テーマ:戦国】四国の大名、国人領主について

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お名前: 遊行笑人
マックさま、只今土佐の国の本家に参っております。詳しいお話を、お聞かせいただき伊予国の戦国時代の諸豪末路は、戸次川の合戦にて決定的な次代交代を余儀無くされて、長宗我部盛親どのも、哀れなるも元親殿・信親殿の後を継ぐことも夢と消え失せる史実も時の流れにて、如何にもし難く、江戸の時代に名を残すことは叶わなかったと記す。
だが、その時代を乗り切った長宗我部氏の家臣の者達の中でも、山内家に抱えられた御仁の者も、また反面には山内氏入赴際に悪までも謀判を企て斬首の憂目にあった士族の面々も、長浜の六地蔵の故事来歴に見られ、逆に調べてみたら結構多くとり立てられた史料が残されております。
[2005年04月17日19時26分]
お名前: マック
近江女将さんへ

万博側が、おにぎりを配給したわけではなく
うちの ママがくれたのでちゅ

水筒のお茶とともに やたらと買い食いして
はダメということなのれれれす。


[2005年04月17日12時03分]
お名前: マック

遊行笑人さんへ、それでは・・・・。
河野氏のその後についてのお返事ありがとうございました。

新人物往来社の全ての書物で、「伊予退去」のみで、その後は不明でしたの
本当に勉強になりました。

そして秋田書店の「歴史と旅」臨時増刊号『戦国大名家総覧』を何気なく
眺めていたら、もちろん簡易な内容の中に面白い記述がありました。
そこでちょっと書いてみませう。

伊予の戦国大名として上記本が認知しているのは、河野氏と西園寺氏となり
ます。伊予の両勢力に挟まれた宇都宮氏は消えていますね。

河野通直(牛福丸)と西園寺公広、ともに最後の当主なんですけど、最後が
似ています。
 
 (1)河野通直は、長宗我部氏の侵攻に対して、湯築城を開城し従属する。
    しかし湯築城の城主のまま。現状の地位を認められた。

 (2)小早川隆景(豊臣軍)に対して、湯築城を開城し従属する。
    しかし伊予の知行権は得ていた。   

    捨扶持的なものか、詳細は不明、
    小早川隆景の庇護を受けるという記述が気になります。

 (3)小早川隆景の筑前移封とともに、河野通直は小早川に同行し。
    安芸国竹原に隠棲する。
*
西園寺氏は、南伊予を基盤として、在地豪族を西園寺十五将として編成して
いたり。河野氏とは似ている、まあライバルだからね。

西園寺公広について
 (1)西園寺公広は、長宗我部氏の侵攻に対して、黒瀬城を開城し従属する。
    本当に攻められた。
    しかし黒瀬城の城主のまま。現状の地位を認められる。

 (2)小早川隆景(豊臣軍)に対して、黒瀬城を開城し従属する。
    知行権は認められた。
    西園寺公広の軍勢は、小早川隆景の軍の指揮下にあって、九州の対
    島津戦に従軍する。   

 (3)小早川隆景の筑前移封とともに、西園公広の場合は、小早川には
    同行しない。
    伊予のどっかの願成寺に蟄居する。

 (4)南伊予に赴任してきた豊臣系の「戸田勝隆」は、西園寺家の旧勢力を
    恐れ。
    西園寺公広は謀殺される・・・・・。享年不明


*
いつもながら、とりあえず、本日はおしまい。


[2005年04月17日11時54分]
お名前: 近江女将
万博の方から「おにぎり」持たされるんですか?
これを食べたら、外国パビリオンのレストランへと言われるのですか。
愛知万博ねー行けたらに行きたいですけど
人が多いと疲れそうですね。私、人が多すぎると人酔い
するんですよ。

[2005年04月13日01時36分]
お名前: マック
近江女将さんへ

愛知万博のこと。
うんうん、実は「おにぎり」を持たされていた
のでした。これを食べたら、外国パビリオンの
レストランへということで・・・・・
 スリランカの「マトンのカレー」
 オマーンの「牛肉の串焼き」

両方とも800円だったかな。
串焼きの方は、1本800円でした。

えっと なんなだっけ、河野氏に関
してのresは、週末まで待ってね。
落ち着いて書きたいからね。

そそ、おふたりさん
ぜひ愛知万博行くべきよん・・・
前売り券だけが異常に売れていて
大会関係者は5月の連休、8月のお盆
休みなんかを恐怖しているらしいけど。

それでは とりあえず

[2005年04月12日18時55分]
お名前: 近江女将
遊行笑人様、流石は伊予国について詳しいですね!私も勉強になります。
牛福丸殿は、大変なご苦労があったのですね。秀吉殿は、いい方
悪いですけど成り上がりなのに欲が深いですよね。四国征伐もしたし
九州征伐もしましたし。通直殿は将兵を湯築城に集め秀吉の連合軍に
対峠するも多勢に無勢で小早川氏に降伏開城を為した事は、これは
遊行笑人様にとって誠に悔しい事でしょう。河野家最後の城主殿は
譜代家臣の将士と共に小早川氏所領の竹原に移り住み間もなく
27歳?の生涯閉じたって何だか可哀想ですね。古里に帰りたかった
でしょうね…悲しいお話ですね。

 マックさん愛知万博行ったのですか、お疲れ様です。皆行った人は
同じ事言いますね。歩きすぎて足が疲れたとか痛いって。幾ら歩いても
回りきれないとか。レストランで食べたのですね。売上協力にも
なったでしょう。

[2005年04月10日21時48分]
お名前: 遊行笑人
マックさま、万博で思い出します事は、大坂万博のロシア館とアメリカ館です!家族一同で行きまして、何時間もパビリオン前の列に並び、へとへとでしたことを思い出し、名古屋までは直ぐに行こうと思わない年齢に成り申した! 
如何でしたか?其の内に気が変わるかもと?!。今後とも御指導ください。(お手柔らかに)
[2005年04月10日17時40分]
お名前: マック
遊行笑人さん、もう回答をいただき
ありがとうございます。
早い、早すぎる・・・・・・

実は、愛知万博に行ってきました。
土曜日にです。
万博なんだから、トヨタとか日立といった
企業館へは近寄らず、ロシアとか北欧、、
それから中近東のパビリオンを見てまいり
ました。

ずいぶん空いているし、内容は犬山の
リトルワールドとほぼ同じようなもので
ずいぶん手を抜いているというか、簡単な
ものもありました。

それにしても歩き疲れました・・・・
1年分歩いた感じです。
それにちょっと食べすぎで、まだ
気持ちが悪い。
中近東のどっかの国、オマーンか
カタールか、牛肉の串焼き、これが
カロリーがありすぎて、まだ胃が消化
しておりません、

それでもって まだ疲れがとれてない。

そんなわけで
続く・・・・・・・・


[2005年04月10日04時50分]
お名前: 遊行笑人
マックさま、今晩は。三つ巴で何とか辿りつきました。実は肩の荷を下ろし、一杯呑み、ホットして居りましたところでして、そろそろお出まし下さったかな?と開きましたところ、何とナント!宿題が出されておりましたので、一舜にして酔いが覚めました!
伊予の国の事は、左程難問では無いので一気に宿題を済ませます。
河野氏歴代・通直を名乗られる殿は四人居られる故に、しばしば誤解を受けますので最初に四人を時代順に御紹介いたします。
初代通直・徳王(應)丸・天授五年十一月(武家暦康暦元年)(1379年)没。
二代通直・教通・明応九年二月二十日(1500年)没。
三代通直・弾正少弼・元亀三年八月二十六日(1572年)没。
四代通直・牛福丸・天正十五年七月十四日(1587年)没。
以上四名ですが、お尋ねの河野氏最後の城主は牛福丸で、戒名は長生寺殿月渓園公大禅定門と云う。
其れではこの殿の事に付いて、この方は四郎と名乗るは河野氏所以の当主が用いると聞く。伊予守・兵部少輔となり、この時代は誠に四面楚歌とでも言いましょうか、安芸の毛利氏・阿波の三好・土佐の長宗我部氏等の侵攻にさらされ、此れに相応する家臣も出て、内訌に困難な情況の様でした。特に長宗我部元親の侵攻に怯え、旧来の縁深き毛利氏に助けを求めるも、豊臣の勢力に対応せねばならず、遂に家臣の進言に従い家老の平岡氏を人質に出し一担は元親に降りしが、間もなく秀吉による長宗我部打倒の命がだされ、四国征伐の戦が開始されてのでした。
通直殿も温泉・伊予・浮名郡の将兵を湯築城に集め小早川隆景の指揮する秀吉の連合軍に対峠するも、多勢に無勢の有様に為す術見なく、元は親藩の小早川家なれば隆景殿は通直に帰順を勧告し、天正十三年九月小早川氏に降伏・開城を為したのです。誠に悔しき事なれど、伊予の国造りの御世から、其の歴史を繋いだ河野氏宗家は領主の座を失ったのであります。
其の旧領は小早川氏に、一部分は安国寺・得能・来島等に分与されたと聞くも間もなく、小早川氏も転赴の憂き目にあい、冨田民部殿大洲城居住、福島正則殿湯築城居住と記すも、十一年後には尾張清洲城に替わるとも聞く。こうして河野家最後の城主殿は譜代家臣の将士と共に小早川氏所領の竹原に移り住み間もなく天正十五年(1585年)七月十四日若年(27歳とも?)の生涯を閉じると記されております。(客死)二度と古里の伊予の国に帰る想いも叶わず、誠に哀れを誘う終末迎える運命は無常の極み也!合掌。この話は個人的には空虚な気分になり申す。残念
[2005年04月07日23時29分]
お名前: マック
なかなかさん、遅くなりましたけど
こんにちわ。
今後ともよろしくお願いします、、、
えっ、もう卒業??。そんなこといわず
に。

遊行笑人さんも、えっ、バトンタッチ
ですか、それは困るなあ。
まま、それでは宿題の質問を出しときます。

 宿題??
 1587年、天正15年。
 河野通直は、家臣達を連れて伊予を退去
 する。
 それでどこへ行ったの??
 どうなったの??

とりあえず・・・・



[2005年04月07日19時30分]
お名前: 遊行笑人
なかなかさま、近江女将さま、此れまでの一連のお話は誠に筋書きを導かれる侭に重ね、この時代を壮烈に生き抜いた、戦国時代ならではの国情・世情の流れの中に身を置かざるを得なかった人々の生き様が良く分かりました。
四国を取り巻く、戦国時代の歴史の紹介だけでも、書き尽くせない程の物語りになり、日本国全域の諸々の国領・国人の話に及べば、如何に膨大な資料(史料)の収集・分析・照合・検証が求められるかと考えれば、今回の物語も誠に一刹那(瞬きの一舜)の出来事であり、身近に想いを馳せる機会になれば、此れに勝る念はなく、先人への供養に成ったものと身にしみて、マックさまにはお誘い頂き主題に沿った話に成ったかどうかは、少し気後れを感じますが一先ず、此方からの投稿は終わらせていただき、今後はマックさまにバトンタッチをお願いします!。感謝々々
[2005年04月07日01時53分]
お名前: 近江女将
遊行笑人様にもお話したのですが戸次川合戦での
土佐軍は、戦いを頑張りよく働いた事が分かります。
だから、亡くなった後も土佐の誇りとし尊敬し
その功を称え後世に渡って奉り(たてまつり)
上げるのだと思います。長曽我部の話は私の祖母が
よく母に聞かせていたそうです。沢山の有能な
武士が決死の戦いに挑み最期を遂げた人生を考えると
私も冥福をお祈りするばかりです。なかなか様の
書かれた事は、史実であり不要とは誰しも思わない
と思います。ご先祖様が関わっていれば尚更
その胸中を察します。戸次川合戦の語り、有難う
ございました。

[2005年04月07日00時37分]
お名前: なかなか
《投稿者削除》

[2005年04月06日23時51分]
お名前: 近江女将
鶴賀城は、戸次川の戦いで降伏したが、その後に豊臣本軍20万
上陸してくると島津にも勝ち目はなく島津家久は、宗主義久より
先に降伏した。家久は日向野尻で豊臣秀長と会見しそれからほどなく
他界、秀長と会見してすぐだったため世間では毒殺の噂が流れたが
家久は秀長と会見したときにはすでに病にかかっており、その後
急死してしまっために噂が流れた。
島津家久には豊久という子がおり、子は関ヶ原の戦いで奮戦
さて今度はなかなかさんの最終章を楽しみにしております。
今日はこの辺にて。
[2005年04月06日18時28分]
お名前: 近江女将
今日は、冬物の衣類を全てなおしたので衣装棚が軽くなりました。

豊臣秀吉は島津義久に大友宗麟への攻撃を中止するよう命じたが
島津義久は秀吉の命令を聞かず、大友への攻撃の手を緩めること
はなかった。大友氏は島津氏の総攻撃を前にして秀吉に救援を求
めるため上坂、秀吉は中国の毛利氏へ九州島津征伐への進軍を
命令し、毛利軍は四万で筑前方面へ進出した。一方、四国勢も
天正十四年(1586)十月、秀吉から豊後出陣の命が発せられた。
豊臣軍は仙石秀久を四国勢の目付とし先鋒には十河存保五百
余人讃岐の先鋒に大将香西縫之助・北条香川民部少輔・
寒川七郎・安富肥後守・佐藤志摩介・羽床弥三郎、その他
秀吉の命を受け戦陣に加わる。そして土佐勢の長宗我部元親
その嫡子信親らが出陣。島津軍と四国勢との決戦の場は
豊後戸次川の河原。島津軍を前に、戦に馴れた十河存保・
長宗我部元親らは大友勢の到着を待って渡河する、あるいは
島津軍の渡河を誘ってそれを叩く策を秀久に勧めたが、
功にはやる仙石久秀は意見を無視島津軍に攻撃を開始
すべく行動を開始した。
豊臣軍は淡路勢を先陣に第二陣の讃岐勢と信親の土佐勢先手
元親の土佐勢主力という陣容で大野川を越え豊臣方は
島津勢の前哨部隊を蹴散らして鶴賀城を目指した。
 島津家久は急追する淡路勢を見て、反撃のノロシを上げた。
最初に崩れたのは淡路勢で兵力三千ほどの新納隊は、淡路勢
に正面から激突しほとんど瞬持にして粉砕、秀久を遁走させた。
しかし新納隊がつぎに交戦した土佐勢先手は、信親の指揮で
頑強に抵抗、新納隊は猛反撃に押し返され、一進一退の乱戦
東に向かっている讃岐勢が方向を転じ土佐勢の主力も加わると
新納隊は優勢な敵の集中攻撃を浴びる事になるはずだであった。
 しかし、そこへ伊集院隊が押し寄せ、土佐勢を前後に
分断、さらに山間を迂回した本庄勢が讃岐勢を側撃し
こうして島津方に包囲された豊臣軍は、壊滅的な敗戦になった。
[2005年04月06日17時53分]
お名前: 近江女将
信親の最期は、腹を切ろうと座ったそこへ島津勢がなだれこみ
座ったら即、首級を取られたのですね。名を残すにしても可哀想な
気がするのは私だけでしょうか。西郷隆盛なんかも敵に何度も
鉄砲で腰など撃たれましたが敵に首を取られたくない為、傍に
いた別府に頼み、先生ご免!と言って親方の首を刎ねましたし
相手に首を取られるというのは、覚悟は出来ているものの
きついでしょうね。戦国の戦いはそういうものなのでしょうね。
私の先祖で大友宗麟を攻撃する為、毛利と組み戦って城を枕に
闘死した者も出ていましたよ。しかし、島津と戦うならもっと
策を取れば良かったのにと、あの軍勢と戦うには無謀極まりない
戦だったと目に浮かびます。戸次川の戦は土佐の先祖が
関与してたか全く分からないけど土佐の先祖の場合、菩提寺が
焼け判明してない事も色々あるので。戸次川の惨状極まりなく
闘死した方を思うと冥福をお祈りするばかりです。

[2005年04月06日14時13分]
お名前: 遊行笑人
なかなかさま、誠に真に迫り申した感也!いよいよ討死直前の様子が目に浮かびます。
信親殿の遺骸の受け渡しの話は、別として亡骸を高野山の奥の院に納めると聞く。
天甫常舜と諡(おくる)なし、往生院谷藤の坊を宿坊として追善あり。常舜居士の石塔を建て、其の前に大将分四十一人の石塔三行に立て並べ、惣軍の兵の為に大卒塔婆をたてらる。その文に曰く『豊後国大分郡戸次庄戦死之甲冑首七百余人、同霊之等正覚頓証菩提。一偈に云く、功名永く武門の中に留む、按剣雄夫の勢、空に在り。能く山川を動がし汗を流せり、ロウ天(十二月)之十二日、一陣の風あり。  時に天正十四丙戌之年十二月十二日 施主 秦之元親焉を建つ
その後土佐国浦戸に、一宇の大伽藍を建立して天歩甫寺と号し、常舜居士の御影井びに忠死を遂げし面々の姓名を過去帳に記し、供物香華を備え朝暮の勧行懈怠なく仏法繁昌の霊地となると聞くも誠に心傷の極みなり。我等 合掌 再拝。
[2005年04月05日22時45分]
お名前: なかなか
《投稿者削除》

[2005年04月05日21時36分]
お名前: 遊行笑人
近江女将さま、ビジュアルサイトの御案内・恐悦至極なり!百聞は一見にしかりの感。
この臼杵城下はその後我等伊予河野氏由縁の稲葉氏五万石を領すと歴史を残すも真に感無量なり
其の話も御披露すれば、長くなるゆえ控え挿せて頂きますが、織田・斎藤・石谷・稲葉・河野の所以は誠に、話題に事欠かない気が致しますね!・・・・・益々面白くなってきますね?!。
[2005年04月04日23時16分]
お名前: 近江女将
↓戸次川を偲べば・・・です。
http://www61.tok2.com/home2/adachikg/bungoootomo.htm

[2005年04月04日21時29分]
お名前: 近江女将
1586年に入ると、九州制覇の野望に燃える島津勢はいよいよ宿敵・
大友氏を滅ぼすべく、その領土への侵攻を開始した。耳川の戦いの
大敗や立花道雪の死など悪条件が重なってもはや独力で島津軍に
挑む力も無かった大友宗麟は、当時の天下人であった豊臣秀吉に
臣従することで援軍を求めた。秀吉も、いずれは九州平定を果た
すことを想定していたため、これを好機とばかり宗麟の要請を
受け入れた。ただし当時の秀吉は三河の徳川家康と敵対関係に
あったため、大規模な援軍を送ることができず、そのため
ひとまずの援軍として家臣の仙石秀久を軍監とした長宗我部・
十河らの四国勢を豊後に派遣した。
一方の島津軍の勢いは凄まじく大友領はたちまちのうちに
島津勢によって侵食されていった。1586年12月初旬に大友氏
家臣・利光宗魚が守る鶴賀城(現在の大分市上戸次利光付近)
が島津勢によっていよいよ包囲され宗魚は懸命に防戦したが
運悪く流れ弾に当たって戦死、鶴賀城は落城の危機に立たされた。
この城が落ちれば、大友氏の本拠である府内も危うくなる。
このため、義統は豊臣勢の援軍を引き連れて鶴賀城を助ける
べく出陣した。
[2005年04月04日21時22分]
お名前: 近江女将
遊行笑人様のを見て余りに悲しい出来事で涙が出そうになりま
した。島津等、薩摩は相手が何してこようが絶対ひるまず凄まじい
のは戦い方で分かりますね。
倒れた仲間を踏み越えても襲ってくるのもよーく分かります。
存保は全滅を予期し近衆数人を呼び命じた時は・・その時の
心境を思えば胸が詰まります。川風寒くして鮮血流れる
なんて、そんな所で亡くなるとは無念としか言いようがない
ですね。供養でその地に墓碑を建て祖先の霊を慰めた。
とありますが、それで本当に亡くなられた方は、浮かばれるの
でしょうか?大分市の戸次川に在る長宗我部信親殿の墓所、
処鶴賀城の山麓に在る『胎臓山成大寺』に信親隊戦没者一同
の氏名が刻まれた巨石の記念碑が在るのですか。しかも
700名・・・悲しいですね。遊行笑人さまの御先祖様も、
戦いに出ていたのでしたよね。供養の旅に行かれれば、
ご先祖も他の戦没者の方も慰めになろうかと思います。
[2005年04月04日21時13分]
お名前: なかなか
《投稿者削除》

[2005年04月04日20時32分]
お名前: 遊行笑人
近江女将さん、なかなかのお家柄ですね!土佐と九国の合体の家筋は御縁が深い感也。
我等の縁者も九国との関係は時代も古く、話せば長くなる故亦の機会致し、今日は大分市の戸次川に在る長宗我部信親殿の墓所、山崎の丘・一名に近き処鶴賀城の山麓に在ります『胎臓山成大寺』に信親隊戦没者一同の氏名が刻まれた記念碑が在ると聞く。一メーターの碑台の上に高さ2メーター、幅2・5メーターの巨石(板形)戦死者520名の各氏名と姓を持たない郎等・人足・陣僧などの人数計700名が刻まれ、上部には『信親公忠死御供之衆』と横書一行に記されて、其の碑の裏側には『嬉志さの、涙の露に咽ぶらん、戸次河原の苔の下にも』と記する話を知るにつけ、直ぐにでもこの地に遊行・供養の旅に赴きたい心成り! 合掌。
[2005年04月04日12時08分]
お名前: 近江女将
なかなか様、島津の話し言葉、私にとっては懐かしく聞こえます。
我が先祖も土佐でしたし土佐軍を応援したい気持ちは山々です。
その一方で私の家系では、鹿児島系もいるので方言が懐かしく
聞こえるのです。決め申す。おいどんが・・とか、よかごあんそとか。
今思うと、両軍血を流さず戦わず済めばと本当惜しい気持ちですね。
戸次川合戦で私の先祖は薩摩兵では出ていませんので。
それと、薩摩の者どもが川中に穴を掘っていたんですか。
それは知らなかった。普通に戦って島津が勝ったものかと。
詳細な戸次川合戦で勉強になります。次に書かれる内容は凄そう
ですね。又お聞きしたいものです。ですが長曽我部軍を思うと
悲しくなりますね。戦いなんて嫌だーって感じですね!

私が島津など薩摩の戦い方が激しいのを知っているのは、話が
脱線してしまいますが、読み流して下さい。私の曾祖母が
(高知出身で父は土佐藩)九州に降りて旦那は福岡から下りて
きた武士で田原坂の戦いの援軍要請がありて、薩摩でないのに
薩摩兵となり兄弟揃って出陣、記録を残しているからです。鉄砲と
砲弾と1日3万発打ってくる政府軍と鉄砲を持たない薩摩との
激戦で何故こんな事にうちの藩が巻き込まれないといけないのか!
と思いつつ沢山の武士が借り出され城山にて凄まじい戦況において
薩摩は玉砕、奇跡的に先祖の兄弟は共に命からがら助かりましたが
そういう訳で薩摩の戦い方は理解しています。
元々薩摩に住む兵は、突撃する時や人を斬る時にチェスト!と
掛け声を言っていました。やってやる!と言う意味合いだったと
聞きました。私の先祖は、その言葉は使いません。若年で余りの
酷い戦況と飛来する弾丸の中、手足が震え身は守ったが敵は斬れ
なかったそうです。兄上は果敢に攻めたそうですけど。
さて、次に話を戻してくださいね。

[2005年04月04日00時20分]
お名前: 近江女将
なかなか様、島津の話し言葉、私にとっては懐かしく聞こえます。
我が先祖も土佐でしたし土佐軍を応援したい気持ちは山々です。
その一方で私の家系では、鹿児島系もいるので方言が懐かしく
聞こえるのです。決め申す。おいどんが・・とか、よかごあんそとか。
今思うと、両軍血を流さず戦わず済めばと本当惜しい気持ちですね。
戸次川合戦で私の先祖は薩摩兵では出ていませんので。
それと、薩摩の者どもが川中に穴を掘っていたんですか。
それは知らなかった。普通に戦って島津が勝ったものかと。
詳細な戸次川合戦で勉強になります。次に書かれる内容は凄そう
ですね。又お聞きしたいものです。ですが長曽我部軍を思うと
悲しくなりますね。戦いなんて嫌だーって感じですね!

私が島津など薩摩の戦い方が激しいのを知っているのは、話が
脱線してしまいますが、読み流して下さい。私の曾祖母が
(高知出身で父は土佐藩)九州に降りて旦那は福岡から下りて
きた武士で田原坂の戦いの援軍要請がありて、薩摩でないのに
薩摩兵となり兄弟揃って出陣、記録を残しているからです。鉄砲と
砲弾と1日3万発打ってくる政府軍と鉄砲を持たない薩摩との
激戦で何故こんな事にうちの藩が巻き込まれないといけないのか!
と思いつつ沢山の武士が借り出され城山にて凄まじい戦況において
薩摩は玉砕、奇跡的に先祖の兄弟は共に命からがら助かりましたが
そういう訳で薩摩の戦い方は理解しています。
元々薩摩に住む兵は、突撃する時や人を斬る時にチェスト!と
掛け声を言っていました。やってやる!と言う意味合いだったと
聞きました。私の先祖は、その言葉は使いません。若年で余りの
酷い戦況と飛来する弾丸の中、手足が震え身は守ったが敵は斬れ
なかったそうです。兄上は果敢に攻めたそうですけど。
さて、次に話を戻してくださいね。

[2005年04月04日00時18分]
お名前: なかなか
《投稿者削除》

[2005年04月03日21時00分]
お名前: 遊行笑人
なかなかさま、お出ましを今か今かとお待ち申しておりました!。近江女将さま、度々の教書の由ファイトが湧いて来ます。
四国の長宗我部氏も元親・信親・盛親殿と継がれたと云えど、衰退の一途を下る運命は、為すすべが無かったのか?戦国時代の無常さを感じさせられますね。
其の時代の四国の国人共の最大の分岐点の戦は、真にこの『戸次川の合戦』で有ろうかと!。
特に土佐の軍勢は略全滅・戦場にて討ち死に成されたと聞くゆえに、是からのなかなかさまの御案内の語りを、興味深く拝見挿せて頂きます。宜しく!!!。
[2005年04月03日17時47分]
お名前: 近江女将
なかなか様、初めまして。宜しくお願いします。
白い騎士の登場かな?遊行笑人さま。
島津勢を武勇すぐれしつわもの揃いと元親は認識していたの
ですね。薩摩は人口の5分の1を武士が占めていましたし、
仙石秀久と長宗我部元親の会話は初めて拝見しました。
興味深かったです。慎重策を受け入れられていたら少しは
違った展開になったと思いますけどね。大敵に少数で当るは
無謀と分かっていて、慎重策でさえ秀久に受けいられずに
決死の戦になったのですね。島津勢は一人で何人も斬って
いくし例えば、仮に敵が鉄砲を使用しても刀を振り回して
突撃していく勇ましい所がありますからね。武勇伝が元親の
耳に入っていたとなれば無謀な戦いを強いられ過酷な戦況に
なったと思いますね。悲しいですね。続き、是非書いて下さい。

[2005年04月03日16時38分]
お名前: なかなか
《投稿者削除》

[2005年04月03日14時14分]
お名前: 近江女将
戦国時代は確かに繰返し巻返しの覇権争いですよね。
近江女将にちなんで近江の話を。今の滋賀県(近江)は日本のほぼ
中心にありその地理的条件を背景に古くから主要街道が巡って
おり朝廷のあった京の都(大消費地)と隣接して商業、工業も
発達、巨万の富を得た近江商人も多くいました。農業は琵琶湖を
あり水利も良いことから生産性が高く「近江を制するものは天下を制す」
と云われ16世紀〜17世紀の初にかけ佐々木六角、京極、浅井、
織田信長、明智光秀、柴田勝家、豊臣秀吉、石田三成そして
徳川家康等近江を舞台に覇権を争い覇者は目まぐるしく変わって
いきます。私もNHKの大河ドラマ『義経』は、日曜の夜楽しみ
に見ています。平家は源氏に追われ後で北や南へ逃げ延びていき
ます。こっちには、平景清が逃げてきました。源平合戦における
平家一門の武将で一ノ谷、屋島、壇ノ浦と転戦し源氏に捕らえられ
両眼を失い、 一方の話では眼に弓矢が刺さり自分で目くり貫いた
とも聞きましたがそれを投げたと場所があり平景清を祭った神社が
あります。そういえば兵庫県の川西市、4月10日に多田源氏祭り
があり毎年、俳優さんが源氏に扮して馬に乗り何キロか歩くみたい
です。私の知人が今多田神社にかかる橋の提灯が今、幻想的で
綺麗と写真を送ってきました。私に随分前に多田源氏の末裔の人に?
の件で相談された事があったよね?と言われすっかり忘れていたの
でした。摂津源氏において最初に多田を名乗ったのは、清和源氏の
武士団を摂津国多田の地に形成した源満仲(多田満仲)ですが満仲の
場合の多田は号であり、苗字でありません。
源行国の子が多田頼盛であり、その子が多田行綱だが、それ以降、
子孫は多田を名のっており、多田源氏は多田頼盛に始まったと。
また頼盛の弟頼憲も「多田蔵人」を名乗っており源満仲の嫡男
源頼光の系統が最初の源氏嫡流で摂津源氏の源頼光は父の満仲が
はじめて源氏武士団を形成した本拠地の摂津国川辺郡多田
(現在の兵庫県の川西市・多田)の地を相続する。
摂津源氏は京都で活動した武士で公家の日常に奉公する機会も
多く、武はもとより文や和歌にも長じたようです。
源頼朝が鎌倉幕府を開いたんかな。話が長くなりました。
土佐の元親殿戦話の続き、楽しみです。私の曾祖母の代まで土佐に
居たようですが、後で南下しましたから。曾祖母の兄やその父上
より先代は長年土佐に居ましたので興味はありますね。
『ホワイト・ナイト』の登場?!楽しみですね。 

[2005年04月03日10時56分]
お名前: 遊行笑人
近江女将さま、今晩は!只今NHKの大河ドラマの『義経』の源氏と平家のストーリを見るにつけ、何時の時代も国盗りの歴史は繰返し巻返しの人の世の常ならん。国内の経済界・ビジネス社会でも賑々しく毎日のトップニュースを飾るも頷けるのでは?!。あーイヤだいやだ。
況しては戦国時代は下克上は当たり前の覇権争いの世情にて、誠に騒がしきかな。
マダマダ、土佐の元親殿の戦話続きます。間もなく頼もしき援軍『ホワイト・ナイト』の馬の蹄の音も聞こえて来ようかと!? いざ出陣の報を待ちましょう! 
[2005年04月02日22時21分]
お名前: 近江女将
遊行笑人様の阿波国のお話、詳しく有難うございます。
情景が目に浮かぶようです。三好氏は有名ですね。
毛利家といえば、うちの母が独身の時に家柄が大変良いという事で
毛利家から縁談があったと聞いた事があります。今の父は毛利では
なく一般人です。かなり話が余談でした!
さて、河野通直殿は安芸国の毛利輝元に援軍を頼み、毛利氏は
小早川隆景に8000の兵を与え、伊予国に援軍を送ったと
元親軍苦戦を強いられ、一進一退、信長殿の毛利氏打倒の命
を受けた秀吉にせめられる情況に対抗せざるを得ない為に軍を
安芸に撤兵した隙に再び元親の激しい侵攻が始まり西園寺公広氏
の黒瀬城に迫ったと、壮絶な戦の状況でしょうね。

長曽我部元親は、明智光秀を通じて信長殿に近づき贈物をして
自分の四国制覇を容認させようとしても信長の目は節穴じゃない
ので無理だったでしょうね。三好・西園寺・河野氏が余りの元親の
横暴を訴え救援とか求めたのですね。
信長は長宗我部元親には、土佐と阿波南部の二郡のみと命じたが、
従わず拒否した為、信長は天正十年五月に元親討伐の兵を送り込む命を
出したが、そんな所で本能寺の変!あーなんて事!!明智光秀めー。
長曽我部元親は、チャンスとばかりに讃岐を攻め落とし河野氏も降し
伊予をも押えつけたのですか。なんか元親って感じ悪いですね。
その後忽ち六月には秀吉殿は弟秀長を大将とし各地の軍勢を合わせて
十二万の大軍を四国に投入ですか。誰でも屈してしまいますね。

[2005年04月02日21時37分]
お名前: 近江女将
遊行笑人様の阿波国のお話、詳しく有難うございます。
情景が目に浮かぶようです。三好氏は有名ですね。
毛利家といえば、うちの母が独身の時に家柄が大変良いという事で
毛利家から縁談があったと聞いた事があります。今の父は毛利では
なく一般人です。かなり話が余談でした!
さて、河野通直殿は安芸国の毛利輝元に援軍を頼み、毛利氏は
小早川隆景に8000の兵を与え、伊予国に援軍を送ったと
元親軍苦戦を強いられ、一進一退、信長殿の毛利氏打倒の命
を受けた秀吉にせめられる情況に対抗せざるを得ない為に軍を
安芸に撤兵した隙に再び元親の激しい侵攻が始まり西園寺公広氏
の黒瀬城に迫ったと、壮絶な戦の状況でしょうね。

長曽我部元親は、明智光秀を通じて信長殿に近づき贈物をして
自分の四国制覇を容認させようとしても信長の目は節穴じゃない
ので無理だったでしょうね。三好・西園寺・河野氏が余りの元親の
横暴を訴え救援とか求めたのですね。
信長は長宗我部元親には、土佐と阿波南部の二郡のみと命じたが、
従わず拒否した為、信長は天正十年五月に元親討伐の兵を送り込む命を
出したが、そんな所で本能寺の変!あーなんて事!!明智光秀めー。
長曽我部元親は、チャンスとばかりに讃岐を攻め落とし河野氏も降し
伊予をも押えつけたのですか。なんか元親って感じ悪いですね。
その後忽ち六月には秀吉殿は弟秀長を大将とし各地の軍勢を合わせて
十二万の大軍を四国に投入ですか。誰でも屈してしまいますね。

[2005年04月02日21時35分]
お名前: 近江女将
続きです。
信長と言うと敵将の髑髏に金を塗り酒宴しようとして家臣が真っ青に
なった事とか色々な実話がありますけど、女には優しいが男には容赦
しない感じを受けます。
弟の織田信雄は安土城を燃やしてしまったし信長の場合天下統一目指
し力もあったけど、信長祖父の織田信定の時は織田家に力はありませ
んでした。なぜなら織田家は四管領の斯波家の守護代家臣でしたし。
豊臣秀吉の場合、子供が出来なかったので弟に継がせたのに側室の
淀殿に子が出来ると弟を排除し自分の子を後継ぎにしたり秀吉は九州
征伐もして私の祖母の旦那系が福岡の雄藩だったので、そこの藩主は
秀吉に立ちはだかり秀吉の怒りを買い遠地へ減封され家臣共々300名
下った経緯もあります。豊臣も後に滅亡していきますけど下克上って
まるで弱肉強食みたいですね!

[2005年04月02日20時28分]
お名前: 近江女将
久々にHP拝見致しました。遊行笑人様の4月2日投稿は読み応えありました!
以前に書かれた刀の件、戦後に進駐軍の米英国等の軍人に渡り天下の
名刀が時代を経て元の持ち主の遺族に帰って来たとの逸話は、TVとか
でもありましたね。母から聞いたのは、刀を小さく切って出すようにと
通達があり従うしか無いので母の兄弟が刀を小さく切り出したそうで、
出した時には、刀本来の姿でありませんでした。それと1183年・木曾
義仲の戦いで討死した平家方の老武将が死を覚悟の上(赤地の錦の直垂
を着、白髪を恥じて墨に染め討死したと、ありましたが平家の老武将は
身だしなみのある方だったのですね。気にしなくてもいい気もしますが
首を捨てられたのは可哀想、四万十川の戦は長曽我部氏が四国全土の制覇を
企て一条家の当主の一条兼定は、九州の大友宗麟とタッグを組み四万十
川畔の栗本に陣をかまえたが、敗れて伊予に逃げたんでしたよね。
一条氏は、屈辱に耐えられず伊予土佐兵に姻戚の大友氏の軍船の援助を貰い
中村地方を奪回すべく土佐に侵入、中村を一度は奪回した。しかし
攻めてくる長宗我部軍の前に四万十川西岸の栗本城に篭り守勢を強いられ
軍略に長けた長宗我部元親軍は巧みな戦術で四万十川の渡河に成功し
一条軍は混乱、戦は長宗我部軍の勝利となった。遊行笑人様の内容で、
戦国時代、下克上がまかり通る政治環境なれば、野望の夢は寝ても
覚めても(中略)膨らむ一方ですけど、そうでしょうね。それしか頭に
無いと思う。信長・秀吉もですよね。続きは後にて。

[2005年04月02日20時24分]
お名前: 遊行笑人
阿波の国に話を移らせて頂きます。ご存知の通りこの国も細川氏が代々守護をなされており、応仁の大乱後は其の勢力も失い始め永正四年に細川政元殿が亡くなられた後には、土佐国で見られた様に土豪の台頭が日を追って頻繁に起こり、細川氏家臣の三好氏が勢力を持ったと聞く。
阿波は元々承久の変以後小笠原氏が守護職を預かりし所以にて、其の後継の時代に同国三好郡を領した故に、三好氏を名乗り次第に地元で勢力を広げ、室町時代には細川氏の家老職を勤めて、細川家衰退の機をみて、取って代わり天文二十一年には元の主人の細川氏を追いやった(暗殺)と聞く。元親は天正三年に海部郡宍喰城主宗壽を攻め落とし、忽ち其の威勢を恐れた阿波の南東部の城主は次々と降参の意を表して、阿波国の海部城に弟の親泰を置いた。翌年には四国中央部に位置する三好郡の白地を讃岐伊予を攻め落とす戦略上の要衝と考え、大西覚養を巧みに誘い入れ手中に取り込み、三好の当主長冶なるを暗殺して、阿波の国は大混乱に至ったと記す。
その後は長冶の弟で讃岐の国に十河家の養子になっていた存保(まさやす)は天正六年には阿波勝瑞城を居城として君臨して居たが、元親は大西氏の白地を拠点に大軍を率い吉野川北岸の各所の城を落とし、勝瑞城に侵攻すると同時期に阿波東部からは親泰の軍勢が攻め上りて、阿波は実質長宗我部元親の軍門に降った様です。讃岐の国も情況は土佐・阿波と同様の細川氏守護職の地故に経緯は略同じと考えられ、諸土豪が在来して居り、其の城主を披露しますと、東讃の十河氏、中讃の香西氏・羽床氏、西讃の香川氏・斎藤氏・財田氏等が夫々勢力・地盤を堅めて居た。
天正六年(1578年)愈愈阿波の池田と讃岐の丸亀の国境の藤目城の攻め、城主斎藤氏は大西氏の仲介にて人質に孫を差しだして降伏したが、三好の軍と坂出の聖通山城主の奈良氏等の軍勢にて一度は奪還されたものの、同年冬には元親の軍勢5000余騎にて押し寄せ再び落城し、其れに続いて香川氏の財田城も攻略した様であります。天霧城の香川氏は最初は細川・三好氏に仕えてこの地に勢力を誇った一族でしたが、機をみて織田信長殿の下に付き、信の一字を与えられて、信景と改名して、元親と親類関係を結び順じたのでありました。此れに続き、一万二千余の大軍勢を率いて中部(中讃)の土豪・名家の香川氏を陥落に追い込み、西長尾に新城を築き、讃岐の軍代に土佐の国吉甚左衛門を配置して、実質讃岐の国も手中に収めたのです。
残すは伊予の国なれど、この国主は古代から伝統を有して、湯築城を居城として君臨するも、東予からは、細川・三好氏の圧力を受け、又、宇都宮氏や西園寺氏の一族も西部、南部に支配権を伺わせており、河野氏は瀬戸内の対岸の毛利・大友氏にバックアップを頼む情況であり、鎌倉以降の昔の勢力は、この時代に至りては夢のまた夢の姿で有った様です。(個人的には誠に云いにくき事なれど!)
其処で天正六年元親は先ず阿波の白地を根拠として東予の地侍に降参する様に威圧をかけ、同時に土佐西部高岡・幡多の軍勢を伊予西南部に侵攻させて宇和郡の土豪諸氏に帰順させ、又、攻め落として、其の武力に恐れを為した河野通直殿は安芸の国の毛利輝元に援軍を頼み、輝元は小早川隆景に8000の兵を与え、伊予国に援軍を送ったので、元親軍も苦戦を強いられ、一進一退の情況でしたが、ご存知の信長殿の毛利氏打倒の命を受けた羽柴秀吉にせめられる情況に対抗せざるを得ない為に軍を安芸に撤兵した隙に、再び元親の激しい侵攻が始まり、天正八年(1580年)には南伊予の西園寺公広氏の黒瀬城に迫ったと聞く。其の情況下の裏では、元親殿は明智光秀を通じて、信長殿にも近着き多数の贈物やご機嫌を伺い、巧みに歓心を得ようとしており、此れは、自分の四国制覇を容認させる魂胆があったのです。けれども阿波の三好・西園寺・河野氏の余りの元親の横暴を訴え救援を求めるに及び、信長は長宗我部元親には、土佐と阿波南部の二郡のみと命じたが、元親は此れに従わず、拒否した為、信長は天正十年五月に元親討伐の兵を送り込む命を出したが、ところがご存知の本能寺の変が勃発するのであります!
チャンス到来!千歳一隅と読み、三万の大軍を動員して三好・十河を追って阿波を平らげ、同十二年讃岐を攻め落とし、十三年の春には河野氏も降し伊予をも、押えつけたのであります。この時、元親殿は47歳と聞く。その後忽ち六月には秀吉殿は弟秀長を大将として各地の軍勢を合わせて十二万の大軍を四国に派兵・到底太刀打ちできないと悟った元親は降伏を申し出て八月六日に此れを受け入れられて、土佐一国の領主として残り、遠大な野望の夢も水の泡の消え失したのであります!!。 大変永らくの間貴重なサイトを頂きまして有難う御座いました。感謝申し上げます。この後には、今回の遊行の際に、長浜の寺社で見つけました石碑・銅版に『戸次川の合戦』の戦没者名の中に私共の先祖の名前を見つけまして、是非この戦のご紹介を最後に挿せて下さる事をお願い致します。このお話はマックさまの別の投稿窓口で、奇跡の遭遇が成就しました江戸の御仁の助けを乞い度、お誘いして見ますので宜しいでしょうか? マックさま!
[2005年04月02日09時14分]
お名前: 遊行笑人
本日は年度末。土佐ノ国を手中に収めた元親殿の四国制覇の基本戦略は?と笑人昨晩夢の中で巡らした!。其処で今朝は土佐の国で生まれ、育った私も、山国にて、北は四国山脈で仕切られ、南は太平洋、平野と言えば香長平野のみと言っても過言ではない地形の国也。現在の高知県も其の当時と何も地理的条件は変わらない(多少は近代開発の手は功を評しているとも)。
其の当時は、正に恩賞の罷りと通る時代(石高也)!さて、この狭い土佐の国領も万杯の情況は否めず、領地拡大と征服欲を成し遂げる手段は、正に世は戦国時代、下克上がまかり通る政治環境なれば、野望の夢は寝ても覚めても、元親殿の頭の中で膨らむ一方の思い為らんか!?。
現代の掘衛門とか云う御仁の先祖なるか!?。方策は唯一つ、既に土佐東部・安芸・香美郡の軍勢を阿波之国に、西南部高岡・幡多の兵力を伊予之国に攻め入らせ、土佐の中央・お膝元の長岡・土佐・吾川郡の主力軍勢は岡豊城殿の手許に備え、防備を堅め、控えさせて、戦況次第で、東に、西に、強力なる援軍を送り込む戦法を策したにのではと、思いを巡らせた。此れなら道理が通る感也!。各地で元親殿が試みた戦術は恰も、この度のライブドアー(大手門攻め、搦手門か、兵糧攻めか?)、と篭城の殿(本城は別かも)の攻防の様子に似たりの感也?。あの手この手で、白馬の騎士とか、焦土作戦とか、丸で戦国時代の四国の戦況を伝えるが如き事柄を照らし合わせて頂いて差し支えないかと考えば、解り易い。さて、この結末は、信長・秀吉の巨大な勢力(桁違い資金力・勢力)全国区(大規模の天下人)が黙って居られる筈がない!。混迷を予測されるも面白き候哉也。続編や如何に?
[2005年03月31日10時13分]
お名前: 遊行笑人
いよいよ、土佐国制覇の総集編「四万十川の戦」の勝利を収め、幡多郡全域の所領に戦功多き家来衆に沙汰された話にて、この編の所以の話を終え挿せて頂きます。
さるほどに元親は、西は宿毛・予州境まで残らず、南前の奥内(現、宿毛市と大月町の境・市町村合併で?)以南筋(土佐清水市の一部)・足摺領まで、悉く降を乞い人質を出し、幡多郡一円に平均あり。寺領・社領先規の如く沙汰せられ、吉奈の城(我等先祖の城なり)は十市備後、宿毛の城は長宗我部右衛門太夫。後に野田甚左衛門在城す、仍って宿毛甚左衛門と申すなり。鍋島の城(現・中村市鍋島)は桑名弥次兵衛、塩塚は奥宮織部、手洗川は北原平兵衛、佐賀は光冨権之助を入れ置かる。其の外伊与木に伊与木対馬、加持に加持将監、蕨岡に和田・松浦・西村、敷地に諏訪大蔵、藤村に沖長四郎、有岡に有岡安房、田野川に久礼掃部・野町四郎丸、山路に光冨次郎兵衛、上長谷に武元兵庫、柚の木に式地官兵衛、下長谷に大塚米左衛門、立石に立石右京、大岐に大岐左京、加久見に加久見左衛門、猿野に加久身源左衛門、才津野に依岡源兵衛、口屋内に中平壱岐、田野々に上山出羽左衛門重正、下山に下山丹後、平林に兼松宇兵衛、押の川に押川玄番、柏島・沖の島に三浦党、これ等は皆降参の輩なり。本領を給はり居城に安堵して、万歳をぞ唱へける。!!!。鎌倉以来、時代が変われど、武士たるは所領に拘り、此れを戦の功にて石領を増やす所以が、武家・武将の誉れならんか!。其れでは一先ず休息を頂き、今後は少々ハショて、先を急ぎ、「戸次川の合戦」に進めます。
[2005年03月30日11時02分]
お名前: 遊行笑人
近江女将さま、戦前戦中には昔の話で良く聞きました刀を供出を強要されて、軍刀にした様ですね!其の家の者が出征の際に持たせたとも聞きました。其れが戦後に進駐軍の米英国等の軍人に渡り、天下の名刀が時代を経て、其の元の持ち主の遺族に帰って来たとの逸話も目にしました覚えが有ります。一億総動員の戦争情況下にて銃後の守り・奉仕・報国の精神にて、自主的に出された人や、強制的に没収された方々も居られたようです。 テレビの「お宝拝見の番組」?などに出せば、300萬円どころか、1000万円の鑑定価額が有ろうかとも、ツイツイ誠に惜しまれますね!同心なり。
さて、今日も少し先の話を書かせていただきます。
かくて、首揃へあると所に久武内蔵助が前を首二つ持っていく者あり。見れば父肥後の郎等なり、内蔵助「その首は汝が取りたるか」と問いければ、「いや、是は肥後殿の御手柄に候。実験に備へんが為に持参致し候」と答ふ。内蔵助「其の首持参すべからず。惣じて大勢を使う者は、その人数を引き廻し働かするを以って高名とす。大将自身働きする時は、手下の人数捨てたるなり。人数捨てたる時は何を以って軍陣に勝つべき、軍将の大なる誤りなり。況んや老人の若殿原の争い手柄立ては、面目無き事どもなり。斎藤別当実盛(寿永二年1183年・加賀国篠原の木曾義仲の戦いで討死した平家方の老武将にて、死を覚悟の上赤地の錦の直垂を着て、白髪を黒く染めて奮戦された事を例えたもの)は白髪を恥じて墨に染め若やぎ、討死しけると聞く。其の首側らに捨てよ!」と大いに怒って捨てさせけり。天晴れ将の詞やと、諸人挙って感じけり。(お見事此れぞ武士道の極みの感也)。
かくて寄せ手の勢四方より押っ取り巻、息も継かず揉みたりければ、城中堪えかね、「一命をお助けに預からば城を明渡すべし」と詫びければ、元親頓がて囲みをぞ開かれる。法花津を始め予州勢、籠中の鳥の雲井に翔る心地して、本国に帰りければ、平田・手洗川の者共皆元親へ降参す津島宗雲・篠田宗円は栗本の城落去して、味方悉く退散し、或いは敵に属する由、聞こえければ叶わじと思いけん、宗雲・宗円諸共山伝ひして伊予へぞ帰りける。(私、的には喜ぶべきことなれど、聊か先祖伊予河野氏由縁の心情としては、釈然としない感も否めない)。
それでは、今日はここまでにて失礼致します。この巻の物語は次が最終回にて、土佐一国の制覇を成し遂げた、国領主長宗我部元親殿の戦記の紹介にて、以後阿波・讃岐・伊予の戦話は其れなりに、短編に収め度く、その後の四国勢の総力を投じた「戸次川の戦」に移りましょう!
[2005年03月29日12時47分]
お名前: 近江女将
マック様、紹介ですか?うーん、見せれるような物であればですが
お見せ出来るようなのを又作った時教えますね!!
遊行笑人さまのご先祖、伊予国河野氏は有名ですね、名家だと思います。
時代を遡ると縁があったかもしれないですね。関わりはあったかも!?
私の先祖は下村姓ですが系図は長男しか書いていないとか?弟などの
子孫がいるかもしれないとは聞きましたが、祖母や他の話では
うちの他に(幕末当時かな?)残り2ツ家に血縁の家が在ると、その内
1ツ家には医者をしている者があり、もう1ツ家は分からないと聞いてた
そうです。とにかくうちを入れて3つあると、先祖の9代目は子供が
出来ずに断家しましたが9代目妹には子孫が続き現在に至るです。
曾祖母の父8代目は土佐藩に属しており版籍奉還の時、容堂に付いて
京都で写真撮影したようです。そして長曽我部の話は曾祖母や祖母が
母に毎回聞かせていたようで特に曾祖母が長曽我部や山内一豊、
容堂、他、話を毎日色々とするので母は幼かったので話から
逃げていたそうです。遊行笑人の方の書かれた土佐物語は、胸が
つまりますね。敵の首を二百三十余也ですか、私の先祖も戦ったのかな?
母が若い頃まで刀が家に8本あったとかで、第二次世界大戦に
負けた日本は刀を切って出さなくてはならず、切って出したそうですが
1本300万の価値?のあるのもあったようで後で惜しんでいました。
前に刀を見る専門家がこの刀は人を切っていない、どこも欠けていないと
言ったそうなのですが?どうなんでしょう。又土佐物語聞かせてくださいね。

[2005年03月28日19時57分]
お名前: 遊行笑人
マックさま、近江女将さまの援軍は架かる事態に心強く感じましたね!意気揚揚の思いなり。
近江之国と美濃之国は隣組也、雅か我等伊予国河野氏の末裔なれば、時代を遡れば由縁のありし御女人ならんか?!。
其れでは続いて、この戦の模様を『土佐物語』の筋書きにてお話挿せて頂きます。
かかる所に寄せ手の後ろ備へより五百騎ばかり、川上へ押し登る。城兵此れを見て「さては敵、上の瀬を渡すは、勢を分けて防げや」と色めく所を見澄まし、元親「爰を渡して懸かれ懸かれ」と下知し給へば、山川五郎左衛門・細川源左衛門(重ねて我等のお頭殿也)・北代甚内、駒の頭を並べて真っ先に進んで川へスグサマに乗り入れしかば、是を見て先陣後陣一同に打ち入って渡す程に、さしもの大川大勢に塞かれて、下は浅瀬に成りければ、一騎も流れず向かふの岸へ喚いて上がれば、城兵叶わず一度に崩れて城中に逃げ入るを、追い討ちに討ちて(強調するところが見所かな)その所に敵の首を二百三十余也と記するは、如何に昔の戦場とは云え、誠に笑人の心中安からず、敵陣の将・諸兵に対し、この話は合掌にて一先ず終わらせて頂きます。其れでは今日は此れ迄にて。
[2005年03月28日12時36分]
お名前: マック
近江女将さん、御登城ありがとうございます。
専用の掲示板を持っていらっしゃるとか
ぜひ紹介してくださいませませ。

そんなわけで 今後ともよろしくお願いします。

[2005年03月28日04時01分]
お名前: 遊行笑人
近江女将さま、お心くばり感謝。本当に心強い援軍なれば、この戦は守備良く乗り越せるかとの思い也。其れでは土佐物語の語り草を続けさせていただきましょうかな?。
奥屋内(現在の幡多郡西土佐村奥屋内)の領主篠田宗円は予州方に成って、津島の城主津島宗雲を招き寄せ、栗本に牒じ合わせ、中村をせめんとぞ謀りける。津島が家臣鴨原右馬左衛門・同助兵衛・御手洗掃部・久礼勘十郎を先として、究極の兵を差し向遣わし、在々の追捕し民屋を放火しければ、近辺の諸士・郷民共半村北の川(現在も同名の所有り)の城に逃げ篭り、急いで加勢下さるべしと、中村へ急を告ぐる事櫛の歯のを引くが如し。この由岡豊(元親の本城)へ注進あれば、元親、油断すべきにあらずとて、三日軍詮議ありて打ち立ち給う。相従う輩には、久武肥後・同内蔵助・吉田左馬允・同孫三郎・山川五郎左衛門・細川源左衛門(この殿が我等の城主也)・福留隼人(武勇高き人物)・中島与市兵衛・桑名丹後(後の中村城主か)・国吉甚左衛門・野中三郎左衛門。これ等を先として幡多・高岡の勢合わせて七千三百余騎、中村に着陣して
先陣後陣、大手搦手の手分けして、四万十川へ掛け向かう。元親下知して先ず一手は浅瀬に向かって川端に備え、爰を渡す体を見せければ、城兵川の半途を討つべしと、川端より二・三町引きて静まり返って待ち懸けたり。と記す!今宵は此れまでにて。先陣は近江女将なる方の記する通り為らん。
[2005年03月27日20時20分]
お名前: 近江女将
遊行笑人さま、今後共にお出まし下さい!とあったので打ってしまいました。
マックさん、宜しくお願いします。私も掲示板を持っているので、いつもは
そこばかり見ていますが、こっちも時たまに覗かせて貰いますね。
[2005年03月26日15時56分]
お名前: 近江女将
遊行笑人さまのご先祖は、長宗我部元親軍に従し戦にて、四万十川合戦で功名を残し、
宿毛郷吉奈之里の鶴カ城に吉(芳)奈衆として細川宗兆配下にて
125名の陣営を構え時代を生き延びたと現在もこの郷にて、三氏は同族の結束を保ち
先祖、子孫の菩提を守っているという事でしたが、別ルートで覚えがありますが
現在も結束を保つというのが、凄いですよね。四万十川合戦は、1575年
長宗我部軍 (兵数 7,300) 長宗我部元親
久武肥後守・福留隼人・吉良親貞・山川五郎左衛門・細川源左衛門・北代甚内

一条軍 (兵数 3,500) 一条兼定
法華津播磨守・御荘越前守
一条兼定は1573年に、その所業の悪さと長宗我部元親の謀略により土佐国中村城を追われ豊後国(大友宗麟)へと追放される。一条兼定は大友氏の後援を得て伊予へ上陸。
失地回復と土佐の支配を目論む長宗我部元親への敵意を燃やし、一条軍は中村城の西南半里に位置する栗本城に本営を据え、対する長宗我部元親は、中村城代・吉良親貞(元親の弟)の救援依頼に応え出陣す。両軍は四万十川をはさみ睨みあうことなる。
一条軍は長宗我部軍の四万十川渡河を困難にするため乱杭、逆茂木を設置する。
長宗我部軍は一条軍の配置をよく調べた上、全軍を二手に分けることにし、長宗我部
軍主力部隊が渡河を開始。
これを見た一条軍は四万十川半ばまで渡河した長宗我部軍に対し迎撃開始、長宗我部軍
のもうひとつの部隊が川上(北方)より渡河を開始。
一条軍は、阻止せんがために北方(一条軍左翼方面)へ移動。結果、迎撃態勢の布陣が
崩れてしまい戦闘能力が低下し、ここで長宗我部親は全軍に渡河を命令し一気に一条軍
壊滅。土佐国は長宗我部元親の勢力下となり、元親は土佐を統一したという感じですかね。
でも、遊行笑人さまのお話は詳しいので、ゆっくり待ってます。
[2005年03月26日15時49分]
お名前: 遊行笑人
近江女将さまの親書に触れ、笑人思わぬ援軍の勢に御応する可、四万十川の戦の話を続けます。
さて、敷地(現中村市敷地)の相模、此れを聞きて「縦へ一条殿の御勢にせよ、我が当時吉良氏に属したれば、予州勢に与すべき謂はれ無し」とて、敷地の城に楯籠る。御庄は此之由を聞きて「悪い敷地が詞かな、さらば攻めと!」とて一千騎余にて押し寄せたり。相模は聞こゆる勇者なれば、火出づるばかり戦えども、手勢百五十騎残り少なに討ちなされ、三原の塩塚(現・中村市川登)の城へ逃げ籠るを、御庄すかさず押し詰め、息も付がず攻めければ遁るる所無く腹掻き切って失にけり。と土佐物語は記するも、今日にてはタダ只!史実には少なからず誇張はあれども、この戦に拘り有る十市細川殿家臣の三同族の末裔としては、今後ともに、この物語の記文の原文を御披露しつつ、其の所以の御紹介を続け挿せていた頂き度く、お付き合いお頼みします!
次の文説には、我等細川氏軍勢の話が出て参りますのでお待ち下さい。
[2005年03月26日14時09分]
お名前: 遊行笑人
近江之国の御女将さま、初めまして。久しく一人にて、マックさまの援軍を受けつつ、戦国時代の四国の国領主の有様の昔話を、挿せて頂いて居ります。丁度只今は長宗我部元親殿の土佐一国制覇の最大の戦場・中村四万十川合戦に辿り着きました次第です。
この戦には、土佐大津城主細川氏由縁の私共(伊予河野氏に先祖を持つ土州越智族河野・今岡と細川相伝の家臣下村氏三家同族の者)も十市細川源左衛門殿と共に、元親軍に従し、この合戦にて、功名を残し、その後幡多郡宿毛郷吉奈之里(後に吉の字に故あって芳奈と改す)の鶴カ城に
吉(芳)奈衆として細川宗兆配下にて125名の陣営を構えて、時代を生き延び現在もこの郷にて、三氏は同族の結束を保ち、菩提寺真靜寺の元にて先祖・子孫の菩提を守っております。
此れから徐々に話を進めまして、戸次川の戦に駒を進めます。近江女将さまの御紹介は誠に経緯を知る上に、力強い援軍にて、今後共にお出まし下さい! マックさま宜しくお付き合い下さい
[2005年03月26日08時24分]
お名前: 近江女将
遊行笑人様、ひょっこり登場してきました。稀ー?にしか書かないかもしれないですけど
今、一条家の話を書かれていますが、3月12日に書かれてあった遊行笑人様のご先祖様が、
長宗我部国親の突然の夜襲に遭い敗北を余儀なくされ、その後色々なる所以・因果・経緯にて、長宗我部信親に従し「戸次川の合戦」に参戦、土佐軍700余人全て討死とありましたが
長宗我部の資料でも書いていたのを見ました。戸次川合戦、結構有名ですよね。

1586年12月12日島津家久(島津義久の弟の)率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた戦いで兵力は豊臣が上回っていても秀吉の命で出陣、功を焦る軍監・秀久の無謀な渡河作戦で12月12日豊後国戸次川(大分市戸次付近の大野川の古称)において豊臣勢は島津勢の前に大敗、信親や存保は戦死。鶴賀城は落城
島津家久はその後、豊後を平定。無謀な作戦を立てながら真っ先に敵前逃亡した秀久を
『三国一の臆病者』と罵り秀吉により高野山へと追放される。十河氏は存保の遺児・十河存英の
家督譲渡が認められず改易、長宗我部氏は、溺愛していた子の信親の死に狂乱しその後、
元親は暴君へ変貌し衰退の一途を辿ったとか、父の元親の顔写真は山内家下屋敷長屋の2階で見ましたけどね。享年22歳で戦死した 長我部信親は父が長宗我部元親で母は明智光秀側近、斎藤利三の妹?で美濃の血が入り信親の体格は大柄、文武両道に優れ家臣に優しく跡取りとして
嘱望される。天正八年(1580年)織田信長から「信」の字を与えられ信親と称すようになる。

 秀吉の世になり長宗我部元親が秀吉に屈すると四国統一を果たそうとしていた長宗我部家を取り巻く状況は激変し土佐一国に押し込められてしまった。天正十四年(1586年)、九州平定を目指す豊臣軍は、仙石権兵衛秀久の指揮の下、島津領に進軍、その中に、長宗我部元親・信親父子、「鬼十河」こと十河存保も従軍。十二月十二日、戸次川を挟み島津軍と対峙していた豊臣軍が、無謀な渡河作戦を決行。島津軍の伏兵作戦により、豊臣軍は大混乱となり総大将・仙石秀久の部隊は瞬く間に崩れ去った。秀久の部隊は一軍ちりぢりに退却し秀久自身は淡路の洲本まで逃走。苛烈に迫り来る島津勢の中に、長宗我部隊と十河隊が取り残された。これよりおこなわれた死闘が、秀吉時代稀に見る激戦、戸次川の合戦である。島津というと薩摩軍ですが、薩摩の戦い方はどの戦いも団結があって激しい。土佐軍700余人全て討死と言うのは大変悲しい史実です
[2005年03月26日00時44分]
お名前: 遊行笑人
マックさま、本当に歴史の紹介をするのは気を使いますね!最近大河ドラマのご存知の「義経」の歴史物語は原作は土佐国御出身の宮尾登美子様と聞く。古書平家物語・吾妻物語等々の記述が元かと考えても、脚色は避けてと通れず、視聴率を如何に揚げるかに始終するは当然と言えば当然の成り行きかとも考えれば、日本史としての史実を如何に周到できるかが問題視されるのではと考えます。誠に難儀為らんか?!。
さて、元親殿の一条家への侵攻も容赦なく進み、天正元年(1573年)九月一条家臣内でも意見が別れ、元親に近ずく者と反する意見を持つ者の討議は有れども、最終的には威を恐れ当主兼定を出家させ其の子内政殿を立て元親を頼る方針に結論を得たと記す。翌年、二月には兼定は豊後国大友氏の元に追放されるも、未だ城中内紛状態の様相為る故、元親は早速策を為し一条内政殿を岡豊城の南方の元細川氏の土佐大津天竺城下の近隣の里に移し、娘を娶らせ、住まわせたのであります。この所を「大津御所」と云うも、現在に其の史跡を残す故にて史実也。
一方、豊後に追いやられた兼定殿は、鬱憤やり方なく、岳父大友宗麟の援助を頼り旧領土佐国幡多郡の奪回を画策したるは無理の無い事とも!?。
サテサテ、此れからは土佐物語の語り草の最初の説話をご紹介し、この次に進め挿せて頂きます
『一条入道殿は宗麟の情けにて月日を送らせ給いけるが、「かくて朽ち果てんも口惜しい、人数を催し一度中村を取り返さばや」と申しければと宣へども、宗麟如何なる所存にや「先ず暫く待たせ給え」と申されば、力及ばず打ち過ぎ給ふが、偸かに臼杵を出て伊予国へ立ち越え、戸島(宇和島の戸島也)に忍び御座して、国の様子を窺い給う。法華(花)津(愛媛吉田町)の城主播磨守即延は常に親しく音聞もなしければ今とて異心は有るまじきと、人を使わせ御頼み有る。則延曰く「こは、お痛わしき御事かな」と、やがて私宅に請じ入れ、無二に饗応し「一度中村へ帰座せさせ奉らん」と、御庄某を語らひ当国の勢を催し、一千七百余騎土佐国へ押し寄せける。土佐には宿毛・平田・手洗川の者共、入道殿よりの勢と聞けば、防ぐ兵一人もなく皆寄せ手に加わりければ、都合其の勢三千五百余騎、具同村(中村市具同・四万十川西岸)栗本に要害を構え、四万十川には乱杭・逆茂木・石弓ひっしと構え・鉄砲の手練を選びて三百騎、川の端に備えて寄る敵を待ち構えたり』と語られております。さて今日は此れまでにて、次の機会に続け挿せて頂き、宜しくお付き合いお願いします。
[2005年03月23日11時00分]
お名前: マック
遊行笑人さんへ 毎度お世話になっています。

そそ、戦国時代の3国司といえば、
土佐の一条氏、飛騨の姉小路氏、伊勢の北畠氏
だったかな。

ノートンの最新版2005に更新しました・・・
2002のままだと、なにやら怪しげなファイル
が多くて。長年買い方が分からず・・・・
しかしBIGLOBE画面から辿ったら、通常の
課金に上乗せでOKということで、こんなことだ
ったらもっと早く入れればよかった。

そしたら出た出たウィルスが・・・
もっとも、本物の削除は別として
頼んだ覚えの無い広告を
送りつけてくるアドウェアの方は認識はするけど
すでに入っているものについては駆除してく
れない・・・・・・。

それよりもノートンの2005だと、
ネット上のウィルス発見、発見で・・・・
心臓に悪い。

一時ファイルのテンポラリーなら
すぐに削除するので教えてくれなくても
いいのにねえ???。

と、、本ボードの趣旨とは関係ない
ことですまんです。


[2005年03月23日02時37分]
お名前: 遊行笑人
愈愈、土佐の西方の名家の中村の領主一条家のお話は、笑人の先祖にも関連する史実成る所以にて、土佐物語(第九巻)の記述を解読に尽力を致しました。多少長文になろうかと考えますが、この古書に書かれた内容を載せながら、お話し挿せて頂きます。今日はその初めに際して、既に御存知の方々には、聞き流していただき、始めての方には参考までにご紹介を挿せて頂き、最初に、土佐一条家の家系を簡単に説明をしますと、初代一条教房殿は、父は兼良殿・母は権中納言藤原宣俊(中御門)の娘にて少林寺殿と言われた御方也。永享十一年(1439年)に従三位権中納言・康正三年(1457年)に左大臣・長禄二年(1458年)に関白氏長者・翌年には従一位となると記す。寛正四年(1463年)四月三日、関白を辞し、応仁の乱にて京都を避け応仁元年(1467年)八月奈良へ移り、翌年八月に父兼良と子の政房を此の地に迎えたと聞く。
だが、家領であった土佐幡多庄が士豪の者に侵略された情況を聞き、家領回復の為同年九月六日奈良成就院を出て、縁者大平氏の迎えの船にて、同月二十五日堺の港を出立・途中土佐国甲浦・宇佐を泊りて幡多の中村に下向されたと記す。此地に舘を定め中村御所と云い、次第に家名を回復し、隣国伊予から押領されていた幡多之下山・中村関所分も勢力下に収め、下知に応じなかった大方郷の入野家元・家則父子を屈服挿せて、文明三年(1471年)頃には秩序を回復したと聞く。この故にて教房は細川氏や長宗我部氏と親近関係を保ち、足摺の金剛福寺・中村大平寺を保護して順次勢力を伸ばし幡多一円の支配権を確立した様です。
以後幡多庄を大名国領化を図り、中村の町並みを京都に似せ、石清水八幡宮を勧進し、不破八幡宮を創建されて、京都の各所を忍ぶ地名を付け、京分化を育てたと聞く。(小京都の町並みを今に残しており、言葉使いも土佐弁ではなく、京都訛りの様相も感じる所以也)今日は此れまでにて終わり、次に続け挿せて頂きます。
[2005年03月21日10時48分]
お名前: 遊行笑人
元親殿、父国親の遺言により各地の諸豪を抑える最初に神仏に祈願の意を表し、本山氏に焼かれて一宮土佐神社(社殿は入蜻蛉式)の再建と長浜若宮八幡宮(出蜻蛉式)にてこの所以は本山氏打倒の凱旋と権威を祈念と鼓舞しての事と聞く。
土佐国中央部を征した後、永録十二年七月元親は7000余の大軍を東方・安芸郡への侵攻を開し、矢流山の戦で大勝、新庄、穴内二城を陥し、安芸城を囲むと記す。
城主土佐国の勇・安芸国虎殿も、さすがに武勇の誉れ高き戦国武将なりて、篭城一月余にて戦うも所詮は勢いを持つ元親の大軍には勝てず、自刃する事に為った聞く。この時点で鎌倉以来の名門安芸氏も滅ぶと云うも誠に哀れ也、合掌。
さて、高岡郡には室町・戦国時代、土佐守護代若しくは又代の地位を誇れしと云われる大平氏も既に天文十四年(1545年)頃には滅亡の様であり、其の西方には土佐の名族津姫野々城主津野氏が在った。この家柄は永録時代は定勝殿・母親は中村一条房家の女であり、此れからは一条家との争いの開始の始まりとなるのであります(嘗て父親国親は養育の恩を受けたる一条家に対して恩顧を省みず、四国制覇の夢の実現に避けて通れない、土佐国西部の領主なる一条氏打倒に侵攻を開始し、先ずは蓮池を取り、進軍、津野氏の城に迫ると記す。
危機を感じ取った家来・家臣の内多くの者は、親一条派の定勝を追い、弟勝興を還俗させて、当主に立てて、元親に帰順を示し、元亀二年(1571年)には元親の三男親忠殿を津野氏継嗣を約定されており、天正四年までには親忠殿は長宗我部家臣団を率いて津野城に入ると記す。この争いは略無血の併合を成し遂げたと云う事ですね!其れではこの次に愈々中村一条氏本城のお話に進めて参ります。  宜しくお付き合い下さい。


[2005年03月18日10時08分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、本当に史実を辿るは難儀なるも、矢張り地元の伝記・伝承が肝要と存じます。
この度の遊行も、土佐大津天竺細川殿の気分で、長宗我部氏の居城岡豊城を望み、浦戸城祉に足を運び、長浜、浦戸の古跡は訪れて、細川氏の田村之庄を訪ね其の後に残る細勝寺(新築)の住職を訪ね、この所は細川氏が京の都から招き入れ建立されて妙国寺(本山は京都頂妙寺也・この寺の江戸末期に40代住職を務めた人物は私の先祖の七男なるも縁深い感也)の元の場所と聞くも、現在は高知市内の山内家菩提寺真如寺・要法寺の在ります筆山の麓の近隣に色々な歴史(長宗我部氏・山内氏歴代)を経て、東側の塩屋崎町に座するも、火災などに因り全ての寺宝を焼失の憂き目にて、現住職殿にお目に掛り一時のお話に、僅かに歴史の空しさと、灯火を感じ取りしは、誠に哀れ為らんか!。 せめて土佐の戦国時代の歴史を詳細に記された「土左物語」に残された史料に、順じて暫くこの話を続け挿せて頂きます。 宜しくお相手下さい!
[2005年03月15日14時08分]
お名前: マック
読んでいます。
しかしアクティブなresは難しゅう
ござる。
援軍とは言えず、ただディスプレイに
向かって声援をおくるのみです ぺこり。

[2005年03月15日02時03分]
お名前: 遊行笑人
前文の下段から四行目の「親重」と書かれた名前は正しくは「親茂」ですので訂正挿せて頂きます。赦々
[2005年03月13日13時58分]
お名前: 遊行笑人
長浜は土佐国のご存知の桂浜から西方に伸びる浦戸の海の玄関口の要衝で、東岸は種崎、西岸は浦戸・御畳瀬(みませ)が在り、東岸は長宗我部領で、西岸は本山氏が支配していたと聞く。
ソモソモの発端は一時は娘を妻あわせ友好関係にあったが、国親による弘冶二年(1556年)頃から、本山派の秦泉寺氏・大高坂氏・国沢氏を討つなど、次第に勢力を広め、種崎の城に兵糧を運び込もうとした長宗我部の船を本山氏の兵が潮江から出船して襲撃するに至り、対陣、戦が始まったと聞く。此れが元親の初陣の戦にて、永録三年五月二十六日夜襲を敢行、以前は長宗我部氏が居た城でも在り、国親は此れを奪還する思いにて、奇襲し、城主大窪美作守を追い落とした。
此れを知った本山茂辰は朝倉城に在り、直ちに2000余の兵を率いて出陣、翌27日早朝に長浜の西方に進軍、西進して来た長宗我部氏の軍勢1000余と「戸の本」で衝突したと記す。その間・辰刻から午下刻迄合い戦い、攻防を繰返して両陣共に過半数を失い死人戦場に充満したりと土佐物語に記されております。兎にも角にも長宗我部氏が勝利し、元山氏は南転して浦戸城に入り長宗我部軍に包囲され落城寸前の戦況であったが、如何したのか国親・元親の軍勢は急に囲みを解き、東岸の種崎に退いたと聞くも摩訶不思議也。其の隙に茂辰は朝倉城に逃れる事が出来た様である。この所以は別書には国親の娘婿に対する温情と記す物もあるが其の真偽の程は定かでは無いが、半月程後の六月十五日に国親は57歳(59歳説もあり)にて本城・岡豊城にて没すと言うも、既にこの戦の時から重病説が真因で有ったとする説が正しいとも言われております。
その後は父親の遺言に依り元親は、二年半の内に吾川郡の諸城を落とし、残った朝倉・吉良の二城を攻め落とし、永録六年一月茂辰は長岡郡本山の本拠地に退散、其の城も翌年四月には捨て、北方の山奥の僻地にて没落行く方知れずと言われ、其の生死の記述も無く、其の嗣子親重も永録十一年に元親に降参し、戦国土佐の勇名を誇った本山氏も滅亡したと記す。残るは土佐国の三郡高岡・安芸・幡多は其の勢いで左程時間を要せず攻略するのです。この話は次回にて! 合掌
[2005年03月13日13時51分]
お名前: 遊行笑人
五台山吸江寺のご住職にお会いでき、寺暦を伺い感激新にして、細川氏と長宗我部氏の主従の変遷を訪ねる。永正四年細川政元刺殺、細川澄元が澄之を殺し、細川主家を継ぐと、其の翌年には細川高国が入京し、澄元は近江に奔ると記す。京幾の政争の際には土佐守護代細川氏一族も上洛した隙に、長宗我部当主兼序(かねつぐ)は土佐の諸豪族本山・山田・吉良・大平等の連合軍に攻められ敗死する運命に遭う。此れも細川氏の威を借りて嬌慢なる所以が、諸氏の反感を買い、細川氏の勢力が弱体化を呈した隙間の出来事で有った様です。
其の子千雄丸(後の国親)は当時六歳にて、辛くも死を逃れ、土佐国幡多中村の一条房家の元にて養育され、一条家の後押しにて永正十五年漸く岡豊に帰ったと聞く。この御仁が元親の父親国親殿なり!。この後の出来事は誠に私共、土佐大津天竺城主細川氏に縁有りて延命したる伊予国越知姓河野氏由縁の一族も、この長宗我部国親の突然の夜襲に遭い、敗北を余儀なくされるも、その後は、色々なる所以・因果・経緯にて、次の時代には、十市細川氏(宗兆)の元にて抱えられ、元親の嫡子・信親殿に従して、ご存知の九州島津・大友の「戸次川の合戦」に参戦し、土佐の軍気勢700余人全て討死と聞く。此れは少々余談に為りましたが先般の高知訪問、遊行に際し長浜若宮八幡宮の戸次川戦没者供養碑に記される先祖の名前を見つけたるに依り、先祖供養の心情にて合掌。次回は長浜の戦の事に進めます。宜しくお願い致します。
[2005年03月12日15時53分]
お名前: 遊行笑人
永らくお暇を頂戴しました。一件落着にて、土佐国訪問を終了。その際に長宗我部元親の墓所をも訪問居たし候也。同、浦戸城址・等々を探索し、その際に「城山」なる冊子を入手、浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会の発行会報です。会員も常時募集中の由、紹介までにて関心の御ありの方はどうぞ!(住所は高知市長浜491−1)長宗我部顕彰会事務局です。土佐国の長宗我部氏の事は誠に面白い記事ばかりです!
[2005年03月10日10時28分]
お名前: 遊行笑人
マックさん!誠に援軍の極み、恰も六条本圀寺合戦の信長・細川・義昭(敢えて逆順也)の戦の細川藤孝殿のお姿かな!?。只今、誠に不思議な御縁にて、宮崎に在住の下村氏の御子孫の方の先祖の供養の旅のお手伝いの真っ最中です。 この御仁の先祖は近江のお方にて、山内一豊殿の入赴に追従して来られたと聞く。四国の国領のテーマは暫く離れさせて頂き度く、送れる事情のご説明をするつもりで、開きました所、マックさんのお話・ご説明に感謝の気持ちを込めて近況の報告を致しました。 この方の母上様の想いの成就をお手伝いさせて頂き、来月土佐国をご訪問の予定にて、笑人先祖の慈恵の恩に答える可く、細川氏・山内氏由縁の寺々を訪問して居ります関係上誠に礼を欠ぎますが、暫くお暇を頂戴致しますので宜しく!其れと別コーナーの宮崎の方が未だ登場無き為御案内できません!残念!。
[2005年02月20日12時16分]
お名前: マック
遊行笑人さん、毎度、どうもです。
下記のもののRESです。

1石の所領は、1貫と同じ、現在のお金になおすと、年収レベルで、
約15万円ぐらいかなかな。
もっとも石高は総生産量だから、五公五民として1貫の収入と同じ
ということは2石必要なんだわさ。

つまり  1貫=2石 と石直しする。
そして軍役は、100石で、兵士3名と考える。

そうするとある答えが出てくる。

土佐ノ国郡、大名七人、            動員可能兵力
一条殿 一万六千貫・・・・・3万2000石  960兵
津野    5千貫・・・・・1万    石  300兵
大比良   4千貫・・・・・  8000石  240兵
吉良    5千貫・・・・・1万    石  300兵
本山    5千貫・・・・・1万    石  300兵
安芸    5千貫・・・・・1万    石  300兵
香宗我部  4千貫・・・・・  8000石  240兵
長宗我部  3千貫・・・・・  6000石  180兵

上記一番右側の動員可能兵力は、収入に見合った常備軍というわけ
です。
実際、長宗我部は、サラリーの必要としない臨時の郷土軍で構成され、
なおかつそれで長距離の侵攻もやってのけた。
おかげで四国はぼろぼろ。経済疲弊が著しいということです。

えっと、うろ覚えなのですけど、
たしか土佐国は、20万石ぐらい。
それだと可能な動員兵力は、6000兵となります。

マックでした。

[2005年02月20日03時50分]
お名前: 遊行笑人
いよいよ、長宗我部氏の四国統一のことに話を進めます。
戦国時代の土佐国は思いの他、多くの国人の諸氏が各所に城や舘を構え、其の数は334カ所も在ったと聞く。又、別の古書には土佐の七守護と言われるほど、七郡に夫々の勢力が競いあって居ったそうですね!簡単に紹介しておきます。誇張があってはいけませんので『長元物語』の其のままを記します。
土佐ノ国郡、大名七人、御所一人ト申ハ一条殿一万六千貫、津野5千貫、大比良4千貫、吉良5千貫、本山5千貫、安芸5千貫、香宗我部4千貫、長宗我部3千貫其の内一条殿はご存知の御仁にて別格だった様です。この頃は長宗我部氏は左程禄高は説明の通り、少なく決して最有力の家人ではなかったが、居城の立地条件が土佐の中央香長平野の国府や、守護代細川氏の居館や武家屋敷が南東の田村庄に在り、前面の南方には土佐大津城も眞近にもある。そして長宗我部氏は細川氏に従し、土佐唯一の諸山吸江寺の寺奉行を務めるなど、勢力・地位を固持して居た様です。此れから先は、度のような経緯で元親初陣の長濱の戦から十五年間の土佐統一を遂げ、阿波国南部へ軍を進めたのか?!。その後も讃岐・伊予を攻略して次々と掌中に収めるも、全国区の織田信長も四国へ長宗我部氏を討つべく軍勢を送る寸前に奇しくも本能寺にて夢破れ没し、恰も元親の四国統一の覇権が成就するかに見えたが、前に立ちハダカッタのがご存知の天下人・秀吉と言う事です。この次には処処の戦の模様を『土佐物語』のお話元に挿せて頂きますので、お時間下さい。原書(複製)の文書を敢えて、勉強しながら解読しておりますので宜しく。

[2005年02月16日12時35分]
お名前: 遊行笑人
マックさま、本当に歴史は難しゅう御座る。長宗我部元親殿の奥方と斎藤氏や光秀や稲葉や河野や本当にヤヤコシイ!!。アー言えば・コウー言うとの方程式、1+1なれば簡単なれど、2元一次までは誠に簡単なれど二次はともかく、2元、3元、連立方程式ともなれば、笑人の手に終えず、益して微分積分ともなれば、言うじゃない!万歳!いやいや残念!と言いたくなるのは最近の風潮かもと?今宵は少々呑み過ぎたかな?。お許し下さい。
[2005年02月09日18時24分]
お名前: 遊行笑人
マックさま、本当に歴史は難しゅう御座る。長宗我部元親殿の奥方と斎藤氏や光秀や稲葉や河野や本当にヤヤコシイ!!。アー言えば・コウー言うとの方程式、1+1なれば簡単なれど、2元一次までは誠に簡単なれど二次はともかく、2元、3元、連立方程式ともなれば、笑人の手に終えず、益して微分積分ともなれば、言うじゃない!万歳!いやいや残念!と言いたくなるのは最近の風潮かもと?今宵は少々呑み過ぎたかな?。お許し下さい。
[2005年02月09日18時21分]
お名前: マック
あんまり役に立たなく、申し訳なく
思っておりますたい。

そういえば、細川忠興の正室は、明智氏「玉」
なのは周知のごとくです。

本能寺の変の後に、離縁するしないでもめたと
きに、羽柴秀吉から離縁の必要なしと言われた
らしく正室のままでした。

彼女の次男が、2代目藩主として、以後、その
血統は続いたわけですね。
つまり明智光秀の女系での直系の子孫。

ちなみに明智光秀の家臣団には、室町幕府奉公
衆という部隊があります。
つまり室町幕府の軍事的機能は、明智軍団の中
に吸収されたわけです。

細川藤孝の部隊も、明智光秀を旗頭とする、、
いわば京都方面軍(遊撃か予備)に属していた
わけです。山城、丹波、丹後、摂津、大和と
いった国衆で構成され、、織田の各軍団は
3万兵でおおむね量的均衡が図られていた
わけです。

[2005年02月09日17時37分]
お名前: 遊行笑人
ついでにもう一件参考までにご紹介挿せて頂きます、六条合戦のことです。
永録十二年(1569年)正月のこと、信長殿畿内平定を終え、岐阜に引き上げると、三好の残党が義昭の仮御所六条(堀川通り西本願寺北側日蓮宗本山本圀寺いまは夜山科天智天皇陵の奥山に在り)を襲撃してきたと聞く。三好軍が攻めてくる情報を察知した寺では、細川左馬頭、三淵大和守等評定を行い、義昭と共に自ら惣門を堅め野村越中守は駆引大将にしたとある。この他楯篭る者は細川典廐・津田左近・津田左馬丞・明智光秀等居り、総員2000余騎にて、方や三好の軍勢は一万余騎と記す、夜半には高槻から元、斎藤家家臣の赤座七郎右衛等が駆け付け彼ら美濃勢は門前の四辻を堅め、又尾張から織田左将監・同左馬允・内藤備中・山県源内・宇野弥七郎等、其の他にこの知らせを聞き細川藤孝・池田勝正其の他多数の援軍の中に、私共の土佐国細川氏相伝・譜代家臣下村勝重と思しき人物名(系図とも附合の義)が居るのも摩訶不思議にて、その後、数百年後の江戸時代末期に私の直系の先祖の者が本圀寺住職42世として務めた事実も不思議なるご縁と恐れ入る次第也!この由縁は伊予・土佐・京都の繋がりの史実成らんか?!。この確率は90%と思う道理です。  如何でしょうか?
[2005年02月09日10時10分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、良くぞ!援軍を頂きました。悪戦苦闘の冷や汗ものでした!戸次川の戦の援軍を待つ土佐の長宗我部信親殿の心境でしたよ?。サテサテ藤孝・忠興親子のこと織田信長殿に属し、丹後の田辺城主・その後丹後宮津の城主・本能寺の変後は秀吉殿に従い家名を保ち、慶長五年(1600年)関が原の戦にて戦功あり豊前小倉城主から後に、改易をうけた加藤氏の後、熊本城主と成ったと記す。藤孝殿の七代前の頼長殿(頼春の子頼之弟頼有の跡取也)応永の騒動の直後(1399年)には満元を讃岐に、頼長を土佐に、詮春の子義之を阿波に、夫々守護職に置き四国の細川氏の勢力を備えていた様であります。さて土佐国の守護頼長から七代後の人物が藤孝どのなれば、義昭を明智光秀を通じ信長に頼み、将軍職につかせることに一時は成功を収めたと記す。次に長宗我部氏十一代信能殿は鎌倉末期から室町時代に活躍した人物也・元弘三年(1333年)六月伊豆国走湯山蜜厳院領土佐介領庄(源希義が流されて居た処なり)における在地士豪の鑑妨狼藉を甲斐孫四郎(香宗我部秀頼か)と共に鎮定し、代官を入部させて治安維持すべきことを足利尊氏殿に命ぜられていると記す(土佐国蠹簡集)、此れ以後足利氏・直接には細川氏に属して北朝方として戦う。又、『佐伯文書』には建武三年(1336年)四月一日付けの佐伯経貞軍忠状に依れば信能等長宗我部一族は八幡山東坂本(高知県南国市岡豊町)で南朝勢力と戦いその軍功により、信能・其の子兼能の時土佐の各所の地頭職や郷。庄を与えられて其の勢力を伸ばしたと記す『土佐遺語』所収古筆秦氏系図』。上記の一連の記述にて、土佐国長宗我部氏と細川氏と足利氏と上下一直線上に並び、道理が通ろうかとも考えてみたのですが、尚蛇足ですが、この時代の建武三年は伊予国も騒々しく、史書に細川皇海(土佐大津城主か?!)の書状、尊氏書状が見られるのも摩訶不思議也。結論として細川藤孝氏の直系先祖に土佐守護に在れば、当然長宗我部氏も其の配下で累々と関係の存在を夢見る心地也。 如何でしょう?(確率は五分五分かと)
[2005年02月09日08時46分]
お名前: マック
遊行笑人さん、こんにちわ。

細川藤孝、忠興の家臣団に、旧細川家の
著名な家臣は、あまりいなかったような
気がします。存在すれば面白いのですけど。

とりあえず、生存証明に書きました。

よろしくよろしくね





[2005年02月09日03時37分]
お名前: 遊行笑人
今日は細川氏から土佐国長宗我部氏の所以に移つ挿せて頂きます。既に御存知の方々には何卒お見逃してください。長宗我部氏のルーツは遡れば他国(秦の国)に渡りますので、ここでは秦河勝と名乗られる方が、山城国葛野郡を領し太秦(うずまさ・京都の太秦か)が開け、河勝の後継に其の始祖となった能俊が最初かとも言う。又、一方では秦氏は山城国紀伊郡の深草・伏見一帯にも勢力を伸ばし、稲荷神社の『禰宜の祝』と成り、何時の頃か信濃国小谷郷に移り稲荷山に冶田神社(はた)を祀り、その地に勢力を築き、平安時代に至ったとも記す。この能俊殿が土佐之国に移ったと言うが、諸説有り、『更科郡誌』には保元の乱後土佐長岡郡宗部郷(現高知県南国市)住したと・『南海通記』には能俊が土佐曽我部に住し曽我部の姓を賜り、冶承四年(1180年)の内乱の際に源頼朝のお弟殿土佐国に流されていた同介良郷(けら)の希義の挙兵に加わり平家方と戦ったとも記す。其の他にも国司論も有れども、私笑人は後の説の平安末期から承久之変迄の時代に土佐長岡郡宗部郷に住みついて、以降地頭として其の勢力を保ったとすれば、細川氏の土佐守護の下で仕えたと考えれば、その後史暦にも附合するのではと、個人的見解ですが納得できるかと?!。  皆様のご意見も宜しくお願いします。
[2005年02月08日11時53分]
お名前: 遊行笑人
四国の勇・細川氏の勢力も次第に時代の変遷により、応永の乱直後の四国の守護は讃岐は細川満元・阿波は細川義之・土佐は細川頼長氏が領し、伊予は河野通之「幼名鬼王丸。兄は通義(通能)幼名亀王丸の弟也」其の名の一字は、細川頼之の『之』の一字を授かり、又兄義能は将軍の義の一字を賜りて、辛うじて細川氏と和睦・仲裁により伊予国安堵と聞く。その後足利幕府の衰退と細川氏も同じく次第に勢力を次第に失う時代を迎えるのも、群雄割拠の次の時代・戦国時代に入ると考えます。敢えて細川氏の近世大名に残るは、頼之の弟頼有を祖とする元常の後継の藤孝殿にて(一説には足利義晴の四男とも?)、脈流を保と記す。(先般NHKの国取り物語で登場しておりました)始め義昭に仕え奉じ、越前朝倉氏を頼るも成就せず、明智光秀に頼み義昭の将軍職に付ける事ができたが離反、その後織田信長殿に属して丹後国田辺城主となり、其の子忠興は宮津城主となる。本能寺の変後は秀吉に従い家名を保ち、関が原の戦にて徳川家康に付き功ありて、豊前小倉城主になり、その後熊本城主として名家の誉れを保つと記す。今回は細川氏の状況報告にて、四国の細川氏の後世を紹介挿せて頂きました。イヨイヨ土佐国から四国全域の国盗り・制覇の野望を企て、土佐を制し、阿波、讃岐を攻略し、伊予攻め中途にて、全国区の信長の絶大なる勢力下で、前後の経緯故、夢破れ、後世には土佐一国も僅かな期間で、失い、名誉挽回を狙うも徳川の御世・江戸時代に家名を残す事無く、盛親殿を最後に山内一豊氏に国を明渡す時代を迎えるのです。次は長宗我部氏の一族と四国制覇の模様を訪ねて見ます。
[2005年02月05日11時37分]
お名前: 遊行笑人
建武三年は正に南北朝分立の時代から一時は伊予においても南朝方の活動が見られ、延元四年8月後醍醐崩御以後、観応の擾乱・同族直義と尊氏は相反し、直義の死に至る迄一年余続いたと言う。四国にても二分の様相も残されており、伊豫も騒々しく渦中に在ったと記す。河野氏の者達も誠に騒々しく、同族も互いに争うと聞く。細川氏も同様で中央政権京都の舞台で多難の史実も見られるが、直冬を奉じ山名氏は斯波・桜井氏の軍勢は再度京に攻め込み、尊氏・義詮軍はまたまた巻き返し、誠に両軍の戦は騒々しき哉。その後延文三年(1358年)四月に尊氏が没する頃までには幕府の勢威は体制を概ね整えていた様です。貞冶二年(1363年)には西国山名。大内氏も降り室町幕府の体制が一応安定したが、最終的確立されるには、明徳・応永の乱を待たなければ為らなかったとも記されております。何故この時代背景を説明させて頂いた主旨は下記の記述を紹介する為のものです。
豫章記・豫州来由記・豫陽河野家譜の記事に多少のずれを感じるものの、伊予河野氏の居城湯築城の攻防の話をご紹介し、土佐国大津天竺城之細川氏との関連を読みとって頂き度く存じます。
『貞治三年正月二日(或る書は貞治四年十六日とも?記す)通尭(後通直と改す)一族を相催し、五百余騎にて温泉之城に楯篭り、河野49代の嫡子として亡父通朝の吊ひ合戦を企つ、同二十七日湯築山に押し寄せ挑戦忽ち打勝ち、城主天竺禅門を始め、三百余騎取りぬ。細川頼之此れを重んじて、阿波讃岐の勢都合二萬余騎にて道後を打ち越し、大空之城に向かう。城中には大祝安林その他国中地頭御家人等なりしが降参す。通尭大空之城放れ高縄城に楯篭もる』と多少各書の相違は見られるが、この史実を残しているのです。擦れば天竺細川禅門は土佐国細川皇海(父は細川頼貞。顕氏・定禅の弟。権律師・鶴岡若宮別当・三位房と号す)ではなかろうかと考えます。(一部では定禅説を称える学者の方も居られる様ですが、天竺と名乗るは土佐国大津天竺城主細川氏の所以に寄る者と考えて居ります)逆に定禅どのは讃岐国を拠点に貞和三年(天平二年・1347年)讃岐国小豆郡の頃に佐々木信胤を攻めたりして居り、土佐は弟の皇海殿が延元三年には守護職となり国人を良く収め、土佐の勢力を率いて、慶応三年興国元年の末まで土佐の把握に努めているも、その後の事績は明かで無いと記すことから判断すれば、其の最後は伊予国湯築城での討死か?と推理できます。以上が四国の戦国時代を迎える前までの大まかな世情報告です。今後は義昭と細川氏・信長・四国国情の関係の時代に一足飛びに参ります。今回は要するに相当遡り、四国は西南部の地域(西園寺氏・宇都宮氏の勢力下の故なるか?)を除き、河野氏の伊予国の東予・中央部まで細川氏の勢力が敷かれた史実を省みました。
[2005年02月04日13時59分]
お名前: 遊行笑人
サテサテ?伊予の国が細川氏から手付かずだったのか?と言えば、相では無いのである!。
先ず貞治の戦の豫陽盛衰記六『伊豫国兇徒蜂起之由、依有其聞将軍家教書如此為退治所発向也、早相催一族、駆参御方可被致軍忠也仍執啓如件。』建武三年十月八日・祝三郎殿・細川三位・皇海・書判が記されております。又豫章記には『伊豫国凶徒誅伐之故、兼曰下細川三位皇海詑、不日令下国、相催一族併當国地頭御家人等、可令退治之状、如件、』建武三年十一月二日・御判・河野對馬入道殿。その後続々と尊氏よりの御書の記述有り。河野對馬入道は河野通冶、後通盛殿河野家当主伊予道後湯築城城主也。この書状の三位細川皇海は誠に土佐国天竺城主細川禅門本人為るか?又は所以の人物為りしことは今後の説明にてご判断お願いします!。此れは伊予国も一時は伊予国宗家の居城・湯築城が土佐国細川氏天竺細川禅門と名乗る人物に占拠されていた事を物語る所以為り。其れでは続編をお待ち下さい。其れと参考御書は是非皆様で御訳頂きたく敢えて原文を載せていただきました。是非漢文の現代文への転換はマックさまのご指導をお頼みします。
[2005年02月03日10時34分]
お名前: 遊行笑人
先ず最初に四国の守護職細川氏一統の話から始め挿せて頂きます(一部伊予国は状況が異なるか?)。細川氏はご存知の通り足利氏の支族にて(戦国時代迄足利将軍家と馴染む感也)、足利義康の四代目の義季殿が三河国額田郡細川に住した所以也。故に細川姓を名乗ると聞く。義季の子俊氏其の子に公頼と頼貞氏が兄弟と記す。公頼殿には和氏・頼春・師氏があれれる。一方頼貞氏には三子有り顕氏・定禅・皇海がある(他の説には直俊・氏之を記す者も見ゆ)因みに後々和氏の子清氏と頼春の子四国の勇・頼之の内紛も見受けられる史実も有る。さて四国の細川氏は南北朝の動乱に際し、公頼の子頼春は刑部大輔・侍所頭人となり管領の地位を為すと聞く。又和氏・師氏も阿波・淡路守にて守護となると記す。寧ろ頼貞の子顕氏・定禅・皇海は讃岐・土佐の国に其の足跡を見ることが出きるのです!。この時代は細川氏の絶大なる勢力は四国を始め八ヶ国に守護体制を築かれたと記す。建武の新政当時は嫡子の系列の和氏と言えども、頼貞氏の嫡子顕氏も讃岐を拠点として弟定禅・皇海を統率して讃岐・土佐の両国を支配した様である。勿論阿波は和氏は宗家として阿波国を支配したが、顕氏は河内・和泉・土佐に勢力を伸ばし、和氏は一族の主家として、上洛し幕府政権の確立に高名を残す。その後には色々な政治の勢力の変遷にて、頼之と清氏の同族争いも向かえるのも難儀なり。世の常か?。其れでは阿波はさて置き、讃岐と土佐と伊予の国々の動向を次にお話挿せて頂きます。特に伊予国は皇海殿との所以が有り其の経緯を進めます。この話は戦国時代の長宗我部元親の四国制覇の所以の原点に繋がる話かも? 取り敢えず口火を切らせて頂きます。
[2005年02月02日13時05分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、昨晩関東在住の城郭関係の恩人・御仁の土佐国宿毛二城(山内氏、長宗我部氏家中十市細川氏関係)・中村城(一条氏・長宗我部氏・山内氏)・高知城・土佐大津城(天竺細川氏関係)を訪れ、古の国領主の面持ちを身体で汗を流し、夢を馳せ、空気を胸一ッ杯に吸って参りました。四国の戦国時代の国領の所以のお話の一助になれば宜しいかとも???。来月から皆様から、是非情報を戴きつつ盛り上がれば幸いです!よろしくお頼みします。
[2005年01月30日08時53分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、細川氏から長宗我部氏までの四国の有様を、色々と探索して居ります。
概ね戦国時代までの伊予・土佐を遊行、栞を整えつつありますが、室町時代までは阿波・讃岐・土佐之細川氏守護職と伊予河野氏を軸に、土佐国中村一条家、伊予西園寺家で略、絡みの附合は通過時点で、深入りせずに流します。大綱としてお話を細川・河野・長宗我部の戦国時代までの経緯・絡みを基本的な事柄(四国の細川氏は?伊予の河野氏とは?土佐の越智河野氏と長宗我部氏との関連)を主体に手許の資料で、採りとめの無い説話になるかもと思いますが、投稿させて頂きます。其れと今月は月末まで、江戸の恩師の同行の旅行の予定が入って居りますので、一寸口火を切らしていただき、続編は二月以降と言う流れで御許しください。笑人も俄歴史フアンなれば気軽に皆様の知識を重ね、一歩でも史実に沿う、研究テーマとして強力お願い致します。
[2005年01月16日16時44分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、ナントなんと甚目寺町は笑人の直系尊属律師の住職が尾張徳川家に招かれて同町上萱津上野長生山妙勝寺四十二世でした!。
甚目寺はマックさんと御縁が有り相ですね。驚きました!
四国の国領の戦国時代前後状況調査終わり次第投稿させて頂きます。いま少しお時間をください。
[2005年01月07日18時48分]
お名前: マック
遊行笑人さんへ
遅ればせながら、おめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

愛知県の海部郡甚目寺というと、織田信長
の母親である土田氏の所領だったところです。

[2005年01月07日04時11分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、この一年大変お疲れのご様子窺い知れます。ご苦労様でした!
私も色々と多忙な一年でしたが、有意義な思いを残させていただきました。感謝!

さても、このテーマでお誘い頂きまして、時間のみ打ちすぎました事今少々お時間下さい。
只今、伊予・讃岐・土佐・阿波を歴史を遊行中です。四国と言う題材は、歩けば歩くほど繋がり深く、特に四国制覇の夢を成し遂げる直前で、破れた土佐の勇・長宗我部氏を良く証左しなければ為らず、現在『土佐物語』の古書の原文を、少しずつ難儀しながら解読中で、新年明けまして徐々に、読み終えた文から御紹介をさせて頂こうかと考えて居ります。今しばらくご猶予御願い致します。来年も宜しく!慶いお歳をお迎え下さい。
[2004年12月30日09時28分]
お名前: マック
もう ぼろぼろに疲れたマックです

楽しいお話を期待しています

[2004年12月30日04時04分]
お名前: 遊行笑人
マックさん、大変遅れておりますが、笑人・江戸のお方や、先祖由縁の地・人物への次から次への遊行の旅に出る用件が生まれ出でて、身一つにて、嬉しき事なれど、『身の1つだけにて、2つ無きぞ悲しき』の感也!暫くのご猶予をお願いします。
[2004年11月26日11時55分]
お名前: 遊行笑人
マックさん!笑人、ご導きの窓に、千夜一夜の『おもかげ・うつろ』の想いの世界に、足を踏み入れて見様かな?。何処まで辿れるかは自信が有りませんが、其の道への遊行が生甲斐かとも・徒々のままに・考えてみたいと思います。
[2004年10月13日03時59分]
お名前: マック
遊行笑人さんへ

あまり具体的にプライベートなことは
書けませんが、いわゆる わたしは
存亡の時となっています。
三好家最後の切り札「十河(三好)存保」の
中富川の戦いほどではありませんが。
ある県議に「攻勢に出られたら」という、、
これだけでは何のことか分からないはずですけど
遠藤周作著の「決戦の時」とでもいいましょうか。

それで、わたしは長期にわたって、合戦に専念する
ため、半年から一年ほど、消えてしまうことを
お許しください。

そんしさんは当サイトのSIGOP(管理者)で、、
呼びかければ必ず丁寧なRESがあるはずです。

ここの常連は日本史ボードをチェックしていると
思いますが、、四国ものの第一人者の遊行笑人さんには
なかなかRESは難しいかもしれません。
みなさんに、こう挑発しておけばだいじょうぶかな。

また遊行笑人さんが講師的に論説か、歴史小説を
発表して、実力をみせられたらと思います。

楽市楽座はフリーボードで遠慮せず、強引に仲に
入って、好きなことを書けば良いと思います。
座敷わらし君、四角五角君なんかは、純粋で
真面目な「いいひと」ですから、緊張感も無く
話題にはいりやすいと思います。

そういうわけで、しばらく さいなら です。




[2004年10月13日02時31分]
お名前: マック
ちょっと俗世でいろいろありまして
まったくアクセスできませんでした。
もうしわけないです。

遊行笑人さんへ、
そんなわけで、スローペースをお許し
ください。
9月30日からまったく読んでいません
でしたので・・・・

個人的にもの凄く難しい問題を抱えている
のです。県議会に出す請願書を書いていま
した・・

なにやら言い訳に終始しているなあ


[2004年10月12日23時30分]
お名前: 遊行笑人
そんし殿、誠に心有る話受け承りました。得能(今岡とも)通時、今岡通任一族の者、宮方の勢力の将にて、中先代の乱において、伊予の国各所で1334年(建武元年)通時は白瀧城・通任も赤瀧城で討死と我家の系図に遺恨の文書を見る。故に今岡氏の一族各地に離散の憂き目に遭い、白瀧城の在所の現在の伊予市両澤の里には、今でも河野氏一族の落人伝説と供養の忌りの行事の伝承を最近の笑人の遊行にて確認挿せて頂き、山上の城跡に再拝、合掌にて、心ばかりの供養を
挿せて頂いたことです。そんし殿の云われた所以です!その後土佐国細川氏の縁に恵まれ、細川譜代家臣の下村氏の婿に縁付き、時代は移り、長宗我部国親の夜襲にて、落ち延び其の子幼少にて母親の出里に身を寄せて、十市細川家にて仕え、宗兆殿の配陣の地、土佐国西部、伊予の国境の幡多郡の地に子孫・我々の家流を継いでと云う事です。その後はご存知の経緯で、宗家通直殿竹原小早川氏の元で最後をもって、伊予国瀬戸内水軍の将を誇る正統の家系を絶つと言う次第也
其の後は、来島氏(久留嶋氏)、稲葉氏、一柳氏が後々の辛うじて其の血筋を繋ぐとも言われております。同族相争う時代の成せる結果なるか?!・  いじうです
[2004年10月09日09時52分]
お名前: そんし
まあ、南北朝なんぞというキーワードが出てくると、いずれなんか書いてくるだろうと期待してみている人もいると思うのでご挨拶程度。

うーん、ここらへん、どこかで読んだことあったなと考えたのですが、「武王の門」の出だしがモロにこの時代でしたね。この小説では、よりによって西征将軍宮懐良親王は惣那氏にかつがれて九州制覇に乗り出したことになってます。

ぱらぱらとめくり直してみましたが、河野氏や村上義弘はでてくるものの、残念ながらその他大勢に飲み込まれて今岡の名は見られませんでした。いや当時は村上姓かな。太平記までめくる元気がないので、いまはお話参加まではご勘弁を。

地理的には新田義貞の弟、脇屋義助が活躍した地域ということで、南朝側史跡のやたら多い場所ですね。
[2004年10月09日08時52分]
お名前: 遊行笑人
余り退屈しますと、マックさんにお叱りを受けると、心苦しいので、今岡の姓を少々知る範囲で御説明致します!
実を云うと、この姓は瀬戸内水軍の将のマック殿ご紹介の如く、河野家の諸流、『土居・得能・能嶋・来嶋・惣那(くつな)・三嶋内・松末・久枝・桑原・戒能・今岡・中川・重見・黒川・和田・大内・正岡・南・稲葉・一柳(ひとつやなぎ』各氏を氏名とする伊予の国越智一族也。又同族土居の一党を別に記し、『越智・周敷・今井・松木・難波江・徳永・高部・新居』を記す。
この由縁は姓を伊予越智姓・河野氏諸流・方や土居の一党と我家の系図及び、多分別の『教えてくださいのコーナーの土佐の国城主細川天竺花氏のゆわれ』に多少説明されております。
このサイトで、100数十年の時空を超えた遭遇に廻り遭いました。此れがソモソモのマックさんとのご縁也!驚きました!セメテモノ御恩返し、お誘い頂き参上致した次第也。(全国区なればの由縁也)改めて御礼申し上げます。この次には中先代の乱のお話と、蒙古襲来の勇、河野通有の三男通種(拝志・林の祖)ー嫡子通時(今岡とも)、二男通任(今岡・村上水軍の将村上義弘の姻戚による)から土佐国大津城主細川氏の由縁の流れを説明挿せて頂きます。(ご恩返しの一端と)。もし関心の御ありの同姓同氏の方が居られましたら、名乗りを揚げて下さい。但し、古きことなれば無過失、損害賠償責任を絶対免責条件として、お願いしますよ。夢の世界かも知れませんので?・
[2004年10月08日20時55分]
お名前: 遊行笑人
最初の窓口の『お教え下さい』の投稿の足利尊氏の話を見させて頂きまして、今岡・下村・河野
土佐越智姓三氏同族の関係深き、京都六条堀川通り(現在は山科天智天皇陵の上手に在り)の古刹、日蓮宗本圀(国)寺派総本山・大光山本圀寺の寺暦の由縁の中の足利幕府との繋がりの深き伝有り。河野・今岡・下村の先祖の面々も、深く拘りた時代が、戦国・江戸時代に名を残して居る様子が有り、美濃の国のお方にお調べ頂いた史料の中に、最近新たなる信長の時代の『六条の戦』の記述の文章に、縁者(血族)下村重勝主膳の名が、記されている事も、摩訶不思議也!
この話は、長く成りますので、由縁の紹介は、次の機会に必ず投稿挿せて頂きます。11月に同族・先祖を一つにする江戸の方との、巡り会いの後に成りますので、ご容赦下さい。

[2004年10月06日10時51分]
お名前: 遊行笑人
早速日帰りで、今岡氏の御寺と聞く、伊予国三津の定秀寺を訪問しました。本願寺派の名刹の様相也。銀杏の古木境内に高くそびえ、山門、梵鐘等の古の姿を見る。本堂は既に鉄筋3階建ての近代的建物でした。但し,京都本願寺門主のお方の訪問記念碑文石塔もあり、格式の高さを感じました。丁度早朝で玄関のボタンも遠慮し、境内を散策し、周辺の三津浜の古い歴史を想わせる佇まいの町並みを、感じ取り帰宅しました。新しい情報の収集に努力します。尚道中、マックさまからお見舞いいただきました、愛媛県の東予の台風被害の現場、思いの他酷く、国道の各所も山からの崩落、鉄砲水の惨状、昼夜敢行の復興工事のご苦労大変な作業です!。何時もの所要の時間倍以上の5時間ほど掛りました。高速道路は不通個所あり、陸上交通は寸断の状況下です。
[2004年10月03日18時40分]
お名前: 遊行笑人
土佐国大津城細川天竺氏の窓口に戻り、台風のお見舞い頂き恐縮です。今年は四国への台風上陸最多記録!被害も甚大な模様也。自然の猛威、世界的環境変化の落とし子かもと考え度くなりますね。伊予国越智姓河野・今岡氏の血を引く者の一人・笑人の先人(直系)の者、台風もよけたと聞きます(三重県では、多く人命を失ったご様子・合掌)、マックさんの尾張の国は、江戸時代末期に、愛知県海部郡甚目寺町に在リます長生山・妙勝寺42世を勤めた僧一人ありました。
縁深き感が致します。この僧その後、京都六条大光山本圀寺42世を最後に、僧籍を終えた者も
土佐国越智姓河野・今岡・下村氏同族の末裔也。不思議な思いですね!
[2004年10月01日03時37分]
お名前: 遊行笑人
伊予の師匠と慕う方から、今岡氏の御寺をお教え頂きましたので、先ずは今岡氏有縁の松山市内の御寺に行って来ます。現在の住職さんも今岡様とのこと、十月に入り、道路事情(21号台風の被害)が良くなれば訪問予定をたてておりますので、改めてお話します。宜しく!
[2004年09月30日21時47分]
お名前: マック

それでは、新人物往来社の地方別日本の名族10巻四国編から。。。
付録的な愛媛県の名族をみると「今岡」氏は簡単に見つかりました。

今岡氏について、あまたの読者のために説明いたしましょう。

南北朝から戦国時代にかけて芸予諸島で活躍した海賊衆です。
南北朝時代の今岡通任は、貞治4年(1365年)、細川氏との戦いに
敗れた河野通堯を村上義弘とともに九州の懐良親王のもとに送り届ける
役目を果たしました。

応永年間には、越智郡大島での海賊行為を幕府から非難されています。

室町時代以降の今岡氏は、河野氏の家臣団の中にはいり、水軍の一翼を
担います。
特に戦国期の今岡民部大輔は、河野氏の「御侍大将十八将」のひとりに
数えられています。

*
以上、、簡単な説明でした。



fmd33577 マック

[2004年09月30日19時30分]
お名前: マック
とりあえず、スレだけです。

おーーい、ここだよ、ここ。
あはは、誰も来ないかもね。

[2004年09月30日18時41分]
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