記事タイトル:妖霊星(用冷静)

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お名前: 続き  しばい   
 海上を上杉勢が帰ります。
っと、前田利家に家臣が告げて、石動山攻めは、
終了したと、伝えられています。上杉景勝は、
かねてから船とは折り合いが悪く、海上から
石動山炎上を確認し、海路新潟に帰還したそうです。
 富山全域は、佐々成政が抑えていると結う事で、
上杉勢は、富山(越中)と加賀の境あたり、石動に
拠点を築き、織田家に対抗したらしいです。
 前田利家は、イメージ戦略からか、揚陸戦に弱い
上杉勢を叩こうとしたのかもしれません。
 里見家は、案外、揚陸戦に慣れているのですが、
上杉景勝は、「海上ではやむなし」と砦にいる上杉勢
5000人を見殺しにしたそうです。
 実数は、3000程度で、残りは行者だったらしい。
 自民党案では、魚津の落城で親子の刺し違えという所で
落ち着いたらしい。あくまでも、大河の話題ですよ。

  しばい

[2002年7月21日 21時10分16秒]

お名前: しばい   
 大河の話題です。
 武田信玄亡き後の武田攻めで、織田家、徳川家、北条家が
包囲網を作って、武田領を攻めた一件ですね。
 織田家の本陣は、諏訪湖畔だったとかんがえられます。
 現地での総指揮は、織田信忠だったようです。このことが、
本能寺の変では、尾を引いているようなストーリでした。
 日蓮宗とは、織田家はあまり事を構えていないのですが、
韮崎の快川上人は、武田の遺臣をかくまったり、火攻めを
しようとする織田家のものに「心頭滅却すれば、火もまた
おのずから涼し」と明白に反抗し、織田信長によりお堂ごと
焼かれてしまったことになっています。
 連合した他の大名は、かなりうまく武田の家臣を取り込む
ことに積極的で、徳川家では、陣法を武田流に改めたりしています。
 後の豊臣時代では、武田家の家臣を高給で雇わないという、
取り決めを交わさせたほどでした。
 師(使)僧朝日山(ちょうざん)日乗(にちじょう)などは、
織田信長に気に入られ、本能寺も日乗の縁故だったような覚えも
あります。
 本能寺の変が、起きた直後、魚津城攻めでは、上杉勢の大物
は、みんな木札に自分の名を書いて、下げてから自決したらしい
です。当時の混乱は、そんなところにも現れています。
 また、ちょっと、前になりますが、大阪の本願寺では、
美濃を逃亡した斎藤竜興が、現在の南森町周辺で戦闘に参加
しています。織田家は、斎藤道三とは、ジッコンで斎藤家の
内紛もこの時期まで尾を引いていたかもしれません。
 妖霊星という記録は、解りませんが、なかなか、興味を轢かれる
題材かもしれません。
  しばい

[2002年7月20日 14時58分41秒]

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