テーマ:二〇三高地と海軍

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お名前: 土龍
ちょっと付け足しです。

繰り返し協調してきたことですが
旅順要塞の攻防で陸軍(現地軍、参謀本部を含め)は、
港内の観測所設置に力点を置いていません。
参謀本部次長の長岡が、
さも当初から観測所設置による港内砲撃に力点を置いていたよう
言われているのですけれど、
長岡をはじめとする参謀本部が言っているのは二百三高地を含む
防御手薄と認められる要塞西側を主攻せよということにすぎず、
旅順戦の後半は自らの主張を海軍の要求に被せているにすぎません。
参謀本部の指示は観測点の設置ではなく、要塞を陥落させることです。
二百三高地陥落と同時に旅順艦隊が次々撃沈されたようにしたのは
参謀本部と長岡によるいわば「粉飾決算」でした。

観測点そのものは
第一次攻撃に含めて考えられる大弧山の占領で
海軍重砲隊による港内停泊中の戦艦への砲撃を可能とし、
結果、旅順艦隊のウラジオへの脱出を計画した黄海海戦を惹起。
第二次攻撃で二百三高地を除く旅順西側高地の占領で
西港の観測を可能とし、実際港内への観測砲撃が始まっています。

確かに二百三高地の占領にともないここにも観測所が設置され
観測砲撃が行われたのも事実ですが、
二百三高地占領以前に港内の旅順艦隊は
黄海海戦の被害+二百三高地占領以前の日本軍の砲撃と
キングストン弁を開くことによる自沈で壊滅状態でした。

では何のため、主防御線である要塞正面に匹敵する損害を出して
この高地を占領したのでしょうか?
西側後方第二線にある防御線を観測し攻撃するためか?
忘れられがちですが二百三高地はロシア軍の主防御線から離れた独立丘陵でした。
ここを占拠しても永久堡塁が構える第二線のロシア軍主防御線へ
対壕戦術をとることは非常に困難です。
実際二百三高地を攻略した日本軍は、
陥落後この方面での作戦を事実上停止し、
再び、要塞正面への攻勢を開始しています。
二百三高地から見下ろせるこれら第二線陣地へ攻撃をかけることはありませんでした。

一方で、必死になって防衛したロシア側ですけれども、
確かに港湾内を俯瞰できる高地の奪取を防ぐという防衛上の意味はあります。
しかし、第二次攻撃の後、港内に多くの砲弾が降り注ぐようになった時、
なお、多大な犠牲を払いながらこの高地を防衛したことに意味があったかは、
前述したとおり、柔軟な塹壕戦術を駆使するという意味では
やはり疑問なのです。

ここで、極めて奇怪な図式が浮かび上がります。
日ロ両軍は、軍事上あまり重要な意味を有さない山を巡って
今からでは信じられない量の血を流し、
激しい攻防戦を演じたことになるのです。
結果的には、激しい消耗戦で戦力を失ったロシア側が
著しく戦闘能力を減耗し、ここが「決戦」の舞台となりました。
別宮氏は著書の中で、児玉の戦略眼としていますが、
充分な根拠に欠けるきらいがあります。
私自身は、児玉がどの程度攻城戦と消耗戦の性質を理解していたか
疑問を感じている者です。
二百三高地での消耗戦、これはあくまで「結果」であって、
作戦上意図された戦略・戦術上の目標とは言い難い性格のものです。
作戦を主導した両軍の指揮官、
特に強行に現地乃木軍にその攻略を指示した大本営の参謀達は
この山を奪取するのに流された血に対し理由付けをしなければなりません。
そのことが、第一次攻撃時の大弧山占領
第二次攻撃時での西方高地群占領と、これらへの観測所設置と港内砲撃への無視
「二百三高地攻略後の旅順艦隊の撃沈」という実態と異なる「粉飾決算」になったのでしょう。
その後は、日ロ両国の戦史は、二百三高地攻略→旅順港内の砲撃→要塞の降伏という
図式を繰り返すこととなりました。

だって、そうでなければ誰もこの山で流された血の量を理解出来なかったのですから・・・・・・・。
そして指揮官である乃木は、この山で流された血に対する責を自ら負い続け、死してなお今に至るまで負わされ続けています。おそらく彼はそれを甘んじて受けることでしょうけど・・・・・。

[2008年09月03日17時16分]
お名前: 土龍
 久しぶりの反応があったので、もう少し書き込みしてみたくなりました。
別宮暖朗氏(著)『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』は
旅順戦と乃木の指揮官としての能力を再考させる上での好著だと思います。
この議論に関心のある諸兄におかれてはぜひ、ぜひ、御熟読を・・・・。

 ここでちょっと述べ、かつ強調ておきたいのは、
「二百三高地の攻略が旅順戦の帰趨を決した。」ということに関する
日本人への呪縛の強さです。
 もうこれは、ほとんど決定的と言って良い呪縛で(戦前からの・・・・)、

1、「二百三高地を攻略したので旅順要塞は陥落した。」
2、「それは、ここ(二百三高地)に観測所を設置し、
港内の旅順艦隊を撃滅できたので旅順要塞は陥落した。」
3、「だから頑迷にも二百三高地攻略に躊躇し、早期攻略に失敗、
露軍の築城工事を進捗させ、結果、野戦陣地に過ぎなかった二百三高地へ
多大な鉄と血を注ぎ込んだ乃木は、近代戦を行う将軍として無能だった。」
という論法になります。

 上記のうち1はほぼ正しいと見てよいでしょう。
 しかしこれにも但し書きが付くと思います。
「二百三高地を攻略したので旅順要塞は陥落した。」のではなく、
「二百三高地戦で勝利したので旅順要塞は陥落した。」あるいはもっと正確に言えば
「二百三高地戦他で多大な消耗をロシア側に強いた上
この高地を攻略したことが、旅順要塞は陥落に繋がった。」と考えるべきものです。

 さて、二百三高地は旅順要塞攻略にあたって枢要地点だったのでしょうか?

もしこの問題に関心のある方がいたら旅順の地図を広げてみてください。
二百三高地は要塞の西縁に突き出した丘陵で、
後方に更に幾多の堡塁群と防禦線を有しています。

標高と地形図を照らし合わせれば、確かに
旅順西港と同新市街を観測できる地点にはあります。
では2、「二百三高地に観測所を設置し、
港内の旅順艦隊を撃滅できたので旅順要塞は陥落した。」でしょうか?

回答はNOです。

司馬氏は地図を広げ2の結論に達し、
3、「だから頑迷にも二百三高地攻略に躊躇し、早期攻略に失敗、
露軍の築城工事を進捗させ、結果、野戦陣地に過ぎなかった二百三高地へ
多大な鉄と血を注ぎ込んだ乃木は、近代戦を行う将軍として無能だった。」
と結論づけました。

 しかし、別宮氏が論じるように、旅順艦隊の存在と要塞の存在意義は
別に論じられるべき性格のものですし、
 肝心の旅順艦隊自身が、二百三高地攻略以前の日本側砲撃で大きく傷つき
 あるいは自沈したものと考えられている現在、
「坂の上の雲」で描かれる、二百三高地陥落後、旅順艦隊が次々撃沈される
あの胸のすくシーンは司馬氏のフィクションと言って良い物です。
 ゆえに上記2は成立しません。

 なるほど高い丘陵上から俯瞰される二百三高地後方堡塁群は
二百三高地からの観測下に置かれますが
重厚に構築された陣地は、
高地から容易に中をうかがえる性格のものではありません。
故に、制高点が確保されたといえ、後方堡塁群は無力化できないのです。

 更に、二百三高地が攻撃側にとっていけないのは、
この高地が西側に大きく突出しているという位置そのものにあります。
 第二次攻撃から乃木率いる日本軍は堡塁への対壕戦術へ切り替えます。
対壕戦術とは敵堡塁へ塹壕を掘り進め接近、砲撃と坑道爆破の後、占領するという戦術です。
司馬氏は著書の中で、冷たく切り捨てていますが、
別宮氏が著書の中で評価し、
(意外にも?)レーニンがその著書の中で乃木の戦術転換を評価するよう
実は、対壕戦術へ切り替えこそが、旅順戦の帰趨を左右した大きな要素であり、
二次攻撃で、対壕戦術へと転換できたことは乃木と彼の幕僚たちの思考が
実際はかなり柔軟性に富んでいたことを示す証左です。

 ちょっと話がずれすぎました。
この対壕戦術を実施するには、二百三高地は大きく西にありすぎるのです。
接近路となる塹壕をここまで掘り進めるには膨大な時間と資材を必要とし、
攻略後の援軍、食料、弾薬の輸送にも難をきたすことになります。

 にもかかわらず、二百三高地が主攻撃目標とされたのは海軍からの要求と
それに基づく大本営からの要求でした。純粋に対壕戦術を駆使するのであれば、
別の攻撃目標の選択もありえたはずです。

 ロシア軍にとっても、上記のように、その防禦上二百三高地は枢要地点とは
言い難いものがあります。

 にもかかわらず、両軍はこの高地をめぐって血みどろの消耗戦を繰り広げることとなったのです。

 戦略上あるいは戦術上幾許かの価値しか無い場所を巡って、
まるでそこが磁石にでもなったかのように敵味方両軍の鉄と血を吸い寄せ
激しい激戦の舞台となる場面が戦史上何度かあります。
 例えば、太平洋戦争のソロモン諸島を巡る海陸空の戦いです。
なるほど、ソロモン諸島はアメリカとオーストラリアの間に楔を打ち込める
絶好の位置にこそありますが、太平洋全体の戦局からすれば放棄してもかまわない
局地にすぎません。
この戦いで、日本軍は局所的には幾つかの勝利を得ますが、
結果は膨大な消耗戦となり、航空機と軍艦、輸送船、陸軍の多くを失い敗退しました。
こうした全体の戦局に関わり無い地点の戦いでは、兵・物資の不足しがちな側が敗退し
結果、全体の戦局そのものを傾けてしまいます。
ソロモン諸島の戦いはその好例でしょう。
早々、ガ島を放棄し、航空戦力とベテランパイロットを温存、
来るべきアメリカ軍の攻勢に向け戦力を整備すれば、
マリアナ諸島をめぐる戦闘ももう少し違ったものとなったはずです。

話が大きくずれすぎました。
結局ロシア側からの敗北要因をあげると、
同軍が二百三高地にこだわりすぎて日本軍相手に消耗戦を繰り広げたことになります。
それゆえに、二百三高地は旅順戦勝敗の帰趨を分けたことになるのです。
 もしロシア軍が早期に同高地を放棄、後方の堡塁群と防禦線へと後退する柔軟な塹壕戦術を駆使したら、戦闘の経過はもっと異なったものになり、
二百三高地が日本人の脳裏にかくも刻まれることも無かったはずです。

ちょっとのつもりが、
長くなりすぎました。
日本側の事情と問題点については、またの時に・・・・。
 

[2008年08月15日22時20分]
お名前: 土龍
ついでながら・・・・
後備部隊、老兵というと
日本人はどうも太平洋戦争の再召集兵を思い浮かべてしまうようですが
日露戦の後備・老兵と太平洋戦争の後備・老兵では
その意味合いが全く異なります・・・・。
後者は本当の老兵。行軍についていけず手榴弾で自殺する者がでるくらい
体力的に衰えた人たちです。
前者はそうではありません。
簡単な例をあげれば
何せ、日露戦中の日本人は、戦争行っていない連中も
日比谷で焼き討ち出来るくらいの体力があるのです。はい。

[2008年08月08日13時50分]
お名前: 土龍
いやあ、久しぶりの書き込みありがとうございます。
しかも掲載の本読んだ上でのご意見とは・・・・・。
ただ、白襷隊の突入については、少々異論があります。
別宮氏は白襷隊の突入そのものを問題視しているのではないと読むべきでしょう。
白襷隊が何を目標に行動し、どのような作戦指揮行動をとるかについて
問題を有していたと読むべきです。
逆に、白襷隊の行動に対する模範解答は、同書中のWWTのドイツ軍の要塞攻略にあります。
実施すべきかどうか別とし、浸透攻撃は理論上可能なのです。
(乃木司令部にその方法論が確立できなかったことは否定しません。)
「要塞の状況がわからなければ尚更 俯瞰できる高地に観測所を
置いて、攻撃しなければなりません。」
このご意見は、大弧山攻略時に決着がついていると思います。
地図を広げるとわかりますが、
実のところ、二百三高地を攻略しても
港内は見えても要塞本体すべてが俯瞰できるわけではないのです。
どちらが弱かったか、
これも別宮氏の著作中に記されている陥落日時をご確認頂ければわかりますが、
望台およびその周辺堡塁陥落と二百三高地の陥落にはそう大差無い。
要塞攻略には資材搬入、攻城路確保、莫大な日数がかかります。
西側に突出する二百三高地が通説どおりの戦略的枢要地で無いとすれば
(つまりは、司馬氏の言われる港内の俯瞰、観測砲撃にあまり意味が無い
その目標が大弧山攻略で大半決している
−黄海海戦の引き金が同地点の攻略と港内砲撃の開始にある−とすれば)
二百三高地は、時間(日露戦で忘れてはならないファクターです)と労力の点、
前半戦ではその戦術的価値が低く、
(複線からなる重層構造を持つ近代要塞は、高所を押さえてもダメージにはなりません)
後半戦では
攻城路が半ば以上整い、砲撃でダメージを与えていた望台およびその周辺堡塁の攻撃を優先すべきだったと考えますがいかがでしょう。

話がややこしくなりすぎました。
要約します。
まあ、二百三高地のみ落としても
司馬さんのいううように
旅順は落ちない。
これだけです。

[2008年08月08日13時40分]
お名前: 寄り道人
土龍さんへ

別宮氏の本では白襷隊を実施したって事で有能ではないと記しています。
203高地と乃木というか第3軍が固執した望台正面のある東北正面 
どちらでも落としていいんですよ。
ただどちらが 強度が弱かったか、といえば203高地です。

要塞の状況がわからなければ尚更 俯瞰できる高地に観測所を
置いて、攻撃しなければなりません。一点に固執しあらゆる可能性を
怠った罪は大きいです。最初の203高地攻撃は後備部隊という老兵でした。



[2008年08月07日06時02分]
お名前: 土龍
すいません。やはり書名が違っておりました
正確には
『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』別宮暖朗(著)2004です。
ヨーロッパ要塞戦史、近代要塞の構造も詳説され入門書としても適しています。

読めば、少なくともクリミア戦争時の稜堡式要塞、旅順要塞のような堡塁要塞、マジノ線・ジークフリート線のようなWWU時の要塞をごっちゃにする愚は避けられるでしょう。

姉妹編に『「坂の上の雲」ではわからない日本海海戦』があります。
あわせてご併読を。
[2006年06月30日12時58分]
お名前: 土龍
ATTILAさん
お返事ありがとうございます。

ただ、揚げ足をとるようですが、
「弱点を攻めることが戦術の要」これはいただけません。
少なくとも、
面的に広がる近代要塞の攻略方法としては成立しません。
「通説」(乃木批判はこの「通説」に始まるのですが)通り
仮に早期に乃木軍が二百三高地を攻略しても
要塞本体が健在な状態では
湾内露西亜艦隊への日本軍側の砲撃が始まると同時に、
おそらくは猛烈な露西亜軍の高地への奪回攻撃が開始されたことでしょう。
それは砲撃観測を阻止する騒擾砲撃に始まり、
これでまともな観測はできない。
日本側守備隊への砲撃、歩兵の突入となるでしょう。
ご存知のとおり、
二百三高地を一度占領した日本軍は撃退されております。
二百三高地を攻撃正面に選んでも
結果的には、この高地をめぐる壮絶な消耗戦が日露両軍の間で
繰り広げられることになるにすぎません。
さらにいけないのはこの高地が(港内が見渡せる)要塞の弱点(の一つ)とはいえ
その位置は要塞本体から尻尾のように飛び出た位置にあるのです。
陥落させても
重層的に造られた堡塁群からなる要塞主防御線への脅威とはなりません。
 本来、大兵力を有する側の強みは、攻撃正面を自由に選びながら
戦線全体に圧力を加えていける点にあります。
旅順戦における日本軍はこの立場です。
少々苦しくても正攻法(第一次攻撃の「強襲」も含まれます)で
やるのが常道です。

逆に
攻撃正面が狭ければ(つまり攻撃正面を二百三高地に絞ることです)、
ある面積に過超な兵力を投入することは物理的にできませんから
せっかく擁する大兵力を局所に逐次投入し
自ら敵に隘路防衛同様の利点を与えることになるのです。
まさしく
ATTILAさんがおっしゃたのとは逆の意味に
「局面において敵方の戦力と同等の戦力を投入する」ことになる
(そしてひたすら損耗する)わけです。
一つ間違えば、湾内の露西亜艦隊を撃沈する前に
日本軍は早期損耗して要塞本体を攻撃する力さえ失い、
湾内の艦隊は沈まず、
おそらく乃木は戦術目標に固執して要塞を落とせず、
多くの兵士を失ったいう
今の評価以上の愚将として
歴史にその名を残すことになったはずです。

ここでもう一つの仮定です。
仮にこの高地を落とし(これがかなり困難なことは述べました。)、
砲撃によって港内の艦隊の腹を海底に付け
戦略目標を達したとして
要塞本体をほっぽり出し(つまり要塞本体は健在)
満州へと乃木軍が北上したとしたら
どうなるでしょうか?
乃木は要塞本体を落とせなかったわけですから
露西亜は要塞の健在を全世界に喧伝することでしょう。
(要塞戦は日本の負け!)
そして沈めたはずの軍艦は
真珠湾攻撃で日本航空隊が沈めた米艦同様
船腹に開いた穴をふさぎ息を吹き返すのです。
実際、遠浅で引き潮時船底が海底に着くこともあった
旅順港では引き潮時に艦腹の損傷部をキャンバスの箱で覆い、
損傷部を修理するケーソン工法が可能でした。
実際多くの露西亜艦がこのケーソン工法で
(まあ、あくまで一時処置ですが)
行動可能にまで復帰しています。
(この工法、海・陸とも日本軍は知りませんでした・・・。)
さらに、あれほど恐れていたバルチック艦隊は
海軍が旅順を包囲していないかぎり、
陸上防御に不安のあるウラジオに逃げ込むことなく
要塞で守られた旅順港に入ってしまいます。
ですから、乃木軍が攻囲を解くためには、
要塞本体は力ずくでも陥落させなければならないのです。

では、
「錐を揉み込むように攻勢をかける」べき旅順要塞の弱点とはどこか?
それは乃木司令部の発狂のように言われる
水師営からの「白襷隊」の突入進路です。
地形上堡塁間の連携の弱い平地部へ
夜間、敵火力を上回る人数で浸透攻撃をかける。
もちろん両側堡塁からの敵の攻撃は無視、
味方の犠牲をかえりみず、
ひたすら旅順市街への侵入を図るのです。
これは朝鮮戦争の時
中共軍が使用した戦術でそれなりに有効です。
(ただし、中共軍の場合、味方を銃で追い立てる「督戦隊」がいましたが)
よく「狂気の沙汰」扱いされますが
戦術的には適合しています。
実際の攻撃にあたっては、
全線指揮官が目前の堡塁の制圧にこだわって失敗しているのはご承知の通り。
私の記憶に間違いなければ、
日清戦争時、乃木指揮下の軍は
この水師営方面から平地を一気に駆け抜け
旅順市街を占領しています。
(この日清戦争時の旅順要塞の具体像がわかる資料を私は持っていません。
日露戦争時の堡塁式とは異なる囲郭式のものであったようで、
その配置図は何度も目にしていますが
構造図は不明のままです。
施設の一部は日露戦時にも使用されているようなのですが・・・
この施設に関し、ATTILAさんは何かご存知ですか?)

さらに
「乃木は日清戦争の時の旅順要塞(清国)攻略戦にたずさわっております。したがって、陥落後の旅順近傍を徘徊し、地勢を把握していなければなりませんね。地勢を把握していれば、露西亜が如何なる場所に砲台や塹壕を作るか、想像できるはずです」
とのことですが、日清と日露戦の技術的懸隔を考慮に入れれば、この評価は酷に過ぎましょう。大砲の射程、射撃方法一つとっても雲泥の差があります。
一番簡単な例では、(これは海軍さんですけど)日清戦時の最強艦「鎮遠」と日露戦時の「三笠」の例を比べれば一目瞭然でしょ。
乃木が日清戦後、旅順をどのくらい見て回ったか
確実な史料は存在しません。
「見ていた。」「見ていない。」は不毛な水掛け論です。
しかし日清戦争時、二百三高地など
港内が見える他は、何の戦術上の価値も有していなかったのです。
これに対し、露西亜軍防御線の枢要に位置していた「望台」は
清露両要塞自体の死命を制する位置にあります。
仮に二百三高地に乃木が気づいていても、
この高地に必要以上こだわるのが危険なこと、
要塞本体の攻略の方が政・戦略上大切なことは前述のとおりです。
乃木と彼の幕僚の判断がどこにあったのか、単に無能であるのか
安易な判断はすべきではないでしょう。

「海軍の艦砲」の援護ですが
これは第二次世界大戦以降可能になった話です。
当時は無線の黎明期。
二百三高地からの観測も電話線に頼っていたのです。
援護射撃は不可能と言わないまでもかなり困難でしょう。
弾丸も第二次世界大戦時日本軍が使用したような「三式弾」はありません。
艦砲の弾丸は徹甲弾と徹甲榴弾・榴弾くらい、
コンクリート堡塁には効き目がありますが、
土を掘っただけの塹壕陣地にはあまり効果は期待できないと思います。

乃木無能論と早期二百三高地主攻説は
日露戦争後〜太平洋戦争中
藩閥出身者を嫌う陸軍大学出のエリートによって唱えられた経緯があります。
日本人を束縛して離さない司馬遼太郎「坂の上の雲」の元ネタもここから発しています。
旧軍、特に陸軍軍人を嫌悪してやまない司馬が
彼らと同じ思考パターンに陥っていることは皮肉なことです。

また「寡兵を持って大敵を征する」
これもまた陸大エリートが好んだ思考法です。
「寡兵」でも戦術・戦略上の要点を攻撃できれば勝利する。
これは現在の乃木批判そのままです。
実際の戦場で「寡兵」が枢要地点を占拠し勝利した戦例は
数えるばかりですし、
少なくとも兵力に余裕のある状況下で実施すべきものではないと断言していいでしょう。
繰り返しになりますが
「寡兵を持って大敵を征する」
これはいかなる場合でも戦略上の愚の骨頂です。
ATTILAさんは「寡兵を持って大敵を征する」好例として
義経の一の谷の合戦、
徳川家康の姉川の合戦、長久手の合戦、
織田信長の田楽狭間(桶狭間)の合戦をあげてらっしゃいます。
(中世の戦闘が近代戦との比較でどのくらい役立つか
私自身は極めて疑問視していますが)
実際問題として
軍記物に記された程度の記録は粉飾が多く実証性に乏しいため
そのまま鵜呑みにはできない性格を有しています。
ちなみに奇襲で寡兵敵を破ったとされる
桶狭間の闘いは近年の研究で
地形と諸記録を総合した結果、奇襲でも何でもなく
「寡兵」の織田軍の反撃に困乱した今川主力が壊走し
混乱の中「主将」が討ち取られるという
ドラマもへったくれも無い話になりましたし、
義経の一の谷の合戦も
平地側からの源氏主力の猛攻があればこそ、
少数の義経軍の闖入に混乱したとみるべきでしょう。
(なお、知人の日本馬研究者は
日本馬の体格からして、鵯越の逆落としはおろか、
山中の騎行もありえないと断言していました。
日本馬は馬格が極端に小さく、
蹄鉄も無いので無理だそうです。
彼は、逆落としの実態は
少数の徒兵が山越えで坂を降りただけではないか
とも言っていました。
やはりこの戦も義経賛美を差し引いて考えるべきでしょう。)


なお、あくまで余談ではありますが、
「寡兵」良く大敵を破った信長は
その後、ほとんど敵より大きな兵力をもって戦っています。
(これは確実。)
時には敵より兵が多くても積極的に闘わないことも少なくありません。
(例えば、家康の「高天神城」は見殺しにされましたし、
「長篠の合戦」でも圧倒的な兵力を持ちながら陣地に籠もって
自分からは攻撃しませんでした。)
本当の名将とは
孫子も言うよう
「勝ってあたりまえの戦をするよう心がける」凡将だと断言できます。

話が長くなりすぎました。
要は、単純な「乃木無能論」はもう避けるべきだ。ということにつきます。
ここの議論の始まりとなったNHKの番組も同様の動きを捉えたものでしょう。
一般書としては
『坂の上の雲ではわからない旅順攻略戦』(手元にないので微妙にお題が違うかも)
福田和也の『乃木希典』が良書です。

諸兄におかれては
是非ともご一読を







[2006年06月28日21時30分]
お名前: ATTILA
弱点を攻めることが戦術の要、戦術を知らない乃木はアホーの資格充分でしょう。

 土龍(もぐら)さん、こんちわ


 古来、名将といわれる人物は、寡兵を持って大敵を征することで戦いを勝利に導いたと言えましょう。

 源義経の一の谷の合戦、徳川家康の姉川の合戦、長久手の合戦などは、そのよい例だと思います。織田信長の田楽狭間(桶狭間)の合戦などはその極地ではなかろうかと思います。

 何ゆえに寡兵が大敵を征することが出来るかと言えば、局面において敵方の戦力より勝る戦力を投入したからであります。
 総動員数で劣るとも、局面においての投入戦力が凌駕したのであります。

 乃木の無能たる根拠の一つは、そこにあろうかと思います。
 
 要塞戦においては兵力と要塞の防御力が総戦力となりますから、要塞の防御力の薄い箇所を攻めるのが肝要です。豊臣(羽柴)秀吉の早期の数々の城攻めは、その好例でありましょう。
 要塞の弱点を把握し、その弱点に錐を揉み込むように攻勢をかけるのが彼の流儀であり、そのために事前の諜報に非常に手間隙かけたわけです。

 乃木の無能たる根拠の二つ目は、情報集積の無視と、その結果、敵の戦力もわからずに力攻めしかしなかった(出来なかった)ことにありましょう。

 「旅順攻略図」を見ますと、8月末には旅順要塞を完全に包囲していたと言えましょう。その包囲完成と旅順要塞の防御ラインとなります。

 「旅順攻囲図」は10月末ですから、すでに28センチ砲が配備されております。

 しかし、乃木の方からは、かような詳細な防御配置はつかめず、最外延の塹壕線といくつかの砲台のおおよその位置しか把握できなかったでしょう。
 その点については、乃木であろうが、他の指揮官であろうが同じだと思います。

 しかし、乃木は日清戦争の時の旅順要塞(清国)攻略戦にたずさわっております。したがって、陥落後の旅順近傍を徘徊し、地勢を把握していなければなりませんね。
 地勢を把握していれば、露西亜が如何なる場所に砲台や塹壕を作るか、想像できるはずです。

 「旅順敷延塁図」を見れば平坦地、すなわち見下ろして射撃する砲台のない地区は北方(水師営方面)と西方の二ヶ所であります。
 数度の北方からの攻勢に失敗したのですから、西方を攻撃してみるべきでしょう。西方からなら海上向けの砲台もありませんから海軍の艦砲による援護も期待できたでしょう。

 結局、乃木は日清戦争時に陥落後の視察を行っていないか、行っていても頭に入ってなかったということになりましょう。
 203高地がどうの、司令官の立場がこうのという以前に、乃木は普通の軍人なら研究したはずの旅順のリョも念頭になかったと言えましょう。

 そういうことから、乃木は無能なアホーだと言えまます。


 ついでに、もし乃木が真っ当な軍人で、攻め落とした清国旅順要塞を歩き回っていてならば見たかもしれない203高地からの展望写真があります。
 真正面からやや左の小高い山が連合艦隊を悩ませ、広瀬中佐を海の藻屑にした黄金山砲台になりましょう。


<資料>
「旅順攻略図」
http://www.asyura2.com/bigdata/up1/source/2548.jpg

「旅順攻囲図」
http://www.asyura2.com/bigdata/up1/source/2549.jpg

「旅順敷延塁図」
http://www.asyura2.com/bigdata/up1/source/2550.jpg

「203高地から見た旅順港」
http://www.asyura2.com/bigdata/up1/source/2551.jpg

 でわでわ


[2006年06月22日12時52分]
お名前: 土龍(もぐら)
『「坂の上の雲」ではわからない旅順攻略戦』や福田さんの『乃木希典』が出てしまったあとでは、何とも後付けなんですが・・・・。
 どうも日本人は「坂の上の雲」の呪縛が強すぎるようで・・・・・。
乃木無能論が横行しておりますが・・・・・。
数度にわたって行われた総攻撃のうち、1万以上の戦死者を出した第一次総攻撃の「強襲」法は、乃木司令部の無策を示すものではありません。
要塞を火力で叩き、その後突撃によって勝負を決めるというのは当時の要塞攻略法のセオリーの一つであり、また強襲は大本営そして満州の軍司令部の規定方針でした。
乃木司令部は現場での実行を指示するのみの立場にあるわけで、これで責任が前線の乃木と彼の幕僚にあるとする、大本営の長岡ごときの弁は、責任転嫁が得意な官僚主義の際たるものでしょう。ちなみに、日露戦争を観戦したヨーロッパの軍人達は、本国に帰って、機関銃と鉄条網が待つ塹壕陣地を何万という戦死者で埋めることになります。彼らは一体何を学んで帰ったのでしょう。

 当時の日本陸軍が近代要塞を知らなかったというのは、妄説にすぎません。当時日本は、東京湾口他日本の海防上の要地に世界水準の砲台と堡塁要塞(東京湾口のそれは現在の防衛大学の地下にあります。久里浜の堡塁要塞は自衛隊の通信基地ではいることはできませんが、横須賀の猿島要塞は観光可能です。ご一覧あれ。)を整備していたのです。
 ついでに言えば、乃木はドイツ語に堪能で、相当程度欧米の文献を読んでいました。した。乃木が欧米の最新軍事論文の大半を読破していたという英国観戦武官の記録もあります。乃木は彼に、後述する旅順要塞の欠点を正確に指摘していました。

 203高地ですが、近年の研究が明らかにするように、ここを落としても要塞自体の機能が麻痺するわけではありません。また司馬の主張とは異なり、艦隊の有無に関わりなく、要塞を落とすこと自体が日本の政戦略上不可避のものとなってしまっていたのです。
 たとえ203高地が陥落して艦隊がその腹を海底に着けても、要塞自体が健在なら、ロシアは要塞戦で日本を撃退したと喧伝することでしょう。日本は要塞戦でヨーロッパのロシアに勝てなかったことになります。旅順が陥落したとき世界を駆けめぐった震撼を思えば、世界が注目する中、旅順要塞は如何なる犠牲を払っても落とさなければならなかったと思います。
 さて、旅順要塞陥落の原因はいくつかあげられますが、重要な点は要塞の縦深が、この時代の大砲の射程に比較して浅すぎ(要塞の建築はその時の最新技術で行われますが、悲しいかな固定物ですので技術の進歩に追いついていけないきらいがあります)、結果、軍港と旅順市街が日本軍の砲撃射程圏内に収まってしまったこと(市街地は病院、糧秣庫、休息所のある作戦を支える後背地です。ここが砲撃にされされると長期戦が困難になっていきます。)、もう一つは、ロシア軍が堡塁軍からなる戦線(これは、市街地を守る戦線として適切なものでないことは前述のとおりです)の維持にこだわりすぎ、早期に消耗してしまったことでしょう(軍港と艦隊の維持にこだわらなければ、市街地の非戦闘員を早々解放、柔軟に後退し、旅順市街の後ろの半島老鉄山に到る縦深陣地を構築して、長期戦を戦った方がより、長期の戦闘が可能になったでしょう)。
[2006年05月22日20時22分]
お名前: ATTILA
 陸海軍ばらばらというより、「旅順要塞」の概要そのものを日本帝国側が把握していなかったといふことだと思います。
 ま、旅順というより、フランスのマジノ線などを含む<近代要塞>というものを大日本帝国は知らなかった。だからあほな突撃を繰り返してしまったとかが、司馬遼太郎の説だと思います。

 例の<巨大榴弾砲>にしても、当時としては<市街地への砲撃>はもっての他ですから、<軍艦>か<要塞>を叩くしかないわけで、その艦隊の位置を知ろうとしたのが<203高地奪取戦>ですが、かりに奪取したとしても<要塞>を破壊できたか否かは疑問ではないでしょうか?

 ま、ステッセルが本国指令を無視して勝手にギブアップしたのが、旅順戦勝利の主要因ではないかと・・・
[2005年09月25日17時31分]
お名前: 広嗣
 戦時の軍令は、大本営でしたが、平時は参謀本部と軍令部と陸海別々になっていました。普段の陸海軍の連携がどうなっていたのか、疑問ですね。


[2005年09月24日21時33分]
お名前: ATTILA
 ふと思い出したのですが、小説「旅順港」(ステパーノフ?)によれば、旅順艦隊の破損船から艦砲や機関銃を取り外して、要塞に据えつけたとか・・・
 もちろん戦闘不能艦の水兵は、陸上要塞の戦闘要員にまわったようです。

 艦を叩けば叩くほど、陸上要塞の攻撃力が増したということになりますね。



[2005年09月24日17時54分]
お名前: ATTILA

訂正>「右が旧市街(東港)、左が新市街(西港)」→「左が旧市街(東港)、右が新市街(西港)」


<訂正後>
旅順口は、この↓一番上の写真のように、狭い港口から左右に大きく分かれてます。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/2254/kannkou3.html

 この写真は、旅順口のど真ん中の丘から、真っ直ぐ南の港口を望んだ写真。左が旧市街(東港)、右が新市街(西港)となります。



[2004年06月28日19時39分]
お名前: ATTILA
旅順口は、この↓一番上の写真のように、狭い港口から左右に大きく分かれてます。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/2254/kannkou3.html

 この写真は、旅順口のど真ん中の丘から、真っ直ぐ南の港口を望んだ写真。右が旧市街(東港)、左が新市街(西港)となります。

 この↓右肩の小さい写真(「旅順風景名所区」)でも、旅順口の様子が判ると思います。「黄金山海水浴場」、「老虎尾」は、旅順要塞群の中でも、海を睨んだ大要塞で、ここから巨大砲をぶっ放されて、連合艦隊は近づけなかったばかりか、広瀬君など閉塞隊は、激甚な被害を受けたわけです。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/2254/kann3-01.htm

 で、203高地から旅順を遠望すると、この↓ような風景となります。真正面の半島の小山が「黄金山砲台」だと思います。203高地の位置では、旧市街(東港)が望めないというのがわかると思います。

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tour3/11.html

 つまり、露西亜軍は、203高地を獲られても、東港に逃げ込めば、艦隊は、とりあえず温存できたと言えましょう。ま、ここまで来られれば、時間の問題ではありますが。


[2004年06月28日19時23分]
お名前: ATTILA
「バルチック艦隊派遣は、ロシアの基本方針だった?」

 なんやらの雑誌で読んだような気がしますが、ロシアは旅順艦隊、ウラジオ艦隊を温存し、バルチック艦隊を補充して、圧倒的優位にしてから日本艦隊を叩き潰すというのが、開戦前からの基本戦略だったらしいです。

 このことは、第一次バルチック艦隊が、旧東洋艦隊所属艦を基幹に選別されていることからも有力説だと思います。

 日本側が旅順艦隊撃滅をあせったのも、海軍側には、このロシアの基本戦略を理解していたと考えれば理解できそうな気がします。

>ロシヤ艦隊は二〇三高地攻撃前の日本陸軍の砲撃で壊滅的な打撃を受けていたようだ
>と指摘している人がいました。

 うーん・・・、以前読んだ「歴史群像、日露戦争」によれば、旅順艦隊主力艦の大部分は、203高地喪失後の自爆自沈だったと思いますが・・・

 なお、旅順港は狭い港口の内側は横に広がって、大きく東港(旧市街地)、西港(新市街地)に分かれており、203高地からは、西港部分だけしか展望できないそうです。

 そういえば、ロシア側は主力艦は蒸気を落としている(=航行不可)ので、毎日タグボートで港内を引き回し、スパイなどによって停泊位置がばれないようにしていたそうです。ですから、目標位置のわからん山越え砲撃で命中する確立はほとんどないと思いますが・・・

 それと、小型の副砲や機関砲は、取り外して陸上要塞に設置してますから、外見上は砲のない艦に見えるかも知れませんね。

[2004年06月25日19時36分]
お名前: グーグー
追伸
それに 後から来る艦隊の母港にされても困るでしょ 

(T_T)/~~~
[2004年06月22日06時42分]
お名前: グーグー
うーん 最初は陸軍は主力軍をつぶすことだけ
考えていたから 穴倉にもぐりこんでいる
旅順なんてどうでもよかったけど
阪神大震災で、神戸港の価値がわかったように
その後の港湾としての価値に気づいたのではないのかな
 φ(..)うーん
中国本土に近い 貨物の積み下ろし能力の高さとか
そして それを守る地形地状のよさとかで

また 今のぼくたちには町を見下ろすってのは日常的だけれども
高層ビル タワー 飛行機 無線機のある状況ではないので
その当時としては不可能なことなんですよね。
そしてたとえ 被害をうけたとしても 修理工場が機能していれば
沈んでいない限り回復は可能と考えるのがふつうだろし、
今で言えば38度線を突破してきた人がいた場合
その人の発言をすべて信じることはできないのは当然ですし
検証するのは やはり行って見なければわからない状況と
いうことではないのでしょか

[2004年06月22日06時34分]
お名前: 広嗣
 「そのとき歴史が動いた」という番組があります。先々週この番組が二〇三高地を取り上げていました。その中で近年発見された(らしい)写真からロシヤ艦隊は二〇三高地攻撃前の日本陸軍の砲撃で壊滅的な打撃を受けていたようだと指摘している人がいました。この指摘が正しければ、二〇三高地攻撃もこれによる多大な犠牲も必要なかったのではないかという疑問が沸いてきます。

 この指摘が約100年経って見付かった写真を元にした判断である点はひとまず措くとして、当時旅順近くにいた海軍は何をしていたのかという疑問が、更に沸いてきます。陸軍と海軍で人員や体制などに違いがあるとしても、現地でも大本営でも連携があったようには見えません。来るバルチック艦隊との戦闘の為に連合艦隊を温存する必要があった点を考慮に入れても。

 海軍軍令部は挟み撃ちにならない確証が欲しかったのでしょう。でも、乃木希典が送った報告を海軍が検証した形跡が見られないのは何故?本当に検証しなかったのか、検証はしたけどおざなりだったのか、それとも番組が一方的に検証した事実を無視したのか。


[2004年06月22日01時40分]
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