記事タイトル:飲茶話】騎馬民族がなかった

書き込み欄へ 記事一覧に戻る
お名前: 井戸はイドなのか   
 モンゴル帝国が最盛期の頃、アフガンの西部ヘラートで、
第二次世界大戦以前では、最大の鎮圧戦が行われています。
 イランのカナート網とアフガンのカナート網の間で、当時は、
多くのの人々がいたんですね。反乱に対する鎮圧と言う形で行われた
戦闘で、推定130〜240万人という戦死者がでています。
 もちろん、金攻撃で生まれた混乱によると思われる影響程では、
ないので人為的な殺戮としては、最大級のものでした。
 結果としては、イランでは、カナートが寸断されアフガンでは、
カナートほどうやら維持されたようです。
 井戸が文化の中心と言うあり方は、日本でも神武東征でもかいま
みられますが、、、
 遊牧文化としては、当然の支配行為として行われたことには、
間違いないようです。無謀な突撃を行っては、地雷で占領地域を
封鎖すると言うやり方は、単純に無謀の積み重ねでありもっと
影響が大きいのではと考えます.
 イキナリ、紀伊半島を迂回し伊勢志摩から大和を狙うという
行動パターンは、遊牧系には案外なじみの深い行動なんです。
 なんでも、最近は、遊牧民はいなかったとやるんだそうです。
 馬乳酒も去勢牛も根付かなかったからとやら。

[2002年9月14日 21時19分40秒]

お名前: 777   
日本書紀をよくよんで,史がみえる

[2001年10月24日 16時36分9秒]

お名前: しばい   
 何処だったかな?
戦後間も無く、いずこかの古墳から馬具と馬に関する道具が、
発見され、江上(江波…)ブームが起きてからその後、
ついに、日本史の学界は、江上氏を受け入れることはなかった。
狂牛病問題が話題になると、かつて、霧消した海民文化研究のため、
水産庁下に研究施設が作られるもようです。英語の国語化と同じかも。
 さて、遊牧民問題ですが、どうでしょう問題も古墳も増えた訳では
ないっ!というのが学会の現状らしいですね。???
 くれぐれも、池袋のオリエント博物館と江上氏には、失礼の無いよう
お願いしますよ。予算制約だったりして。そんなもんなんだな〜〜。

  しばい (^_^メ)

[2001年10月16日 22時20分47秒]

お名前: attila   
騎馬民族?】何時来たのか?(2)/ATTILA

 江上説「騎馬民族征服王朝論」が成り立つ条件として、九州島か本州
島西部に「遊牧騎馬民族?」が出現する年代は、おおよそAD290〜
360年の間でなければならないことを#9439で提示しました。

 そのへんを、もう少し検討してみます。

 下記の表は、インターネットから拾った主な関係者の生没年です。

*************************************************************************
卑弥呼 AD209(生)←−−→AD248(没)
イヨ AD236(生)←−−−→AD305(没)

崇神 AD235(生)←−−−−→AD303(没)
景行 AD287(生)←−−−→AD355(没)
成務 AD309(生)←−−−→AD355(没)
応神 AD330(生)←−−−→AD394(没)
仲哀 AD337(生)←−-→AD362(没)
仁徳 AD363(生)←−−→AD427(没)

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

倭→魏(卑弥呼) AD239
倭→東晋(倭王讃) AD413

木満致 AD405(生)←−−→AD475(没)
**************************************************************************

 このうち、江上波夫があげる「遊牧騎馬民族?」は、崇神から仁徳までの
天皇です。江上氏は崇神が朝鮮半島から九州島への侵攻者であるとし、応神
〜仁徳が九州島から河内平野への侵攻者であるとしています。

 一方、卑弥呼や後継者のイヨは「遊牧騎馬民族?」ではないでしょう。な
ぜなら、魏志倭人伝には卑弥呼の国には牛馬無しとしています。また、江上
氏も卑弥呼は「遊牧騎馬民族?」としていません。

 江上説によれば、いわゆる邪馬台国北九州説は成り立ちませんね。崇神が
朝鮮半島から九州島への侵攻すれば、邪馬台国と戦争になりますでしょ?
そのような記述は見当たらないと思います。

 すると、江上波夫氏は邪馬台国ヤマト説なのでしょうか?それとも「騎馬
民族征服王朝論」は、邪馬台国架空説なのでしょうか?

 興味がそそられますね。(^.^)

 ついでに、半月城さんが蘇我氏の祖とした(#9171)百済人木満致の生没年
もつけ加えておきました。

 ふーむ、蘇我氏は「遊牧騎馬民族?」かもねぇ・・・、蘇我氏邸跡が見つか
ればオルドス型青銅製ケットルが出土するかも知れませんね。(^.^)

 ATTILA

原文;SIG 歴史への招待
http://sig.biglobe.ne.jp/REKISI/index.htm
 

[2001年7月20日 1時2分12秒]

お名前: /ATTILA   
騎馬民族?】血をすする /ATTILA

 血盟(血の誓い)そのものは、いろいろなものがあり「遊牧騎馬民族?」
云々には直接関係ないと思います。

 血書をしたためるなんつうのも、一種の血盟でせう。入れ墨なんかもそう
です。ポリネシアンは全体のデザインは個性ありますが、特定の紋様は自分
のリーダー(親や親方)からもらいます。
 三国志演義によれば、劉備・関羽・張飛の悪党三人組が桃園で誓い合って
ますが、多分、この時に犠牲をささげて血盟をしたはず。
(この名場面の情景、忘れてますf(^^;)

 「遊牧騎馬民族?」血盟といえば、神に獣血を捧げ、その分与を飲み合う
ことです。また、大地の恵みを祈願して獣血を地面に撒くこともあります。
もっとも、神に獣血を捧げ飲み合ったり地面に撒くつうのは、「遊牧騎馬民
族?」に限りません。劉備・関羽・張飛の悪党三人組もやってるはずですし、
古代ギリシャ・ローマでもみられることです。

 問題は、「遊牧騎馬民族?」特有の血盟があるか否か、そして、日本列島
に”あの日あの時”に伝わったのかといふことです。


《 9286:古代史】天皇騎馬民族の進化    半月城 》によりますと、
「遊牧騎馬民族?」の血盟に特有のものとして、オルドス型の青銅製ケット
ルの使用があげられるそうです。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  広く騎馬民族の間では、誓いを立て、盟友になるとき、ケットルに酒を入
れ、二人の血をそれぞれに注いで一緒に飲む風習があった。
  騎馬民族にとって祭事や宴会や儀式にケットルはなくてはならないもので、
馬につけてどこへでも携えていったのである。騎馬民族の行くところ、つねに
ケットルがあったのは、そのような理由からである。(江上;『月刊 Asahi』1991)
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ケットルってのは、ヤカンですよね?どうやって、血ぃを入れるんで
しょう?一般的には鉢や盆なんですけどね。鉢でないと、注ぐときに血ぃ
がこぼれちゃう。(^^;
 ヤカンに容れた血と酒のカクテルってのもねぇ・・・、せっかくの血ぃ
の魔力が薄まるんとちゃう?

 ま、それはいいんですが(ヨクナイカ(笑))、

 本土三島にも朝鮮半島にも、そんな風習があった気配がみられません。

 残念ながら、本土三島の古墳からも、朝鮮半島の江上波夫の指摘する
古墳以外のすべてからも、オルドス型青銅ケットルが発掘された例はな
いようです。

 このままでは、ペルーから縄文土器が発掘されたとか、だから縄文人
がペルーに渡来したとかのレベルの話ですね。なにも証明してません。

 ま、本土三島の支配層が血盟した。すなわち人血、獣血をもって誓う
儀式を行ったという文献上の証拠が必要でしょう。もちろん、高句麗や
百済や幻想の辰王朝の文献で血盟の儀式が認められることも必要です。

 はっきり言って、江上波夫が「遊牧騎馬民族?」の証拠にあげる馬具
の出る古墳からはケットルは出てこないのです。

 江上波夫にすればケットルは祭器として必需品なのですから朝鮮半島
の古墳から出土したのです。本土三島でも馬具とともに副葬されると考
えるのが常識でしょう。自分の主張を忘れているとしか思えませんね。(笑)

 ATTILA
 

[2001年7月12日 18時31分14秒]

お名前: /ATTILA   
騎馬民族?】去勢は必須科目(3) /ATTILA

 さて、去勢は家畜の育種(品種改良etc)や馴致(飼い慣らし)に必須の
ノウハウであること。そして本土三島人(いわゆる倭人)は、どうやら近世
まで去勢を知らず、近代になっても知識としてはあっても、実用法を知らな
かったらしいことを、下記の3本で説明しました。

 9420:騎馬民族?】去勢は必須科目 /ATTILA
 9423:騎馬民族?】去勢は必須科目(2) /ATTILA
 9427:騎馬民族?】色仕掛けの術 (^-^) /ATTILA

 つけ加えておけば、去勢を知らない「遊牧騎馬民族?」はあり得ませんが、
去勢を知っているから「遊牧騎馬民族?」だとは言えません。農耕民でも家
畜を飼う民族にとっても、必須とは言えませんが去勢は有用なノウハウだか
らです。

 去勢が必須なのは、草原に馬牛羊を放し飼いにする遊牧にとってですね。

 といっても、何事も例外はありますけどね。西アフリカのラクダ遊牧民は、
雌ラクダにブラジャーとパンツをはかせてバースコントロールします。(^.^)

 また、去勢を知っているか知らないかと、戦闘に非去勢馬を使う使わない
とも直接関係しません。非去勢馬の方が気性が激しいとか、牝馬・去勢馬よ
りも耐久力があるという理由で、敢えて非去勢馬を使う場合もあるのです。
このケースが#9423のフランク軍の例です。

 本土三島人(いわゆる倭人)が去勢を知らないということ、そして、おそ
らく当時の朝鮮半島人(高麗人、百済人、倭人etc)も去勢を知らないのでは
ないか?ということが問題なのですね。

 しかしぃ・・・、江上波夫はモンゴルまで行ったそうですが、いったい何
を見てきたんでしょうかね。ウランバートルの博物館で金ぴか馬具を見ただ
けで「遊牧騎馬民族?」がわかったつもりなんでせうか?

 パオにホームステイして、野グソしても洗わない手でチーズを食ってこい
とまでは言わないけど、ちゃんと馬の**タマを見ないとねぇ・・・、べつ
に羊の**タマでもかまわんですけどさぁ。 (^^;

 ということで、去勢編はお終い m(__)m

 ATTILA
 

[2001年7月11日 23時30分39秒]

お名前: /ATTILA   
騎馬民族?】色仕掛けの術 (^-^) /ATTILA

えーと、「騎馬民族征服王朝」論には直接関係しませんが、関連情報を一つ。

> 一五七七(天正五)年、豊臣秀吉の軍が神戸の北部(摂津の丹生山)
>を攻めた時のことです。そこの大将の淡河弾正は、豊臣軍に滅ぼされる
>のも目前と覚悟し、そして、一泡吹かせてやろうと、妙案を思いつき、
>陰馬(メスウマ)五、六0匹を集めます。豊臣秀長以下五00余騎が、鑓
>を手に刀をかざして突撃にきたところに陰馬を放つと、豊臣軍の乗馬
>である牡馬は興奮のあまり大混乱となり・・・
>(「別所長治記」『群書類従』21ー393;来野弥一右衛門 )
(「騎馬民族は来なかった」(佐原真)p29 )

 \(^O^)/ \(^O^)/ \(^O^)/ \(^O^)/ \(^O^)/ \(^O^)/

  ふむ、播州の戦争ですね。そいえば、司馬遼太郎のご先祖は別所家
(三木城)の一党だったそうで。

 三木城開城の時は煌々たる月夜だった言い伝えられているそうです。
落人は、月の明かりに助けられて夜道を落ち延びたとか。ということで、
別所党の家では、落城の月の月夜にお供え物をする家が多いとか。

 うーん、我が陸上自衛隊も、第一線部隊は女性だけにすべきだと思う
ぞ。迷彩服なんてやめて、戦闘服をヘソ出しルックにすれば必勝間違い
なし・・・ (^O^)
 
 ATTILA

[2001年7月10日 23時20分32秒]

お名前: ATTILA   
騎馬民族?】去勢は必須科目(2) /ATTILA

 #9419の続きです。去勢の具体的な方法は、「騎馬民族は来なかった」
(佐原真)で延々と説明してますので、そちらを参考にして下さい。

 畜獣の去勢の習慣が日本に現存しないし、古代に行われた形跡もない
というのが佐原真の反論であり、去勢なんて農耕民がやるもんで「遊牧
騎馬民族?」は習っただけだから去勢の有無は「騎馬民族征服王朝説」
に対する反論にならないというのが佐原真への江上波夫の反論だろうと
思います。

 しかし、これは反論とは言えませんね。

 家畜の一部を去勢する目的は、拙文#9419で説明した取捨選別のため
のバースコントロール(育種)と、もう一つは人間のコントロールしや
すいようにする飼い慣らし(馴致;ジュンチ)です。

 前者は、植物の栽培でも行われることで、極論を言えば野生種を植木
鉢で青だてる技術体系と見れば盆栽だって”育種”なのです。

 後者は家畜(動物)特有の部分です。子馬はそのままでは役に立ちま
せん。人間の指示に従うように躾ける(馴致する)必要があります。
 競走馬には走ることを教え(馴致)、駄馬には犬猫に襲いかかられて
も逃げないように馴致するのです。

 で、馴致してない馬を戦争に使うとどうなるか?(^.^)

 ロシア革命の時のシベリア出兵に動員された日本の輜重隊の駄馬は、
真冬の零下30度の野外に放置された雄馬は、おチンチンがアイスキャ
ンディーのように凍ってしまって、膀胱炎で死んでしまった。(p_q)

 このため、出兵した連合軍の馬匹のなかで日本軍の死亡率、特に戦闘
少ないはずの冬季死亡率が異常に高いのであります。東洋の盟主たる我
が大日本帝国陸軍だけが非去勢馬を使い、しかも冬になったら発情しな
いようにする馴致法を知らなかったですねぇ。(^^;


 さて、非去勢馬で騎馬戦闘するとどうなるか?ともうしますと、

>十三世紀中ごろ第六次の十字軍の際、「トルコ兵やサラセン兵はすべ
>て雌馬に乗っていたのに、フランク兵はすべて去勢しない雄馬に乗っ
>ていたので、十字軍の騎兵の雄馬は敵の雌馬を求めて、ときどき味方
>をすてて敵の軍に接したので、フランク兵は非常に困ったといわれて
>いる」(加茂 1980)この時、フランスのワルター卿の牡馬は、サラ
>セン軍馬の牝馬に興奮したため、卿は落馬してしまいます。
(「騎馬民族は来なかった」(佐原真) p20)

と、こうなるわけです。(^O^)

 ね、「遊牧騎馬民族?」が家畜の馴致法、例えば真冬に発情させない
とかを知らなかったり、あるいは去勢を知らなかったり重視しないと考
えるのはおかしいでしょ?(^.^)

 ATTILA

[2001年7月10日 0時37分59秒]

お名前: ATTILA   
騎馬民族?】去勢は必須科目 /ATTILA

 ということで、今後は「江上波夫の騎馬民族征服王朝説の騎馬民族」
を、ヘッダを”騎馬民族?】”、内容では”遊牧騎馬民族?”で行きま
す。

 評価するのに、これだけ前置きをダラダラ書かなければならないこと
自体が、同氏の論が如何に拡散しているかを物語っていると思いますね。(^^; 

 さて、批判本「騎馬民族は来なかった」(佐原真)を一読した限りで
は、これまでボードで小生が疑問とした部分は、すべて佐原真も批判し
ているようです。

 このボードに小生が書いてないことは、年代に文化的段差があるのか?
といふことと、去勢の問題です。ショックだったのは、江上波夫が畜産
(牧畜)における去勢の問題を軽視というより、よく理解できていない
ようなのですね。

> 「純粋な遊牧民は去勢をしない。農耕民と接触するところで去勢する。
>農民から遊牧民が分かれたとき去勢をすてた。日本に入ってきた騎馬民
>族は純遊牧的な人間だったと思う(だから去勢が入ってこなかった)」
(「騎馬民族は来なかった」p206)
という主張を展開したようです。

 いうまでもないことですが遊牧というのは牧畜の一形態なのでして、
農耕が草木を育てて余剰を得るのに対して、牧畜は畜獣を育てて余剰
(獣肉、乳類)で生活します。

 育てなければ、農耕ではないし、牧畜ではありません。狩猟採集です。

 農耕民が常に収量の多いものを選んで育てるように、牧畜民は常に育
ちのよい(肥育度の高い)家畜や、性能の良い家畜(早いウマ、強いウ
マ、耐久力のあるウマ)を選ぼうとします。

 牧畜とは違いますが、いまでもダービーの優勝馬が高額で取引される
のは、優勝馬の子なら早いだろうという経験則(文化の蓄積)があるか
らです。

 遊牧では馬も牛羊も草原で放牧しますから、優秀な馬の子だけを得る
には、その他の馬にHさせたらいけないのです。種馬以外のその他大勢
にHさせないためには、去勢技術が必須なのです。

 馬を飼い、馬を増やし、馬を乗用に使うという条件は、「遊牧騎馬民
族?」の必須条件だろうと理解します。しかも、江上波夫は「遊牧騎馬
民族?」は、乗用するばかりではなく、騎馬戦闘するという条件もつけ
ているようです。

 江上波夫の去勢に対する考え方は間違っていると断言しても過言では
ないようです。

 なお、佐原真は、かなり皮肉に指摘してますが、日本の去勢の習慣の
有無は「江上波夫の騎馬民族征服王朝説」に直接関係しないのかも知れ
ません。
 なぜなら、「遊牧騎馬民族?」は朝鮮半島に渡来する時点では遊牧文
化を捨ててしまっているからです。

 「遊牧騎馬民族?」、去勢とったら 雑馬ばっかり??? (p_q) 

 ATTILA

[2001年7月10日 0時37分23秒]

お名前: ATTILA   
騎馬民族?】遊牧騎馬民族?とでも /ATTILA

 「騎馬民族は来なかった」(1993年;佐原真)は、江上波夫vs佐原真の対
談(「騎馬民族は来た!?来ない!?」1990年;小学館)の時の江上波夫氏の発
言をベースにしてます。一応、最新の解釈と考えてよいでしょう。

 江上波夫氏は、この対談本の後(つまり、90〜93の間)に、騎馬民族は実
証されたと発言しているそうですから、この辺りの騎馬民族?の解釈で「江
上波夫説騎馬民族」としてよろしいかと思いますです。

 江上波夫氏本人の著書を読んでないので、やばい状態での発言なのですが、
「騎馬民族は来なかった」(1993年;佐原真)を一読した感想としては、江
上説騎馬民族とは純粋な遊牧民が騎馬・騎兵戦闘をするようになったものの
ようです。

 しかし、対談の中での質疑応答の解釈ですから、江上波夫氏自ら定義した
とも言えません。といって、これを評価していくのに一々「江上波夫のいう
ところの騎馬民族」なんてやってられませんので、一応「遊牧騎馬民族?」
とでもしておきます。
 ヘッダはさらに端折って「騎馬民族?」でごまかします。(^^;

 もちろん、江上波夫によれば秦や漢は農耕民族であって騎馬民族ではない
そうですし、アメリカン・アメリカン(アメリカ・インディアン;北米原住
民)も騎馬民族ではないそうです。ところが、本土三島人(いわゆる倭)は
農耕民だが4世紀半ば〜7世紀半ばに騎馬民族的になったそうです。

 うーん、何を言ってるんだか・・・ (^^;

 よって「遊牧騎馬民族?」は、なにかマーカーつけなきゃしょうがないと
いふ意味以上のものではありません。「民族」を表音文字的に読んで下さい。
けして表意文字的に読まないようにお願い申し上げておきます。(^.^)

 ATTILA

[2001年7月10日 0時36分25秒]

お名前: ATTILA   
騎馬民族?】佐原真)によれば /ATTILA

 えーと、図書館で借りだした「騎馬民族は来なかった」(佐原真)を読ん
でたんですけどぉ、学者なら「来なかった」じゃなくて「いなかった」でな
けりゃぁねぇ・・・

 だって「来なかった」なら、どこかに「騎馬民族?」がいるんでしょ?(^O^)

 当然にして「来なかった論」には、当人なりの「騎馬民族」が定義されて
いなければなりませんね。


 さて、このボードにUPされた「江上波夫の騎馬民族論」や「江上波夫の
騎馬民族征服王朝論」を拝見した感想は、江上波夫氏の騎馬民族とは、”バ
イキングは海洋民族である”とか、”日本人は米食い民族である”とか、
”グルカ人は山岳民族である”とかいう使い方をする時の「民族」じゃない
かと思います。

 で、「騎馬民族は来なかった」(佐原真)によれば、江上波夫は「遊牧民
がウマを乗りこなすようになったのが騎馬民族」(p34)なのだそうです。
 そして「中国の秦や漢では強力な騎兵隊が組織される」が「あくまでも農
耕民族なのだそうです。」(p34) すなわち、関羽や曹操は騎馬民族ではな
いのですねぇ。

 このような意味で「民族」だとすれば、拙文(9293)で、いったんは「一
定の文化をもった集合(エスニック)」という意味ではなく「一定の利害関
係を持った集合=ネーション(NATION)」と整理してみたものの、再修正し
なければなりません。
 ”騎馬民族とは騎馬ネーション(NATION)”を撤回せざるを得ないと思い
ます。

 なぜなら、遊牧民という概念は、けして相互に一定の利害関係を持つとは
言えないからです。

 注;なお、拙文(9293)の「エスニック」、「騎馬エスニック」という言
い方はおかしい。ここのボードでは、「民族」は“ethnic group”の和訳と
して用いるのがもっとも適切という指摘(9304;アコ氏)あります。


 結局、騎馬民族って、どう理解すればよろしいんでしょ?

 ATTILA

[2001年7月10日 0時35分41秒]

お名前: ATTILA   
 あまりの暑さに図書館に避難したんですが、全然涼しくなかった。省エネ
とかで地球の未来にはエエことなんでしょうが、一ヶ所くらいメチャ冷やし
たスペースがあってもいいんでないかい?と思ってしまう。(・_・)

 おまけに、去年から喫煙スペースが廃止された・・・、木枯らしの吹く真
冬でも、真夏の炎天下でも日除けのない玄関脇の灰皿スペースでモクらされ
るのです。

 ふざけるなぁっと言いたい!!オイラは、国民に替わって一日も休まず旧
国鉄の赤字の穴埋めしてるんだぞぉっ!!市民税が少しでも安くなるように
タバコ税を毎日払ってるんだぞぉっ!!\(=^0^=)/

 ま、世の中の流れちゅうのがあるから、こんなことで暑くなってもしょう
がないと気を取り直して、夕方でヒマになった窓口に検索してもらった。

 江上波夫のがなかったので、「騎馬民族は来なかった」(佐原真)と「D
NA人類進化学」(宝来聡)他を借りて、そそくさと脱出、ついさっきまで
お変わり自由のファミレスに居座ってました。(笑)

 「DNA人類進化学」(宝来聡)は、ざっと目を通しましたが、うーん、
いろいろ問題ありそうですねぇ・・・、論理がぐるぐる廻りしてるようです。
つまり、事象Aの証明に事象Bを使い、事象Bの説明に事象Aを使ってるよ
うなのです。こりゃ、初歩的におかしい。

 「騎馬民族は来なかった」(佐原真)は、目次読んだだけ。ま、歴史考古
学でメシ食ってる学者が「いなかった」ならともかく、「来なかった」なん
て言ってるようじゃしょうがないのですが・・・

 ATTILA

[2001年7月10日 0時33分51秒]

このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)

氏名
E-mailURL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。