お名前: 三段打ち
川尻秀隆か、佐々成政が、長篠の戦いでは、主役かもしれません。
武田VS織田では、佐久間の軍が、三方ヶ原では、戦場には間に合った
ものの、美濃尾張国衆対策からか、実際には参加せず帰還してしまい、
以後、十年間ろくに、戦闘に参加しなくなり、父佐久間は、高野山に
追い詰められ、なにもせず、自害したらしい。意見はここで分かれる
所となりますが、この頃から、柴田勝家配下の盛政が指導していた可能性も
ありますね。まっそれは私にもてにあまりますので、、、、
佐々成政も川尻秀隆も、それ以後、合戦では、活躍できたかどうか?という
評価を信長はしているようですね。
お茶を濁す (@_@) しばい
[2002年4月29日 18時11分35秒]
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お名前: マック4
織田家の鉄砲隊というのは、機械化師団・旅団ではなく・・・・
旧陸軍でいう独立混成旅団みたいなものです。
つまり必要に応じて編成される
ううう 時間がなく まとめきれない
[2002年4月29日 15時48分1秒]
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お名前: マック3
武田と徳川の勢力の均衡は
遠江の高天神城にありました。この城が、徳川に落とされると
もう武田は単独の徳川すら滅ぼせられない 戦力比になるようです。
動員兵力が拮抗してしまうことです
なかなか しつこいなあ わたしも
[2002年4月29日 15時42分37秒]
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お名前: マック2
オンラインで 書いていたら 時間切れで
強制的に 回線をきられてしまった
まあ いいや
[2002年4月29日 15時37分14秒]
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お名前: マック
しばいさん こんにちわ
ログも保存できない オンラインでしか書けないとなると きつい
ものがあります。
長篠の合戦では、参加兵力に異説はあるのですが
織田連合軍と武田家の戦力比が、2.5 対 1になるのはどれも
同じです。
この合戦では、武田の全勢力の半分ぐらい投入したのかな。
浅井・朝倉・長島一向一揆は消滅しているから、織田軍は五幾内ま短距離
なら8万兵の動員は可能で、全勢力3万の武田では勝負になりません。
長篠の合戦では、早朝6時から始まり、武田の敗走は午後3時ごろ
実に8時間。
8時間の間、鉄砲の3段撃ちをやっていたのならば たいしたものです。
武田の遺臣は、徳川家に吸収されたわけですから、長篠の真相もはっきり
して、特に恩賞の公平さ、アンフェアな手柄などが指摘されて
徳川の家臣達にいろいろな 波紋があったようです。
織田徳川の死傷者6000名 武田の死傷者1万名と
結果から 武田軍の意外な善戦。武田の騎馬隊が日本最強というのも
本当みたいです。敗走するときに長篠城が、袋の綴じ目の役割をはたし
ました。
織田軍の強みは、徹底的な追撃戦にあります。のこのこ出てきた朝倉は
追われると、一気に殲滅させられた。
織田のし嘆き
[2002年4月29日 15時35分35秒]
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お名前: しばい
長篠の戦いで、当時最強の騎馬軍団を、のらりくらりと
戦争を続けるだけの傭兵を中心とする信長軍が破ったのは
脅威以外のなにものではないとする見方が、長篠の発掘で
破られています。
大河ドラマでも取り上げられていましたが、徳川が築いた
左後方の砦を武田方が奪取し、砦を中心に旋回行動で長篠を
守備しようとするプランが、佐々成政が必死に取り上げ、
三日後には、長篠の簡易砦で待ち受けると言う離れ業を
やってのけました。
左翼後方の砦を失い、膠着もなく決戦で主力を打倒する以外、
攻勢を維持できなくなってしまったのです。当時の記録では、
長雨が三日は続いたとありますから、一週間で戦局が変わったので、
最善の策としては、甲斐に帰って戦隊を立て直す事が出切れば、
運もあったでしょうが、武田勝頼は、躑躅先館をすて信長のような
家臣団を作るべく移転途上で、騎馬軍団の強さを見せなくては、
とても帰れないという事だったらしい。
しかし、千丁余の佐々成政配下の鉄砲隊が、何とか敵を撃退した
というところです。さらに、発掘から、短期間に長篠の柵で砦を
作った川尻秀隆が、最大の恩賞を得たらしいということも解った
のでした。江戸時代の論評は、徳川の諸侯の作というこで、徳川の
シュリーヘンプランのような、旋回行動を隠していたらしいですね。
NHKをよく見ている しばい でした。
シュリーヘンプランは、後でヒットラーが対仏戦でうまく、
実施しマジの線を迂回突破した作戦の立案者でした。
[2002年4月28日 21時17分48秒]
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