テーマ:東日流外三郡誌はいずこ

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お名前: 江戸通
 文庫本になった
 偽書「東日流外外三郡志」事件を読みました。
  論争には、参加しませんでしたが、いまも、おなじようなものです。
  「荒覇吐」神社も倒産?外三郡誌もない。
 不思議な結末でした。
  発見された三内丸山古墳の祟りでしょうかね?


江戸通
[2010年02月04日07時41分]
お名前: 通りすがりの者ですが。
>ネコ彦さま
○ 奈良市の東にある此瀬町からは太安万侶の墓誌が発見されているが、当地には田原小学校や田原中学校がある。

奈良県磯城郡田原本町にあるのは、
「田原本(たわらもと)小学校」 「田原本(たわらもと)中学校」
です。
わが母校の名前を勝手に変更されては困ります。


ネコ彦さまは、多氏の影響のみを取り上げておられるようなのですが、
他方、田原本町には「秦庄(はたのしょう)」という地名もあります。
これは渡来系氏族秦氏に由来する地名なのですが、
こちらについてはどうお考えなのでしょうか?
[2009年04月30日11時41分]
お名前: そんし
わたしSIG歴史への招待にどっぷりつかっていながら、自分のテリトリー外だった古代史の話題にはほとんど目を通していなかったのです。

古いログは、すでに消えて長くなりますので、もうご存じの方も少なくなりましたが、手元に残っていたログの中から読み直してみたら、意外にもSIG歴史への招待では古田史学擁護派が主流だったんですね。

いや主流という言い方は語弊がありますね。書き込みが多かったというのが正確かな。

ところが「東日流外三郡誌」では、かなり早い段階から古田派でありながら偽書派という、不思議な世界の人が集まっていて、NIFTYの歴史フォーラムとはかなり雰囲気が違っていたようです。

だから「東日流外三郡誌」は偽書であるが、安本氏って信用ならんといった風でもあったみたいです。

明確に、古田・和田派VS安本派とはなっていなかったんですよね。そこで今のSIG歴史への招待はどうなっているのかといえば、当時の古代史の論客達はみんな消えてしまって、昔は良かったの世界が漂い続けているといった感じです。

私は、これらのお話に全く興味がなかったわけでもなく、NHKでこの問題を扱った例の番組は興味深く見た記憶があります。でも深く知らない私には、真書と断定するには証明作業が不真面目で論理的じゃないと感じた程度でした。

そういえば二倍年暦なんて、実に懐かしいキーワードがでてきたので、おおっと思いましたが、SIGが元気だった頃といいましょうか、古田派の方がしっかりした主張を持って書き込んでいらっしゃった頃は、盛んに語られていました。あのころのような元気なお話がまたききたいわん。

(昔は良かった話ですので、事実とは異なるかもしれません。私は正確にはよくわかっていない外野席でしたから)

そんし

[2009年04月24日01時56分]
お名前: そんし
うーん。原田様に、私が書こうかと思っていたことを、理路整然と先に書かれてしまった。

ネコ彦様、そういう最後っぺのような書き方をして去ると、本当は無礼な人だったのではないかと誤解されます。

私は、自分とは全く相容れない主張を持った方でも、アマチュア歴史ファンとして一度はふれあった方であれば大切な友人として見ていますよ。友人であれば痛烈に批判しても、たいがいは真面目に受け取ってもらえます。あなたはそうは思わない方なのですか?

ところでこの際、ネコ彦様のお考えの基本に重大なミスがあることに気づいたほうがいいと思います。

「邪馬台国→高木氏→タカミムスビ→阿蘇地方→多氏→田原、とする連結の生まれる可能性がゼロではないと思われる」

私にはこの論理はわかりませんが、これを否定する人は誰もいません。「可能性がゼロではない」というなかには、「ほとんどありえないほどゼロに近い」のから「100%間違いない」までの全てが入るからです。

この「可能性がゼロではない」と言うことを、「仮説をたてる」と呼びます。まだ証明作業をはじめる前の段階ですから、仮説を立てるだけなら、万人の自由で、誰も否定はしません。

仮説から、歴史の真実として定説にするには、その「→」の一本一本が、「他の可能性が限りなくゼロに近い」ことを丁寧に証明していく作業が不可欠なのです。

ですから、その作業もはじめていない単なる仮説の段階で、誰かに信じろとせまるのは、とても乱暴なことです。

天皇の祖先は天から降臨した神であると日本書紀に書いてあるから真実だ。というのも仮説です。我が国では、それを否定することが道徳的に許されない時代があって、学者が否定しないなら真実だろうと、為政者達は歴史の真実を知らない若者を特攻隊に駆り立てました。

そういう不幸な時代の再来はまっぴらですから、トンデモ説にも真面目に反論する姿勢は正しいと私は思っています。その手荒い歓迎に耐え抜いた説だけが、トンデモ説から、真面目な研究対象へと成長していくのだと思います。

そんし

[2009年04月17日21時28分]
お名前: 原田 実   URL
ネコ彦様

同じことをもうくりかえすつもりはありません。
貴方に誠実さというものがないことはすでにわかっています。

それでも、「田原」地名が邪馬台国と関係あるという説について、
他の人に検討してもらいたい、と思うのだったら、
せめてこれだけは行ってください。

まず、吉田東伍の『大日本地名辞書』(大きい図書館にはよく置いてあります)などで、全国の「田原」地名を調べ、その歴史の概要だけでもつかむ。

そして、その地名分布が特定の古代氏族の移動によって説明できるのか考える。

さらにそのような氏族があったとして(調べる前から多氏と決めつけるのは早計です)、その氏族と邪馬台国に関係がある可能性について考証する。

そして、これが一番大切なことですが、その作業の間は、「和田家文書」や『桓檀古記』に古代の史実があるといったヨタ話をきれいに頭から追い払う。

こうした手順を経てはじめて、貴方の「田原」地名に関する仮説は人に評価してもらえるものになるでしょう。
[2009年04月17日17時26分]
お名前: ネコ彦   URL
原田実様 そんし様

これで矛を収めさせていただきますが、これまで付き合ってくださった方のためにも、もう少しの追加をお許しください。なお、私は人様の土俵におりていたので、私の文を全削除していただいても文句はいいません。

<田原の連結と邪馬台国>

○ 奈良県田原本町多には多氏の本拠地があったと考えられている。
ここには「田原」と「多」の組みあわせがみられます。
○ 奈良市の東にある此瀬町からは太安万侶の墓誌が発見されているが、当地には田原小学校や田原中学校がある。
ここにも「田原」と「多」の組み合わせがみられます。なお、太安万侶は多氏の筆頭者でもあります。
○ 奈良県生駒市から大阪府寝屋川市にかけての生駒山中に、田原の地名が集中していて、かっての田原の荘があったとされている。地元では、当地にある白庭台にナガスネ彦の本拠があったとしている。

『和田家文書』
○ 生駒の里にナガスネ彦の治める邪馬台国があった。
ここには、「田原」の地名が「邪馬台国」に重なる可能性がみられます。

『桓檀古記』
○ 阿蘇山に、多婆羅国、またの名は多羅国がある。
『宇佐家伝承』
○阿蘇地方に、タカミムスビを太祖とする日の国がある。多氏はこの日の国からでている。
両伝では、「阿蘇山の多婆羅国」と、「阿蘇地方を出自とする多氏」との間にいくつもの共通点がみられます。ここには、多婆羅(タバラ)と田原(タハラ)が同一モデルである可能性があるはずとなります。

『和田家文書』
○ 嘉瀬川のあたりに邪馬台国があった。
「嘉瀬川のあたり」にあたる佐賀市大和町には、かっての国府のあとがあり、『姓氏家系大辞典』によれば、当地は高木氏によって治められていたとされます。また、『古事記』によればタカミムスビの別名は高木の神とされている。

先には、生駒の里で邪馬台国と田原の地名がむすばれる可能性をみました。それに対して大和町でも、邪馬台国→高木氏→タカミムスビ→阿蘇地方→多氏→田原、とする連結の生まれる可能性がゼロではないと思われるのですが。



















[2009年04月17日01時51分]
お名前: 原田 実   URL
そんし様

ご理解いただきありがとうございます。

私がここで、ネコ彦さんに関わり続けているのは、30年近く前の私と同じことをやっているから、というのもあるんでしょうね。当時は私も、『東日流外三郡誌』『桓檀古記』『富士宮下文書』『秀真伝』などを組み合わせて、なんとか「史実」を再現できないか、とあれこれやっていましたから(それぞれの文献の素性が明らかになってからは、これらをから古代の史実をひきだすのは無理だ、と理解しましたが)。つまり、その道が袋小路だと知っているから注意している、というところです。
「田原」地名についてはまさにその通りですね。「田村」地名を多氏と関連付ける研究者は、ネコ彦さん以外にもいるのですが、「田村」地名はあまりに件数が多い上、分布も広すぎて、かえって特定氏族との関係だけで説明するのは無理がある。ましてや、邪馬台国と関連付けるのは無茶というものです。
「和田家文書」のテキストが喜八郎の手になることを認めても、まったくの偽作だと認めたがらない人もたしかにおられますね。そういう人は、考えが足りないというより、自分の頭でしっかり考えた結果、いったん「真実」と認めてしまった、という傾向があるように思われます。
「和田家文書」には、一般にはあまり知られていない郷土史の知識や(当時の)最新の歴史知識に基づく個所がある。和田喜八郎氏が意外と勉強家だったことを知っている者には、不思議ではないのですが、たかだか偽作者にそんな知識があるはずないとか考える人には、喜八郎氏が未知の原本を持っていた証拠に見えてしまう。
 また、歴史愛好家には「和田家文書」の記述が自分の説の傍証に使えた、とか、「和田家文書」の記述にインスパイアされて自分の説を立てたという人もいるわけで、そうした人からすれば、自分の説に都合がいい記述を偽作者が思いつくとは考えもつかない、ということもある。それは単なる思い込みなんですが、自分で自分の思い込みはわかりにくいものです。
 だから、いったんそうした思考回路ができてしまうと、その頭で考えれば考えるだけ、全面偽作は不可能だという方向に思考が向かうのは仕方がないかも知れません。
 まあ、私がかつては「和田家文書」に依拠する論文を書きながら、その後、偽作説の方が合理的だという結論に達することができたわけですから、思い込みの克服は非可能ではない、ということも実感してはいるのですけどね。

[2009年04月16日18時17分]
お名前: そんし
原田様こんにちは。

原田様がご自身の世界とは相当に異次元の論客にも真摯に対応されている姿には、本当に感銘を覚えます。願わくば権威が傷つくのを恐れてハナから相手にしようとしない多くの学者諸先生にも見習って欲しいものですが、むしろそのような方にはご自身の研究に没頭していただきたいという期待を込めて、原田様が腕まくりされているようにも感じます。事実はいかがでしょうか、一度お聞きしてみたいと思っておりました。

もちろん原田様が「SIG歴史への招待」で真摯に対応なされているのは、自分の登場した同じ土俵に並んで書かれたものだからというだけの理由で、他意のないことは言わずもがなですが。

そこでもうひとつ知りたいことがあります。

私は長年の歴史愛好仲間で、和田喜八郎氏に生前会って、原資料の一部も見て、荒唐無稽の現資料は本物であると、その真実性を確信した主張をする友人を持っています。

私自身は疑いを持って見ていたわけではなく、真書偽書のまえに、歴史ファンの単なる好奇心だけで眺めておりましたから、真摯に取り組んでいたという点では、私は彼の足元にも及びません。

私は今では偽書と結論して過去の話にしておりますが、一方彼は今でも真書説をかたくなに信じています。でもそのことで、大切な友情が揺るいだことは一度もなく、歴史の真実はひとつだけと思う気持ちは共通認識です。

私には、原田様のHPをざっと読む程度でも、よほど科学的な思考力が無い場合を除き、偽書の確信は持てるのではないかと感じてしまうのですが、実際には歴史に造詣が深い諸兄で、真書説に固執して後戻りできなくなっている人はたくさんいるようです。

どうしてそうなるのか、そういう方をたくさん見聞きしてきた原田様なら共通性をご存じなのではないかと、質問してみたくなった次第です。

そんし

[2009年04月16日00時04分]
お名前: そんし
ネコ彦さん、自説を肯定するための証明を省略しておいて、否定する相手にはそれを求めるというのは、良くない手法ですよ。

「田原の地名がありふれているとしても、ひと県に数個というのがせいぜいでしょう」と、偶然にしては、あまりに不自然なほど少ない事を論拠にするなら、それを具体的に証明してみせないと説得力はありません。

たとえば郵便番号簿にあらわれる「田原」の地名を調べてみただけでも、三重県松阪市田原町、滋賀県彦根市田原町、兵庫県加西市田原町、広島県庄原市田原町、長崎県佐世保市田原町、愛知県田原市などを手はじめに、大字名や、「大田原市」「小田原市」まで含め、また「上田原」「下田原」を2ヶ所と数えると、ざっとかぞえて全国に154ヶ所ありました。

このくらい素人の私でも、30分もあれば調べられます。ネコ彦さんは、そんなことすら調べもせずに、「ひと県に数個というのがせいぜいでしょう」と、単なるカンで証明を終えたつもりになっている。

私は面倒なので郵便番号簿で調べましたが、郵便番号簿では同番の地名は省略されますので、実際の数字はこれを大きく越えることは容易に想像できます。ましてネコ彦さんのように多婆羅と書いても田原だなどということになれば、それっぽければみな田原ということになって、無限大に増えてしまいます。

しかもこれは現代の地名ですので、ネコ彦さんは、これを徹底的に調べ上げたうえに、その多くは邪馬台国の時代近辺には存在していない比較的新しい時代の地名であり、一方の自説に述べた地域だけには古くから存在していたということも科学的に証明してみせなければならなくなります。

そんな面倒なこと出来るわけないと考える人は、歴史を研究する人とはとても呼べないのです。信ずるに足ることを証明してきた先人は、みなこの途方もない作業を、コツコツと地道にやり通してきているのですから。

ただし、単なる歴史ファンの歴史遊びなら、学者には許されない空想が許されます。豊かな空想ゆえに、学者が気づかなかった真実に近づくこともあるかもしれません。そうだとしても、やはり真実に迫るには、最終的には地道な証明作業が不可欠で、それはいいだしっぺの仕事です。決して聞き手側に放り投げてよこせるような仕事ではありません。

そんし

[2009年04月15日23時17分]
お名前: 原田 実   URL
ネコ彦様

>以後、これまで「外史」としてきたものを「異端書」とさせてください。<

ご納得いただけたようでありがたく思います。

>『和田家文書』からは、「田原」の地名が出てくる可能性はゼロにちかいのです。<

つまり、「田原」地名と「和田家文書」は無関係ということです。貴方がいかに「田原」地名にこだわても、それは「和田家文書」の真贋とは関係ありません。

>『和田家文書』の主張する二つの邪馬台国に、田原の地名がかかわっているとすれば、この事実は評価するべきではないでしょうか。<

「和田家文書」が主張する邪馬台国は二か所だけではありません。また、貴方のいままでの考証からは、嘉瀬川方面と「田原」地名の直接の関係は引き出せません。こじつけを重ねれば、いかなる場所でも結びつけることができます。

>また、田原の地名がありふれているとしても、ひと県に数個というのがせいぜいでしょう。<

つまり、47都道府県を合計すれば数百になる可能性さえある、ということです。
複数の遺跡や伝承地付近に見つかったからといって直接の関係があると断言できない(偶然にすぎない可能性が十分ありうる)頻度ですね。

[2009年04月15日17時58分]
お名前: ネコ彦   URL
原田実様
以後、これまで「外史」としてきたものを「異端書」とさせてください。

田原の地名が、多氏とともに邪馬台国にかかわることに賛成していただけませんか。
『和田家文書』では、生駒の里にナガスネ彦の治める邪馬台国があったとしています。
しかし、これを書いたと思われる原作者には、当地に田原の荘があったとする事実は、知るよしもないのです。これは和田喜八郎氏と言い換えても同じです。また、佐賀市にあったとする邪馬台国にしても、それが田原→多婆羅に繋がるとの考えは、「異端書」をつなぎ合わせたときはじめて出てくるものなのです。つまり、『和田家文書』からは、「田原」の地名が出てくる可能性はゼロにちかいのです。

『和田家文書』の主張する二つの邪馬台国に、田原の地名がかかわっているとすれば、
この事実は評価するべきではないでしょうか。また、田原の地名がありふれているとしても、ひと県に数個というのがせいぜいでしょう。




[2009年04月15日16時50分]
お名前: 原田 実   URL
追伸

>他には適当な名が思いつかないので、異端系の文書を「外史」とすることを許してください。<

他に適当な名という以前に「外史」という呼称は不適当です。
それでは『愚管抄』や『神皇正統記』『日本外史』といった本来の意味での外史を指すべき用語がなくなってしまう。日本古代に関する異端的な文献という意味なら、すでに佐治芳彦先生が定着させた「古史古伝」や田中勝也先生が提唱した「異端古代史書」という用語がすでにあります。
本来は別の意味の用語を、恣意的に別の意味の用いるというのは独りよがりでしかない。私個人が許す許さないという問題ではなく、貴方が書いた文章の意味が他の人に正しく伝わるかどうか、という問題なのです。

なお、貴方が「和田家文書」にインスパイアされた思いつきが、貴方自身にとっていかに真実に思えた(そして「和田家文書」が正しい証拠に思える)ものだとしても、「和田家文書」を書くために和田喜八郎が同じことを考えていなければならない必然性はありません。
和田喜八郎の生前、「和田家文書」の信奉者はしばしば「和田家文書」にインスパイアされながら、「和田家文書」に書かれていない(つまり喜八郎氏がそこまで考え付いていない)ネタをひねりだしていました。そうしたアイデアの中には、和田喜八郎氏が新たな「和田家文書」を書くためにとりこんだものがあります。

和田喜八郎氏亡き今、貴方が書かれた内容が新たな「和田家文書」を生み出すということはないでしょう。ただ、貴方の中での「和田家文書」が貴方自身の思いつきに補完されていくだけのことです。

[2009年04月14日19時29分]
お名前: 原田 実   URL
ネコ彦様

>和田氏がこの事実を思いついたとする可能性は、私にはあるとは思えません。<

和田喜八郎が生駒に邪馬台国を持っていったのはナガスネヒコの関連、嘉瀬川方面と関連付ける話を作ったのは、おそらくは吉野ヶ里遺跡の関連ですから、別にそれ以上の深い意味があるようには思えません。

貴方と同じ理路をたどらなくても、同じような話は思いつけるレベルのものですし、貴方の「田原」論が、和田家文書からインスパイアされたものだとすれば、同じような結論になるのはむしろ当たり前でしょう。

それに嘉瀬川方面と田原地名を関連付けるのはあなたの思いつきであって、他に裏付けがあるわけではない。「田原」そのものはありふれた地名ですから、生駒と阿蘇で共通するにしても、偶然でも説明できることです(このことはすでに指摘しました)。

阿蘇国造が多氏族であることは有名ですから、宇佐公康氏が阿蘇に多氏の国があったと言い出すのは別に不思議なことではないし、それを「多」の一文字があっているというだけで『桓檀古記』と結びつけるのは貴方の思いつきにすぎません。

なにより、「和田家文書」『桓檀古記』「宇佐家伝承」のそれぞれが語る古代史像はまったく異なっているわけで、それを安易に接合しても別のお話が新しくできるだけで真実が明らかになるわけではない。

さらにその貴方の思いつきが「和田家文書」などにインスパイアされたものだとすれば、その思いつきに基づいて「和田家文書」の真実性を主張するというのは自家撞着に他ならない。


あとはすでに私が指摘したことをくりかえすだけです。書かれていることが自分の考えと一致するからすごいというのは、何の論証にもなっていないし、貴方の傲慢さを示すだけのことです。

史実と関係なく、ストーリーを作って楽しみたい、というのなら構いませんが、もしも史実に近づきたいということなら、史料の文面にそって想像力を膨らませるよりも、まず、史料の選別を行うことと、そのための史料批判の方法を学ぶことが大切です。

大切なことを忠告させていただきます。貴方の説が、来歴の怪しい史料に基づいて構成されている、ということを声高に述べるのは、すなわち貴方の説に信憑性がない、ということを広言しているのと同じことです。

[2009年04月14日18時03分]
お名前: ネコ彦   URL
『桓檀古記』のいう、阿蘇山にある多婆羅国や多羅国と、『宇佐家伝承』のいう、阿蘇地方に発生した多氏の田原国との同一性を認めていただけないのは残念です。しかし、田原の地名が多氏に直結すると思われる証拠なら他にあるのです。なお、他には適当な名が思いつかないので、異端系の文書を「外史」とすることを許してください。

「外史」の伝承からは、阿蘇山には多婆羅国、田原国、などと呼ばれる国があり、その王はタカミムスビと呼ばれていた、とするような図が浮かんできます。また、佐賀市大和町には、彼らが邪馬台国を建てたことが、可能性のひとつとして考えられます。
いっぽう『和田家文書』では、「嘉瀬川のほとり」と、奈良県生駒市にあったとする二つの邪馬台国が出てきます。そして前者の邪馬台国には、多婆羅国や田原国の名が、ことの当否は別にしてかかることになります。
ここで問題にしたいのが、生駒の里にあったとする邪馬台国です。その中心地は生駒市
白庭台とされていますが、この北生駒の地は、かっての田原荘にあたっているのです。
つまり、『和田家文書』のいう二つの邪馬台国は、ともに田原の関係する地なのです。
これは偶然とするより、そこに歴史の秘密が隠されている、と見るべきではないでしょうか。和田氏がこの事実を思いついたとする可能性は、私にはあるとは思えません。











[2009年04月14日15時22分]
お名前: 原田 実   URL
追伸

ネコ彦様

貴方は「外史」という言葉の用法からしてすでに間違っています。
他の人と意見を交換するためには、まず、ひとりよがりな用語法を避け、自分の言っていることの意味が人に伝わるように心がけるところから始めなければなりません。
[2009年04月13日18時36分]
お名前: 原田 実   URL
>私には、かく外史を偽書とする手続きは不十分と思えるのです。<

まず、貴方の説にとって都合がいい記述があるということはその内容が正しい、ということを意味しません。

次に、内容に正しい箇所があるとしても、それはその文献が偽作ではないという証明につながりません。

たとえば、金銭授受に関する訴訟において、一方の書面に、あきらかに偽造の証文やら、詐欺事件を起こしたことがある人物の証言がいくつも入っていたら、貴方はその主張が信用できるものと思いますか。
自分の主張が真実だと認めてもらうためには、そのような書面はとりさげ、確実な証文や素性確かな人物の証言のみで書面を再構成して、なおかつその主張が成り立つことを示す必要があります。
偽造の証文や詐欺事件の関係者の証言といえども、自分はその内容を信じているのだから他の人も認めるべきだ、とか言い出されたら、貴方はどう思いますか。
それができないならば、その書面を提出した人は、詐欺師たちのカモにされているか、本人が詐欺師だと思われても仕方ないでしょう。
そして、貴方が行っているのはまさにそれと同じことです。

また、現代人が作成した偽書は当然のことながら、現代人の知識に基づいて書かれています。したがって、部分的に正しい情報が含まれている、というのは偽書でも当然起こりうるわけで、だからこそ文献の真偽の判定は内容の部分的真偽に基づいてはならないのです。

さらにいえば、「和田家文書」『桓檀古記』の偽作性は内容からしても部分的な正しさなどでは糊塗できないレベルのものです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4286027511
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903063240

なお、「田原」は日本ではありふれた地名です。歴史的に重要な場所で田原が複数あったとしても十分、偶然で説明できる状況でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F

熊本県の玉名についていえば、韓国の古代史研究家リ・ジョンギ氏が1970年代から、タバナ国との関連で注目していました。『桓檀古記』の作者がタバナ国をモデルに「多婆羅国」という架空の古代国家を捏造するにあたって玉名の存在を念頭においた可能性は否定できないですね。
[2009年04月13日17時23分]
お名前: ネコ彦   URL
原田実様
阿蘇山の日の国、あるいは多婆羅国には興味ある事実がいくつも隠されています。

『宇佐家伝承』では、多氏は日の国から出ているとしています。そして田原の地名が多氏に強くかかわっています。たとえば、多氏にとっての本源の地は、奈良県田原本町多とされており、太安万侶の墓誌が出た奈良市の東部には、田原小学校や田原中学校があります。
ここで問題にしたいのは、田原(タハラ)の地名が、阿蘇山の多婆羅国(タバラ国)にきわめてよく似ていることです。つまり、阿蘇山の多婆羅国と多氏には、「多の字」、「タハラ、タバラ」といった共通点が認められるのです。これは単なる偶然でしょうか。

いっぽう、『三国史記』に現れる多婆那国の名は、熊本県の東北部にある玉名市(タマナ)の地名に、これまたよく似ています。そして玉名市は、菊池川の流域にあるのです。
当地に、クナ王と、クナ国の長官があったとする図が考えられませんか。

私には、かく外史を偽書とする手続きは不十分と思えるのです。





[2009年04月13日16時19分]
お名前: 原田 実   URL
ネコ彦様

重ねてコメントの非礼ご寛恕下さい。

1999年に逝去した和田喜八郎氏も、私も、貴方も現代人です。

つまり1999年までなら三人とも同じような資料を目にする機会がありえたということです。

だから、たまたま自分が考えたのと同じ結論が『和田家文書』に出てくることもありうるでしょう。『和田家文書』が雑多な情報をつめこんだものであることを思えば当然です。

しかし、私はそれを「神通力」だとか「世紀の大天才」でなければなしえないことだとは思いません。そうした力がなければ同じ結論にいたれないというのなら、それはすなわち自分が神通力の持ち主で世紀の大天才だ、と言っていることになります。

私はそこまで傲慢になりえません。
[2009年04月11日16時23分]
お名前: 原田 実   URL
>『和田家文書』では、ヤマタイ国は「嘉瀬川のあたりにあった」、としています。これが佐賀市大和町に当たるとみなせば、かっての肥前国府の周辺にヤマタイ国があったと考えられます。また、佐賀郡に勢力を持っていたのが高木氏だとすれば、それは阿蘇山にあったとするタカミムスビにもつながってきます。
ここでの問題は、かりに『和田家文書』の製作者が和田喜八郎氏としたとき、どのような神通力によって、大和町とヤマタイ国とを結んだのか、となります。和田氏は、無から有を生み出す世紀の大天才なのでしょうか。<

「和田家文書」の中の邪馬台国は畿内大和になったり、宇佐になったり、糸島方面になったりと時期によって代わります。要は、その時、思いついたことや、本や新聞に書いてあったことを整合性を気にせず書きつられていただけ。ついでにいえば、嘉瀬川のほとりとか言い出したのは、吉野ヶ里遺跡発見の影響でしょうね。

和田喜八郎氏の創作過程について研究するというのなら、そうした詮索も意味がありますが、史実追及のためになると思っているのなら、それは考え違いというものですし、さらにそこに自分の重いつきを積み重ねて考証したつもりになっているのなら、貴方は貴重な人生を無駄に費やしているだけです。



[2009年04月11日15時19分]
お名前: cb
原田実様
先生は、外史の伝承から浮かぶ阿蘇山の王国を偶然の産物と考えておられますが、かりにそうだとしても、新たな問題が山のように浮かんでくるのです。

『和田家文書』では、ヤマタイ国は「嘉瀬川のあたりにあった」、としています。これが佐賀市大和町に当たるとみなせば、かっての肥前国府の周辺にヤマタイ国があったと考えられます。また、佐賀郡に勢力を持っていたのが高木氏だとすれば、それは阿蘇山にあったとするタカミムスビにもつながってきます。
ここでの問題は、かりに『和田家文書』の製作者が和田喜八郎氏としたとき、どのような神通力によって、大和町とヤマタイ国とを結んだのか、となります。和田氏は、無から有を生み出す世紀の大天才なのでしょうか。私には、そう考えるより、和田氏はヤマタイ国を大和町に置くべき何らかの史料を持っていた、と受け取るほうが理解しやすいのです。
和田氏が『桓檀古記』や『宇佐家伝承』を知っていたとしても、それを活用したと思われる気配が私には感じられません。

山のようにある疑問点を、また送らせてもらってもいいでしょうか。


[2009年04月10日15時21分]
お名前: 原田 実   URL
ネコ彦様

まず、『桓檀古記』『和田家文書』についていえば、古典を称してはいますが、実際には1960年代末の邪馬台国ブーム以降の成立です。現代人の著書を参照して書かれたものですから、その中の邪馬台国関係の記述が整理されており、また、現代人にわかりやすい内容になっているのは当然です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434074091/qid%3D1140687508/250-7522082-6732229

「宇佐家伝承」に関して言えば、主唱者は古伝だと主張していますが、実際には主唱者の考えを家伝に仮託したものにすぎません。主唱者はかなりの読書家ですから、その内容は現代人による邪馬台国関連書籍の影響下にあるとみてよいでしょう。

当然のことながら、『桓檀古記』は『三国史記』をも参考にしています。前者に登場する「多婆羅国」が後者の「多婆那国」をヒントに創作されたことは間違いないでしょう。いずれにしろ現代人の創作ですから、「多婆羅国」の話に史実性はありません。

『姓氏家系大辞典』はあくまで太田亮の著作です。また、高木氏、菊池氏の歴史は邪馬台国時代よりはるかに後世のことですから、そこからすぐに邪馬台国問題に結びつけることはできません。

魏志倭人伝や『日本書紀』『新撰姓氏録』についていえば、日本古代史を考察する上での基本文献です。その記述から想像をめぐらせることは自由ですが、『桓檀古記』『和田家文書』「宇佐家伝承」などと同列に扱うのは不当というものでしょう。

なお、「外史」という言葉には史官以外の在野の者が編纂した歴史という以上の意味はありません。日本では「正史」といえるものは6つしかありませんし、徳川幕府や明治政府が編纂したものを除くとしても大方の史書が「外史」ということになるでしょう。「外史」なしで日本史の研究ができないのは、むしろ当たり前のことです。

[2009年04月09日19時37分]
お名前: ネコ彦   URL
はじめまして。ネコ彦と申します。和田家文書をはじめてする「外史」の持つ力をぜひとも知っていただきたく筆をとりました。「外史」のいくつかの伝承は、それをただ並べるだけで、古代のあり方を説明することができるのです。たとえぱ邪馬台国です。

『カンダン古記』
● 王であるカンユウ氏のもとに、熊に象徴される氏族と、虎に象徴される氏族があった。なお、ワイ国では虎が神として信仰されている。
● 百済の初代王の名を熊伯多という。また、百済の首府は熊津である。 
● 百済の山中にあったキョウフは、川をくだってクヤカン国にいたり、さらに阿蘇山に移って多婆羅国を建てる。これを多羅国ともいい、その南には阿羅国がある。熊襲城がある。これは今の熊本城である。

『宇佐家伝承』
● 阿蘇地方に、タカミムスビを太祖、ツキヨミを祖とする日の国がある。南九州に、カミムスビを太祖とする日子の国があり、畿内に移って紀氏となる。
● 『古事記』の編者である太安万侶や多氏は、この日の国がら出ている。また、多氏に直結する田原の地名は、日の国に直結すると考えられる。

『三国史記』
● 多婆那国の王と、女国の王女が結婚し、新羅の四代王となるダッカイが生まれる。
なお、多婆羅と多婆那は、まったく同質と考えられる。

『和田家文書』
● 筑紫の地に、熊襲族の手によって耶馬壱国が再建される。女王の名をヒミコという。
● 神崎郡を治めていた耶馬壱国と、嘉瀬川のあたり(佐賀市の西部)にあって邪馬台国が合併し、そこにヒミコが生まれる。

『姓氏家系大辞典』
● 佐賀郡は、高木氏によって治められている。高木氏の祖は藤原氏であり、高木氏からは菊池氏が派生している。なお、高木氏の名は、タカミムスビの別名である高木の神と同じである。また、肥前の国府は、嘉瀬川の傍にあたる、大和町にあったとされる。

『魏志倭人伝』など、
● クナ王の名を卑弥弓呼という。
● 新羅や百済から帰化した秦氏の代表者の名を弓月(ユヅキ)という。
● タカミムスビの子とされるツキユミは、月弓とも書かれる。

[2009年04月08日01時07分]
お名前: 原田 実   URL
康友様

日本史を正史のみに基づいて研究することは不可能です。
そもそも日本では、正史の編纂は平安時代の半ばで終わっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2

また、正史がその時々の政府の方針の繁栄の産物であることを歴史家ほどよく知っている人々もいません。歴史家が正史を偏重しているというのは実際の歴史研究を知らない人の偏見といっていいでしょう。

日本史研究の対象となる文献は雑多な記録や古文書の総体であり、正史はその中のごく一部にすぎません。

『東日流外三郡誌』が多くの研究者から、史料として使えないとみなされているのは、それが「正史」ではないからではなく、現代人が現代の知識に基づいて創作したものだからです(その元ネタは現代人の書籍、雑誌記事、新聞記事、テレビ番組などであり、偽作者が未知の古記録・古文書を持っていた可能性はまずありません)。


[2009年03月11日10時04分]
お名前: 康友
先の質問にもありましたが、正史以外のきちんとした記録の発見は知られていないのでしょうか?
[2009年03月02日02時36分]
お名前: Armand
原田様、めがまっく様、

ご丁寧な解説ありがとうございます。
以前東日流外三郡誌関連の書物を読んだ際に、おもしろい話
だが、あまりに荒唐無稽という印象を持ちました。古代文字
のあたりを見ると確かに信用がおけないなとの印象があります。

知恩院まで影響を受けているということは初めて知りました。
偽書であるとすると社会的影響は大きいですね。

ご紹介いただいた『日本庶民生活史料集成』『日本常民生活史料叢書』
『日本庶民文化史料集成』『だまされるな東北人』他の書物を今度
読んでみたいと思います。

「寛政原本」の発見について古田氏が新刊書を今年出版したという
ニュースを見たときには、どんなものか興味がありましたが、皆様
のお話ではお金を出して買う価値はなさそうですね。図書館あたり
にあるのなら、一度現物を見てみたいとは思います。

[2008年12月14日18時36分]
お名前: めがまっく
Armandさん、はじめまして。

すでに原田さんのHPはご覧のこととおもいます。
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/tsugarukanrenn.htm

そのなかでも書かれていることですが、東北の人たちの立場から書かれた以下の書籍について読まれることをお勧めします。

千坂げんぽう編『だまされるな東北人』本の森、1998
三上強二監修『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』批評社、2000
斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』新人物往来社 2006

和田喜八郎の人物像を垣間見るには最適だと思います。特に『だまされるな東北人』『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』は、喜八郎と地元郷土史家とのかかわりを克明につたえています。web上の情報もこれらの書籍が発信元になっていることも多いですから。

この掲示板の論議も一部は和田家文書の真贋について書かれていることもありますが、現在の流れとしてはむしろ「三郡誌騒動」という事件の捉え方、特に6月に刊行された「寛政原本」の扱いが中心になっていると思います。
[2008年12月14日16時11分]
お名前: 原田 実   URL
Armand様

>創作物とみると、壮大なスケールであり、和田喜八郎氏は、
よほど豊かな想像力の持ち主だったのですね。<

実際には和田家文書は断片的な文章や偽古文書の寄せ集めであって、内容も損後に矛盾しています。その時々の思いつきで書きとめただけ、といった方がいいですね。
主に80年代、佐藤有文氏や佐治芳彦氏、鹿島昇氏らがそれらのつじつまを合わせて、あたかも一貫したストーリーがあるような著書を書いた。で、そのイメージがテレビや雑誌で宣伝されたわけです。
和田家文書にもともと壮大な世界観があったようにみえるのは、それらの本で作られたストーリーが先入観になっているからなんですね。

>原田様は直接和田喜八郎氏をご存知のようですが、実際、
どんな感じの人だったのですか?<

一言でいえばうさんくさい人です。古田武彦先生や竹田侑子女史らもそのことは認めていて、「あんなうさんくさい人に偽書が作れるはずはない」といっている。そかし、あの方々の真作説はそのうさんくさい人物の証言を前提にすることで成り立っているわけです。
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kanseigenpon.htm

>「郷土史家の手伝いで聞きかじった知識」の具体例
としては、どのようなものがあるのでしょうか?<

十三湊の繁栄や、金光上人の事績についてなどですね。
和田氏は郷土史家の思いつきを聞いては、裏付けとなる「古文書」を
見つけたと言って持ち込み続けた。
十三湊については発掘調査の結果、和田家文書の記述がまったく事実と食い違っていたことが判明しています。
知恩院(浄土峰総本山)では、金光上人の事績に関して、和田家文書の影響が宗門での発行物にも認められるため、今は見直しをしている最中です。
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/tsugaru2005.htm

>「正史」とは違った見方をした日本の歴史を記述した物
は他に無いのでしょうか?<

『日本庶民生活史料集成』『日本常民生活史料叢書』『日本庶民文化史料集成』といった大部の叢書が三一書房から出されています。いずれも高価ですが、大きな図書館に行けば置いてあることが多いです。


[2008年12月14日13時42分]
お名前: Armand
原田様

早速のレスありがとうございます。

まさに一刀両断ですね。
創作物とみると、壮大なスケールであり、和田喜八郎氏は、
よほど豊かな想像力の持ち主だったのですね。
原田様は直接和田喜八郎氏をご存知のようですが、実際、
どんな感じの人だったのですか?

また「郷土史家の手伝いで聞きかじった知識」の具体例
としては、どのようなものがあるのでしょうか?

別史としての『新羅の記録』や『津軽一統志』のご紹介
ありがとうございます。
WEBで検索した知識だけなので、不遜だとしかられそ
うですが、これらの史料は、やはり官側を意識した著作
物のように見えます。
「正史」とは違った見方をした日本の歴史を記述した物
は他に無いのでしょうか?


[2008年12月13日23時49分]
お名前: 原田 実
連投失礼
誤字がありました。

>「正史」と逆の立場、もしくは「正史」を否定する内容の歴史が氾濫した時代は日本市上確かに存在しました。それは終戦後、戦時中の皇国史観への反省から危機を否定するのが流行した時期です。<

日本市場・・・日本史上
危機・・・記紀

謹んでお詫び申し上げます。



[2008年12月12日01時47分]
お名前: 原田 実   URL
Armand様

>この和田家文書には、そういった消し去られた「別史」の断片が含まれている
可能性は無いのでしょうか。<

結論から申しますと、まずありえません。




>日本の正史に書かれているのとは、まったく逆の立場から見た日本の歴史という
ことでこの文書が注目されたのだと思うのですが、そのような類の文書はこれ
まで一切発見されていないのでしょうか。<

「正史」と逆の立場、もしくは「正史」を否定する内容の歴史が氾濫した時代は日本市上確かに存在しました。それは終戦後、戦時中の皇国史観への反省から危機を否定するのが流行した時期です。

和田家文書はまさにその時期の作品です。元ネタは和田喜八郎が若い頃に郷土史家の手伝いで聞きかじった知識と、後に書籍、雑誌、新聞、テレビなどで目にした内容であり、種本として未知の古文書を想定する必要もなければその余地もありません。

和田家文書はあくまで和田喜八郎の創作物として評価すべきものです。

いわゆる中央の歴史と異なる東北の立場からの歴史観をさかのぼって調べたいということであれば、和田家文書ではなく『新羅の記録』や『津軽一統志』などを読まれることをお勧めいたします。



[2008年12月12日01時44分]
お名前: Armand
皆様

日流外三郡誌については以前から興味があったので、
ここの掲示板での議論を大変興味深く読ませていただきました。
議論の当事者の方も参加されていて迫力がありますね。

和田家文書は「歴史的史料」と判断できない、ということは良くわかりました。
「文書」としての真贋という観点でいえば、「贋」なのだと思いますが、その中に
含まれている「要素」もすべて「偽」と断言できるものなのでしょうか?

日本の正史に書かれているのとは、まったく逆の立場から見た日本の歴史という
ことでこの文書が注目されたのだと思うのですが、そのような類の文書はこれ
まで一切発見されていないのでしょうか。
そもそも、古事記も日本書紀も成立期の為政者に都合のよくかかれた文書である
ことは間違いないですし、その成立以前の歴史が全く残されていないというのも
恣意を感じさせますよね。

そもそも同じ時代を生きていたとしても、その人の見方によって記録される結果
は異なったものとなります。

この和田家文書には、そういった消し去られた「別史」の断片が含まれている
可能性は無いのでしょうか。

歴史を学問として研究されている方にとっては、史料の質の高さ、信頼度が
当然問題になり、そういう観点では和田家文書は全く価値の無いものという
結論になることは理解しますが、「真贋」論争ではなく、その文書に含まれる
内容について価値のあるものが全く無いのかどうかという議論はないので
しょうか。

私は、特に、どちら派ということは無いのですが、ここの掲示板
は「偽」派が圧倒的意見を述べていて、それが定説のように見え
ますが、それなら、何故まだこのような議論を続けているかと
素人から見て不思議に思いました。


[2008年12月12日00時29分]
お名前: めがまっく
守宮さん
原田さん

なるほどですね。国際日本文化研究センターという機関は、普段私たちの想像しがちな研究機関とは少々方向性が異なるということなんですね。古田氏がそのことに着目していたのかどうかはともかく、普通「〇〇研究センター」と聞けば、それだけでなんとなく権威のある専門機関を想像してしまいます。確かにそこが古田氏の狙い目なのかもしれません(苦笑)。

しかし、この笠谷鑑定。東日流外三郡誌騒動について、笠谷氏がどのくらい認識していたかわかりませんが、鑑定書としては内容があまりにも稚拙ですよね。「いや、あれはあくまで所見であって、鑑定書ではない」という笠谷氏の声が聞こえてきそうですが、原田さんのおっしゃるように古田サイドでは早くからこの笠谷鑑定を宣伝していますし、少なくとも内容について笠谷氏自身の署名捺印があるわけですから、その学問的責任から逃れることはできません。

もし、仮に、原田さんが他所に書き込まれたように『あらかじめ用意された文書を笠谷氏に見せた』疑いがあるとしても、それは同じことです。ただ、わたしも個人的には鑑定文はかなり恣意的な文章だと思っていますので、原田さんの疑いもわかります。しかし、いくらなんでもそんなものに安易に署名捺印するような、研究者としての自覚を問われる行為までは無いと思いたいです。

ま、この程度のことで学者生命に関わるようなことまではないでしょうが、『東日流外三郡誌を肯定的に鑑定した学者』というレッテルは今後ずっと付いてまわることになります。すでにウィキペディアにもそのことが書かれており、近世史の研究者としては、ちょっと痛い結果になってしまいましたね。身から出た錆とはいえ・・・。

もしくは、心情的な部分で笠谷氏は古田氏のシンパなのかな?と考えたこともありますが、いずれにせよ、我々はその学問的成果のみで判断せざるを得ないわけです。その意味では、笠谷氏も沈黙している場合ではなく、自らの成果に対する疑問、質問に答える責任があるとは思います。

しかし、ほんとうに静かになってしまいましたね。古田氏支援団体のHPなども、今考えれば昨年の秋ごろから徐々に寛政原本に関する記事が少なくなっていったのは感じていましたが、ここにきてぱったりですね。

有耶無耶にしてしまいたいのは、笠谷氏か、それとも・・・・・(謎)

ある意味、全てを白日の下に晒してしまうのは、和田家文書にとって自殺行為ですからね。「幻」が残っているからこそ、存えることができるわけで。

[2008年11月21日22時40分]
お名前: 原田 実   URL
守宮様
>もっともだからこそ、鑑定が依頼されたのだろうけど・・・。
でも、受けた笠井先生もどうして受けたのかな・・・・?<

私も不思議に思って、昨年8月(すでに当時、古田史学サイトでは笠谷氏の鑑定のことが話題にのぼっていました)、日本文化研究センター気付で鑑定の経緯に関する問い合わせのメールを送ったり、拙著を笠谷先生宛で謹呈したりしたのですが、いまだにご返事は得ておりません。

笠谷先生も「寛政原本」がご自身の鑑定書付きでウェブ出版された件について、特に発言はしておられないようですし、このまま有耶無耶になっていきそうですね。

[2008年11月19日18時01分]
お名前: 守宮
 ごめんなさい。

書き込んでから気づいたのですが、
文中、国際日本文化研究センターを
   国際日本文化研究所に誤記してしまってます。

 正しくは国際日本文化研究センターです。

すいませんでした。

[2008年11月18日17時34分]
お名前: 守宮
めがまっく様、
お返事有り難う御座います。

国際日本文化研究センターという所ですが、
私が知っている(二三お話ししたことがある方、
学会でお顔を拝見した方、
著作を読んだことのある方という程度の意味です)
所属研究者は
小松和彦(民俗学)
宇野隆夫(考古学)
笠谷和比古(近世史)
白幡洋三郎(庭園史)
安田喜憲(環境考古学、環境史)
井上幸一(建築史)というところでしょうか。

これらの人たちに共通するのは、
良い意味でも悪い意味でもゼネラリストな研究者ということ。
つまり、広く研究全体を見渡す視野や独特の視点を持ち、
個別実証的な研究よりは、複数の分野を越えた研究をします。
また一般向けの著作が多く、
マスコミなど啓蒙的な活動に熱心な研究者と言えると思います。

その逆が、
これまた良くも悪くもスペシャリストな研究者ということになるでしょう。
個別分野に通暁し、その分野における専門的な知識あるいは技能
(文書の読解、発掘調査、建築・土器陶磁器などの観察・鑑定etc)を
蓄積した研究者です。
知識や技能を元に、個別実証的な研究に専従します。
前者に比較すれば、相対的に視野が狭く
自分たちの専門分野の中に固まり、
一般の目にもほとんどふれない傾向が強い。

所属する研究者の色合いからしても
国際日本文化研究所という所は、他の機関そう例えば
国立歴史民俗博物館、
東京国立博物館、京都国立博物館
東京文化財研究所、奈良文化財研究所
といった組織とは若干毛色が異なると言って良いでしょう。
つまり程度の問題ですが、後者に所属する研究者は(総てではありませんが)
個別実証的な研究に専従する傾向が強いということですね。

上記のような研究者の色合い上、
国際日本文化研究所の方々と、
他の研究者との情報の共有は行われるでしょうが、
資料の分析・鑑定を彼等に依頼することは通常
(いや、まず絶対)しないと思います。

 資料の分析・鑑定こそ、
後者スペシャリストな研究者の出番です。
分野にもよりますが
国立歴史民俗博物館、
東京国立博物館、京都国立博物館
東京文化財研究所、奈良文化財研究所
あるいは大学や(民間を含めた)他の機関に所属する研究者に依頼します。

例えば、木簡など古代の文字資料でしたら
国立歴史民俗博物館の教授だった(後に同館館長、今は山梨県立博館長)
平川南先生に解読と分析を依頼していました。
 余談ながら
平川先生は、以前スレした多賀城碑の研究にも深く関わっています。

しかし、国立だから、大学だから
所属している研究者が、分析や鑑定に優れている
あるいは適しているということにはなりません。
それぞれに得意分野がありますからね。

 国際日本文化研究所は
今回、その名前の「箔」だけが求められたものでしょう。
繰り返しになりますが、
それぞれの分野の研究者が自分の手に負えない個別案件の教示や分析を
上記国際日本文化研究所の方々にお願いすることは「無い」と思います。

もっともだからこそ、鑑定が依頼されたのだろうけど・・・。
でも、受けた笠井先生もどうして受けたのかな・・・・?
[2008年11月18日17時29分]
お名前: めがまっく
>守宮さん
ありがとうございます。

それにしても、笠谷氏の鑑定書は意外な内容でした。この方は、これまでの和田家文書真贋論争において、表舞台への登場経験はないと記憶していますが、2008年の今に
なって、和田家文書の鑑定を引き受ける研究者が存在したという事実にもかなり驚きです。その意味においても、笠谷鑑定がいかなるものになるのか、偽書派(別に派閥では
ないのですが、便宜的に)としても非常に興味深いことでした。

しかし、笠谷教授というのはどのような人なのでしょう?自分でしっかりと調査したうえで、この資料を江戸時代に作られたものであると判断したのであれば、それはそれで
構わないのですが、その結果を他人に認めさせるのであれば、明確な根拠の提示が必須であることはいうまでもありません。この鑑定は、そういうものすごく基本的な部分で
問題ありですよね。

国際日本文化研究センターにそのような研究者が所属しているということにもびっくりですが、それを巻き込んでしまう古田氏もまだまだ健在(いろんな意味で)というとこ
ろでしょうか。

憶測で物を言うのはよくありませんが、文末の「所感」の部分。
<引用>
「東日流三郡誌」をめぐっては幾多の議論が重ねられ、真偽論争から感情的軋轢を引き起こすことも少なくなかったかと思われるが、これまでの経緯はご破算とし、右記諸文
献を基点としつつ、同書に関する純粋に学問的な議論が再開されることを切望するものである。
<引用終わり>

これは笠谷教授に仮託した、古田武彦氏の心の叫びかもしれません。かつての東北大学金属材料研究所谷野教授の時ほどではありませんが、今回の鑑定書にも笠谷氏の後ろに
眼鏡をかけた白髪の老人の影が見え隠れしているように思えます。

もっとも、この笠谷鑑定の内容が公になってから、真書派のみなさんの寛政原本騒ぎも一気に沈静化したような感じもあります。「幻の寛政原本」発刊前は、ブログやHPで
は「勝利宣言」まであり(なお、真書派でも比較的冷静な人もいた)、まさに「お祭り」状態だったのが、発刊後はそれまでのことが嘘のような静けさで、寛政原本についてはあえて触れるのを避けているようにも思えました。例えば、某日本史掲示板においても、笠谷氏の鑑定書がアップされた時は、偽書派はその突っ込みどころの多さにあきれはて、または笑い飛ばすばかりでしたが、真書派はそれに反論するでもなく、書き込みもぱったりと無くなってしまいました。

今後とも、和田家文書が「真書」になることはありえません。とはいえ、フルタメンダリストたちはこれからも「和田家文書の独自研究」を続けるのでしょう。その場合、「国際日本文化研究センターの笠谷和比古教授が江戸時代の文書であると鑑定した」と都合のいいところだけ抜き出して宣伝しまくるでしょうね。笠谷教授の名前は「東日流外三郡誌騒動」の歴史に燦然と輝くことになります。

もしかすると、笠谷教授は自分の身体を張って東日流騒動の幕を引こうとしたのかも・・・。だとしたら、「漢」ですね(微苦笑)。
[2008年11月14日22時16分]
お名前: 守宮(やもり)

めがまっくさんの言われる通りだと思います。
[2008年11月11日19時18分]
お名前: めがまっく
>「贋作」で無いことを主張される方々には、
>是非ともボールを力強く投げ返して頂きたく、願う次第であります。

今回、寛政原本に付された笠谷教授の鑑定書は、結局、真書派の方にとって『試金石』となってしまった感がありますね。
あの鑑定書を読んで、「それみろ。やはり東日流外三郡誌は本物だったじゃないか」と考えるかどうか・・・。
それによって、キャッチボールが出来るか出来ないか、はっきりとわかりますね。
[2008年11月08日20時55分]
お名前: 守宮(やもり)
「ボール」は投げ返されていますか?

めがまっくさんが書かれているよう
笠谷氏のあの鑑定書ひとつでで、
件の資料が江戸期の文書であるとするのは
相当に無理があると言わざるを得ません。

これ一つをもって、ボールが贋作であるとする側に投げ返されたとするのは
あまりに乱暴な話でしょう。

私の分野は異なりますが
笠谷先生の著作『主君「押込」の構造』や『近世武家社会の政治構造』は
非常に面白く読みました。
まさに、目から鱗であったと記憶しています。

笠谷先生がいかなる経緯で、
ご自分の専門外ともいえる事案に首を突っ込まれ
このような鑑定文を寄せられたか知りませんが、
鑑定の内容も、この鑑定をもって実証とされる方々の態度も非常に疑問です。
「ボール」は確かに「暴投」だったのか、
あるいは明らかに「届いていない」と思います。

さて、「贋作説」を否定されるお一人である立木様は
「もちろん私は歴史学者ではありませんので東日流外三郡誌を研究しているわけではありません」とのことですが、

せっかくこれだけ熱く件の資料が本物であることを支持され、
贋作説を否定されているのですから
皮肉ではなく(皮肉っぽく読めるのは私の文章力が足りない故とお許しください)、
是非とも証明をして頂きたいと思うのですがいかがでしょう?

文献史家や考古学の研究者だって理科学的な分析方法に通暁している訳ではありません。
理化学の研究者がやることの、おおよその理屈はわかっていても、歴史をやっている者にとって、その実際の分析はいわばブラックボックスの中なのです。

理化学分析を前に、「歴史の専門家と称する者」と「そうでない者」の差など
実態としてありませんよ。

 やるべきことと言えば、分析のもととなる資料を採取してくること、
(どのくらいの大きさが何点必要かは、理化学分析の会社が指示します。
まあ、値段との相談になることも多いですけど・・・・)
分析結果が出たら、データーを提示し(肝心の歴史の専門家さえ、このデーターの読み方がきちんとわかっていません。私もその一人ですが・・・)、「理化学的」にどういう結果が出たか公表すれば良いだけです。
公表とは、分析の目的を述べ、どこに委託したのか明らかにし、以下に述べる分析結果が出たと述べれば良いだけですね。そこに専門性もへったくれもありません。
公表先は、学術雑誌や学術論文の同人誌が一般的ですが、こういう世の中です、ネット上で充分でしょう。このスレに載せられてもいいのではないでしょうか。

かつて、
日本列島に旧石器時代があることを発見したのは研究者でも何でもなく
考古学に情熱を燃やしていた一青年(相沢忠洋)であり、
現在、中世史研究に不可欠の分野となった中世城郭の研究方法は
中世の文献史家や考古学者とは何の係わりも持たない
群馬県の一郷土史家(山崎一)の手により編み出されたものでした。
このような例は数え上げれば切りがありません。

歴史家・学者と称する者と、そうではないと称される方との垣根なぞあって無いようなものです。
むしろ専門家で無い方が、先入観無しで、まったく新しい世界を切り開ける可能性さえあるのです。

そういう意味でも、「贋作」で無いことを主張される方々には、
是非ともボールを力強く投げ返して頂きたく、願う次第であります。

[2008年10月14日18時04分]
お名前: めがまっく
原田様

>例の掲示板で引用されているのが全文ですね。

あや〜。やはりそうでしたか・・・。
わたしは、笠谷氏の業績は良く知らないのですが、なんであんな内容の鑑定書になってしまったのでしょうね?
江戸期に作成されたものと判断した理由もなければ、秋田孝季の筆跡と同じとしたのはどんなサンプルと比較したのかも書いていませんから。
挙句の果てには、『右所見はあくまで目に触れた範囲での判断であり』の一言。
あれだけもめた真贋論争を、この一言で鑑定してしまう至高のテクニック。凄すぎです(笑)

正直、真書派の中にも落胆した人は多いのではないでしょうか。国文研の鑑定書付きということは、「寛政原本」の刊行まえから大々的に宣伝され、それこそ「これで偽諸説も吹っ飛ぶ」という勢いでしたしね。ところが、ふたを開けてみればこの有様。投げ返したと思ったボールは大暴投。

結局、これまでの「和田家文書」となんら変わりは無かったというオチ。ま、最初から結果は見えていましたけどね。

ま、そのことにすら気づかない人にはかける言葉も見つかりませんが・・・。
[2008年10月09日20時56分]
お名前: 原田 実   URL
めがまっく様

笠谷先生の鑑定書、残念ながら?例の掲示板で引用されているのが全文ですね。

それにしても、寛政原本の真贋は筆跡だけではなく中身を見て判断しろ、という意見もあるようですが、「宇宙空間」とか「生命体の創は菌の如く水苔の如きより各々分生し」とかいう記述があったり、図面に方向を示すための矢印が使われていたりするものを寛政年間のものに間違いない、といわれてもまず眉に唾するべきでしょうし、それを寛政年間のものとして鑑定書まで寄せる人がいたら、研究者失格とみなしてもいいかと思います。
[2008年10月09日17時52分]
お名前: 立木観音
守宮様へ、
学問の論争、批判に関する一般論については、私に関するご批判ではないと思いますが、おっしゃるとおりに賛成です。(相手を誹謗中傷する必要は無いと思いますが。)
もちろん私は歴史学者ではありませんので東日流外三郡誌を研究しているわけではありません(念のため)。

東日流外三郡誌については今ボールは贋物説側に投げられているのではないですか。
もし反論があれば、ガンバって科学的なご批判をお願いします。
[2008年10月08日22時03分]
お名前: 守宮(やもり)
 立木様、

 客観的な論証を抜きにして、
主張が正しいとだけ述べられることを
「非科学的態度」と言うのです。

 「相手を罵倒する必要」・・・
 私も昔は必要ないと思っていました。
旧石器捏造事件を覚えていらっしゃいますか?
私の大学の知人・友人にも件の事件に巻き込まれた人がいます。
この分野の門外漢だった私は、おかしい、変だと思いながら
(だって、犯人の藤村氏が来なければ石器は出土しないのですから・・・)
分野が異なるからと放っておきました。
 その結果が今の有様です。
考古学と歴史学が失った信用とダメージは計りしれません。
 おかしいと思ったら、分野に捕らわれることなく、
きちんと批判していかなければ、どんな学問もダメになるのですよ。
(まあ、これだけ批判があることを、私は「健康」だと思っています)
 
 立木さんは理科学的な分析に多大な頂いているようですので
 10年待つこともありません。
考古学や建築史の分野が使う理化学的分析で
自ら、ここで問題になっている資料を分析し
「証明」されたらいかがですか?

仕事柄、この手の分析会社や大学のお世話になることは少なくありません。
確かに文献史学や考古学では明らかに出来ないデーターを提示してくれますからね。
私のお世話になっている研究室では受託しないかもしれませんけど、
「加速器質量分析法」ないし「AMS法」でネットに検索をかければ
多くの理化学分析を仕事とする会社や研究室がヒットするはずです。

 私は古文書を分析に出したことはありませんが、名古屋大学の研究室が
「加速器質量分析法」で古文書の年代測定をやったことがあると記憶しています。
 民間の会社では資料一個の分析に、まあ10万円前後くらいでしょうか
 もちろん個人の分析委託も受けるはずです。
 分析の正確を期するなら、複数資料を分析することをお薦めします。

「何も言えなくなる」のを「楽しみ」に待つより
自ら客観的データーをもって論証すること。

繰り返しになりますが、
いかなる研究分野においても、それが科学的態度と呼べるものです。

[2008年10月08日17時55分]
お名前: 立木観音
楽しいサイトですね。たまに立ち寄るとあきません。

>学問上の「真理」(本当にそんなものがあればですが)は、自己の研究の中にあるのではなく、研究者同士のあくなき議論の果てに、その存在があくまで「仮定」されているものです。

真理が判ったらそれは神様です。 真理とは英語で言えば”イデアール”つまり理想の状態です。現実は決して理想にはなりえません。しかし限りなくその究極のゴールである真理に近づく行為を学問と言っても良いでしょう。であるからして研究者は日々努力研鑽をする。 それは相手を罵倒することではありません。対象となっているそのものをあれこれ議論するということです。誰が何を言おうが学問的な批判はその主張している事例、仮説に対しすべき物で相手の個人攻撃をするようなことは研究でも学問でもないですよ。 相手の人格、人間性、性格、素行等の学問的には関係ないことを誹謗中傷することは厳に慎まねばなりません(思い込み、偏見でついついはみ出すのが俗人ではありますすが) 。
残念ながらこのサイトの書き込みにはそれを逸脱するものが多々見られます。ましてや学問的な主張はほとんどない。 今は考古学、歴史学等勝手は文科系の学問だったものが理科系の科学的な証明を必要とする時代となっています。 それらを総合的に組み合わせて初めて最近の驚異的な学問の進歩があるわけです。 余計なことを心配しなくてもおのずと真理は徐々に現れてきます。 口を尖らせて相手を罵倒する必要はないのですよ。 10年後にはここでいろいろ書いていた人の何割かは何も言えなくなる事になりそうですね。 まあ自己責任ということですかね。 楽しいですな。 いやいや決して楽しくないかも知れません。
[2008年10月02日21時51分]
お名前: 守宮(やもり)
すいません。
久しぶりに覗かせていただいたのですが・・・・・。
どうも「学問」「研究」を誤解なさっているようで・・・・。

「学問」「研究」に論争相手と「批判」は必要、いや不可欠です。
議論・論争・批判無き所に「学問」など有り得ようはずも無いのです。
(ささやかではありますが、不肖私も
自分のフィールドでは、仲間−いや論争相手か?−と
自らの立てた議論が正しいか否か、
切った張ったを繰り返しています。一応商売ですからね。
商売だって、そりゃあ誰でも「切られれば(批判されれば)」痛いし、
相手を「切ったって(批判したって)」返り血を浴びます。
臓腑が煮えくり返るのも一度や二度ではありません。論争相手も多分同じでしょう。
でも、これ止めたら、自分達の研究分野の「停滞」、場合によっては「死」さえ招きかねない。)

冗長で晦渋な表現をお許し頂ければ、
学問上の「真理」(本当にそんなものがあればですが)は、
自己の研究の中にあるのではなく、
研究者同士のあくなき議論の果てに、その存在があくまで「仮定」されているものです。
議論の停止、批判の封殺は、存在すると仮定される「真理」を探求するのを止めること、
すなわち「学問」「研究」と名の付くものの「死」を意味します。

 立木様の言われる「真理」や「心理」の探求とやらは
自己研鑽の「宗教」の世界でならありえるかもしれませんが、
それは「学問」と名が付く世界のものではありません。

仮説や結論、あるいはそれを導き出した考証過程の客観的検証が無ければ、
「科学」(ちなみに人文科学の言う「科学」です)的な議論など無く、
他人様の批判に耐えられないような「議論」「仮説」「資料」の類に
何の「学問・学術」的価値など認められないのですよ。
件の本は研究材料として使用するに当たっての資料批判の甘さを指摘されているのです。
そうではなくても、
自分の学説の「客観的検証」など出来ようはずも無いのですから、
どんなに痛くても、そこ(客観的検証としての批判)は他人様にお願いするしかない。
そして、まともな「学問」だと主張されるとしたら、
ひたすらその「痛痒」に耐えるしかない。
もちろん、「他人様」の批判が的外れだったり、反論可能なら
堂々、再度の反論、反証を繰り返していけば良いだけです。
相手がいなければ競技が成立しないように
批判論争の相手がいない「学問」など存在しない。

ただ、ただ、それだけです。

[2008年10月02日17時22分]
お名前: 立木観音
そもそも学問的に何が正しいかを主張するのに相手を非難する必要などないのですよ。
学問とは自分の推理から仮説を立てそれを科学的に証明してゆく。それだけです。もとのと相手などいないのです。相手はただ真理のみ。もちろんいろいろな人がいろいろな仮説を立ててお互い真理を突き詰めてゆく。それが学問、研究、心理の探求ということです。
それをどう間違えたか間違えて、相手を非難することが自分の主張を正当化することだと考えていてはとても学問の進歩には寄与できません。 
もっともこのログで偽者偽者と騒いでいる人たちには縁のない世界のようですが。
[2008年10月01日22時37分]
お名前: めがまっく
和田家文書の真贋論争については、90年代半ばにすでに決着がついていると言ってもさしつかえありません。
その内容も、これだけネットが普及した現在ではその真贋論争のデータを収集することも容易ですし、関連書籍を検索することもすぐにできます。真書派の論証と偽書派の論証は、どちらが客観的かつ論理的か、ということは自分自身でいくらでも判断することが可能なのです。もちろん、「判断力」を要求されますが・・・。

>もっと中身を議論したらどうですか。

いまさらそれをおっしゃいますか(失笑)
真贋論争の経過、ちゃんと認識しておられます?

ペットボトルに固執しているのは、むしろ真書派の方がたでしょう。あれが「偽書の証拠」だなんて誰も思っていませんよ。
ま、偽書派の中に「ネタ」として茶化している人がいるのも事実ですが・・・。

まあ、立木観音さんが「いや、誰がなんと言おうと寛政原本は本物だ」とおっしゃるのならば、どうぞ購入なさって研究でも何でもしていただいて結構です。ただ、某日本史掲示板にUPされたあの「笠谷鑑定書」を見ましたが、購入した人に対して同情を禁じ得ません。まさに「ぼった・・(以下略)」

しかし、笠谷鑑定書に書いてあるのはホントにあれだけなんですかね?>原田さん
[2008年10月01日19時23分]
お名前: そんし
あることが証明できないばかりに、相手に無いことを証明せよと迫るのは、非合理、非科学の頂点です。

実際にその時代を生きていた人が一人も存命していない現代では、全ての歴史書は偽書であると仮定した方が合理的なのですから、元々「偽書説」などというものは存在しません。前提なのですから、そういう仮説そのものが不要なのです。

直接自分の目で、書かれる瞬間を目撃することの不可能な時代に書かれた書物は、全て偽書ではないかという疑いからスタートしたほうが合理的です。古事記も日本書紀も源氏物語も。

それを世間万人が、反証の余地のない科学的証明で、偽書である余地を全てつぶし、これらはすべて真書である、あるいは真書としたほうがきわめて合理的であると証明されてきた書物だけが、学会でも一般社会でも、それらを真書として認めてられ、次の研究の貴重な資料として使用され、人々の幸福な社会に役立つことになるのです。

ですから社会に認知を求めるなら、それを万人に納得できる疑う余地の全くない証明をしてみせるのが科学的証明というもの。

偽書であるとする声は、研究の貴重な参考資料になり得ることはあっても、研究を妨害するようなことは一切あり得ないのですから、それらの声も、ありがたく参考にしつつ、地道に科学的証明を続け、科学的矛盾を解決できないという結論に至ったら、偽書であったと胸を張って発表すればいいのです。

それを怠り、反論の余地のない真書証明を終える前に、偽書であると主張する相手をあざ笑った瞬間に、もうすでに自ら真書である証明作業を放棄し、信じるか信じないかの信仰心の度合いの話に切り替えてしまったことになります。

[2008年10月01日06時12分]
お名前: 立木観音
どうやら寛政原本が出版されたようですな。
早速購入してゆっくり中身を見てみようと思います。
しかし偽書偽書と騒ぐ人たちの唯一の物的証拠は筆跡しかないのですかね。
もっと中身を議論したらどうですか。しょんべんがどうのこうのとか相手がどう言ったこう言ったでなく物的証拠を科学的に説明しなくては説得力がありませんよ。 
しょんべんがどうのこうのとか言うならそれが原本に擦り付けられていることを証明しないとね。
結局それを証明は出来ないかも知れませんが(そうではないから)。
[2008年09月28日23時48分]
お名前: 原田 実   URL
yyyy様

>江戸時代には 講談本が随分多く、信長記や太閤紀、甲陽軍鑑・越後軍記など、歴史的な資料としてはほとんだお価値はない読み物も数多く出現しました。<

和田喜八郎の遺品には、その手の本の末尾に「孝季」という署名を入れて、秋田孝季の写本や蔵書のように見せかけたものがあります(もちろん、その「写本」の本文と署名の筆跡は異なっています)。

笠谷和比古氏が鑑定した和田家文書にはそんなものも混ざっていますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E8%B0%B7%E5%92%8C%E6%AF%94%E5%8F%A4

和田喜八郎の遺品がどのような性格のものか知らなければ、その手のものの本文だけ見て、江戸時代の本だと判断しても仕方がないところはあります。

もっとも、笠谷氏は、明らかに和田喜八郎の筆跡の「寛政原本」(近代的な進化論や宇宙論の記述まである)まで、江戸時代のものだ、と太鼓判を捺しているので、弁護のしようがないのですが。



[2008年09月02日15時29分]
お名前: そんし
古田氏の東日流外三郡誌擁護の姿勢は、ちょうど明治の坪井正五郎によるコロボックル説擁護によく似ている印象があります。ただし似ているのは意固地な点だけで、純真に学問の世界にいた坪井正五郎とは微妙に異なりますけれど。

「学問では可能性を頭から否定してはいけない」という事を実践する意味で、誰も相手にしなかったコロボックル説をあえて擁護し、結果的にその説は徹底的に否定し尽くされたのですが、それでも彼は誤りを認めないまま長寿を全うしました。

でも、そのことは彼の学者としての汚点には全くなっておらず、今でも考古学の父として偉人伝の人です。それは、彼の説を徹底的に叩いたのは、彼の学問上の親友であり、愛弟子達だったからなのでしょう。そこはまさに考古学の出発点でした。

もし彼の説を、坪井正五郎ファンだからという理由で擁護するような人物がいたとしたら、彼にもっとも軽蔑されたはずです。彼が欲しいがっていたのは自分のファンではなく、コロボックル説を実践証明してみせてくれる人だったからです。

今ではコロボックル説なんて、誰も信じないし、だいいちその存在すら、大半の人が知りません。坪井正五郎の死とともに、永遠に消えたお話です。

[2008年09月02日10時41分]
お名前: yyyy
 寛政原本が出てきたら、あるいはそれが寛政年間に記述されたものだと証明されれば(絶対出来っこないですが → 反論があるなら公開して私にも分かる形で調査させてください)、「和田家文書」(と称するパッチもん)によって史実が変わるという おバカな話について一言。
 江戸時代には 講談本が随分多く、信長記や太閤紀、甲陽軍鑑・越後軍記など、歴史的な資料としてはほとんだお価値はない読み物も数多く出現しました。
 万万万万万万が一 寛政原本と称するパッチもん(書いていて嫌になるほど幾何級数的な確率)が寛政年間に作成されたとしても、当時作成された小説ではないとどのように証明されたのでしょうか?
 ※ もちろん そもそも物理的に江戸時代のものではありえないのは、良識ある人間にとって先刻承知していることですが。
[2008年09月01日21時57分]
お名前: 原田 実
yyyy様

「寛政原本」出現の経緯は下記の通り。
=========
1999年9月28日、いわゆる和田家文書(『東日流外三郡誌』等)の「発見者」にして所蔵者、そして実際には偽作者であった和田喜八郎が世を去った。

 2001年秋、藤本光幸と竹田侑子氏は喜八郎の長男の許可を得て、生前に喜八郎が「古文書」を保管したという長持箱を開け、その中身を運びだした。ちなみに藤本は生前の和田が貸し出す「古文書」のために私財を投じ続けた人物であり、竹田氏はその藤本の実妹に当たられる方である。

 竹田氏は2002年11月に発表した論文で、2001年に運びだした「古文書」の目録を作成したことと、その中には「いわゆる寛政原本と思われるものは残念ながらなかった」こととを明記している(竹田侑子「和田家文書報告(1)」『北奥文化』第23号)。

 その後、喜八郎の長男は死去、藤本も2005年10月20日に世を去った。藤本は2001年入手分も含め、所蔵する和田家文書の整理と書写を行っていたが、ついに「寛政原本」発見などという発表を行うことはなかった。

 藤本の没後、その家に残された和田家文書の管理を行ってきたのが竹田氏である。2006年11月、古田氏は八王子セミナーハウスで古代史に関する公開セミナーを行うことになった。古田氏によると、同年11月10日、竹田氏はセミナー参加者に和田家文書の実物を見ていただきたいと冊子の一部をご子息に託し、セミナーハウスの宿泊施設にいる古田氏に届けさせた。古田氏はその一冊を見て、即座にそれが「寛政原本」であることに気づいた。そして、11月11・12日のセミナー当日、古田氏は発見されたばかりの「寛政原本」を参加者に提示したという。

 さらにその年の12月24日には東京、翌年1月20日には大阪における古田氏の講演会で「寛政原本」のご開帳が行われた。そして4月21日には東京での講演会でその提示が行われた
==========
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kanseigenpon.htm

 もっとも、古田先生は藤本氏や竹田氏らそれまでが「明治写本」とみなしていたものを、なぜ「寛政原本」と判定したのか、その根拠を説明していません。

なお、現在の古田先生は生前の和田がうさんくさい人物だったことを認めておられます。そして、そんなうさんくさい人物にこれだけの本が書けるわけがない、という論法で東日流外三郡誌を擁護しているわけです。


[2008年08月16日20時00分]
お名前: yyyy
 メガマック様、原田実様
また、質問です。不勉強で申し訳ありません。古田教祖は、「寛政原本」と称するものの来歴について説明しているのでしょうか?
 和田キヨエさんの文書や和田喜八郎宅を建てた大工さんの証言、原田先生の和田宅の検証により、和田喜八郎家に「寛政原本」が存在しなかったことは証明されています。 ということは、「寛政原本」と称するものは、ある日突然古田教祖とビリーバーの信念が天に通じて、突然世の中に出現したとしか思えないのですが。
 史料の価値を検証するにあたり、作成時から現在に至るまでの来歴について説明できない(至極当たり前の話ですが、説明責任は真書だと主張する側にある)ようなものは、全く価値がないはずですが、その点について古田教祖はなにか説明されているのでしょうか?
 
 上記とは違う話ですが、古田教祖は「和田家文書」が「パッチもん」であり、和田喜八郎が低級な詐欺漢であることなぞ先刻承知していると、私は思っています。いくら何でもそこまで知能程度は低くはないでしょう。ただ、自らが主張した「九州王朝説」を守るため(守る価値があるとは思えないが)、なりふり構わずわけのわからないことを主張しているのではないでしょうか。
 
[2008年08月16日16時34分]
お名前: めがまっく
横レスですがyyyyさん。

和田家文書がそもそもどのようなものであるかを考えれば、おのずと答えは出てきます。

和田家文書を大きく分けると、

1.喜八郎が作った完全オリジナルのもの
2.既存の古文書を切り取ったりコラージュした改造品
3.喜八郎の手は入っていないが、彼が入手した古文書(喜八郎が古物商として手に入れたもの)

の三つになると思います。天井裏から落下してきたり、津軽山中の洞窟から発見されたものではありません。当然、秋田家との関わりも一切ありません。「3」についても、これまで一度たりとも正規の検証を受けたことが無い以上、その価値を論ずることは無意味です。

結論を言えば、和田家文書には、もともと「原本」と「写本」の関係になるようなものは存在せず、強いて言うなら“すべてが原本”と言っても差し支えないと考えています。これらは古田氏の方便に過ぎません。
[2008年05月11日19時57分]
お名前: yyyy
 原田先生
 また教えていただけないでしょうか?自分で努力しないで申し訳ありません。
「寛政原本」に対応する「明治写本」というのはあるのでしょうか?今まで「明治写本」と考えられていたものが「原本」だったとするなら、どこかに照応する「写本」が存在しなければおかしくないでしょうか?
 まあ、古田教祖とビリーバーの方たちは、都合よく紛失したとか見つかっていないとかいうのでしょうが、5点存在する「原本」に照応する「写本」が存在しないなんてことは常識上ありえないと思うのですが。
 それとも、ないと思っている私が知らないだけで、照応する「写本」はあるのでしょうか?
 もしご存知でしたら、教えていただければ幸いです。

[2008年05月10日15時50分]
お名前: めがまっく
原田さん、どうもです。

え〜と、わたしの言う「座して待つのみ」というのは、ただただ古田氏の和田家文書擁護論を頭から信じこみ、自ら決して否定論との相対的な検証を行わない人たちのことです。

ですから原田さんの言われるブログも、その多くは上記のものに含まれるだけで、実質的には支援にも何もならないものだと認識しています。

「寛政原本」については、もういまさら何も言うことはありません。発刊日はまるで「逃げ水(by2ch)」のごとく変わっていきますし、「新古代学の扉」HPでは、未だに『3月末日発刊』のままです。総本山がこの調子ですからね。

ただ、ことの顛末については今後もウォッチしていきたいと思っています。
[2008年04月27日12時26分]
お名前: 原田 実   URL
めがまっく様

古田先生のファンでも、寛政原本問題について古田先生の動きをただ座して待つのではなく、ブログで支援しようという人が幾人もおられます。
その中に、東日流外三郡誌「寛政原本」、大正の和田末吉のものとされる「写本」、 昭和38年に和田喜八郎が写したとされる「写本」の写真のそれぞれの写真を一緒に掲載してくださった方がおられます。

>>筆跡を見ることにはド素人の ( もちろん筆跡鑑定なんぞ出来る筈はない ) 私の眼には、 4つとも別人が書いたように見えます。

ちなみに、 昭和38年写本は和田喜八郎氏の筆跡とのこと。
また、 喜八郎氏の娘さんの筆跡が 「『新・古代学』 古田武彦とともに 第1集」 ( 1995年 新泉社 ) に掲載されています。<<
http://bluewatersoft.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_3982.html

この方はご自身では、同じ筆跡に見えなかったから安心して載せられたのでしょうが、おかげで信者以外には「寛政原本」も「和田末吉写本」も和田喜八郎の筆跡を同じであることが一目でわかるサンプルが簡単に見られる形で提示されることになりました。

その他、最近出た『と学会年鑑AQUA』(楽工社)137頁にも、「寛政原本」の一部と、和田喜八郎の筆跡見本を並べて提示しています。

なお、上記リンク先ブログでの「喜八郎氏の娘さんの筆跡」というのは、93年の真贋論争で喜八郎の筆跡見本に用いられた原稿のこと。古田先生はその原稿コピーに「之は娘の字」云々との書き込みを入れてもらって『新・古代学』に掲載しました。

皮肉にも、その喜八郎本人が古田先生の目の前で入れたという書き込みが、肝心の原稿の筆跡と同じものだったりします(拙著『幻想の荒覇吐秘史』参照)。

私としては、「寛政原本」問題なるものは、真贋についてだけなら、その刊行を待たずして、解決済みだと考えています。

[2008年04月26日14時26分]
お名前: めがまっく
yyyyさん、はじめまして。

ご質問については、原田さんが完璧に答えてくださっているので、わたしからはもう申し上げるまでもないでしょう。

原田さん、実は以前ヤフーの九州王朝トピで何度もレスを交わしたことがあります。
あの時わたしは、別のHNでしたが・・・。

yyyyさん

>「自分は動かず、誰かが何かをしてくれるのを座して待っている」という姿勢はいか
>がなものか、ということです。
>真実を追究するのなら「汝自ら求めよ」(ギリシャ時代の格言より)という姿勢こそ
>が大切だと感じます。
>「寛政原本」を検証したいのであれば、自ら出向いてその持ち主の門戸を叩きなさ
>い。

ここのブログには、わたしも何度かコメントを書き込んだことがあります。
『古田氏が何かしてくれるのを座して待っている』のが信者の皆さんの実態ですね。
[2008年04月06日15時28分]
お名前: yyyy
 原田 実様 と 古田教祖のビリーバー様 へ

 ものすごく基本的な疑問があります。古田武彦教祖・西村俊一氏・立木様が、歴史的な資料価値がある古文書であると主張する「和田家文書」ですが 多くの人間が、来歴に対して疑問を持ち(実は和田キヨエさんの文書で和田喜八郎さんが作ったパッチもんであるとはっきりしている)、また物理的・科学的な調査もなく、調査方法のエビデンスも客観的な調査方法批判もないものが、なぜ真偽を問われる対象になるのでしょうか?
 
 ※ 以上の点について古田教のビリーバーの方には 特に西村教授 立木様 科学的+論理的な お答えを待っています。特に古田教祖の登場を切望しています。

 当り前の話ですが、真書と出張する側に立証責任はあります。以下のようなおバカな話はなしですよ。
 *******
 「自分は動かず、誰かが何かをしてくれるのを座して待っている」という姿勢はいかがなものか、ということです。
真実を追究するのなら「汝自ら求めよ」(ギリシャ時代の格言より)という姿勢こそが大切だと感じます。
「寛政原本」を検証したいのであれば、自ら出向いてその持ち主の門戸を叩きなさい。
→ 寛政原本」ブログの私に対する反論 の 中の 一節
 *******
 ※ 史料価値の正当性を批判者が頭を下げて調べに行くような学問なんてありえますか?

 西村教授様。国立大学の教授として国民の血税をおそらく有意義に使ってきた社会人として、「和田家文書」が真書であると認定された方法論とエビデンスを公開してください。私も同じ方法で同じ結果が出るように精査します。同じ方法で同じ結果が出現しなければ、全く学問ではないですよね。

 
 まともに相手にすればするほど、おバカなイヌはキャンキャン吠えるのです。
 私たちはただひたすら、寛政原本(と称するパッチもん)の公開と精査 および精査のエビデンス、西村教授が行ったという資料精査の方法の公開を要求し続け、社会的には、公開されないものは評価できないということを主張し続ければばいいのでっちはないでしょうか?

 何回もいいますが、「和田家文書」は昭和の時代に和田喜八郎さんによって作られたパッチもんだと確信しています。が、いつ作られた、あるいは書かれている内容なんて意味なんかないです。 
 誰でも納得できる形での資料精査が行われていない「史料と称するモノ」になんら価値はないと思っています。
 


[2008年04月02日21時41分]
お名前: 原田 実   URL
yyyy様

めがまっく様でなくて恐縮ですが、私でよければ・・・

◎和田家文書は公開されているか?
すでに公開されている、と主張している人はいます。すなわち、村起こし関係のイベントで一部を展示したり、和田や藤本が希望する人に見せたことはある。それを以て「公開」したといっているわけです。
しかし、内容に疑いを持つ研究者をも含めて、紙質や墨の質までじっくり調べられるような形での公開は一度も行われたことがありません。

◎精査は行われているか。
研究機関といえるもので和田家文書を調査したのは昭和薬科大学文化史研究室のみ。しかし、それも精査といえるレベルかは疑問がありますし、それに参加した研究者(たった二人ですが)の意見も、今では、一方は徹底指示、一方は偽書と判断と割れています。
最近でてきたという「寛政原本」にいたっては事実上、古田氏が一人で「精査」しているわけです(他の研究機関にも見せた、と古田氏はいいはっていますが、見せられた先のはずの機関に問い合わせても答えはかえってきません)。

少なくとも、他の多くの史料がクリアしているような意味での「公開」「精査」はまだ行われたことはないですね。
[2008年04月01日16時26分]
お名前: yyyy
めがまっく様。質問があります。

 私は「和田家文書」は昭和の時代に和田喜八郎さんによって作られたパッチもんだと確信していますが、それ以前に、公的なあるいは誰でも納得できる形での資料精査が行われていない「史料と称するモノ」になんら価値はないと思っています。
 
 「真作説を信じている人たちは、あの真贋論争の中で、正式な形(誰もが納得する形)で和田家文書が公開されたことは、一度もなかったということの意味を考えて欲しいと思います。古文書(原本にせよ写本にせよ)がきちんと公開されておれば、論争は一発で解決していたわけですから。このことは、偽書派に限らず『真作であることを信じている人』も含め論争中に大勢の人が望んだことです。」
 めがまっく様は以上のように、述べられていますが

 斉藤 光政氏の「偽書東日流(つがる)外三郡誌事件」で述べられているように、和田家文書というものは、本当に公開もされす、精査もされていなかったのでしょうか?
 もし、公開されず、精査もされず、精査のエビデンスがないとすれれば、その時点で史料価値はまったくないと断言できますよね。→ 当り前の科学的手法をクリアしていない。
 それが万々々々が一に真書だとしても、公開もされす、精査もされず、検証のエビデンスも残っていない代物に史料価値なんてありえません。私はこの部分に強いこだわりを持っています。 
 自分自身の労を惜しむようで申し訳ありませんが、ご存知であればこの点、ご教示いただければ幸いです。
 
[2008年03月25日19時00分]
お名前: 守宮(やもり)
話を戻します。
多賀城碑での体験が鮮烈であったのは
私が、学生時代通説として「鵜呑み」にしていた「偽物説」が
学問的に丁寧で客観的な考証を経て、「偽物ではない」とされたからです。

シロい(真作)であると主張されるなら
客観的で第三者を納得させる考証が必要です。
皮肉ではなく、
件の本を真作と主張される方には
私をアッと言わせる反論の余地のない論理的な考証を待ち望んでいます。
多賀城碑はまさしくそれでした。
しかしながら、不幸なのか、幸いなのか
件の本の支持者から多賀城碑の時のような
冷静で客観的な考証がなされたとはありません。
「本物であると確信している。」
「創作では書けない。」
これでは「学問」とか「科学」と、とうてい言えるレベルの話ではありませんね。
私どもの商売にまま見られる
「擬似科学」あるいは「擬似学問」の姿すらなしてはいません。

何か誤解なさっているようですが
私が件の本に「トンデモ本」とか
「偽書」とか「魑魅魍魎」「醜悪な合成物(キメラ)」と
悪口雑言としかとれない言葉を並べ立てているのは
通説を鵜呑みにしているからでも
世間で偽書と言われているからでも
思いこみでそう言っているのでも
ましてや、件の本が「史実」とやらに反しているからでも無いのです。
資料としては矛盾点だらけで
客観的な事実と受け取れる内容が全く無いからです。

堅く信じておられるように見受ける
立木観音様には気の毒ですが
頭から信じるのではなく
批判的にに件の本を読み直すことをお薦めします。
それは、それで大変におもしろいことだと思いますよ。
[2007年09月26日11時21分]
お名前: 守宮(やもり)
もともと多賀城碑については
研究者間に「なぜ多賀城碑が偽物なのか?」
(シロくても良いんじゃないか)
(いや、そもそも何でこの資料がクロなのか)
という疑問が共有されていたからこそ可能になった研究でした。
公式にはクロが表明されながらも
研究者はクロいやグレーの程度が甚だしく「薄い」と認識してきたのです。
第一印象として、資料としての矛盾が感じられなかったと言い換えても良いかもしれません。

対する 件(くだん)の資料はどうなのでしょう。
前に何も書かずに「トンデモ本」と書きましたが
パラパラめくってまいりましょうか。
すべて、既に批判者の方々が指摘しているところでもあり
今更、屋根の上に屋根をかける馬鹿馬鹿しさはお許しください。

件の本には
18世紀にダーウィンの進化論しかも「猿から人へ」という議論を学んだとありますね。しかも、これはかのチャールズ・ダーウィンではなく、そのおじいさんだったという解説も資料の援護者からは提示されています。
 しかしながら、チャールズ・ダーウィンの進化論の核心であり革命的とされる部分こそ「猿から人へ」という考え方なのです。進化論はダーウィン以前からありましたが、「猿から人へ」という考えこそ(日本人には理解しにくいところですが)「人間は神が創った」と考えるキリスト教徒にとって許し難く、また超えがたい一線であったのです。この考えは間違いなくチャールズによって唱えられ、ヨーロッパ社会全体に大きな波紋を及ぼした考えでした。ダーウィン(もちろん孫の)の進化論は、明治年間に至っても(場所によっては現在でも)なお、ほとんどのヨーロッパ・アメリカ人にとって(生物の進化を信じる学者にとっても「人間」だけは)禁忌だったのです。日本に本格的にダーウィンの進化論を紹介したのは、東大で動物学を教えていたエドワード・モース先生ですが、彼がダーウィンの進化論を大学や一般聴衆を前で喋ることを、彼の同僚教師(欧米人)がいかに嫌い、彼を狂人扱いしたかは、かれの著書『日本 その日その日』に詳しく述べられています。逆に、19世紀段階でも「猿から人へ」という進化論をすんなり受け入れたのは、文明開化直後の日本人くらいなものです。それを寛政年間に教えられるヨーロッパ人が存在した痕跡は少なくとも存在しません。この時代彼等ヨーロッパ人にとって「人間は神が創りしもの」だったのです。

件の本には20世紀(1930年)に入って発見され、そして21世紀に惑星としての資格を剥奪された「冥王星」(プルートー)の記述があるのもいけませんね。このヨーロッパ人、どうやって冥王星を見つけたのでしょう?その記録が当時の天文学の本のどこにも記載されていないのはなぜなのでしょう?

「アハラバギ」でよかったでしょうか?
所謂「遮光器土偶」ですが、中世までその信仰が残るという痕跡は、和田氏関連以外のいかなる資料にもうかがえません。さらにいけないのは図像として記された「遮光器土偶」の考古学的な所属年代というのが縄文時代晩期の中葉(考古学者の使う年代のモノサシでは大洞BC〜C式)までのもので、続く縄文時代晩期末葉(大洞A式期)には別の型式の土偶に変わってしまっているのです。もちろん弥生時代以降の遺跡からの出土事例も知られていません。
 考古学は歴史学の中で特に時間軸と空間的な分布の把握に秀でた分野です。そして東北地方の縄文時代晩期土偶の時間的推移は、現在の理解を大きく破綻させる事実は認識されていない。件の資料が遮光器土偶に与えた位置を証明するとすれば、考古学の方法論そのものへの挑戦が必要になると思います。
 もうひとつ載っているいわゆる「ハート形土偶」こちらは、東北地方のものではなく関東地方それも1000年は年代の異なる縄文時代後期のもの。これが東北の文献に東北地方のものとして記載されていること自体おかしな事です。出土事例は図像のモデルとされた一例のみ、しかもその出土は昭和に入ってからというおまけつき。これが江戸時代の文献に載っているというのであれば、もう論外ですね。

津波によって14世紀に滅んだとされる十三湊遺跡ですが、近年継続的に行われてきた考古学的調査によれば、津波の痕跡は検出されず、その最盛期は14世紀半ば以降であることも明らかにされています・・・・・・・。

活字になっている部分それも特に分かり易いところを
パラパラめくってもこんなものです。
矛盾だらけで他の記録・史料・資料と整合しません。
これは資料に客観的な信頼性が全くと言って良いほど無いことを意味します。
「寛政本」・神社の額、それ以前の問題です。
しかも和田家とその周辺からしか根拠となる資料が出てこない。
これはかつての「旧石器捏造問題」を思い出させます。
−−「神の手」と言われた捏造者が掘らなければ石器は出てこない。−−
どうです良く似てはいませんか?
客観的に証明するものがどこにも転がっていないのです。
こういう客観的な信頼性が無ければ無いほど
資料はクロく見えますが、
そういう意味では、グレーどころか真っ黒です。

>コピーは出来ても創作は無理。であればそのネタ本があるはずだというだけの事です。

 なぜ江戸時代のはずの資料に、昭和にならないと入手できない情報がてんこ盛りなのか、おっしゃるようにネタ本・ネタ情報はあるのでしょう。それも無数に・・・。順当に考えれば、この本は昭和の偽作者が自分の身の回りにあるネタ本・図像・情報をかき集め、組み合わせた醜悪な合成物(キメラ)であると考えるのが自然です。
立木観音さんの「創作では書けない。」というのは論理的な根拠とは言い難いですね。
私が「書けますよ」と言っても所詮水掛け論ですが、
昭和にならないと仕入れられないネタが、江戸時代の本になぜてんこ盛りなのか
その説明くらい論理的にできなければ、少しもシロくはならないですよね。
[2007年09月26日11時17分]
お名前: 守宮(やもり)
少々くどいのですけれど
シロかクロかという話の続きをしましょう。

私も今から25年くらい前
クロ(偽物と)ないしグレーされてきた資料が
シロ(本物)と考証された現場
まだ学生だった私はその傍らに立っていたことがあります。

クロとされていたのは宮城県多賀城の傍らに立つ「多賀城碑」
「蝦夷国界を去ること一百二十里(中略)下野国界を去ること二百七十四里
靺鞨国界を去ること三千里・・・・・・」で始まる有名な石碑ですが
江戸時代以来、偽物・本物・後世の作様々言われ、
戦前に偽作・クロと断定されたこの石碑が
文献史学・考古学・出土文字資料の専門家達の手によって
様々な方法を駆使しながら天平宝字6年(762年)の建立と判断されたのを
作業に携わった先生達の傍らから眺めていたのです。
前記の例に倣えば、グレーの資料がきれいに白く拭われていったわけで
それは鮮烈な体験でした。
多賀城碑は長い間着せられていた汚名を晴らし、今や重要文化財。
(指定は平成10年だったかな)

具体的な論証の手順は、
なぜこの石碑がクロ=偽物と判断されるに至ったのか
江戸時代以来のその研究史の考証。
(余談ですが、江戸時代に仙台藩によって、
現代で言う「史跡の保存整備事業」として
この石碑に覆屋がかけられることには、
あの徳川光圀も係わっていました。)
そして石碑に書かれている内容と文献との再照合。
従前知られている史料と矛盾がないか検証です。
石碑に刻まれた文字と正倉院文書や古代遺跡から出土した文字資料との照合、
まさしく、字体や書き癖、表記方法の比較が行われたわけです。
そして最終的には石碑そのものの考古学的な調査。
これらを総合して、多賀城碑はシロと判断されることとなったのです。
(それでもグレーが全く無くなったわけではありませんよ。これまた念のため。)


多賀城碑の研究は、偽作とされた資料が覆された好例ですが
では、これと件(くだん)の偽作はどう違うのか?

[2007年09月26日11時14分]
お名前: 原田 実   URL
>「和田が自分の名義で残した文章、彼の筆跡で残された原稿などは、彼に三郡誌を創作するだけの能力があったことを示しています」という主張そのものにはなんら根拠はありません。

「和田が自分の名義で残した文章、彼の筆跡で残された原稿」が根拠であることはふつうに読めばわかる、と思いますが。貴方はそれらの資料をご自身で検討されたことがありますか?


>貴方が筆跡鑑定を中心に偽書説を唱えている事には疑問を感じます。

筆跡鑑定は偽書説の中心というよりも最後のとどめといった方が正確です。
それ以前に江戸時代成立、明治・大正期筆写の文献にはありえない記述が
多すぎることが、必然的に私を偽書説へと導きました。
その経緯は『幻想の津軽王国』に明記されています。
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4826501897/ref=dp_olp_1/249-6660009-3873963

この度の「寛政原本」についても江戸時代には
ありえないような記述が見られました。
私が実見したおりにはその場でコピーというわけに
いかない状況(古田武彦先生の講演会の最中)だったため、
今のところ拙稿ではふれていません。

その意味で、私は寛政原本の写真版が刊行され、内容についても
くわしい検討を行えるようになることを楽しみにしております。

[2007年09月25日00時10分]
お名前: 立木
>和田が自分の名義で残した文章、彼の筆跡で残された原稿などは、
彼に三郡誌を創作するだけの能力があったことを示しています

原田さん、貴方の主張にもまったく同じ言い方をする事が出来ます。
「和田が自分の名義で残した文章、彼の筆跡で残された原稿などは、彼に三郡誌を創作するだけの能力があったことを示しています」という主張そのものにはなんら根拠はありません。

多少断定的な主張が入っていますが、要は相手を非難するだけの議論と言うことです。

貴方のご意見に賛成しかねる理由をひとつだけ言わせて頂けば現在、客観的に正確な筆跡鑑定できる方は非常に少ないと思います。
貴方が筆跡鑑定を中心に偽書説を唱えている事には疑問を感じます。



[2007年09月24日23時14分]
お名前: 原田 実   URL
立木観音様

>いづれにせよ私の考え方は「和田喜八郎には外三郡誌を創作する能力はない」と言う事だけです。

「和田喜八郎には外三郡誌を創作する能力はない」という主張そのものには
なんら根拠はありません。
和田が自分の名義で残した文章、彼の筆跡で残された原稿などは、
彼に三郡誌を創作するだけの能力があったことを
示しています。


私としては、貴方の『東日流外三郡誌』否定の根拠が、
和田喜八郎氏への侮蔑にあることが確認できただけで
実りある議論だった、と思います。

というより、貴方の場合に限らず、
今や真作説を支えるものは
真作説論者の和田氏に対する
侮りしか残っていないわけですが、
その証拠を新たに提供していただいたことには
感謝いたします。
(「のび太のくせになまいきだ」という類の発想ですね)。
[2007年09月22日08時46分]
お名前: 立木
原田さんからご示唆頂きました参照資料、多少呼んでみましたがいずれも学問的な論証とは程遠い、単なる難癖をつける程度の議論に過ぎませんでした。
とても三郡誌の偽書証明には程遠い。 明らかに無理な論証が多々見られます。

いづれにせよ私の考え方は「和田喜八郎には外三郡誌を創作する能力はない」と言う事だけです。 
コピーは出来ても創作は無理。であればそのネタ本があるはずだというだけの事です。
まずその前に何が偽か本物かということもハッキリしているわけではないようですが。
和田氏が書いたものそのものが偽というなら偽と言えるかも知れません。
しかし何かをコピーしたならその原本は偽とは言えない。
又内容が史実と違えば偽というのか? 等々色々な問題がありますが、そんなものをごっちゃに議論しているようでわけがわかりません。 
まあ、まだ結論は出ていないようで楽しめそうです。
[2007年09月18日22時20分]
お名前: 原田 実   URL
重ねてのレス失礼します。

立木観音様

貴方が新発見であるかのように持ち出した
「寛政原本」なるものの話題、この掲示板では
今年の2〜4月の段階で一段落ついています。
私もその時期に書き込んだ一人です。

さほど長い内容でもないのですから、
書き込む前に過去ログをあらかじめ
チェックするくらいの労を
惜しむことはないように思われます。
[2007年09月07日18時41分]
お名前: 原田 実   URL
立木観音様

>物的証拠がだんだん出ているようですね。神社の古い額とか、寛政原本そのものの発見です。
もう10年もすれば科学的に白黒付く事は間違いないでしょう。


「神社の古い額」なるものについては
「10年もたてば」どころか」、もう10年も前に
和田喜八郎の偽作だったことが判明しています。
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/hihan/akita.htm

こちらの書籍でもこの額をめぐる騒動についてはくわしく
記録されていますね。
斉藤光政『偽書「東日流(つがる)外三郡誌」事件』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4404034369/

寛政原本なるものについては
こちらに報告しました。
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kanseigenpon.htm

こちらの書籍でも言及しています。
『トンデモ日本史の真相』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4286027511/

つまり立木様が提示された、新たな証拠なるものは
和田の生前の作であることがとうの昔に
判明しているものばかりです。

やはり10年後をまたずとも
三郡誌の真贋に関しては
すでに科学的な決着がついているということですね。

[2007年09月07日18時29分]
お名前: 立木観音
守宮さんはまだ東日流外三郡誌が偽書と考えておられるようですね。
私も最近の研究がどうなっているか知りませんでしたが私の考えていた通り、物的証拠がだんだん出ているようですね。神社の古い額とか、寛政原本そのものの発見です。
もう10年もすれば科学的に白黒付く事は間違いないでしょう。
結果は私には明らかに思えます。 もう少し待つ事としましょう。
貴方も今のうちに冷静にご自分の見解を再検討されてはいかがですか。
[2007年08月30日22時13分]
お名前: 守宮(やもり)
 立木観音様、お返事頂けるとは思っていませんでいたので、うれしい限りです。
議論は望まれるところではないのでしょうが、趣味であれ仕事であれ、歴史に係わる者として非常に良い「疑問」だと思いますので、その点きちんとお応えしておきたいと思います。

>1.科学的な判定は不可能とおっしゃっているようですがそうなると江戸時代(それ以前も含めて)の書物は全て偽書の可能性があると言うことですね 。

 その通りです。書物だけはなく、文書・手紙・考古学的な出土遺物・骨董品etc、すべての歴史資料には偽物・捏造の疑いが大なり小なりあります。もちろん限りなくシロに近いものもあれば完全なクロもあり、その間にはグラデーションのように濃淡のある灰色の資料が多数横たわっていることになります。では何がシロくて何がクロいのか?シロの資料は伝来のはっきりした実物資料です。例えば、大名家や公家などの古くからの家系あるいは寺院に伝来し、その資料の存在が昔から知られ、古い時代からそのものを多くの人が目にしている史料・資料で、偽物が紛れ込む余地がないもの。これは限りなくシロに近い(完全なシロではない)資料といえます。逆に名家に伝来した資料といってもその来歴が古くまで遡れないもの、あるいは新発見の資料は、偽作・捏造の恐れがないとは言えないわけですから、筆跡や日付、書かれていることの整合性の検証が不可欠になるわけです。名家・旧家とはいえ、いやむしろ名家や旧家あればなおのこと、自らの箔付けのため文書の捏造をやることはままあります。つまり伝来とされるものにもクロがあることもあるということですね。ただこうした資料は、その伝来(あるいは存在したという確かな証拠)が作成時(捏造時)より遡ることはない(前回例としてあげた「南方録」が好例です)のが通例ですので、おのずと信用度(グレーの濃さ)に差があります。もちろん、ふつうの家から出た資料に信用がおけないということではありません。しかしながら新発見の資料であれば、やはりきちんと検証する必要が生じます。(歴史学的に注目度の高い資料、世間の耳目を引きつける資料は特に要注意です。)資料として使うには、立木観音様の言われるとおり「全て別の事で本物である事を証明しなくてはいけないわけです。」さて、「別のこと」とは何か?紙・墨・書体・文体・言い回し・年号・月日の入れ方・話の脈絡、これらに時代時代の癖ともいうべきものが意図せず現れてきます。(その時代に使わない言い回しや、あるはずのない年号、新暦には無くて旧暦にある閏月からボロが出ることも少なくないですね)それを総合的に判断するしかない。逆にきちんと検証できれば、伝来のあやふやな資料でもかなりシロくなりますし、伝来がしっかりしていたと言われていたものでも、逆にクロくなる資料もある。また、写本の類でも原本が存在すればともかく、写本のみの場合、やはり伝来が問題になります。原本が存在せず、伝来のはっきりしない写本の信用度はやはり高くありません。(まあ、すべてが完全にクロというわけでもないのでしょうが・・・。)(ついでながら、行政文書や借財帖等々、世間から注目を浴びないような、どおでもよいと思われがちな史料は、偽作の対象にはなりにくいものです。作成する労力に成果が引き合いませんからね。ただ本当に偽作が無いのかははっきり言えません。)
考古学の資料でも事態は変わりません。きちんとした発掘調査をへて出土した資料が比較的シロく、出土経緯のはっきりしない資料はクロの可能性を疑わなければいけないでしょう。例えば、山形県三崎遺跡出土の青銅刀(大陸国製)は、出土状況がよくわかりません。年代的に整合し同種の金属器を模造したとしか思えない石器(石刀)が各地の縄文時代遺跡から出土するとはいえ、きちんとした発掘調査で出土した資料に比べればやはりグレーゾーンにあります。また発掘された資料であっても「捏造」があること(完全にはシロにならないこと)は、「前期旧石器捏造問題」でみなさん良くご承知のとおり。世間の耳目を引きつける資料が要注意なのは、文献史学と同様です。分野にかかわらず歴史資料が完全にシロくなるのは(シロくするのは)本当に大変なのです。

 だとすれば、歴史学は偽物という妖怪・魑魅魍魎が跋扈する伏魔殿ということになりかねませんが、私は歴史学の持つそういう側面は否定できないと思っています。歴史に係わる者は、自分が魑魅魍魎・妖怪とつきあうことになる可能性を忘れてはいけないのです。ではこうした中どうやって化け物と付き合っていくのか?
 こういう世界では資料批判が歴史を語る上で必須のものとなります。資料批判のうえで信用度の高い資料を使う。信用度の低いグレーゾーンの資料についてはどこがダメなのか明記し、ただし書き付きで扱うか、かくかくしかじか信用できない理由を述べて相手にしない。要は対象となる資料を頭から信用しないということに尽きるでしょう。どんなに魅力的でも(いや魅力的であればなおのこと)目の前にある資料は、私達を騙そうとしている妖怪かもしれないのです。慎重に慎重を期しても何も損はありません。

東日流外三郡誌は、グレーどころか、幾多の人々が指摘してきたように完全なクロにしか見えない代物です。あまりにクロいので歴史学に係わってきた多くの人々が無視してきたというのが正直なところでしょう。しかし、いま思うと、なまじ注目度が高く歴史のロマンを感じさせるという点では、とんでもない魍魎であったことは間違い有りません。
今は
多くの冷笑に怯むことなく、永くこの魍魎と戦い続けてきた人々をたたえ、彼の人たちの戦いにエールをおくりたいと思います。

ついでに

>偽書が他にあるからそれも偽者だというような議論はおよそ意味がありません。
それはそのとおりです。まあおしゃるとおり「水掛け論」なのですが
「偽書」を作れるものなら「作ってみろ」と言われたもので
まあ、「作れなくともないよ。」というぐらいの意図で
偽書の代表作を2本ほど上げさせてもらいました。
これが「偽書だからあれも偽書」と言う意味で立木観音様が解されたとすれば、
私の文章の未熟さゆえのことで、お詫びするとともに、この点訂正しておきます。
[2007年08月22日20時36分]
お名前: 立木観音
おやおや、専門家という方から反論があるとは思いも寄りませんでした。議論をするつもりはありませんがいくつか疑問を呈します。
1.科学的な判定は不可能とおっしゃっているようですがそうなると江戸時代(それ以前も含めて)の書物は全て偽書の可能性があると言うことですね。この理論を延長するとその原料を調達できる古文書、出土物は全て別の事で本物である事を証明しなくてはいけなくなりますね。はっきり本物と証明されたものはほぼないと言うことになってしまいす。
2. 一般的な話として偽書が他にあるからそれも偽者だというような議論はおよそ意味がありません。 大学の歴史を勉強しているものには偽書である事が明らかだ---そうですが、過去日本の学界でもそんな事が覆ってきたのが学問の進歩の歴史です。---よね(私はプロッフェショナルではないもので詳しく判りませんが)。

こんな事でこの先は水掛け論になる事は必至ですのでもう辞めておきましょう。

[2007年08月21日22時28分]
お名前: 守宮(やもり)
どうも、
はじめまして。
偽史・偽書の類がおおてを振って世間を騒がしているのも
歴史を専門にする者が、こうした偽書をまともに相手にせず
黙殺し、一顧だにしていないことに、
大きな原因があるように思います。
本人にしてみれば、まともに相手するのもバカらしい。
あるいは、相手にした時点で自分も同類と見られるかもしれない
と思っているのでしょう。
実は私も、“「歴史」の尻尾を囓って生活している者”
(本に埋もれた“紙魚”暮らし)で、
まあ、相手にするのも正直馬鹿馬鹿しいと思っていました。
(今、こうして書き込みをしているのは
とあることがきっかけで
それじゃいかんな。と考えたからなのですが・・・)

熱い議論を戦わせている方々には
大変失礼なのですが
ただいま、ここで話題になっている本は
正直、大学で歴史学のイロハを学んでいれば
パラパラめくった程度で
いわゆる「トンデモ本」であることが
あきらかになる程度のものです。

私のところで
たまに見かける学生君にもいますが
『東日流外三郡誌』に夢中な方々は
この資料(史料ではありませんよ)に
ばかり目を向け、
他の文献史料あるいは考古資料に
徹底的にまで目を向けない
あるいはマトモな資料批判
(自己がよって立つ資料への批判を含め)をしない
というような傾向があるかに思います。
(ああ、邪馬台国論争に夢中なかたにも、
こうした傾向は、まま見受けられますね。)
(まあ、少なくとも「歴史学」を標榜する者としては、
それじゃいかんわけですよ。)
歴史云々以前の問題です。

偽史・偽書のたぐいは
かなり昔からあるもので、
例えば、
現在、茶道の世界で
利休の教えの基本となっている
『南方録』は
その発見者である立花実山が
江戸時代に書いた「偽書」ですし
(「教え」やその「精神」が間違っているというわけではありませんよ
念のため。それに300年前のことですから、
「偽書」は偽書として、この本は充分歴史になっていますが・・・・。)

近年の偽書としては
吉田家で発見された信長・秀吉時代の偽記録
『武功夜話』などがありますね。
こちらの方がまだ良くできているかな・・・・。
(内容がはっきりいって「大河どらま」だけど・・・)
(同書については藤本氏・鈴木氏による
詳細な批判本がありますので、ご参照ください。)

かなり話がずれてきてしまいましたが
立木観音様が言われる
膨大な資料のでっち上げは
わき上がる創作力と
充分な時間と
熱意(これが一番大事かな?)があれば
容易ではなくとも可能であるということです。
むしろ
歴史学の学術論文や
歴史書のほうが、
自由な創作がゆるされない分
はっきり言って大変です。

「おまえやってみろ」的な
ご発言への応答にはなっていませんが
(たぶんできなくはないけど、
本業が忙しいしな・・・・・。)

話のすり替えに過ぎないかもしれませんが
ラブクラフトの
「クトゥルフ神話」を
歴史書あるいはノンフィクションとして読んでみたらいかがです。
(クトゥルフはフィクションですよこれまた念のため・・・。)
はるかに緻密に構築できてるでしょう。
ラブクラフトは偉大な作家ですが
ダビンチには匹敵しませんよね。多分。




追伸
どうでもいいことですが、
「科学的な物証」で真偽の白黒だけは付きません。
紙も墨も江戸時代以前のものが
市販され、使用可能ですし
(書画の凝った偽物はこれをやります。)
(まあ、この本ではその程度の細工も充分ではなかったのですが)
なにより、
科学的な年代測定法(C14やAMS法)では
資料の汚染に対応できないのです。
結果、年代は古くも新しくもなります。
古い炭素で汚染されれば古い年代
新しい炭素で汚染されれば新しい年代が出るのです。

科学的な年代測定よりも
書体(みなさんよくご存じのように時代で変化します。)や
書かれた内容の整合性、文体で判断するのが確実です。
ちょっと勉強すれば
すぐクロだとわかるでしょう。
骨董屋が書いた偽物の箱書き(たいてい、江戸時代の書体を使ってます)
を見破るよりよほど簡単ですよ。


[2007年07月19日19時22分]
お名前: 立木観音
久しぶりに東日流外三郡誌の情報を読みました。 なんだかまだ偽書騒動の決着が着いていない様ですね。 こんな事はいずれ科学的な物証で白黒つくはずですから騒ぐ必要はないのですがね。ただ私の見解では結論は明らかですね。
つまりこんな膨大な資料を創作で作り上げる事は不可能と言うことです。 まあ東洋のレオナルドダビンチがいれば可能かも知れませんが。
偽者と主張する方は試しに自分で一枚でもよいですから自分で偽書を書いて見なさい。もっともらしい偽書が出来たら拍手喝さいです。 出来たらぜひともここに提出してください。 ここの読者の皆さんがどう評価するか見ものですよね。 
[2007年07月17日22時10分]
お名前: 京都の青木博之
和田氏は金に困って商売したんです。戦後まもなくの頃は再服務できた公務員や大企業の社員以外は誰も生きて行くのに苦労しました。
いわゆる金の為には、なんでもやりました。インチキ香具師は日本中どこにも居ました。
引っ掛かった、金の苦労を知らない古田氏はころりと騙されたんです。
後は引くに引けなくなったんでしょう。往生際が悪い。

[2007年05月06日17時43分]
お名前: 原田 実   URL
「寛政原本」に関する暫定的私見をアップしました。
ご高覧いただければありがたい次第です。

「寛政原本」の正体―『東日流外三郡誌』擁護論の自爆―
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kanseigenpon.htm
[2007年04月25日18時40分]
お名前: めがまっく
西村俊一さん、はじめまして。
 はじめに、わたしはペットボトル及びその中身の液体については何の興味も無く、また、それをして偽書の証明などと論ずるつもりも無いことを明言しておきます。なぜなら、和田家文書はその筆跡や内容から、すでに現代人によるものであることは証明されているからです。
 原田氏においても、偽書作製の「材料の可能性を示唆」する程度にとどめており、ことさらもちだすのは、むしろ真作論者の方です。

 それからあなたは、ペットボトルは喜八郎の息子さんによるものとされていますが、そちらのほうがかえって不自然です。わたしは、やはりペットボトルは喜八郎によるものだと考えています(偽書の材料かどうかは、まず置いておきます)。隠し部屋は、喜八郎の死後は、息子が寝起きに使い、病身のため尿瓶代わりにボトルを使っていたということですが、それならば、息子の死後にペットボトルは家族の手によって処分されていたはずです。息子が部屋を使っていたのなら、息子が他人を部屋に入れない理由はありませんし、家族もトイレにいけないような病身の人間がいるのならば、世話をするのに部屋へ出入りするでしょう。ならば、必然的にペットボトルは処分されるはずです。
 それが息子の死後も、なおボトルが残っていたということは、むしろ喜八郎が自分の死後でさえ隠し部屋へ家族といえど他人が入ることを許さなかった、もしくは、家族の誰もがその部屋へ入るのを嫌がっていたためにボトルが残っていたと考える方が自然だと思います。20数本もボトルがあったということは、それだけの長い時間、誰も部屋へ入らなかったことの証左といっていいでしょう。

 もちろん、これは推測でしかありませんが、あなたの理論には、このような反論もあるかと思います。もとより、初めに申しましたようにわたしはペットボトルにも中身の液体にも興味はありませんので、その点はお含みおきください。

最後に、

>そもそも、和田家の一族をこの様な悲惨な境遇に追い込んだのは誰か?

それははっきりしています。和田喜八郎自身と、無責任に和田家文書の擁護を続けた人たちです。
世間では、「自業自得」「身から出たさび」といいます。
[2007年04月14日14時42分]
お名前: 西村俊一
 私が初めて和田喜八郎を石塔山に訪ねて、車付きの黒い大型長櫃数個に収められている古文書類を見せてもらったとき、娘と息子の二人は、「苦労だけが降りかかるこの様なものは相続したくない」と強く訴え、和田喜八郎も大変困惑気味であった。
 その息子は、飯詰の自宅の屋根裏部屋を寝起きの場所にしていたが、ペットボトル入りの焼酎などで深酒を続け、肝臓を悪くし、結局、和田喜八郎の死後間もなくして死んでしまった。大変可哀想なことであった。
 原田実の言うペットボトルとは、そのペットボトルのことである。深酒して尿意を催しても屋根裏部屋にはトイレがないために、空きボトルを溲瓶の代わりに用いていたに過ぎない。偽書の作成に尿を用いたという原田実の主張には全く根拠がない。
 そもそも、和田家の一族をこの様な悲惨な境遇に追い込んだのは誰か? 原田実自身ではなかったのか。何はともあれ、これ以上の罪作りはやめてもらいたい。
[2007年04月08日04時44分]
お名前: めがまっく
そんしさん、はじめまして。

 和田家文書の真贋論争については、未だに真作であると頑迷に主張しつづける人たちもいますね。まあ当の和田喜八郎氏が真相を語らないまま亡くなったので、その意味では、和田家文書について未解決の部分が存在する、と言えなくもありません。

 しかし、それは“こじつけ”の域を越えるものではなく、そんしさんのおっしゃるとおり、東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書は、『現代人の作成した偽書である』ことは証明されています。

 真作説を信じている人たちは、あの真贋論争の中で、正式な形(誰もが納得する形)で和田家文書が公開されたことは、一度もなかったということの意味を考えて欲しいと思います。古文書(原本にせよ写本にせよ)がきちんと公開されておれば、論争は一発で解決していたわけですから。このことは、偽書派に限らず『真作であることを信じている人』も含め論争中に大勢の人が望んだことです。

 ところで、古文書や遺物の『本来の価値』、つまり贋作・バッタ物であることを知っている人たちにとっては、『謎の古文書や遺物』であり続ける限り、偽物であることを隠して「本物である」と主張することができます。一方で、東日流外三郡誌事件の関連書籍を読むと、和田喜八郎氏の古文書や遺物の扱い方はあまりにも“無造作”という印象があります。それは、喜八郎氏が和田家文書の正体を知っているからこそであって、和田家文書が正規の手順によって公開されなかったのは、こういった理由もあるように考えています。

 いずれにせよ、今はもう和田家文書の真贋を云々することは、ほとんど意味をなさない行為だと思います。もし、今後「和田家文書」を名乗る古文書が出てきたとしても、まず“現代人の手が加わっている”ことを前提に扱うべきです。先日、ネットでこのような物を見つけたのですが、著者は古田武彦氏となっています。

「東日流外三郡誌 寛政原本・写真版」
http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0069

 あれほど古田氏が待ち望んだ本物の寛政原本ならば、「写真版」で出版せずとも、堂々と原本を一般公開したほうがよほどセンセーショナルだし、信書派の9回裏逆転サヨナラホームランにもなりうると思うんですけどね(苦笑)。やはり、それができないから写真版なのだなと勘繰ってしまいます(苦笑その2)。

[2007年02月02日19時05分]
お名前: そんし
こういうものを理解するときは、できるだけ頭を柔軟にしておかないと、勘違いしますね。

けんじさんが、どこで勘違いしたのかといえば、
「ペットボトル → 偽書作成 → 東日流外三郡誌発表」
という時間経過を前提にして考えてしまったということでしょう。

実は自然の流れとして考えられる順番はいっぱいあるわけです。
「偽書作成・発表→偽書ではないかと疑われた→あわてて小細工するのにペットボトルを用意した」
「発表→原本があるなら見せろと問い詰められた→仕方なく偽書作成その際にペットボトルを用意した」
「偽書作成→また次の偽書を作るために晩年ガラス瓶からペットボトルに入れ替えた(めがまっく説)」
これらなら東日流外三郡誌発表後にペットボトルが用意されたことになり、しかもどれをとっても全然不自然じゃない。

もちろん、まったく偽書問題とは関係のない、たとえば氏の没後に誰かが置いておいただけという場合もありえます。そう、氏の名誉を傷つける目的でね。

ですが、そのいずれの場合だとしてもペットボトルの製造年月日が、真贋論争にほんのわずかでも影響を与えることはありませんね。つまり、それより前にすでに偽書証明は現物の物的証拠で済んでいることであり、こういう事は、それを裏付ける状況証拠として提示されたに過ぎないからです。状況証拠の何かによって現物で証明された内容が動じることは全くないわけです。

台所のまんじゅうを取った犯人を探したら、長男のポケットにまんじゅうの残りが入っていたというのが物的証拠で、そのせいで長男の歯が虫歯になったというのが状況証拠です。お母さんは、ほら、まんじゅうを盗み食いするから虫歯になるのよと怒るわけです。

必死に子供はまんじゅうを食べる前から虫歯はできていたと言い張る。でも虫歯の原因が他にあったとしても、ポケットのなかに、まんじゅうが入っていなかったことになるわけじゃないという理屈です。

[2007年02月01日15時18分]
お名前: めがまっく
けんじさん、はじめまして。あなたの原田氏への反論を何度も読み返してみました。

 読み返してみたのですが、どう考えてもペットボトルの製造年月日は関係ないと思います。

 わたしは、これまでの真贋論争の状況から見て、ニセ古文書を作ったのは、和田喜八郎氏と見て間違いないと思っています。原田氏たちの発見したペットボトルの中身がニセ古文書作成とどのような関係にあるかはわたしもわかりませんが、仮に関係があったとして、昔は、ガラス瓶や陶器の入れ物などに入っていた液体が、ペットボトルの普及に伴って、単に入れ物がかわっただけのことでしょう。

 原田氏が言及しているのはあくまでも『ペットボトルの中身』についてです。彼がそれまでに得た情報の中から、ペットボトルの中身の刺激臭のする液体が、ニセ古文書づくりに使用されたものではないかと推理してわけです。ですから、「その液体がはたしてほんとうにニセ古文書作りに使用されたものなのか、化学的に分析するべきだ」と反論されるのであればわかりますが、ペットボトルの製造年月日や、いつごろから普及し始めたのか、といったことは、申し訳ありませんが少々脱線していると思います。
[2007年01月29日23時35分]
お名前: けんじ
原田実:『東日流外三郡誌』事件・偽作の「現場」を訪ねる(www8.ocn.ne.jp/~douji/wadake.htm )に反論する

「『東日流外三郡誌』事件・偽作の「現場」を訪ねる」 からの抜粋

「天井裏の一角には中二階があった。その部屋もよく見たが、物を隠せるような場所はなく、ただ二十本ばかりのペットボトルが残されていた。同行の斎藤隆一氏や『東奥日報』記者とともに中身を調べると、強い腐敗臭の液体が入っていた。放置された人尿の匂いだ。

その部屋は生前の和田喜八郎氏がよく籠もっていた所で、文献偽作の作業場と目される。古物商の間で伝わる話だが、古書の贋作者は新しい和紙に古色を着けるのに、腐敗した人尿を用いることがあるという。

そして、『東日流外三郡誌』など和田喜八郎氏によって“発見”されたという古文献には、しばしば不自然な染みがあり、何らかの液体が塗られたような跡を示していた。そのペットボトルを見つけた時、私たちはまさに事件の「現場」に足を踏み入れていたのだ。

『東日流外三郡誌』問題で失われた最大のもの、それは「信頼」だろう。大学教授やマスコミ、公的機関などがずさんな偽書に騙された。私たちはこの事実を教訓とし、権威ではなく事実に基づいて物事を判断する習慣をつけるべきではないだろうか。」

(『東奥日報』2003年2月28日付夕刊・寄稿に一部加筆、関連記事は同年2月25日付)

 

以下は原田氏に対する私の反論です。

以上の文章を読み、大きな疑問が湧いてきました。先生はペットボトルが偽書作成の重要な証拠であると主張しておりますが、ペットボトルが普及されてきたのはごく最近のことだと思います。インターネットで調べますと、日本でペットボトルの製造が許可されたのが1983年で、一般の小型のペットボトルが普及されはじめたのが平成8年頃だそうです。昭和50年(1975年)に刊行されはじめた東日流外三郡誌の偽書を作成した時期をどのようにお考えかわかりませんが、どうみても偽書作成時にペットボトルを手に入れることは不可能であります。先生は『事実に基づいて物事を判断する習慣』が大切と述べられておりますが、ペットボトルのラベルに書かれた製造年月日をきちんと確認したのでしょうか。もしかしたら和田喜八郎氏が死去した後の製造年月日が記されていたかもしれません。また、和田喜八郎氏個人での偽書作りに、なぜ20本もの人尿入りペットボトルが必要なのでしょうか。疑問は沢山残ります。「事実をきちんと確認しないでの判断」が間違いをもたらすことは、長年理工系の教育・研究に携わって来た者として身にしみておりますので、あえて述べさせてもらいました。
[2007年01月26日18時03分]
お名前: 広嗣
 日本古代史は、文明史または政治史では大和中心史観、文化史は稲作が重視されて西日本中心史観が、主流になっています。

 文明が興らなかったからその文化は劣っているわけではないはずですが、何故か軽んじられる傾向が顕著です。脚光というと語弊があるかも知れませんが、そんしさんの言うように全国を賑わせる研究成果が出てくるといいですね。


[2004年09月09日00時57分]
お名前: ヘイ
東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)
http://www.geocities.jp/gaiko00/tugarusotosangunsi.html

☆☆ よみがえる日之本の歴史 (封印された津軽の歴史)☆☆
http://www.gji.jp/tsugaru/sangunshi7.htm

古 代 津 軽 の 稲 作 に つ い て
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou27/tugaru27.html

「東日流外三郡誌」論争
http://www.actv.ne.jp/~yappi/mystery/006-sotosangunshi.htm

古田史学会報
1994年8月18日 No.2
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furuta02.html

【アラハバキ】
http://home4.highway.ne.jp/deadsoul/a/arahabaki.html


天離る 鄙の長路 ― 5 ―
http://members.at.infoseek.co.jp/eemaeda/Jumpkai/sekopage5.htm


関連事項を調べてみたら、こんなのが出てきました。興味のあるかたには常識的なことかもしれませんが、こちらにはいまいちピンとこないです。^_^;

アコさんがこういう話は熱心だったような気がしますですね。


[2004年09月07日23時15分]
お名前: そんし
もうSIGで話題にならなくなって、何年経過したでしょう。
SIG開設当初は、北方文化に関する記述は、とてもフォーラムをにぎわせておりましたけれど、最近は偽書問題やら、発掘ねつ造問題やらで、北の方角の歴史の話題は、どうしても暗い影がついてまわり陰気になっていけません。
先日北海道を拠点に活躍されている歴史ファンから、ひさしぶりに北方文化の話題を扱った書類が送られてきました。文化の伝播は、半島や南方からだけではなく、北方からもたくさん伝わってきて各時代の文化に大きな影響を与えているという史観に基づく研究は、東北北海道の研究者に熱心に研究されているようで、ときにはその中から邪馬台国論争に匹敵するほど全国を賑わせる研究成果でも発表されないかと期待しているのですが。

[2004年09月07日18時31分]
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