お名前: しばい
信長公記だったか、織田信長生前の家中の評判を
「木綿藤吉(もめんとうきち)、米五郎左(こめごろうざ)
かかれ柴田にのき佐久間」と評されたようで、
木綿藤吉は、羽柴秀吉であり米五郎左とは、丹羽長秀のことです。
柴田は、柴田勝家、佐久間は佐久間盛政です。
本能寺の変で、織田信長が京都で倒れたとき、柴田は、北陸に
羽柴は、中国にいて、最寄の最大勢力は、丹羽長秀と織田信孝の
四国方面攻略部隊でしたが、丹羽長秀は、とっさには動けずその
事のため、秀吉を補佐する態度を保ったということです。
自身、信長の養女を妻とし信孝の盟友として天下人となっても
無難にこなすと評判でありました。
四国は、戦国時代を切り開いた三好衆の出身地で、三好三人衆
の補佐役であり叔父か養父かと思われる、三好長英は、三好康政の
父で四国から確か、出ていないはずでした。
足利義晴の時、或いは、それ以前に、400人ほどの長柄槍の部隊
を創出し、戦国の覇者となったのでしたが、後、秀吉の四国制圧戦
では。「鳥鳴き島の蝙蝠」と言われてしまいます。
あまり、これまで取り上げられてきませんでしたが、この長柄槍
という戦法は、それほど四国にはストレスであり四国の体制を緊張
させ固定させてしまったようです。
四国を案外簡単に制圧できるという自信は、信長も持っていたようで
伊勢攻めのように、他にも軍勢を派遣していた為、織田家6万という
のは、直には無理にしても、毛利攻めに4万の増派は考えていたと考えて
も不思議では、ありません。それにつけても、摂津国衆としての
三好長英父子は、織田家にとっても扱うのは難しい存在ではありました。
丹羽ながひでは、本人も長英と手紙ぐらいは書いていたかもしれません。
マッタク、覚えがありません。(~_~メ)
[2002年4月21日 9時32分44秒]
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