記事タイトル:光圀語録

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お名前: 江戸通
 訂正
>水戸黄門100回記念   誤
 水戸黄門1000回記念  正
  日本橋で行われた、同じイベントでも台本が、展示されていましたが、
 百回記念では、なく100回記念でした。m(__)m
  里見黄門は、以前から助さん角さんという役柄で出演しており、
 楽屋には、自分が黄門となる「偽黄門」の写真まで貼っていたとか。
  横浜では、水戸の梅にちなんで趣向も「梅」にポイントをだいぶ置いて
 いたようです、梅の季節になると「皆楽園」という臨時駅まで開く
 梅まつりが行われます。以前、金箔押しのテレカを手にいれたことが、
 あります。シリーズが長くなると小道具にも力が入れられるようで、油紙
 で包まれた、道中荷物は、自慢の一品だそうです。ちなみに、里見黄門の
 得意は、「台本投げ」だそうで、帳簿や和本を悪役に突きつけるシーンで
 習得した技術で、近くにいる出演者に投げた台本のページまであっている
 らしいという噂です。
   江戸通[2004年02月14日10時46分]
お名前: 江戸通
 YOKOHAM そごうの水戸黄門100回記念に行ってきました。
 光圀公の句に
  思はずやうき玉の緒のながらへて
    また此の春の花をみむとは
 というのがあります。
  湊川の合戦で亡くなった、楠正成を忠士壮烈とした光国公は、
近臣佐々拾竹が、従五位検非違使左衛門少尉とされていた正成の
官位が、位牌には正三位左近衛中将が送られているのを発見し、
何日も喜び普通ではなかった事が残されています。
 梅里先生にちなんで、
  私も
   さや茹でて さんざめく留守 仏花なす
   
  いやあ、正月早々、面白い一日でした。

  
[2004年01月09日21時06分]
お名前: 食について
 江戸の邸中にて田畑をもうないたり。
上品の事は知りたりというとも。  
              西山遺聞より
 水戸黄門も1000回を記念して、フェステヴァルにも
行ってきまいた。さしずめ石坂黄門なら、墨田公園に畑で
も作るところだったのでしょうね。
 里見黄門さまは、西山遺聞にちなんで、日立の郊外を
想定してのスタートとなったようです。
 初回の水戸黄門では、庶民派を強調して水戸市郊外を
想定していたのでは。
 茶会も畑もじつは、藩邸で行われていたのです。上も
畳のうえの事、下は塀を隔てててはいるが同じ土の上と
言うことかも知れません。
 「大学をだせ。大学を」(経典「大学」)や「無くば
無くに任せて晏如(あんじょ)たり」が口癖で墓碑にも
書かせたそうです。
 主役では有りませんが、女優の桜井エリ(字はわすれました。)
さんが子供だった時、「あんじゅ」さんっだような、
デスモゾーラさんでしたっか。はぁ?
  江戸通[2003年12月13日12時51分]
お名前: 職を食む、職を辞す   
 「子供のおとなしきというも、褒めはやにくし。
  子どもは子どものなるようがよし。
    徳川光圀 「桃源遺事」より
 守護職は、水戸徳川家にのみ認められた特権で、
基本は、江戸在府で勤めていました。他大名のように、
参勤交代は、ありません。幕府と対立すれば、国許に蟄居
となります。「兎に角、慇懃に礼に叶え」と育てられた
光圀が、晩年に、述べた言葉です。
  しばい
 モー娘。でいえば、矢口さんが、ハロキッズを監督すうような
心もちですね。現代という回転の速い時代、監督的な、矢口さんに
渡したい言葉ですね。このあたりが、儒が経と同一視されるゆえん
でしょうか。いまでは、哲学ということでいいかも。

[2002年8月9日 23時43分28秒]

お名前: お詫びと訂正   
 追伸の訂正
 正確には、保田圭と後藤真希が脱退。矢口真理は、ミニモミから
 キッズにいくそうです。あえて、訂正を追記にさせてもらいました。
 輸出しては、行けないアニメがらみかな。
  案外、多いですね輸禁なんて誤魔化してみました。
 
  徳川光圀としては、治世中、経済政策を研究した人から言わせると、
 治水政策を含めて、当時としては、最善のものだったのではという研究
 結果もあります。莫大な費用を投入して行われた、大日本史編纂事業が、
 向島を中心に行われたため、水戸に資金が回らなかったのでは、という
 指摘が確かにありますが、当時の市場が完全には開かれたものではなかった
 為で、他藩でも、江戸在住費用がかさんでいるので、他藩の例からも
 仕方ないという言われ方がされていますね。関東の場合、あくまでも、藩という
 自立経済圏ですから、他に要因がありそうでね。
  
 それにしても、残念ですね。大改変ですね。
 しばい

[2002年8月3日 17時15分50秒]

お名前: しばい   
 「身おば、その日とのみ覚悟するなり。
 閾を超えて外へ出に、二度と屋敷へ帰るとは、
 ついに思わざりし」 −−玄桐筆記−−より
 徳川光圀は、西山荘で生涯を終わったとき、
 「御用らしきもの」か「遺書ようなもの」など
 一切残さず、和歌の草稿や寺、百姓についてメモ
 しかなかったそうです。西山荘は、案外趣向を凝らした
 ものですが、梅里(ばいり)先生と謚されたように、
 生活も合理であったようです。
  「桃源遺事」も案外、ゆかりの観光地で紹介されていますが
 上記の言葉も案外有名でした。中公文庫に「水戸光圀語録」
 という形で、フレーズが採集されています。ご参考までに
  追伸
  モー娘でも、後藤真希さんと矢口真理さんが、脱退するそうでうすね
  マッタク、残念です。プロデユーサも色々考えているようですね。
  台湾、上海、はもう半日の距離の隣ですからね。朱瞬水など、
  中国で著名な学者を招いている、光圀ですからね。

   

[2002年8月3日 16時9分28秒]

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