テーマ:持衰

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お名前: ATTILA
 「持衰」船長説の最大の弱点は、<女子を近づけない=Hを謹む>という部分で、女子は航海にでないだろうという想定なんですが・・・

 でもぉ・・・、「卑弥呼」が奴婢を献上したつうことは、女性も船に乗ったとも言えるわけで・・・ f^^)

 まぁ、「持衰」が乗ったにしろ、村で待っていたにしても、その航海は、かなりな財産を持ち帰る特別な航海なんでしょうね。でなければ、<成功したら生口を得る>つう算式が成り立たないと思います。




[2005年10月21日17時30分]
お名前: ATTILA
 アコさんのアカデミカ「“持衰”について」 全8回 自1990.10.09 至2002.03.07
を拝読したところ、小生は「持衰=船長」説を唱えたらしい(^^ゞですね・・・

http://members.at.infoseek.co.jp/Accord/BIGLOBE/ZISAI/index.htm

 しかし、なにを言ったか、今となると・・・ (^_^?
[2004年11月16日19時43分]
お名前: ATTILA
 飛び込むつうのは、海の神などへの生贄(捧げもの)ということなんでしょうかねぇ?
 それとも、ヤマトタケルの身代わり(代役?)ということなんでしょうかね?

 後者なら、近親者のほうが効果が期待できそうですが、前者なら誰でも良いような気がしますね。

 三浦半島と上総安房は、古来から行き来があったと思うのですねぇ・・・。ですから、地元民は天候や海況はよく知っていたはずですね。
 遭難しちゃうつうのは、外征軍(よそ者軍団)だったせいですかね。

(突然、サマワの自衛隊みたい・・・と思ってしまったり・・・)

[2004年11月16日18時40分]
お名前: 江戸通
 オトタチバナヒメの伝説について、
http://www.chiba-muse.or.jp/KAZUSA/bunka/kodomo/sub-3.htm
 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)については、
私の近くには、外征中に、醜女を多く見て遠征を止めた
という伝説が残っています。この伝説には、異論は少ない
のですが、触れる人は少ないですね。
 近くの筑波辺りは、常陸風土記などからも、異なった
文化、宗教センターの存在を感じさせられますね。
  江戸通
[2004年10月23日14時37分]
お名前: ATTILA
 う〜〜ん〜〜 忘却のかなたにぃ〜〜〜 (^_^?

 たしか、そんしさんか、アコさんが、陸上(根拠地)待機説をだして、小生もなにか言った覚えはあるんですが・・・。LOG探してもみつかりません・・・。(^_^?

 たぶん・・・ですが。その時も、”帰って来ない”ということ、あるいは”遭難した”という事を、陸地(根拠地)の人が、そうやって認識したか?ということが気にかっかったんだと思います。
 今みたいに、スケジュールがわかる時代じゃないですから。
[2004年10月22日00時27分]
お名前: そんし
わたしの場合、資料の史料的価値を証明するには、どうしても同じものを別の場所で記録した別の資料の存在が必要との考え方なので、魏志倭人伝は現状では資料的価値を証明できないと感じています。

だから邪馬台国論争の場合、偉い学者の無意味な証明作業につきあうのは素人歴史家には有害と考え、「そう考えた方が自然」と思えるかどうかだけで、自己判断するようにしています。

持衰もそう。アコさんの考えに賛成し、持衰は陸にいて留守家族とともに船の無事帰還を神に祈ることを仕事をしていたと考える方が無理がないという考えですから、そうなると広嗣さんのお話、根底からひっくり帰ってしまいますね。
で、どうして陸にいた方が自然なのかというお話は、えーと・・・

[2004年10月20日01時55分]
お名前: 江戸通
 11月は、何かとスタートの時期らしいですね。
邪馬台国関連では、志摩ー博多間から
http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/files/homepage/top_j.html
 前原(まばる)市のHPからは、秦以来の交通を
主張しているようですね。
 伊都国としての主張ですよね、邪馬台国と女王
という事でもないようですね。
 民博から、ブックレットで、「魏史倭人伝」という
形で簡単に紹介されてまいしたが、巫についてない
ですね。
 大王とオトタチバナヒメという事で言えば、大蛇や
国津魂や妖怪に悩まされながらも、命を実行しようと
する勇敢な女性ですよね、秦となると、これが、男
なんですよね、呂氏という女嬰がでてきますが(史記)
男性が王でないと秦にうけないですから、呉等の
南方政権では、そうでもないようですが?
 船長ではどうかというといい話題ですね。

江戸通
[2004年10月17日09時45分]
お名前: 広嗣
 Web化する前にオトタチバナヒメは「魏志倭人伝」に出てくる「持衰」ではないかと書いたことがあります。この書き込みにATTILAさんが確か船長が呪術的な部分も担っているという趣旨の反論していましたが、この時は思い付きだったこともあり再反論はできませんでした。その後色々と考えてみると、確かに長らく船は「男性社会」だったということもありますが、オトタチバナヒメが船長でなかったという前提で言えば、その通りでしょう。しかし、記紀に男性の「神主」(*)は出てきません。宗教面の役割は、女性の仕事でした。コノハナノサクヤヒメ然り、神功皇后然りです。「魏志倭人伝」の卑弥呼も、同様です。
* 例は殆どありませんが、「日本書紀」に神主という言葉は出てきます。神功皇后が仲哀天皇没後に神主になったと伝えています。

 神功皇后は新羅侵攻の際に男装したと伝えられています。この「新羅攻め」の話は、後世に記紀のような形に纏められたものと思いますが、この頃には女性は「船長の地位」を退いていたのでしょう。女性が艦隊を指揮することに違和感を覚える時代になっていたのでしょう。

 「魏志倭人伝」は持衰は「婦人を近付けず」と伝えています。この記述も影響してか、普通持衰は男性と考えるのではないかと思いますが、魏の担当官も、倭の民俗を知らずに(知らないから当然色々聞くのでしょうけど)持衰は男性と思い込んで婦人との関係を聞いたのではないでしょうか。

 さて、オトタチバナヒメが自ら海に飛び込んで嵐を鎮めたとされる事件に話を戻しますが、この嵐は台風で、台風の目に入ったのを知らずに出港してしまったというのが、広嗣の説です。「疾病や暴害にあえば、身を慎まなかったとして持衰を殺そうとした」と「魏志倭人伝」にあります。オトタチバナヒメの置かれた状況も、このような状況だったのでしょう。「自ら海に飛び込んだ」というよりは、飛び込まざるを得なかったというのが事実なのかもしれません。


[2004年10月15日17時36分]
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