できるものであって欲しいです。

 印度だったかどこだったか、こんなたとえ話があるそうです。ある盲目の僧侶3人が、初めて象に触ったそうです。一人は脚に触って、象は柱のようなものだと言い、次は鼻に触って、管のようなものだと言い、最後は何に触ったか忘れましたが、ある物を連想したそうです。歴史観とはこういうものなのでしょう。


[2005年07月31日16時03分]
お名前: カーター
 コンコンさん、そんしさんレスを頂き有り難うございま
す。朝鮮や中国の問題は皆が敬遠するテーマですので、こ
のまま終わろうかと思っていたところした。
 先週のNHKのど自慢、そして昨夜の「のど自慢イン・
ソウルを、心の中の日本を歌った韓国人」の両方を見まし
た。その中で、戦前の教育を受け日本の歌や日本人が好き
だと言う老人が出ていました。老人の集まりでは日本語の
カラオケや日本語の会話を楽しんでいると場面も紹介され
ていました。一番印象に残ったのは、朝鮮戦争で南北で同
じ民族が殺し合いをした頃から、その老人は日本統治時代
を懐かしむようになったため、子供は親の気持ちが理解で
きず親子が対立するようになったと言うことでした。最後
に老人がのど自慢に出ることで、子供は親を理解し言葉を
交わすと言うハッピーエンドで「のど自慢」と言う番組を
自画自賛すると言う構成になっていました。
 私個人としてはあの老人に対して、日本の敗戦はとても
申し訳ないと言う気持ちがあります。日本が勝ってさえい
れば、南北で殺し合いをする必要がなかったのではないか
と思っておられる事でしょう。日本人が好きでいっしょに
戦ってくれたのに、敗戦となりその挙げ句、祖国は南北に
分断されたわけです。戦争に買った者同士が対立しそのエ
ゴがその分断の理由でした。
 私は韓国にもこのような年配の方がいらっしゃることは
呉善花氏の本を通じて知っておりましたが、実際にテレビ
で見たのは初めてで、やはり韓国も台湾と同じなのだなと
思いました。台湾にはたくさんの親日派の老若男女がおら
れ、現在のふがいない日本を嘆いておられます。李登元総
統や「台湾人と日本精神」(小学館文庫)を書いたサイ・
コンサン(漢字なし)氏などは、今でも戦前の日本精神を
賛美しています。彼らは、昔は日本人であったことを誇り
に思っているのです。
 李登輝氏の本を読むと、台湾人は日本人と同じように敗
戦の時に泣いたと、しかし、その時に朝鮮人達は、まるで
自分達が戦勝国の民であるかのようにふるまったと書いて
おられますが、そのような朝鮮人ばかりではなかったと思
います。この辺は、戦後の韓国の政策から口を閉ざした人
が多いと見えて、十分な研究がされていないように思いま
す。これからも勉強して行きたいと思います。その意味で
NHKの「のど自慢」は画期的でした。次は、台湾でもや
って欲しいです。本省人(戦後大陸から蒋介石といっしょ
にやって来た外省人を除く、中国系と原住民を意味する)
を中心にたくさんの老若男女が出て来る事でしょう。台湾
人は2。28事件(外省人による本省人の大虐殺)以来、
日本統治時代の方がましだったと思うようになったそうで
す。

[2005年07月31日15時05分]
お名前: そんし
でも立場によって変わる歴史認識というのは「歴史」の本質でもあります。
もしかしたら、「歴史」というのは、もともとそういうためだけにあるのかもしれません。

全ての生命の中で人間だけが唯一自分の体験にない過去の体験を知っています。いや知っているつもりになっています。

それはあたかも宗教のようなもので、人間は未来は不確定のものと思っているくせに、過去は唯一絶対の確定的なものだと堅く信じていますから、これが過去の歴史といって教科書をつきつけられると反論しにくいという特徴があります。

これを為政者が利用しない手はありません。科学の発展で宗教を絶対のものとした政治がやりにくくなっている今、第二の宗教である「歴史」を利用して、庶民を自由自在にコントロールする。これは権力者の夢でもあります。

為政者に都合の悪い歴史は消し去り、別の色を付けて作り直し、都合の良い歴史は、あたかも宇宙の論理でもあったかのように持ち上げます。それは中国だから、韓国だから、という事ではなく、知恵とひきかえに、「忘れる能力」が、他の動物に比べ、著しく劣ってしまった人類が、種の保存のためにどうしても必要として、おこなう行為なのでしょう。

為政者の「歴史に学べ」は危ないよ。これは私の歴史テーマです。

[2005年07月31日12時19分]
お名前: コンコン
途中できれていたので追加で
敗戦直後の韓国人達の振る舞いから日本国民の
彼らを見る目は戦前とは違うという印象を受け
ますね。中国・韓国の正しい歴史とは、彼らに
とって都合のいいのが、正しい歴史であって都
合の悪いことは、間違った歴史となります。
 そんな歴史認識など取り合う必要はないでし
ょう。
 ここは歴史SIG。正しい歴史とは真実で
あって都合のいい悪いで、判断する必要はない
でしょう。
[2005年07月31日11時04分]
お名前: コンコン
>残念ながら日本は負けたのです。韓国人にとっての日本の
>罪と言うのは、無謀な戦争に巻き込みながらアメリカに負け
>と言うことではないでしょうか?敗戦国にさせられたのは我
>慢がならんと言うことです
韓国の反日は戦後の韓国史も知っておいた方がよいですね。
戦後の韓国の首脳は日本統治時代に韓国にいなかったことも
一つの原因だし、日本統治時代より生活がどうなったかも一つ
の原因の一つだと思います。
敗戦国にさせられたのは我慢がならんと言うことではないです
ね。彼らは戦勝国民扱いされていたのですから

 敗戦直後の韓国人達の振る舞いから
[2005年07月31日10時58分]
お名前: カーター
 先の韓国の近代史においての見方について、若干の説明が必要です。従来の歴史観は
いわゆる王朝の交代あるいは支配者の視点からのものがほとんどであったのに対し、金
氏の見方は民衆の生活と言う視点から歴史がかかれていると言うことです。民衆の視点
と言うとすぐにマルクス主義の階級闘争の思想を浮かべがちですが、日韓併合の時代に
民衆の生活は向上したのかどうか民は幸せであったのかという視点です。金氏の答えは
鉄道、電話、学校、医療などの導入で文明開化を始めて味わうことができたと言う意味
で幸せであったと肯定しているのです。もし、朝鮮王朝がそのまま続いておれば、未だ
民は圧政のもとで前近代的な暮らしを余儀なくされたであろうと。支配者の視点からみ
れば都合が悪いと言うことになるので、「親日家のための弁明」は有害図書と言うこと
になったのです。
 ところで、伝統的な歴史観に基づく歴史書を読み返してみました。中公新書の「物語
韓国史」金両基著です。金両基氏は、近代史に関する知識が少ないと見えて全291頁
の内の225頁を新羅などの古代史にあてており、高麗、朝鮮以降はわずか66頁をあ
てているだけです。朝鮮が輝いていた時代を中心に書いており、その後の停滞について
は詳述を避けていると言えます。そして、日韓併合の際の条約文は、「日本帝国皇帝陛
下は両国間・・・・おたがいの幸福を増進して東洋の平和を永久に確保するために、併
合する」となっていますが、金両基氏は「と言う大日本帝国の奸計を見抜けず、李完用
(日韓併合に調印した当時韓国で尊敬されていた政治家)は売国奴としてその名を永久
に記録されることになった。」と述べております。韓国の歴史教科書に似ています。
 韓国軍人は戦争中は、日本といっしょに太平洋戦争に参加しアメリカとも戦いました。
しかし、残念ながら日本は負けたのです。韓国人にとっての日本の罪と言うのは、無謀
な戦争に巻き込みながらアメリカに負けたと言うことではないでしょうか?敗戦国にさ
せられたのは我慢がならんと言うことです。小泉首相は韓国のこうして気持ちを配慮す
べきなのだと思います。
[2005年05月29日11時12分]
お名前: カーター
金氏の「親日派のための弁明」を読みました。日韓併合は、朝鮮の近代化に
貢献したと言うもので、韓国人が素直に認めていることに重要な意味があります。
ひたすら、旧来の李王朝の専制体制を守ろうとする李王朝に対して朝鮮の革命勢
力は改革を叫びますが、朝鮮王朝はロシアや清をあてにして自らの延命を計ろう
とします。
 本書の面白いのは、単なる親日の本でなく、経済の発展段階の探求まで含めて
当時の朝鮮社会の改革の困難さを論じているところです。世界で自力で近代化を
達成し資本主義社会へ移行できたのは、ヨーロッパと日本だけであり、その理由
を国が多数の小国に分裂しお互いに競い合うことで貨幣経済が発展し資本蓄積が
行われブルジョアが成長し、市民革命へとつながったと言うものです。朝鮮や中
国は封建社会すら経験せず資本主義社会へと移行することができませんでした。
 高校の日本史では、主体がブルジョアではなく下級武士であったとか、市民革
命ではなく、幕府が薩長連合に変わっただけであるとか習いましたが、確かにあ
れだけの事業を行うには資金を提供した人たちがいたはずです。長州では下関の
白石家(維新後に破産)とか、薩長と幕府の双方に資金を提供した三井家とか。
 しかし、残念なことに朝鮮では革命勢力に資金を提供するようなブルジョアは
当時いなかったわけで、日本に資金を頼らざるを得なかったと言うことです。度
重なる革命勢力の攻勢に対して、李王朝は改革を拒み旧体制(専制)を維持しよ
うとします。そこで、当時の名宰相であった李完用は、解決の道は韓国を日本に
併合することだと考え、日本の力で近代化を達成する道を選んだわけです。決し
て、韓国の教科書の言うような売国奴であったわけでは無かったのです。
 その後の朝鮮は、日本による学校、病院、鉄道の建設などで初めて文明開花の
時代に入ったそうです。しかし、悲劇は日本の敗戦でした。現在の北朝鮮の状況
は改革を拒む李氏朝鮮王朝にそっくりです。やはりDNAを受けついでいます。
[2005年05月22日22時39分]
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